はてなキーワード: スキャンダルとは
終戦直後の沖縄で米軍基地から物資を盗んで市井の人に配布する強盗団を結成していた瑛太と妻夫木と窪田、そして瑛太の恋人の広瀬すずら。ある日、基地に潜入して武器を盗もうとするも失敗、逃走中に留守番の広瀬はともかく3人ははぐれてしまう。そして6年後、捕まって刑務所に行った窪田はヤクザに、妻夫木は刑事に、広瀬は女教師にそしてリーダーの瑛太は行方不明になっていた。瑛太の行方をそれぞれの立場から追う、3人だったが戦後の沖縄の大きな歴史のうねりに翻弄されていく。
みたいな話。
とりあえず沖縄基地問題にあんま興味がなくて3時間越えは長いなぁ~って人は多分見る必要ない。
なんか超分厚い原作があるらしいって話は知ってて、まぁそっちでは戦後の沖縄の歴史と人間ドラマを濃密に描けているんだと思うんだけど、それを映画化するにあたってどこを残してどこを切るのかという判断をぶっちゃけ失敗していると思う。この映画191分もあるのに人間ドラマを描くのか沖縄の戦後史を描くのか圧倒的にどっちつかずだし、沖縄戦後史に振るには全然覚悟が足りないと思う。
まず人間ドラマなんだけど、基本的には主人公妻夫木らオキナワンチュたちの精神的支柱だった瑛太がある日の侵入失敗後に行方不明になってしまい彼を探すことがこの映画のメインだと思うんだけ、これがすげーふんわりしてんだよ。
妻夫木は瑛太を探すために刑事になったんだけど、その設定も序盤にちょろっと米兵がらみの殺人事件を捜査するパートが入って、その後、米軍諜報部の人間と組んで不良軍人を協力して捕まえる代わりに情報をもらう感じになるんだけど別になんかそんな重要な情報出てこない。さらに深入りすると本土の人間が乗り込んできて拷問されたりするんだけど、これもあんま意味が分からんのよな。
一方の窪田は刑務所でヤクザネットワークに加盟してそこから情報を掴んでいくんだけど、そこがもう断片的にしか描かれなくて「はい、情報出しときますね~」って感じで全然情報が集まっていくわくわく感やスリリングさ謎解き感がない。まぁ、妻夫木よりはマシだけど。そして瑛太の件とは別に関係なく米兵狩りを始める。
広瀬は頑張って瑛太が奪った物資で建てた小学校で女教師になりました。
なお、小学校には米軍機が墜落して爆散した模様。そしてその後、瑛太とかとは関係なく沖縄開放運動家になります。
あと、なんか序盤では花売ってたわけわからんガキがその後、急に成長してイケメンになるんだけど、で、こいつは誰やねん。なんか急にイケメンわいてきたなと思ったら花売りのガキだったってなるんだけど別にこいつなんか花売ってただけで何の存在感もなかったしなぁって感じ。で、実際にはこいつが一番のキーマンで実は米軍の偉い人が現地民孕ませて作った子供で、その現地民がたまたま瑛太たちが侵入した日に米軍基地に侵入していて爆裂出産。そこに瑛太がうっかり出くわして子供を託され、育てていたのでした。
そしてうっかり撃たれたイケメンに導かれた3人は浜辺に移動するとそこには白骨化した瑛太がおり、安易な回想シーンで真実が流れなぜかたぶんその回想シーンを見ていた3人は感動するのであった。何の話やこれ。
ちなみに米軍諜報部と本土の軍関係者が隠そうとしていたのはこの隠し子スキャンダルのことでした。意味わからん。
瑛太はもう死んだ母親と赤ん坊に出くわしただけでその出自は知らんし、イケメンは当然当時赤ん坊なのでそのことは知らん。まぁ偉い人と現地妻の写真が入った首飾りは持ってたけど別にそれがなんにもならんし、なんなら何を現地妻と写真撮ってるねんという話だし。別に撮ったけど肉体関係はなかったって言えば全部収まる話だし。この話に何の引きがあるねん。ばからしい。
じゃあこのメインストーリーを雑に扱って何をやっているのかっていうと、沖縄戦後史の紹介をやっているのね。
米兵による現地民への被害。逮捕しようにもMPがやってきて米軍に連れ去られ無罪にされてしまう。米軍機が墜落してきて子供たちが被害にあうも無罪。苛烈化する市民運動。この忘れられた米軍統治下の沖縄の様子をしっかり映すことに時間をかけている。そして妻夫木と広瀬はそこの渦中にある存在として歴史に翻弄される必要があるので本題の瑛太捜索に時間を全然割けない。
もちろんこれを戦後80年記念に映像化することに意義はあると思うし、特にたっぷり金をかけて作ったであろう終盤の大見せ場のゴザ暴動のシーンなんかは十二分に見応えがあったけど、でもなんていうか映画の本筋と全然接続してないからどうしたってのめりこみが弱くなる。まぁこれに関しては俺が沖縄に全然興味がないからそうなっちゃうのかもしれないけど、なんていうか思想強いなぁって感じ。
でも別に、俺はイラク戦争興味なくてもアメリカン・スナイパーは面白かったしベトナム戦争知らなくてもランボー(無印)は面白かったし、ドンバス紛争知らなくてもコードネーム:レイブンは面白かったからなぁ。だからこそ、大事なのは何を見せるかだと思うんだよな。
たぶん製作陣は沖縄の戦後史を見せることが大事だと思ったんだと思うんだけど、でも、たぶん映画ってそうじゃないんだよ。三者三葉の立場で瑛太を追う中でそこに横たわる困難として沖縄の呪われた戦後史がにじみ出てきてしまう。そういう感じのほうがちゃんと面白い映画になったと思うんだよ。本だったらいいよ、心置きなく全部書けるから。でも映画、映像媒体はそうじゃないじゃん。時間制限がある中で何を描くのか、何を描かないのか。そして直接は描かない中でも見せることが腕ってもんじゃねぇの?
じゃあ沖縄戦後史には全力投球で完璧なのかというの全然でさぁ。
最終的に窪田が米軍基地にテロを仕掛けるんだけどそこで妻夫木と妻夫木の論争になるんだけど。「返還されても沖縄は何も変わらない。だから俺はテロでアメリカだけじゃなくて本土の人間にも沖縄の怒りを知らしめるんだ。怒りで世界を変えるんだ」派の窪田に対して、妻夫木は「暴力じゃ何も変わらない(陳腐)。でも諦めなければ10年後、20年後には世界は変わっているはずだ。人間は愚かじゃないから今の沖縄みたいな間違った状況が続くはずがない」と諭すんだけど、10年後も20年後もそんな変わってないのを知ってる人間がこれ書くのなんかグロいんだよな。
もちろん、まぁ変わってないんですけどね(嘲笑)みたいな映画らしい悪意があるのかっていうとなんかそんな感じでもないんよ。これがブラック・クランズマンみたいにエンディングの前、暴動も治まり日常に戻った主人公たちがテレビをつけると久米宏が沖縄米兵少女暴行事件を伝える映像が流れるとかだったら覚悟あるやんと思うけどさ。なになんかキラキラディベートタイムで消費してんねんと思う。
あとそれで言うと、窪田が急に最後に本土人にキレてたけど、この問題で重要なのはアメリカ人よりもむしろ本土人なのに作中ではその視点はほとんど登場しない。あまりに片手落ちすぎる。
他にもいいたいことは山ほどあるんだけど、とにかくたぶんだけどこれ原作読めばいいだけの映画なんだよ。
もろちん、日本映画史上有数の25億の金をかけて当時の街並みを再現して2000人のエキストラバージンオリーブオイルを集めて撮った暴動シーンなんかはスケール感があってよかったけどだったら191分もいらないんだよ絶対。そこまでの吸引力はないよ。ただ、役者はよかった。みんな芸達者で特に瑛太は薄汚れていてもこいつが青学の柱なんやなっていうのが一目見てわかるような沖縄の太陽みたいな役をよく演じてたと思う。
まぁそんな感じかな。沖縄基地問題に関心がある左翼と沖縄人が見ればいい映画で、エンタメ系が好きな人は別に無理してみる必要ないと思う。長いし。110分くらいだったら50点くらいあっていいと思うけど、そこからさらにホラー映画1本分見せられてこのオチだったからこの点数で提出です。
あと、これは完全に余談なんだけど俺は全然つまんなくてこれホンマにどういう態度で見るべき映画なんやと思って、↑まで書いてからいくつか解説動画を見たんだけどこれがちょっと面白くてさ。
まずエンタメ映画を多く紹介しているチャンネルではおおむね不評で論としては意義は認めるし映像も頑張っているけど映画としては散漫という評価。
そしてこれを絶賛している人の多く、というかほとんどが作品じゃなくて作品背景、沖縄にはこんな歴史があってぇ米軍はこんなにひどくてぇだからこの映画を作るってことには意義があってぇみたいなことが評のほとんどを占めていて、作品の内容じゃなくて意義を評価するって方法があるんだなぁという学びを得た。
彼について考えるとき、僕はいつも少しだけ居心地の悪いカフェの隅に座っているような気分になる。窓の外では、理由もなく風が吹いている。カップの中のコーヒーはもう冷めかけているのに、なぜか飲みきるタイミングがつかめない。
ゴッホという画家は、どうやら僕らが教科書で習ったような純粋な芸術家というより、もっと生々しくて、手触りのある存在だったらしい。デッサンの練習には女性モデルを選びたがり、ときにはその境界線を曖昧にしてしまう。若い頃には娼館に通い、絵を描くという行為と、欲望とが、うまく分離できていなかったようにも見える。
それはどこかで、現代の映画監督のスキャンダルを思い起こさせる。創作と権力と欲望が、同じテーブルの上に並べられているような、そんな感じだ。
でも同時に、彼の中には奇妙なほど強い宗教的な情熱もあった。神に近づこうとする衝動と、地上的な欲望とが、同じ身体の中でせめぎ合っている。そのアンバランスさが、かえって彼をより現実的にしている気もする。
彼は生涯、家族に頼り続け、うまく人と折り合いをつけることもできなかった。人から好かれるタイプではなかったのだろう。むしろ、周囲を少しずつ疲れさせてしまうような人物だったのかもしれない。
そして結局のところ、彼は明確な成功を手にする前に、自分自身の内側で何かが壊れてしまった。
もし彼が生前に大きな成功を収めていたら、それはそれで、どこかしっくりこない気もする。成功した彼の姿を想像すると、なぜだか物語のバランスが崩れてしまうのだ。まるで、最後のページだけ誰かが書き換えてしまった小説みたいに。
50年前の本だぞ
https://www.amazon.co.jp/dp/416791199X
昭和52年の発表以来、40年を経ていまだに多くの論者に引用、紹介される名著。
今年3月も、NHK Eテレ「100分deメディア論」で、社会学者・大澤真幸氏が本書を紹介し、大きな反響があった。日本には、誰でもないのに誰よりも強い「空気」というものが存在し、人々も行動を規定している・・・。
これは、昨今の政治スキャンダルのなかで流行語となった「忖度」そのものではないか!
山本七平は本書で「「空気」とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。一種の『超能力』かも知れない。」「この『空気』なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる。」と論じている。
それから40年、著者の分析は古びるどころか、ますます現代社会の現実を鋭く言い当てている。
「空気を読め」「アイツは空気が読めない」という言葉が当たり前に使われ、誰もが「空気」という権力を怖れて右往左往している。
そんな今こそ、日本人の行動様式を鋭く抉った本書が必要とされている。
『「水=通常性」の研究』『日本的根本主義(ファンダメンタル)について』と続き、日本人の心の中にかつても今も深く根ざしている思想が明らかにされていくのは圧巻。
これを読んで倖田來未氏による「羊水が腐る」発言が何年だったか思わず調べてしまった。
あれは2008年のことらしく、元増田が今年40歳だとしたら、22歳の頃の話。
本人が芸能界を去らないといけないほどの大スキャンダルとして炎上した気がするんだが、増田は記憶にないんだろうか?
実際のところ羊水は腐らないが、あの発言で年齢が上がると妊娠・出産が難しくなることが周知されたと思う。
不妊治療で子供を産むと言うことが市民権を得てきたのもあのあたりからだったのではないだろうか。
そう考えると、妊娠・出産適齢期に増田があった頃はたとえ卵子凍結がなかったとしても子供を持つこととキャリアを築くことのどちらを選ぶか考える土壌はすでにあった。
子供をこの先持つ場合も結構難しくて、まず体力持つの?って思う。子供は最初赤ちゃんで誕生して、世話をして大きくなるもの。
赤ちゃんの世話はほとんど寝ないでいながらノーミスクリアするみたいな感じなんだけど。
アラフィフで閉経するとそもそも着床すらしないと思うんだけれど、代理母なの?母乳もなしだとおもうからそれなりにしんどいと思うけど。
2001~2002年にテレビ朝日で放映された特撮ドラマ番組「仮面ライダーアギト」。
その25周年記念展が今日から行われている。昨日は、その前夜祭番組が放映された。
その番組の終盤で、かつてメインキャストの一人であり、現在は芸能界を引退して飲食店に勤務している、ある一般人男性がサプライズとして登場した。
XなどのSNSでは、彼の登場を喜ぶ声がほとんどで、好意的な意見ばかりであった。
彼は2014年頃から恋人にDVを振るったり、また別の恋人の預金を数千万円も使い込むなどのスキャンダルを抱えていた。
当時所属していた人気歌唱グループからの脱退はおろか、芸能界引退にまで追い込まれたのである。
そういった事がありながらも、彼は縁に恵まれたようで、飲食店の店長を任されるまでに至った。
今回のサプライズ登場も、多くのファンから「待っていました」とばかりの声が飛び交っている。
しかし、ここで考えておきたい。
DVは傷害罪に該当するし、恋人の預金の使い込みも詐欺罪や窃盗罪に該当するだろう。
当事者同士で和解が成立しても、事実が無かった事になるわけではない。
人気が続いていれば許されるのだろうか?
もしくは十分な謹慎期間を設ければ?
更生していると判断されれば?
先のサプライズ登場の男性については、SNSでの多くの好意的な意見から見ても、「禊は済んだ」ように思われる。
では彼が許されるのであれば、
特殊詐欺の受け子役として警察官に扮しキャッシュカードを騙し取った「元俳優」や、
番組の共演者と不倫の疑惑があり、未成年飲酒により出演中の番組を途中降板した「元女優」も、
いずれは許されるのだろうか?
『チェンソーマン』のデンジとかは人気のキャラクターだし、あの作品のファンで彼を嫌いな人はほぼいないだろう。
そんなデンジのキャラクター性は欲望に忠実というか、それが言動にも反映されているが故に馬鹿な判断や行動を頻繁にしてしまう、有り体にいえば“愚か者”だ。
ここでは便宜上デンジを例に挙げたが、勿論こういった愚か者は古今東西いる。
トラブルメーカーになりうるため、作劇の都合上でも便利な属性といえる。
けれども誤解してはいけないのは、基本的に読者の大半は愚か者が嫌いだってこと。
あくまで“愚かさを憐れむというプロセスが好き”なのであって“愚かさが好き”ってわけではない。
例えば『推しの子』の有馬かながスキャンダルの標的になる展開は、本作を批判的に語るとき槍玉にあげられることが多い。
有馬かなが迂闊な行動をとるまでのプロセスは、そこまでの彼女の情景含めて十分に描写されている(特にアニメ版ではこのあたりがかなり丁寧だった)。
彼女が抱えていた焦燥感は理解しやすく、そこには第三者の悪意も介入していることもあり、あの件における有馬かなはむしろ被害者とすらいえる。
そして、その愚かさによって、B小町や所属事務所への迷惑もかかっている点は重く見られる。
『“愚かさを憐れむというプロセス”が好き』と書いたけれども、こういったケースではその余裕をなくしやすいのだと思う。
こんなことを書こうと思ったのは、最近読んだ『JK Biker』がきっかけ。
誤解を恐れずいうならば、本作は“チェンソーマン的なるもの”を描こうとしている。
別にパクリというわけではなくて実際の内容は似てないけれども、作品の方向性というかノリというか、“漠然とした輪郭”が似ているなぐらいのニュアンス。
少なくとも、本作を読んだら間違いなく「作者はチェンソーマン的なるものが、デンジみたいなキャラが好きなんだろうな」と思わずにはいられない。
けれども本作は“チェンソーマン的なるもの”を描こうとして半分くらい失敗していると感じた。
本作『JK Biker』の主人公が、ただ馬鹿で自分勝手なだけの、底の浅いキャラクターに見えるからだ。
そもそもデンジがああいう性格なのには重苦しいバックボーンがある。
そこに本編で降りかかる様々な試練が重なることで“憐れみを感じる余地”を与える。
だからこそ彼の“愚かさ”は魅力的に見えるし、その言動の結果には時に爽快感すら覚えるわけだ。
対して『JK Biker』の主人公にはそんな背景などなく、ただ毎日を好きなように過ごしたいだけの女子高生でしかない。
だから彼女がどれだけデンジっぽい振る舞いをしようとも、そこに憐れみなど感じないし、むしろ不愉快だと感じることもある。
先ほど「半分くらい失敗している」と書いたのはこの点で、逆に半分成功しているともいえるのは少なくとも雰囲気だけは“チェンソーマン的なるもの”を表現できているからだ。
本作のように、もし主人公やメインキャラで愚か者という属性を扱いたい場合は、『読者の大半は愚か者が嫌い』って前提を踏まえておかないと齟齬が起きやすい。
・共和国というのは、王様を置かず、いくつもの政治機関で権力を分け合う仕組みだ。
イメージとしては、「大統領も首相もいなくて、議会といろんな役職で分担している国」くらいで考えてもらえばいい。
ポイントは、「権力は分けておくから、誰か1人が王様みたいにならないようにしようぜ」という思想だ。
つまり、ローマの人たちは「王様はもうコリゴリ」という前提からスタートしている。
つまり、「国としては勝ってるけど、庶民的には全然勝ってない」という状態が長く続く。
そこに登場するのが、「グラックス兄弟」という改革派の政治家たちだ。
彼らはざっくり言うと、「富の偏りをなんとかしたい」と考えた人たちだ。
そして、彼らはグラックス兄弟を政治的・暴力的に潰してしまう(暗殺や暴動の形で消されていく)。
ここで重要なのは、「政治対立が、議論や投票ではなく、物理的な排除に踏み込んだ」という点だ。
これによって、
この時点で、ローマの共和国はすでに「ひびの入ったグラス」になっている。
見た目はまだグラスだけれど、一度ついたヒビは、後からの圧力でいくらでも大きくなる。
次の大きなターニングポイントは、「軍隊のルール」が変わったことだ。
もともとのローマ軍は、
という仕組みだった。
しかし、貧困や格差が広がると、「土地を持たない人」が増えていく。
彼はこういう発想をする。
これによって、兵士たちの「忠誠の向き」が変化する。
今までは国家のものだった軍事力が、「特定の個人に忠誠を誓う集団」に変わり始める。
ここで生まれるのは、「強いカリスマが軍隊を握れば、その人は国そのものを動かせてしまう」という可能性だ。
まだ帝政ではないが、「帝政を可能にする設計変更」が静かに行われた瞬間と言える。
彼はマリウスと対立する立場にいて、政治的にも軍事的にも激しく争う。
一言でいうと、「自分の軍隊を連れてローマ市内になだれ込んだ」ことである。
これは、それまでのローマの常識からすると完全な禁じ手だった。
スッラはまさにそれをやった。
その結果、
しかし、「軍事力を背景にした個人独裁」は、一度実物として実行されてしまった。
その後どうなろうと、
という事実だけは消えない。
まとめると、カエサルが登場する前の時点で、すでにローマには、こんな「地ならし」が済んでいた。
つまり、システムとしてのローマ共和国は、見た目だけ残して中身がかなり壊れていた。
あとは、「それをうまく利用して、自分の権力を安定的に築ける人」が現れるのを待っている状態だったと言える。
ここでやっと、カエサルが登場する。
でも、彼がやったことのかなりの部分は、「すでに誰かがやってしまったことの、もっと洗練されたバージョン」だった。
カエサルは、この「壊れた共和国」の隙間を、天才的な政治感覚で走り抜けた人物だ。
そして、彼が最後に「終身独裁官」という立場を手に入れたとき、人々の多くは、もはやそれを完全に想像の外の出来事だとは思えなくなっていた。
むしろ、「ここまでいろいろ壊れたなら、強いリーダーが出てきてまとめてもらうしかないのでは」と感じていた人も少なくなかった。
彼は、自分の作り出した権力構造を、長期的に安定させるところまでは到達できなかった。
そして、カエサルのあとに登場するのが、彼の養子アウグストゥス(オクタウィアヌス)だ。
この人こそ、「ヤバいのはそのあとに出てくる人」の典型だと言える。
アウグストゥスは、
という、「やりすぎライン」を熟知していた。
形式上は、共和国の制度を残し、自分は「第一人者」「一番尊敬される市民」というポーズを取り続ける。
しかし裏では、
ということを長い時間をかけて行い、結果として「帝政ローマ」を完成させる。
こうして、ローマは見た目は「昔のままの共和国っぽい」殻をかぶったまま、中身だけ完全に帝国へと変わっていった。
グラスは元の形をしているけれど、中身の液体は完全に別物になってしまったわけだ。
このローマの話を、現代のアメリカ政治――とくにトランプ現象――に重ねてみると、かなり不気味な共通点が見えてくる。
みたいなかたちで起きていると考えられる。
その上で、トランプという人物は、「それまでのタブーをかなり壊してしまった人」として位置づけられる。
という、ある種「粗削りな破壊者」でもある。
だからこそ、「彼がすべてを決定的に作り変えてしまった」というよりは、
「ここまでやっても、こういう反応が返ってくるのか」という実験データを世界に公開してしまった人、とも言える。
そうしたことを、冷静に学習し、かつ倫理的ブレーキが薄く、しかも知性と戦略性を備えた人物が登場したとき、状況は一気にローマの「アウグストゥス期」に近づいてしまう。
…というところだ。
ここで一番怖いのは、「アウグストゥス型」の人物は、むしろ多くの人にとって安心できるリーダーに見える、という点だ。
カエサルやトランプのようなタイプは、乱暴で、スキャンダルまみれで、敵も味方も疲れさせる。
だが、彼らの後に出てくる人は、もっと静かで、もっと穏やかで、「常識人」に見える可能性が高い。
その人はおそらく、こう言うだろう。
ここで重要なのは、「一時的に」という言葉が、どこまで本気か、ということだ。
ローマでも、アウグストゥスは最初から「永遠の皇帝」を名乗ったわけではない。
あくまで「共和政の再建」「秩序回復のための特別な役割」として権限を集め、その状態を少しずつ「常態」にしていった。
人々のほうも、疲れ切っている。
長い対立と混乱を経験し、もうこれ以上の不安定さには耐えられないと感じている。
だから、「ちょっとくらい強い権限を持つ人が出てきても仕方ない」と、自分たちを説得し始める。
こうして、「主権を手放すプロセス」は、暴力ではなく、安堵と引き換えに進行していく。
ここまでのローマ史と現代政治を重ねると、「本当にヤバいもの」の正体が見えてくる。
それは、
ではなく、
だ。
最初はみんな、「そんなことはありえない」「それは民主主義の否定だ」と拒否する。
けれど、何度もタブーが破られ、何度もスキャンダルが起き、何度も「これは前代未聞だ」と叫んでいるうちに、その「前代未聞」が日常のBGMになっていく。
そしてある段階で、人々はこう考え始める。
この心理状態こそが、「アウグストゥス型のリーダー」が最も入り込みやすい隙間だ。
彼(あるいは彼女)は、壊れた世界の中で、いちおう秩序と繁栄を提供してくれる。
見た目の安定が続くかぎり、多くの人は「何かを根本から取り戻す」という発想を忘れていく。
ローマでいえば、「もう共和政の時代に戻ろう」と本気で考える政治エリートは、世代を重ねるごとに少なくなっていった。
気がつけば、「皇帝のもとでの政治」があたりまえの前提になり、かつての共和国は「歴史の授業で覚える古い言葉」に変わってしまう。
ここまでを踏まえて、「ヤバいのはトランプじゃなくて、トランプのあとに出てくる人なんだよな」という直感を言い換えると、こうなる。
この「拡張された許容範囲」を、冷静に計算して使う人こそが、本当に危険な「次の人」だ。
トランプ本人は、敵も味方も巻き込みながら暴れ回る分、その危険性が視覚的・感覚的にわかりやすい。
「これはヤバい」と直感できるからこそ、反対運動も組織されるし、メディアも警戒する。
しかし、「そのあとに出てくる人」は、もっと滑らかに、もっと言葉巧みに、似たような力を使うだろう。
表情も穏やかで、スーツもよく似合い、言葉遣いも洗練されているかもしれない。
ただし、参照しているマニュアルは、トランプの時代に書かれた「ここまではやっても大丈夫だったリスト」なのだ。
ここで、「だからこうすべきだ」ときれいに言い切るのは簡単だ。
「市民ひとりひとりが政治に関心を持ち、権力を監視し続けなければならない」とか、「メディアリテラシーを高めよう」とか、教科書的な結論はいくらでも書ける。
けれど正直に言えば、ローマの例を前にすると、人間社会がそこまで賢く振る舞えるのか、かなり心もとない。
疲れと慣れと、目の前の安定への欲求。
だから、このエッセイでは「答え」を出さないまま終わるのが筋だと思う。
ただ一つだけ言えるとすれば、
「トランプ的な人物が現れたとき、その人だけを異常値として消費してしまう」のではなく、
「そのあとに出てくる、もっと静かで整った“次の人”を想像すること」自体が、最低限の予防線になる、ということだ。
古代ローマの物語は、もう二度と繰り返されない“昔話”ではなく、
「権力と社会が出会うとき、だいたいこういう順番で壊れていく」という、一種のテンプレートとして読み直すべきなのかもしれない。
「トランプみたいな人が一度通過したあとの世界で、まともそうな顔をして現れる誰か」のほうなんだよな。
その誰かの名前を、まだ知らないうちに。
スピッツが好きだった。
だった、と過去形にするにはまだ早いかも知れない。けれども、少なくとも”好き”の熱量は数年前に比べて確実に減少している。
それはまあ、長年好きで居続けたら同じ熱量を保つ方が難しいとも言えるのだが、そのきっかけがまさか『ロックロックこんにちは』だとは自分でも予想していなかった。
『ロビンソン』が大ヒットしたタイミングで曲を耳にし、綺麗な声と不思議な歌詞だな、と気になり始め、その後CMソングに採用された『渚』を聴いて、このバンドの曲をもっと聴きたいと思うようになった。
その頃はサブスクなどというものはなく、それどころかインターネットもまだ黎明期といった時期で、音楽を聴くにはCD(あるいはカセットテープ)を買うかレンタルするかという手段しかなかった。
貧乏学生だった私にはおいそれとアルバムを買い集めることはできなかったため、レンタルショップでスピッツのアルバムを借り、それをカセットテープにダビングして何度も何度も曲を聴いた。
それまで、ある曲が良いと思っても、そのミュージシャンの他の曲にはピンとこないというのをくり返していた私にとって、どのアルバムのどの曲もストライクとなるミュージシャンはスピッツが初めてだった。
『ロビンソン』でのブレイク後だったから、チケットぴあに開店前から並んでもライブのチケットはなかなか取れなかったが、奇跡的に手に入れたチケットでのライブは夢のようなひとときだった。
働き始めてからはファンクラブにも入会した。スポンジのような大地のような、未だに何なのかよくわからないモチーフ(多分スピッツベルゲン島?)の会員カードが送られてきたのを覚えている。
その頃のファンクラブ会報はA5を縦半分にしたぐらいのサイズで、紙質もそこまで良くはなく、おまけにフルカラーではなく多色刷りだったが、雑誌では読めないメンバーのコメントが見られるのは毎号楽しみだった。
このファンクラブ会報は、私が25年以上の間スピッツのファンでいられたことに、そして、私の中のスピッツ像の形成に少なからず寄与していると思う。
何故なら、会報を通して見るメンバーの雰囲気が、「仲良し」以外の何者でもなかったからだ。
初期の頃の内容はあまり覚えていないが、いつからか続いているシリーズとして、メンバー4人があちこちへ体験に出かけるというものがある。
風鈴を作ったり、お皿に絵付けをしたり、うろ覚えだが乗馬をしていた号もあったような気がする。
ともかく、そのシリーズでのメンバー4人はとても和気あいあいとしていて、学生の頃に結成したというバンド当時の雰囲気をそのままキープしているように見えた。
会報のみならず、音楽雑誌のインタビューやMV撮影秘話などでも、メンバー同士の仲の良さ・雰囲気の良さには結構な頻度で言及されていた。
さらに、邦楽バンドの解散がいくつか続いた時期に、メンバーの一人が「皆、どうして解散しちゃうのかな」と呟いていたのを会報で目にしたこともあった。
それほどまでに、彼らの距離感は絶妙だった。付かず離れずである一方で、学生の頃のような友人同士の無邪気さをいつまでも保ち続けていた。
不思議なもので、メンバー間の雰囲気が良いと、何となくメンバー自身が穏やかで良い人のように見えてくるものだ。
いや、これではまるで「スピッツは本当は過激で悪い人たち」だと言いたいかのようだ。そんなつもりは毛頭ない。
会報や雑誌インタビュー、ラジオなどでの数々の発言からして、どちらかに分けるとすれば彼らは間違いなく「善人」である。
ロックミュージシャンらしく、ある程度の毒を持ってはいるけれど、基本的には良識を持ち互いを尊重し合う人たちだと思う。
これまでに不倫や脱税と言った俗っぽいスキャンダルもなく、解散や不仲の噂が出たこともない。
取材の場となったファミレスから出て行く時は、後ろに続く人のためにドアを押さえてあげるような、そんな当たり前の善性を持った人たちだ。
だからこそ、私には、『ロックロックこんにちは』(以下、ロックロック)に彼を招いたという事実が飲み込めなかった。
(※ここでは「彼」を攻撃・中傷する意図や、トラブル自体の是非を問う目的は全くなく、あくまで推しと自分との距離感が崩れたきっかけとして取り上げています。)
その人の名前はここでは伏せるが、過去にあるトラブルがあったミュージシャンである。彼の名が出演者リストに記載されていた時、何故、という気持ちがどうしても拭えなかった。
かと言って、トラブルがあったのだから二度と表舞台に出ないでほしい、と言いたいわけではない。
きちんと決着をつけたのであれば、音楽活動を再開するのは自由だと思う。
そして彼は、詳細はわからないものの、決着がついたという報道もされていた。そこをファンの方が支えたり、同じミュージシャン仲間が手助けしたりすることに異を唱えるつもりはない。
でも、その役割をスピッツに担ってほしくはなかった。否、見えないところで支援する分には文句をつけるつもりはないが、大っぴらに主催イベントに呼んでほしくはなかった。
私にとってスピッツは、本人たちがトラブルとは無縁であるのは勿論のこと、そういった出来事に寛容である姿勢を見せない存在でいてほしかった。
ロックロックの出演者は、主催であるスピッツが選定する。何故彼なのだろう。ロックロックなら出たいと望むミュージシャンなんて山ほどいるだろうに。そう思わずにはいられなかった。
呼ぼうとするだけの強い理由が何かしらあったのだろうが、それが何であれ、私にとっては受け入れることはできなかった。
つまるところ、私はスピッツに対していつしか夢を見すぎてしまっていたのだろう。神格化していたと言ってもいいかも知れない。
私の中のスピッツが持っていてほしかった線引きと、実際のスピッツのそれとで食い違いがあったというだけの話である。
だが、その「だけの話」で、私の中の熱量は確実に減ってしまった。
何もスピッツの誰か(あるいは全員)がトラブルを起こしたわけでもあるまいに、この程度のことで冷めるなんて本当のファンとは言えないのではないか、そう悩んだ時もあった。
けれど、そもそもこちらは彼らの曲に感情を揺さぶられてファンになった身である。その感情に冷水を浴びせられて冷めることに、何の不思議もない。
今、私にとってスピッツはゆるやかに「かつて好きだったバンド」になりつつある。それでも、年間通して一番聴いているのはやっぱりスピッツの曲なのだ。
今後発表される新しいアルバムにまた感情を揺さぶられて熱量が戻るか、もしくは戻ることがないままになってしまうのか、それはまだわからない。
できれば、また以前と同じように好きになりたいと願っているけれど、心のどこかでもう戻ることはないのではないかと思っている自分もいる。
なぜ君は詫び寂び的ミニマリズムが大事な映画をモリモリにしてしまうのか、60点。
夫を亡くしたシングルマザーの主人公はそうは言うてもなぁという感じでマッチングアプリで3か月やり取りをした男性と初デート。妹に息子の世話を任せ高層ビルの上の方にある高級レストランに向かう。なんか感じよさそうな男性と話していると急にスマホにドロップメッセージが。よく見るとそれは主人公の家で、覆面の男が銃を持って侵入するところだった。そしてその相手から次々とメッセージで指示が届くようになる。それに従いながら犯人捜しを行う主人公。そしてメッセージはマチアプで出会った相手の殺害を求めてきた。いったい私、どうなっちゃうの~!?
というようなお話。
いや、おおむねよくできた映画ではあるんだよ。
いわゆるソリッドシチュエーションスリラー、サスペンスに分類される映画で「高層ビルの高級レストランの中で犯人からの指令をこなしながら犯人探しもする」という内容で、そのハラハラとして子供が(実質)人質に取られている。めちゃくちゃウザいウエイターや、謎のナンパ男、同じくマチアプで失敗した老カップルといった一癖ある登場人物がそこに絡んできて怪しいのはどいつだ、こいつを利用してこの窮地を乗り越えられないかとこっちもいろいろ考えながら見られてその体験は楽しい。
ドロップメッセージが来た時点でスマホはクローン化されており自分のスマホからは通報ができないし、指示の内容からどうやら犯人もレストラン内にいるようで他人のスマホを借りて通報するのも難しい。見られたら子供が殺されてしまうかもしれない。と、こっちがあーすればええやん、こーすればええやんと思うことは主人公も試してみるしそれに対する答えも用意してくれている。
ここまではめっちゃよかったんだけどさぁ。
で、ネタバレするんだけど、犯人の目的は最初からマチアプの相手で実はそいつは犯人グループのスキャンダルを握っててこの後それをチクりにいく予定だったのでその前に殺したろwってなって、主人公を利用することにしたという話になってくる。まぁ、悠長な話だし、こんな素人女にやらせて失敗する確率高すぎやろみたいな部分はまぁ置いておいて、レストラン内にいた犯人と対峙し、話を聞き、意を決した主人公はマチアプ男性に毒の入ったウォッカを飲ませる。
と見せかけて、犯人のデザートに毒を盛る。ここ、犯人も毒を飲んでいる(と見せかけられている)ターゲットを見ていたので手元がお留守になっていたという描写が入っているのも、ちゃんと細かくてよい。のだが、その後、主人公はドヤ顔でその種明かしをし、犯人はブチ切れて銃を懐から取り出してターゲットと主人公を撃ち、逃げ惑う主人公、追いかける犯人。最後に犯人の銃撃でひび割れた窓ガラスを主人公が機転を利かせてぶち割って気圧差で犯人は落下、一緒に落ちかけた主人公をすんでのところでマチアプ男性が救うのだった。という大見せ場1がある。
でもさぁ、これ結局、主人公が犯人を上回って毒を犯人に飲ませました、という反撃カタルシスがなくなっちゃってるよね。べつに毒飲ませなくてもその場で真実を暴くだけでも同じ展開になった。
そしてそこから主人公は家に向かって今度は家の中の襲撃犯VS妹→襲撃犯VS主人公のアクションパートになる。
これも、元々のソリッドシチュエーションサスペンスの文脈から浮いてる。犯人が分かる前まではかなり抑えたトーンのガチサスペンススリラーやってたのに犯人が分かってからはなんか急にこいつ雑になったな、予算余ったのか?ってなった。べつにそこまで含めてもっと静かなトーンでうまく知略を尽くしてやれんかったんか。
あと、冒頭、血まみれの主人公が謎の男に向けて銃を構えて「撃てよ!」と脅されるシーンから始まってカットが切り替わって現在になるので、犯人との死闘の末そうなるのかと思って見てたら、実はそれは元旦那で薬チュウで頭がおかしくなってて子供を撃とうとしていた、それを守るためだったんだけど結局主人公は撃たず、旦那はそのまま自殺しちゃったという話だったのがわかるんだけども、家に侵入していた襲撃犯との最後で主人公は襲撃犯に向けて同じように銃を構えて今度は撃つ。
これってさぁ、なんか対応関係になってる?この話の展開だったら「撃たなかったことで救えなかったが今度は救えた」という話になるべきだと思うんだけど、話的には「撃たなかったけど手を汚さずに救えたけど、今度は撃って手を汚して救えた」になってて、あんまうまくハマってないなって思った。むしろ悪くなってる。
まぁそんな感じかな。
少なくともメインの話の「高層レストランで犯人から脅迫されてミッションをこなしながら犯人探しをする」の部分は強度が高いのである程度の満足感はある。問題は、最後のドタバタを「サービス精神」とみるか「蛇足」とみるかだと思う。俺的にはなんかもうちょっと関精度高められたんじゃないかなという気持ち。まぁ、ソリッドシチュエーションサスペンス好きにはそこそこオススメ。
arjen__robben 増田がSNSとワイドショーしか見てないのはわかった 救いようのないアホ
2026/03/13 18:19
nP8Fhx3T これは国会で行われてる質疑を一通り確認した上で言ってるの?見てるのはネットに流れてる上っ面の情報だけだったりしない?
2026/03/13 17:05
残念だが、新聞も似たようなことを言ったり載せたりする
妥当な見解かどうかは別として、そういう意見を流布したかったり、そこまでいかなくても無批判に流しても問題無い意見だとみなしてたりする人が相当いることは確か
中道「政策対決型」に…不祥事追及から 論戦に重点 衆院予算委 : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20260228-GYT1T00008/
中道改革連合は27日、結党から初めてとなる衆院予算委員会の質疑に臨んだ。スキャンダルの追及は控えめで、政策で論戦を挑む「政策対決型」の姿勢をアピールした。
(略)
https://www.yomiuri.co.jp/note/yomiuri-sunpyo/20260116-GYT8T00072/
〈一番生じやすいのは一八〇度の変化である〉と、臨床心理学者の河合隼雄さんは自著に書いた。例えば――
(略)
立憲民主党と公明党が新党を結成する運びとなった。180度の変化とみたのは早計だったようで「中道」勢力の結集をめざすという。いわば90度の変化である
(略)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO90119380Y5A710C2MY6000/
外務省のチャイナスクールを歩んできた筆者が中国との交渉の具体的なエピソードを交え、そこから中国の実像をさぐった。
(略)
政治家の評価も興味深かった。自民党の菅義偉元首相や二階俊博元幹事長には敬意が感じられ、旧民主党の菅直人元首相らには手厳しかった。与党批判だけで政権の座を射止めても外交・安全保障政策は難しい。現在の一部の野党にも通じる教訓である。
https://anond.hatelabo.jp/20260305144501
ブコメで「正当な批判だ」「キャンセルカルチャーではない」みたいなの見えた気がするんだけど
3.関係者が逃げ始める
まさか、全員が抗議の意味で逃げてると思ってる人はいないよね?
6.SNSで裁判が始まる。「炎上した人や組織がどう裁かれるべきか」の合意形成をし始める
7.明確に言葉にして叩き始める
8.不買運動など、行動し始める
ここらへんがキャンセルカルチャーね、日本はあまり8まではいかないんだけど
文春とか暴露系Youtuberが関わってくるのが6とかそのあたり
ここからさきは「何が問題か」じゃなくて「どう罰を与えるか」になるから、つまり「暴動」なんですよ
わかるかな
欧米でたまにあるじゃん?何かの不満でデモが起こると思ったら暴動になるやつ、あれだよ
個人的に4までは良いんじゃねと思ってるが、無関係な第三者が石を投げ始めたらもう終わりよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/umadori0726/archives/61935892.html
そもそも論としてこの手のまとめサイトは誹謗中傷のコメントを匿名掲示板から拾ってきて選んで載せてるんだから、あきらかに作り手の意思でやってるんだよね。「俺はただ拾ってきただけだから」なんてのは通用しない
↑トップ人気コメのこの主語の大きさでこの二つを括られるのはちょっと違和感あったので、書き残しておく
ちなみに筆者は新生ver2.1ぐらいからプレイして、暁月(ver6)まではリアルタイムでプレイ、黄金(最新のver7)で幽霊化(課金は継続)したプレイヤーです。
両サイトは暁月まではほぼ日課で見てて、黄金からはたまに情勢を知るために覗いてた感じ。
あとネトゲ速報っていうのが自分の中で馴染んでないので旧名のFF14速報と書きます。
この二つのサイト、FF14まとめサイトとしては老舗で自分がプレイし始めたころの前後にはもうあった記憶がある。
当初は馬鳥のほうが人気でFF14速報は2~3番手、ほかにはえふまととかがあったかな?
なので、当時はとりあえず最新の攻略の記事みたい、ユーザーのリアルな反応みたい、コメントしたいとかであればまず馬鳥だったと思う。あとはまぁ5chスレとか。
この頃は正直馬鳥含め、どのまとめサイトもそんなにお行儀良い感じではなかった。(まぁ、MMOのコミュニテイなんて煽り上等な部分もあるからね)
ただ年月経て、ネトゲ特有の色々な騒動・諍い(バトル&ジョブバランス・チート・MOD・ツール・レイドレース諸々)を重ねた結果、
一時期から公式が明確に「スタッフを攻撃するような言動は避けてほしい」という声明をPLL(公式放送)などで出すようになった。
この辺りから、馬鳥速報とFF14速報のあり方が変わっていったと思う。
まず馬鳥はコメントのモデレートが厳しくなった。それまではよくみられたネトゲコミュニティや5chノリで書かれた中傷に近いコメントがよく削除されるようになった。
FF14速報もやってないわけではなかったが、クリティカルにやばいやつだけは消されるぐらいの温度感で、どぎつい罵り・煽り合いは引き続きよくある感じであった。
記事の取り上げ方も違いが出始めて、FF14速報のほうは良くも悪くも運営忖度なく速報性と話題性を重視して炎上・スキャンダルネタもどんどん上げていたのに対して
馬鳥の方は運営側目線だとセンシティブにならざる得ないトピックの場合、とりあげない・状況をみて上げるといった姿勢が見て取れたと思う。
なので、時には馬鳥は運営に忖度してるとか言論統制とか言われたりするのをみることもあった。
(一応補足すると、馬鳥がじゃあそこまで清廉だったかというとそうでもなく、ジョブバランスなどでコメントバトルが起きるなどは普通にあった)
結果どうなったかというと馬鳥から徐々に人が離れてFF14速報のほうが盛り上がるようになっていった。
皮肉な話だが、やはりMMOにおいてバランス談義だったりレイドレースにおけるチート&ツールスキャンダルだったり、忌憚なくコメントできる場としてFF14速報の方に分があったということかと思う。
コメント100を超えることが珍しくなかった馬鳥で10~30程度しかつかなくなることが多くなった代わりに、FF14速報の方は煽り合い上等でコメント欄がどんどん盛り上がるようになっていった。
特に、黄金になってゲーム自体のユーザー評価が落ちてからは、スタッフへの揶揄ときには暴言も厭わない状況が続いてたと思う。
で、最終的にFF14速報改めネトゲ速報がスクエニから訴えられて<イマココ、ってわけなのだけれど。
今回の馬鳥閉鎖の管理人コメントにも理由の一つとして以下のようにある。
さらにまとめサイト「ネトゲ速報」が閉鎖されあちらのユーザーがこちらに来ているのかコメントの対応・削除などが非常に大変になりました。
長年両方見てきたものとしては「まぁ、そうでしょうね」と言わざるを得ない。
サイトから人がいなくなるわ、治安悪い人種が戻ってくるわ、さらにゲーム自体の評判も芳しくないわでそりゃ運営モチベも続かんであろうというのは想像に難くない。
ただ、残念に思うのは馬鳥のほうは、基本的に治安良くないまとめサイトではあるが、その範疇でここ数年それなりに運営の方針に沿った姿勢をみせていたにも関わらず、この結果に至ったことだ。
それを見続けてきたものとしては、やっぱり「まとめサイトだから」でこの二つを一括りにされてしまうと、どうにも座りが悪いのでこうして文を残すことにしたわけである。
新パッチが当たるたびに、装備の写真を上げてくれたり(ミラプリ勢としては重要)、攻略動画のリンクまとめてくれたり、ほんと助かってたよ。
漆黒〜暁月の最盛期すごかったよな。人気キャラ投票とかやって、コメント付きで記事あげてくれたりしてたよな。メインシナリオ考察まとめとかもよかったよ。
人の話をするのが最も低次元な層で
中量の層は物や流行の話をし
上位層は仕組みや構造の話をする。
実際に社会を見たときに芸能人のスキャンダルなどを週刊雑誌で好むのは低次元だと感じる。
それよりは物や流行の話をしてた方がマシだし
仕組みや構造の話は頭が良くないとしにくいので高度だとは思う。
人間らしくないとか感情が見えなくてつまらないとかいう人はいるかもしれないが、そういうレイヤーに付き合うつもりがないってだけで・・・
出したくもないのに感情や主観の話をするかどうかってそんなものは話す側の勝手だろ。
https://ugl.theletter.jp/posts/3531dd7d-f2c0-4b5b-bb6f-7ed70db65e7b
波乱万丈という言葉すら生ぬるい、圧倒的なリアリティで読者を魅了する作家・沖田臥竜(おきた がりょう)さん。
沖田臥竜さんは1976年、兵庫県尼崎市で育ちました。少年時代から暴走族や右翼団体に身を置くなど荒れた日々を送り、21歳で山口組系の組織に加入。その後、傷害致死などの事件で通算約12年もの獄中生活を経験しています。
きっかけ: ラジオで聴いた浅田次郎氏の『鉄道員(ぽっぽや)』に深く感銘を受ける。
読書体験: ミステリーやハードボイルドを中心に1,000冊以上を読破。
執筆の始まり: 独学で小説を書き始め、それが現在の創作活動の礎となりました。
2014年、所属していた二代目大平組の解散を機にヤクザを引退。翌年からアウトロー情報サイトでの執筆を開始し、瞬く間に注目を集めました。
彼の作品の最大の特徴は、自らの実体験に基づいた圧倒的なリアリティです。しかし、単なる暴力描写に留まりません。
「登場人物に完全な悪を設定せず、クスッと笑える要素を交えながら、最後には感動させる」
『ムショぼけ』: 長期服役後の社会復帰をコメディタッチで描き、2021年にドラマ化。
『インフォーマ』: 桐谷健太さん主演でドラマ化され、Netflixでも世界配信されるなど大きな話題に。
『生野が生んだスーパースター文政』: 鮮烈なデビューを飾った処女作。
沖田さんの活動は執筆だけに留まりません。その知見とキャラクターを活かし、多方面で活躍しています。
メディア 『AbemaPrime』等の番組で事件解説やコメンテーターを担当
映画・ドラマ 『ヤクザと家族 The Family』の所作監修や『全裸監督2』の取材協力
音楽 ヒップホップユニット『LGYankees』に加入し、作詞を担当
ビジネス オンラインサロン『沖田倶楽部』の運営、調査会社の経営
沖田氏の代表作『インフォーマ』は、情報の価値と裏側を扱う物語ですが、この記事自体がまさに現実世界の「インフォーマ」として機能しています。
単なる感情的な批判ではなく、「校了後の確認依頼」や「編集部内での怒号」など、当事者にしか知り得ない具体的な内部事情を晒すことで、告発のリアリティと破壊力を高めています。
通常の作家であれば、大手出版社である小学館との関係が悪化することは死活問題であり
ここまで露骨な批判は避けるのが業界の常識です。しかし、彼は以下の信念で動いているように見えます。
・損得勘定抜き: 「二度と仕事をしない」と明言することで、自らの退路を断ち、言葉に重みを持たせている。
・独自の正義感: 恩義(亡き友人が紡いだメディアミックス)を仇で返されたと感じた時の怒りが、執筆の強い動機になっている。
特に『セクシー田中さん』の件に触れ、「何も学んでいない」と断じる部分は、現在の出版業界が抱える最も痛いところを突いています。
「作家と編集者は工務店と職人の関係」という比喩も非常に分かりやすく
クリエイターが軽視されがちな構造的問題を、彼らしい荒っぽい、しかし核心を突く言葉で表現しています。
「表現者としての尊厳を守るための宣戦布告」と言えるでしょう。
元ヤクザでありながら芥川賞を目指し、純粋な作家として評価されたいと願う彼にとって
自身の作品や関わるクリエイターたちが不当に扱われることは、自身の生き方そのものを否定されるに等しい屈辱だったのかもしれません。