はてなキーワード: 若者批判とは
自分が若者とされる年齢だった頃は、自分の世代の価値観は「これからの価値観」だと思っていたし、レッテルを貼られても「古代エジプトから繰り返される若者批判」としか思っていなかった。しかし時代を経ることで「この価値観は次の世代に引き継がれなかったな」という点や「確かに前の世代とは違っていたな」という点が見えるようになってきたので書き残す。
おそらく、自分の世代±5歳くらいが はてなブックマークのボリュームゾーンなんじゃないかなと思ってる。
『働いたら負けかなと思ってる』という言葉が世に出たのは2004年で、その頃からネット上でニートがファッション化した。2ちゃんねるという匿名掲示板、特に当時人気だったVIP板は老若男女が36歳無職独身男性に擬態している風潮があり、自分もその中のひとりだった。自分は新卒で就職してから一度も無職だった時期はないけれど、フィクションの主人公が「無職」か「サラリーマン」であれば、前者の方により感情移入できる。ブクマカが社会的弱者に優しい理由の半分はリベラル思想でもう半分はこれだと思う。
2007年には2chのVIP板に「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」というスレが立ち、これは2008年に書籍化され、2009年に映画になった。自分が大学3年で就活を意識しだしたのが2007年で、就活本格化したのが2008年、就職して社会に出たのは2009年だった。ブラック企業という言葉が流行語大賞にノミネートされたのは2013年だが、この言葉のネットでの認知はもう少し早かったように感じる。
上の世代から散々「ゆとり」というレッテルを貼られて自己肯定感を削られ続けてきた世代ではあるが、自分たちの世代はなんだかんだ言ってもゆとり教育を価値観として内面化しているような気がする。詰め込み教育は無駄、多様性を伸ばすのが大事、答えは一つじゃない、あぁしろこうしろと押し付けずに自発性を引き出しましょう、という考え方。
これを上の世代から『軟弱さ』として受け取られるのは想定の範囲内だが、下の世代から『ネグレスト』と受け取られると我々の世代はハッとする。
価値観を顔出しSNSではなく匿名掲示板で形成してきた人間は『出る杭は打たれる』という価値観が身に染み付いている。
だから「自分は人より凄い」「自分は良い人」のような真っ直ぐな自己PRは命取りであり、「自分はダメ人間ですよ」「自分は偽善者とは違いますよ」と振る舞う癖がついている。
10年後20年後に我々が『キャンセル』されるとしたら恐らくこの部分で、この癖を抜くことがこれから求められる価値観のアップデートなんだろうなと思っている。
これは我々の世代というより2009年に就職した人限定の価値観だと思うのだけど、2009年卒業組は2008年の空前の売り手市場で就活し、2008年9月のリーマンショックで内定取り消しの嵐に襲われた。だから能力があまりなくても他の世代に比べて楽に就活できたし、どんなに能力があっても内定取り消しで最悪の2009年に就活をやり直す羽目にあう人がいた。幸せな時代に就活をしたバブル世代とも最悪の時代に就活をした氷河期世代ともちょっと違う。天国と地獄の両方があり得て、それを分ける要因は能力ではなく完全に運だった。
https://x.com/q5811kGPKY4K6sV/status/1849952227613618442
https://x.com/WRHMURAMOTO/status/1850571017376170437
彼は外国人の話し方の真似をしてるんではなく厳密には外国人インフルエンサーの"キャラ"を真似してる。「オマエラニ、オシエテヤル」が彼女の売り。すぎちゃんの「〇〇だぜぇ〜」と同じ。タレントはキャラを作って世間に売って有名になる。だから彼のは彼女のオマージュ。
若者批判するならわかるけど、山本太郎だけ叩くのは筋が通らんわけやね
https://www.tiktok.com/search?q=%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A0%E3%82%88&t=1730436771040
やっぱり年齢層とか考えても、左のおっさんおばさんばっかりなんだなあ
安倍が死んだ後に「酷い政治家だったが」とか叩きつつ哀悼の意を表している振りをしているコメントばかりで大量のスター
まあそういうところであると知ってはいたけど、自分たちがもうマイノリティであるということもこの人らは知らんで叩いてるんだろうなあって
あ、それはおかしいとか、今の若者批判とかはどうでもいいです。そこ論点じゃないんで
こういうコメントばっかり見るとますます安倍批判するぶくまかの人らは若者に嫌われるだろうなあ
俺たちは正しいんだ!!!という論調で頑張ってるブクマカの人達が今や少数派である事に自分たちで気づいてないの、哀しいねえ
まあ頑張ってその思考を広めてみてね
言い方があまりに今の若者が嫌う言い方すぎるんで、ますます嫌われて理解されないだけと思うけど、ここで傷をなめ合って世間は愚かだと喚いといてくれ
自民が嫌いな人もいっぱいいるよ
自民を批判はしても安倍さんを民主主義の破壊者だ!みたいに言う奴はあんまおらんで
今も会長の価値観が色濃く、上のほうは酒・タバコ・ゴルフでつながった旧来型組織。
社長交代後も、役員勢は会長といっしょに価値観をはぐくんできたメンバなので、会社方針はそうそう変わらない。
社長も外部抜擢ではあるけれど、元々会長の飲み友達。(ただ、会長よりはだいぶ価値観がマシ)
酒の場で物事を決め、酒の場で情報リークしてしまう会長は、会社の一番のセキュリティホールともいわれるとかなんとか。
女性活躍推進法に基づく一般事業主行動計画をつい最近まで掲載していなかったし、やっと掲載された行動計画もお粗末な内容。
(ぜひ見てみてほしい。探すのも大変だが、やっと探してPDFを見たときに脱力する。一部上場企業だぞこれ)
新卒採用のサイトでは、女性向けのマミートラック完備の旨が明記されている。
人事が制度改革を頑張っても、会長の価値観の強い上のほうで却下される構造。
なお、会長はワークライフバランスも大嫌いで、例のコラムにもその旨を繰り返し書いている。
深夜まで働いてそのまま飲みに行って、また会社に戻って、そうしてできたのが自分でありこの会社であり、
ライフを大事にしたいなどという今の風潮はふざけている、という考えだ。
この価値観から、深夜休日に会社にいる人ほど評価されるし、残業という概念がそもそもない。
結局酒・タバコ・ゴルフの縁がないと役員に顔が覚えられることがなく、評価されないので、
優秀な人ほど、まともな価値観の他社へ移ったほうが良いからだ。
会長含め役員勢は女性登用の風潮が大嫌いだ。なぜなら、本当に優秀な女性はおのずから目立って出てくるはずで、
と思っているが、実際には優秀な女性は、会社を離れていっているので、いないように見えるだけというわけだ。
これを機に会長色が薄れてくれたらよいのだが。
ブクマでも誰かが書いていたが、あの連載も教養深く面白い内容だったのが、
ここ数年は海外行脚自慢と昔話、若者批判ばかりになって、しんどくなってきていたし、
口を開けば創業時のあの頃はすばらしかった話ばかりで、未来の話を全くしないし、
なんというか、あれだけ世の中に変化を起こした人が、変化についていけず硬直していくというのは、見ていて本当につらい。
「最近の若者は~」で始まる若者批判は、いつの時代もなくならないものである。50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく様子がありありと思い浮かぶ。きっと彼らも30年位前に同じようなことを言われていたのだろう。
しかし、批判の対象となっている「若者」の中には、こう思っている人も多いだろう。「この『若者』とは果たして誰のことを言っているのだろうか?」と。
例えば、「最近の若者は根性がない」などという話を、仕事や勉強に頑張っている若者の前で言っても、白い目で見られるだけだろう。または、「最近の若者は向上心がない」と、若い起業家が集まるセミナーで言えるだろうか?
そもそもそういった「若者批判」をする人たちは、どれほど若者と接しているのだろうか。おそらくは自分の身の回りにいる数名だけではないだろうか。その数名がたまたま出来が悪かったり素行が悪かったりした時に「最近の若者は…」という思いが湧くのだろう。非常にくだらない話である。
そういった批判をする人たちが、「最近のおじさんは電車で痴漢ばかりしている。おじさんは皆性犯罪者だ」と言われたり、「最近のおばさんは気に入らないことがあるとすぐクレームを入れる。おばさんはクレーマーだから気をつけた方が良い」と言われたら、どう思うだろうか。「ふざけるな!自分はそんなことしない!一緒にするな!」と憤るのではないだろうか。
当然である。一部の事例を挙げて全体を評価することほど愚かなことはない。少数の非常識な「おじさん」「おばさん」がいるからと言って、全ての中年が悪いはずがないのである。そして、それは若者も同じなのである。
もちろん、批判に当てはまる人もいるだろう。根性のない若者や、向上心のない若者もいる。痴漢をしているおじさんや理不尽なクレームをつけるおばさんもいる。だが、それは必ずしも多数派ではない。多数派であったとしても、全員ではない。
誰かが「最近の若者は~」と批判した時、批判の対象となる人は、「若者」という漠然とした集団ではない。それは批判した人と同じように、個別の名前を持ち、血の通った一人の人間なのである。
そんな基本的なことも忘れて、「最近の若者は~」「これだからおじさんは~」と安易に批判する人は、「想像力が欠如している人」ではないだろうか。
そして、想像力の欠如は容易に差別を生み出す。「最近の若者は~」という批判は、人種差別や性差別と、本質的な違いはないのではなかろうか。
集団を批判することに意味はない。個別の事例については、その当人を論じるべきだ。イスラム教徒がテロを起こしたからと言って、全てのイスラム教徒が悪い訳ではないし、痴漢を犯した男性がいるからと言って、全ての男性が痴漢を犯す訳でもない。同様に、あなたの身の回りにいる若者が出来が悪いからと言って、全ての若者が出来損ないという訳もないのである。
ちなみに、冒頭に例として挙げた「50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく」というのも同じだ。「若者批判をするのはそういう下らないおっさんたちだ!」というただの偏見であり、合理的な意見ではない。もちろん冗談ではあるが、正直そういうイメージが湧かなかったかと言えばウソになる。自分も偏見が捨てきれていないことを反省しなければならないと感じた今日この頃であった。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
バブルや高度経済成長期で潤ってる社会ではどん底スタートからでも社会からのブーストが掛かって
いくらでも成り上がることができたんだろうし年功序列社会だから長くいるだけで給料アップして
それが自分の正当な頑張りであると疑問を持たずに受け入れられる時代をあなたは生きたんでしょう。
でも今は違うんです。
今はそうじゃないんです。
あのころよりも経済が悪化したし雇用も悪くなったし年功序列はもうないし昇給もしないことが多々あります。
これが現実です。
でも実りません。
結果が出ないと努力してないというのなら、
甲子園球児で優勝しなかったチームはすべからく努力していなかったのですか?
みんな生きるのに必死で、でも結果が出ないのが不景気なんです。
たまたまあなたが産まれた時代がイージーゲームだっただけです。
将来あなたのケツの穴を拭いてあげる、体を拭いてあげる世代をいじめないでください。
こんなクソの役にも立たない助言をしても超効率化社会の現代では意味がありません。
勿論、あなたが碌に頭も使わずに目の前の仕事だけしてきた人間だということは分かります。
だからこそ幼稚な精神論でしか若者批判できないのも分かります。
あと大学を就職予備校だって言ってるアホ共はマスゴミに踊らされすぎ&踊らされた結果ホントに勉強しなかったアホ(かつ大学全般に行く価値がないわけじゃなく、そいつが仮に偏差値が高くても価値のない大学に行った、活用できなかっただけ)
授業受けるだけで、すげー賢い人たちの世界の見方を何となく知るだけで、どういうキャリアの選択肢があるか知るだけで、価値だろ。それは賃金とかそういうどうでも良いことの差でも、専門との授業の差(そもそも目的が違うだろ)とかくだらない、本当にくだらない物差ししか持たないお前らにはきっと一生理解できんのだろうな。
それに「今の大学はダメだ」とか言い続けるとホントにダメになるぞ。ガキが減って平均的にダメになってるかもしれないけど、なんとかすべきという視点ナシに「ダメだダメだ」っつー奴らは、
ただ迷惑などころか害だ。害悪だ。言い続けるとホントにだめになるんだからな。
それじゃダメだから頑張ってる人を一番最寄りの大学に見に行ったり(名前書くだけで入れるFランにもいるぞ)、教育に熱心な議員に投票するとか、バカでもできるだろ。
とりあえずその汚い口を今すぐ閉じろ。若者批判したいだけなら害悪だから鏡でも見てろ。
貶したいからただダメだって騒ぎ立てるのは自分が馬鹿だって大声で宣伝してるようなもんだぞ。せめてまともな大人ならこれからどうなるべきか話せよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130323124047
中二病、高二病、大二病、社二病を乗り越えて患うのが35病だと思う。30代後半から徐々に発症する。
若者のだったつもりがいつのまにかおっさんおばさんの仲間入り。こんな症状が出たら罹患を疑うべき。
正直、頭が禿げるとか加齢臭がするとか脂肪が増えるとか肌が荒れるとか、そういうのは年齢とともにやってくるものなのでしかたがないことだと思う。
でもこういう「会社や店で横柄な態度のおっさん」が年寄りになると、最終的に菅直人や石原慎太郎や田中真紀子みたいなジジイやババアが出来上がるのだと思う。
若いころ「武満徹を殺せ」なんてビラを巻いていた坂本龍一も、今ではすっかり説教クソジジイになっている。
35病の厄介なところは、中二病などと違って年齢を重ねれば重ねるほど悪化していくところだ。
最近は女性だけでなく男性向けにもアンチエイジングが流行っているそうだけど、年をとりたくなければまずは見苦しいおっさんおばさん言動と行動をやめるべきだ。
かく言う俺も今年で34だ。街で見苦しいおっさんおばさんを見かけると「俺もそのうちああなるのか」と非常に憂鬱になる。
「それ年齢関係なくて、そういう奴は若くてもそんなだ」というご意見を頂いている。確かに石原慎太郎も坂本龍一も富野由悠季も若い頃から尊大な嫌なやつだったと思う。
でもこの人ら、年齢を重ねるごとに尊大さが悪化して説教クソジジイになったじゃないですか。これって年齢とは決して無関係とは思えないんですね。人生経験がかえってマイナスに働くというか、成長ではなく老化していくというか。
この文章からにじみ出ていると思うけど、俺も子供の頃から世の中を斜めに見る嫌な子供だった。それが嫌な若者になり嫌な大人になった。このままいけばきっと嫌なジジイになるのだと思う。三島由紀夫が45歳であんな死に方をしたのは、そういうジジイになるのが嫌だったからだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130330190713
35病のサンプルとしてリンクしておく
http://twitter.com/NaokiTakahashi/status/16132083256
これのぶくまみて思ったが、いつもは反差別的なこと言ってる人でもアニメアイコンにレイシストや馬鹿の比率が高いのが事実であれば、嘲笑して当然っていう意識の人が多いんだな。「外国人のほうが犯罪者率が高い」「女性のほうが離職率が高い」というのが統計的に事実であれば、同じ仕事で賃金が違っても合理的な区別であって差別じゃないという価値観とどの程度差異があるのやら。まあこういうことを言うと「性別や人種は先天的なものだから云々」というお決まりのせりふを言うのだろうな。つまり後天的に選んだ宗教や支持政党や職業や居住地でなら、同一労働別賃金であっても合理的な区別であって差別ではないと。宗教差別や職業差別の存在など認めないということなのだろう。こういう考え方からすれば自民党支持者や創価学会員を嘲笑するのも当然のことながら、アニメを趣味とするものの中にこれらの比率が高ければ、お宅丸ごと馬鹿にしてもいいじゃんということなんだろう。ただ自公政権を批判したいからイメージの悪そうなおたくを持ち出してるような気がしないでもないが。こういう事言うと、小泉を朝鮮人認定、その支持者をフリーター認定する人みたいな感じで「いや俺はフリーターor朝鮮人orおたくを差別するつもりはないよ、フリーターor朝鮮人orおたく認定されて差別だと思う人のほうが差別意識持ってんじゃね?」みたいな切り返しをするんだろうけどね。余談だが、こういう人はなぜかB層をフリーターやニートの若者のことだと思ってるのが多い。もとのプレゼン資料では老人・主婦のことだったのに、いつの間にか摩り替わってる。自民党に投票したのは2000万前後いるわけだからどう考えてもお宅やワープアの若者だけでそこまで集まるわけないのになぜか若者批判だけをする。小泉改革を支持した中高年正社員や専業主婦や高齢者へ矛先を向けないのはなぜなんだろうか。周りにいる支持者を面と向かって批判できないから、ネットでこそこそ反論してこなさそうな貧乏人やオタクを叩いてるんじゃないかと思えてならない。
『モンスター社員続出で右往左往する現場 「自己チュークラゲ」ゆとり世代を戦力化するコツ』
http://president.jp.reuters.com/article/2009/10/24/BA8D7BF0-BA29-11DE-A839-21F13E99CD51.php?rpc=110
ゆとりゆとりと嬉しそうに新入世代をあげつらう記事の書き手が何歳(いくつ)か知らねえが
「近頃の若者は……」と紀元前の古代エジプトの時代からいわれ続け、そんなステレオタイプの若者批判論をいさめた「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」という山本56の言葉も残っている。それにしても、企業の現場では首をかしげたくなるケースが続出しているようなのだ。