山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2013年07月

翁邦雄『日本銀行』(ちくま新書) 6点

 日本銀行金融研究所所長などをつとめ、かつては現在は日本銀行副総裁である岩田規久男との間に「マネーサプライは日銀が操作可能か?」という「マネーサプライ論争(岩田-翁論争/翁-岩田論争)」を繰り広げた(著者は日銀の立場からマネーサプライの操作が不可能であると主張した)翁邦雄が中央銀行の役割、日本銀行の金融政策などについて解説した本。そして当然ながらアベノミクスについてもコメントしています。

 目次は以下の通りです。
第1章 中央銀行の登場
第2章 主要中央銀行のトラウマ
第3章 日本銀行の登場
第4章 日本銀行の組織と業務
第5章 バブル期までの金融政策
第6章 バブル期以降の金融政策
第7章 デフレ脱却の理論
第8章 クルーグマンと「日本型デフレ」
第9章 中央銀行と財政政策
第10章 「異次元の金融緩和」とアベノミクス

 これを見ればわかるように中身は中央銀行の歴史から始まり多岐にわたっているわけですが、時節柄、どうしても注目していしまうのが第7章以降の「大胆な金融政策でデフレ脱却ができるのか?」という部分。
 もちろん著者は「日銀理論の守護者」みたいな人なので、当然ながら答えは否定的で、アベノミクスについても懸念を持っているわけですが、さすがに巷にあふれている「効果がない、もしくはハイパーインフレ」みたいな乱暴な議論に比べると、より精緻な見解が出されています。

 著者は2000年8月の速水日銀総裁によるゼロ金利の解除には批判的ですが、ゼロ金利になってしまったら日銀のできることは限られていると考えています。
 この本ではバーナンキFRB議長の「連邦準備制度のバランスシートの規模がインフレ期待に与える影響は皆無である」(181p)という発言を何度もとり上げ、日本銀行がいくらマネタリーベースを増やしてもインフレにはならないということを主張しています。

 また、山形浩生が紹介してリフレ派の理論のわかりやすい説明にもなっているクルーグマンの「ベビーシッター協同組合」の話もとり上げています(詳しくは山形氏のホームページを御覧ください)。
 先ほど述べたように著者は「インフレは起こせない」という考えです。もっとも、クルーグマンもこの場合は実際のインフレではなく「インフレ期待」があれば、問題は解決するとしています。これに対して、著者は1970年代前半の石油危機前後のインフレ期には、低所得者層は物価上昇を前にして消費性向が低下した、つまり買い控えが起こったという事実を持ちだして、インフレ期待が必ずしも消費の増加にはつながらないのではないか?と述べています。

 このように著者のスタンスは「中央銀行が狙ったようなインフレを起こすのかなり難しいし、インフレ期待が景気回復につながるとは限らない」というものです。
 また、異次元緩和を行ったあとの出口戦略の難しさというのも強く指摘されています。著者によれば、もし日本の景気が回復してゼロ金利を解除する必要が出てきたとき、日銀が保有する国債を売却してバランスシートを縮小させる方法と、バランスシートを維持したまま短期金利を引き上げる方法があるが、国債市場の混乱を考えれば後者が現実的だとしています。
 ところが、金融機関が日銀に持つ当座預金の口座には利子がつくので(付利)、日銀が巨額の当座預金を抱えたまま短期金利を引き上げれば、この利払い額が巨額になってしまい、およそ5000億円の日銀の国庫納付金が消し飛んでしまう可能性が高いのです。

 個人的には景気が悪かった2002年度と量的緩和によって日本の景気が拡大した2006年では5兆円ほど法人税の税収が違うので(このページ参照)、景気が回復するのであれば、5000億円の日銀の国庫納付金はそれほど大きな問題でもないと思うのですが、日銀の内部にいるとそうはいかないのでしょうか?

 あと、過去の日銀の金融政策について詳しく触れているのに、リフレ派が問題とする2006年の量的緩和の解除について触れていなかったり、リーマン・ショック後にバーナンキ議長率いるFRBがバランスシートを急拡大させたのに対して、日銀がそれに追随しなかったことについてもほとんど触れられていません。このへんは都合の悪いことをスルーしている印象を受けました。

 そして一番感じたのは、この本には株式市場や為替市場のことがほとんど出てこないことです。アベノミクスについて詳細に解説した片岡剛士『アベノミクスのゆくえ』では、リフレ政策が株式などの資産価格の上昇や、円安などを通じて需要の増加をもたらすというメカニズムが説明されていましたし、竹森俊平の『通貨「円」の謎』では、思い切った金融緩和による円安こそが日本経済浮上の鍵だと書かれていました。
 このあたりは、日銀の内部にいる人と外部にいる人の考え方の違いを感じました。

 ということで、この本の「アベノミクス批判」については個人的には説得されませんでした。ただ、日本銀行の歴史や役割を解説した本としては面白く読めましたし、いわゆる「日銀理論」を知ることも悪いことではないでしょう。

日本銀行 (ちくま新書)
翁邦雄
4480067272

大田俊寛『現代オカルトの根源』(ちくま新書) 7点

 決して読んでて「面白い!」という本ではないけど、これは労作。
 レムリア人とか世界君主とか爬虫類人陰謀論とか九次元霊とか、読んでてくらくらするようなぶっ飛んだ話ばかりですけど、実はこれらのぶっ飛んだ話がほとんど「霊性進化論」という枠組みから導き出されていることを解き明かし、現代のオカルトを貫く一つの思考パターンを取り出しています。

 ダーウィンの進化論は世界観や人間観に大きなインパクトを与えましたが、進化論を知った時に次のように考えたことがある人も多いと思います。一つは「今いるチンパンジーの中から突然人間のような個体が登場するのではないか?」、もう一つは「今いる人類の中からいつの日か「超人類」が出てくるのではないか?」という二つです。

 一つ目はたんなる誤解なんですが、二つ目については「超人類」はともかくとして何らかの突然変異が現れる可能性はあります。これに仏教の「輪廻転生」の考えが付け加わると「霊性進化論」になります。
 「高いところにある木の葉を食べるためにキリンの首が長い年月をかけてだんだん長くなった」ように(ちなみに進化論からするとこの説明の仕方は良くない)、人間の魂は輪廻転生を繰り返しながら、少しずつ「超人類」へと進化しているのです。
 
 これだけならそれほど害はないのかもしれませんが、この手の考えは「なぜいまだに超人類は出現しないのか?」という問いへの答えとして、「人間の中にはこの真実に気づかす動物(獣人)的存在に堕落している者がいる」、「実は世の中は霊的な人間と獣人との闘争の場である」、「ユダヤ・フリーメイソンが人類を物質的文明によって堕落させようとしている」などのトンデモ陰謀史観を持ち出します。
 これがジョージ・アダムスキーの「スペース・ブラザーズ」やデーヴィッド・アイクの「爬虫類人陰謀論」といったレベルであれば「トンデモ」として笑い飛ばせるかもしれません。

 しかし、これらの陰謀史観は、グイド・フォン・リストやランツ・フォン・リーベンフェルスの「アーリア人至上主義」を生み出し、それがナチスの源流の一つとなりました。ランツは、「新テンプル騎士団」を結成し金髪碧眼といったゲルマン的な特徴をその入会の条件としたそうですが、これはヒムラーの率いた親衛隊(SS)と同じですし、実際にナチスの中心人物の多くは「トゥーレ協会」というアーリア人至上主義の団体に関係しています。
 さらに日本では、こうした霊性進化論を背景としてオウム真理教が大規模なテロを引き起こしているわけですし、「トンデモ」だからといって無視していいものではありません。

 また、この本では教育の分野では「シュタイナー教育」で名高いルドルフ・シュタイナーについても紙幅を割いて取り上げています。
 彼の教育論にはゲーテやヘッケル、ニーチェなどのさまざまな要素が取り入れられているのですが、無視できないのはブラヴァツキーによってまとめられた霊性進化論である「神智学」の影響であり、彼の思想の中には後のアーリア人至上主義につながる考えもあります。
 シュタイナーのそうしたオカルト的部分を支持する人がどれくらいるかは知りませんが、シュタイナー教育を支持する人は多いです。僕もそれほど詳しくは知らないのでシュタイナー教育の是非については何も言えませんが、シュタイナーという人の持っていたオカルト的な部分にはやはり少しは注意しておくべきでしょう。

 あと、「幸福の科学」についてもその考えをかなり突っ込んで紹介してくれています。最近は選挙を通じてその存在感をアピールしている「幸福の科学」。「幸福の科学って一体何なんだ?」と思っている人も多いでしょうが、この本を読めばそれがブラヴァツキーの神智学のアイディアを受け継いだものだということがわかるでしょう。

 「トンデモ」な内容を扱っているだけに、読んでいて疲れる面もあるのですが、こうした「トンデモ」な資料を読み込んで、それを一般の人でもついていける形でまとめてくれた著者にはひたすら頭が下がります。

現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書)
大田 俊寛
4480067256

今野晴貴『生活保護』(ちくま新書) 7点

 『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(文春新書)が話題になった、NPO法人POSSE代表の今野晴貴が、POSSEで受けた相談などをもとにしながら生活保護の実情と問題点をえぐった本。
 実際に生活保護が受けられなくて困った人の事例を中心にとりあげているために、前半はさながら違法行政の告発本といった感じですが、後半ではブラック企業の問題などと絡めて、日本の福祉制度の問題点を指摘するような内容になっています。

 前半は生活保護を申請しようとしたシングルマザーに申請用紙を渡さず、京都府からの指導があってもなかなか態度を改めようとしなかった京都府舞鶴市の事例や、ここ10年ほどで3人の餓死者を出した北九州の水際作戦(72pの表参照)など、ひどい事例が続きます。
 これらを読むと生活保護法の精神が現場で捻じ曲げられ、「最後のセーフティーネット」の役割を十分に果たせていない姿が見えていきます。

 さらに第3章では、現場のケースワーカーが受給者に暴言を吐いて精神的に追い込んだり、プライバシーに過度に介入したり、無料低額宿泊所に押しこむケースなどが紹介されています。
 ケースワーカーは保護の打ち切りに関する権限を持っているため、受給者に対して絶対的に優位にあり、それがパワハラまがいなことを生み出しているのです。
 もちろん、ケースワーカーの「暴走」については、「ケースワーカーの人員不足」という要因が大きく、この本でもそのことは153p以下で触れていますが、現場でケースワーカーと対立することが多いせいか、全体的にケースワーカーに対して厳しいです。
 個人的にはケースワーカーの恣意的な裁量を批判しつつ、同時にマニュアル主義を批判するのは、ややケースワーカーに酷ではないかと思いました(恣意的な裁量をなくすためには普通はマニュアルにそって物事を進めることが必要なはず)。

 また、この今野晴貴の本はあくまでもPOSSEに寄せられた相談の事例を中心に組み立てられているため、あげられている例がやや都市部の若い世代に偏っていると思います。そのため、生活保護受給者の中心を占める高齢者の様子などは見えにくいです。
 ですから、生活保護という制度全体を見渡すためには、本田良一『ルポ 生活保護』(中公新書)の方がいいでしょう(高齢者の生活破綻について西垣千春『老後の生活破綻』(中公新書)が興味深い)。

 ただ、この本のいい所は、近年の「生活保護バッシング」をブラック企業や日本の貧困な社会福祉制度と絡めて論じている所。
 生活保護で定められている最低生活費というのは決して余裕のあるものではありませんが、日本では生活保護にならない限り医療費や教育費はかかり続けるため、働いている人よりも生活保護受給者の生活レベルが高い場合があるという現実があります(本田良一『ルポ 生活保護』によれば「働いている世帯が保護基準と同じ水準の生活をするために必要な所得は335万円」)。
 この本でも歯の補綴治療を受けている人の割合が、世帯収入が50万〜100万の人よりも50万以下の人のほうが高いというデータが示されています。
 「生活保護を受けることで、これまで抑制されていた医療へのアクセスが一気に向上されることが如実に示されている」(203ー204p)のです。
 
 著者は単純に今の生活保護制度を守るだけではなく、「1か0か」ではない社会保障制度の再編が必要だと訴えます。例えば、今の法のもとでも可能な「医療扶助のみの単給」の実施、最低賃金の引き上げなどを含むナショナル・ミニマムの実現などです。
 著者は日本全体で進む「貧困化」と生活保護について次のようにまとめています。
 ただ疑う余地のない悲惨な現象だけに焦点化したバッシングへの反論は、(それが事実であるにもかかわらず!)労働市場に懸命に残ろうとする若者たちの実感には響きにくい。それどころか、それは彼らへの「過大な要求」としてさえ、映るだろう。長時間サービス残業、過酷なノルマ、消費増税、賃金引き下げ、それでも耐えて働いている自分たちに、辞めていった者たちへの「寛容さ」まで要求するのか、と。彼らは自分たちの側の、「労働市場に残る辛さ」を理解してほしいのであって、ただ「生活保護者の悲惨だ」という事実だけを対置されても、そこには深い溝が刻まれてしまう。(209p)
 
 非常に救いを感じさせない文章ではありますが、こうした状況をきちんと見据えてこそ、生活保護の重要性というのも見えてくるのだと思います。

生活保護:知られざる恐怖の現場 (ちくま新書)
今野晴貴
4480067280

松本佐保『バチカン近現代史』(中公新書) 8点

 バチカンといえば、何と言っても世界で一番小さな独立国として有名です。
 この「一番小さな独立国」という存在については、「かつて絶大な権力を誇っていたローマ教皇がこの小さな場所に押し込められた」とも考えられますし、「他のどこの国にも属さない超越的な力を未だに守っている」と考えられます。

 では、どちらが正解なのでしょうか?

 この本を読むと、そのどちらもが正解であることがわかると思います。
 フランス革命以降、宗教の後ろ盾を必要としない世俗国家の伸長やイタリアにおけるナショナリズムの高まりは、教皇をバチカンという狭い地域に押し込めました。
 一方、その狭い地域に押し込められた教皇は、「ソフトパワー」として世界各地に影響力を発揮し、特に冷戦の終結に大きな役割を果たします。

 この本の帯には「自らの生き残りを賭けた200年」とありますが、19世紀のバチカンはまさに苦難の道を歩むことになりました。
 フランス革命のあと、革命政府は出生や結婚の届け先を教会から国家や自治体に変更し、カトリックの学校や修道院は閉鎖。さらには教会資産の国有化が行われます。
 その後に登場したナポレオンは、バチカンに政治的な価値を見出し、政教条約を結びますが、戴冠式では教皇を無視し(ダヴィッドの画で有名)、教皇領を接収し、1809年にはローマをフランスに併合します。

 このあと、ウィーン会議におけるコンサルビ国務長官の活躍で息を吹き返したバチカンですが、保守化したバチカンはイタリアの人々を敵に回すことになりました。
 そんな中で波乱の人生を送ったのがピウス9世です(もともと著者の関心もこの人物にあったらしい)。
 ピウス9世は就任時から改革派として期待され、「覚醒教皇」とも呼ばれました。しかし、この教皇がイタリア・ナショナリズムの象徴となると教皇は難しい立場に置かれることになり、1848年の革命の混乱の中でイタリア・ナショナリズムとバチカンを長年庇護してきたオーストリアとの間で板挟みになります。
 結局、ピウス9世は混乱の中でローマから逃亡し、フランスの軍事力を背景に帰還します。けれども、その教皇に改革派の面影はなく、保守派としてサルディーニャ王国によるイアリア統一に抵抗し続けます。

 最終的に、このイタリア・ナショナリズムとバチカンの敵対関係が終わるのはムッソリーニ時代のラテラノ条約が締結されてからのことになりますが、そこに至るまでにはレオ13世による、労働者の権利と尊厳を訴えた「レールム・ノヴァールム」の回勅や、ピウス10世による南米の国境問題への介入、ベネディクト15世による第一次世界大戦時の平和外交など、バチカンによる様々な模索があります。
 
 また、この時代のバチカンの一番の「敵」は、宗教を否定する共産主義でした。この共産主義への恐れが、バチカンをムッソリーニやヒトラーに接近させ、ピウス12世は「ヒトラーの教皇」とまで呼ばれるようになります(こうした批判の妥当性についてもこの本では検討されていて、ピウス12世とバチカンに対する批判が冷戦終結後の90年代になってから強まったことを指摘しています(111p))。

 しかし、第二次大戦後は、このバチカンの「反共主義」が冷戦構造の中でバチカンの重要性を押し上げることになりました。
 今でこそ大きな批判を浴びているピウス12世も、「反共産主義」をキーに戦後はアメリカと結びつき、東ヨーロッパの教会ネットワークを情報収集などに活かそうとします。

 そして、こうした中からポーランド出身のヨハネ・パウロ2世が誕生するのです。
 過去2番目に長い在位期間を誇るヨハネ・パウロ2世は日本を訪れたはじめての教皇としても有名ですが、その一番の仕事は母国ポーランドの民主化を後押しし、結果的に共産圏の崩壊に大きな役割を果たしたことです。
 詳しくはこの本を読んでもらうとして、改めて考えてみてもその行動は大胆ですし、その影響力の強さには驚かされます。

 「バチカンだって?教皇が何個師団持っているっていうんだい?」
 これはこの本の最後(245p)に紹介されているスターリンの言葉ですが、ローマ教皇、そしてバチカンは巨大な軍事力に匹敵するような「パワー」でもあるのです。
 バチカンの激動の歴史を教えてこれるとともに、必ずしも主権国家だけではない国際政治における「パワー」について、改めて考えさせられる本です。

バチカン近現代史 (中公新書)
松本 佐保
4121022211

西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』(中公新書) 7点

 副題は「哲学者と学ぶ認知言語学」。哲学者の野矢茂樹が「認知言語学」という新しい言語学の講義を西村義樹から受けるという、なかなか思い切った企画の本です。
 とりあえずの感想としては「認知言語学の入門書としてはどうかと思うけど、面白い」あるいは「面白いけど、認知言語学の入門書としてはどうか」といったところですかね。

 ちなみにこの感想は認知言語学の内容に関連しています。「認知言語学の入門書としてはどうかと思うけど、面白い」と「面白いけど、認知言語学の入門書としてはどうかと思う」、よく知られている日本語の特徴ですけど、同じ事を言いながら前者のほうがよりポジティブな印象がありますよね。
 この本では「「ダビデがゴリアテを殺した」と「ゴリアテがダビデに殺された」は同じ意味か?」という問いが出され、認知言語学ではそこに「捉え方」の違いを見出すという議論がなされています(45ー50p)。
 この2つの文は同じ事態を表していても(真理条件が同じであっても)、ちがう意味を表していると考えるのが認知言語学の特徴です。

 もともと認知言語学はチョムスキーの生成文法へのアンチテーゼとして生まれました。生成文法は統語論中心で、統語論を基本的に意味から切り離して考えるのに対して、認知言語学では言語の能力は人間のさまざまな心の働きと分かちがたく結びついていて意味と統語論は簡単には切り離せないものだと考えます。
 同じ事態を表すさまざまな表現があるのは、人間の物事の捉え方など、さまざまな認知の仕方や心の動きが、言語に影響を与えているからなのです。

 この認知文法(認知言語学)と生成文法の「意味と文法」の捉え方の違いについて野矢茂樹は次のようにまとめています。 
 認知文法が「文法と意味は不可分」と言い、生成文法が「文法は意味から自律している」と言うとき、認知文法はまさに文法と意味が不可分になるようなところを求めて、「文法」も「意味」もできるかぎり広く捉えようとする。それに対して生成文法は文法が意味から自律するようなところを求めて、「文法」も「意味」も狭く(潔癖に?)捉えようとする。(60p)

 この本では、この「文法と意味は不可分」ということを表す例として間接受身や使役構文などが分析され、さらにその分析が野矢茂樹のツッコミによって深まっています。

 また、認知言語学の「認知」の面に関しては、メトニミー(換喩)やメタファー(隠喩)などの分析を読むとよくわかってきます。
 例えば、「最近、村上春樹を読んでいます」の村上春樹はメトニミー(換喩)だとされています。本当に読んでいるのは村上春樹の小説で、その本を作者の村上春樹で言い換えているからです(もっとも、この本でも指摘されているように、これは「省略」ではないか?という見方もある)。
 これを認知言語学の創始者の一人であるラネカーは「参照点」と「ターゲット」という考えで説明しています。メトニミーでは、まず「参照点」としての言葉(この場合は村上春樹)を出して注目させ、そこから「ターゲット」(村上春樹の小説)へと聞き手を導いていきます。そして、それによりそこで伝えたいこともよりはっきりするというのです。
 ただ、この例に関しては、これまた野矢茂樹のかなり鋭いツッコミが入っています。

 こんな感じで面白いのですが、野矢茂樹のツッコミが全体的にやや早すぎるのではないか?とも感じます。
 モグラたたきで言うと、モグラ(認知言語学)がまだ完全に姿を表す前に叩いてしまっている感じで、叩いたのがどんなモグラだったのかということがややわかりにくいです。
 もちろん、認知言語学が単純に否定されているわけではないのですが、早すぎるツッコミが認知言語学の全体像をややわかりにくくしていしまっている面もあると思います。
 ただ、言語哲学の観点から言っても興味深い話題がいろいろと出ていて、いい意味で頭を揺さぶられる本であることは間違いないです。

言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)
野矢 茂樹 西村 義樹
4121022203
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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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