はてなキーワード: 誤用とは
児ポ法改正の攻防を、警察・弁護士・研究者から取材した。その経験から断言する。
2010年と今では、CSAM捜査の精度が、構造的に変わっている。
英国の「VTuber逮捕」拡散の件、ここで一度きちんと書いておく。
何が変わったか。
NCMEC(米国・行方不明児童搾取児童センター)、IWF(英国インターネット監視財団)、Project VIC等が運用する既知CSAM画像ハッシュデータベースは、2010年代を通じて飛躍的に拡充された。
アップロードや所持の段階で、実在児童の被害画像が機械的に特定される。
FATF勧告、Visa/Mastercardのアクワイアラー監督、決済プラットフォームのコンプライアンス強化により、CSAM販売・購入の金銭的痕跡の追跡精度が劇的に上がった。
Apple、Google、Meta、Microsoftがクラウド・送信トラフィックでハッシュ照合を実行する。
実在児童の被害画像の検出から始まり、その捜査の過程で、被疑者のデバイス全体が押収・解析される結果として、漫画やイラストも証拠物件に含まれる。
だが2010年頃に比べれば、「漫画一枚で恣意的に逮捕」という事案の発生確率は、構造的に大きく下がっている。
なぜなら、警察が大量のリソースを投じて家宅捜索・デバイス押収・国際法務手続きを動かすには、事前に蓄積された具体的・客観的な手がかりが必要だからだ。
匿名通報や個人の好みだけでは、現代の警察は動かない。動けない。
リソース不足、手続き厳格化、人権訴訟リスクが、それを許さない。
私が2011年頃に取材したスウェーデンのシモン・ルンドストロム事件——
漫画翻訳家が、元妻の「彼はペドファイルだ」という通報を受けたスウェーデン警察に家宅捜索され
実在児童被害の証拠が一切出なかったにもかかわらず、所持していた日本の漫画を理由に起訴・有罪判決を受けた。
最終的に最高裁で無罪になったが、スウェーデン司法の汚点として記録される事案だ。
当時、私はこの事件を「警察の捜査着手判断が甘かった」「個人的怨恨による通報を裏取りなく受理した」と批判的に取材した。
この種の冤罪パターンは、2010年代前半までは確かに存在した。
(a) 実在児童被害コンテンツの捜査の過程で、漫画類が同時に発見・押収された(「漫画が逮捕の理由」ではなく、「漫画も押収物に含まれていた」)
(b) 商業的・継続的な大量制作販売活動の全体が捜査対象となり、その内訳に漫画類が含まれていた
(c) 拡散ナラティブそのものが、当事者または周辺アクターによって意図的に「漫画一枚で逮捕」と縮減されている
Coroners and Justice Act 2009 Section 62の運用も同様だ。
過去判例(2011年・約3,000点、2018年・約2,000点以上、2024年・大量)を見れば
だから、海外発「漫画が理由で逮捕」のニュースは、まず疑うのが現代のジャーナリスティックな基本動作だ。
これが認知の歪みだ。
そして、認知の歪みを構造的に増幅する装置が、今回の英国VTuber事件で複数稼働した。
第二の波:元都議のKら拡散者による「英国規制ディストピア」フレームの増幅(5月1日)
第三の波:「友人」を名乗るアカウントによる保釈書類公開(5月3日)。
第四の波:Kiwi Farms系コミュニティによる「実は本人がペドファイル系作品の長年の支援者だった」という対抗ナラティブ(5月5日)
にもかかわらず、それぞれの波が押し寄せるたびに、私たちは「これで真実がわかった」と錯覚する。
ここで、今回の拡散の主役の一人について明確に書いておく。
これは私の主観的評価ではない。事実関係としてそう判定できる根拠がある。
1:今回の件で、信憑性が確定していない段階の話を「事実」として拡散した。
一次情報は本人の自己申告のみで、英国警察の公式声明も主流メディアの裏取り報道もなかった。
2:作品実態(toddlercon=幼児的キャラのポルノを継続販売していた事実)への言及を完全に欠落させ「自分が描いたイラストを所持していたという理由で」と中立化して提示した。
3:これが最も重要だが、過去、不正確な情報を流布している点を指摘したフォロワーをブロックすることで対応してきた。
私自身、複数回にわたって彼の発信の事実誤認を指摘した結果、ブロックされて現在に至る。
検証可能な事実誤認の指摘に対して、議論ではなくブロックで応じる発信者はジャーナリスティックな批判検証のサイクルから自らを切り離している。
元都議という肩書がその発信に権威を与えるなら、その権威は誤用されている。
私が8月刊行予定の新著では、こうした認知の戦場の構造を扱う。
CSAM捜査の現代的精度、国際金融規制との連動、プラットフォームのスキャン体制、これらを正確に踏まえずに、海外の表現規制を語ることはできない。
正確に踏まえないままの拡散は、表現の自由を守るどころか、規制推進派に弾薬を提供し
規制レジームを強化する自滅的フィードバックループを生む。
最後に書いておく。
X現アルゴリズムは、検証された情報も検証されていない情報も、エンゲージメント効率だけで等価に拡散する。
むしろ感情を煽る未検証情報の方が、慎重な検証記事より速く遠くへ届く。
「英国は北朝鮮」「独裁政治そのもの」というフレーズが80万ビューを獲得する。
だから、規制推進派に「表現の自由派は児童保護にすら反対する連中」という弾薬が無償で供給される。
これは敵失ではない。自殺点だ。
誰がフレームを作り、誰がそれを増幅し、誰が結果として規制レジームを強化するのか。
note記事(「例のBL漫画家の声明を見たいち腐女子の感想|Xeby」)の主な主張を、論理的に以下の5点に整理します。
著者(Xeby/sim_mah)は腐女子の視点からBL漫画家の声明を批判的に読み解き、「性的表現」と「性的搾取」の混同を最大の問題点として指摘しています。
「性的搾取」とは、金銭・立場などの不均衡な力関係下で実在する人間を性目的で利用する、または基本的人権を侵害する極めて重い言葉。
一方、非実在の架空キャラクターの煽情的な描写は単なる「性的表現」に過ぎず、「搾取」という言葉を使うのは誇張的・不適当。創作は商品であり、消費者(読者)の性的消費を目的とするもので、人権侵害ではない。
2 BL漫画家の声明の問題点(用語の誤用とダブルスタンダード)
作者はアニメ化要請で「女子生徒や女性キャラを性的搾取するような描写を避けてほしい」「下品な描写を修正して誰でも見れる表現に」と述べたが、これは「性的搾取」という重い言葉の誤用。
声明のきっかけは未成年男子生徒と成人男性教師のカップリングへの批判だったのに、女性キャラの描写だけを「搾取」と問題視するのはダブルスタンダード。BL作品自体がシスヘテロ女性によるゲイ男性の性的消費(インモラルな内容を含む)であることを無視している。
BLはマジョリティ(女性)がマイノリティ(ゲイ男性)を性的消費するジャンルで、監禁・強姦などの性暴力肯定が多い。
一部腐女子(特にラディカル・フェミニズム寄り)は女性キャラの描写を「搾取」と批判する一方で、BLの男性キャラ消費は正当化するダブルスタンダードを抱えている。ミサンドリー(男性嫌悪)やゲイ差別的な言動もあり、歴史的にゲイコミュニティを荒らした罪業を自浄していない。
フィクションの性的描写が現実の性的搾取を助長するという主張は「相関と因果の混同」。
作者の声明は他作家の表現を暗に規制する効果を持ち、創作の委縮を招く。表現の自由は等しく守られるべきで、創作物を現実の人権侵害と同列に扱うべきではない。
5 結論
声明は論点をずらし、炎上を再燃させた欺瞞。BL消費の自己矛盾を露呈した。真にリベラルな立場なら、腐女子自身がダブルスタンダードを改め、表現の自由を守る責任を負うべき。
特になんばりょうすけ氏の意見が記事に対して強い対立を示しています(記事は「用語の誤用」を強調するのに対し、なんば氏は「比喩的・社会的な懸念として理解可能」と再解釈)。
意見の出典・要点
@heros_1101
「性的表現」は「性的搾取」ではない。搾取は実在の人権侵害・力関係を伴う重い言葉で、架空キャラの描写は表現に過ぎない。
(ほぼ一致)
ほぼ一致。記事はこの主張を基に展開しており、対立はほとんどない。むしろ記事はこのポストを引用・援用して自分の議論の出発点にしている。
記事(note)が意味わからん。作者の避ける理由は「未成年犯罪の多さ」以外詳細不明だが、不謹慎・エンタメとしての不適切さや、現実の性的搾取の凄惨さを隠蔽する懸念もあり得る。
記事は「作者が表現そのものを搾取と呼んで誤用した」と断定するが、なんば氏は「作者は搾取そのものとは言っていない。現実犯罪を鑑みた不謹慎さや隠蔽懸念が理由」と別の解釈を提示。記事の「誤用」批判を「意味わからん」と感じている。
直球ポルノなら「ファンタジーです」と言い訳しやすいが、一般作品だと必然性のないお色気描写が「自然であるかのように錯覚させる」ため問題。
記事は「性的搾取という言葉自体が不適切」と表現内容を擁護するが、なんば氏は「一般作品でのお色気描写が現実を軽く扱うように機能する」と、社会的影響を懸念。記事が「フィクションは無害」とするのに対し、現実への間接的影響を認める立場。
「性的搾取するような描写」とはキャラのお色気描写のこと。「それは性的表現で搾取ではない」という反論は意味が通るが、搾取的というのは作者・読者とキャラのメタな関係(作者が読者媚びてキャラを見せ物にする状況)を指す比喩表現。
記事は「搾取」という言葉を文字通りの人権侵害として重く扱い、比喩使用を「誇張・不適当」と否定。一方、なんば氏は「比喩的なメタ状況(作者と読者の関係性)を指している」と再解釈し、記事の「物言いがズレている」と指摘。
女性キャラの必然性のないお色気描写がお約束的に描かれることは、現実の女性搾取に対する肯定的イメージを助長する懸念がある。だから作者が「与したくない」という立場は理解可能。
強い対立。記事は「フィクションが現実搾取を助長する主張は因果混同」と切り捨てるが、なんば氏は「肯定的イメージを助長する懸念は現実的で、作者の避ける理由として理解できる」と肯定的に評価。記事の「ダブルスタンダード批判」に対し、なんば氏は作者の「社会配慮」を擁護している。
記事の核心:BL漫画家の声明は「性的搾取」という言葉を文字通り誤用しており、腐女子としての自己矛盾(BL消費のダブルスタンダード)を露呈した、という用語批判・文化批判。
なんばりょうすけ氏の核心:BL作者の意図は比喩的・社会的配慮(現実犯罪への不謹慎さ、現実女性搾取イメージへの影響、メタな作者-読者関係)として理解可能。
表現そのものを擁護するより、作者の「避けたい理由」に共感を示す。
根本的なズレ:
記事は「言葉の正確性」と「BL文化の欺瞞」を重視するのに対し
なんば氏は「作者の意図の多義性」と「現実社会への影響懸念」を重視。
記事が「誤用!」と断罪する部分を、なんば氏は「比喩として妥当」「理解可能」と再文脈化しているため、記事を読んで「意味わからん」と感じたと率直に述べてます
以下のように「3タテとは本来3連敗のことであり、3連勝の意味で使うのは誤用だ」と主張されることがある。
「3タテ」の正しい使い方でプロ野球ファンの間で議論沸騰 / X
そもそもが俗語で、発祥も不明なのに、いったい誰が「原義」を確かめたのだろう。
「3連敗」説の傍証として提示されるのは、「もともと『3タテを食らう』という形で使われることが多かった」ということだが、考えてみればこれは根拠になっていない。
たとえば英語で「同一カード3連勝」を意味する「スイープ」だって、「スイープを食らう」と言えば「同一カードで3連敗した」という意味になる。
「3連敗する」という意味で「3タテを食らう」が使われていたとしても、それだけでは「3タテ」が「3連勝」の意味である可能性をまったく否定できない。
調べられるかぎり「3タテ」の最も古い記述は、1935年『三田文学』の和木清三郎「わがスキイ」の記述だった。
スニペットしか見られないので文脈がわからないが、これは「三連勝」の意味のようにも思える。原文を確認したいところである。
1936年『あみ・ど・ぱり』誌に掲載された、石黒敬七のコラムには、ビリヤードの文脈で出てきている。
おまけにタイガースは春は優勝したチームだつたけど、秋はシーズン当初の不成績が祟つて、二位に落ちるチームだし、それに一度も勝てずに四タテを喰つたんぢや、チーム経営者の方から苦情の出るのは当り前ぢやないか。
「3タテを食う/食わす」ではなく「3タテする」という形での用例も戦後には見られるようになる。
1957年『ベースボール・マガジン』。「広岡」とは広岡達朗のこと。
広岡 おもしろいゲームをしようとは思わなかったけれども、四タテとは誰も思っていない。なにか四タテするんじゃないかぐらい思ったけれどもね。
これは巨人の選手だった広岡が、日本シリーズで「西鉄に四連敗した」ことを言っている可能性もあるか。
開幕当初の調子がよかったころでも、4連勝目になると弱いチームにも奇妙にストップされる。第9節に大阪で南海を三タテしたときも東映でストップ
かの鶴岡御大が1962年に出版した『南海ホークスとともに』という本にもあった。
プロ野球黎明期から「3連勝する」の意味で「3タテする」という言葉が使われていたと言っていいようである。
さらに重要な記述として、1961年の楳垣実『続語源随筆 江戸のかたきを長崎で』のなかに「3タテ」の語源に関する言及がある。
たて この語については、福原麟太郎先生からおたずねにあずかった。「ヂャイアンツは広島に三タテをくった」などと使う「たて」である。野球のことなどに詳しい方に聞いてみたが、よくは分からなかった。大阪で老人などが、碁とか将棋とかで、「二タテやった」「三タテやった」という使い方の「タテ」という語を、「二回続けての勝ち」「三回連続の勝ち」という意味で使ったことがあると、長沖一さんから教えていただいた。まったく見当はつかないが、その大阪ことばと関係があるのかもしれない。そしてまた「立てつづけ」という語とも関係があるのかもしれない。しかし「三回立てつづけの勝」が「三たて」と略され得るかどうか、疑わしい。
これにより、1961年時点で語源がわからなくなっていたこと、もとは囲碁将棋用語の可能性があること、「3タテ」が「3連勝」の意味だった可能性があること、「3タテは連敗の意味のはずだ」という疑問は持たれていなかったこと、などがわかる。
以上からすると、「3タテは3連勝のことだ」とまでは決められないものの、少なくとも「3タテは3連敗のことだ」と言い切ることは難しいのではなかろうか。
ムカつく絵文字一選
その絵文字から漂う「私が当然に正しいという前提があり、その常識人たる私から見るとその光景はどう考えてもおかしくて、流石に笑ってしまう」という雰囲気
それがこれ→ 😅
いやそれおかしいだろ😅
↑
ほらもうむかつくよね
ここまでお読みくださりありがとうございました。
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マジキモいよな😅
こんなふうに最後に自分が使うというオチはありません。絶対に使いたくない絵文字です
冷笑と似て、自らの喜怒哀楽の大切な一要素である怒という感情から目を背けて自分の気持ちに嘘を付き他人にも「怒ってない」と嘘を付く最低の行為です
また氷は炎の前にはただドロドロと溶けるだけであり最終的にはビチャビチャな水笑にかわります
ビチャビチャでも笑えるかな?
氷が解ける 氷が溶ける
前者のほうが正しい気がするが後者でも成立するのだろうか
ありそう
みんなはどっちだとおもう?
コメントでぜひ教えてね
タイトル通り最近ようやく見たので感想というか思う所をつらつら書こうと思ったわけである。
ネタバレはあると思うので、偏見無しに見たい方は先に見てきてください。
直球で言ってしまうと、
ライブありアクションありでと観客を楽しませよう、飽きずに見せようという
ただ見ていてずっと「この作品で感動していいのだろうか?」と思っていた。
何というか映画を見ているというよりは、リアリティーショーを見ているといった感じなのだ。
映画を見ているとき、主人公と違う属性であってもどこか自分を見ることがある。
それは悩みだったり、憤りだったり共感や羞恥的なものかもしれない。
本作の主人公彩華(いろは)は最初まるで一般的なヒロインのように演出される。
勉強もバイトも頑張っていて、でも周囲には仮面をかぶって優等生。仮面がはがれるヤチヨへの推し活が生きがい。
しかし内容は違う。
高校生なのに学費と生活費(しかも東京に一人暮らし!)をバイトで稼いで。
学業は東大を狙えるぐらいトップ。その後も色々超人設定画出てくるのだが・…。
何というか等身大の女の子かと思ったら、ドンドン離れていくのだ。
まるでリアリティショーに出てくる自称一般人を見ているようである。
でもそれは彩華自身が超人なのでドンドン解決される。人脈もすごい。
何というか観客は壁なのだ、いろPの家にある壁。
そこでかぐやと彩華の日常だったり、努力しているさまを摂取する。
壁なので自己は介入しない、推しと推しの尊さ空間を安全圏からひっそり楽しむ。
その楽しみ自体は否定しない、最近は一般的な楽しみ方だと思う。
本作はそういった楽しみを考慮して作られていると筆者は思っている。
もしかすると製作者はみんな努力すれば東大に行けて、すごい人脈を持っていることに気づいていない。と、思っているのかもしれない。
そうか?いや無理だろ?
昔別件だがSNSでフォローしている方が怒っていたことを思い出す
「成功できない人間を落伍者とし、競争と脅迫感に耐えられた一握りの人間だけを社会が選別する
その結果落ちていった者へのフォローはない」
(本文を貼っていいのか分からないので要約しつつ多少変更を加えています)
本作はなんというか「その一握りの人間」の話だ。
その構図が筆者にはグロかった
本作は面白いくてキラキラで尊い。でもその皮の下にイロPになれなかった彩華が沈んでいる。
本作は申し訳ないが後続が続かないことを祈る。
J.L. オースティンは、従来の哲学者が陥っていた「言葉の役割は事実を記述すること(真偽を判定すること)だけである」という「記述的誤謬」を批判し、言葉が世界に働きかける「行為」としての側面を明らかにしました。
・事実確認的発話: 事態を記述し、報告し、事実を述べる発話。真か偽のいずれかとして判定されます。
・遂行的発話: 何かを行うこと自体が、その言葉を述べること、あるいはその一部となっている発話。これは「記述」ではないため、真偽を問うことはできません。
遂行的発話の例:
・賭けの際の「明日は雨が降ることに100円賭ける」
これらの例では、言葉を発することによって「結婚」「命名」「譲渡」「賭け」という行為が成立しており、単に自分がそうしていることを報告しているわけではありません。
遂行的発話は「真偽」では判定できませんが、代わりにそれが適切に成功したか、あるいは失敗したかという「適切」か「不適切」かの基準で評価されます。オースティンは、遂行的発話が適切に機能するための6つの規則を提示しました。
特定の慣習的効果を持つ手続きが存在し、それが言葉の受諾や特定の状況・人物を含むものでなければならない。
b. 適切な対象と状況:
その手続きを用いる人物や状況が、呼び出された手続きにとって適切でなければならない
c. 正確な遂行:
d. 完全な遂行:
e. 誠実性の要件:
手続きが特定の思考や感情を前提とする場合、参加者は実際にそれを持っていなければならず、その後の行動もそれに従う意図がなければならない
f. 事後の振る舞い:
実際にその後の行動において適切に振る舞わなければならない
行為そのものが成立せず、無効となります。例えば、既婚者が結婚の誓いをしたり、権限のない人が船に命名したりする場合(”安倍晋三”というはてなのコメント)です。
行為は一応成立するものの、中身が伴わず「虚偽」や「空虚」なものとなります。例えば、守る気のない約束をする場合(不誠実)(「俺のいうことを聞けば、46を卒業できるよ」)などです。
重要な発見は、事実確認的発話も「不適切」になり得るという点です。
例えば、「フランス国王は禿げている」という文は、フランスに国王がいない場合には「前提」の欠如により適切に機能しません。これは遂行的発話における「不発」に似ています。また、事実確認的な「言明」も、話し手がそれを信じていなければ「濫用(不誠実)」の一種とみなせます。存在しないフランス王を禿げだと言っても中傷したことにはならない、と主張する人がいますが、フランス王はだれかのシンボルかもしれません。
このように、真偽を扱うはずの言明にも「適切さ」の問題がつきまとい、遂行的発話の中にも「事実との照合」が必要なケース(例:警告が事実に基づいているか)があることが明らかになり、最初の二分法は維持できなくなります。
「言うことにおいて」行われる行為。その発話がどのような「勢い(force)」を持つかを指します。質問する、約束する、命令する、警告するなどがこれに当たります。
「言うことによって」もたらされる効果や結果。説得する、驚かせる、怖がらせる、感銘を与えるなど、聞き手に生じる心理的・行動的変化を指します。
発話の手続き自体は成立しているものの、話し手が適切な思想、感情、あるいは意図を欠いている状態を指します。
⭐️手続きは行われるため、行為(例えば「約束」)は一応成立しますが、その中身が伴わないため「空虚」なものとなります。
「心の中ではそう思っていなかった(私の舌は誓ったが、心は誓っていない)」という『ヒッポリュトス』の例では、これが道徳的な不謹慎さを招くことを指摘できます。また、誠実さを欠いた「言明」は、一種の嘘に近いものとして機能します。
政治家が、自分にその権限がないことを知りながら、あるいは適切な状況ではない中で特定の行為を行おうとする場合、これは「誤用」に分類されます。
⭐️ 適切な人物や状況が欠けているため、その行為は「無効」となります。
・政治的例: 権限のない官僚や政治家による「任命」や「宣言」。例えば、正式な手続きを経ていないのに「私はあなたを任命する」と述べることで、既成事実化を狙うなどの手法です。
特定の言葉が「遂行的(行為)」なのか「事実確認的(記述)」なのかが曖昧な事例。
⭐️ 発話が記述なのか警告なのか、あるいは単なる意図の表明なのかを意図的に不明確にすることで、後で批判された際に「単なる予測(記述)だった」と言い逃れる道を残します。
・政治的例:
○「野原に雄牛がいるぞ」という発話は、単なる景色の描写(記述)とも、避難を促す「警告(行為)」とも取れます。
○ 政治的な場面で「私はそこにいるだろう」と述べる場合、それが「約束」なのか、単なる「予定の予測」なのかを曖昧にすることで、行かなかった際の発言責任を回避できます。
発話が、劇中や詩の中、あるいは「真剣ではない」状況でなされる場合、それは通常の言語使用から外れた「寄生的な」ものとみなされます。
⭐️ 政治においては「冗談だった」「誇張だった」という防衛線として利用されます。
・政治的例: 物議を醸す発言をした後で「あれは比喩(詩的表現)だった」あるいは「ジョークだった」と主張すること。これは言語の通常の使用を一時的に停止させ、行為としての責任を無効化しようとする不適切さの利用です。
このように、政治的発話では「真偽」よりも、発話が持つ「発話内的な力(Illocutionary force)」をいかに有利に制御するかが重要視されます。
英語圏で ''Mochi'' という語がかなり餅アイス寄りの意味で使われています。
焼き餅、雑煮、大福の皮、和菓子の材料。そういう広い食文化の語です。
日本では、餅アイスのことを単に「餅」と言うことはまずありません。
ところが英語圏では、''mochi'' という語から「小さくて丸い甘いデザート」、とくに餅アイスを連想する人がかなり多いように見えます。
これは単に人気商品が広まったというだけではなく、
本来は上位概念である「餅」という語が、その一種である餅アイスに食われている、ということです。
''the original Mochi Ice Cream creator and company''
と表現していることです。
少なくとも公開されている時系列だけ見れば、日本側のほうが先です。
しかもMikawaya側で流通している話では、1984年に日本で「餅にアイスを入れたらどうか」と着想したことになっています。
だとすると、雪見だいふくの発売後です。
もちろん、公開情報だけで「見て真似した」とまでは断定できません。
ロッテを見学したとか、説明を受けたとか、技術提供を受けたという証拠は確認できませんでした。
それでも、
「先に日本で存在していたのに、後から自分たちを元祖のように語る」
のはかなり不誠実に見えます。
ここでよくあるのが、
という話です。
たしかに特許は国ごとの権利なので、日本で守られていても海外では止められないことがあります。
でも、ここで問いたいのは法的な白黒だけではありません。
この問題をさらに悪くしたのが、Netflix の ''Waffles + Mochi'' だと思います。
この番組の Mochi は、ただの「日本の餅」ではありません。
ピンクで丸い小さなキャラクターで、しかも ''Land of Frozen Food'' の住人です。
どう見ても、伝統的な餅そのものというより、冷凍デザート寄りです。
しかもこれは、Michelle Obama が前面に出た子ども向け教育番組で、Netflix で多言語配信されました。
という雑な理解を、
つきで補強してしまったわけです。
この件で本当に嫌なのは、
ことだけではありません。
むしろ多くの人は、
くらいまでは思っているはずです。
でもその具体像が、
に縮んでしまっている。
つまり、
中身はだいぶ別物になっている。
この問題は、単にお菓子が海外で売れたという話ではありません。
要するに、
''Mochi'' という日本語の上位概念が、後発の商品物語と商業イメージによって細く書き換えられてしまった、
ということです。
「痛さも、個性だ。」
そんな“さまざまに痛いおじさん”46人で構成される新感覚アイドルグループ――
おぢ坂46が、ついに動き出します。
■ 応募資格
・どこかしら「痛い」と言われたことがある方
(例:武勇伝を語りがち、若者言葉を誤用する、ポエムを書いてしまう 等)
・夢をまだ諦めきれない方
・週末の予定がだいたい空いている方
✳️爺はお断りします
■ 活動内容
・SNSでの発信(時々スベる)
■ 待遇
■ 応募方法
履歴書(手書き歓迎)と「自分の痛さが伝わるエピソード」を添えてご応募ください。
動画審査では、渾身の自己PRまたは黒歴史再現を披露していただきます。
■ 締切
“まだいける”と思っているうちに。
■ 最後に
遅すぎるスタートなんてありません。
それでも輝きたいあなたへ。
たくさんのご応募、お待ちしております。
2行で要約
SFWと詐称するな
ガイドラインは守れ
以下お気持ち
一部が金さえ、あるいは数字さえ、酷いとただの承認欲求や認知を稼げればそれでいいような
NSFW(Not Safe For Work)
例えば全身黒ピチスーツの乳首が浮いてるような絵、水着姿や下着姿、露出は少なくても谷間や太ももが強調された絵など。
上司同僚守衛の方、清掃の方、営業先etc...に一般的な価値観で見せた時問題があるという時に使う言葉。
AIを批判する意図はこの文にはないのだが、少なくともNSFWをよく知らないAIの方の誤用から生まれた「おまじない」である。
こんな「見ても大丈夫」なんて定義を勝手に行う奴らがずいぶん多い、R-15程度なら余裕である内容で。
そういったおまじないの流行はプロフに他国の事件や政治的なワードを入れてるリテラシーの人が今だにいるほどなので言葉の意味や背景くらいは考えた方がいい。
他にもガイドラインを守らない奴の多さ。
例えば
②グッズを出してはいけない。
とか……。
①はまあ、あの走ってる奴で多くの人が論じたし、性行為してるやつも大便させてるやつも金もらってるし大して燃えなかったから多く語らないとして。
②は過去に頒布中止かけられたり、最近もちょっと話題になってたな。自由じゃないとかなんとか言われてたけどこれには更に「自己解釈をするな」って新手の釘が刺してあって最高だった。
「画像やイラスト」を使わず「非公式の用語」でまとめてるからセーフとか
そんなのばかりである。
どんな釘を刺されてもむしろ許可すると明言される場所がまた重要であり
それらを守れば作っても良いと明確なホワイトゾーンがあることがとてもありがたいことだ。
にも関わらずいっときの得のためにグレーゾーンを踏み荒らす奴らが多すぎる。
まあどうせ、こんなことを書いても転売ヤーや漫画村を読んでいる層と同じなので行動を是正する事はないだろう。
正直者が作ったフィールドを荒らすだけ荒らして消えていく、長い目で見れば蝗害と化すかもしれない。
ALTとはAlternative text(代替テキスト)のことで、目の不自由な人や画像を見れる環境にない人に向けて、画像の描画内容をテキストで補足説明することだ。
Xを筆頭に画像を添付できるSNSには概ねALTの付与機能が備わっていて、投稿者自らテキストを入力できるようになっている。
このALTは、一般的な投稿よりも多くの文字数を入力できることから、しばしば自己紹介や日記、お気持ちなんかを入れて投稿されることが多い。画像の説明なんて一切なく、なんなら黒一色の単色画像なことすらある。
それに対して、真にALTを必要としている当事者やその理解者からの批判が上がり、長文スペースとしている側からは開き直り・逆ギレ・冷笑で返し、平行線の言い合いが続く……と言う流れを、数ヶ月おきのスパンでそっくりそのまま繰り返している。初デートにサイゼ論争や4℃のネックレス論争と同じ間隔だ。
「何もわからない中突然センシティブな赤裸々日記が飛び出してくる身にもなってくれ」
それぞれ、相手の人格否定を含む罵詈雑言なども大いに飛び交っている。
ALT誤用側の主張に対する突っ込みは明白かつ今更すぎるのでここでは割愛する。
批判側の「ALTを点字ブロックにミラーリングして語る」ことは、誤用側にとってはいまいちピンときていないような気がする。
晴眼者にとっては点字ブロックが敷かれている場所と範囲なんて普段の通勤通学路でもうろ覚えだし、「やっりい〜!ここ点字ブロックあるじゃん!遊ぼうぜ〜!」とはまずならない。わざわざ点字ブロックを使う理由がない。
いつだったか、外国語話者の話す内容に対しての和訳字幕が本人の話している内容とニュアンスが真逆だったと炎上したニュースがあった。それは外国語に造詣があるからこそ気付いた人がいたけれど、全く聞き取れない層にとっては聞こえないに等しい。頼りになるのは翻訳された字幕だけで、それが嘘を言っていたり全く関係のないことを言っていたら、それが嘘であることに気付く術はない。時間をかけて音声翻訳をかければ気付けるかもしれないが、これが地震や火事なんかの一刻を争う場だったら?
それと同じような条件が、視覚障害者には常に付き纏っているのではないだろうか。
これは個人的偏見に伴う意見だが、ALT誤用界隈は推し活アカウントや奇形愚痴アカウントの10代が多いように思う。
彼ら彼女らが夢中になっている活動者やインフルエンサー側から率先してALTの用途について発信してもらえれば一定の効果が出そうなものだが、実際はその活動者やインフルエンサーが率先して自撮り写真に今日のイベントに来てくれたオタクへの感謝のお手紙をALTにしたためているので、コンプライアンスなんてものはもうこの令和の世に期待しないほうがいいのかもしれない。
・先日読んだメタ倫理学の本をあとで読み返す、なんか対比させてもよさそうな関連する論点があったような
・刑法において、心神喪失とか、それに類するものとして罰しない(あるいは減じる)判断を行う解釈もありえるのでは
・しかしあまりそういう話は聞かない、論理の建付に無理があるのだろうか
・だって、自分の意思で「過失しないように気を付ける」能力が弱いのだから
・その瞬間に気を付けることができないとしても「自身はうっかりすることが多いからそもそもそれを行わないようにしよう(例えば「車の運転を気を付けてする」でなく「最初から車の運転をしない」のように)という種類の意思の働かせ方は出来るのでは
・あるいはそれすらもうっかり屋さんは失念しうるのでは?つまり「気を付けることを"うっかり"忘れる」
・ADHDとされる人の発言で「私のやらかすことは天災のようなものだと諦めてほしい」のようなものがあった、ここから着想
・天災に責任は問えない(「責任」とは?悪いと責めうることか、賠償せよと言えることか、さっさと先に責任の定義確認せよ!)
・鬼舞辻無惨の話は関係ない
・軽く資料にあたった感じだと「責任能力なし」判定のハードルはとっても高そうだ
【やること】参考文献を探す、検索キーワードの選定
・まだ『法哲学入門』積んだままなの?さっさと読めばいいのに
・結論を急がないこと
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・「私は不注意な人です」ではふつう免責されない
・広く認めると「私は不注意だから責任はありません」が頻出するから
・ナイーブに
・(私はナイーブを「理念や原理の整合性を“繊細に”気にしてしまう態度」という意味で使っているようだ)
・誤用だが……
・私の素朴な市民感覚だと二重規範的に見えるような見えないような
・じゃあその乖離、ズレが具体的にどのようなものか、ズレが生まれることをどのように言い訳しているか調べましょうね、それこそが今やる事
・「言い訳」という言葉選びな……おそらく自分は理念の話が好きなのだね、お花畑
・「こういうケースのうっかり事例では当然重過失で罪に問われるよ/責任を問われるよ」という回答はもはや今になってはズレてしまっている
・スタート地点の問いは私の本当の関心ではなかった、ということはよくある
本来の意味は「傾向に乗って、ある事柄の勢いを増すような行為をすること」だが……
誤用されるときは「傾向に逆らって、ある事柄の勢いを失わせるような行為をすること」のような意味になるようだ
「流れに棹(さお)さす」などの慣用句が、本来とは異なる意味で使われるのはなぜですか - ことばの疑問 - ことば研究館 | 国立国語研究所
この言葉を聞くと、大きな川を思い浮かべる
河口付近の広くゆるやかな流れ
流れに抵抗してみるが、人ひとりの手で川の勢いを減じるなんてことは土台無理な話で
……のような情景
「棹をさす」は「流れに沿って舟を進める行為」という意味だから、「棹のような板切れを水面に差し込む」をイメージするのは間違いでしかないのだけれど
「水を差す」とか「流れに逆らう」だとちょっと違うんだよな
しかし、この「あまりに大多数で主流の傾向に逆らい、ある事柄の勢いを弱めようとする行為(徒労に終わるとわかっていても)」というのは、私だけがイメージしている独自定義
他人にこのイメージを共有してもらうつもりでこの言葉を使うことはできない
でも自分の脳内だけで「ああ、今自分は流れに棹さしているな(誤用)」と圧縮言語的に使えるのが便利という話はある
逆張りの是非の話はしていない
以前からこの手のニュースでは見かけておりほんのり違和感を覚えていたのだけど、今回乱用されているのを見てイラっとしてきた
寄り添うってなんだよ、相手の気持ち無視かよ、相手が「寄ってくんなボケ」かもしれない可能性は考慮しないの?
そもそもなぜ俺がこの言葉にイラッとするのか、セルフ考察してみたのだが、
まず第一点が語感が嫌
語義は「相手の立場や心情に共感し、気持ちを理解しようと努め、心理的な距離を近づけること」であるが
寄って、添う、わけで「心理的な距離を近づけること」であってるわけだが
見ず知らずの性犯罪被害者と心理的な距離を近づけるの?近づけたいの?添うの?普通に迷惑だろ
日本語、言葉としての間違い、誤用、過剰表現としか思えないのである
書き手はなんの意識もなく慣用句的に「被害者に寄り添う」と書いているのだろう、言葉が軽い
「被害者に慮る」ならまだわかる。
が、寄り添うだと、落ち込んでるんだから見舞って話でも聞いてやんなさい、のニュアンスなわけ
書き手がそういう意図ではないのはわかるが、言葉の定義だとそうなる、普通に考えて大きなお世話だろう
どんな形であっても事件に言及すれば二次被害を誘発しかねないわけで、その誹りを回避するため
そういう意図がミエミエでお下劣なのである。時事ネタで稼ぎたいだけだろうが、クソな言い訳してんじゃねぇよ。
「誰それのコメントは被害者に寄り添ってない」的な指摘をみかける
それ以外の議論は許さない、なんにせよまずは「被害者にはお悔やみ」的なワードを入れろ、感情表明の強要
うぜぇぇぇぇぇ
現代のこの手の非生産的で非合理な様式美には、常々イラッとする
【追記】
いろんなコメントをもらったお陰で俺の違和感の中で言語化できてない領域に気づいた。ありがとう
「被害者の痛みを共有し加害者を糾弾すべし」までを含ませている連中への嫌悪感
つまり、
「犯罪の事実は確定している、当然被害者は苦しんでる、その救いの為ならどのような形でも加害者を攻撃してもよい、被害者もそれを望んでおり、ともに戦わないやつは逃げている、被害者の痛みを理解できない冷徹な非人間である、加害者側の人間だ、この攻撃に批判的な人間も同罪である、被害者に寄り添え」
ここまで理論が突っ走ってる連中への呆れ
解釈裁量を自分に大きく残しつつ万が一の時に言い逃れできる保険、連中は「配慮」を使わない
情報発信そのものが二次被害になったとき「配慮不足」と誹られる
お気づきだろうが俺がこのワードに強い違和感を覚えた発端は弓月森川草津炎上である
バッシング連中の言い分は「犯罪は確定してる、被害者は苦しんでる、だからネットリンチを楽しんでるのに水をさすな」
そもそも男性全体が女性全体と同程度に清潔にしていたら、「清潔感≠清潔さ」という前提は言語化するまでもなく、そこから「清潔感とは身だしなみを整える余裕や習慣、社会性」といった話に進めやすかった
ところが男性には不潔すぎる個体がそれなりの割合で存在するために、「清潔感=清潔さ」なのか?となり、やれ風呂に入れ・服や鞄を洗濯しろ・古い衣服は捨てろといった、清潔感以前の、大前提となる話から説明しなければならなかった
そして、女性の中には引くほど不潔な個体の割合は少ない(か、一定数いても社会に出てこないので可視化されにくい)ため、不潔な存在と清潔な存在を前提として切り分けて語るのが難しかった。
よっぽど想像力をはたらかせない限り、自分の属性に殆どないものをありありと実感するのは難しい
男性に恋愛以前の不潔個体が多すぎること、そしてそいつらも当たり前のように「俺たち恋愛できますよね」と恋愛市場の話に割り込んできたこと、そのせいで「清潔感」の「清潔」の部分だけが取り沙汰されて語られるようになったこと
自分はしがない底辺エンジニアだが、ずっと疑問に思っていたことがある。
SIerの仕事の進め方をはたから見ていると、そこにいる人たちは驚くほど優秀で、地頭も良く、調整能力も高い人ばかりだ。なのに、彼らが心血を注いで作り上げたシステムは、驚くほど使い勝手が悪かったり、リリースした瞬間から負債になっていたりする。
「なぜこれほど優秀な人たちが集まって、価値のないシステムを量産しているのか?」
その違和感が拭えず、AIと対話しながら自分の考えを整理してみた。これは、ある底辺エンジニアが、日本のIT産業を覆う巨大な「構造的欠陥」について思索した結果の駄文である。
ソフトウェア開発の本質的な特性は、建築や製造業のような「設計(図面作成)」と「施工(組み立て)」の物理的分離が論理的に不可能であるという点にある。ソフトウェア工学の観点に立てば、コンピュータが解釈可能な厳密な意味での「詳細設計」とはソースコードを記述する行為そのものであり、それ以降のコンパイルやデプロイといったプロセスは、人間が介在しない自動実行(ビルド)に過ぎない。
しかし、日本のSIerビジネスは、1970年代の土木・建築モデルを安易に転用し、管理の便宜上「思考(設計)」と「作業(実装)」が明確に分離可能であるという誤った前提に立ち、それらを異なる主体や階層に割り当てる構造を選択した。この無理な分断は、実装段階で初めて露呈する設計上の矛盾や技術的制約を、設計工程へ即座に還流させるフィードバックループを契約上・工程上の「手戻り」として著しく阻害している。
その結果、実機の挙動を知らない設計者が机上の空論を書き連ね、設計の背景思想を共有されない実装者が矛盾を抱えたままコードを書くという情報の劣化が常態化した。現場では本質的な解決ではなく、納期と検収を優先した対症療法的なパッチワークが繰り返され、これが日本の基幹システムを柔軟性のない、巨大で保守不能な負債の塊へと変貌させる根本原因となっている。
システムはビジネス戦略を具現化するための装置であり、その真の成否は「仕様書通りに動くか」ではなく「事業の利益創出や競争力向上に寄与したか」という実利的な成果によってのみ判定されるべきものである。しかし、請負契約を基本とするSIerモデルは「システムの構築(プロセス)」と「ビジネスの成果(結果)」を完全に切り離し、構築のみを外部に切り出す形式をとったことで、本来一致すべき両者の利害を根本から対立させてしまった。
受託側であるSIerの収益は、顧客が仕様との形式的な適合を認める「検収」の瞬間に確定する。納品後のシステムが実際に現場で活用され、事業に貢献するか否かは彼らの報酬に一切影響しない。むしろ、設計の不備や使い勝手の悪さが運用開始後に露呈し、頻繁な改修が必要になるほど、SIerにとっては追加案件としての売上が発生するという、顧客の不利益が受託側の利益に直結する「利害の逆転」が構造的に組み込まれている。
このように、価値創出に対する最終的な責任を負わない外部組織が、ビジネスの心臓部であるロジックの設計・実装を担う構造は、経営学的に見ても極めて不合理である。企業がIT投資を通じて得るべきリターンを、実効性の低い「納品物」という形式的な実体にすり替えるこの仕組みは、日本企業を構造的な無能化へと追い込む装置として機能してきた。
日本は物理資源を海外に依存せざるを得ない宿命的な制約を抱えており、原材料の輸入や物理的な輸送コストを必要とせず「知的能力」のみを付加価値の源泉とするソフトウェア産業は、本来、最も生存戦略に合致した国家の基盤業種となるべきであった。しかし、インターネットの普及により世界の経済構造がソフトウェア中心へと激変したこの30年間、日本のSIerという業態は「人月単価」という前世紀的な労働集約型モデルを墨守し、日本が持つ唯一の資源である「優秀な人間」を著しく毀損し続けた。
本来であれば、高度な実装能力を通じて世界をリードする価値を創造すべき最優秀層のエンジニアたちが、多重下請け構造という巨大なピラミッドの中で「進捗監視」や「証跡作成」「利害関係者の調整」といった、直接的な価値を産まない非生産的な管理業務に長期間拘束されている。この構造下では、個人の卓越した技術力よりも「代替可能な工数」としての管理しやすさが優先され、エンジニアが技術の限界に挑み、それをビジネス価値に直結させるという最も重要な学習機会が社会全体から剥奪されてしまった。
世界が「ソフトウェア・イズ・イータリング・ザ・ワールド」を掲げ、爆発的なスピードで破壊的イノベーションを遂げたこの30年間、日本は世界に誇るべき緻密な知性を、SIerという枠組みの中で付加価値の低い事務作業や調整業務へと浪費させてきた。これこそが、かつての製造業のような輝きをIT分野で放つことができなかった日本の「知の敗戦」の正体であり、デジタル経済圏における日本の国際競争力が著しく低迷し続けている、看過できない構造的要因の一つであると考える。