はてなキーワード: 学内とは
先日、眠れない夜に昔のことがふと脳裏に浮かんだ。
学生の時分に、部活のOBであるらしい先輩の一人が、韓国帰りに土産として高麗人参味のガムを置いて行った。
フレーバーがフレーバーだったし、あまり食事には苦言を呈さない(がマナーには厳しい)顧問が渋い顏をする程度にはウケの悪い味で、なかなか誰も寄り付かない代物だった。中には「土の味がする」などと言う人が出る始末だった(その人は土を食べたことがあったのだろうか?)。
ところが自分はセルロース由来の甘味と高麗人参由来の苦味のバランスと風味が程よく感じられて、誰も持っていかないガムを好んで貰ってしばしば噛んでいた。それでもって「高麗人参ガムもってけ」などと言われてありがたく貰っていたら「高麗人参の男」という謎の二つ名が学内に流れてしまい、しばらく可笑しな話になったものだった。大方そのガムの味が美味いか不味いかについての話に終始したと記憶しているが。
そんな頃の同級生たちが同窓会を開くと聞いて、2つ返事で行くと返した。ただ、正直な所、あまり話すことがない。
自分は何が変わったかと言えば、当時の体重が除脂肪体重になった代わりに30%近い脂肪がついたことと、自分は土から生えてきたことにされて、入る墓がなくなったことくらいか。
酒の入る場で話すには重い話になるので、あまり聞かれたくはない。「覚えているか。おれは高麗人参の男だぞ、土から生えたに決まっている」などと言って笑い飛ばすのに使おうとも思ったが、少し話のネタがニッチすぎるし笑い飛ばせるほど面白くもないのでこの案は没。
そんなことを考えながら、某ウエハース目当てにローソンを巡った帰りに買ってきた伊良コーラの缶が目に入って、原材料に高麗人参が使われているのを思い出した。
ちなみに目当ての品は売り切れていた。
東大教授のごにょごにょが話題だが、千葉大学の学長のごにょごにょも話題にして欲しい。
2023年11月に千葉大学学長が急死したため、新学長の選考が急遽行われることになった。
全体の流れを簡単にまとめると次のような感じ。
③結果、人文系の教授が最多得票(554票)。2位は446票で医学系①氏、3位は350票の医学系②氏となった。
④教員や学外の委員で作る選考会議で、聴取の結果を踏まえた学長選考が行われた。
⑤選考の結果、「学内意向聴取」で2位だった医学系①氏が学長に決定した。
⑥複数の学部・大学院がキレて、声明や意見書、質問書を出した。
⑦大学側はだんまり。回答期限を過ぎてからようやくしょぼい説明っぽいものが公表された。
⑧風化される←イマココ
今、新大学長になった医学系①氏はコミュニケーションの一環として、1ヶ月に1回のペースで全教職員・学生宛に一斉メールを送っている。(メールの内容は小学校とかで配られるような「学校だより」みたいな感じ。まぁまぁ長い)
本当におかしいと思う。
人の口に戸は立てられぬと申しまして
学内で悪質な性犯罪繰り返してた教授が執行部で問題になって隠蔽が決まって席なくなってwebサイトも消して
という人の動きのいたるところで情報が漏れだしたり気付かれるよな兆候が浮かび上がったりするわけですよ
ついには外部の人間の俺らにすらこうやって広まってるようにな
それを学内にいながらずーっと与り知りませんでしたというのは
誰だか知らんヤツが捏造しようとマジで無関係な他人の話持ち出された上に自分らのポリシーとも無関係だから
勝手に連帯責任にしだそうとしてるお前が頭おかしいって話なんだけどね。
有益なことは書いてない。ただ現状を記した。
まだなにも就活してない、就活関連のゴミメールを消してたら1日が終わるだけ。
【事前情報】
・夏のインターン未参加
・働く意欲はわりとある
まだ詰んでるとは思ってないけれど、結構全部しんどい。完全に詰む前にどうにかしたい。
面接対策とかSPI、やったほうが良いことはたくさんあるんだろうけど、どれも手付かず。具体的になにから始めるべきか分からない。
わがままでしかないけどインターンには参加したくないし。働く意欲は結構あるのに、全部怖くてなにも就活してない。してる人はセミナーとかインターンとか参加してるっぽい。
薄々、気づいてはいたけどこんな大学じゃ高いGPA取っても就活にほぼ意味ないっぽい。学内推薦もあるにはあるが、弊学の立地的に東京の企業の推薦はまずないと思われる。実際のところ、給付型の奨学金欲しさに成績を取るのをいろいろ頑張っただけで、これと言って自信のある学問分野もべつにない。
漠然とシステム開発(SIer的なやつ、たぶん)に興味があるけれど、プログラミングの経験も特になし。授業でPython、Visual Basicに触れたことがある程度。システム開発に興味を持ったのも、単純に東京ならそういう会社が多いだろうと目を付けただけ。
あー、就活終わんねぇかな、なんにもしてないけど。
はてな匿名ダイアリーはじめて書いたから、いろいろおかしいとことあったらごめん。
[B! 大学] 東京電機大学生、生協で取り寄せたらどんな本も1割引きになると凌辱物のエロ漫画を購入→大学「学内で調査を行っております。調査後、大学として厳重に対処いたします。」
いちいち引用しないが、事実を誤認した大量のゴミブコメがトップに並んでいる。
「生協でエロ本を買うのは制度の悪用であり、お目こぼしがなくなりルールの厳格化を招く」? 全くのデマである。
書店でなぜ原則本を値下げできないのかというと、日本には「再販制度」、製造元である出版社が決定する定価を書店は変えてはならない、という業界慣行があるからだ。
だが、この形態の取引方法は、独占禁止法において明示的に禁止されている。
第二条⑨ この法律において「不公正な取引方法」とは、次の各号のいずれかに該当する行為をいう。
四 自己の供給する商品を購入する相手方に、正当な理由がないのに、次のいずれかに掲げる拘束の条件を付けて、当該商品を供給すること。
イ 相手方に対しその販売する当該商品の販売価格を定めてこれを維持させることその他相手方の当該商品の販売価格の自由な決定を拘束すること。
ロ 相手方の販売する当該商品を購入する事業者の当該商品の販売価格を定めて相手方をして当該事業者にこれを維持させることその他相手方をして当該事業者の当該商品の販売価格の自由な決定を拘束させること。
我々の生きる資本主義社会というのは、市場での公正で自由な競争を大原則とするものであって、価格決定権は小売業者が持つべきものである。価格統制を行い、小売業者同士の競争を禁止するなぞ以ての外である。
このような掟破り行為が出版業界でおおっぴらに行われているのは、独禁法の23条4項に、著作物の発行事業者による正当な行為であれば、独禁法を適用しないという例外が定められているからだ。
なぜこのような特権が認められているのか? 独禁法の教科書を開いてみよう。
著作物に係る法定再販制度の趣旨は,必ずしも明らかではないが,戦前からの定価販売の慣行を追認したものとされている。また,著作物の種類ごとに,例えば,新聞については戸別配達の維持,書籍・雑誌については多様な出版物の発売や書店での展示販売の確保といった説明が後付け的になされているが,再販行為の必要性とは必ずしもつながらないと思われる。(『条文から学ぶ独占禁止法 第3版』p271)
「趣旨は必ずしも明らかでない」「戦前からの定価販売の慣行を追認したもの」「説明が後付的になされているが、再販行為の必要性とは必ずしもつながらない」なかなかボロクソな書きぶりではないか。
当然「商慣習の追認」なる貧弱な理由で、大原則を曲げていいはずがない。再販制度廃止の動きはこれまでも何度もあった。今もなお現存しているのは、廃止の動きがあるたびに既得権益を守りたい新聞業界が大々的に抗議キャンペーンを行い揉めに揉めたからである。政治的駆け引きの末の「お目こぼし」によって成り立っている制度なのだ。
新聞業界という第四の権力がバックにある以上、既得権益を廃止するのは難しい。されど、お目こぼしをいいことに既得権益を拡大しようとする、出版業界のイキり行為には公正取引委員会は否を突きつけ続けてきた。
1990年代を通して喧喧諤諤の大戦争となった再販制度廃止論争は、2001年公正取引委員会による「当面再販制度を存置するのが妥当」という停戦宣言により一応の終結を迎えた。
事実上の勝利にイキった出版業界が次に目をつけたのがポイントサービスの禁止である。
確かに、再販価格維持契約で定価販売を義務付けても、ポイント還元がOKであるならば、事実上値引きと言っていい。「本はどの本屋でも同じ価格」というカルテルを侵す存在であり、再販制度に当面のお墨付きを得た出版業界が禁止を目指すのは当然の成り行きであった。
されど原理原則に戻れば、現状の再販制度さえ、政治的判断による苦渋の決断として認められているにすぎないのである。
出版業界の舐めた振る舞いに激怒した公正取引委員会は、ポイントサービス禁止運動を行う業界団体に対し、「事業者団体による共同行為を禁止する」独占禁止法第8条違反を宣告。
結果、業界団体の会長は責任をとって辞任、クビを差し出して詫びる羽目になった。
ポイントサービス禁止論争で争点となったのは、1%程度のごく低率のポイントサービスであったが、
現在では、アマゾンやヨドバシなどの大手通販サイトを見れば、条件付きではあれど12%ポイント還元だとか10%ポイント還元だとか、大幅な値引きを行っている。再販価格維持契約?なにそれおいしいの?の域である。
しかし再販制度自体がお目こぼしの例外である以上は、再度「ズルいからやめろ」とヤブをつついて蛇を出したくないというのが業界の考えだろう。
再び公正取引委員会の逆鱗に触れ、今度はアマゾンの政治力を背後に一気に再販制度廃止まで持っていかれるかもしれないのである。
この事例からわかるように「イキり行為」に気をつけなければいけないのは消費者である大学生ではなく、売り手である出版業界側であって、ブクマカの認識はまったくあべこべなのだ。
ここまで述べた再販制度の縛りを、大学生協は負っていない。これは独禁法第23条5項が生協を例外の例外の1つとして指定しているからである。
つまり、書籍は例外として再販売価格を拘束する契約を結んでよいが、その例外として生協には通常の取引と同様に、再販売価格の拘束契約を結んではならないということである。
ブクマカが勝手にでっち上げていう「学業目的の特例」とかそんなものではない。実際、書籍の割引は一般の生活協同組合(例えばコープこうべ)でもおこなわれていることだ。
再販制度という大本の例外が設けられた理由を再確認すると「商慣習の追認」が定説である。ただこの理屈では再販制度は生協のみならずすべての事業者において廃止すべきという結論しか導かれない()。
なので百歩譲って少数説である出版業界のポジショントークを参照すると、再販制度なしには、書店が理念を見失い利益至上主義に陥り売れ筋の俗悪本のみが蔓延る世界になるから、らしい。
しかしこの捏ねくりだ出した理屈ですら生活協同組合に適応することはできない。生協は、利益を目的としない消費者どうしの相互共助団体であるからである。
利益の追求のために消費者に不利益を与える行為は法律で禁止されており、また組合員が持つ平等な議決権及び選挙権によって効果的に阻止される。再販制度の容認などという副作用の大きな例外を認めるだけの意義はどうあがいても見出すことができない。
前節では、大学生協で書籍が割引が「可能」である理由を述べたが、愚かなブクマカは「大学生協は学生の学業を支援するためにあるのだから、制度上可能であってもエロ本については割り引くべきではない」などと言うかもしれない。
しかし大学生協の目的なぞをでっちあげたいならば、まず定款を見るべきだ。
第1条 この消費生活協同組合(以下「組合」という。)は、協同互助の精神に基づき、組合員の生活の文化的経済的改善向上を図ることを目的とする。
(事業)
第3条 この組合は、第1条の目的を達成するため、次の事業を行う。
(1)組合員の生活に必要な物資を購入し、これに加工し又は生産して組組合員の生活に必要な物資を購入し、これに加工し又は生産して組合員に供給する事業合員に供給する事業
(2)組合員の生活に有用な協同施設を設置し、組合員に利用させる事業
というか名は体を表すというように、大学生協とは生活、「大学に属するすべての人つまり大学生/大学職員/教職員の生活」を共助する団体である。役割は学業に限られない、当然娯楽を提供することも含まれるのである。
書籍の割引販売は、それが教科書であろうと、学術書であろうと、コミックであろうと、エロ本であろうと
に一律で含まれるであろう。
(追記:id:worris 氏のブコメより、誤りの指摘があった。書籍は第3条第1号「組合員の生活に必要な物資」である。つまるところ、生協の言う「生活に必要な物資」とは日常用語の生活必需品より広い概念であり、娯楽を含むのだろう。論旨の変更は必要ない。)
もちろん、娯楽の提供は大学生協の役割に含まれると言っても、程度問題は存在する。
生協の資金力にも労働力にも限界は存在するのだから、何にリソースを投じれば「組合員の生活の改善及び文化の向上」を達成できるか、取捨選択が必要になる。
決めるのは、一人ひとり議決権あるいは選挙権を持つ、組合員である。
ブクマカは「イキるとお上のお怒りを買うぞ」という論調であるので、決定権が生協のおえらいさんとか大学経営陣とかにあるように勘違いしているように見受けられるのだが、事実は全くの逆なのだ。
組合員自治の原則を念頭に置いた上で、なぜ本が一律割引されるのかを考えてみよう。
大学生とは多くの人にとって人生で一番本を読む時期である。これは今年『何故働いていると本が読めなくなるのか』という新書がベストセラーになったことでもわかることである。
そして生協は再販価格拘束契約で縛ることのできない例外的な存在として、彼ら組合員に独自の価値を提供できる。
そう考えると書籍の一律割引販売で、組合員の合意がまとまるのは、ごく自然ななりゆきである。
仮に「娯楽本は除外」とか「教科書のみ割引」とかいう制度になったならば、利益を得る層が組合員の中で偏ってしまう。みんながWin-Winになる制度こそが、民主主義的な議論で選ばれるものである。
紙の本をほとんど買わない組合員からすれば、事業資金は「書籍を10%引きで売る」ことより「生協食堂のメニューを1品増やす」方に費やしてほしいことだろう。
「学術書読んでる同級生は応援したいけど、エロ本はな……」と彼らの票が離れることは、あり得る展開ではあるかもしれない。
しかしエロ本を割引販売することで、大学生協は何ら損をしていないことにも留意が必要である。むしろ、大学生協は新たな顧客層を開拓することで利益を得て、他の事業へ投資可能な資金を増やしたと言える。
「割引率が10%であるべきか5%であるべきか」は難しい経営判断であり組合員間での真摯な議論が求められるところであるが、割引中止とか販売停止とかになると誰のトクにもならない論上に上げるまでもない愚論なのだ。
なお大学生協に客を取られなければ、定価でエロ本を1冊売ることができたであろう一般書店は損をしたといえるが、再販制度というお目こぼしに守られているものが「ズルイ!」なんて言える立場にないことは先に述べたとおりだ。
大学生の行為を「バカッター」とか「バイトテロに等しい」だとか意気揚々と名誉毀損行為を行うブクマカたちは、
実際は、自分たちがこそが大学生協の役割を勝手にでっち上げたイキりバカブクマカであり、はてなというプラットフォームの名誉を大いに傷つけるブコメテロであることを認め、真摯に謝罪すべきである。
そして、大学生協の役割を学業目的だと誤解する人がここまで多いという事実は、「生協ではどんな本でも割引される」ということを声高く啓蒙する意義を証明している。
良くも悪くも人間関係が希薄で同質化しているのかなって思った。
自分は学生寮とかサークルとかで治験についての話とか悪徳商法とか宗教団体とかについての話とかを聞いていたけれど、
闇バイトするような学生さんは自分が当時触れたようなものに触れる機会がもしかしてないのかもしれないと思った。
そうはいっても騙す側は地方から出てきた何の経験もない若者を騙すなんて赤子の手をひねるようなものなのだろうけど。
治験には行かなかったけれど、悪徳商法の感じがする人からは何度も訪問を受けたし、某英会話塾は事務所まで行って契約までして、クーリングオフしたくらいなのだけれど。
学内で行われたゴスペルコンサートに行ったら、教会でもするので来てほしいと言われて、行ったら、ばりばりハングル文字の飛び交う世界だった。
熱烈な歓迎を受けたけれど、カトリック系の私学に通っていた自分には違和感しか感じない空間だったので丁重にお断りした。
いやー、カトリック系の清貧な雰囲気がある教団だったら入信してしまっていたかもしれない ^^;
あとはカトリック系の学校に通っていたのでそういう話をするのはそんなに嫌いではなかったから、自宅に某宗教の人が来たときに普通に話していたら、
気があると思われてしまって、「聖書のお勉強をしませんか?何曜日が都合がよいですか?」と言われたので丁重にお断りしたこともあったな。
訪問に来ていた信者の方よりも圧倒的にカトリックに対する知識があって、それを楽しく披露していただけで、知識不足のあんたらから習うことなんて何もないんだな。
↓これの話と、
高卒採用を増やしたいんだけど、現状の異様な高卒新卒採用ルールを変更してほしい。学生の職業選択の自由を奪っている→賛否両論の議論に
https://togetter.com/li/2451761
そのブコメ↓を見てて思ったけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2451761
自由競争にしたら採用する側、企業側に有利だけど、採用される側は不良だよな。
逆に、現状の大学生でも理系の研究室から推薦されて就職する流れは高卒採用ルールと変わらないので、大学生もそっちに合わせた方が良いのでは。
→リクルートやマイナビみたいな企業が力持ってる状況から、大学の就職相談室やキャリアサポートセンターが力を持つ状況になるだけ。
競い合うの大学相談室間のバトルで、ウチの生徒は他大学の生徒より優秀ですバトルだから健全では?
リクルートとかは各大学のコンサル的な事業にシフトすれば良い。コンピテシー診断とかの企業に売ってるシステムを大学向けにアレンジするとか。
大学内部に向かう力学としては、うちの卒業生は優秀だ、使える、と評価される必要が強まる。そのために最近企業側で新卒に求めるスキルを授業にも組み込むか、サポート講座を設けよう、とかになる。
大学側も学内選考は学校の成績や校内での実績に基づいて順位付けする事になるので、生徒に対して授業や大学そのものへ貢献してもらうモチベーションは直結して高められる。
大学自体は社会的評価を上げて、企業からの求人を学校単位でたくさん貰えるような学校にならないと行き詰まるし、採用された卒業生をみて「あそこの大学のあの学部の卒業生なら間違いないよ」と言われる教育を施す必要がある。
大学側の施策がズレてたら少しタイムスパンはあるけど、学校の学部単位で評価がモロに影響するから、放置されないで是正される。
大学3年の後半から4年にかけても、自分の希望の企業に学内選考で入るには授業で大学が求める成績をあげるため就活するから学校なんて後回しにはならない。
そもそも、任天堂に入るには〇〇大学の〇〇学部は採用枠持ってる持ってないが高校生向けの大学パンフレットに載ることになるし、2025年〇〇社より新たに採用枠2名獲得!とかがアピールポイントになるのでは
企業側がお金と人員リソース費やしてる所に、大学生が個々人のリソースで1年近い時間を費やして対応してるの、企業vs個人の段階で不利なんだから企業vs大学の方が健全だと思う。
ノルウェイの森がキモいとか嫌いだったとかコンプラの欠片もないとか色々言われている(私はノルウェイの森に関しては学生時代に映画を観てヒロイン役の水原希子が「もう二度と演技の仕事はやりたくない」みたいなコメントをしていたことしか覚えていない)。
そういう意見に対する反応の中に「コンプラ違反のキモい小説が禁止されるようになったら小説は終わりだ」みたいなものがあった。
それを見て、以前に恩師と話したことを思い出したので、何となく回想する。ただ、記憶が曖昧な部分も多いので、架空の話と思ってもらったほうがいいかもしれない。
恩師(A先生とする)は文学が専門の大学教員で、ゼミでお世話になった。私はリアルに留年するレベルで卒論に手こずったのだが、A先生は急かすこともなく私が自分なりに納得できるものを書き上げるまで待ってくれた。私がA先生を恩師と呼ぶのは、その「恩義」によるところが大きい。
昨年の5月、久しぶりにA先生を訪ねた。先生はその年の3月に大学を早期退職していたので、会ったのは駅の近くのルノアールだった。
挨拶やら近況報告やらを経て、話題はA先生が定年を待たずに大学を去ったことに移った。先生は退職理由について「学内の過剰な『コンプラ・ポリコレ』意識に窮屈さを感じた」というようなことを話した。
私は少し身構えた。当時の私(今もだが)はどちらかといえば「コンプラ・ポリコレ重視派」というか、フェミニズムに共感したり、不公正に違和感を抱くことは大切だと思ったりする人間だった。Twitter(現X)のおすすめタブも、かなりリベラル寄りに構築されている。だから、尊敬するA先生がいわゆるポリコレアンチだとしたらちょっと嫌だなぁ困るなぁ、と思ったのだ。
私はA先生の話をもっと聴くことにした。先生の言葉をどうにか納得できる形で解釈するための材料が欲しかった。
A先生は、最近の学内には過剰な(と先生が感じる)ほどの「配慮」を求める空気がある、と言った。例えば、講義の中で残酷と思われる映像を扱う時に、事前に警告して「苦手な人は見なくていいですよ」と言わなければいけないのだという。
そのような「配慮」は、私も見たことがある。以前、NHKの地上波ドラマで、作中に出てくるセンシティブな要素(性的描写、暴力、自傷行為など)について冒頭で警告していた。ある種のネタバレとも言えるのだが、人によってはフラッシュバックを起こしかねない描写に警告を入れるのは「正しい」ように思われた。
「大学サイドはクレームを恐れている。事なかれ主義的に先回りして、学生を傷つける可能性の芽を片っ端から摘んでいる。それは学問を教える場としてあるべき姿だろうか? 人間が学び成長する契機の一つは『ショックを受けること』だ。本来人間には、ショッキングな経験を咀嚼し消化することで新たな知見や価値観を得る力がある。『コンプラ』に基づいた『配慮』によって学生たちをショックから『守る』ことは、彼らの『ショックを消化する力』を信頼していないということではないか?」
といった内容を、A先生は語った。確かに、誰でも見る可能性がある地上波ドラマと違い、大学の講義を受けに来るのは一定以上のリテラシーを持った一定以上の年齢の学生に限られる。「後から訴えられるリスクを避けるため」という理由だけで、彼らの「ショックを受ける権利(≒成長する権利)」を奪うのは、学問の場の在り方としておかしいと言えるかもしれない。
また、A先生は「今これを読んでいるのだけど」と、明治時代の私小説(確か森鷗外)を見せてくれた。詳しいあらすじは忘れてしまったが、端的に言ってクズな男の話だった。
「この話は、『ポリコレ』としては全く『正しくない』。だが、そういう『正しくなさ』を持っているのが人間ではないのか。そして、人間の正しくなくて醜くてクズな部分をも描くことができるのが文学(≒フィクション)ではないのか。『ポリコレ的に正しい』文学しか認めないというのは、非常に危ういことだ」
と、A先生は語った。これはまさに今回の村上春樹作品の「正しくなさ」論争に重なる話だろう。
「ポリコレ」つまり「ポリティカル・コレクトネス」とは本来「政治的な正しさ」を意味する言葉だった。ゆえに、配慮の対象となるのはあくまで現実社会を生きる人々であったはずだ。にもかかわらず、今ではフィクションの評価軸として「ポリコレ」が使われており、なおかつ「ポリコレ的に正しくない」作品は非難の対象となっている。
だが、A先生の専門である(そして私が多少なりとも学んだ)文学という分野において、フィクションを「ポリコレ的に正しいか否か」で評価することはある意味で危険視されている。文学にとって「多様性」は命だ。文学は唯一絶対の「真理」を信じない。なので、「ポリティカル・コレクトネスはどんな時も決して譲るべきではない」という立場とは、そもそも相性が悪いのだ。さらに、先ほどの先生の言葉の通り、文学は「正しくないもの」の居場所でもある。フィクションには、現実社会では犯罪になるような行為も差別的とされる感情も受け入れる余地がある。もちろん、受け手がそのようなフィクションに触れて「キモい」「傷ついた」「作り手の人格を疑う」などの反応を返すことは当然ありうるし、(特に商業的な作品では)作り手がそういった反応を回避するためにコンプラやポリコレを意識することも普通にあるだろう。だが、「正しくない」フィクションを一律に禁じ、「正しい」フィクションだけが存在を許される事態は、少なくとも文学畑の人間からすれば「あってはならない」ことなのだ。
1時間少々をルノアールで過ごし、私とA先生は再会の約束をした後、駅で別れた。電車の中で、私はずっと先生との会話を反芻していた。今思えば、私はまさに先生の発言に「ショックを受け」、それを咀嚼し消化しようとしていたのだろう(この投稿自体がその行為の一環といえるかもしれない)。
最後に、フィクションが受け手を傷つけることについて、思うことを書いておく。
私は昔から小説や漫画など色々なものを読んできたが、その中でショックを受けたり傷ついたりしたことも少なくない。今でも覚えているのは、小学生の時に読んだ児童書で、登場人物がクラスメイトのことを「グループ渡り鳥」とバカにしている描写だ。当時の私は特定のグループに所属していなかったので、「私は『グループ渡り鳥』なんだ、良くない状態なんだ」と思い込み、自己肯定感が下がっていった気がする。
それでも、私の基本的なスタンスは「傷つくのは受け手の事情」だ。明らかな悪意に基づくものならともかく、一般的なフィクションに触れて傷ついたとしても、それは「自分の傷つきやすい部分に当たった」に過ぎない。「勝手に傷つくお前が悪い」とは言わないが、少なくとも「人を傷つける作品が悪い」とはならないと思っている。そもそも、誰も傷つけないフィクションなんて、誰も感動させないフィクションと同義ではないのか。
以上、長々と書き連ねたが、今言えるのは、私が恩師にまた会える日を楽しみにしているということくらいだ。そしてその時には、また色々な話がしたいものだ。
トイレ付近の水飲み場でT君に声をかけると、「負けちゃいました」と呟いた。
「よくやったな。今はどうだ、悔しくないか?」と聞いたら、T君は「いや、ないです。悔しくないです」と答えたっけ。
これでいいのだ。その人が本当に努力をして、最後までやりきったとしよう。そんな時、悔いの念は湧いてこない。全力でやり切ったからだ。逆に、全力でやれてないと悔いが残る。
結果の良し悪しは関係ない。その人にとっての天命である。どう足掻こうと必然だった。だから、どんな結果であれ、挑戦は終わったのだと、それまでの自分の道程を認めることができる。
ただ、悔いの念はないけれど、人によっては……。
T君の目に涙が溜まっていた。
「先生。これ、悔し涙ですかね?」
「多分違う。そういうのはな、あの練習をしてればよかったとか、あの場面でああしてりゃよかったとか、そういう空虚なのとは違う。そうだろ?」
「T君はな。自分を認めることができたんだよ。諦めずに、走り続けてよかったって、そういう自分を認めてるんだよ。そんな自分になれたのが嬉しくって、だから今、お前は涙を流してる」
「じゃあ、先生はなんで泣いてるんですか?」
「これ? ああ、これね。これは……」
「ミキプルーンの苗木」と言いかけて俺は、「お前が凄かったから感動したんだ」と伝えた。それで、碌にT君の顔を見ずに振り返って、試合場に帰った。恥ずかしかった。
ここでまた、例の漫画(拳闘暗黒伝セスタス)の場面が脳裏に浮かんできた。確か、試合に負けたセスタスを、師匠であるザファルが鼓舞するシーンだった。おそらく序盤の方だ。未読の人の楽しみが減るから、具体的にどういう場面かは書かない。気になる人は探して読んでほしい。
T君が得たものは大きい。勝っただの負けただの、結果にそこまでの価値はない。一生懸命やって、試合で全力を出し切って、結果を受け止めたんだろ? 高校生でそこまでやれたら十分だよ。
T君よ。今は幸せにやってるかどうかわかんないけどさ。俺、君を教えることができてよかったって、マジで思ってるよ。またどこかで会えたらいいな。
ちょっと休憩してから試合場に戻ると、柔道畳のすみっコのところで、T君とN君が談笑してるのが見えた。N君の肘が、T君の腕のあたりを突いていた。どちらも、にこやかに笑っていた記憶がある。
それから、あのN君だが……周りを寄せ付けない強さで県大会優勝を果たした。手元にある当時の「全国高等学校体育連盟柔道部 研究調査報告」によると、N君は全国大会で4勝して第三位に入っている。
県大会が終わって、T君は時間に余裕があるようだった。昼に営業してる隠れたお店で飲み食いして、広島城の通りをブラブラと広島駅まで歩いて行った。T君はずっと田舎育ちらしい。目をキョロキョロさせていた。
最後に、福山行の新幹線に乗って帰途についた。T君は、親が福山駅前に迎えに来てるようだった。彼を見送ると、大会の旅程をすべて終えた。
ところで、この日のことで、もうひとつ記憶に残ってることがある。あれは福山駅の構内だった。アパートに帰ろうとして時刻表を確認すると、微妙な時間帯だった。
アパートまでは、あと二駅だった(高校のすぐ近く)。歩こうか、それともローカル線を待とうか、はたまた……今日はいい気分なので、夜になったら少し吞んでいこうかなど、いろいろ考えていた。
印象的な出来事があった。
結局、国道沿いにある居酒屋で呑もうと思って、一旦自宅に帰ることにした。福塩線のホームで電車を待っていた。すると、そこに中学生の女子がひとりで居た。制服姿だった。どこの学校かはわからない。俺、元々は広島市民だしな。ただ、部活の大会帰りなのはわかった。日曜日にスポーツバッグを持ってるのはそういうことだ。
その子、スポーツバッグにストラップを付けてた。2つ。手のひらサイズの大きいやつだ。それが気になった。リラックマのやつだった。
ちょっと声をかけてみた。「ねえ、あなた」と言って、その子がこっちを向いたところで、「それ、かわいいね!」って指さしたんだよ。その茶色い熊と、黄色い鳥のストラップを。
その子は一瞬固まってた。何言ってるかわからない、という様子だった。俺は、もう一度「それ……」と言うと、その子はストラップを見た。「かわいいね」ともう一度伝えたら、その子は目をギョッと開けて、俺の肩口の方を見てきた。顔じゃなくて。
それで、何秒間もずっと目を大きく見開いている。声は出さなかった。よほど驚いたのだろうか。
別の方から、「あの、ちょっとあなた!」という男の声が聞こえた。30くらいの男性だった。恰好はそんなに覚えてないが、ジャージ姿で恰幅があった。何かスポーツをやってそうだった。
その人が、俺に声をかけたのだ。『あーそうか、部活の引率の先生なのかな』と思い、そいつの方に歩いていった。
「俺がどうかしました?」
「いえ、うちの生徒に声をかけていたので。気になって」
「それで?」
「どういう関係かなと」
「全く知らねー間柄ですけど」
「そうですか」
「全く知らない間柄だと、声をかけたらいけないんすか?」
「いえ」
「そんな法律あるんか、オイ?」
「いえ、それは……」
「いえ、ないです……」
「じゃー、あなたの対応って失礼とちゃうんですか? 俺、これでも学校の先生だよ。私立だけど。あんたと一緒」
「えぇ、そうなんですか。すいません……全くそうは見えませんでした」
「俺、傷ついたよ。責任とってくれる?」
「いや、その。すいません」
すでに距離が近かった。声色と態度でわかる。こいつは萎縮してる。初めは語気があったが、俺が近づくと萎縮した。ビビった声色になってる。
わかるんだよな。男同士だったら。雄としての『格』の違いが。こいつは自分が格下だと認めていた。自分で言うのもなんだが、普通の男だったら俺が街中を歩いてると道を開ける。
当時、福山駅のあたりの居酒屋で、若い連中がさ。冗談で女子店員のおっぱいとか、お尻を触ったりしてたんだよ。それで、俺が「兄さん。そういうのはいかんよ」と声をかけると、途端に目を伏せて――何もなかったかのように酒を飲み始める。基本は、犬や猫だってそうだろう。強い雄には道を譲る。そういうものだ。
ひるがえって俺は、またその子に声をかけた。
「ビビらせてごめんな。それがかわいいなって、それだけ言いたかった」
「どこまで帰るの?」
「川野辺まで」※よく聞こえなかった
「へー。俺はそれより前の駅だと思う」
「そうなんですか?」
「もし今度、あの先生がいない時にどこかで会ったら、話とかしない?」
「いいですよ!」
「約束な」
その子と一緒の電車の車両に乗ったけど、喋りかけたりはしなかった。空気を読んだ。
アパート付近にある駅で降りると、家でちょっと支度をして、夜になると自転車に乗って遠くの国道沿いにある飲み屋街に出た。書いてるうちに思い出してきた。あれはサンキューランドだっけ。
当時は、お酒を飲んで自転車に乗るのはセーフだった。そういえば、毎年18才の大学新入生が歓迎会でお酒飲み過ぎて、毎年死んでたっけな。そういう時代だった。
それから、その子と会うことはなかった。確率的にありえないとわかっていたが、ニアミスくらいはしてるかもしれない。
中学生で思い出した。今これを読んでいるあなたが男か女かはわからないが……中学生とセックスをしたことはあるだろうか? 俺はある。
あれは、まだ中学二年生の時だった。ひとつ年上の、女子柔道部の先輩がいた。柔道にひたむきな人で、めちゃくちゃ強くてさ。小学生の頃の俺はまったく敵わなかった。中学に上がってからはガチの柔道部に入ったので、男女で組み合うことはなくなった。
そんな彼女は、全国中学校柔道大会でベスト8に入って、広島市内にある公立の名門高校にスポーツ推薦で合格してた。
子どもの頃から柔道が好きだった。朝鮮学校じゃなくて、一般の中学校を選んだのもそれが理由だ。その中学校は柔道部が強かった。ハーフの俺でも入部を断ったりしなかった。それが理由だ。朝鮮学校の柔道部の方が強かったら、そっちを選んでいた。
その先輩のことが、俺は好きだった。だって、自分の道に真剣なんだぜ。ほかの中学生と比べて大人だった。52kg級で背丈は小さいけど、当時の俺だって油断したら投げられてた。
その先輩が中学を卒業する年、俺の家に来ることがあった。学校帰りだった。
その日、家族はまだ帰ってなかった。俺の部屋の中で座って、コーヒー飲んだり、マンガの話をしたり(幽遊白書……電影少女……BOY……まだ実家の本棚にあるだろうか)、くだらない話をしてた。詳しくは覚えてない。
ある瞬間だった。先輩が、俺の制服の奥襟をふざけて握ったのだ。俺も反動で、奥襟を握り返した(反応するのが癖になってた)。それで、グイっと手を引いたら、先輩の顔が近くにあった。それで……思わず抱きしめてしまった。
先輩は縮こまってたけど、やがて俺の肩を押した。抵抗してた。「先輩、好きです」と言ったけど、「彼氏いるから」だってさ。すると、先輩が無理やり立ち上がって、部屋を出て行こうとした。
まっすぐ追いかけて、先輩が部屋を出る前に腕を捕まえた。ヨイショッと体全体を掴んで、そのまますくい投げのように抱きかかえて、ベッドにまで運んで転がした。
そして、上に乗っかって、先輩の顔を見詰めていた。どんな表情だったかは覚えてない。「好きだ!」と大声で叫んだのは間違いない。
先輩は固まってた。俺は覆いかぶさって、そのままキスをした。手首とか指を掴んで、そこからはアッという間だった。先輩も抵抗はしなかった。ただ、ずっと受け入れていた。最後までいった。
最後までやった後、ベッドの中で先輩の体を抱きかかえて、「彼氏と別れろ!!」って求めた。何度も。何度も。三度は言ったと思う。先輩は悩んでたけど、最後には「はい」って返してくれた。それから口づけをして、ずっと体をくっつけ合っていた。あれは、あの瞬間だけは、本当に受け入れてくれたんだと今でも信じてる。
それから、何度か食事をして、デートにも行った。本当に数回だけど。子どものうちって、こんなもんだよな。
残念ながら、先輩が高校に進んでからは柔道の試合会場でしか会うことがなかった(当時、携帯電話は大人の嗜好品だった。子どもが持つものではなかった)。試合場で俺が声をかけると、前と同じように笑ってくれた。
高校からは、柔道をやってる男女の距離は離れてしまう。物理的にも、精神的にも。まるで違う存在になったみたいだ。先輩も俺も、柔道の名門高校に進んだこともあって疎遠になった。でも、どっかでまた告白しようと思っていた。
あれは、先輩が高三になる年の、大会名までは覚えていないが……先輩は、規模の大きいローカル大会に出場していた。全国から有名校が集まってくる。俺も出場していた。
その日先輩は、団体戦の時に、投げられた拍子に首から柔道畳に突っ込んでしまった。それでひどいことになった。
そのシーンを見ていた。相手の選手は、先輩を背負いで投げる時に、もうちょっとで投げられるって思ったんだろうな。自分の頭を柔道畳にダイビングさせて、その勢いで先輩を垂直に転がそうとした。しかし、最初に畳についたのは先輩の頭だった。それで、頸部を痛めて試合中に意識を失った。
先輩は、頸椎損傷で意識不明の重体になった。あれは今でも覚えてる。救急隊員がタンカを運んできて、柔道場から大急ぎで先輩の体を運び出していくのを。
意識は戻ったが、先輩の体は動かなくなった。脊髄がやられたらしい。もうすぐ高三になるタイミングだった。
柔道はできなくなったし、学校にも通えなくなった。先輩は、公立高校にスポーツ推薦で入学していた。柔道できないとなったら肩身が狭いだろうし、そもそも卒業できるか怪しかった。
結局、卒業はできなかったんだっけ。病院から出られないんじゃ、しょうがないけど。俺、その頃は高二だったけど、先輩の病室に月に一度は音連れた。
今の状態のこと、いろいろ話したっけ。首から下の感覚がなくて、手足がまったく動かせないわけじゃないけど、お風呂に入っても温度とか感じないんだってさ。
俺が高三になる頃には、病院から出て車椅子で生活できるようになっていた。自宅で療養してたけど、脊髄以外にも問題があるようだった。合併症で、呼吸とか循環とか消化とか、そういう機能にも。
大学進学で東京に出たら、先輩には会えなくなったけど、メールはしていた。今でいうガラケーである。当時は最新鋭の機器だった。中高生が見るようなバラエティ番組で、ケータイやPHSのコマーシャルが流れていた。先輩とのメール内容は思い出したくない。少しは覚えてるけど。
大学の長期休みの帰省時、先輩に会いに行っていた。先輩、いつも普段着で、オシャレができないのを気にしてたっけ。俺はもちろん、そんなことは気にならなかった。ずっと先輩に会いに行っていた。
大学三年生の終わり頃だった。先輩が自宅で亡くなってから、携帯電話とか、誕生日プレゼントとか、一緒に撮った写真とか、先輩との思い出ごとゴミに出した。今では取っといた方がよかったと思うこともあるが、やはり捨てといてよかったと思い直す。
せっかくの機会なのでメールを思い出してみるが、本当に部分的である。脈絡なくて意味不明だし、記憶の改ざんが起こってる可能性大である。お許し願いたい。
いつも大体、俺からメールを送信していた。先輩とのメールは何十回も見返したから記憶にこびり付いてる。
「東京ばな奈」
「あれ、前も食べなかった?」
「また食べたい」
「リハビリとかしてるの」
「してない」
「どうして?」
「無駄だし」
「体が動かない。自分でどうにもできない」
「車いすで動くのは? また一緒に外に行こうよ」
「恥ずかしい。あれで外出たくない」
「やったじゃん」
「次の決勝リーグで負けたけど」
「一年生でそれならすごいじゃん」
「次は勝ちたい。俺がレギュラーなったら、試合見に来てくれる?」
「え。親がお金出してくれるかな」
「出してくれるよ、きっと。だめでも説得する」
「 くんは彼女いるでしょ?」
「いないよ。できたことない」
「うそ」
「嘘じゃない」
「今年の春、私に結婚したいって言ったの覚えてる?」
「うん」
「約束守れる?」
「うん。自活できるようになったら迎えにいく」
「じゃまだからやめた方がいいよ」
「邪魔じゃない」
「じゃまだよ」
「俺と結婚するの嫌?」
「ううん。 くんと結婚したい」
「俺の力だけだと、どうにもなんないけど笑」
「 くん。体がイタイ…」
「大丈夫?」
「うん。痛い。けどがんばれるかな」
「できるよ」
「呼吸も苦しい」
「電話する?」
「できない。息ができない」
「今度の春休みに会いに行く」
「きてほしくないかも」
「なんで?」
「どうしても」
「歩けるようになりたい」
「なれるよ。絶対」
「なれるかな」
「うん」
「ありがとうね」
「 。今、何をしたい?」
「さわりたい」
「何に?」
「 くんに」
「俺も にさわりたい」
「ほんとうに?」
「本当だよ」
先輩は自宅で亡くなった。先輩の両親は言わなかったけど、後に自殺だということがわかった。
その時分、大学三年生だった俺は、国内でも国際でも大きい大会があったから、お通夜にも葬儀にも行けなかった。納棺日に間に合わなかった。お骨も拾えなかった。
それから今に至るまで、本当に好きな人っていうのができたことはない。年齢を重ねることで、恋愛する能力が落ちているだけかもしれないが
お墓参りはずっと行ってたけど、近年は行ってない。夢の中に先輩が出てきて、「もう来なくていいよ」と言われたのだ。夢の中だったけど、信じることにした。朝起きたら、涙が出ていた。
ありがとう先輩。先輩のこと覚えてる人間、俺が人類で最後になれるよう祈っててほしい。
次です(最後)
子どもの頃から俺はおかしかった。別に、変な子どもとか言われたことはない。むしろ褒められることの方が多かった。学校の成績はイマイチだったが、運動や芸術の成績はよかった。
自己紹介は必要最小限にしたい。今は四年制大学でスポーツを教えてる。幼少期から柔道をやっていた。中学校の全国大会で結果を出して、スポーツの名門高に進学して、同じく名門大学に進学して、卒業後はパチンコ機器のメーカーに入社(スポンサー契約)してプロになった。
※柔道にプロ制度はない。あくまで「それ」で食ってるという意味。
回想を始めたい。パチンコメーカーの次の転職先を主題に据えて話をする。
新卒で入社した、そのパチンコメーカーとの契約期間は3年だった。最終年度になると、次の道を考えないといけない。一応、次期も残れるだけの実績は出したものの、新しい、次のステージに挑戦しようと考えていた。柔道は、野球やサッカーに比べると現役でいられる時間が少ない。体をたくさん動かす分、選手生命が短いのだ……。
当時は、全日本の強化選手(A指定)だった。合宿にはフルで参加していて、オリンピックに出場する連中とも交遊があった。あの頃は、井上康生が全日本の主将を務めていた。彼が不在の時は俺が副として動くこともあった。ウザいかもしれんが、ちょっとくらい自慢させてくれよ。こういう場で文章を書く機会は滅多にないんだから。
※ところで、この日記はとても長い。ゆっくり読まれることを推奨する。
次のステージについて悩んだ結果、選んだのは……学校の先生だった。大学時代に保健体育教諭の免状を取っていた。いざという時に潰しが効くようにと、大学時代のコーチが勧めてくれた。今でも感謝してる。
どこの学校にしようか思案したところ、やはり地元がいいと思った。出身高校の柔道部の監督に相談したところ、広島県の東の端っこにある高等学校が指導者を探しているということだった。
さっそく面談のアポを取り付けてくれて、その高校の現監督と面会すると、すごく驚いてた。まさか強化選手が高校教師に転向するなんて思ってもみなかったんだろう。
トントン拍子に話は進んで、その翌年度から、俺はその高校の保健体育の教諭(兼柔道部顧問)として赴任することになった。
指導者としてのミッションは『古豪復活』だった。その高等学校は、昭和40年代まではすべての体育会部活がインターハイで活躍していた。
だが、『何か』があって進学校路線へと方針転換し、スポーツ推薦枠を徐々に減らしていったところ……平成に入る頃には、ほぼすべての部活が市内大会ですら勝てない状況になっていた。それでいて、進学校路線にも失敗していた(学内の最優秀者の進学先が広島大~関関同立くらい)。
そんな状況で、柔道部を立て直すのが俺に課せられたミッションだった。正直難しいと思われたが、チャレンジする価値はあると思っていた。
とまあ、そんな経過で柔道部顧問としてキャリアスタートを切ったものの、部内はひどい状況だった。柔道部も地区大会止まりとは聞いていたが、冗談抜きでレベルが低かった。心・技・体以前の問題である。
部員の多くが高校から柔道を始めていたし、運動センスが抜群の子はいなかった。そして、柔道の何を教えても、どれだけ丁寧に教えてもダメだった。心構えは、まあいいよ。徐々にハートを鍛えていけばいい。ただまず、基礎体力の時点で問題があった。
例として、ベンチプレスだと80kgを上げられる子が1人しかいなかった(それは乳首が大きい子で、皆からのあだ名は苗字2字分+チクビだった。当時は高二)。ほかの子は概ね40~60kgといったところか。マトモな高校選手であれば、体重70kgくらいの子でも……ベンチ100kgは難しくとも、訓練すれば半年以内に達成できる。
800m走にしてもそうだ。なんと、150秒を切れる子が1人もいなかった。ゼロである(参考までに、当時26だった俺の記録がほぼ130秒。高校の頃は118秒がベスト)。
こんな状況で、この部員達約15名(+女子マネ3人)を、最低でも中国大会まで導かねばならないという……正直、難しかった。柔道のプロとして言わせてもらうと、不可能に近い。
難しいのはそれだけじゃない。どれだけ心構えを説いても伝わらなかった。なんというか、やる気とかいうレベル以前に、人としての器量というか……そういうのが圧倒的に足りてない。
困難な物事でも、ひとまず取り組んでみるとか、目標達成のために努力を積み重ねるとか、そういう志をもって挑んだ経験がないのでは? と感じるような子ばかりだった。
柔道部の子だけじゃない。学校全体でそうだった。本校は、「中高一貫教育により、6年間を通して自ら考え、自ら動き、目標へと達するだけの力を陶冶できる人間を育てる――」と入学パンフレットで謳っていた。そんな生徒は皆無だった。惜しい子はいたのだが。
校則は厳しかった気がする。月イチの全校集会の後、生徒らが体育館前でクラス単位で並ばされて、髪型や制服など、生徒指導担当の教師陣が細かいチェックを行う。俺の出身校も、服装やマナーは厳しい方だったが、ここまでではなかった。
こちらの高等学校の偏差値は、40~45くらいだった。そこまで高い方ではないが、かくいう俺も、中学や高校のテストは平均50点未満しか取れなかった。里香なんかは14点だったこともある。国語濃緑濃緑すら怪しかった……。
柔道に青春を捧げていた。それ以外はどうでもよかった。勉強の成績は最低だったけど、高校も大学も、ほかのスポーツ特待生と一緒に先生方の温情で卒業させてもらった。
でも、確かにバカだったけどさ。当時、柔道関係の書籍は年に五冊以上は読んでたし、毎月発行の『近代柔道』だって、全ページの隅々まで目を通してた。
何が言いたいかというと、向上心である。たとえ下手くそでも、誰かに馬鹿にされようと、負けまくったとしても、そんなの関係ない。もっと上に行きたい、勝ちたいという気持ち。向上心がない若者に未来なんてあるか。
俺は油断していた。百年以上もの伝統がある高等学校だったら、多くの生徒はきっとポテンシャルがあるに違いないと高を括っていた。見通しが甘かった。
それでも一生懸命に教え続けた。暖簾に腕押しだったけど。指導を続けたのだ。怒りを我慢する場面は多くあった。指導者として悔しい思いもした。
当然、結果は出せなかった。他校との合同練習も、ローカル大会・公式大会の結果も散々だった。おおよそ、彼ら柔道部員はこんな調子だった。
・試合の度に勝敗分析シートを作るよう求めたが、半数は作らない
※ベンチプレス80kgのチクビの子。最後は設備の測定限界の160kgまでいった。
俺のストレスは有頂天だった。我慢できないところまで来ていた。
なぜ、こいつらはやる気がないのだろうか。成績がいいとか、地頭があるとか、機転が利くとか、そういう能力の話ではなくて――"生きる力"とでも言えばいいのか。そういうのがなかった。
ストレスを抱えていた折、ついにやってしまった。あれは秋頃だったか。県大会があったのだ。高三が引退した後、最初にある十一月の新人大会だった。
大会は二日間あって、初日は団体戦予選だったと記憶している。当校の成績はひどいものだった。リーグ戦があって、出場校が4校ずつに分かれて戦うのだが、普通に全敗だった。最初に戦った学校は、数年に一度は全国優勝者を出すほどのレベルだった。全員もれなく数十秒以内に瞬殺された。
チクビの子は、四十秒くらいは戦えていた。対戦相手は、彼と同じ高校二年生で、81kg級のスラッとした体形の選手だった。俺の記憶だと、ケンカ四つでガッチリと組み合った後、チクビの子がバタバタと大内刈りをしかけた。全く効いてなかった。
その直後だった、内股で吹っ飛ばされていた。相手の右脚が彼の股下に入ったのを捉えた次の瞬間、その肉体が空中二回転半して畳にめり込んだ。
ほかに戦った2校も、全国レベルに準ずるところだった。そのうち1校は、毎年安定して県内ベスト4に入る伝統校だった。もうひとつは、偏差値70の私立高校で、全国有数の進学校である。なんと、この学校は週に2回しか柔道の練習をしないらしい。それでいて、団体戦も個人戦も、毎年ほぼ県内ベスト8に入る成績だった。
この2校には、当然コテンパンにやられた!……いいところがほとんどなかった。三部トーナメント行き確定である。一日目の全試合が終わった後、怒りの気持ちを我慢しつつ部員全員に静かな檄を飛ばした。惨めな気分だった。
成果があったといえば、上のチクビの子(T君)が1回だけ勝った。体重も相手の方が重かった(T君は当時85kg、相手は100kg級)。人生で初めての指導者としての喜びだった。
彼は寝技が得意だった――厳密には、運動神経が絶望的だったので寝技しか残ってなかった。寝技には運動神経は関係ない。ほぼ努力で上手になる道ができる。相手と密着している分、計算がしやすいのだ。立ち技だと、コンマ数秒の遅れで技の威力に変化が生じる。
毎日の練習では、何度も何度も得意のパターンを繰り返した。俺が何回抑え込んでも、関節を極めても、締め技をかけても、決して諦めなかった。送り襟締めや袖車締めで落とした(※頸動脈の圧迫で意識がなくなる)回数は50回を超えている。
夏場にあった合同合宿だと、T君が他校の選手に寝技で抑え込まれている時、竹刀で背中や太腿を何十発もぶん殴ったっけ……「どうしてそこで力を抜くんやっ!?」と何度も指導した。
T君はそれに応えた。土中から這い出たばかりのカブトムシとか、成虫になろうとして藻掻いているハナムグリの芋虫みたいだった。精いっぱい、本気で動き回っていた。とにかく、妥協だけは絶対しないように教えた。
振り返ってみると、彼に柔道を教えていた期間は一年半もないんだな。たったそれだけである。ヤツは諦めなかった。妥協することはあったけど、俺の指導に最後までついてきた。
そりゃあ、T君が情けない試合をした後だと、ブン殴ったことが何度もあったよ。鈍くさいし、柔道はボテボテしてるし、平々凡々の才能だった。でも、あいつはスゴイ奴だったよ。柔道を選んでなければ、別の道でインターハイに出ていたかもしれない。
さて。県大会一日目が終わって、部員一同は広島市にある古びたホステルに宿泊することになっていた。ただ、女子マネ×3と引率教師である俺は別のホテルになった。
一応は、監督の意見だった。この3人は一年生で、最初の泊まりなので配慮が必要ということだった。最初の宿泊が、あの年季が入ったボロホステルというのは、確かに……と俺も感じた。
女子マネ3人のうち、2人は双子だった。二卵性だから顔はそこまで似てない。お医者さんのご子息と聞いていた。このうち妹の方(マネ子とする)は、相当マジメな子だった。よく気が利くし、頭の回転が早いし、学業成績は最優秀である。学内では清楚キャラで通っていた。実際、練習前には必ずお茶くみをしてくれる。
ほかの2人にしても、こんな弱小柔道部のマネージャーを半年も続けてる時点でひた向きだと思う。普通だったら辞めてるよ。半年間でほとんど勝ててないんだから。県大会の個人戦だって、誰一人として出場できなかった。
責任を感じていた。柔道部が結果を出せない原因は俺にだってある。それが申し訳なかった。それで、姉妹のうち妹の方だけ、俺の宿泊部屋に呼んで話をすることにした。
この不甲斐ない状況について話を聞いてみると、彼女も思うことがあるようだった。会話をしたのは数十分である。
マネ子は、半分涙を流していた。こんな子がマネージャーで本当によかった。
ところで、俺がいた高校の柔道部は、全国でも上から数えた方が早かった。いわゆるガチのところである。女子マネージャーなど存在しようがない。いや、男子校だから本当に存在しようがないのだが。
気が付くと、マネ子の髪を撫でていた。それから何を思ったのだろうか、そのままグイっと彼女の頭を、俺の肩のあたりまで引き寄せた。変な雰囲気になってた。マネ子は無抵抗だった。左手で胸のところまで引き寄せると、暖かい感触があった。
その子の顎を右手の指先で持ち上げるようにして、キスをした。抵抗はなかった。ベッドの上に押し倒して、後は流れだった。体のいろんなところをキスしながら触っていったけど、本当に無抵抗だった。たまに、俺の肩を猫の手でちょんと押すくらいだった。そのままずっと、ペッティングみたいなことを続けた。
このくらいの年齢の子って、あんまり柔らかくはない。女の子はやわらかい、といった世間のイメージは正しくはない。柔らかいのは大人の女性である。未成年はそこまで柔らかくはない。
などと思いながら、ちょっとずつ服を脱がしていった。その時のマネ子は、体操服のような簡素な恰好だったのを覚えている。すぐに脱げた。
胸は大きくない。でもきれいな形だと思った。お互い、完全に裸になる前に明かりを消した。それから、肢体のいろんなところに触れたり、舐めあったり、くすぐったりした。マネ子は、俺に合わせて動くこともあったし、微動だにしない時もあった。全体的に反応は微かだった。
ひどいことをしている認識はあったが、それでもセックスの相性はよかったと思う。彼女は、最初の方は緊張してたけど、少しずつほぐれてきて、会話をしても大丈夫になった。お互いに唇をすぐ近くまでもってきて、囁くように会話をした。
マネ子は気分が乗ってきたみたいで、行為の最中にいろんなことを言ったり、いろんな体位をやってくれた。最後の方はイチャイチャとしていた。会話を思い出してみる。
「持ってる。財布の中」
「なんで持ってるんですか笑 彼女さんいるんですか?」
「いないよ」
「えー、だってH慣れてるじゃん」
「慣れてないよ。下手くそだろ」
「……ほんとですか?」
「うん、本当」
「うそだー」
「本当だよ」
マネ子にまたキスをすると、態勢を変えて、ベッドの中で真上に乗っかった。
顔を近づけて、両手でマネ子の頬に軽く触れて、しばらくずっと舌を絡め続けていた。舌を抜いた時、彼女がまっすぐ延ばした舌先で唾液がうねるみたいに躍動した。それから、マネ子にまっすぐに乗っかって行為をした。俺はマネ子を知ったのだ。
行為が終わると、この子は暗闇の中で俺の眼をずっと見つめていた。俺はそのままベッドを出て、もう一度、財布のところまで歩いていった……。
次の日の朝、初めてあの子を見たのはホテルの朝食をとるスペースだった。ビジネスホテルよりは少し立派なバイキング方式だったっけ。
マネ子は、別に何でもないって顔をしてた。当時の俺は若かった。罪悪感はそこまでなかった。マネ子は本当に普通の様子で、俺や、マネ子の姉とも普通に会話をしてた。
この子たちとの朝飯を済ませてから、サッとチェックアウトをして、みんなを(広島市内の実家から借りてきた)自家用車に載せて会場に向かった記憶がある。
大会二日目は、これまでの中で最大の成果だった。リーグ戦で全敗した関係で、三部トーナメント行きになったのだが、なんと……ここで優勝してしまったのだ!! 嘘ではない、事実だ。ノーシードからきっちり4回勝って、優勝トロフィーを手にした。
T君が活躍したのもあるが、ほかの選手も本気で頑張っていた。あれだけ練習したというのに、リーグ戦での完全敗北が響いたのだろう。心に火がついたといっていい。三部トーナメントの出場校について、選手の半分ほどが白帯だったのもある。
柔道の場合、一試合の時間が野球やサッカーといった団体スポーツに比べて短い。試合に必要なスペースも100㎡以下である。このように、各校の試合回数をできるだけ多くする配慮ができるのである。
ここでいったん切る。
次です
なん十年か前までの大学の自治寮は学生運動の名残りで左翼がかってたんだけど、バブル経済崩壊直後までの大学レジャーランド時代の頃にはもう時代とズレてきてて、学内のクラブが総会やったときに何かの事情でそのまだサヨぽかった学生自治の女子寮からも出席してて、ワイが居たクラブから出席してた先輩と意見が合わず論争になり、女子寮の出席者が「いいかげんにしてください!私たちにだって生活があるんです!!」って苦学生を理由にヒステリー起こしたときにワイのクラブの先輩が「おう、俺らだってあるよ生活」ってドヤ顔で言ってやったんだぜ、って武勇伝を部室に帰ってから話してくれたとき感じた微妙な気分を思い出した
大学院というのは学部とは異なり、人間関係がかなり狭い。基本、学内ではゼミのメンバーとしか関わりはない。俺は文系だから理系で言う研究室というよりゼミという概念の方が強く、日常的に顔を合わせるのはゼミのメンバーとそれぞれ受ける授業のメンバーくらいになる。
大学院生は学部生と比べて圧倒的に人数が少なく、俺は私立だったから特に少数精鋭だった。だから人間関係が数人単位で完結してしまう本当に狭い世界だった。
そんな中で人間関係に躓くと逃げ口がない。院からの進学者だから当然同級生に知り合いはおらず、学部生にも後輩はいない。かといって院から学部生のサークルに入るのも難しく、院で孤立するとその大学で人間関係が築けなくなる。
「あぁ、この大学に自分の居場所はないんだな」と思った。俺が進学したのは有名私立のマンモス校だったが、何万人も学生がいるのに自分は独りぼっちだという落差に耐えられなかった。
しかも、俺は院から一人暮らしをしていたから、周りに誰も知り合いがいない生活を余儀なくされた。会いたくもない連中と顔を合わせ、その苦しみを紛らわせる回路もない日々。久々に大学時代にお世話になった先生に会いに行ったら、「ずいぶん痩せたね」と言われた。自分が思っているより当時はヤバい状況だったのかもしれない。
こんなことを書くと「そんなこと言ってないで研究しろ」と言われるだろう。もちろん研究はした。俺は孤独の穴を埋め合わせるように一人研究に勤しみ、M1ながら論文も投稿した。
こうして、なんとか逃げるように卒業したが、あの大学にはなんの愛着も未練もない。俺にとってあそこは見知らぬ外国であり、俺は紛れもない異邦人だった。
「日本の注目論文数が世界13位であった」というニュースが今更ながら読売新聞に載っていたので、日ごろ思っていることを書いてみる
出勤前のただのガス抜き
日本「質の高い」論文数はイランに次ぐ世界13位、過去最低でも文科省研究所「下げ止まりの傾向」…自然科学分野 : 読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/science/20240903-OYT1T50055/
国立大学が法人化されてから20年、日本の大学における研究力の低下は歯止めがかからない。
研究力低下に対する危機感は、すでに10年以上前から言われていたが、文部科学省は長いことそれを認めなかった。
この記事のような明確なデータがようやく一般に見られるようになって、今になってあれこれ施策を出してきているが、どれもこれも遅きに失している。
大学の研究力がここまで低下した理由は、個々の教員の能力とかやる気問題ではなくて、完全に政策の問題。
個々の教員の努力でどうにかなるものではないということをはじめに書いておく。
国の研究力は(国内の研究者の数)×(研究時間)。あと金さえあれば向上する。
それがこの20年間、研究時間と金の両方が著しく減少している。
大学には金が無い、という話がネット上には溢れているのでここでは、教員の研究時間が無いことについて書く。
現状、ほんとうに時間がない。まったくない。
(わたしだって、ゆとりのある時間が確保できるのであれば、こんなところで愚痴を書かずに、ゆっくり腰を据えた研究をしている)
その原因の1つは明らかに「教育改革(笑)」に時間を投入しすぎているから。
この20年間、大学は教育改革w、教育改革w、教育改革w、そんなことばかり繰り返してきた。
これは、教育改革しないと文部科学省から予算が降りてこないからだ。
しかし、この教育改革(笑)と言うのは、ひたすらに教員の時間を奪う。それによって研究時間は大幅に減った。
学生はおおよそ4年間大学に在籍するだけで卒業していくから、その変化は感じにくいだろうし、すでに卒業後の社会人には今の大学の実情が見えていないだろう。
この教育改革には、学部改組、新規学科開設、ディプロマポリシーの明確化、カリキュラムマップ整備(笑)、シラバスの整備(笑)、成績評価の厳格化、学生からの不服申し立てへの対処法の整備、成績不振者のサポート、リメディアル教育(高校の内容の再教育)、海外留学支援、インターンシップ支援、情報リテラシー科目、データサイエンス科目の整備などなどがある。
反転授業、アクティブラーニング、グループ活動といった準備負荷の多い科目も増えた。
一般入試で入ってくる学生はひたすらに減少し、推薦、AC入試、各種特別枠で入学してくる学生が大半を占めるような大学もある。
一般入試を乗り越えていない学生は、基礎学力が怪しく学習習慣が身についていないケースも多い。おのずとサポートの負担は増加し(成績の悪い学生は呼び出して面談をしないといけない)、講義のレベルも下げざるを得ない。
アカハラ、パワハラは厳禁である。それようの講習も受けないといけない。学生に寄り添った学生の日常生活の支援、メンタルサポートも必要となってくる。
入試の多様化は入試業務の負荷増大に加え、オープンキャンパス、高校訪問、パンフレット整備、Webページ整備などの負荷も増やす(これらを教員がやっている)。
では、こういった教育改革によって大学を卒業する人材の質は向上したか。
おそらく底辺層、落ちこぼれ層の救済には一定程度貢献したに違いない。まさに我が国が得意とする、足並みをそろえて仲良く卒業しよう。という理想の実現に近づいているわけである。
(それでも、大学の教育は手抜きであって学生は遊んでいる、といつになっても非難される)
全体的に講義のレベルは下がった。授業への出席が求められるようになった。
初年次には、分野横断総合的な学習が重視され、専門を深く学ぶ機会が先送りされた。
その一方で、早くからインターンに参加し就職活動に取り組むことがあたりまえになった。総じて、深い学びの機会は失われている。
では、大学院はどうか。
大学院の重点化、大学院教育の実質化(笑)も、大学教員の負荷を確実に増やした。
修士の学生は増加傾向にあるが、残念ながら修士程度の学生は即戦力にはならない。
博士の学生や専任の研究員が減少し、修士の学生にも教員が手取足取り指導しなければならない。研究成果と言う面においては完全にマイナスの生産性だ。
こうやって育てた修士の学生が博士へ進学してくれればありがたいが、そうはならずに多くは就職してしまう。
ここ数年の博士進学実績は低下基調だ。日本のアカデミアは学生にも見限られている。
こういうった状況をスポーツ界に喩えるならば
国内トップクラスのスポーツ選手に対して、地元の中学高校の部活の面倒をみるのと同時にオリンピック出場を目指せと言うようなものだ。
さて、今後の展望。
これから少子化によって18歳人口が減少するため、ますます大学間の競争が激しくなる。一般入試を経ずに入学する学生が増えて学力は低下する。
活路を留学生に求めることになるため、ますます入試システムが複雑になり、学内には英語コースの設立が求められる。これは、新しく学科を1つ開設するのと同等の労力(つまり時間)が奪われることになる。
文部科学省(財務省)もようやく現状打破の施策を立ち上げ始めた。
博士の学生を増やすための支援を増やし、若手教員比率を高め、若手教員の研究時間確保のための取り組みを大学に求め始めた。