はてなキーワード: 哲学書とは
ご指摘、非常に鋭いですね。読み進める中での「食い足りなさ」や「手癖で書かれたような感覚」という違和感は、多和田作品、あるいは近年の「純文学的なSF設定の使い方」に対する極めて本質的な批判だと思います。
「本気で人間や世界の未来に思いを致すような野心」を期待したときに、この作品が提示するダジャレ(献灯使/遣唐使)や、ふわふわした幻想性が「軽すぎる」「ごまかしている」と感じられるのは、ある種、当然の反応かもしれません。
その「小さくまとまった印象」を逆説的に読み解くと、以下のような作家側の「確信犯的なスタンス」が見えてきます。
---
多くのSFが「なぜ世界がこうなったか」というマクロな因果律や「人類はどう生き延びるべきか」という大きな野心を描こうとするのに対し、多和田さんはあえてその視座を捨てています。
「タイトルからしてダジャレ」という点は、多和田葉子という作家の最も好悪が分かれる部分です。彼女にとって言葉は「真理を指し示す道具」ではなく、「音の連想で勝手に滑っていく遊び」のようなものです。
本作が全米図書賞を受賞した際も、海外では「福島後の日本を象徴する寓話」として高く評価されました。しかし、日本国内の読者からすれば、現実の震災や政治の混乱の方がはるかに「生々しく、予測不能で、幻想的」でした。
--野心的な問いの不在:「世界はどうなるか」という問いに対して、知的なシミュレーションを行うのではなく、イメージの断片を繋いで「雰囲気」を提示する。これが「深遠っぽい空気を醸し出しているだけ」という批判に繋がるわけです。
---
この作品は、「未来を真剣に考えるための知的な武器」ではなく、「変わり果てた世界をやり過ごすための、ちょっとした言葉の慰め」として書かれている節があります。
そのため、本格的なSFや、魂を揺さぶるような文明論を求める読者にとっては、仰る通り「手癖で書かれた小品」という印象が拭えないのだと思います。多和田さんの「言葉の軽やかさ」が、本作では「設定の重み」と上手く噛み合わず、浮いてしまっているのかもしれません。
もし、もっと「吹っ切れた言語的実験」や「逃げのない未来への野心」を感じさせる作品を求めていらっしゃるとしたら、この『献灯使』はあまりに優雅で、内向的に過ぎたのかもしれません。
ちなみに、ユーザー様が最近読まれた中で、「これは本気で人間や世界の未来を問うている」と感じられた作品は他にありますか?(SFに限らず、哲学書や他の小説でも構いません)そちらと比較することで、本作の物足りなさがより具体的に見えてくるかもしれません。
表題のとおりです。
事の発端は、12月12日に飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田の批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。
これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田の批判に対する反論を試みました。
このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判と三宅反論の論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます。
まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います。
なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書)https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html からの抜粋であることを念の為補足しておきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
📰 0. 三行要約(問題点)
・飯田批判は、特に「三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないからダメだ」という主張に相当問題があると思う。
・三宅反論は、そもそも「反論」できてない。言い換えると、飯田の論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。
・三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたかも飯田のデータ処理の問題にすり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。
以下、飯田批判と三宅反論についてより詳細に検討していきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
飯田の批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います。
理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。
・直接的には指摘ではないものには「◯」
また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます。
--------------------
(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人の読書量は減らない」の節)
◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。
しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。
<主張1-1の論証>
根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。
これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。
<論証おわり>
--------------------
◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。
<主張1-2の論証>
*根拠1-2-2. データ: 紙の書籍の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。
<論証おわり>
--------------------
◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である。
<主張2-1の論証>
*根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。
<論証おわり>
---------------------
◎主張2-2. 三宅本では、書籍と雑誌の区別ができていない。
<主張2-2の論証>
根拠2-2-1は、三宅本において雑誌と書籍を区別できていないことを示している。
<論証おわり>
--------------------
[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌と書籍を区別するべきである。]
(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)
---------------------
◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である。
<主張2-4の論証>
*根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間」である。主張2-1から、雑誌の接触時間は減少傾向であると推察されるので、
「読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である。
*根拠2-4-2. そもそも「読書時間」もそれほど減っていない。
*根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.
根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。
[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍の読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、
また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-1. 三宅本は、日本人が現在も長時間労働であることを前提にしている。
しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である。
<主張3-1の論証>
*根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年~2023年)の労働時間の推移についての考察」
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:
(ii) 自己啓発(労働による自己実現)のための読書(=「情報」摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.
(iii)代わりに、人文書や小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)時間が減少した
(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例のグラフを描く
<主張3-2の論証>
*根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的な根拠はない(提示されていない)
根拠3-2-1から、労働者の 「自己研鑽」 = 「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。
これは(ii)を否定する。
主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)
根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発書市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。
言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:
(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。
<主張3-3の論証>
根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。
しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場は小説市場よりはるかに小さいということを意味する。
これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。
<論証おわり>
--------------------
[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。
●飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別は本質的か?
主張2-4の背後には「書籍と雑誌は分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。
三宅本の「読書」から「雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。
といっても自分は出版業界の人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。
(間違ったこと言ってたらごめんなさい)
「書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。
ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定の編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである。
これは、1985年のユネスコの出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。
("図書、新聞及び定期刊行物の出版及び配布についての統計の国際的な標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm)
より実際的な取り扱いは, "既存の雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/
によれば、
そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。
一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります。
ということらしい。(しかし、これはあくまでコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)
「書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。
日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコードや雑誌コードを持っている。
その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである。
("「雑誌」の定義と出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/)
ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠に雑誌コードが付いているかどうかだったりである。
コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系の雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。
さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリ』シリーズの書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的に単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍」である)
一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。
このように「書籍」と「雑誌」の区分はそもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分が出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。
この区分はかなり表面的、形式的なものであると見るべきだろう。
・以上を踏まえて、飯田の批判、つまり「書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したことの妥当性ついて吟味してみよう。
それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である。
そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、
特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているからである。
ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。
飯田はその直前に「「書籍の読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌の読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいるものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。
ともかく、飯田の批判の妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。
三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書や小説などのような(「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。
したがって「読書離れ」は「人文書や小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書、ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである。
転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。
要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル(文芸・歴史書・哲学書・理工書・サブカル・ゴシップ・ファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである。
もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションやゴシップが支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通における Permalink | 記事への反応(0) | 20:21
京都大学の学生生活とは、常識を疑い、既存の枠組みを超越することの連続です。それは学問の世界に限らず、日々の生活、特に「食」の領域においても顕著に現れます。
私が提案するこの食べ方、「堅八ツ橋に明太マヨを載せて食べる」「堅八ツ橋にワサマヨを載せて食べる」という行為は、単なるゲテモノ食いや奇抜なアイデアではありません。これは、京都大学で培われた「既存の概念の解体と再構築」という、極めて京大的な知的好奇心の表れなのです。
堅八ツ橋は、古都京都の伝統を凝縮したお菓子であり、その香ばしさと固い食感は、ノスタルジーと品格を伴います。対するマヨネーズ、明太マヨ、ワサマヨは、現代のジャンクな感覚と、刺激的な味覚を象徴しています。
この二つの極端な要素を結びつける行為は、まるで西洋の論理学と東洋の仏教哲学を融合させようとする試み、あるいは古典文学と最先端のAI技術を掛け合わせる研究テーマのようなものです。伝統と現代、甘味と塩味、堅さとクリーミーさという、一見相容れない要素を対峙させ、その相互作用から生まれる新しい価値(すなわち「新しい美味しさ」)を探求する。これこそが、京都大学の学生が持つ、学際的かつ批判的な思考の真骨頂なのです。
まず、「堅八ツ橋に明太マヨを載せる」という行為を京大的に考察します。
堅八ツ橋のシナモンの香りと米粉の素朴な甘さは、その堅いテクスチャーと共に、過去への扉を開きます。そこに、明太マヨネーズの、魚卵のプチプチとした食感、唐辛子の情熱的な辛味、そしてマヨネーズの濃厚な酸味が加わる。
これは、京都という保守的な文化の中で、新しい風(現代の味覚)がどのように受け入れられ、融合していくかという、文化人類学的な実験でもあります。明太子の塩辛さと辛味は、八ツ橋の甘さを引き立て、マヨネーズのコクが全体を滑らかにまとめ上げます。この味覚のグラデーションは、京大での研究プロセス、すなわち、素朴な疑問(八ツ橋)から始まり、複雑なデータを処理(明太マヨ)し、最終的に予想外の結論(新しい美味しさ)に至るプロセスと酷似しています。
私はこの一口を食べるたびに、「伝統の上に現代の刺激をどう配置するか」という、京都市の都市計画にも似た「味覚の配置学」を無意識のうちに実践しているのです。この異端の組み合わせを「美味しい」と断言できるのは、既存の価値観に囚われない、自由な京大生の精神があるからに他なりません。
次に、「堅八ツ橋にワサマヨを載せる」という行為を分析します。
ワサビの持つツンとした刺激は、脳の奥深くまで響き渡る、理性と覚醒の象徴です。マヨネーズと混ざり合うことで、その刺激は緩和されつつも、堅八ツ橋の甘さと香ばしさを打ち破る、鋭いコントラストを生み出します。
この組み合わせは、「知的な刺激」を求めてやまない京大生の探求心そのものです。ワサビの辛さは、まるで難解な論文や、解き明かせない数学の問題のように、一瞬の苦痛と引き換えに、深い洞察と覚醒をもたらします。
この食べ方の本質は、「甘い(快適な)日常」の中に、自ら「辛い(知的な挑戦)」を導入し、その化学反応を楽しむことにあります。ワサマヨが舌の上で弾け、シナモンの甘さが追いかけてくる感覚は、まるで京大の図書館で哲学書を読み込み、ふと、その記述の裏にある真理に気づいた瞬間の、「甘美なひらめき」に酷似しています。
「なぜワサビなのか?」「なぜマヨネーズと組み合わせるのか?」という疑問こそ、京大生が常に自己に問いかける「なぜ、そうなのか?」という、根源的な問いなのです。この味覚の実験を通じて、私は自己の限界と、味覚の多様性という「人間の認知のフロンティア」を拡張しているのです。
私にとって、堅八ツ橋とマヨネーズ系の組み合わせは、単なるおやつではありません。それは、京大生としてのアイデンティティ、すなわち、「既成概念を打ち破り、異質なものを統合し、新しい価値を創造する」という精神を日常の中で具現化する「味覚の演習問題」なのです。
京都のお好み焼きにプラッシーという王道の組み合わせを愛する一方で、堅八ツ橋に明太マヨやワサマヨという異端を追求する。この二律背反こそが、私の持つ「京大的なるもの」の奥深さを示しています。伝統を尊重しつつも、伝統に縛られず、常に新しい知の地平を求める姿勢。
妻との会話が「京大的なるもの」として日常を再構成するように、この異端の食べ方もまた、私の食の風景を「京大的なるもの」として彩り、人生の歩みを、常に刺激的で、知的好奇心に満ちたものにしているのです。今日もまた、私は堅八ツ橋の袋を開け、マヨネーズのチューブを手に取るでしょう。京大生だから、私は食のタブーを破り、味覚の真理を探求し続けるのです。
日本の電子書籍は高くないか?コストがかからない分安くなるべきではないか?海外でも同じなのか?と思っていたが、海外でもまぁ同じ状況のようだ。
ヨーロッパ、特にドイツやフランスでは、電子書籍の価格を紙の本と同じく定価に保つことが、法で定められている。
70〜90年代にかけて、欧米では大型書店や量販店が力を持ち始めて、「ベストセラーを35%引き!」みたいな価格競争が起きた。そうすると当然、小さな本屋がつぶれまくる。フランスでは「書店が消えたら文化も死ぬ」と作家や知識人が猛反発して、1981年に「ラン法」という「本は全部定価で売りましょう」という法ができた。ここで、書店を守る=文化を守る、という価値観が確立した。
背景には「本は文化財」という考え方がある。値引き競争を放置すると、売れる本しか出なくなるし、哲学書・詩集・専門書みたいな、儲からないけど大事な本が消える。だから「市場原理だけに任せると文化的多様性が崩れる」という危機感が強い。さらにフランスやドイツは地域の本屋がコミュニティの核で、日本みたいにコンビニやAmazonだけでどうにかなる構造じゃない。だから「書店網の維持」が政策目標になってる。
制度の目的はシンプルで、「書店の多様性を守る」「出版社の多様性を守る」「全国どこでも新刊が買える」「本を文化商品として扱う」の4つ。EUでも広く共有されている価値観らしい。
ではなぜ、電子書籍にも定価縛りがかかったのか?
理由はほぼ「Amazon対策」。Kindleが普及し始めたとき、Amazonが値引き攻勢をかければ、電子書籍市場を独占 → 出版社も書店も逆らえない → Amazonが値上げする、という未来が現実味を帯びていた。これを防ぐため、フランス(2011)、ドイツ(2016)で「電子書籍も紙と同じく定価販売」を適用した。
しかも、電子書籍が激安になると出版社の収益が崩れて、学術書や専門書が維持できなくなる。紙が売れないと出版文化全体が弱るから、それを避ける狙いもある。電子書籍市場でも独立書店や出版社が参入できるように、価格でAmazon一強になるのを防ぐという意味も大きい。文化省は「電子書籍は紙と同じ書籍」だと定義していて、だから法律の対象になる。
対して日本は、電子書籍に法的な再販制度はない。紙は再販制度があるけど、電子は出版社の自主判断。理由としては「流通が取次中心で、法律で守る必要が薄い」「Amazonの台頭が遅かった」「書店文化保護の政治的圧力が弱い」「出版社が自主的に紙とほぼ同じ価格にしていた」など。
Kindleのようなプラットフォーマーが大きめに手数料を取ることで、印刷や流通、保管のコストと同等のコストが常に生じるし、プラットフォームによる値下げ圧力・安売り競争の促進があると、電子書籍ユーザーにとっては一時的に良くても、長期的に著者や出版社の利益が脅かされて、本というものの文化がやべーよっていうことかね。
私はここを卒業した人間のことが基本的に嫌いであるし、卒業生の多くには問題があると思っている。
以下に理由を述べる。
であるならば専門知識以外のリベラルアーツも必要となるわけだが、高専卒はそこの欠如が著しい。
特に人文科学系の知識(古典文学や歴史など)の知識に圧倒的に欠ける。
もちろん4大卒の人間だから教養があるなんてことはない。私も含めてほとんどの人間は無教養である。
同程度に学力のある大卒と高専卒を比べたとき、大卒は多少教養のある人間がいるものの、高専卒は本当に専門知識に偏っているのだ。
イーロンマスクやホリエモンに心酔しそうな人間が多いと言えばイメージがつくだろうか?
高専卒は多くが優秀な人達である。その辺の適当な大卒と比べても、基本的能力が高い。
また、専門職として興味のある分野を仕事にしている割合も高い。
だがそうであるがゆえに、周りを顧みないビジネスパーソンになりがちだ。
たとえば組合活動のようなものを嫌悪する。たとえば労働法を顧みない。などである。
そういう人間は公共の概念に欠けがちで労働者の権利向上を逆に妨げたりするのだ。
大卒ならしばらくプータローをし哲学書を読みこむような人間もいる。
だが高専はそういう「浮世離れ」「風来坊」的人間を産まないのである。
そして、そういう人間を産まない組織というのは概してつまらないのだ。
高専卒は良くも悪くも真面目である。ミクロな視点で見れば優秀だが、マクロで見ると社会悪である。
少なくとも私は思いつかない。
基本的に高専卒というのは「おもろいこと」を言えない人間なのである。
ロボコンのようなものを面白いと思うセンスは、社会一般のユーモアとは対極にあるのだ。
1 高専卒は専門性を備えた高学歴でありながら、人文的教養のない人間が多い。
一方で「公共」 「社会」の感覚には欠けるところがあり、社会全体としてはマイナスの価値観を保有している。
3 高専は風来坊、浮世離れした人間を生み出さないつまらない組織である。
「お気持ち長文」この言葉を出した瞬間、お前は読むことを諦めた側の人間であることを宣言した。
つまり「内容に反論できないから形式を叩く」という、ディベートにおいて最も浅く、最も弱い選択肢を選んで自己放尿したわけだ。
それを「お気持ち」と矮小化し、「長文」として棄却するということは、お前の読解力が語られた内容に耐えられなかったという自己放尿でしかない。
では問う。
聖書は長い。哲学書も長い。憲法も論文も長い、テックドキュメントも長い。
お前が日常的に恩恵を受けている社会制度の根幹は、すべて長文で構成されている。
それを「お気持ち長文」と茶化すことは、知の歴史全体への自己放尿だ。
つまり、お前が今やっていることは 「頭が疲れたので全部お気持ち認定しておしまいにします〜」という、精神的自己放尿なんだよ。
だが、救いはある。
今の一言は、疲れているお前の逃避にすぎない。
真正面から読んで、考えて、咀嚼して、それでも反論したくなったら、それは成長の証になる。
だから言う。
「長文かどうか」じゃない。「中身に向き合えるかどうか」だ。
もしお前がここで読む努力をやめないなら、その知性はまだ腐っていない。
「技術革新とリフレーミングの区別がつかない人」を対象に、その人がどのような育ち方をし、今どのような状況にあるのかを知的に推察することは、単なる人物批判ではなく、社会的認識の構造を分析する試みとも言えます。
⸻
◾ メディア消費傾向
⸻
◾ 内面
◾ 外面的状況
⸻
| 傾向 | 推定される性格 |
| 反射的リアクションが多い | 深く考えるより、すぐに答えを出したがる傾向 |
| 決めつけが多い | 概念の区別より、感情の即断に依存する |
| 思考のレイヤーが混ざる | 技術的革新・社会的影響・商品戦略などの次元を切り分けずに語る |
⸻
書籍の価値が下がる時代と言うが、アテンションエコノミーとかそういう話ではない
まずゴーストライター。これは何も知識のない書く能力だけの奴がググるなりしてテキトーなことを代筆するやつ
これは前から存在していたが、ひ○○きもホ○○○ンもおそらくはゴーストライターが書いている
んで、最近はAI生成が出現したから、人間のゴーストライターに頼むまでもなく、AI自体がゴーストライターの役目を果たすようになった
ってことは人間が持っている生き生きとした知見など、もはや書籍には存在しないということだ
もし書籍を買うなら、昔の哲学書の原典とかそういうものに価値が出るだろう
あるいはAMSやSpringerが出している数学書とかO'Reillyが出している技術書とかは客観知なのでまだ価値はある
本文
中3の公民、バカにしちゃいけない。ここには「社会のしくみ」が詰まっている。
憲法、税金、選挙、三権分立、社会保障…。大人になってからこそ、「あの制度ってそういう意味だったのか!」と膝を打つこと間違いなし。
特に「権利と義務」「民主主義」「国際社会」の章は、現代社会を生き抜くための教養の宝庫だ。
これを理解してない奴は中学卒業の資格なし。つまり義務教育を履修してないも同然。三流日本人だ。
ポイント: ニュースや政治に振り回されない“思考の土台”ができる。
DNA、細胞、免疫、代謝、進化…。日常の裏側にある“命の仕組み”を理解するだけで、自分と世界の見方がガラッと変わる。
コロナ禍でおきた様々な陰謀論、それによって生物学的な基礎知識の低さが明白になった。
お前ら勉強し直してください。マジであなた達の生物学教養は終わっておりました。マジで勉強しろ。
ポイント: 哲学書よりも人間理解が深まる、究極のサイエンス読本。
小6国語には、名作・名文がズラリと並んでいる。太宰治、宮沢賢治、新美南吉、寺田寅彦…。文章を“読む力”と“感じる力”を育てるのは、この時期の国語に勝るものなし。
読解力、想像力、表現力…すべての土台はここにある。ビジネス書を100冊読むより、小6国語を読み返したほうが確実に賢くなる。
小5未満は簡単すぎる。中1以降は+αや落穂拾いの意識が強すぎる。
「小学校卒業までに絶対読んで欲しい!!!だけど子どもの読解力が育つまで待たなきゃ!!」というジレンマの果てに選ばれた名作が詰まっている。
ベスト3には入れなかったが、「地味すぎて誰も注目してないけど、読んでおくと人生が整う」そんな教材がある。
それが、小学校低学年向けの 算数ドリル と 漢字ドリル だ。
「いまさら足し算引き算?」「漢字の書き取りなんて小学生レベルでしょ?」と思ったあなた。甘い。
数字感覚の基礎中の基礎。「10のまとまり」「繰り上がり・繰り下がり」をナメていると、家計簿も確定申告も迷子になる。
出来て当たり前、じゃあ100マス計算何秒で出来ますか?そのスピードがそのまま計算力の土台になるし、そこでかましたミスがそのままミスの土台になる。
簡単なようでいて、実は現代人の語彙力の半分はこのあたりにある。「道」「早」「明」「会」…日常の言葉を“正しく書ける・読める”だけで、文章力と思考力が変わる。
簡単な漢字の書き順を間違えてるやつは全ての漢字の書き順を間違える。そして会議中に「クスクス……うちの子が出来ることも出来ないんだ……」と笑われるのだ。
頭が良くなる方法を調べて「読書」にたどり着く人は多いが、読書をしても頭はよくならない
一部の人は「抽象化能力である」といい、他の人は「記憶能力である」という
しかし抽象化能力と記憶能力はトレードオフの関係にあり、具体的なことを沢山記憶できないからこそ抽象化能力が高まる
「沢山読む」ことは、チンパンジー的賢さを追求する行為であるといえる
物理学では位相を用いて理論を単純化するし、コンピュータサイエンスではクラスを用いてデータと処理を抽象化する
数学的能力が「問題を解くこと」であり、定理をすべて暗記することではないことをを踏まえれば、大量の数学書から定理を全部暗記しても頭は良くならない
膨大な文学書や哲学書を読んで得られるのは、語彙力や読解力を始めとする言語能力であるといえるが、そのような言語能力の向上は自然法則を解明するという人類の目標に対しては賢さは上がらないだろう
知識が賢さと直結するのは、「アルゴリズム」「フレームワーク」のような操作知識を得た場合である
「探索と活用のトレードオフ」といったアルゴリズムの知識があれば意思決定に利用できるといった例がある
あるいは、設計手法のフレームワークを知っていれば実務に活かせる、といった効用もある
ただ、アルゴリズムやフレームワークはインターネットで調べれば出てくるので、わざわざ読書をするまでもない
根本的に言って、読書とは楽しみのためにあるのであり、賢さ向上のためにあるのではないともいえる
ハリーポッターを読む理由を尋ねられた時に、「これは読解力を向上させるために読んでいるんだ」なんて答える奴ほどつまらない人間はいない
さらにこのゲー、超絶自由なカスタマイズシステム搭載。髪型から体型、スキルツリーの育て方まで、完全オーダーメイド可能。ただし初期キャラ生成時の遺伝子組み合わせは完全ランダムで、ある程度制約がかかってるのがミソ。その制約の中でどう自分をデザインするかが腕の見せ所。
隠しボスがやべえ。例えば「宇宙の真理」とか「死の意味」とかいう名称の最終兵器級の敵が出現する。倒すととんでもないアイテムが手に入るらしいが、そもそも遭遇条件が不明。ある日突然目の前に現れて哲学問答を迫ってくるパターンも。
超レアな隠しイベント「運命の出会い」が発生すると、ゲームの難易度がガラリと変わる。相性のいいプレイヤーとパーティを組むと、今まで苦戦してたエリアが嘘のように楽になったりする。逆に相性最悪のキャラと組むとデバフフルコースだが、それもまた経験値になる。
しかもこのゲーム、実はマルチエンディング仕様。あるプレイヤーは「平和な田舎で家族に囲まれて」エンドを迎え、別のプレイヤーは「未踏の星に人類の旗を立てて」エンドを迎える。ただし真エンドの存在は未確認。開発者(神?)の意図が完全に把握できてないから、みんな自分なりのエンドを目指してる。
驚異の物理演算エンジン「因果律」が全てのアクションに影響。プレイヤーの選択が数年後の地形やNPCの関係性まで変化させる。ちょっとした会話の選択肢が、知らぬ間に大きなシナリオ分岐を生んでることに後で気付いて背筋が凍る瞬間。
DLCが半端ない。突然「結婚」とか「起業」とか「海外移住」とかいう大型追加コンテンツが解禁される。有料アイテムは存在せず、課金要素ゼロなのにコンテンツの質が年々向上していく謎のビジネスモデル。
バグが多いと文句言う奴もいるが、実は仕様だったりする。例えば「理不尽な事故」イベントとか「不可解な病気」ステータス異常とか、一見バグに見える現象も、実は超高度な乱数生成システム「運命」によって意図的に組み込まれた要素。ただし開発陣が「これはバグです」と認めた事象も若干存在するらしい。
最大の特徴は「ゲーム内通貨の獲得方法」。単純労働でもOKだけど、クリエイティブなことや人を喜ばせることで爆発的に増える仕様。ただし所持金が多いほど管理が大変になる上、突然没収イベントが発生するリスクもある。通貨を他人に譲渡する「寄付」システムを使うと、謎の幸福度パラメータが上昇する。
隠しパラメータ「魂の成長度」が存在するらしく、苦難を乗り越えるたびに上昇するという噂。これが一定値を超えると、死後のニューゲーム+モードで前世のステータスを引き継げるとか。真偽は不明だが、修行僧レベルのプレイヤーたちが熱心に検証中。
とにかくこのゲーム、最初は「操作が複雑すぎる」「チュートリアルが不親切」と不評だったが、実は全ての操作体系が神経科学レベルで最適化されてることが判明。慣れると自分の思考が直接コントローラーになる感覚。没入感がヤバすぎて、つい没頭しすぎて睡眠不足になるプレイヤー続出。
公式攻略サイトは存在しないけど、歴代プレイヤーたちが残した哲学書や文学、アート作品がヒントになってる。ただし情報が多すぎるから、自分でフィルターかける必要あり。変な攻略法信じると悲惨な目に遭うので要注意。
究極の醍醐味は「自分だけの物語を紡げること」。同じクエストをクリアするにしても、100人いれば100通りの方法が存在する。他のプレイヤーの真似をする必要はなく、むしろ独自のプレイスタイルを確立した者が最高の報酬を得る仕組み。ただし完全な孤高プレイは難易度激上がりなので、適度に他人と協力するのが正解らしい。
開発陣からのメッセージがときどき届く。「自然の美しさ」とか「子どもの笑顔」とか「達成感」とかいう形で。これを受け取ると一時的に全てのステータスが倍増する。ただし感受性パラメータが低いと気付かないままスルーしちゃうからもったいない。
このゲームの真の敵は、実は「自分自身の諦め」だったりする。デバフ「絶望」がかかると全ての数値が低下するけど、逆にバフ「希望」をかけると限界突破する。面白いことに、他人にバフをかけると自分にも効果が波及する仕様。最強パーティは互いに希望を供給し合う仲間たちで構成される。
最終的には、このゲームを神ゲーたらしめてるのは「不完全さ」そのもの。時々起こるクラッシュ(挫折)やラグ(停滞期)、謎のバランス崩壊(不運)があるからこそ、それを乗り越えた時の達成感が桁外れなんだ。完全無欠のシステムより、むしろ欠落や矛盾がある方が深みが増すという逆説。
「不可逆だからこそ一瞬が輝く」
この矛盾を抱えながらも、それでも尚プレイを続けたくなる、中毒性の高い仕組みにある。
だから俺は言いたい。
「このゲームを糞ゲー扱いする前に、お前は本当に全DLCを体験したのか?」
「最高難易度で挑戦してみたのか?」
事故に遭うまでの私の日常は、規則正しく、ほとんど変わり映えのしないものだった。毎朝、5時45分に目覚まし時計が鳴り、それに合わせて起床する。朝食は大抵、トーストとコーヒー、時には卵を焼いて食べる。食事を終えたら、すぐにパソコンを起動させ、昨日まで手がけていた研究の続きを始める。
私は大学の研究室に勤めており、主に人工知能に関する研究を担当していた。日々の業務は、論文を読み込み、自分の研究結果を論文にまとめること、そして新たな実験やアルゴリズムの開発に時間を割くことだった。ランチは、研究室の同僚たちと一緒に学内のカフェテリアで過ごすことが多かったが、会話は大抵、最新のAI研究の話題や、次の学会での発表内容についてだった。
午後になると、データ分析やコードのデバッグに追われる。夕方には、研究室のセミナーやミーティングに参加し、自分の進捗を報告したり、他人の研究から学ぶ時間を持つ。これらの会議が終わる頃には、すでに夜の7時や8時になっていることもしばしばだった。
家に帰ると、残りの時間は再び研究に戻ったり、読書をして知識を深めることに費やした。私の読書リストには、科学書から哲学書まで幅広く含まれていたが、趣味で小説を読むことはほとんどなかった。週末も、研究を進めるための時間や、学会の発表準備に使うことがほとんどで、旅行やレジャーはめったにない。
そんな生活の中で、唯一のリラクゼーションは、夜遅くに自転車に乗って近所を一周することだった。頭をリフレッシュさせ、次の日の研究に備えるための習慣だった。その自転車に乗っていたとき、信号無視という小さなミスが、私の日常を一変させる事故を引き起こしたのだった。
目覚めた瞬間、私は自分がどこにいるのかわからなかった。記憶は真っ白で、そこにあったのは混乱だけ。部屋を見回すと、散らかった机の上には漫画やゲームのディスクが積み上げられ、壁にはアニメのポスターが貼られていた。床には服が散乱し、洗濯物がそのまま放置されている。以前の私がこんな部屋で生活していたとは到底考えられない光景だった。
パソコンを起動し、デスクトップにあった「はてな匿名ダイアリー」のショートカットをクリックした。そこには「増田」という名前で、私が書いたと思われる大量の投稿が並んでいた。内容は、日常の些細な話題から始まり、時には社会の風刺まで含んでいる。例えば、近所の猫の行動から人生の意味を考察したり、ラーメンの具材について熱弁を振るう文章。どれもが科学的な論文やデータ分析からかけ離れた、まるで別人の作品だった。
これらの投稿を読み進むうちに、私は自分がいかに以前とは違う生活を送っていたかに愕然とした。以前の私は、研究者としての生活を送り、論文やデータに囲まれていたはずだ。それが今は、匿名でネット上に自分をさらけ出し、他人とつながりを持つことで自分を表現していた。部屋の様子や投稿内容から、私はもはや研究者ではなく、何かの創作活動に没頭する増田になっていた。
この事実に混乱しながらも、どこかで面白さを感じていた。ただ、どうやってこんな人生に転落したのか、その記憶が無いことが何よりも恐ろしかった。かつての自分が何を思うかはわからないが、今の自分はこの新しい、そして奇妙な生活の中で何かを模索し続けるしかないと決意した。
だってさ、俺レベルになると「こんな本読んだらこいつレベルに格下げになっちまうぜ」って思うじゃん?
特に「頭が良くなる」みてぇな能力本、お前の頭は俺よりも悪いだろ😂
あるいは「運動することが重要」程度の話を長々と科学的根拠だなんだと垂れてるような本、意味あんのかそれ?
まあ言語性知能を高めるために難解な小説や哲学書を読むっていうならわかるんだよ
あるいは古から存在する倫理を書いた本、とかいうのもまあわかる、歴史を学ぶことには価値があるからな
だが自己啓発本は得られるものが無い、著者のオ○ニーでしかない (てか、ゴーストライターに書かせてんじゃねぇか?)
それこそ、あらゆる自己啓発本のエッセンスだけを取り出したとしても一冊分の本程度にしかならねぇんじゃねぇのか、って思うんだよね
昨日、オフィスから家に帰る地下鉄の中で急激に腹が痛くなった。「もうダメかも知れない」などと考えながら、エレベーターで改札階に上がったら運良く多目的トイレがあいていた。急いで個室に駆け込んで「なんてラッキーなんだ」と思いながらベルトを外しはじめた。それがいけなかった…
「勝った」という弛緩した気持ちでベルトを外し始めた。私は腹が出ているのでサスペンダーを愛用している。前2つのクリップはすぐ外せたが後ろ側を外すのに手間取った。電車から降りた時点では存在していた「まさか漏らすのか?」という緊張感はトイレの前に立った時点ですでに消え去っていた。そしてサスペンダーが外れない焦りもあり、ケツの穴がクソを抑えきれなかった。
中途半端にズボンをおろした状態で脱糞がはじまった。ベチャベチャの泥みたいなブツが容赦なく、下着・ズボン・便器・床に降り注いだ。出始めた一瞬の青ざめる感覚、そして出ている最中のわずかなカタストロフィ。そして終わったあとにはずっしりとした失望感が残った。約10年ぶりのクソ漏らしだった。
敗因は何だったのか? 電車の中かエレベーターの中でサスペンダーを外しておけばこの事態は防げた。「今、自分ができることを最後の一瞬まで考え続ける」という自責の発想を失い、成功を運に任せてしまった弱い心が敗因だった。
あたりに飛び散ったクソを、床や便器にべったり手が触れない範囲でトイレットペーパーを使って拭いた。パンツはサニタリーボックスに捨てた。問題はクソまみれのズボンだった。捨てたらフルチンになってしまうので、多目的トイレに設置されたオストメイト用の水道でズボン全体を水洗いした。不可触であるべきクソが手に触れることは避けられない。汚れた水滴も上半身に飛ぶ。そして当然フルチンで作業するしかない。マジで泣きそうだった。石鹸で手を洗って、ハンカチでその手を拭ったら少しだけ気分が落ち着いた。
水洗いしたズボンから水滴がたれないように絞ったあと、やむなくそれを履いて駅を出た。近くにセカンドストリートがあるらしかったので替えのズボンを買うためにそこを目指して歩いたが、足をあげるたびに太ももが冷えたズボンに張り付き、痺れるくらい冷たかった。というかビリビリと痺れた。途中でファミマを見つけたのでパンツを買うために入ったら、なんと「ジョグパンツ」という名前のナイロン製のズボンが売っていた。店員に「うんこくせーな」と思われたくなかったのでセルフレジで会計してトイレで着替えた。水洗いしたズボンはコンビニの袋に入れて持ち帰ることにした。
電車で帰ると他の乗客に迷惑なので1時間くらい歩いて帰ることにしたが、その時、LUUPのキックボードが目に入った。「キックボードなら汚れたズボンをサドルに接触させずに乗れるから迷惑にならない」と思ってキックボードを借りた。実際にはもうズボンを履き替えてたので自転車をレンタルしても良かったはずだが、完全に頭が混乱してたんだろうね。あとはLUUPで家に帰ってズボンを手桶であらった。これが顛末だった。
最近、社会正義に関連するある哲学書を読んだ。その本にこんな事が書いてあった。「健康で自立しているように見える人でもいつ他者からの手助け無しに生きられなくなるか分からない。人には潜在的に”脆弱性”を抱えているのである。自立しているかどうかは、その脆弱性が潜在しているか顕在化しているかの違いに過ぎない。しかも、その脆弱性や、それが顕在化した時の”弱さ”は、普遍的なものではなく人それぞれ違った固有の物でもある。だから、人それぞれの弱さやニーズに気づき、それを手助けしていくことは、”慈愛”などというベストエフォートなものではなく、社会の”責任”なのである。なぜなら、私達全員が脆弱性を抱え、幼児や老人という形でその脆弱性を全員が顕在化させる宿命にあるのだから。弱さに対する手助けは社会を支える根本なのである。」といった事が書いてあった。
もしクソを漏らしたのが多目的トイレではなく普通の個室だったらどうなっていたか。フルチンで手洗い場でズボンを洗う羽目になっていたのである。多目的トイレのオストメイト用水道はクソを漏らした人に対する手助けを目的に設置されたものではない。ただ、クソの付いたズボンを洗いたいという私の”固有”のニーズがこの水道に救われた。また、ハンカチで手を拭ったところで全身に汚い水滴が飛んだ私にとって衛生面での意味はなかっただろう。ただ、清潔なハンカチで手を拭う行為に気持ちは救われた。これも私のその時の心境における”固有”のニーズである。なぜかコンビニで売ってるズボン・店員と話さずに済むセルフレジ・ケツを付けずに乗れるキックボード、これらは別に私のニーズを満たすために用意されたものではないが、たまたま、すべてが私の”固有”のニーズを満たしてくれた。それにどれだけ救われたことか…。人には固有の弱さとニーズがある。これを実感した。
そして、私は地下鉄に乗った時点ではクソを漏らす可能性なんて毛ほども考えてなかった。しかし1時間後にはクソまみれのズボンを泣きそうになりながらフルチンで洗っていたのである。脆弱性は確かに誰にでも顕在化しうるのだ。あなたにも。
夏目漱石の「月が綺麗ですね」論は漱石の結婚生活を垣間見ることができます
坪内逍遥はシェイクスピアやイプセンなど戯曲の研究家であり、弟子に二葉亭四迷、妻は宝塚女優、新劇の普及に努めました
ロミオとヂュリエットの「愛されないならいっそ死にたい」となど登場人物の激しいセリフも訳しています
一方、夏目漱石は英語教師でしたが妻の父はドイツ語翻訳家の官僚中根重一で、獨逸学協会幹部です
当時ドイツ語と言えば医学薬学書など質実剛な実用書か法学哲学書の類で、文芸派とは真逆の世界です
そのような義父がいればI love youなど女子供が見る芝居のセリフがサラっと言えるとは思えません
今の哲学って学問=哲学だった頃(数百年前~数千年前)から専門性がどんどん別の科目として抜けて行った搾りカスに、変な左翼と変な政治思想が醜く寄生して税金吸って成長した「成れ果て」じゃん
哲学科でやるのは歴史のお勉強とキモい政治闘争、あるいはヤリサー入ってセックスと相対的に厳しい就活くらいで、哲学科で哲学をしてる奴なんて減税したがる財務省官僚と同じくらいありえねえ存在じゃん
でそんなの常識で考えればわかるし、考えなくても調べりゃ出てくるのにそのリサーチ力すらないってヤバくね
哲学やりたくて哲学科いく奴絶対いないと思うけど仮にいたとしたらあまりにも頭悪すぎる
18年間何やってたの?
哲学やりたいなら数学科行けとしか言いようがない、逆になんで数学科行かないの?謎
哲学書は好きなだけ読んでりゃいいじゃん