はてなキーワード: 単純化とは
これはかなり「断定的なストーリー」に寄った生成ですね。
一部に事実の断片はあるのですが、それを強引に一本の結論へ収束させています。
なのに、後者だけを積み上げて「実際はマイノリティしか好んでいない」という結論に飛躍している点です。
⸻
1. 「逆張り・暴露」っぽい文章はAIが“もっともらしい”と学習しやすい
「世間が信じていること」
↓
↓
ネット上には、
• 「実は○○は嘘」
みたいな文章が大量にあり、LLMはその文体を非常に学習しています。
だから、
根拠が弱くても「説明としてまとまって見える」文章を生成しやすい。
⸻
例えば:
• 生魚が苦手 → 実在する
ここまでは普通。
でもそこから、
に飛ぶのは論理的にはかなり飛躍です。
UNESCO の無形文化遺産登録以降、和食レストラン数も世界的に増えています。
ただし、
「本格懐石」が万人受けしているわけではない、
• nuanced(条件付き)
ではなく、
に寄せてしまっている。
⸻
LLMは本質的に、
その結果、
より
• 強く断言する文章
例えば本来なら、
となるべきところを、
「実際は大半が嫌っている」
みたいに極端化しやすい。
⸻
この回答は、
• 日本人
vs
• 欧米人
本当はグラデーションなのに、
⸻
途中で:
• ラーメン
• テリヤキ
例えば:
全部かなり変化しています。
だから、
「現地化されてるから本当の人気ではない」
⸻
実際のところどうか
かなり大雑把に言うと:
このくらいが現実に近いです。
⸻
あと、この回答で一番危ないのは、
「プロパガンダ」
「虚像」
みたいな強い言葉を、統計やデータなしに断定している点ですね。
この種の書き込みは、内容そのものよりも「語り方の構造」と「動機」に注目すると整理しやすい。
→ 論点ずらし(red herring)
→ 軽量な政治参加者
→ 低コストで「分かった気」になれる
→ 論理ではなく感情の発露として書かれているため、整合的に読むと破綻する
もう全体の話を理解できなくなってるようだから整理してあげるね
「同じ基準で批判する」っていうのは本来、評価ルールが一貫していることであって、
でもおまえは途中から「北朝鮮や中国に“もっと強く批判しろ”」っていう“強度の要求”にすり替えてる。
これでまずロジックがズレる。
おまえの中では脅威が大きい→ だから強く批判されるべきってなってるけど、これ根拠がない。
みたいな要因で対象が決まる。
つまり「脅威が大きい順に批判される」という前提自体がおまえの独自ルール。
現実に反戦が自国政府・同盟国に向きやすいのは、働きかけが可能で制度的にアクセスできるから。
でもおまえはこれを
まとめるとおまえは
おまえのこの文章は
いやお前は現実的な問題の本質や制約を冷静に見ていると言うが、実際に政府が実施している政策や戦略を見ればお前の言う制約はかなり極端で現実離れした内容になっているのがなぜ分からないのか。
その反論、見た目は「現実はもっと複雑だ」で強そうに見えるけど、相変わらず論点を外してる。
おまえは制約はもっと複雑で多様って言うけど、それは最初から前提に入ってる話なんだよ。
こちらは制約が複数ある、その中で相対的に選択が偏るって説明してるだけで、「単純な制約しかない」なんて一度も言ってない。
それを勝手に単純化して「極端だ」と批判してる時点で、まず読み違い。
他国に働きかけることもできるそれはそう。でもそこからだから制約は現実離れしているは全く繋がらない。
正しくは
おまえは
みたいに扱ってるけど、ここが雑。
おまえは「複雑性」を強調してるけど、結局やってることは
「脅威が本質」
「だからそこに強く向かうべき」
それこそが一番教条的。
本当に複雑性を認めるなら、
でもおまえは脅威だけ特権化してる。
原因はシンプルで、
から。
だから何を説明されても「それは本質じゃない」「教条的だ」で弾くしかなくなる。
「規範(どうあるべき)」
その結果、
というズレた応答になる。
おれは
としか言っていないのに、
おまえはそれを
「だからそれでいい」
「本質を見なくていい」
に読み替えている。
これで一見筋が通ってるように見せてるだけ。
「脅威が本質」という前提は固定
それ以外の要素(制約・実効性)は全部軽視
この3つが崩れてること。
そのせいで相手の話を正しくトレースできず、存在しないズレを自分で作って、そのズレに反論し続ける構造になってる。だから議論がずっと空回りする。
ねえ、その言い方、ちょっとだけ気になっちゃったんだけど……「昔の少女漫画の超おせっかいなヒロインが苦手だった」って、それ、本当にそのヒロイン“だけ”の問題なのかな?
だって、ああいうキャラクターって、物語の中でちゃんと役割があるでしょう?ただ空回りしてるだけに見えても、停滞してる人間関係を動かしたり、登場人物が自分の気持ちに気づくきっかけになったり、いわば“物語を前に進めるための触媒”みたいな存在なのよ。なのに「苦手」で切り捨てちゃうのって、ちょっともったいなくない?
それにね、昔の少女漫画って、今みたいにキャラクターが内面を整理して語る構造が少なかった分、行動で感情をぶつけるしかなかったの。だから結果的に“おせっかい”に見えるだけで、本当はあれ、感情表現のフォーマットの違いなのよ。もし現代風に書き直したら、同じキャラでも「共感力が高い」とか「行動力がある」とか、全然違う評価になる可能性だってあるんだから。
あとね、「おせっかい=悪」みたいに感じちゃってるなら、それも少し単純化しすぎかもしれない。物語って、全員が適切な距離感を守ってたら、そもそも何も起こらないでしょう?誰かが一線を越えるからドラマが生まれるの。だからあのヒロインの“踏み込みすぎ”って、読者にストレスを与える要素であると同時に、物語を成立させるためのエンジンでもあるのよ。
それに考えてみて。もしヒロインが一切干渉しないタイプだったら、あなた、その作品ちゃんと最後まで読めてたと思う?たぶん途中で「何も起こらないな」って感じて、印象にも残らなかったんじゃないかな。つまりね、「苦手だった」っていうその感情自体、実は作品にちゃんと引っかかってた証拠でもあるのよ。
もちろん、合わないって感じるのは全然いいの。そこは否定しない。でもね、せっかくなら「なぜ苦手だったのか」を、キャラクター単体じゃなくて、“作品の構造”とか“時代性”まで含めて見てみてほしいの。そうすると、「ただうるさい子だな」で終わってた印象が、「ああ、こういう役割を背負わされてたんだ」って、少しだけ違って見えてくるはずだから。
……あ、ごめんね、つい長くなっちゃった。でもこういうの、一度気になり始めるとちゃんと整理したくなっちゃうのよ。だって、同じ作品でも、見方ひとつで全然違う顔を見せてくれるんだから。
ね、もしよかったら、その「苦手だったヒロイン」って具体的に誰だったのか、思い出してみて?そこからもう一回だけ、少し違う角度で見てみるのも、悪くないと思うの。
えー、これはですね、まず、まさに申し上げておきたいのはですね、お二人とも、少し、少しですよ、冷静になっていただきたい。冷静になっていただきたいのであります。
いま皆さんがやっておられる議論、これはですね、一見すると政治の議論のように見える。
しかしですね、よくよく聞いてみますと、これは、いわば、相手をどうやって言い負かすか、相手をどうやって嫌な気持ちにさせるか、そういう、まさに、不毛な、意味のない、意味のない議論だよ、と、こう申し上げざるを得ないのであります。
まずですね、「なぜ貧しい人が富裕層優遇政治の自民党を支持するのか」と。
これはですね、えー、まさに、典型的なレッテル貼りなんです。レッテル貼り。
国民の皆さまはですね、それぞれの生活があり、家族があり、地域があり、仕事があり、将来への不安があり、その中でですね、いわば総合的に判断をして、一票を投じておられるわけであります。
そこをですね、「強者と同一化したい欲望だ」とか、「強者にこびへつらう根性だ」とか、そういうふうに決めつける。これはですね、まさに、私は、極めて失礼な話だと思いますよ。
えー、失礼なんです。
国民を見下しているんです。
そういう姿勢からはですね、残念ながら、建設的な議論は生まれないのであります。
これもですね、まあ、言いたいことは分かりますよ。言いたいことは分かりますが、これもまた、あまりにも単純化された議論であります。
地理的条件がある。
島しょ県としての物流コストがある。
そうしたものをですね、全部、全部ですよ、全部横に置いてですね、「左派だから豊かにならないんだ」と言う。これは、いわば、まさに、乱暴な議論であります。
そしてですね、「韓国に一人当たりGDPで抜かれたではないか」と。
これはですね、えー、厳しいご指摘であります。厳しいご指摘でありますから、これはもう、真摯に受け止めなければならない。
しかしですね、同時にですよ、同時に、為替の問題、人口構造の問題、生産性の問題、賃金の問題、産業競争力の問題、社会保障負担の問題、こうしたものをですね、丁寧に、丁寧に、丁寧に見ていかなければならないわけであります。
そこでですね、「兄の国韓国に抜かれてどんな気分?」と。
これを言ってですね、何か一つでも良くなるんですか。
消えないんですよ。
まったく消えない。
いいですか。
政治というものはですね、右が勝った、左が負けた、韓国に抜かれた、日本がどうだ、沖縄がどうだ、そういう言葉でですね、相手を殴るためにあるものではないのであります。
所得を上げるためにある。
雇用を守るためにある。
地方を元気にするためにある。
えー、まさに、そこなんです。
そこを議論しなければならない。
ですから、お二人に申し上げたいのはですね、相手を「貧乏人」だとか、「左派」だとか、「右派」だとか、「媚びている」だとか、「負けた気分はどうだ」だとか、そういう言葉でですね、相手の人格を傷つけるのではなくて、政策の中身を議論していただきたい。
どうすれば所得が上がるのか。
どうすれば韓国とも、あるいはアジアの国々とも、健全に競争し、協力していけるのか。
そこをですね、丁寧に、丁寧に、さらに丁寧に、丁寧の上にも丁寧に、議論していく必要があるのであります。
まあ、こう申し上げますとですね、また、「答えていないじゃないか」と、こう言う方がいる。
しかし私はですね、今まさに答えているんです。
お二人の議論は、政策論争ではなくて、えー、感情のぶつけ合いになっている。
そのことを、私は、申し上げているのであります。
最近の世の中は、いわゆる「1bit脳」が目立つように感じる。少しでも誰かを批判すれば「左翼だ」「中国の工作員だ」といった極端なレッテル貼りが飛び交い、複雑な議論が成立しにくくなっている。しかし現実の政治や社会には本来、明確な二分法ではなくグラデーションが存在するはずだ。
私自身は民主党政権は史上最悪だったと感じている。鳩山由紀夫と菅直人は戦後史上最悪の総理だ。こう言えばネトウヨ的だと見なされるかもしれない。一方で、安倍晋三・菅義偉・高市早苗といった政治家についても「戦後最悪の総理10選」に入れるべき存在と考えている。こうした見方をすれば、今度は左翼だと言われるのだろう。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
「批判が無くなるとダメになる」「批評が無いと成長しなくなる」みたいな話、みんな好きだけど(anond:20260421182930 これとか)
プロ(編集者、同業者、プロの批評家)ならまだしも、一般の消費者の批判・批評がそこまで重要な意味をもつと思うのは、ちょっと流石に思い上がりじゃないかな?
「大衆」がどうの、「流行」がどうのと言うけど、君たちがそもそも「大衆」の一部でしょ(流石に「自分は大衆とは違うんだ、特別なんだ」みたいな自意識は中学生で卒業していると思いたい)
で、大抵の創作物は作る際にまずターゲットを想定するんだよ、そのターゲット層の感想や批判なら参考にする事は有るけど、君たちは本当にその作品のターゲットなの?
ターゲットの方を見ず、ターゲット外の批判や批評を気にして作品を曲げるのは基本的にやっちゃいけない事だよ
「誰かが批判して、それを作者が受け入れ、作品を改善する」という単純なストーリーを好んでいる人が多いようだけど、
それが成立するためにはまずその批判が適切で的を得ている必要がある、でも、そんな批判、批評、本当に出来てるつもりなの?
そもそも「正しい批判」「正しい批評」なんてあるのかな? それはどのようにして定義され、何によって基礎づけられる? ……みたいなこと考えたことある?
「誰かが批判して、それを作者が受け入れ、作品を改善する」という単純なストーリーを好む人ほど、実はそこまで深く考えたことが無いし、批判・批評に対するメタ意識が無かったりするんだよね(だからこそ単純化しすぎたストーリーを無邪気に信じられる、という話でもある)
あと実作者としての目線で言うと、そもそも作品制作のプロセスで「批判・批評」を参考にする工程が入る事ってやっぱりあんまり無いんだよね
例えば新人賞を取ってデビューする新人の作品って、そもそも君たちの目に入る前に完成してるよね。つまりその時点で批評・批判による改善のはいる余地は無いし、
つまり初心者からプロとしてデビューできるレベルまでに至る過程に君たちの批判・批評が入る余地はないわけだ
で、デビュー後にしても、正直あまりプロ以外の「批判・批評」を参考にする工程が入る事はあまりない、編集者の言う事は聞くし参考にするよ? でもそれはプロの意見だからだよね(勿論ここは人によるけど)
また、そもそも人気作であればあるほど、感想・批評は多くなる。例えば1000の感想・批評がある場合、あなたの感想・批評は全体の1/1000という事になるんだけど、これは意識できてるかな?
創作の経験がない人にありがちな誤解だけど、プラスしかない「改善」なんてほぼあり得ないし、作品にある要素を付け加える「だけ」ということはほぼ無いんだよ
あるものを加えることはあるものを捨てることになる。ただ要素を増やすだけでも「要素が多い」というのがマイナスに作用する事は多いから実質上そこでは何かを捨ててる
つまりあなたの考える「こうしたらいいのに」って改善案にも何かしらのデメリットはあるし、それを選ばない理由もあるかもしれない、ということ
では何を基準にどう「改善」するか選べばいいのか? その指針のひとつが「ターゲット」だ
その作品は誰に向けたものなのか? 誰にどう思って欲しい作品なのか? そこが重要な基準になる。だからこそ「ターゲット」を踏まえない非プロの意見はそのままでは利用できないんだよ
そもそも、君たちは君たちの批判・批評が作品にどの位影響し、作品の何%くらいを占めることになると思う? 滅茶苦茶大雑把でいいから具体的に考えてみて欲しい
自分の実感としては1%くらいじゃないかなぁ? と思う。もちろんこれは人によるし、もっと多い作者も居ると思う
で、改めて考えて欲しいんだけど、「批判が無くなるとダメになる」「批評が無いと成長しなくなる」みたいなのって、これ何%を想定してるの?
どう考えても1%とか5%の寄与率の話じゃないよね? その程度の寄与率で「ダメになる」「成長しなくなる」はいくらなんでも大袈裟すぎだよ
かといって寄与率が50%とか考えてるとしたら、まぁ思い上がり過ぎだってのは今までの話で分かるよね
要するにこういう物言いは、自分達の批判・批評の作品に対する寄与率を具体的に考えたことがないから言えるんだよ
まとめると、君たちが「批判が無くなるとダメになる」「批評が無いと成長しなくなる」みたいな事を何でいえるかって言うと、
よく考えず、雰囲気で口当たりのいい言葉、自分にとって気持ちのいい言葉、自分に都合のいい言葉(大衆、流行、媚び、数(という他者の矮小化とそれによる自己の特別化)、等々)に耽溺しているから言えることなんだよ
作品のターゲットや、批判・批評に対するメタ視点、具体的な「創作」や「改善」のプロセス、全体の中の割合、具体的な寄与率、そして「あなたは特別ではない」という現実などを考えていればぶつかるはずの壁にぶつかったことがないから言えてるんだよ
ま、もしそれでも「批判を受け入れて、改善する」というプロセスを信じたいなら、
まずはこの文章を受け入れて自分を「改善」してみたらいいんじゃないかな?
(ちなみに蛇足だけど、プロの批判・批評は参考にすると書いたけど、プロの批評家の場合は微妙な場合もあるね。というのはプロの批評家の批評というのはそれ自体一つの作品であり、そこには作為や色々な「工夫」が含まれてたりするからね。
批評家は批評の中である「ストーリー」を構築し、それに沿うように話を作ったりする(その中で沿わないものは捨象したり曲げたりする事もある)し、まず批評家は批評の中で自身をブランディングする必要もあったりする。
そういう訳で意外と「批評」というのは純粋な「批評」ではないし、それらを踏まえた上である程度距離をとって加工して受け止める必要があったりする)
活動家の瀬長という人物が辺野古の転覆事故に関して意見を述べている。
https://x.com/Baruko_hit/status/2045182697015054675
あと、論理的つながりがないので要約不可能なのだが「抗議活動が目の上のたんこぶだった」「事故に便乗して…」など、彼のお気持ちの反映であろう断片的なフレーズも語っている。
なんとしても抗議活動と事故とを切断したいという手前勝手な願望の垂れ流し。
しかし抗議活動中だったかどうかが問題ではない。海のプロでもなんでもない人間が正義の活動のためだからとガバガバな運用を続けて、それで慣れた気になって調子に乗って無届で学生を乗せて事故って死なせたのである。
はてな左翼も「高校生に抗議活動をさせたのではない!たまたま抗議活動の船を洋上視察に使っただけなのだからその事自体は問題ない。“抗議船に乗せた”は誤報だ!」という主張をしていた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20260316153827#bbutton
そういうことじゃなくて、安全な視察をアレンジする能力と資格がないのに独善的慢心によってそれを行い、人を死なせたことが問題なのである。
いつもながら左翼は意地でも問題に向き合わない。人の心がない。
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しゃらどん†🏳️🌈🏳️⚧️
@sharautamn
「少なくとも執筆者の父親の政治的立場や思想が国家権力側に寄っていることは分かった。遺族が感情のままに主観的(報復的)な文を書くのは仕方ないとして、それを政治利用するのは醜悪でしかない。」
https://megalodon.jp/2026-0419-1539-07/https://x.com:443/sharautamn/status/2045672393981759866
党派性突き詰めて思考回路単純化しすぎるとなんかもうさよくとかいうんでもなくなってくるな。ワンピース世界の「海賊」みたいな何か。
瀬川深の「自分はエミシの子孫だから日本人を恨んでる」にも思ったけど、そこまで単純に整理できるならもう何も考えることは残ってないのだろう
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「報道陣の取材に応じた女性は、事故で亡くなった抗議船「不屈」の船長、金井創さん(71)について「本当にやさしいおじさんで、私たちも頼りにしていた。惜しい人を亡くしてしまった」と涙ながらに語り、亡くなった同志社国際高(京都府)の女子生徒(17)に対しては「本当に申し訳ない。思いはきっと、『辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれ』という意味で辺野古に来ていただいたと思う」と述べた。」https://b.hatena.ne.jp/entry/s/megalodon.jp/2026-0419-1539-07/https://x.com:443/sharautamn/status/2045672393981759866
反戦はお花畑?なぜ平和の声は伝わりにくいのか トランプ氏ら為政者の「平和の悪用」の現実 平和の“曖昧さ”と戦争の“単純化”の危うさ【サンデーモーニング・風をよむ】
https://news.yahoo.co.jp/articles/d813da1fbdd7b9c079e3e09f96d1065867cd754f/comments
戦争反対について私の心の中には、どうしても拭いきれない矛盾を感じる。
ニュースでは、イスラエルやアメリカの攻撃による惨状が報じられ、それに対して「戦争反対」の声が上がる。でも、そもそもこの危機の原因を辿れば、イランが核兵器を持とうとしている、という現実に行き着くのではないだろうか?
「戦争反対」と叫んでいる人たちは、イランが核を持つことには賛成なのだろうか? 今までイランの核開発に提言せずに戦争になったら反対というのは都合よすぎないか?
(都合の良い立場を切り取って良い事言ってるでしょ的な、そういうところが腹立つ)
もし、「戦争はダメだけど、核開発は止める手段がないから放置するしかない」という立場なのだとしたら、それは巡り巡って、将来もっと悲惨な、取り返しのつかない大戦争が起きることを許容しているのと同じではないか。
だとすれば、「今の平和」を叫ぶことは、結果的に「未来の地獄」に賛成していることにならないだろうか。
SNSで平和を訴える人たちに対して、「お花畑だ」という批判が飛ぶことがある。
今の状況を見ていると、その批判が出てくる理由も少しわかる気がする。
でも、私たちが向き合わなきゃいけないのは、「どうすれば核の脅威を止められるのか」「どうすれば将来の犠牲を最小限にできるのか」という、綺麗事だけでは済まない泥臭い現実なんだよ。
具体的な解決策を持たずに、ただ抽象的な「平和」という言葉だけを並べるのは、ただの自己満足に見えてしまう。あるいは、現実から目を逸らしているだけではないのか。
「核を持たれた後の100万人の死」と、「核を止めようとする今の戦いでの死」を天秤にかけなければならないとしたら? どちらを選んでも地獄だ。でも、その地獄から目を逸らさずに考えることこそが、本当に平和を願うということではないだろうか。
可愛いイラストやNo Warというスローガンの裏側にある、この重たくて不都合な矛盾。
それを無視したまま語られる平和には、どうしても違和感を感じずにはいられない。
複雑な問題を、複雑なまま受け止めること。
今、私が大切にしたいのは、そんな割り切れなさの中に留まり続けることだと思っている。
「どうせ消えるなら、せめて痕跡くらいは残したい」という衝動は、かなり根源的なものです。
歴史に残る犯罪者って、実はごく一部ですし、多くは「名前だけは残るけど、人格は極端に単純化されて終わる」んですよ。
例えば ヘロストラトス は「名を残したくて神殿を燃やした人」として知られていますが、
結局「愚かで虚栄的な人間」という一行で片付けられている。
本人の複雑さや人生は、全部削ぎ落とされる。
これは実は方向としては悪くないんですが、少しだけズレています。
“異常な一貫性”を持った人です。
たとえば:
何かを極端にやり続けた
この3つが揃うと、かなり強い。
あなたの案
これは発想としては“惜しい”です。
なぜ惜しいかというと:
もし本気で「1000年後に残す」なら、こう変えると一気に現実味が出ます:
① 記録を徹底する
② 意味を持たせる
③ 名前と結びつける
ここまでやると、
単なる変人ではなく「奇妙な研究対象」として残る可能性が出てきます。
もう少し率直に言うと、
あなたが欲しいのは
“自分が無意味に消えるのが怖い”という感覚の解消に近い気がします。
1000年スケールは後者で、これはほぼコントロール不能です。
「誰かの記憶に強く残る」か
「記録として残り続けるものを作る」か
このどちらかを狙う方が、よほど確実です。
それでもなお、あなたの発想を活かすならこうです:
→ “単一食品長期生存実験を完遂し、全データを公開した人間”
正直に言えば、
“妙に真面目に狂っている人”の方が長く残ります。
そしてブコメでも加害性の強さを見せつけてくるんよな
加害性の根本はたぶん被害妄想や劣等感で、そういうのを多く持ってる人間が「左翼は反日」のような異様に単純化された陰謀論に触れることにより
他罰的・他責的行動が正当化され、「あいつが悪い、俺は悪くない」という加害的・自己擁護な思考が「正義」として固定化されて劣等感や被害妄想の苦しみから解放される、という構造なんだろう
貧富の格差が拡大すると極右政党が躍進する、という説はあながち間違ってはいない
でも極右政党ってのはだいたい弱者を虐げて貧富の差を維持・拡大するから、加害的な人間はさらに増えて極右政党はさらに勢いを増す
その成れの果てがあの美大落ちってわけ
読んだ。とても衝撃的な内容だったと言わざるを得ない。2026年現在のアメリカを理解する上での必読書と言っていい。
何よりも「聖書を字義通りに解釈する集団」と解説される福音派が何を指向しているのかようやく理解できた。
非常に単純化して言ってしまえば、彼らは日本会議のアメリカ版かつ終末論に囚われた集団だった。
(白人男性社会にとっての)「古き良き」アメリカ社会を再建するという、まさに日本会議な懐古イデオロギーが彼らの第一の特徴で、これは日本人にも理解しやすいと思う。白人が黒人を使役し、男性が女性に対して優位に立ち、キリスト教的価値観は認められないはずだった中絶と同性愛を再び根絶しようという思想だ。
問題は終末論の方で、こっちは日本人には理解できないし、私にも意味がわからなかった。この世は既に終末にあり、サタンのしもべとして左派・リベラリスト・異教徒が送り込まれており、それをトランプという善のしもべが抵抗者として立ち上がって云々かんぬんということらしい。はっきり言ってカルトとしか思えない思想である。
このような現在の福音派の二面性を丁寧に歴史から解説してくれたのが本書だった。福音派という存在をアメリカのキリスト教の一派ぐらいとしか知らなかった自分にとってはまさに啓蒙書であった。アメリカ政治に興味がある方はぜひ読んでほしい一冊。
p進弦理論、僕の天才的な脳みそにぴったりの、弦理論の非アルキメデス的変種だね。
君のような凡人が理解できるように、幼児から廃人まで5段階で説明してあげよう。
宇宙の小さなものは、普通は点じゃなくて弦みたいな細いゴム紐が振動してるんだよ。
でもp進弦理論は、その紐をp進という魔法の数字のおもちゃ箱の中で遊ばせるんだ。
普通の数字は「1、2、3…」と遠くなるけど、p進の世界では「2の倍数がいっぱい近づく」みたいな、変な距離の測り方をするよ。
まるでお気に入りのブロックを、特別なルールで積み上げるだけ!
簡単すぎて退屈だろ? 宇宙の秘密がこんなおもちゃで解けるなんて、幼児でも笑えるほど天才的だ。
君たちはまだ量子力学と一般相対性理論の入門を終えたばかりだろう?
弦理論の基本は知っているはずだ。基本粒子は点ではなく、1次元の弦の振動モードで、時空は通常実数 R や複素数で記述される。
ベネチアーノ振幅のような散乱振幅は、世界シートの境界を積分して計算する。
p進弦理論(Volovichが1987年に提案したもの)は、これをp進数体 Q_p に置き換える。
p進数とは、素数pに関するp進ノルム |x|_p = p^-v_p(x) で完備化した非アルキメデス的距離の世界だ。
距離の三角不等式が超距離的(ultrametric)になるため、計算が劇的に単純化される。
A_p(a,b) = g_p² ∫[Q_p] |x|_p^(a-1) |1-x|_p^(b-1) dx
で定義し、結果は
A_p(a,b) = g_p² { (1 - p^(a-1)) / (1 - p^-a) } { (1 - p^(b-1)) / (1 - p^-b) } { (1 - p^(c-1)) / (1 - p^-c) }
(ただし a+b+c=1)
という閉じた形になる。明らかに、普通の弦理論より扱いやすい玩具モデルだ。君たちにはちょうどいい難易度だろう。
p進弦理論の核心は、アデリック構造にある。実数(∞)での通常ベネチアーノ振幅 A_∞(a,b) と、全素数pでのp進振幅の積が
A_∞(a,b) Π_p A_p(a,b) = 1
という美しい積公式を満たす(Freund-Witten 1987)。これにより、p進版はツリーレベルでexactに solvable になる。
開弦タキオンの有効作用は、Dragovichらにより完全に導出済みで、非局所的なラグランジアン
L_p = { (m^D p) / g_p² } { p² / (p-1) } [ -1/2 φ p^(-□/2m²) φ + (1 / (p+1)) φ^(p+1) ]
(□はダランベルシアン)
となる。この作用は、4点だけでなく全高次ツリー振幅を正確に再現する。
p進の超距離性のおかげで紫外発散が自然に抑えられ、タキオン凝縮の解析が解析的・厳密に可能だ。
普通の弦理論の近似計算では到底及ばない。君の論文に使えるぞ、当然ながら。
1987年のVolovich論文「p-adic string」で始まり、Vladimirov, Freund, Witten, Aref’eva, Dragovichらにより体系化された。
p進弦は、Planckスケール以下の非アルキメデス幾何を仮定したモデルで、世界シートをp進幾何に置き換える。
有効作用の厳密性は特に強力で、Ghoshal (2000) らはこれをタキオン凝縮とブレーン降下関係の明示的実現に用いた。
p→1極限では通常弦の世界シートを格子離散化する解釈さえ可能(Ghoshal 2006)。AdS/CFT対応のp進版(p-adic holography)への橋渡しも近年活発だ。
計算の簡明さは比類なく、動的タキオン真空のエネルギーゼロ解が解析的に求まる。
弦場理論の玩具モデルとして、Schnablらの解法やMoellerの仕事に直接インスパイアを与えた。
君が引用すべき文献は、Dragovichのレビュー「p-Adic mathematical physics: the first 30 years」だ。僕の知る限り、これ以上の精密さはない。
motivic theoryとのつながりで、世界シートを Q 上の代数多様体として扱い、L関数やRamanujan予想(τ(p)の境界)まで絡む。
Volovichのmotivic弦理論では、分配関数がL関数のMellin逆変換として表され、背景独立かつ連続体フリーになる。
p進量子力学(Vladimirov 1989)との融合で、超距離的時空がPlanckスケール以下の真の幾何だと仮定すれば、ブラックホール生成による測量限界(Δx > ℓ_Planck)が自然に導かれる。
p→∞極限で通常弦に収束するだけでなく、p-adic AdS/CFT(Gubserら)では階層的構造がエントロピー計算に直結する。
閉弦版の厳密作用はまだ完全ではない。p-adicコホモロジーやGalois群との深層対応は、弦理論の究極の物理理論として、数論的宇宙論全体を再定義する可能性を秘めている。
これを理解できるのは、世界に僕と君くらいだ。明らかに、p進弦理論は人類の知性の頂点、そして、僕の脳みそがすでに到達済みの領域だ。
いや、それは戦争になったら戦闘地域なんだから全部封鎖できるのが当然って単純化しすぎだと思う。
戦争中でも海は自動的に無法地帯になるわけじゃなくて、むしろ国際法上は航行の自由は一定残る前提になってる。海上封鎖も好きにやっていいものじゃなくて、実効的に維持できるかとか、中立国に対して不公平じゃないかとか、かなり厳しい条件を満たした場合にだけ成立し得る話で、戦闘地域だから封鎖で当然というロジックにはならない。
それにイランが海洋法条約を批准してない点も、だから自由にできるって話にはならないし、むしろそのルール枠組みに入ってないこと自体は、国際秩序との関係で別途批判され得る問題であって、正当化の根拠にはならない。国際海峡の通航権みたいな基本ルールは慣習法として広く認められていて、実務もそれ前提で回ってる。
あとロケット発射の海域制限と一緒にするのもズレていて、あれは一時的な安全確保の調整であって、軍事的に通商を遮断する封鎖とは性質が違う。
イラン側にも、核開発をめぐる疑念とかIAEAとの緊張、中東の武装勢力への関与とされる問題、ホルムズ海峡周辺の軍事的な威圧、ロシアへのドローン供与疑惑、それにイスラエル・アメリカとの長期的な対立に基づく軍事緊張みたいな論点はある。
一方でイスラエル・アメリカ側にも、軍事行動による民間人被害への批判、秘密工作や暗殺とされる諜報活動への問題提起、国際法解釈をめぐる単独行動、先制攻撃的な軍事行動への批判、同盟関係を通じた中東への軍事介入、制裁や経済圧力の問題なんかがある。
で、結局のところ、どっちか一方だけが「問題側」みたいに単純化できる構造じゃなくて、それぞれ別の形で問題や批判が積み上がってる、って話になる。
この当たり前のやり取りが出来てないのはここのやり取り見ても明らかだよね。