はてなキーワード: 1942年とは
以下のように「3タテとは本来3連敗のことであり、3連勝の意味で使うのは誤用だ」と主張されることがある。
「3タテ」の正しい使い方でプロ野球ファンの間で議論沸騰 / X
そもそもが俗語で、発祥も不明なのに、いったい誰が「原義」を確かめたのだろう。
「3連敗」説の傍証として提示されるのは、「もともと『3タテを食らう』という形で使われることが多かった」ということだが、考えてみればこれは根拠になっていない。
たとえば英語で「同一カード3連勝」を意味する「スイープ」だって、「スイープを食らう」と言えば「同一カードで3連敗した」という意味になる。
「3連敗する」という意味で「3タテを食らう」が使われていたとしても、それだけでは「3タテ」が「3連勝」の意味である可能性をまったく否定できない。
調べられるかぎり「3タテ」の最も古い記述は、1935年『三田文学』の和木清三郎「わがスキイ」の記述だった。
スニペットしか見られないので文脈がわからないが、これは「三連勝」の意味のようにも思える。原文を確認したいところである。
1936年『あみ・ど・ぱり』誌に掲載された、石黒敬七のコラムには、ビリヤードの文脈で出てきている。
おまけにタイガースは春は優勝したチームだつたけど、秋はシーズン当初の不成績が祟つて、二位に落ちるチームだし、それに一度も勝てずに四タテを喰つたんぢや、チーム経営者の方から苦情の出るのは当り前ぢやないか。
「3タテを食う/食わす」ではなく「3タテする」という形での用例も戦後には見られるようになる。
1957年『ベースボール・マガジン』。「広岡」とは広岡達朗のこと。
広岡 おもしろいゲームをしようとは思わなかったけれども、四タテとは誰も思っていない。なにか四タテするんじゃないかぐらい思ったけれどもね。
これは巨人の選手だった広岡が、日本シリーズで「西鉄に四連敗した」ことを言っている可能性もあるか。
開幕当初の調子がよかったころでも、4連勝目になると弱いチームにも奇妙にストップされる。第9節に大阪で南海を三タテしたときも東映でストップ
かの鶴岡御大が1962年に出版した『南海ホークスとともに』という本にもあった。
プロ野球黎明期から「3連勝する」の意味で「3タテする」という言葉が使われていたと言っていいようである。
さらに重要な記述として、1961年の楳垣実『続語源随筆 江戸のかたきを長崎で』のなかに「3タテ」の語源に関する言及がある。
たて この語については、福原麟太郎先生からおたずねにあずかった。「ヂャイアンツは広島に三タテをくった」などと使う「たて」である。野球のことなどに詳しい方に聞いてみたが、よくは分からなかった。大阪で老人などが、碁とか将棋とかで、「二タテやった」「三タテやった」という使い方の「タテ」という語を、「二回続けての勝ち」「三回連続の勝ち」という意味で使ったことがあると、長沖一さんから教えていただいた。まったく見当はつかないが、その大阪ことばと関係があるのかもしれない。そしてまた「立てつづけ」という語とも関係があるのかもしれない。しかし「三回立てつづけの勝」が「三たて」と略され得るかどうか、疑わしい。
これにより、1961年時点で語源がわからなくなっていたこと、もとは囲碁将棋用語の可能性があること、「3タテ」が「3連勝」の意味だった可能性があること、「3タテは連敗の意味のはずだ」という疑問は持たれていなかったこと、などがわかる。
以上からすると、「3タテは3連勝のことだ」とまでは決められないものの、少なくとも「3タテは3連敗のことだ」と言い切ることは難しいのではなかろうか。
1936年末、日本の脱退宣言によりワシントン条約は失効し、海軍休日は終わりを告げた。
以後第二次世界大戦に至るまでの数年間は無条約時代と称され、各国とも新たな建艦競争にひた走ることになる。
日本は自主的かつ適正な国防所要兵力標準として戦艦12隻、航空母艦10隻以下を定め、海軍国防所要兵力整備十年構想に基づいて軍拡を開始した。
1937年の第三次海軍軍備補充計画では戦艦2隻、航空母艦2隻等66隻を建造している。この時点で日本は、過度の建艦競争を予想していなかった。
しかし対抗するアメリカは、経済恐慌からの立て直しの一環として建艦計画もその主要な柱の一つとしており、日本に数倍する建艦をスタートさせた。
1934年の第一次ヴィンソン案こそ条約保有枠を満たす程度の比較的小規模なものだったが、1938年に無条約時代最初の計画として成立した第二次ヴィンソン案は海軍力25%増強を謳い、戦艦3隻と航空母艦1隻等の増強を決めた。
既存計画と合計するとその規模は日本の4倍にも達するものであり、想定以上に過激な反応を見た日本は新たな対抗手段を求められた。
1939年、当初予定から1年繰り上げて第四次海軍軍備充実計画が策定され、戦艦2隻、航空母艦1隻等80隻の建造を開始した。
この計画ではアメリカの建艦に互することの困難さを認める兆候が早くも現れており、量的な対抗は不可能と考えられ始めていた。
だがアメリカは手を緩めなかった。
折から第二次世界大戦が勃発したこともあり、1940年の第三次ヴィンソン案ではさらに海軍力25%増強を目指した。
当案は議会の査定で11%増強に抑制されたが、それでも戦艦2隻と航空母艦3隻等を追加するもので、対抗上日本も第五次海軍軍備充実計画の策定で戦艦3隻、大型巡洋艦2隻、航空母艦3隻等第三次と第四次を合計したものにほぼ等しい大計画を立案し1942年からの着手を目指した。
そして1940年7月、ドイツのフランス攻略を受けて発表された最大の建艦計画が日本を震撼させた。
両洋艦隊法、スターク案と呼ばれた同計画は戦艦7隻、大型巡洋艦6隻、航空母艦18隻など216隻、海軍力実に70%増強を目指すもので、当時の連合艦隊総力に匹敵するという膨大な計画は、もはや日本の追随をまったく許さなかった。
対抗案として1944年スタートの第六次海軍軍備充実計画が検討され、戦艦4隻、大型巡洋艦4隻、航空母艦3隻などの建造を構想してはいたが、第五次計画の実現さえ危ぶまれる情勢の中、その実現はほとんど不可能と思われた。
急速に開き始めた日米間の戦力差(1943年時点で対米5割、44年時点で同3割まで戦力比が低下しまったく勝ち目はなくなるとされた)に危機感を抱いた日本では、
戦力比が優位なうちに開戦を目指す論が勢いを増し始める。
着手時期の関係で1941年には一時的に日米戦力比は対米8割を超えるまでに改善すると見込まれていたからで、一連の流れは太平洋戦争開戦の少なくとも一因を担ったと評されている。
この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
【郭報道官】いわゆる「サンフランシスコ平和条約」は、中国やロシアなど第二次世界大戦の主要当事国を排除した状態で、日本と単独講和を結び、発表した文書だ。この文書は、1942年に中国、米国、英国、ソ連など26ヶ国が署名した「連合国共同宣言」における敵国との単独講和禁止規定に違反し、「国連憲章」及び国際法の基本原則に違反している。台湾の主権の帰属など、非締約国である中国の領土及び主権的権利に関わるいかなる処置も、不法かつ無効である。
高市早苗首相は、十分な国際法上の効力を有し、かつ「中日共同声明」「中日平和友好条約」など二国間文書で明確に強調されている「カイロ宣言」「ポツダム宣言」には触れず、不法かつ無効な「サンフランシスコ平和条約」のみを強調した。
https://jp.china-embassy.gov.cn/jpn/lcbt/wjbfyr/202512/t20251223_11781594.htm
わかるか?中国共産党外交部は、サンフランシスコ平和条約をな不法かつ無効としてるんだ
順不同。異論は認めるよ。
次世代合気道不動のスタープレイヤー。卓越した技術とフィジカルで表現される美しく力強い演武は本当に革新だったよ。合気道が持つ胡散臭さを過去のものにしようとしてるし、その姿勢は業界の内外問わず多くのフォロワーを生み出してるよ。Youtubeの動画はしょぼい稽古やってるおっさんからすると「もう…もうやめて」ってなりがちだよ。
開祖最後の内弟子。美麗で柔軟なフォームは00年代に田舎のおっさんの道場でも話題になってたし、お手本にしてたよ。今は好々爺が忖度した弟子相手に人間バスケしてる感があるっちゃあるけど、やっぱり手足の裁きや位置取りを見てると、怖いなこの人って思うよ。
キレがすごい
大阪武育会のトップ。絶妙な間合いとタイミングのコントロールで、瞬時に相手を「取って」しまう技は圧巻。競技合気やってる昭道館との技術的な関わりも深いみたいで、合気会では失伝したようなレア技もバンバン出てくるから見てて勉強になるよ。
歩く教則本四代目。実直な演武や、メディア露出の少なさから白川竜次の後塵を拝していると揶揄されがちだけど、その下半身の尋常じゃない強さを活かした正確でしたたかな技はやっぱり見てて唸ってしまうよ。次期道主に対して失礼な感想かもだけど、類稀な合気道家だと思うよ。
5.ミハイ・ドブロカ(不明/横浜合気道・五段)※合気道を始めたのは2002年
白川竜次のYoutubeチャンネルにもちょいちょい出てくるフィジカルお化け。受けでも取りでもこの上なく綺麗なフォームで力強い合気道をするよ。動きが大げさでキライっていう人もいるけど、あんな動きマネできない事だけは確かだよ。
Explosive Aikido Movement — Power and Control!
6.岡本洋子(不明/京都合気道・八段)※合気道を始めたのは1978年
練り練りおばちゃん。男性がやる力強い合気道とは一線を画した練りに練って技を収斂させる、もはや発明にも近い合気道には驚愕するよ。木村二郎やクリスチャン・ティシエとおんなじタイミングで八段になったみたいだけど、国内での影響力は頭一つ抜けてるんじゃないかと思うよ。
合気道F-lab.の人。もともと福岡の祥平塾でやってらしたけど、今年からフリーになったみたいだよ。動きが柔らかく大きくて、時に鋭い技は本当に見ていて勉強になるし、多くの稽古者が言語化できなかった事を言葉にしてくれてるレクチャー動画は、初級上級問わず必携のコンテンツだよ。
タイパコスパ言うわけじゃないけど、熊澤さん世代のトップカテゴリにいる指導者は、「高段者は何をやっているのか」を言語化して説明できる能力が高い人が多いよ。その中でも熊澤さんに関しては説明めっちゃ上手いしフィジカル強いし、身体の柔軟さと合わせた技はホント見事だよ。
本部のやばたにえん修羅。白川竜次を凌駕するとも劣らないフィジカルを活かしたハイスピードでバッキバキの演武。もし合気道の事おじいちゃんが手をかざしたら弟子が飛んでいくもんだと思ってる人がいたら、この人の演武見てみてほしいよ。すごいから。暴力的に見えるから敬遠する人もいるけど、合気道の本質の一面はこれだからね、型稽古やってると忘れがちだよね。
白川竜次を輩出した合気道小林道場出身。一目見ただけでめっちゃやり込んでるって分からせられるフォームと鍛えられたフィジカルに裏打ちされた強くて柔軟な技がピカイチで、一時期めっちゃ参考にしてたけど、全然マネできなかったよ。
以上だよ。
作ってると「あ、あの人も」みたいになっちゃうのも結構あったよ。
やってる側からすると、やっぱり白川竜次がドーンと出てきた中、本部の振る舞いって結構ナイーブなのかなって思ってたりするんだけど、風の噂では本部道場にも「人を触れずに投げてはいけない」みたいなお達しがあるらしいし、全体的にフィジカルを活かした技をしていこうねって流れなのかもしれないね。
あ、あと合気道って何気にサンリオとコラボしてたりするんだけど、あんまり知られてないしTシャツとキーホルダーだけで道着がないの残念過ぎると思ってるよ。
ハローキティ道着作ろうね!ね!
おしまい。
追記=================
半分以上わからなかったけど、生年を追記したよ。リサーチ不足で申し訳ないよ。
誰しもに当てはまる話じゃないんだけど、だいたい初段から五-六段に上がるまでに、15-25年かかるから、五-六段の人はアラフォー~アラフィフの人が多いよ。
題名: 「影の學者」
雪の降りしきる寒き冬の日、京都帝國大學の敷地に足を踏み入れた者は、凛とした冷気と共に、どこか硬直した空気を感じ取ることだろう。學問の殿堂であるはずの此の場所に、ひとつの邪悪な影がひそかに廣がっていた。
副學長である藤堂智義は、外見こそ學者らしく、知識豐かな人物に見えた。然而、彼の研究室の中では、誰も知らぬ裏の顔が廣がっていた。藤堂は學問の枠を越え、權力と欲望に取り憑かれていた。彼は大學の女子學生たちを次々と手籠にし、その肉體と精神を支配していた。その研究室は、表向きは靜かな學問の場所でありながら、その實、密室の闇に包まれていた。
藤堂はその成果を、かつての戰友であり、現在は理化學研究所の三好一佐に共有していた。三好は、軍の秘密機關に携わる人物であり、藤堂の研究が軍事利用されることを期待していた。しかし、藤堂の目的はそれだけではなかった。彼は更に深い野心を持ち、國家機密を敵國に売り渡すことを畫策していた。彼の裏で蠢く欲望と陰謀は、もはや學問を超えて、國の運命をも左右しかねないものだった。
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第二章:山田の目
一方、陸軍中野學校での訓練を終えた若き軍人、山田健太郎は、かつて戰場で見た冷徹な現實を胸に秘めながら、情報部門での任務に従事していた。彼は、特に軍の秘密を扱う情報の流れに敏感であり、時には自らの直感を信じて動くことが多かった。そんなある日、山田はある情報を耳にする。
「藤堂副學長が、密かに國家機密を外部に漏らしている。」
最初、山田はその話を信じることができなかった。しかし、調査を進めるうちに、藤堂の周囲に潜む奇妙な動きと異常を確認する。藤堂が接触していた女性たちの間で囁かれる噂、そして三好一佐との秘密の會話。山田の勘は、何かがとてつもなく大きな闇に繋がっていることを告げていた。
藤堂の行動に対して、山田はすぐに動くことを決める。だが、彼が考えた以上に、事態は複雑だった。藤堂を追い詰めようとする彼の周囲でも、特攻警察のような強力な存在がその動きを牽制していた。特攻警察とは、戰時中に國家を裏切る者や反逆者を處罰するために秘密裏に活動する、極秘部隊のことだった。彼らの手法は極端で、容赦のない捜査と取り締まりを行っていた。
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第三章:泥沼の闘争
山田は、藤堂を取り締まるための證拠を集めるために動き出すが、すぐにその道がいかに険しいものであるかを痛感する。彼は、藤堂が密かに所持している機密書類や、彼が関与している取引の證拠を掴もうとするが、藤堂は巧妙に隠蔽工作を施し、彼を遠ざけるように仕向ける。
一方、藤堂もまた追い詰められることを感じ始める。彼は自分が知られれば、學問の名誉も、學者としての地位も全てを失うことを知っていた。そして、最終的には、國家機密の売買に関して、三好一佐に密約を交わし、敵國への情報提供を約束する。その取引が成立すれば、彼は莫大な利益を得ることができると確信していた。
山田は、その取引が行われる直前に藤堂を捕えるため、內閣と特攻警察を巻き込んだ大規模な逮捕作戦を立てる。だが、この作戦が始まると、事態は予想を超えて泥沼の闘争へと発展していく。特攻警察の手が藤堂の周辺にも迫り、軍部内部でも暗闘が繰り広げられ、山田はますます追い詰められていく。
山田がついに藤堂を捕える寸前、藤堂は最後の切り札として、命がけの自決を決意する。彼は、すべてを暴露されるくらいなら、いっそ命を絶ってしまおうと考えた。しかし、山田はそれを阻止し、ギリギリのところで彼を取り押さえる。
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第四章:決着
藤堂の逮捕後、その罪狀は明らかとなり、戰時下の國家機密を敵國に売ろうとした罪で、彼は死刑に處される。しかし、その背後にあった深い陰謀は完全に解明されることなく、軍部や內閣の關與は曖昧なままうやむやにされていく。
山田は任務を終えたが、心の中には滿たされぬ思いが残る。藤堂のような存在が、戰時中の混亂の中でどれほど多くの人間に影響を與えたのかを考えると、彼自身もまた、この戰争の本當の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。
藤堂の裏で動いていた秘密の力、そしてそれに巻き込まれた人々の運命は、山田の心に深く刻まれていった。
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「影の學者」――戰爭の暗闇の中で、ひとりの學者の欲望と、それに立ち向かう一兵士の物語は、終わることなく続いていくのだろう。
海自のイージス艦「みらい」が1942年にタイムスリップして、あれやこれや歴史改編に絡んでいく話。知ってる人は知ってる漫画でしょ。
5chのスレとかだと、主人公の角松二佐がまあボロカスに叩かれてた覚えがある。初めは人命尊重を絶対視して回りくどい手を繰り返したり満州まで飛んで溥儀を保護しながら目の前で殺されたり、梅津一佐が負傷して後任の艦長になった途端に今後の方針を巡ってクーデター起こされて下船したり特高に捕まって部下を目の前で殺されたり(2回目)、みらいに強行乗船して好き勝手動いて指揮権を奪還したり補給の目処もないまま帝国海軍に叛逆したり、そしてマリアナ沖海戦で大和の原爆を止めようとして結局失敗した末にみらいが撃沈されて乗員全員が目の前で戦死したり(3回目)、その果てに1人だけ100歳手前まで生き延びたってオチ。
連載当時は気にしてなかったけど今振り返ったら結構酷いな?
それでもし序盤、例えば米兵との格闘時に角松二佐が死んで、尾栗三佐=副長、桐野一尉=船務長の体制とかになってたとしたら、その後はどういう展開になってたんだろう?
という独り言。通じる人がいたら嬉しい。
NHK朝ドラ「ばけばけ」の放送も近づいて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への関心の高まりつつある昨今だが、この機会に言っておきたいことがある。それは、ハーンについての鶴見俊輔の以下のよく知られた言及は、素人の自分の調べた限りでは、非常に不正確でほとんどデタラメに近いということだ。
https://x.com/shunsuke_bot/status/1019013776841039872
ラフカディオ・ハーンは、やがて日本に帰化し、日本人と結婚し、親類づきあいや近所づきあいの中にまきこまれ、日本に住む者として日本文化をまぢかに見るようになってからは、次のように書いた。 「私は、かつて日本人はみな天使であるかのように書いたことを思い出すと、気がくるいそうだ。」
これを読んだ私は当初、きっとハーンは日本人の建前の裏の本音にうんざりして、日本女性と結婚して日本に帰化したことも後悔したのに違いない、とすら思った。しかし調べてみたら全然違ったのだ。
確かにハーンは鶴見の引用するような文章を書いた。しかしその前の
「以前住んでいた出雲の人たちはおだやかだったが、引っ越し先の九州の人たちは粗暴だ」
まあ確かに批判はしているのだが、日本全体を批判したわけではないし、また批判した内容も(鶴見のほのめかすような)日本人の陰湿さといったものではなく粗暴さである。それも130年以上前の話だ。今は九州も出雲も、当時より相当おだやかになっているはずである。
またこの文章の出典は出版物ではなく、W.B.メイソンという人に宛てた1892年の私信である。つまり公然たる主張ではなく内輪の愚痴なのだ。それならその日の気分で筆の滑ることもあろうし、果たしてそこまで深刻に受け止めるべきものだったかのかどうか。
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なお日本で刊行された小泉八雲の著作には、どうやらこの文章は収録されていないようだ。少なくとも国会図書館デジタルコレクションで小泉八雲の著作を「日本人 天使」で全文検索しても見つからない。これは私の調査不足による誤りで、実際は普通に収録されていた。申し訳ない。この記事の終わりで詳述する。
しかしハーンの文章の英語原文をChatGPTに教えてもらい、その語句でググると出典が見つかる。これならおそらくアメリカの大学図書館では読むことができただろう。
"make me mad to think that I wrote all the Japanese were angels" - Google 検索
Full text of "The Japanese letters of Lafcadio Hearn"
https://archive.org/stream/japaneseletters00hearrich/japaneseletters00hearrich_djvu.txt
I can't get much chance to study life in Kuma-
moto. I don't like the Kyushu people — the com
mon people. In Izumo all was soft, gentle, old-
fashioned. Here the peasants and the lower classes
drink and fight and beat their wives and make me
mad to think that I wrote all the Japanese were
angels. . . .
(拙訳)
出雲では、すべてがやわらかく、優しく、古風だった。
また鶴見の文章の出典は、国会図書館デジタルコレクションで容易に見つかる。当該の記述は「生花の位置」という文章の一部で、初出は「華道 1953年3月」だとのこと。率直に言って、私のような素人にもなかなか興味深く面白い文章である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2466359/1/88
https://dl.ndl.go.jp/pid/6028304/1/5
鶴見は1942年までハーバード大学に留学していた。彼はおそらくそこで、日本ではあまり知られていなかったこのハーンの手紙を読んだのであろう。そしてその約10年後に、その内容を自分の文章に(意図的かうろ覚えか)不正確に引用して、日本文化を批判する自説の補強に使ったのであろう。しかしハーンの手紙の正確な原文は日本ではあまり知られないままだったので、鶴見の文章の面白さもあって、その引用が独り歩きしてしまったのではないだろうか。
なお鶴見には他にもしばしば、他人の作品を我田引水して自説をイタコのように語らせる悪癖があるようだ。例えば彼は日本のマンガ評論のさきがけでもあるのだが、長谷川町子『サザエさん』などの評論は全編そんな感じだった。これもおそらく執筆当時は、庶民の作品に潜む抵抗精神という本質を見抜いたなどと称賛されたのであろうが、今となっては私には鶴見が他人の作品をダシに自分の政治信条を主張しているだけにしか見えない。しかし、もし仮に『サザエさん』が鶴見の評論より先に廃れていたら、同様に評論だけが独り歩きしていたのではないだろうか。
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この記事を手早く書き上げて公開した後ほぼ失念していたが、「ばけばけ」の放送も始まったので思い出して読み返したところ、割と読みづらかったので文章に少々手を加えた。内容は変えていない。
この記事への反応は少なかったが、かなり肯定的な評価もいただけた。また「小泉八雲 日本人 天使」でググると検索結果の上位に出るようになったから、今後は鶴見のこの言及に興味を持った人の調べる手間が省けるだろう。
まあ省けると言っても、私は完全な門外漢の素人であり、調査はPCを数時間操作しただけである。たったそれだけで、もし鶴見の同時代人だったらハーンの専門家がアメリカの大学図書館に出向かないとわからなかったようなことが容易にわかってしまう。つくづくありがたい時代だと思う。
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申し訳ないが訂正。
先に書いた通り、ハーンの例の手紙が日本であまり知られていないという私の推測は間違いで、実際は広く知られていた。
つまり、ハーンの手紙が知られずに鶴見の言及が独り歩きしたという私の憶測は完全に間違いだった。改めて申し訳ない。
田部隆次 著『小泉八雲』,早稲田大学出版部,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/950739/1/122?keyword=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%20%E5%A4%A9%E4%BD%BF
熊本では人の世を研究する機会にあまり数多く接する事は出来ない。
出雲では誰も彼もが柔和で、優しくて、古風だ。
また、ハーンの手紙を踏まえて書かれた最近(2025/08/18)のブログ記事もあった。
朝ドラ『ばけばけ』の主人公の夫のモデル小泉八雲はどんな人だったんだろう?① | よどの流れ者のブログ
https://ameblo.jp/s21y24/entry-12923911589.html
出雲では万事柔和で古風であった。
しかしそうなると、この鶴見の言及が、なぜ1953年から今(2025年)に至るまで間違いを指摘されてこなかったのかはわからなくなってしまった。
単純に、小泉八雲の専門家の目に触れる機会がなかったからだろうか。
それとも鶴見の権威を恐れて間違いを指摘する者が現れなかったのか。
今の私は見当がつかない。
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/5.pdf
これによると上官殺人については、代表的なものとして以下の事例を確認できる。
概要: 輜重兵第3連隊第1中隊において、下士官7名と兵32名が中隊長代理および中隊将校に対して集団暴行を行い、中隊長代理を殺害した事件。
原因: 中隊長代理の過激な軍紀粛正に対する反感が引き金となった。
処罰: 首謀者の曹長は死刑、中隊長代理も職権乱用の罪で懲役1年6ヶ月に処せられた。
概要: 第59師団第53旅団隷下の独立歩兵42大隊第5中隊で、兵6名が中隊幹部に対して暴行を行い、中隊長を殺害した事件。
処罰: 本事件の詳細な処罰については記載されていないが、軍内で大きな衝撃を与えた事件として記録されている。
概要: 昭和18年度には、上官殺傷事件が合計で45名にのぼり、特に中隊長以上に対する犯行が多数発生していた。
原因: 上官の粗暴な態度、軍事能力の欠如、指導能力の不足などが原因として挙げられている。
殺人を取り上げたが、対上官犯の発生傾向を全般でみると、戦況の悪化に伴い増加していた模様。
昭和16年度の対上官犯は341名であり、前年の202名から約1.7倍に増加している。
昭和17年の上半期だけで、対上官犯は126件、152名に達している。
昭和18年度には対上官犯が428名に増加し、前年と比較しても著しい増加傾向。
昭和19年には対上官犯がさらに増加し、1月から7月の間に既に347名に達しており、前年の一年間の総数に近づく勢い。
対上官犯の増加についての背景について、戦況悪化と士気低下の影響と分析している。
ガダルカナル撤退後、第一線も後方も士気が低下し、対上官犯や奔敵逃亡が増加する傾向にあったという。
補給不足や飢餓状態が士気を低下させ、逃亡者や対上官犯の増加に繋がったとのことだ。
戦闘が激化し、士気が低下することで、上官への反発や不満が顕在化しやすくなり、対上官犯の発生が増加したと考えられる。
これに対して、陸軍は戦陣訓による教育的指導で意識改革を図ろうとした。(戦陣訓かよ。。。)
PDFは・・・以上のような内容の文書のようだ(AIによると)。
なるほど。面白い。
しかし、そもそも、満州事変にしても陸軍中央の一部幕僚と関東軍の連携に遂行され、それは政府や陸軍首脳の方針に反して行われたものだったし、226事件にしてもクーデターだ。陸軍内部には長い間、皇道派と統制派の対立があってそれがクーデターにつながったもの。
犬養毅首相を武装した陸海軍の青年将校たちが暗殺した五・一五事件(1932年)の時点で、もはや【軍務による制約】がすでに機能していなかったといえる。首相殺害って上官殺しどころの次元じゃない。下剋上すれば何かを変えられると信じていたということだ。
日本陸軍の歴史を振り返ると、ある意味、組織に内在する”下剋上”的な雰囲気が戦争へと突き動かしていたことがわかる。
それは当然ながら戦陣訓といった組織内規律でコントロールできる範疇を超えるものであり、根本的なガバナンスが問われていたことは間違いない。
そのダイナミックな動きをもっとも恐れていたのは昭和天皇だったかもしれない。
上記文書の対上官犯罪の増加について戦陣訓で対応したとあるが、こうして下剋上的な力学が全体で強く働いていたなかでは、戦陣訓ごときで風紀の乱れなど押さえきれるものではなかっただろう。
その戦陣訓を考案したとされる陸軍大将の畑は、昭和20年8月6日、たまたま広島駅近くで被爆し、その体験をもって上京、御前会議の前の元帥会議に臨んだ。他の元帥が主戦論を張るなか、ただ一人、本土決戦など不可能である旨を天皇陛下へ奏上、敗戦に至ることになる。
歴史にもしはないが、天皇陛下に奏上できる立場の陸軍首脳が原爆被害に遭っていなかったら?・・・もしかすると、当時の地震災害を黙殺したみたいに、原爆被害も知らされず黙殺されて、もう数発くらい落とされていたかもしれないし、ソ連の侵攻も相当進んでいたかもしれない。
このことからわかることは、各都市が焼けようと沖縄がどうなろうと本土決戦を諦めなかったにもかかわらず、原爆の威力を肌身で理解した元帥が奏上できたということは、人間誰しも当てはまることで、いくら想像力があっても、現場にいかないかぎり現場のことはわからないということだ。
なお、畑に随行していた参謀は宮城事件(クーデター)に巻き込まれ、青年将校に殺害されたとwikipediaに書いてあった。
というか国民の士気を高める手段としてスポーツや娯楽産業は有効であり国家は可能であればぎりぎりまで行う
今のウクライナは総力戦というかつての古いタイプの戦争を行っているのだが
・アメリカでは当然のように終戦までメジャーリーグの試合が開催され続けた。
・イギリスでは平時のプロリーグは休止したが代わりに戦時リーグが発足し終戦まで開催された。
・日本ではプロ野球の前身である職業野球が1944年の夏まで公式戦を行いその後も終戦まで断続的に試合を開催した。(夏の甲子園も1942年まで行われた)
さらに大相撲に至っては日本中が焼け野原になる終戦に至っても場所を継続し続けた。
・ドイツではプロサッカーのブンデスリーグの前身であるガウリーガがカップ戦では1943年を最後にリーグ戦は1945年の敗戦間際まで運営され続けた。
「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」の元ネタ探求をしましょうね
いくつかバリエーションがある
「無人島に[本]をn個だけ持っていくなら?」
……のような
[本]の場合に「聖書」という回答が西洋でメジャーなことから、元ネタは日本以外なのだろうとあたりをつける
調査の初手はとりあえずこれ
Desert Island Discs - Wikipedia
Desert Island Discs is a radio programme broadcast on BBC Radio 4. It was first broadcast on the BBC Forces Programme on 29 January 1942.[1]
Each week a guest, called a "castaway" during the programme, is asked to choose eight audio recordings (usually, but not always, music), a book and a luxury item that they would take if they were to be cast away on a desert island, whilst discussing their life and the reasons for their choices.
Desert Island Discs は、BBC Radio 4 で放送されているラジオ番組です。1942 年 1 月 29 日に BBC Force Program で初めて放送されました。
番組中「漂流者」と呼ばれるゲストは毎週、8 つの音声録音 (通常は音楽ですが、常にそうとは限りません)、本、そして船で漂流された場合に持っていく贅沢品を 1 つ選ぶよう求められます。 無人島での生活とその選択の理由について話し合います。
このラジオ番組の存在から1942年時点で「あるあるネタ」であることは確認できる
アメリカの一コマ漫画で「無人島もの」というジャンルが存在する……が、それが特に流行ったのはだいたい19世紀初頭頃の出来事なので"Desert Island Discs"とそう時代は変わらない
普通に考えれば『ロビンソン・クルーソー』以降なのよ
『ロビンソン・クルーソー』は1719年4月25日に出版された
これが売れて多くの人に読まれたからこそ"Robinsonade"というジャンルまで生まれた
Robinsonade (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) is a literary genre of fiction wherein the protagonist is suddenly separated from civilization, usually by being shipwrecked or marooned on a secluded and uninhabited island, and must improvise the means of their survival from the limited resources at hand. The genre takes its name from the 1719 novel Robinson Crusoe by Daniel Defoe. The success of this novel spawned so many imitations that its name was used to define a genre, which is sometimes described simply as a "desert island story"[1] or a "castaway narrative".[2]
ロビンソナード (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) は、主人公が突然文明から切り離され、通常は難破するか人里離れた無人島に置き去りにされ、手元にある限られた資源から生き残るための手段を即興で考えなければならないフィクションの文学ジャンルです。 このジャンルの名前は、ダニエル・デフォーによる 1719 年の小説『ロビンソン クルーソー』に由来しています。 この小説の成功により、非常に多くの模倣作品が生み出されたため、その名前はジャンルを定義するために使用され、単に「無人島の物語」[1] または「漂流者の物語」[2] と表現されることもあります。
ということは、探すなら18世紀か……
一応シェイクスピアの『テンペスト』も孤島が舞台になる物語だけど……
1611年頃
一応英wikipediaの"Uninhabited island"の"In literature and popular culture"の項にはもっと古い作品について言及がある
Uninhabited island - Wikipedia
The first known novels to be set on a desert island were Hayy ibn Yaqdhan written by Ibn Tufail (1105–1185), followed by Theologus Autodidactus written by Ibn al-Nafis (1213–1288). The protagonists in both (Hayy in Hayy ibn Yaqdhan and Kamil in Theologus Autodidactus) are feral children living in seclusion on a deserted island, until they eventually come in contact with castaways from the outside world who are stranded on the island. The story of Theologus Autodidactus, however, extends beyond the deserted island setting when the castaways take Kamil back to civilization with them.[8]
無人島を舞台にした最初の小説は、イブン・トゥファイル (1105-1185) が書いた『ハイイ・ブン・ヤクダン』で、次にイブン・アル・ナフィス (1213-1288) が書いた『テオログス・アウトディダクトゥス』が続いた。 両方の主人公(『ハイイ・ブン・ヤクダン』のヘイイと『テオログス・アウトディダクトゥス』のカミル)は、無人島で人里離れて暮らす野生の子供たちだが、最終的には島に取り残された外の世界からの漂流者たちと接触することになる。 しかし、テオログス・アウトディダクトゥスの物語は、漂流者たちがカミルを文明に連れ戻す無人島の設定を超えて広がります。 [8]
こういうmeme的というか、とりとめのない雑談のあるあるネタがいつから存在するかって探すの超大変だ
残念ながら"Desert Island Discs"の1942年以前ではっきりと「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見できなかった
https://x.com/Circle_Halberd/status/1762628685679464845?s=20
……という嘘豆知識
正直フフッと笑ったが、それはそれとして本当の元ネタが気になるのじゃわしは
英wikipediaの"Uninhabited island"の以下の記述
The term "desert island" is also commonly used figuratively to refer to objects or behavior in conditions of social isolation and limited material means. Behavior on a desert island is a common thought experiment, for example, "desert island morality".[3]
「無人島」という用語は、社会的に孤立し、物質的手段が限られている状況での物体や行動を比喩的に指すのにもよく使われます。 無人島での行動は、たとえば「無人島の道徳」などの一般的な思考実験です。
これの出典がOEDになっている
ひょっとしたらOEDに私の欲しい情報があるかもしれないが、OEDをすぐさま読める環境にないな……
人々が「無人島にもし漂着したなら?」というIFを雑談ネタとして共有できるということは大航海時代以降……"Robinsonade"というジャンルが一般に認知されている環境……であるはず
へたすりゃギリシャ神話の時代までさかのぼることが出来るネタかもしれん
『オデュッセイア』とか……アルゴー船の冒険の話とか……船旅のエピソードがあるので、無人島に関するなんらかのミームの源流がそこにあっても驚かない
そうなったら手に負えん
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改めてこれを参考に探し直すか……元気な時に
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter
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19世紀後半〜20世紀前半ごろがこの問答が定番になった時期である、という可能性を探りましょうね
近代的なレジャーとしてのキャンプとか、ボーイスカウトとか……サバイバルスキルの知識が一般に広まったのがおそらくこの時期
その知識がないと無人島何持ってく問答は発展定着しにくいかもしれない
いやーでも聖書って回答が多いって話があるならサバイバルスキルの知識関係なさそうに見える……
→初期の定番問答は本を問う形式だった可能性もある、なんともいえん
サバイバルガイド的な本が19世紀に刊行されてないかを調べてみるか
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"Desert Island Discs"の1942年以前で「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見
無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば: ケペル先生のブログ
このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人の哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのもの、ベートーベンの楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。
発言時期が不明だが、この方は1923没なので"Desert Island Discs"よりおそらく古い
『ケーベル博士随筆集』という本に記載があるらしいが……図書館に行かないと読めない類の本だな
しかしやはり『ロビンソン・クルーソー』が念頭にある発言か……
さて、さらにこれ以前に遡れるだろうか?
ケーベル博士がロシア出身で日本にやってきた人で、"Desert Island Discs"はイギリスのラジオ番組
20世紀初頭には世界中で認知されている定番ネタということじゃないか
本があるならいくらでも読むが、どの本を読めばいいかのあたりをつけるのが難しい
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ゲーテが『私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。』という言葉を残しているらしい
この発言の出典元文書がちょっとすぐには見つけられていないのだが
偉人の名言は「実は言っていない」ってことが往々にしてあるから疑ってかかるスタイル
ゲーテの生没年は1749~1832
無人島に持ち込むものは何問答と直接の関係はないかもしれないが、一種のクローズド環境に何を持ち込む?という発想はこの時代からあったということ
Robinsonadeの流行で便利なクローズド環境として無人島が一般に認知された?
元々「閉鎖環境に一冊本を持ち込むなら」という発想が存在した(その一冊とはたいてい聖書、なんというか最初から聖書という答えありきの仮定に見える気がする) ↓ Robinsonadeの流行で閉鎖環境として無人島が定着した ↓ メディアの発展で本以外(レコードなど)も問われるようになった ↓ さらに時代が下り、持ち込めるものはジャンル無制限になった
みたいな流れという仮説を立てれそうだが……
まあまあ、結論を急ぐことはない
1 第二次世界大戦中の1942年から1945年にかけて、治安維持法違反の容疑で編集者、新聞記者ら約60人が逮捕され、約30人が有罪となり、4人が獄死した、日本の刑事事件である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
2 ガーネットクロウのゆりっぺ(ボーカル)がライブ中に古井さんや岡本さんには話を振るのに七さん(キーボード)には話しを振らずに無視した事件
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1384752593
一式陸攻の渾名として「ワンショットライター」(一発着火ライター)または「フライング・ジッポー」(空飛ぶジッポー)が有名である。これは翼内の燃料タンク容積が大きく、加えて防弾タンクの採用が進まなかった関係で、被弾に弱く、一掃射で炎上したという意味で使われた。
このニックネームについて、日本の著作では、1952年(昭和27年)初版の堀越二郎・奥宮正武『零戦 日本海軍航空小史』ですでに言及されている[3]。その他、1942年2月に空母レキシントンを中心とする米機動部隊がラバウルへの空襲を行った際に迎撃に出てきた一式陸攻17機中13機を撃墜したレキシントンのF4F隊のパイロットが使い始めたと言う説もある[4]。一方、航空評論家ウィリアム・グリーンが自著中で“日本人のかげ口”として引用しているということに過ぎず、真偽の程は疑わしいとする意見もある[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BC%8F%E9%99%B8%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F