アメリカ合衆国の独立は世界史の教科書などでも「独立革命」という名称で書かれています。一方、例えば、インドの独立を「インド独立革命」と記載するケースはほぼ見ません。なぜ、アメリカの独立は「革命」なのでしょうか?
 本書はこれを「成文憲法の制定」こそアメリカ独立革命の最大の功績とした上で、その憲法がいかにしてつくられ、そして以下に運用されて政治が定まっていったかを比較的長いスパン(ジャクソン大統領の登場あたりまで)で見ていきます。
 煩雑にならないようにわかりやすく書かれていながら、それでいて今までの一般的な見方を覆す刺激的な議論が行われているのが本書の特徴で、「新書らしい」新書です。
 入門書としても、それなりに知識がある人が読む本としても面白い内容で、フランス革命に比べて教科書の記述としては「わかりやすい」アメリカ独立革命の内実が見えてきます。

 目次は以下の通り。
序章 国家が始まるということ―ローマ、アメリカ、日本
第1章 植民地時代―一六〇七~一七六三年
第2章 独立―一七六三~一七八七年
第3章 連邦憲法制定会議―一七八七年
第4章 合衆国の始まり―一七八七~一七八九年
第5章 党派の始まり―一七八九~一八〇〇年
第6章 帝国化と民主化の拡大―一八〇〇~一八四八年
終章 南北戦争へ

 まず、本書はマキャベリを引きながら「国家の始まり」の重要性について触れています。国家の基礎となる法や原則などが定められれば、危機に際して原点に回帰することができるからです(このあたりはアーレントの議論にも通じるけど、本書はアーレントには触れていない)。
 アメリカについて、近年では独立前/後の連続性を指摘する議論もありますが、本書はアメリカの独立は「革命」だったという観点に立ち、その革命的な点を連邦憲法という成文憲法の制定に求めています。アメリカの独立には、「アメリカという国家の始まり」と「成文憲法の始まり」という2つの始まりがあるのです。

 アメリカの建国の歴史というと、「ニューイングランドにピューリタンが移住して〜」と語られることが多いですが、16世紀にすでに北米にはスペインとフランスが入ってきていました。
 イギリスがニューイングランドに入植したのは、気候が温暖で肥沃な南部はスペインに、毛皮の交易に有利なカナダはフランスに押さえられていたからでもあります。

 イギリス系の植民地は王領植民地、領主植民地、自治植民地の3種類がありました。王領植民地はヴァージニアやニューハンプシャー(ジャマイカやバルバトスも王領植民地)、領主植民地はウィリアム・ペンが設けたペンシルベニアやメリーランドやデラウェア、自治植民地はロードアイランドやコネティカットです。
 このように植民地はそれぞれ性格が違い、その国制も違いました。

 植民地は基本的にイギリス国王とその取り巻き(枢密院)が管理しており、イギリスの議会の権力は及ばないものと考えられていました。
 ここでポイントになるのは特許状で、近年では特許状とそれを得た会社という枠組みでアメリカの植民地を理解する考えが出てきているといいます、植民地にわたった人々は特許状を後ろ盾として他のヨーロッパ人に対抗し、先住民と交渉したのです。

 ですからピューリタン革命によって国王が処刑され、イギリスが共和政になると植民地は混乱しました。
 1649年にチャールズ1世が処刑されると、メリーランドやヴァージニアは本国に反旗を翻し、クロムウェルによって鎮圧されています。
 
 王政が復活すると、ニューヨークやニュージャージー、ペンシルベニアなどの新たな領主植民地がつくられますが、これらの植民地は民族的、宗教的多様性を持っていたのが特徴です。ペンシルベニアはクェーカー教徒のウィリアム・ペンに与えられた領地でした。
 名誉革命によって王の力が制限されるようになると、枢密院の委員会が持っていた権力を継承する形で商務省がつくられ、各植民地の総督に指示を下しました。
 しかし、ロバート・ウォルポールの長期政権では植民地に対しても自由放任の政策が取られ、総督は本国の支援を期待できず、植民地の有力者の協力を得て統治を進めることになります。

 植民地内部での対立も絶えませんでした。まずは植民者と先住民の対立がありますが、この問題も単純ではなく、1676年にヴァージニアで起きたベーコンの乱では、大農園主によって辺境に追いやられて先住民といざこざを起こした植民者が、軍の派遣を頼んだがうまくいかなかったので反乱を起こすという流れになっています。
 
 ヴァージニアでは男性の年季奉公人が多かったせいもあってジェンダーバランスも悪く、ヴァージニア会社は持参金も付与して女性の入植者を募りました。1692年には午後10時以降に外出した「品行方正でない」女性数十人がヴァージニアに送られたという記録もあります。
 こうした中で人々をまとめていたのが宗教でしたが、ニューイングランドはピューリタン会衆派、南部諸州はイングランド国教会、メリーランドはカトリック、ペンシルベニアはクェーカー派といった具合に、信じる宗教はバラバラでした。

 こうしたバラバラな植民地が独立に向けて動き出します。
 イギリスが植民地にさまざまな課税をしようとし、それに植民地が反発したことが独立の原因であり、それは「代表なくして課税なし」というスローガンに表れていると言われます。
 しかし、これにはやや一面的な面もあるといいます。例えば、「代表なくして課税なし」は常識のように語られていますが、当のイギリス議会も参政権は制限されており、庶民院の有権者は全人口の数%程度でした。こうした議会がイギリスでは主権を握っていたのです。

 しかも、そのイギリス議会と植民地との関係も曖昧であり、植民地を支配するのは国王であり、議会は影響力を持たないとの議論もありました。
 実際、イギリスとの対立が強まってからも、植民地の中には国王ジョージ3世に対しては信頼を置く人々がいました。

 1770年3月、イギリス軍が投石などの抗議運動を行っていた市民を銃撃し5名が死亡した事件をきっかけにして イギリス軍と植民地側の対立はエスカレートしていきます。しかし、ここでも植民地側の王に対する忠誠は強く、アメリカの独立革命が古き良き国王による支配を望む「王党派革命」だったという議論もあるそうです。

 1773年12月、ボストン茶会事件が起き、イギリスはこれにマサチューセッツ統治法などの強圧諸法で対抗します。これに対してマサチューセッツを助けるために13の植民地(厳密に言うとジョージアは不参加)は1774年の9月にフィラデルフィアに集まります。第一回大陸会議です。
 マサチューセッツ統治法が撤回されるまで植民地からの輸出を停止するということで一致しますが、軍事的抵抗を認めるか否かは意見が一致しませんでした。

 しかし、1775年、レキシントンで戦闘の火蓋が切られます。戦端が開かれると第2回大陸会議が開かれ、13植民地を束ねた軍隊の設立と、その総司令官にワシントンを任命することが決まりました。
 1776年7月4日には独立宣言を出します。人間の平等、自由、権利などを謳ったものですが、イギリスからは奴隷の存在について反論されました。イギリスでは奴隷解放運動の動きが高まっており、その点でアメリカは遅れていたのです。 
 また、女性の存在も無視されており、ジョン・アダムズの妻のアビゲイルは夫への書簡でこの点を批判しています。

 また、この時期ではそれぞれの邦(州)で憲法制定が進みました。
 ジョン・アダムズの書いた『政府論』が1つのモデルとなりましたが、各邦独自の特徴も見られます。
 ヴァージニア憲法は初めての成文憲法であり、権利章典の存在によっても有名です。一方、ペンシルベニアでは、一院制、白人男性の普通選挙など、かなり急進的な憲法がつくられました。
 ニューヨークでは富裕な商人が牛耳っていることもあり、立法府を弱めて知事の権限を強化するような仕組みが取り入れられています。
 一方、13の邦をたばねる連合のあり方については、連合の課税権を認めるかどうかで決着がつかずに持ち越されています。

 戦いは大陸軍が苦戦を強いられ、1777年のサラトガの戦いの勝利でようやく戦局が好転します。
 争いは大陸軍と英軍の間だけではなく、大陸軍と王党派の間でも行われ、戦いに敗れた王党派はカナダなどの落ち延びました。
 また、アメリカはフランスとスペインを味方につける外交を展開し、英米の戦いはカリブ諸島、ヨーロッパ、南アフリカ、インド、フィリピンをも戦場とするグローバルなものとなり、イギリスも北米だけに兵力を集中させるわけにはいかなくなりました。そして、1781年10月のヨークタウンの戦いで英軍は決定的な敗北をします。
 それでも、アメリカの独立がアイルランドなどへ波及することを恐れたイギリスは戦闘を続けますが、1783年9月にパリ条約が結ばれ、8年以上にわたる戦争が集結しました。この条約でアメリカは北西部の領土も手に入れています。

 しかし、独自の財源を欠いていた連合はさまざまな危機も重なり機能不全に陥りました。
 そこでマディソンとハミルトンは1787年5月にフィラデルフィアで連合規約の改正を話し合う会議を開くことを決めます。

 この会議で連邦憲法が制定されることになるのですが、この憲法は紆余曲折を経て誕生しました。過去の偉大な立法者は一人というケースが多かったですが、アメリカの場合は各邦から55人ものメンバーが集まったのです。
 当初はヴァージニアのマディソンが考えた素案をもとに、人口の多いヴァージニアの案が中心になるかと思われましたが、小さな邦の反発もあり、会議は二転三転します。

 詳しい議論もポイントは本書を読んでほしいのですが、ポイントになったのは大統領のあり方とその選出方法でした。
 当初は執行府(まだ大統領という呼び名は固まっていなかった)を3名で構成する案もあったそうです。今から考えると突飛ですが、ローマの三頭政治などが念頭にあったようです(考えてみれば同時期の日本の老中も月番交代で複数名で構成されていた)。
 また、単独の大統領ということで固まったあとも、最後まで連邦議会が選ぶのか人民が直接選ぶのかという点で揉めました。

 大きな邦と小さな邦の対立も根強く続きました。小さな邦は邦同士の平等を主張し、大きな邦は人口割での平等を求めたのです。この中で黒人奴隷を自由民の3/5としてカウントするという悪名高い憲法条文も誕生しています。
 結局は、下院議員を人口に応じて選出する代わりに、上院議員を邦から一人選出し、下院に予算先議権をもたせるという形で決着します。

 議論の中で、マディソンが邦議会への拒否権として連邦議会に与えたがっていた違憲立法審査権を連邦最高裁が持つことになり、最高裁の判事については大統領と上院によって選ばれることになりました。
 そして、大統領の選出方法に関しては、選挙人団から選ぶ方法で決着し、大統領の任期も7年、再選なしから、4年再選ありになりました。
 1787年9月17日、出来上がった連邦憲法への署名が行われます。妥協の産物であり、マディソンもハミルトンも内容に不満を漏らしていますが、その後は各邦での批准に向けて動き出すことになります。

 憲法の批准は、デラウェア、ペンシルベニアを皮切りに順調に進みますが、マサチューセッツ、ニューヨーク、ヴァージニアといった州では賛否が拮抗していました。
 反対派が勢いを増す中、ハミルトンはインディペンデント・ジャーナル誌で「パブリアス」という名を使い論駁のための連載を始めます。これが『フェデラリスト』になります。
 ハミルトンはジョン・ジェイ、マディソンを執筆者に誘います。最初は互いに原稿を読みつつ執筆を進めたものの、ジェイが腰痛で離脱し、ハミルトンとマディソンが忙しくなると、お互いの主張を把握しないままに書きなぐっていくことになりますが、これが古典となりました。
 
 マサチューセッツでは修正提案付きで批准され、ヴァージニアでも激論の末になんとか批准されました。
 この批准の議論の中で権利章典の必要性が訴えられ、また、マディソンの選挙事情などもあって権利章典が修正条項として付け加えられることになりました。

 1789年3月、初めての議会である第一議会が開かれ、ワシントン政権が船出します。ただし、大統領がはたしてどのような存在なのかすべてが手探りでした。
 ワシントンは先住民との外交問題を解決するために上院に先例を送付して協議しようとします。憲法に条約締結について「上院の助言と承認」が必要だと書いてあったからです。しかし、上院はどう振る舞ったらいいかわからず、この問題を棚上げしました。
 結果としてワシントンはヘンリー・ノックスやデイヴィッド・ハンフリーズといったかつての部下を使って問題の解決にあたりました。
 また、公務員は「上院の助言と承認」を得て大統領が任命するとなっていましたが、では、罷免件はどうするのか? といったことも問題になりました。

 1789年、大西洋を挟んでフランス革命が勃発すると、これをきっかけにしてアメリカ政治に党派が生まれることになります。
 まず、フランス革命に対するジェファソンとアダムズの対立があり、さらに国内では合衆国銀行を創設し、商業立国を目指すハミルトンとそれに反発するがありました。
 ハミルトンは強い連邦政府をつくろうとしますが、ジェファソンはこれに反対し、さらにはマディソンもこれに加わります。
 ハミルトンは人々が多数派と少数派に分裂することを警戒し安定した強い権力が構築されることを望みましたが、マディソンは人民主権が「世論」という形で表れることを重視しました。この原理的な違いが両者の対立につながったのです。

 フランス革命が進行し、ヨーロッパ各国が対仏大同盟を結成すると、その対応を巡っても意見が分かれます。ワシントンは中立を宣言しましたが、独立革命を支援してくれたフランスを支援すべきだとの声も上がりました。
 また、この中でそもそも大統領に中立を宣言する権利はあるのか? という疑問も沸き起こり、ハミルトンとマディソンの間で論争となりました(ハミルトンの意見が通った)。
 その後、イギリスとの対立に対してジェイ条約を結び、ウイスキー反乱を抑え込んだワシントンは、1796年に2期8年での大統領からの退任を発表します。これによって大統領は2期までが慣例にあり、第2代の大統領にはアダムズがつきました。

 アダムズのあと、ジェファソン→マディソン→モンローとヴァージニア出身の大統領が続きます。
 この時期、アメリカは西に拡大し、米英戦争の危機を乗り越えました。一方、奴隷制などをめぐる南北の対立は激化し、さらに西部の政治家たちが台頭してきます。
 西部の人々の支持を背景に台頭していくるのは米英戦争の英雄でもあったアンドルー・ジャクソンです。

 また、この時期はモンロー宣言に見られるようにアメリカが外交的な自立性を強めた時期でもあります。
 ナポレオン戦争以後、欧州列強の新大陸での影響力は後退しました。一方、これによって先住民との力のバランスが崩れ、白人たちが西へとその土地を広げていくことになります。
 この先住民への侵略への先頭に立ったのがジャクソンです。1824年の大統領選挙ではジョン・クインシー・アダムズに敗れたものの、28年の大統領選挙で当選します。ジャクソンは先住民の土地を取り上げて西部へと強制移住させ、取り上げた土地を支持者に無償で与えました。
 ジャクソン政権時には、関税をめぐって連邦の課税は憲法違反だと副大統領のカルフーンが主張します。州主権が基本だとの主張で、一時はジャクソンも譲歩しますが、結局は連邦の課税権が確立して終わります。そして、このジャクソンの勝利とカルフーンの敗北に著者は革命の終わりを見ています。

 このように本書はアメリカの独立の過程だけでなく、アメリカの憲法の成立とその憲法による支配が一定の安定を見るまでの長期の過程を扱いながら、それがいかに「革命」だったのかを描き出しています。
 語り口もやわらかく、あまり煩雑にならないようにしつつ刺激的な論点も盛り込んであり、これぞ新書という1冊に仕上がっています。