山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2017年09月

真野俊樹『医療危機』(中公新書) 5点

 同じ中公新書から出た『入門 医療政策』が面白かった著者が、「うまい(医療技術が高い)、安い、早い(待たなくても医療機関を受診できる)」という状況が崩れつつある日本の医療について、医療におけるイノベーションを中心にその改革を探った本。
 増え続ける医療費を前にして、「1 自己負担や保険料を上げて収入の増加をはかる」、「2 医療機関へのアクセス制限や保険適用の範囲を絞って支出の増加を防ぐ」という2つの選択肢が思いつきますが、それ以外の第三の道として「イノベーションによって支出を減らしたり医療資源を節約することはできないだろうか」というのが本書の目指す方向性です。
 アメリカをはじめとしてインド、シンガポール、ドバイ首長国、スイス、エストニアなどさまざまな国での興味深い取り組みが紹介されていますが、前著の『入門 医療政策』に比べると、ややそういったミクロの話がマクロの制度的な話とうまくつながっていない面があるかもしれません。

 目次は以下の通り。
第1章 危機を迎えた医療制度
第2章 アメリカの医療改革に学ぶ(1)
第3章 アメリカの医療改革に学ぶ(2)
第4章 医療に求められるイノベーティブな視点
第5章 医療イノベーションの萌芽
第6章 患者と医師に求められるイノベーション
終章 医療の未来はどこにあるか
 
 OECD加盟国における医療費の対GDP比をみると日本は、アメリカ(16.9%)、スイス(11.5%)につぐ第3位(11.2%)で、上昇傾向にあります(4ー5p)。一方、少子高齢化によって以前のような高い経済成長は難しく、国民皆保険制度を維持するために財政的な負担は厳しくなっていくことが予想されます。
 さらに医療の高度化も医療費を上昇させる一因です。年間約1700万円する抗がん剤のオプジーボ(その後の薬価改定で半額に引き下げられた)や重粒子治療や陽子線治療などは、それまでの治療法に比べるとかなり高額なもので、これらの普及は医療保険制度を揺るがしかねません。

 しかし、その治療法によって慢性的な疾患が治るのであれば話は別です。この本ではC型肝炎の対する新しい薬のことが紹介されています。この薬剤も数百万単位の費用がかかるといいますが、これによってC型肝炎が完治するのであれば、それはかえって経済的かもしれません(23ー24p)。
 つまり、高度な医療が慢性的な疾患を完治させるのであれば、医療技術の発展が医療費を削減するという可能性もありえるのです(このことについては石井哲也『ゲノム編集を問う』(岩波新書)でも触れられていた)。

 これを受けて第2章と第3章ではアメリカの取り組みを紹介しています。前にも述べたようにアメリカの医療費のの対GDP比は突出して高く、医療保険制度も不十分なので(オバマケアができて改善されましたが)、医療改革のお手本としては参考にならない気もします。
 しかし、多くの問題を抱えているからこそ先進的な取り組みがなされているという面もあります。

 ただ、アメリカの取組みについての紹介は、個々の事例としては面白いものの、そうしたミクロの取り組みがマクロな医療制度にどのように反映されているかという点がないので、やや物足りなくも感じました。
 この本で紹介されているメイヨークリニックをはじめとするアメリカのトップクラスの病院の取り組みはやはりすごいですし、スーパーマーケットやドラッグストアに併設されナースプラクティショナーという看護師の上級資格を持つ者が治療にあたるリテールクリニック(コンビニエントクリニック)も興味深かったですが、それがどの程度、医療費の削減などにつながっているのかということはわかりません。

 一方、第5章でとり上げられているインドやエストニアの話はなかなかマクロにもつながる話があってなかなか興味深いです。
 まず、エストニアですが、ここは電子政府のしくみが発展している国として知られていて、IT化は医療の分野にも及んでいます。
 例えば、EHR(Elctronic Health Record)は医師がカルテの要約を共通サーバーにあげるしくみで、そこには患者の家族歴や既往歴、過去の経緯、画像、薬剤アレルギーの有無、薬の服用歴などのデータが集められています。
 この共有情報には医師、看護師、患者がアクセスできます。センシティブな情報も含むためプライバシーを心配する声もあるでしょうが、それに関してはどの医師がいつ自分の情報にアクセスしたのかを患者が知ることができるしくみによって歯止めをかけています(166ー167p)。これは日本ではなかなか思いつかないしくみではないでしょうか。
 
 インドでは医療ツーリズムがとり上げられています。インドの医療ツーリズムの魅力はその価格で、アメリカで7万〜13万3千ドルする冠状動脈バイパス手術はインドでは7千ドルで行えます(127p)。
 インドで医療ツーリズムが発展しているのは、その技術に比較して国内の医療市場が小さい(人口は多いが医療保険は未整備で医療にアクセスできる人が少ない)からです。一方、日本の医療市場は巨大です。「医療ツーリズムが日本の医療を救う」というような言説もありますが、そのシェアから見て医療ツーリズムが日本の医療を大きく変えることはないだろうというのが著者の見立てになります(136p)。

 また、スイスの「自殺ツーリズム」(スイスでは自死幇助が認められているが、それを外国人にも行う)についても、ちらっとだけですが触れられています(157ー159p)。

 こうした各国の医療改革を踏まえて第6章では日本の医療のイノベーションの可能性を探っています。
 ただし、章のタイトルは「患者と医師に求められるイノベーション」となっていて、制度や技術面よりも患者と医師の「心構え」のあり方などが中心です。

 ここでは、患者に求められるイノベーションとして、「救急車の利用を減らす」、「かかりつけ医を持つ」、「QOL(生活の質]の視点を導入する」などが、医師に求められるイノベーションとして、「専門医から家庭医、総合医へ」、「ICTとコミュニケーション」、「リーダーシップの重要性」などがあがっていますが、これらは果たしてイノベーションなのでしょうか?

 もちろん、「小さなイノベーションの集積が大きな変化を生み出す:という考えもあるでしょうが、これらの事項は今までに考えられてきたことの延長で、決してイノベーションというような変化ではないと思います。
 もし、著者の想定する「イノベーション」がこの第6章に書かれていることで尽きているのならば、残念ながら日本の医療費の膨張をイノベーションで乗り切ることは難しいでしょう。

 いくつか面白い材料は出ていますし、医療技術などの最新の動向も知ることが出来るのですが、それらをどう活かして日本の医療制度を変えていくのかというところまでアイディアが練り上げられていない点がやや残念です。
 
医療危機―高齢社会とイノベーション (中公新書)
真野 俊樹
4121024494

岩崎周一『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書) 9点

 ハプスブルク帝国(本文では「ハプスブルク君主国」と表記)1000年の歴史を440ページ超のボリュームで描いた野心的な書物。中世から現代という時代の長さ、ドイツ(オーストリア)だけでなくハンガリーやチェコ、スペインという地理的な広がりをきちんと射程に収め、なおかつそれぞれの時代の社会や文化にも触れながら1000年の歴史が描かれています。
 これだけ長い時代と扱うとなると、岡本隆司『近代中国史』(ちくま新書)のように固有名詞をバッサリと落として叙述を進めるというのも一つの手ですが、ハプスブルクを扱った本でそれをすれば読者の期待を裏切ることになります。この本は、カール5世、フェリーペ2世、ルードルフ2世、マリア・テレジア、エリーザベトといったハプスブルク家の有名人についてもその人柄がしっかりと書かれており、これだけ多くの要素をバランスよく盛り込む著者の能力には素直に脱帽です。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 勃興
第二章 オーストリアの地で
第三章 「さらに彼方へ」
第四章 「ドナウ君主国」の生成
第五章 主権国家体制の下で
第六章 「何事も人民のために、何事も人民によらず」
第七章 秩序と自由
第八章 「みな一致して」
第九章 ハプスブルク神話
あとがき

 ハプスブルク家というとオーストリアを思い浮かべるかもしれませんが、そのはじまりはスイスのハビヒツブルク城にあるといいます。スイスの中央部から北西部に勢力を広げたハプスブルク家は、13世紀以降アルプスを南北に貫く交通が発展するとそれとともにさらに発展していきます。
 そして1273年に当主のルードルフ4世がルードルフ1世としてドイツ国王に選出されたことがハビヒツブルク家をさらに広い舞台へと押し出しました。

 当時のドイツ王国はフランク王国が分裂した東フランク王国を原型としたもので、この東フランク王国の第3代国王オットー1世がローマ教皇から戴冠され、皇帝に即位したことから神聖ローマ帝国として知られる国家となりました。
 しかし、11世紀以降、王朝の断絶などもあって、国内の諸侯の選挙によって国王が決定されるようになります。
 従来、この時代は混乱の時代と考えられていきましたが、最近の研究では社会はある程度安定し経済活動も活発だったことが明らかになっています(19-20p)。

 また、ルードルフの選出に関しても諸侯が強力な王の出現を望まなかったためとの説明がなされてきましたが、国王選挙のライバルであったフランス王フィリップ3世やチェコ王オタカルに対抗するためにその手腕を見込まれたためではないかと著者は考えています(22p)。
 そして、ルードルフがオタカルを破ったことをきっかけに、ハビヒツブルク家はオーストリアへと勢力を伸ばしていくことになるのです。

 当時、国や領邦の統治において君主と民衆の間にある在地有力者の動向は重要であり、君主がその支配領域を広げるためには、そうした諸身分の支持を得ることが必要不可欠でした。
 諸身分には王を廃する力もあり、ハプスブルク家も14世紀初めにアルブレヒト1世がチェコの王位を得たもののそれを維持することはできませんでした(47ー48p)。
 こうした君主と諸身分の合議による政治が一般化していく中で議会が誕生します。特に中世において租税の徴収は緊急時に一回かぎりという条件で認められるものだったため、戦争など莫大な経費が必要なものに関しては議会の同意が不可欠だったのです(49ー50p)。
 多くの地域を支配するようになったハプスブルク家の君主には各地の諸身分との協調が求められました。

  15世紀末から16世紀はじめにかけて、生涯に27の戦争を戦ってハプスブルク君主国を拡大させ、「最後の騎士」と呼ばれたのがマクシミリアン1世でした。カール5世の祖父にあたる人物ですが、この本を読むとマクシミリアン1世がハプスブルク君主国拡大のキーパーソンであることがわかります。

 マクシミリアン1世はイタリアの支配をめぐってフランスとイタリア戦争を戦いますが、この戦争は莫大な戦費が必要なものでした。
 そこでマクシミリアン1世は諸身分の要求に応じて帝国改革を行い、帝国管区の導入や帝国議会制度の整備などが行われます。マクシミリアン1世はこれらの改革について、「自分は「王の中の王」であってフランス王のような「奴隷の王」ではないと誇らしげに語る一方、スペイン王の「無制限の権力」を羨望し、支配するに刃物がいる「ドイツの野獣ども」に嫌悪を示すといった具合に、複雑な心情をのぞかせ」(78p)たといいます。

 マクシミリアン1世はイタリア戦争を通じてスペインとの関係を深め、マクシミリアンの息子と娘がそれぞれスペインの王子・王女と結婚するという二重の婚姻関係を結びます。さらに中東欧の雄・ヤギェウォ家との間にも孫達の二重結婚を行います。
 ここにハプスブルク君主国がスペイン、さらにチェコやハンガリーへと広がっていく素地がつくられたのです。
 ただし、ハプスブルク帝国は結婚によって領土の拡大を図ったという説は端的に言って誤りで、あくまでも相手方の王統の断絶という偶然によるものだと著者は述べています(82-83p)。

 そしてカール5世が登場します。神聖ローマ皇帝とスペイン王をかねたこの人物は世界史の教科書などでもおなじみですが、92-93pに載っているカール5世のすさまじく長い肩書はこの時代の特徴を表しています。
 ハプスブルク君主国とは、それぞれ独自の法や制度を持つ諸国や諸邦が同じ君主をいただく形の同君連合国家であり、「帝国」というイメージとはちがった存在だったのです。
 現在の歴史学では、近世ヨーロッパの諸国家を「複合(君主政)国家」といい、「礫岩<のようなさまざまな要素の寄せ集めの>国家」と呼ぶ研究者もいます(94-95p)。

 このような複雑なしくみを温存しながら巨大化した帝国の統治にカール5世は奔走します。フランスやオスマン帝国と戦い、内ではルターによる宗教改革に対処し、落ち着く暇がありませんでした。
 カール5世はカトリック信仰に基づくキリスト教世界の統一を目指しましたが、アウクスブルクの宗教会議でルター派の信仰が認められたことによって、その計画は挫折。体調不良もあって1555年に退位します。
 そして、スペイン王を長男のフェリーペ(2世)が、神聖ローマ皇帝を弟のフェルディナント(1世)が継承することが決まり、ここにハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分裂することになるのです。

 フェリーペ2世は「書類王」とも呼ばれたほど内向的で勤勉な性格で、ポルトガルを併合し、全世界を股にかけた巨大な支配領域をつくりあげました。しかし、カトリックにこだわったフェリーペ2世はネーデルランドやイギリスと対立し、その戦費の負担は財政破綻をもたらします。
 植民地からの富はあったものの、「複合(君主政)国家」スペインには統一的な財政のシステムはなく、必要に応じて徴税や借金で資金を調達するというずさんな財政に頼っていました。フェリーペ2世が没した1589年、支払利息の総額は収入の2/3を占めたといいます(119-120p)。
 こうした中、この本ではフェリーペ2世が日本からの天正遣欧少年使節を非常に愛想よく迎えたというエピソードが紹介されています(107p)。 

 一方、神聖ローマ皇帝となったフェルディナント1世は、ヤギェウォ家のラヨシュ2世がオスマン帝国との戦いで戦死すると、ハンガリー王、チェコ王の座を狙います。
 この動きには現地の諸身分の抵抗がありましたが、フェルディナント1世はチェコでは「再カトリック化」を手控えることで、ハンガリーでは貴族間の対立を利用することで着々と地盤を固めていきます。
 結局、ハンガリーは反ハプスブルクの勢力がオスマン帝国を頼ったことで第一次ウィーン包囲が起こり、ハンガリーの大部分はオスマン帝国が支配することになりましたが、北部からクロアチアにかけてはハプスブルク家の支配領となりました。

 その後、プラハに宮殿を構え、ブリューゲルのコレクションを行いアルチンボルドに肖像画を描かせるなど芸術を愛好したルードルフ2世などが登場しますが、ハプスブルク君主国内ではカトリックとプロテスタンタの対立が強まっていきました。
 そして「再カトリック化」を強行しようとしたフェルディナント2世のもとで三十年戦争が勃発するのです。

 この三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とみる考えもありましたが、現在では「皇帝絶対主義」は否定されたものの、神聖ローマ帝国の「複合(君主政)国家」としての内実がより深まった(164p)という見方が主流なようです。

 三十年戦争後、ハプスブルクの力はゆるやかに低下していったように思われがちですが、そうではありません。
 1683年の第二次ウィーン包囲の危機を脱すると、1697年のゼンタの会戦でオスマン帝国に大勝し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーの大半を獲得します。
 この時期、ハプスブルク君主国はプリンツ・オイゲンという優れた指揮官を得て、数々の対外戦争に勝利しました。また、これらの戦争を財政的に支えることにも成功しました。
 近世のヨーロッパにおいて、王権が戦争を原動力として行財政を整備し強国化していくという「財政軍事国家」への転換が起こりますが、ハプスブルク君主国もそれに成功したと言えるのです(194ー195p)。

 しかし、その改革は農村には及びませんでした。この時期に領主の権力はむしろ強化され、特にチェコやハンガリーでは農奴制が(再)確立されたといいます(208p)。
 このような中で、女帝としてハプスブルク君主国を継いだのがマリア・テレジアでした。
 マリア・テレジアは父のカール6世が亡くなるとすぐさまオーストリア継承戦争に巻き込まれ、プロイセンのフリードリヒ2世の挑戦を受けます。
 マリア・テレジアはこの機に独立に動くかと思われたハンガリーの支持を取り付けて苦境を脱し、その後、さまざまな改革を進めてハプスブルク君主国を引っ張っていきます。また、長年の宿敵のフランスと手を結ぶ、いわゆる「外交革命」を成し遂げ、娘のマリ・アントワネットをのちのルイ16世と結婚させます。

 マリア・テレジアとその子のヨーゼフ2世はともに「啓蒙専制君主」として知られていますが、この本では、マリア・テレジアを本質的には保守的でありながら「人情の機微と関係諸勢力との合意形成を重んじつつ、さまざまな意見を柔軟に採り入れるボトムアップ型の統治を行った」(230p)と評価するのに対して、ヨーゼフ2世については「自らの正しさと能力を過信し」、「独善的で冷笑的、そしてひとたび反感を抱いたものには過度に攻撃的になる」(235p)と、その人格面を否定的に捉えています。
 第6章のタイトル「何事も人民のために、何事も人民によらず」とはこのヨーゼフ2世の政治スタイルを表していますが、ヨーゼフ2世の跡を継いだ弟のレーオポルド2世をのぞくと、これがハプスブルク家の統治のスタイルとなっていくのです。

 フランス革命とナポレオン戦争はハプスブルク君主国を大きく変容させました。アウステルリッツの戦いの敗北後、ドイツの中部・南部の中小諸邦はライン同盟に加わり神聖ローマ帝国は解体されます。
 そして、その後の事態の収集にあたったのがウィーン会議の中心人物でもあった宰相のメッテルニヒでした。この会議で成立したウィーン体制は従来、「反動」として低い評価が与えられてきましたが、近年では一種の集団安全保障体制が形成され、1世紀近くヨーロッパに平和をもたらしたものとして評価されています(細谷雄一『国際秩序』(中公新書)でも高い評価が与えられていた)。

 しかし、ヨーロッパにおけるナショナリズムの高まりはハプスブルク君主国内を揺るがしていきます。特に領内にさまざまな民族を抱えるハプスブルク君主国にとってナショナリズムは厄介なものでした。
 1848年の革命の炎はハプスブルク君主国内にも及び、三月革命でメッテルニヒは失脚し、ハンガリーやチェコでもハプスブルクの支配から離反する動きが起こります。
 ハンガリーやチェコの独立の動きを抑えたハプスブルク君主国ではドイツナショナリズムが前面に押し出され、ドイツ語教育が推進されました。新たな皇帝フランツ・ヨーゼフとバイエルン公女エリーザベトとの結婚もこの流れとは無縁ではありませんでした。
 一方、農村での生活状況は改善せず、南北アメリカへの移民が増えていきました。20世紀の最初の10年間にアメリカ合衆国が受け入れた移民897万6千人のうちハプスブルク君主国出身者は214万6千人にのぼったといいます(290p)。

 ドイツナショナリズム路線は普墺戦争の敗北によって挫折。ハンガリーの自治を大幅に認める形で「オーストリア=ハンガリー二重君主国」が成立します。しかし、人口のおよそ半数を占めるスラヴ系の諸民族はこの動きに関与できませんでした。
 この後、オーストリア帝国では自由主義的な流れが強まりますが、「政府は、「八つの民族、七つの領邦、二〇の議会組織、二七の政党、二つの複雑な世界観、ハンガリーとの込み入った関係、八・五度の緯度と経度におよぶ文化的相違」(ウラディミール・ベック)への対応に絶えず苦慮」(323p)することになります。
 チェコからの「三重帝国への要求」、急進的ナショナリズム政党の台頭、さらに皇太子ルードルフの変死といった出来事に悩まされることになるのです。

 しかし、急進的なナショナリズムが広く社会に浸透したかというとそういうわけではありません。この本では、中欧において多言語を習得させるために異なる言語を話す人に子どもを預ける習慣(「交換保育」)の存在や、グスタフ・マーラーがハンガリー語のオペラの上演を行おうとしたところ不評で挫折したことなどを指摘し(333ー334p)、人びとは「ナショナリズムに染め上げられていた訳ではなかったのだ」(336p)と述べています。

 一方、ハプスブルク政府は君主の存在を前面に押し出した「公定ナショナリズム」を進め、いたるところにフランツ・ヨーゼフの肖像画が飾られました(336ー338p)。
 だからこそ、1914年6月のサライェヴォ事件でフランツ・フェルディナントが暗殺された衝撃も大きかったといえるのかもしれません。
 セルビアへの膺懲と威信回復、そして政情刷新のためにハプスブルク政府は開戦へと動き出しますが、それはハプスブルク君主国崩壊の引き金を引くことになりました。

 ここで本書が終わってもいいところではありますが、さらにこの本ではその後のハプスブルク家、特に最後の皇帝カール1世の子で2011年に98歳でその障害を閉じたオットーについて詳しく触れています。
 オットーはベルリンの壁崩壊のきっけとなった「汎ヨーロッパ・ピクニック計画」を後援し、「ハプスブルク神話」の形成に一役買った人物です。特に第2次世界大戦後に社会主義化した中東欧の国々ではハプスブルク君主国を再評価する動きがあり、EUの先駆けと考える人もいます。
 しかし、著者はオットーの問題のある言動などを取り上げつつ、「最後に、ハプスブルク君主国に対する今日の再考・再評価の動きに行き過ぎがみられることに、注意を喚起しておきたい」と述べています。

 長々と本書の内容について述べてきましたが、これでもハプスブルク君主国の文化的側面や日本とのかかわりなどの部分はバッサリと落として紹介しています。
 400ページ超えの新書というと怖気づく人もいるかもしれませんが、内容的によく400ページで収まったなという感じで、著者の叙述の手際の良さは際立っています。また、来日したフランツ・フェルディナントやミュシャの「挙国一致宝くじ」のポスターなど、写真や図版も豊富です。読み応え満点の新書といえるでしょう。

ハプスブルク帝国 (講談社現代新書)
岩崎 周一
4062884429

大竹文雄『競争社会の歩き方』(中公新書) 8点

 『経済学的思考のセンス』、『競争と公平感』(いずれも中公新書)などの著作でおなじみというよりも、最近はEテレの「オイコノミア」でおなじみといったほうがよい大竹文雄による経済学的な読み物。
 先にあげた2冊と同じく社会問題などを経済学の切り口で分析しながら、最新の行動経済学の知見などを紹介しています。
 「オイコノミア」を見ている人は、他の経済学者の先生に比べて大竹先生はネタが豊富だと感じているかもしれませんが、それは本書でも遺憾なく発揮されています。「オイコノミア」でコンビを組んでいる又吉直樹の『花火』や西加奈子『サラバ!』の書評や司馬遼太郎についての講演なども組み込まれており、タイトルにもある「競争」とキーワードを中心にしてさまざまなネタが楽しめると思います。

 目次は以下の通り。
プロローグ 競争で強みを見つける
第1章 身近にある価格戦略
第2章 落語と小説の経済学
第3章 感情と経済
第4章 競争社会で生きてゆく
第5章 格差社会の真実
エピローグ イノベーションは、若者の特権か

 第1章の冒頭で紹介されているのはチケットの転売問題です。
 去年の8月に有名アーティストが新聞でチケット転売に反対する意見広告を出したことを覚えているひとも多いと思います。数千円のチケットが数万円、場合によっては10万円以上に高騰するようなケースもあり、「本当にチケットが欲しい人に行き渡らない」、「アーティストとファンの関係を壊す」、「アーティストに利益が還元されない」といった理由で転売に対して批判が高まっていました。

 これに対して、伝統的な経済学は、熱心なファンかどうかはチケットに払える金額で測ることができるし、そもそも超過需要があるのだからアーティスト側はもっとチケットの価格を上げるべきである、と考えるでしょう。
 あくまでも価格メカニズムによって問題は解決されると考えるのです。

 しかし、この考えについてはさまざまな異議があがると思います。
 ファンの熱意を測れるのはチケットに出せる金額だけではなく、例えばケンカやチキンレースでも測れるかもしれませんし(純粋に「強い気持ち」だけを測るならば命を懸けるチキンレースが一番良いかも)、チケットの価格を高くすれば学生などの若いファンがコンサート会場から締め出されることになりアーティストの人気は持続しにくくなるかもしれません(現在であれば嵐のコンサートなどはチケット1枚5万円でも埋まると思いますが客席の風景はずいぶん変わるでしょう)。

 「だから経済学なんて非現実的なんだ」と言いたくなるところですが、この本ではその先の経済学を紹介しています。
 プリンストン大学教授のアラン・クルーガーの分析では、チケットの価格を引き上げないのは、まず、それが新規顧客獲得戦略であり、超過需要をつくりだすことで人気を維持する戦略であるというものです。また、行動経済学の知見から一度保有したものは価値を高く見積もるという人間のバイアスをとり上げ、転売市場で必要以上に価格が高くなってしまう可能性を指摘し、さらにチケットの安さは一種の「贈与」あり、それがファンの忠誠心をあげるという考えを紹介しています。

 そして、解決策としてコンサートのチケットの一定枚数をオークションに出し、定価以上の価格がついた分については慈善団体に寄付するというアイディアを披露しています。これならばどうしても行きたいファンはオークションで買えばいいわけですし、アーティストも強欲だとの批判を免れることができます。
 現在の経済学が、実際の人間の行動に寄り添った分析を行っていることがわかると思います。

 この他、第1章では、「他店よりも高ければ値下げします」との広告が価格を下げないという暗黙の共謀であることや、くまモンの戦略を検討しています。
 
 第2章では、落語の「千両みかん」から「私的価値」と「共通価値」の違いを説明したり、司馬遼太郎の作品や又吉直樹の『火花』から「競争」の重要性を指摘しています。

 第3章で扱われるのは人間の感情の問題です。
 例えば、「怒り」の感情はなかなか自分でもコントロールできないもので厄介です。研究によると、怒っている人はよりリスクを取りやすくなり、問題の責任が他人にあると感じるようになるといいます(68p)。
 怒っていると、単純に握力の強さを競うようなゲームではより力が発揮できますが、メンタルなゲームでは成績が悪くなります。また、他人との協力行動をとらなくなるとのことです(72p)。

 このようなことを聞くと「経済学というよりもほとんど心理学ではないか」と思う人もいるかと思いますが、2002年に心理学者のダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞したからもわかるように(カーネマンの研究については『ファスト&スロー』を参照)、行動経済学や実験経済学と行った分野では急速に心理学との融合が進んでいます。
 「経済学者が「怒り」について研究して何になるんだ?」と思う人もいるかと思いますが、リスクというのは経済学における非常に重要な概念であり、リスクに対する態度が感情で大きく変わるとすれば、経済学は人々の感情も考慮に入れる必要があります。

 第4章では、そうした人間の感情やバイアスについての研究が政策などにいかに活かされる可能性があるかということが述べられています。
 例えば、たんに節電を呼びかけるだけではなく、その家庭と電力やガスの消費が似た家庭の消費量を示して省エネについて助言したところ、2%以上電力消費が減少したとの実験がありますし、インフルエンザのワクチン接種についても、たんに日時を知らせるだけでなく手帳に日時を書き込ませると接種率が上がるそうです(120-121p)。
 人間のバイアスを利用したちょっとした介入が人々の行動を大きく変えることもあるのです。

 第4章の最後でとり上げられている児童扶養手当の「まとめ支給」の問題などは、行動経済学の知見が人々の暮らしを改善させることができるわかりやすい例だと思います(現在の4ヶ月に1度のまとめ支給では無駄遣いしやすいし、借金にも頼ってしまいがちで貧しい家庭のためにならない)。

 また、経済においては見知らぬ他者に対する一般的な信頼や、他人に親切にされたらそのお返しをすべきだという正の互恵性が重要です。それが高い社会や組織では協力が進み発展する可能性が高まります。
 では、こうした傾向をどうやって育てていけばいいのか?その答えの一つが教育になります。
 この本では板書中心とグループ学習中心の教育を比較してグループ学習中心の国のほうが一般的信頼が高まるとしています(ただし、成績に関してはどちらかに偏るよりも両方の組み合わせが重要(141-142p))。
 
 さらに徒競走で順位をつけない小学校で教育を受けた人ほど、「利他性が低く、強力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観を持つ傾向が高い」という著者らの研究が紹介されています。
 学校側としては互恵性を育てるために、あえて競争で明確な順位をつけないようにしているのでしょうからこの結果は衝撃的です。

 著者は教育学者の苅谷剛彦の議論を引きながら、こうした教育が個人の能力差を生まれながらの素質の差ではなく努力の結果であるという価値観を生みがちで、それが「競争に負ける=怠けている」という価値観を生んでいるのではないかと類推しています。
 もう少し精密なデータや分析を見てみたいところではありますが、日本の教育と社会の現状を考えるとある程度納得できるものではないでしょうか。

 最後の第5章では著者が以前から何度か書いている格差の問題がとり上げられています。
 格差というとセンセーショナルに報道されることが多いですが、この本で紹介されている日本のトップ10%の所得が580万円でトップ1%の所得が1270万円と聞くと、また違った風景が見えてくるのではないでしょうか(日本の経済が停滞していることも実感する)。
 もちろん、格差への対策は必要で著者も否定してはいませんが、日本はアメリカのように一部の金持ちが富を独占しているというような社会ではないのです。

 このようにさまざまな興味深いトピックをとり上げながら最新の行動経済学の知見などをわかりやすいかたちで紹介しているのがこの本です。
 ここで紹介されているすべての知見に納得したわけではありませんが(個人主義の国ほど豊かになるというゴロニチェンコの研究の紹介(152-154p)などは疑問も残る)、経済学のという日常の眺めとはちょっと違った視点からの切り口が生きており、社会問題やライフスタイルを見直してみるひとつのきっかけとなるでしょう。


競争社会の歩き方 - 自分の「強み」を見つけるには (中公新書)
大竹 文雄
4121024478

井上亮『天皇の戦争宝庫』(ちくま新書) 6点

 副題は「知られざる皇居の靖国「御府」」。皇居内にある「御府(ぎょふ)」と呼ばれる施設の実態に迫った本になります。
 戦前の記憶がない多くの人にとって「御府」と言われても何のことかわからないと思います。それなりに天皇についての本を読んできた自分も字面を見たことがある程度のものでした。
 この御府とは近代以降、日本が戦争で獲得した戦利品や戦没者の写真や名簿を納めた施設で、振天府(日清戦争)、懐遠府(北清事変)、建安府(日露戦争)、惇明府(第一次世界大戦・シベリア出兵)、顕忠府(済南・満州・上海事変、日中・太平洋戦争)という5つの施設がつくられました。
 これらの施設は戦後になって封印され、顧みられることもなくなりましたが、建物自体はまだ皇居内に残っているといいます。
 そんな御府の謎に、元日経新聞の皇室担当記者だった著者が迫ったのがこの本です。

 目次は以下の通り。
序章 存在が隠されている皇居の一角
第1章 「朕が子孫、臣民に知らしむべし」―戦勝の記念と皇恩
第2章 輝ける明治の戦果―国民教育の施設へ
第3章 開放と崇敬の衰退―大正期の遠い戦争
第4章 靖国神社との直結―昭和の「十八年戦争」
第5章 封印された過去―歴史の宝庫として残った戦後

 明治維新から近代国家建設の道を歩みはじめた日本でしたが、そのターニングポイントとなったのが日清戦争とその勝利でした。この戦争の勝利に国民は熱狂し、「国民国家」における「国民」としてのまとまりが成立していく契機になります。
 また、この戦争ではさまざまな戦利品が大陸から日本へ運ばれました。このうち皇室に献上された戦利品を飾り、同時に戦没者の顕彰を行う施設としてつくられたのが振天府になります。

 振天府には、銃器をはじめ清国の勲章、青龍刀類、満州兵の古槍、城門扉、軍艦「定遠」の断片など、さまざまなものが飾られていたそうです。この様子はこの本に引用されてる宮内庁宮内公文書館蔵の写真からもわかりますが(28-29p)、さまざまなものが所狭しと並べられていたようです。

 この振天府に関しては明治天皇がその造営に積極的に関わったとの史料があり、「設計より、名称、意匠、図案の類に至る迄御親ら(おんみずから)の御工夫と御指示」(27p)というのはつくってあると思いますが、「今回の戦役には多数の戦病死者を出せり。彼らは実に国家の為めに能く務めたるものなり。彼らの写真を取寄せよ」(31p)との発言もあったそうで、戦利品だけでなく戦死者の名簿や写真を収めようとしたのは明治天皇の発案のようです。

 この他、室内に入り切らないものとして北洋艦隊提督の丁汝昌の庭石、金州城の鎧門、威海衛にあった長さ22mの旗竿などもあり(鎧門と旗竿は42-43pい写真あり)、「見せる工夫」がなされていたそうです。
 
 ただし、公式記録の『明治天皇実録』によると明治天皇が見たのは一度きりですし、その他の者の見学も皇族や高官、軍の将校に限られていました(44-45p)。
 その後、新聞記者などへの公開も行われ、1907年には当時の文部大臣の牧野伸顕の発案で師範学校の職員や生徒への公開も行われます(59p)。教育効果を狙ってのものでした。

 日清戦争後、日本は北清事変と日露戦争を戦いますが、これらの戦役においても懐遠府(北清事変)、建安府(日露戦争)がつくられました。
 ところが、明治天皇は懐遠府を一度も見ていないというのです(69p)。さらに建安府の記述も『明治天皇実録』にはほとんど登場しません。しかも、どうやら建安府は懐遠府の建物を使用したもので、その時点で懐遠府の収蔵品は他にしまわれたらしいのです(78p)。

 そして、明治天皇はこの建安府も訪れることがなかったといいます(109p)。戦争の規模が大きくなったぶん、戦利品や戦没者の写真の数も多く、渤海国の歴史的資料である「鴻臚井碑(こうろせいひ)」と呼ばれる記念品(旅順にあったものを持ってきた)などもあるのですが、明治天皇の建安府に対する態度は冷めていました。
 明治天皇が日清戦争について「今回の戦争は朕素より不本意なり」と述べたとされていますが(111p)、この傾向は北清事変、日露戦争とさらに強まっていたことが窺えます。
 この本は基本的にはジャーナリストの著作で、研究者の本や論文は参照されていないのですが、このあたりは現在の明治天皇研究に触れながら展開してくれたら面白かったと思います。

 大正時代になると、拝観の対象者が、陸海軍生徒や在郷軍人会の准士官以上の者、法曹関係者や愛国婦人会の職員などにも広がり、大規模な御府の見学が始まります。
 ただし、そのぶん観覧者のマナーも低下したようで、当時の侍従武官の日記からそのことが窺えます。
 また、第一次世界大戦とシベリア出兵に際して惇明府もつくられましたが、あまり戦利品は多くなく、青島のドイツ総督官邸内にあったカレンダーなどの戦利品とはいえないようなものもあるそうです(134p)。

 この大正時代の御府に関して注目すべき点は、大正天皇が靖国神社への行幸の代わりに御府を訪れていたのではないかと考えられる点です。
 大正天皇が展覧の記録を調べると靖国神社の例大祭の時期と重なっている事が多いです。これは健康状態が優れず靖国神社の重要な祭事に毎回行幸できなかった大正天皇ならではの行為かもしれませんが、御府が「皇居の靖国」としての機能を持ちはじめたとも見ることができます(140ー142p)。

 昭和になると御府はますます「皇居の靖国」的な性格を強めます。
 満州事変がはじまると、検討されつつもこれまで実現していなかった戦没者遺族の御府の見学も開始されます。御府は「戦利品倉庫よりも慰霊・顕彰施設としての性格を強めていく」(168p)のです。1934年には靖国神社の春の臨時大祭に合わせて2日間で1500人以上の遺族が御府を拝観しています(175p)。

 済南・満州・上海事変を機につくられた顕忠府を1938年に見学した小川勇という人物は次のような感想を残しています。
「苟しくも殉国した者に対しては其霊は神として靖国神社へ合祀せらるゝのみならず、一々生前の写真を一室に保存し随時陛下親しく玉歩を其室に御運び遊されて、写真の傍に附記してある説明と引合はせて其者の勲功を嘉み給ふと云ふ真に勿体ない事実を拝聞し、此でこそ吾々日本国民は国に殉ぜんとする際、必ず天皇陛下万歳を絶叫して死ぬ事が出来るわけであると痛感した」(194ー195p)

 このように御府の拝観はイデオロギーの強化の場として機能しましたが、日中戦争の開始以降は死者の数の多さもあって、写真の収集や新たな施設の建設が難しくなります(結局、日中戦争や太平洋戦争のものは顕忠府の増築で対応する方針が決まった)。
 1943年には約2万人が拝観したといいますが(197p)、もはや新たな御府を建設する時勢ではなくなっていたのです。

 戦争が終わると、御府は封印されます。戦利品は略奪品となり、御府のような施設は天皇制の維持にとって不都合なものとなったのです。
 戦没者の名簿や写真も現在それがどこにあるのかわからない状態ですし、宮内庁は基本的に御府エリアへの立ち入りを禁止しています。90年代に皇室担当記者にオフレコで建物のみが公開されたことはあったようですが(著者は見ていない)、一種の「タブー」となっている状況です。

 このようにほぼ封印されている御府について、さまざまな手を尽くして事実を掘り起こした点にこの本の価値があります。
 途中にも書いたように、もう少し歴史学の研究などとリンクさせていれば面白かったと思う点もありますし、歴史の記述に関してはやや雑な部分も見受けられるのですが(21カ条要求について「これがイギリスの不信を招き、日英同盟破棄の原因となる」(125p)と断言調で書いている部分とか)、ほとんど手が付けられていなかった領域を切り拓く貴重な仕事だと思います。


天皇の戦争宝庫: 知られざる皇居の靖国「御府」 (ちくま新書1271)
井上 亮
4480069755
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