はてなキーワード: ひとつとは
寿司の作り方
4.このスシはお前の人生そのものだ。お前はいつも失敗ばかりだ。
5.お前はいろんなことに手を付けるが、ひとつだってやり遂げられない。
6.誰もお前を愛さない。
コミュ障、ADHD、報連相壊滅、書類は誤字祭り、会議では空気読めない発言を連発。入社半年で「増田くんは……うん……」という目で見られるようになった。あの憐れみと諦めが混ざった視線、一生忘れない。
月20ドル。当時の俺の時給より高い。でも「これで無能な俺でもなんとかなるかも」という藁にもすがる気持ちだった。
最初は日報の文章を直してもらっていた。俺が書くと「本日は利用者様と活動しました。楽しかったです」みたいな小学生の作文になる。これをGPTに投げると、ちゃんとした社会人の文章になって返ってくる。魔法かと思った。
そのうち調子に乗り始めた。
「Googleフォームの回答をスプレッドシートで自動処理するスクリプト作って」
返ってきたコードは一切読めない。何が書いてあるかわからない。でもコピペして実行すると、動く。なぜ動くのかは知らない。今も知らない。
「これ増田に頼めばすぐでしょ」
いや、俺じゃなくてGPTに頼んでるんだが。
でも誰もそこには気づかない。俺が関数を関数とも呼べないレベルだということを、誰も知らない。VLOOKUPとか言われても「なんかVがつくやつ」くらいの認識しかない。それでも「増田はパソコン得意だから」で全部片付く。
うちの職場、紙のタイムカードをExcelに手打ちしていた。毎月、事務のおばちゃんが1日かけて転記していた。
俺はGPTに「タイムカードの写真から勤怠データを読み取ってExcelに入力するスクリプト書いて」と頼んだ。3時間くらい試行錯誤して、なんか動くものができた。
いや、俺は「できた?」「エラー出た」「これ貼って」を繰り返していただけなんだが。
福祉業界で3年目の若手が本部に行くのは異例らしい。上司には「君のITスキルを組織全体に展開してほしい」と言われた。
俺がやってることは「AIに聞く」「出力をコピペする」「動かなかったらエラーを貼ってまた聞く」、これだけだ。知識じゃない。技術でもない。ただの課金と根気だ。
正直に言う。
毎日、めちゃくちゃ怖い。
「増田さん、これどういう仕組みですか?」と聞かれるたびに心臓が跳ねる。
説明できない。自分で書いてないから。「いや〜、ちょっと複雑で……」と誤魔化すたびに冷や汗が出る。
同僚がChatGPTを使い始めたら終わりだと思っている。
「ていうか、増田いらなくない?」
そう気づかれる日が来るのが怖い。
「こういう業務が面倒」「これを自動化したい」「このフローは無駄」という問題意識は、俺の頭から出てきている。AIはそれを形にしてくれているだけで、「何を作るか」を決めているのは俺だ。
ひとつ確実なのは、俺と同僚の差は「早く課金したかどうか」だけだったということ。
2023年の春に「月20ドルくらいなら払ってみるか」と思ったかどうか。それだけ。
来月も払う。
姪っ子が高校に合格した。その子の祖母である私の母は孫の合格に喜び、落ち着いたらお祝いパーティーしようと言っていた。もちろん私もおばとしてとても嬉しいし、本人にもおめでとうと伝えた。
でも、その時に「私が高校に合格した時はこんなにお祝いムードなかったな」って思った。思ってしまった。
私は三人兄妹で、全員県内トップの進学校出身だ。大学も全員そこそこ有名なところに進学している。そのことを今さら自慢したいとか、誇りに思ってるなんてことはない。全員、今も昔もその他大勢のひとりだ。でも、母が姪っ子を褒めた瞬間に、私もそんな風に言ってほしかったんだなって約二十年ぶりに気付いた。
自分も子供がいるのにこんなことを思うなんて恥ずかしい、大人になりきれてない自覚があって誰にも言えない。ここにしか書けない。
これは姪っ子に嫉妬してるわけではない。姪っ子に対しては本当に何ひとつ悪感情はなく、完全に「母」と娘である「私」の問題。
でも、これに気付いたことで、親に褒められるのがどれだけ重要なことかわかった。自分の子ども達はたくさん褒めようと思う。すごいすごい、って言いまくろうと思う。
ずっと前、友達からこんな話をされた。「お母さんが姪っ子に大きなクリスマスツリーをプレゼントした。小さい頃、どんなにお願いしても私たち姉妹には買ってくれなかったのに」って笑いながらもちょっと不満も含めたような調子だった。そのとき私にも既に姪っ子がいたけどあまり共感できず、そんな気持ちになる人もいるのかーって感じだった。「まあ孫には責任ないし、ばーばは片付けのこととか考えなくていいもんね」って二人で笑った。今なら分かる。その子にとってのクリスマスツリーは私にとっての合格祝いだったのだと思う。
母はいつも自分で「私は褒めるのが下手。大げさに抱きしめたり褒めたりするタイプじゃない」と言っていた。だから、そんなもんなのだと思っていた。うちは大げさに褒められる文化のない家なのだと。でも母は別に冷たい人ではなく、そういうドライな家なのだと。でも孫にはお祝いムード出せるんじゃん、って思った。同じ母としてわかるような気持ちもある。完璧なお母さんなんていないし。
でも、あの頃の兄や姉や私はお母さんに「すごいね!合格おめでとう!落ち着いたらパーティーしよう!」って言ってほしかったし、もし言ってくれたら何か少し変わってたのかもしれないって思う。大人になりきれてないよね。ごめんね。
解
いじめは無くなりません。人が社会性を持つ限り無くすのは不可能です。このため、個人がいじめを無くしたいと思うかどうかには全く意味がありません。
いじめられるのは理由があります。残念ながら、多くの人にとって不快な人間というのは存在し、そこにはある程度共通の理由が存在します。それは衛生面の問題や文化の相違、コミュニケーション不全など、様々な要因によるものです。しかしながら、質問者様のおっしゃるとおり、それはいじめが良いか悪いかとは関係がありません。人の社会において当然に存在するいじめの要因のひとつを説明しているだけです。
いじめが良いか悪いかという問いにも、あまり意味がありません。なぜなら、いじめという言葉には非常に広範な行為が含まれてしまうからです。集団内のコミュニケーションを円滑にするための生贄としてのちょっとしたからかいから、明確な犯罪行為まで、すべてをいじめとして処理することに問題があります。このため、犯罪行為を適切に処罰することが重要という指摘が存在していますが、教育の場に警察が介入することに対しては学校も警察も抵抗感が強く、実現していません。
「障害」と「甘え」の違いは、「出来ない」と「出来るけどやらない」ですかね?
障害は進めないんですよね前へ。これはもう仕方がない。
甘えはやる気を出せば工夫すれば前へすすめるのに、止まっている状態。もしくは意図的にゆっくりしている状態。
こう言うと「無理してやればできるから私は甘えなんだ…」という層が出てきますが、ペース配分を怠ってはいけません。今走ってもあとで止まったら結局同じことです。
人間ずっと走ることは出来ませんから、自分の持つ力をよく理解し、なるべく前に進んでいけるようペース配分をするのも仕事のひとつ。「今は足が痛いから休んで、変わりにあとで長く走る」は甘えではないですからね。これは作戦。
前へ進もうという努力が有れば甘えには入らない。
この精神科の先生曰く、前を進む意志さえ見せれば障害を理由に開き直っているとは捉えないらしい。
では、ストラテラなど前に進むための薬が身体的な理由で使えないケースでは身体と前に進む方を優先するのかと聞いたら、
といいだし、前に進めなければ迫害されるのをまるで考慮していないような発言をしている。
ちなみに同じ先生に前に進むために飲まなくても地獄であると返したところ、
ストレス発散の方法は他にも山ほどあるのだから、自分の発散方法が偏っているだけなのに、それを「薬が飲めないせい」と逃げてしまうのは如何なものかと、私は思いますけれど。
と言われてしまった。
このように発達障害が絡むケースでは環境調整が大事と教科書ではいいつつ精神科の先生が発達障害をさらに追い込むケースが多い。
なお、診断に関してもかのような現実があり、発達障害が背景にある性格の悪さだと診断がそもそもできず、精神科の治療には金がかかるのに自立支援などが受けられないという問題もあり…
これの関連ですね。
定義的には病気や怪我からくる症状と、元々生まれ持った気質ということで別物ではありますが、これを明確に分けて捉えるのは非常に難しい。
もちろん明らかに障害なものは言うまでもなく障害で良いと思いますが、病気の症状なのかただの性格なのか見分けがつかず、頭を悩ませることも多いです。
結局その程度ならば障害とは言わず、グレーだね診断書は書けないね、ですり抜けて行っちゃうわけです。でも実際は病気の症状ってこともよくあるので、診断書は自信持って書けないけど治療対象ではある、みたいな感じですよね。
0:1ほど振り切れず、かといって全員をフォロバするわけでもなく。中途半端でダセー。
https://zyo.se/ver-la-asistenta
https://zyo.se/pelisplus-la-asistenta
https://zyo.se/pelisplus-idolos
https://zyo.se/pelisplus-zootropolis-2
https://zyo.se/ver-zootropolis
https://www.youtube.com/watch?v=rc4MEllOLhE
千葉真一さん タランティーノに自らを売り込み「ハリウッド俳優」としての地位を不動のものに | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]
https://smart-flash.jp/entertainment/entertainment-news/156002/
1996年に関西デジタルホン(今のソフトバンクの携帯電話部門の前身のひとつ)のCMでクエンティン・タランティーノが起用されていた
上のSmart FLASHの記事には「当時、タランティーノは『レザボア・ドッグス』(1991年)、『パルプ・フィクション』(1994年)といったヒット作品を次々と発表し、ハリウッドを席巻する異才として世界中から注目を集めていた。」とあるが、そう、この時点でタランティーノはまだ長編映画を2本しか発表していない30代前半の新進気鋭の監督だった
でもレザボア・ドッグスもパルプ・フィクションも、当時の日本で超絶大ヒットしたわけではない。当時の日本での興収を見ても洋画トップ10には入っていない(まあ彼の最大のヒットと思われる2003年のキル・ビルも年間15位なのだが)
https://www.eiren.org/toukei/1993.html https://www.eiren.org/toukei/1994.html
凄いな、と思わされたのは、そんな洋画の監督であってもCMに起用されるくらい当時の日本では洋画のプレゼンスが高かったということでもあるし、そんな監督を起用しても良いと現場が判断するくらいにテレビCMの世界がクリエイティビティの高い業界だったということでもある
確かにタランティーノは日本映画からの影響をことあるごとに公言しているし、そのおかげで日本のメディアは取り上げがちだが、であるからして1996年当時の日本においては実は既に一般層(めざましテレビの平均的な視聴者なんかを想定)にも結構知れ渡った存在だったのか? これは増田はCMが流れた当時まだ小学生だったので詳しくわからない。でも実際小学生の私でもどこで知ったのかタランティーノの存在は理解したうえでこのCMを見ていたんだよな(むしろ千葉真一がわからない)
こんなん義務教育で教えとくべきだろって、ずっと思ってるんだけどさ。
なんで「金」についての授業、マジで一切ないんだろうな。
だいたい貧乏な人ほど「とにかく金を貯めろ」って言われて育つじゃん。
でも冷静に考えて、働いてコツコツ貯金するって、金を増やす方法としては一番効率悪い部類なんだよな。
しかも「貯金があれば安心」って価値観、ここ数年でだいぶ怪しくなってきただろ。
物価が上がって、あれ?同じ金額なのに買えるもの減ってね?って、やっと気づき始めてる人も多い。
極端な話、国の政策ひとつで金なんて紙切れになる可能性すらある。
https://m.facebook.com/events/830990116650070/
https://m.facebook.com/events/1254495573192439/
https://m.facebook.com/events/852994200896625/
https://m.facebook.com/events/1437313484761619/
「全体のストーリーを決めずに作り始める」
かつて、いわゆる三幕構成、五幕構成、あげればきりがない、ストーリーの類型などのような王道のストーリーを作って作るやり方があり、それが流行だった時代はあった
いまもそれは存在はしてるが、その構成であまりに多くのストーリーが溢れているし、多くの観客が先を読めるようになってしまった
ストーリーの期待を破るために、主人公が突然死するとか、ストレートすぎる裏切りを入れるのもでてきた
なんで映画館にいかなくちゃいけないのか、なんでお金を払って時間を使ってそれをみなきゃいけないのか、を考えるほど
先の読める安心するストーリーでは観客が満足しなくなったし、早送りでみてストーリーがわかればいい人が増えた
それに、映画監督は、観客の奉仕者ではなく、ほかの大衆と同じように、自分の能力や表現を向上させ続ける欲望も何かに挑戦する欲望もある
だからこそ
このように構成する
それに映画は、ストーリーだけではなく映像や音楽も単体での娯楽であり、ストーリーのオマケや修飾、具現化ではない
ある場合には、総合的に、精神的、身体的な変化を起こさせることが最終目標だろう
何を言っているか1回でわからない映画は最近増えていてバカでもわかるように作れないほうがバカなんて批判もあるが
個人的に好きではない以上の議論を展開するなら、それは理解する側が理解の努力をしないままの議論の拒否だろう
宮崎駿の君たちはどう生きるかを理解できた人がどれだけいるのか?ほとんど批判されずに受け入れられたのか?わからない自分が愚かだと暗黙に認めたんではないのか?
レベルが低いとみなす人の作品だと、わかるように作ってないのがわるいみたいな批判になるのか?
作品をつくる人たちはたいてい大衆よりもずっと周辺情報を調査していて対象に対して進歩や極端な思考を持っているので、意図がそのままわからないことのほうが多い
だから、誰にでもわかるように既定路線で作るのはひとつの方法であるが、それが唯一の正解ではない
もはや、映画のストーリーだけで理解するのは困難で作品がなぜ生まれたのか、その画面がどうしてその構図なのか、社会反応を受けた後の作品がどうかわかるのか
周辺にあるあらゆることを勘案して、戻ってくるものになった
それに、わかったと思うのは表面だけでのことのほうがほとんどで、自分が過去に経験して知識のあるエンタメに似ているか思考の延長にあるだけで、自分の範囲で理解できるかどうかだけ
高等教育への支援が日本を復興させる、と会田誠がXで書いていた。
日本の戦後の復興は、戦後に「偶然」起きたのではない。むしろ戦争そのものが、復興のための下地を、皮肉なほど周到に準備してしまった。戦争は破壊であると同時に、国家をひとつの巨大な工場に変える。資源配分、計画、規格、物流、品質、そして何より、人間の配置と訓練。これらが「総力戦」という名のもとに、暴力的に、しかし異様な密度で組み上げられていく。技術開発とは、研究室の机上で美しく完結する知の遊戯ではない。目的が与えられ、期限が切られ、失敗のコストが極端に高い環境で、試行錯誤を反復し、設計・製造・検査・運用までを一気通貫で回す能力の総体だ。戦争は、その能力を、恐ろしい速度で社会の中に注入した。
戦時の研究開発は、単なる発明ではなく、システムの構築だった。たとえば「技術者」という語は、ひとりの天才の顔を連想させがちだが、実体は違う。設計者がいて、解析者がいて、材料の供給者がいて、加工の技能者がいて、検査の手順を作る者がいて、現場に落とし込む監督者がいる。部品表があり、図面があり、仕様があり、誤差の許容範囲があり、標準化がある。つまり、工学的知識と組織的運用が結びついて、初めて技術は社会に実装される。戦争は、その結び目を強制的に太くした。しかも、若者を大量に吸い上げ、時間を奪い、睡眠と健康を削り、失敗に対する許容を奪うことで、訓練を「圧縮」した。倫理的には呪うべき圧縮だ。しかし能力形成の観点だけを冷酷に抜き出すなら、戦争は、最悪の形で最高効率の訓練装置になり得た。
そして戦後。御存知の通り日本は完膚なきまでの敗北を喫した。当然だ。しかし瓦礫と飢えと混乱の中に、奇妙な資産が残った。焼けた街ではなく、焼け残った手だ。軍需のために鍛えられた設計思考、現場の段取り、試験と改善の習慣、そして「とにかく動かす」ための執念。戦争目的が剥ぎ取られたあと、その手は、民生に向けて仕事を始める。工場は鍋を作り、ラジオを作り、やがて車を作る。品質管理という名で統計が導入され、カイゼンという名で現場が賢くなる。輸出という名で世界と接続され、稼ぐという名で生活が安定する。高度経済成長は神話ではなく、忌まわしき制度と虐げられた技能の合成体・キメラだ。そして、その合成の触媒として、あるいは淘汰圧として、戦争という毒が、過去に撒かれていた──そう言ってしまうと、気分が悪いほどに筋が通ってしまう。敗北はしたが、敗北するためには戦わなくてはならず、戦うためには戦えなくてはいけない。奇妙なことに戦えてしまったことが呪いであると同時に祝福でもあった。真珠湾攻撃は、無条件降伏を経て、米国中を所狭しと走り回るトヨタに至った。まともな経済感覚をもっている米国人は一時期まで日本車を買うのがあたりまえだった。
だからこそ、戦後日本の次なる課題は、戦争なしに繁栄を継続することだった。ここが本丸だった。戦争が供給するのは「目的」と「緊急性」と「資源の集中」であり、その果実として新しい「産業」が結ぶのだ。平時の社会では、それらが自然に生まれない。目的は分散し、緊急性は個人の都合に解体され、資源は合意形成の手続きに溶けていく。ゆえに、平時の繁栄には、別種のエンジンが要る。暴力や強制ではなく、自発性と創造性によって、産業の餌を自分で狩りに行くエンジンだ。そこで登場したのが、大学院という高等教育の訓練装置だ、という物語をわたしたちは信じた。研究という名の訓練。論文という名の競技。専門性という名の武器。産学連携という名の橋。これらを通じて、戦争の代わりに「知」が繁栄を準備するはずだ、と。
だが、いつの間にか装置は、別の生き物を量産するようになった。保身に東奔西走するばかりの大学教員だ。大学院が、主体性の発火点ではなく、依存の温床になったとしたら、それは制度設計の敗北だ。研究費、評価指標、採用、任期、ポスト、学会、査読、ランキング。こうした外部条件が、大学教員個人の内側に「餌は上から降ってくるものだ」という反射を植え付ける。申請書の書き方は教えるが、産業という新しい鉱脈の掘り方は教えない。論文の体裁は矯正するが、社会の問題を嗅ぎ分ける鼻は鍛えない。安全な問いを選ぶ癖、失敗しない範囲での最適化、既存の潮流に寄り添うことによる生存。そうした行動は合理的だ。合理的であるがゆえに、群れは同じ方向にしか動かなくなる。
そしてSNSだ。SNSは思想の市場であると同時に、承認の自動給餌機になった。群れは、空腹そのものを叫ぶことで、誰かが餌を投げてくれると学習する。「分かってほしい」「評価してほしい」「誰かが何とかしてほしい」「政府は間違ってる」。鳴く。鳴くことが生存戦略になる。しかも鳴き声は可視化され、数値化され、増幅される。いいね、リポスト、フォロワー。これらは、栄養ではなく興奮剤だ。満腹にはならないが、空腹の感覚を麻痺させる。やがて、いつまでも上から餌を与えてくれるのを求めて、ぴいぴい鳴き続けるトッチャンボウヤのような元雛鳥の群れができあがる。外敵に襲われない巣の中で、口だけが上を向き、翼は畳まれたまま、眼球だけが光る。自分の脚で地面を蹴るという最初の行為が、いつまでも始まらない。
自分の地位が脅かされるときは自分が悪いのではなくいつも政府が悪い。省庁が悪い。国民の教育水準が、頭が悪い。外で何が起きているのか少し頭を働かせてみようともしない。誰かが群れから外れたことを言ったときは袋叩きにして火にくべる。その結果、誰もが同じことばかり言い続けている。
だが、はっきり言っておく。お前が新しい産業という餌を捕るんだよ。お前がやることになってたんだよ。餌を「作る」のでもいいし、「掘る」のでもいいし、「盗む」のでもない形で「奪い返す」のでもいい。つまり、価値を生むという行為を、制度の他人に外注するなということだ。もちろん少子高齢社会は強力すぎる逆風ではあるが、それさえも誰かのせいに陰謀論めいて帰着させる前に一度よく考えてみたらどうか。産業は勝手に湧かない。誰かが、失敗の責任を自分で引き受け、見えない需要を言語化し、未熟な技術を鍛え上げ、供給網を組み替え、法や倫理の地雷を避け、顧客の怒りと無関心の中で立ち続けた結果として、ようやく姿を現す。論文の引用数のように、キーボードを叩けば増えるものではない。獲物は森にいる。森に入った者だけが、血の匂いと風向きを知る。
お前たちは選択と集中ではなく研究者の自発的な興味や関心が大事という。
では聞くが、お前たちはお前たちが学生だった頃の自分たちに恥じることはないだろうか。
お前たちは、お前たちが知りたいと思ったことを、お前たちが知りたいと思ったかたちで、明らかにしつつあるのか。
わたしは大学の門をくぐったとき、自分が畳の上で安らかに死ねるとは思わなかった。畳の上で死ぬというのは、単に死に場所の話ではない。生が、社会と和解しているという感覚だ。努力が見返りに接続し、未来が計算可能で、家族が暮らし、老いが制度に回収されるという約束だ。だが、あのときのわたしには、その約束が見えなかった。見えなかったというより、最初から信じる気がなかった。自分は、本と論文と電線の塵芥の中で、目を開けたまま息絶えるのだと思った。研究室の片隅で、半田の匂いと紙の埃にまみれて、未完成の仮説を握ったまま、呼吸だけが止まるのだと。
なぜそんな死に方を想像したのか。たぶん、それは恐怖ではなく、ある種の誓いだったのだろう。畳の上の安寧を最初から目標にしない者だけが、森に入れると。森に入るとは、制度の外側に一歩出ることだ。誰も餌をくれない場所に行き、自分の手で何かを捕まえることだ。捕まえられなければ飢える。飢える可能性を引き受ける者だけが、捕まえる可能性を持つ。そういう単純な力学を、大学に入った頃のわたしは、たぶん予感していた。戦争をする国家という本質的な暴力装置に大学そのものを重ねて見ていた。
戦後の復興が戦争によって準備されたのだとしたら、戦後の次の繁栄は、戦争ではなく、わたしたち一人ひとりの「狩り」によって準備されなければならない。制度は餌箱ではなく、森へ向かうための靴であるべきだ。大学院は巣ではなく、飛び立つための筋肉を作る場所であるべきだ。SNSは鳴き声の競技場ではなく、狩りの情報を交換する地図であるべきだ。そうなっていないなら、装置を叩き壊すか、装置の使い方を変えるしかない。鳴くのをやめて、翼を伸ばして、地面を蹴るしかない。
最後に、あの想像に戻る。目を開けたまま息絶える、というのは、救いのない悲観ではない。目を閉じる暇も惜しんで見ていたかった、ということだ。世界の配線の仕方、言葉の連結の仕方、仮説の跳ね方、そして価値が生まれる瞬間の、あの微かな火花を。もし本当にそういう最期が来るなら、せめて塵芥の中に、誰かの餌になる小さな骨を残して死にたい。鳴き声ではなく、獲物の痕跡を。上から落ちてくる餌ではなく、自分で森から引きずってきた何かを。畳の上で死ねなくてもいい。だが、巣の中で口を開けたまま死ぬのだけは、御免だと。
お上を叩くのは簡単だ。叩いても腹は減らないからだ。制度を呪うのは気持ちがいい。呪っても給餌は止まらないからだ。君たちの批判は刃物ではない。換気扇だ。臭いを抜いて、建物を延命する装置だ。君たちは自由の名で柵を磨き、純粋の名で鎖を正当化し、公共性の名で自分の安寧を公共財にすり替える。いつまで巣の縁で鳴くのか。餌は捕れ。捕れないなら黙れ。黙れないなら巣を出ろ。——平和の繁栄は、配給では続かない。
全部のいじめがそうとは言わないよ
なんかいじめの議論ってそこんとこいつも無視されてんのが気色悪いな〜って思うよ
俺が中学の頃にもクラス全員から嫌われていたカスのいじめられっ子がいたよ
別にこっちは仲良くしたくないのに無理やりグループの輪に入ってこようとするんだよな
仲良しグループで話しているところに割って入ってきて無理やり会話に参加しようとしてくる
「え、今その話ししてないんだけど?」
そういう不満が溜まって露骨に避けてもしつこくしつこく話しかけてくる
「俺たちはお前と仲良くするつもりはない」
「もう話しかけてくるな」
「普通に俺達はお前のことが嫌いだし気色悪いと思っている」
事情を説明しても先生は謎にいじめられっ子側に立ってそいつの空気の読めなさ、不愉快さは見て見ぬふりですよ
で、こういう事態になったらもうあとはいじめるしかないわけだよな
いじめられっ子が自発的に集団から離れるように仕向けるしかないわけ
話しかけてきたら「話しかけんな」「カス」「アスペかお前?」「アスペ菌がうつるから近寄るなよ」と罵倒する
馴れ馴れしくノートを借りようとしていたら「なんで貸さないといけないの?」って詰めてケツを蹴り飛ばしてしばく
そうやって自衛しないとこの手のカスはマジで話しかけてくるのをやめないわけ
少しでも同情して優しくしたらつけあがって不愉快なヘラヘラ笑いを撒き散らしクソみたいな話題を振りまき続ける
積極奇異型っていうんだっけ?こういうの
普通に孤独に過ごしてくれりゃいいのにわざわざダル絡みしてきやがる
そんなんだから悪意を持って集団から攻撃されて排除されるんだよなっていうケース、お前らのクラスにもあったでしょ?
みんなはそういうケースに遭遇したことないの?
優しい大人しいだけの人を積極的にボコボコにしていくケースはそりゃダメだよ
でも周囲を不愉快にさせるだけの存在を自衛のために遠ざけること
ひとつつけ加えておくと俺のクラスのいじめられっ子くんはその後クラスのとある女子にストーカー加害をしやがったからね
校門でその女の子が来るまで勝手に待ち続けて無理やり一緒に帰ろうとした
そんなことが繰り返されたから女子側も自衛のためにこのアスペ君を遠ざける努力をせざる得なくなったわけ
こういう自衛のための攻撃、排除もいじめる側が100悪いわけ?
この女の子は大人しくストーカー被害を受け入れなくちゃいけないわけ?
集団から露骨に攻撃されて初めて適切な距離をわきまえるカスをどう扱えばいいのさ
強制的に精神病院にぶち込む手段でもありゃいじめなんかしないけどさ
それができない以上この手のカスはいじめて遠ざけるしかないじゃんね
【追記】
「理由があるからといっていじめていい理由にはならない」みたいな綺麗事を言っている人へ
俺のケースで出てきたいじめられっ子君はいじめない限り言うことを聞きません
→「なんで不愉快なの?」「どこが不愉快なの?」「言ってくれれば直すのに」等と言って無理やり話しかけてきます
「自分の話ばかりするのが嫌」「空気を読まずに輪に入ってくるのが嫌」と伝える
→伝わりません。「うんわかった直すね」と返事だけはして一向に直ることはありません
「とにかく仲良くしたくないのでこっちに来ないでください」と伝える
→「なんで?」「個人の自由でしょ?」「お前にどんな権利があんの?」と逆ギレしてくる
とにかくこのいじめられっ子君自身が不愉快になる体験をさせないとしつこくしつこくつきまとってくるわけ
世の中には「罵倒したり暴力を振るったり根源的な恐怖と不快感を与えないとこちらの気持ちを理解しない・できないとてつもないクソバカカス不愉快野郎」がいるわけよ
こんなん義務教育で教えとくべきだろって、ずっと思ってるんだけどさ。
なんで「金」についての授業、マジで一切ないんだろうな。
だいたい貧乏な人ほど「とにかく金を貯めろ」って言われて育つじゃん。
でも冷静に考えて、働いてコツコツ貯金するって、金を増やす方法としては一番効率悪い部類なんだよな。
しかも「貯金があれば安心」って価値観、ここ数年でだいぶ怪しくなってきただろ。
物価が上がって、あれ?同じ金額なのに買えるもの減ってね?って、やっと気づき始めてる人も多い。
極端な話、国の政策ひとつで金なんて紙切れになる可能性すらある。
ベネズエラ見りゃ分かる。
でも皮肉なことに、国を信用してないって言う人ほど、なぜか一番「現金」にしがみつくんだよな。
そこ、論理的にめちゃくちゃじゃない?
金は持つな、とは言わない。
でも「金そのものは価値を保存しない」「どう扱うかが全て」って感覚を、
誰も教えてくれないまま大人になる。
YouTubeでうっかりスカッと系の動画を開くとホームページがそういう系の動画でいっぱいになるが、年増の婚活を嘲笑するのが結構な人気コンテンツと見えて、そういう動画がよく出てくる
婚期をとっくに逃してるのに結婚相手に臨む要望が過大な女性というのは醜いと思う
しかしそれは結婚という、これまで謳歌してきた自由を失うその代償であり、人生設計の大きな転換点でもあるのだから、要望が過大になるのもむべなるかなとも
で、それ系のひとつ、動画のサムネイルを見て少し違和感を覚えたのがあった
婚活中のFカップの中年女性が自分のランクを高く見積もったら結婚コンサルタントに「しぼんだ乳に価値はない」と最低ランクをつけられたというもの
どこに違和感があるかというと
独身の巨乳女なんてのは男の理想(おぞましく言えば好物)であり、理想の女性のまま婚期を逃してしまった女性というのは、男としてちょっと嘲笑する気になれないのだ
これ、誰が喜ぶと思ったの?
ひょっとしてこの手の婚活中年女性を嘲笑うジャンルは男性に向けて作られたものではないのではないか?
既婚女性にとって婚活女子は結婚が他者との競争があることを意識させ、自らが勝利者であることを実感させる
そしてこの手のセコイ勝利者というのは、勝利の気分を高揚させるためにしばしば敗北者を貶めがちである
なんか妙に納得してしまった
こういう日は辛いカレーに限る。好みではあるが、同時に対策でもある。
皮をむいて、繊維に逆らう感じで薄めに切る。
切ったらまずはレンチン3分。基本ずぼらなのでこの程度だが、甘みが強く濃い飴色が好きならもう少し長くチンしよう。
そのとはフライパンに油を大さじ1くらい敷いて火は弱めの中火。さっき玉ねぎを全部入れて、最初は触らない。水分が出てきたら混ぜる。目安は15分。飴色になるまでやろう。
次に肉。鶏もも一枚でいい。
一口大に切って、玉ねぎのフライパンに放り込む。表面が白くなったらOK。ここで塩をひとつまみ入れると、後で味が締まる。
水を400ml。沸いたら火を弱めて10分。アクは気になったら取る。気にならなければ取らなくてもいい。
ここで乾燥唐辛子のさやを一本、縦に割って種は残したまま鍋に投入。
半身だけを鍋に沈める。ここがポイントで、丸ごと入れない。半身のみ。理由は単純で、1本では辛すぎる。
弱火でコトコト。5分経ったあたりで香りが変わる。ここで生姜をチューブで4cm、にんにくを3cm。黒胡椒を多めに。カレー粉は小さじ1弱。
火を止めて蓋。10分休ませる。この間に辛さが全体に回る。
一口目で、じんわりと汗が出る。
二口目で、寒さのことを忘れる。
三口目……(゚д゚)ウマー
離島への航空便がマイル目当ての客で埋め尽くされ島民が乗れない問題が話題になっている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bengo4.com/c_18/n_19897/
10年ほど前にクロアチアの離島を旅したときに「なるほど地元民のことを考えているなぁ」と思った予約システムがあったので語りたい(今はシステムが変わっているかもしれないので、旅行を計画している人は増田ではなく最新の旅行情報をチェックしてほしい)。
クロアチアはアドリア海に面していて、フヴァル島やコルチュラ島など多数の風光明媚な離島がある。増田はそのうちのひとつを家族旅行することになった。とりあえず島の宿を予約しておいて、「まあ、島への便は現地で何とかなるやろ!」と思ってクロアチアに向かった。
ところが、家族は増田が島への便を予約していないことを島への出立前日に知って狼狽し、夜だというのに船会社の受付まで行こうと言いだしたり(当然閉まっていた)、ホテルの窓口で予約手段を聞き出そうとして失敗するなどしていた。どれだけ頑張ってもネット上では島への船便が取れない。最終的にバスを予約し、フェリーで島に向かうことになった。
さて、島に着いたので、さっそく2日後の本土へ戻る船便を予約しようと、船会社の営業所に向かった。そこで知らされたのは、島に発着する船便は前日から受付で対面販売だから今来ても買えないという話であった。つまりウェブ予約などはできないのだ。翌日営業所に向かうと、観光客が帰りの便を取るために列に並んでいた。
なるほど。これなら島民が本土に行きたくなったときも、前日に営業所に行けばいいのだ(増田が知らないだけで、島民はIDを見せればその前から予約できたりしたのかもしれない)。最悪当日朝に営業所に駆け込めば何とかなる可能性はワンチャンある。ツアー客のドタキャンで船が空なのに島民が乗れないとかそんな問題も起きない。とにかく現地に来なければ何もできないのだから。マイル目当てで島に着いてすぐ引き返すなんていうのも無理だ。これで島に来た外からの旅客は、宿代なり喫茶店代なりのお金を島で支払う必要があるだろう。島民は船に乗れ、島にお金も落ちる。観光客は苦労して行ったリゾート地の思い出を自慢できる。Win-Winの三方良しだ。
ただし結果として、島にアジア人は全然いなかった。ドゥブロヴニクなんて街の半分がアジア人なんじゃねえのというくらいにアジアからの観光客が大勢来ていて、レストランに日本語やタイ語のメニューがあったりしたし、近場のコトルでも日本からのツアー客を見かけたりしたのだが、島に来ているのは白人観光客ばかり。たしかに、ヨーロッパ在住で数週間の休暇が取れるとかじゃないとこんなとこ来れんわな。下手するとホテルの予約をキャンセルする必要が出てくるかもしれないわけで、多くの日本人が旅行を尻込みするには十分なハードルだ(増田の家族が来たのは「増田が予約しているだろうと信じていたから」であり、仮に予約していないことを知らなかったら旅程を取り消していたかもしれない)。
さて、多良間島にマイル修行僧が押し寄せて島民が乗れなくなっている問題について。はてブでは、「島の役場からしか予約できない席があってもよいのでは」という案が出ていて、個人的にはそれに賛成。すべての席をそうすると純粋な観光客が来れなくなってしまうので問題があるけれど、一定の席を多良間村役場からでないと予約できないようにしておいて、島の住民じゃないと予約させないようにすれば、最低限の島民の足は保たれるのではないか(帰省しにきた島民の親戚とかは柔軟な判断をすればよい。この人口規模なら「ああ、◯◯んとこの息子か!」で通るだろうし)。