はてなキーワード: 命題とは
今年のGW、お前らがBBQだの旅行だの浮かれてる間、俺は一人で岩波文庫の『不完全性定理』と取っ組み合いをしていた。
正直、今までは「算術を含む公理系には、証明も反証もできない命題が存在する」っていう、ふわっとした知識しかなかった。
でも、それじゃ納得できなかったんだ。
「なんで数学っていう完璧な世界に、そんな穴があるんだ?」って。
で、連休5日間、モンスターエナジーをキメながら不完全性定理の核心、いわゆる「ゲーデル数化」と「対角線論法」を徹底的にシミュレーションした。
そしたら昨日、ついに「見えた」んだよ。論理の歯車がカチッと噛み合う音がした。
G(s) = 2^n1 * 3^n2 * 5^n3 * ...
こうすることで、数学について語る「メタ数学」を、数学そのものの中に閉じ込めた。
この発想がまず天才すぎる。
そして、俺が一番興奮したのがここだ。
∀x ¬Prf(x, ┌G┐) ⇔ G
これは、公理系の中で「証明不可能」であることを主張している。
もし証明可能なら偽のことを言っているから矛盾する。逆に証明可能なら、それは「 証明可能である」という嘘を証明したことになり、公理系が壊れる( 無矛盾性の崩壊)。
さらに、この証明可能性を「算術化」した述語を使って、第二不完全性定理を導くプロセスも鳥肌モノだった。
Consis(T) → ¬Bew(┌0=1┐)
この一連の流れを追った瞬間、俺の脳内にパッヘルベルのカノンが流れたね。
数学は、自分自身が正しいことを、自分自身の力だけでは証明できない。
……え? 「お前、GWになにやってんの?」って?いいか、俺たちの背後にはこの「不完全性」が横たわってるんだ。
ゲーデルはそれを教えてくれた。
「陛下、こちらがご希望の『馬鹿には見えない服』でございます」
王はおしゃれが大変好きで、流行りものには人一倍に敏感であった。その熱意といえば、新しく城下町にやってきた胡散臭い仕立て屋が「馬鹿には見えない服」を作るなどという馬鹿げた噂に飛びついて、巨額の報酬を約束して彼らを召し抱えるほどだった。王は完成がたいそう待ち遠しかったのか、従者や大臣を頻繁に視察にやった。当然全く見えない服は彼らをひどく困惑させたが、陛下がご期待なさる服なのだからと自身に言い聞かせ、彼らは仕立て屋の説明をそのまま自らが見たものとして王に報告した。
その日は仕立て屋が命じられた服を完成させたと報告した日の翌日だった。王は視察をさせた人々を集め、完成した服を仕立て屋自身の手で、最も大きな広間で披露させた。自らの着るものをよく自慢していた王といえど、服の一着をかくも大げさに披露させることは全く無かった。それゆえその場の人々は皆、その服はかの王でさえ感激するほどの代物なのかと考え、互いに記憶していた服の特徴を口にして褒め称えてみせた。王は嬉しそうな様子で、いくつかの者に感想を述べさせた。その内でひときわ若さの目立つ頭の良い大臣は、
「これ程見事な服飾は見たことがありません。陛下のような偉大な男にこそ相応しい立派な服だ。これはあなたの王朝において後代まで、あなたの名を知らしめる家宝になるでしょう。」
とさえ述べた。
しばらくして王は、仕立て屋に尋ねた。「お前はこれが馬鹿には見えないと言う。例えば、形而上学の偉大なる命題から道端に根を張る草の名まであらゆることを知る博識なものがいて、されど口が鈍く動きはのろまで、人々から馬鹿だと罵られているとする。彼にはこの服が見えるか?」
仕立て屋は自身を持って答えた。「もちろん、彼は賢いので見えます。」
王は続けて尋ねた。「するとこの服は、その者がどのように見えるかではなく、その者にある真なる知性を見抜くということか」
仕立て屋はやはり自信ありげに答えた。「左様でございます。彼が人々からどのように見えても、その知性によって彼はこの服を見ることができるでしょう。同様に、たとえ人々から賢いと思われていても、その者が賢さを偽っているならば、服はその者には決して見えません。」
王はその答えに対して満足げに笑みを浮かべたあと、このように言った。「では、その服が『真なる知性を見抜く』ということを知っているお前も『真なる知性を見抜く』ということになる。そうでなければ、お前から見てもその者は馬鹿なので、お前がその服の持つ特性に気付かないはずだからだ。」
男はこれまで想定通りの問答が続いていたので、王のこの主張に対して戸惑った。しかし結局、うまい言い訳を見つけられなかったその男は「そういうことになりましょう」と答えてしまった。
王はそこで、今までとは打って変わって、少し表情を硬くしてこう言った。「ならば、その服はいらないから、お前を大臣として我が宮廷に迎えよう。この服よりはるかに多くの金貨をお前に支払うことにする。お前はそれによって人々を見極めて、私の臣下となるものを選びなさい。そうすれば、私は宮廷を強くし、城下町を豊かにし、その服よりも更に立派な新しい服を毎日着ることができるであろう。もしお前が誤った者を臣下としたなら、お前は私に嘘を吐いたのだから、私はお前の手足を切り落として市中を引きずり回し、火あぶりにする。けれどもお前は真なる知性を持つ者を見極めるのだから、そのような事は起こらないだろう。」
男は内心焦りながら、流石と言うべきなのか、次のように返した。「陛下、この身に余る大変な名誉ですが、私よりこの服を買うほうがよろしいでしょう。服を使えば同じように知性を見定めることができます。私は日銭を必要としますが、服には必要ありませんから。」
しかしその答えは王の予想した通りのようだった。「されど、服は話さない。先程のような一見して賢さが分からない者は、どのような知性が宿っているのか、誰かがそれを私に伝えなければ無意味だろう。」
ペテン師は、そこで黙り込んでしまった。よく見ると、先程まで服を褒め称えていた人々も、皆顔をしかめていた。しばらくの沈黙のあと、王はこのように言った。「お前が自らの過ちを認め、街を離れるのであれば、お前の不敬な嘘を許すことにしよう。たとえ詐欺師であっても、このような下らないことのために、私は人を死なせたくはない。」
その一言があって、この愚か者は自らが対峙する男の賢さを悟ったのか、「陛下、我が罪をお赦しください」と涙して応じた。
王はその後、あの若い大臣に再び尋ねた。「お前はあの服を見てどのように感じたか」
大臣はうつむきながら、「陛下、お戯れを」とかすかな声で言った。賢き王はこの者をしばらく見つめた後、今までになく真剣な面持ちで人々に言い放った。
「なるほど諸君らは仕立て屋の嘘を見抜いていたに違いない。それでも諸君がこの嘘を私の前で真実であるようにふるまったのは、私がこの服に随分と執着しているようで、その気持ちを台無しにしたくないと考えたからだろう。私はそのように気を利かせてくれた諸君らを誇りに思う。けれども、私が真に諸君らに求めていることは、そのような偽りの気休めではない、本当の忠誠なのだ。忠誠というのは主君の気を良くするためのおべっかではなくて、例えそれが主君の意に反していたとしても、誤っていることは誤っていると諌める気高き心なのだ。」
そう言い終えると、賢者は立ち上がり、人々の前を堂々と歩き去った。彼が着ていた、GWに仕入れた真新しい金ビキニは、広間に差した正午の陽に照らされ眩しく輝いていた。
各種レビューサイトの評価が低いように、私も残念な気持ちになった。
まず第一に、失念術と称しながら、その内容は気晴らしの方法でしかなく、記憶術の逆関数ではない。
話の内容は失念という機能から外れ、いつの間にか不快の根源を絶つ方法の話に逸れていく。
そもそも話が違う。
第二に、失念術は記憶術より有益ながらも誰も唱えていない、などと冒頭でもったいぶりながら、終盤には結局は宗教であるなどと既知の概念に着地する。
こういった仕草を感じ取った人間に対して私は距離を置くことにしている。
『人の性質一ならされは其方法亦一ならさる』ゆえに『成るへく數多の種類を集めて其人の資性に適合せるものを用ふる方針を取らさるへからす』とはいうが、
要するに何もわかっていないので「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というに過ぎない。
ならばせめて、これを著述する己自身はどの方策を採用したのか書けばいいものを、そういった誠実さもない。
私はこういうのを「良かれの法」と呼んでいる。
現代でいえば、投資家がごもっともらしく述べる『ラテマネー』の概念がこれだ。
休憩時間の飲料を節約したからといって、それが資産形成において何だというのか。
いったい誰が、そんな種銭にもならない小銭で投資の世界を勝ち抜いたというのか。
説教のために強引にノウハウをひり出し、努力の余地を粉飾し、あたかも読者の努力不足かのように感じさせる。
ただそれだけのことである。
第四に、筆者の主義主張を含む命題をあたかも自明であるかのように論を進める点。
『人の人たる所以は全く高等の思想を有するに在れは』だの、『下等の体欲情欲』だの、
クィアのメディア批評には、どのような表象が生まれても最終的な批判の矛先が「シスヘテロ的欲望」に向けられるシスヘテロの悪魔化が定着しつつある。
問題の核心は、「性的すぎる」批判と「性的でなさすぎる」批判が、まったく逆の現象を対象にしながら、同一の犯人(シスヘテロ的まなざし)を指名する点にある。
アブデラティフ・ケシシュ監督の本作(2013)は、カンヌでパルム・ドールを受賞した一方で、レズビアンコミュニティから激しい批判を受けた。主な論点は、約10分に及ぶ性描写シーンが「実際のレズビアンの経験というより、ヘテロ男性のポルノグラフィー的ファンタジーに近い」というものであり 、監督の男性的なまなざしがレズビアンの身体を対象化・フェチ化しているという指摘だった。
原作コミックの作者であるジュル・マロ自身も、その性描写を「滑稽で過度」と批判した。これは正当な批評である。しかし注目すべきは、批判の着地点が常に「男性視線がレズビアニズムを搾取した」という一点に収束し、その他の解釈——たとえば監督の美学的選択、フランス映画の身体表現の伝統、あるいは原作との差異——がほとんど議論されないことだ。
一方、2018年のハリウッドメジャー初のゲイ主人公ティーン映画『Love, Simon』は、性描写をほぼ排除し、恋愛とカミングアウトの感情的側面を中心に据えた。だがこれもまた批判された——今度は「ストレートに受け入れやすくするため、クィアのセクシュアリティを無害化・消毒している」という理由で。
批評家のジェイコブ・トビアは、「男性的なゲイ男性は魅力的な主人公になれるが、フェミニン・ジェンダーノンコンフォーミングなゲイ男性はコメディリリーフに追いやられる」と指摘した。『Love, Simon』が「ホモノーマティビティ(heteronormative assumptions を内面化したゲイ規範性)」を再生産しているという分析は学術的にも支持されている 。しかしここでも「ストレートへの媚び」という説明図式が優先される。
| 表象の特徴 | 批判の内容 | 帰責先 |
|---|---|---|
| 性描写が露骨・長い | 男性の視線でレズビアンをフェチ化 | シスヘテロ男性の欲望 |
| 性描写がない・少ない | クィアのセクシュアリティを脱性化し、ストレート視聴者に媚びる | シスヘテロ社会への同化欲求 |
| 同性カップルを登場させる | 「キスがあるだけ」では不十分、中心的物語として描くべき | シスヘテロ的周縁化 |
この表が示すのは、結論(シスヘテロが悪い)が先にあり、証拠(表象の内容)が後から当てはめられるという推論の倒置だ。「非反証可能な命題」であり、いかなる反例も体制側の隠蔽として吸収できてしまう。
ハリウッドがクィアカップルを描く際の「ハードル上昇」も同様の論理で動いている。米ハリウッド系ケーブル局 Hallmark Channel は2019年、同性カップルのキスシーンを含む広告を一時撤回して批判を受けた。その後方針を転換し同性カップルを番組に登場させたが、今度は「単に登場させるだけでは足りない、物語の主軸として描くべきだ」という要求が生まれた。
注目すべきは、批判の基準が常に現状より一段上に設定され、達成されるたびに次の「不十分さ」が告発されるという無限後退の構造だ。この構造のもとでは、どれほど努力したコンテンツも必ず「ストレートの論理に回収されている」と断罪される余地が生まれる。このお決まりの展開が繰り返されたことに、クィアへの加害欲求など持たないのに敵視され続けたストレートたちは疲れ切っている。
クィアからの要求が累積・エスカレーションするにつれ、シスヘテロ側からの反発もまた組織化・激化してきた。重要なのはこの反発が均質ではなく、正当な批評的懸念・疲労感・政治的操作・むき出しの差別が入り混じった複合体であるという点だ。
最も象徴的な事例がDisneyとスター・ウォーズ・フランチャイズをめぐる論争だ。Disney+ の The Acolyte(2024)はレズビアン監督レスリー・ヘドランドによるスター・ウォーズ初の女性クリエイター主導作品だったが、低視聴率を理由にキャンセルされ、イーロン・マスクは「Go Woke, Go Broke(ウォークになれば潰れる)」と投稿して祝意を示した 。保守派ファン層から「LGBTQアジェンダを押しつけている」という批判が噴出し、あるアンケートでは米国人の52%超が「Disneyはファミリー向けエンタメへのLGBTQ+促進をやめるべきだ」と回答したとも報告されている。
2023年のバドライト=ディラン・マルバニー事件は、二重拘束の地獄を如実に示した事件だ。トランス女性インフルエンサーとのスポンサー契約への保守派ボイコットで、ABインベフの米国売上は10%超下落し、バドライトは20年以上守ってきた「米国最多販売ビール」の座を失った。Kid Rockはバドライトの箱を銃で撃つ動画を投稿し、フロリダ州知事ロン・デサンティスも公式批判した。
同時に、LGBTQ+コミュニティからもバドライトは批判された。今度は「マルバニーへの支持が不十分だった」「声明が曖昧」という理由で。企業がトランスインクルージョンに動けば保守派が離れ、クィア側は生ぬるいと批判する。ブランドは文字通り、どちらに動いても批判される二重拘束に陥った。
問題は、「同性愛の存在そのものへの(宗教的・生理的な)否定」という差別と、「政治的意図が作品の完成度を損なっている」という批判、「クィアをどう表現してもLGBTQ+コミュニティから"まだ足りない"と批判される」という消耗感、クィア側の言説がこの三類型を区別せず、すべてを「シスヘテロ的抑圧」として均質化する傾向があることだ。差別と、正当な美学的批評と、「要求の際限ない上昇に疲れた」という感覚をひとまとめにすることで、本来なら対話可能だった穏健層は「敵」に分類されてしまう。
要求がエスカレートし続け、かつどのような表象も必ず「不十分」か「間違っている」と判定される構造が固定化すると、実際に損するのはクィア当事者自身だ。
「シスヘテロが悪い」という枠組みへの依存は、結果としてクィア表象の場そのものを消耗させるリスクを持っている。DEIへの政治的逆風が強まる中、広告主はLGBTQ+メディアから撤退し始めており、「ゴールドラッシュは終わった」と編集者たちは述べている。この撤退が差別によるものか、要求の非現実的なエスカレーションへの疲労によるものか──個人的には後者の色が濃く──クィアは無駄に敵を増やす愚行で自滅したと私は感じている。そして確信しているのは、今後どれだけLGBTQ+メディアやコミュニティへの逆風が強まろうと、クィアが自分たちのやり方(シスヘテロの悪魔化、ダブルバインド、エスカレーション)が間違っていたのではないか、度が過ぎていたのでは、と反省する可能性は『ゼロ』だということである。悪いのは100%、"悪魔のようなシスヘテロのヘイターども"に決まっているのである。
自己放尿とは何か?政府による愚かな介入、無知に基づく政策、短期的政治インセンティブに駆動された非合理行動、要するに避けがたい政府の自己放尿だ。
問題はそれが起こるかどうかではない。必ず起こる。
前提は明快だ。人間は合理的であるが、同時に制約の中で最適化する存在だ。
政治家も例外ではない。彼らは公共善ではなく再選確率を最大化する。
では、なぜ便器なのか。
適切に設計されたルールは、自己放尿をゼロにはしないが、その被害を局所化し、外部不経済を最小化する。
政府はどこでも自己放尿する。金融政策で、財政支出で、規制で。
価格システムという自動調整装置を無視し、情報を歪め、インセンティブを破壊する。
ここで情緒的な議論をしない。冷酷に言う。「政府を賢くするな。愚かさを前提にせよ」と。
裁量政策とは、政治家が好きな場所で自己放尿する自由を与えることだ。
例えば、単純で透明な税制。
政府が自己放尿すること自体は止められないが、その流れを排水管に導くことはできる。
ナンセンスだ。
政府は分散した知識を集約できないし、政治家は公益より私益に反応する。
つまり、優秀な政府を前提にするのは、重力の存在を無視して建築するようなものだ。
自由市場は万能ではない。しかし、価格という自動操縦装置を機能させるためには、政府に便器を与えなければならない。
冷酷に言えばこうだ。
同じ¥500が二つに分岐する瞬間がある。
松屋のカウンターで券売機のボタンを押す¥500。配信のチャット欄でスーパーチャットを送る¥500。前者は340kcalの熱量に変わり、胃に届き、数時間後に消える。後者は配信者の口から自分のハンドルネームが発声される3秒間に変わり、鼓膜に届き、数秒後に消える。
どちらの¥500も、使われた瞬間に消滅する。だが消滅の仕方が違う。牛丼の¥500は何に変わったか説明できる。スパチャの¥500は説明できない。
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この説明不能性には技術的な根拠がある。スーパーチャットは感情を整数に変換するプロトコルだが、仕様にセマンティクスの定義がない。
SUPERCHAT_PACKET {
amount: uint32 // defined
message: utf8[] // defined
color: enum[7] // defined
intent: ??? // UNDEFINED
}
intentフィールドが未定義のまま本番に出た。¥10,000は「愛している」かもしれないし「暇で金がある」かもしれないし「このチャットを支配したい」かもしれない。プロトコルは区別しない。金額は意味の非可逆圧縮であり、復号アルゴリズムは存在しない。
牛丼にはこの問題がない。¥500=並盛一杯。intentフィールドは「空腹の解消」でほぼ確定している。食欲は意味の不確定性を持たない。だから誰も牛丼を買う行為に怒らない。
投げ銭文化への反発は、金額が高いから起きるのではない。intentが未定義のまま可視化されるから起きる。¥500という数字が見えた瞬間、親密さに度量衡が発生し、度量衡を持った親密さは牛丼と比較可能になる。比較可能になったものは聖域ではない。「最初から聖域など無かった」という事実が、牛丼一杯分の数字で証明されてしまう。
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1517年、ドミニコ会士ヨハン・テッツェルは贖宥状を売った。金を払えば煉獄の年数が短縮される。罪の赦しに値段がついた。マルティン・ルターは激怒した——恩寵に値段をつけるなと。
INDULGENCE v1.0 (1517) SUPERCHAT v2.0 (2017) medium: coin medium: JPY/USD message: prayer request message: utf8[] minister: priest minister: streamer grace: years_off_purgatory grace: seconds_of_recognition
パケット構造が同一であることは偶然ではない。どちらも「値段のつかないはずのもの」に値段をつけるプロトコルだからだ。テッツェルの贖宥状は神の恩寵を、スーパーチャットは人間の承認を、それぞれ通貨単位に変換する。そしてどちらのプロトコルにも、intentフィールドが未定義のまま残されている。
だがテッツェルの実装と現行のスーパーチャットの間には、一つの決定的な差異がある。テッツェルには料金表があった。身分と罪の重さに応じた価格が事前に定まっていた。スーパーチャットにはそれがない。「あなたが決めなさい」と言われる。会衆が自分で恩寵の値段を設定する。
歴史上のどの教会もこれをやらなかった。人間は自分の救済にいくら払うべきかを決められないからだ。
料金表の不在が、牛丼を度量衡として召喚する。公式の基準単位がない以上、会衆は自力で換算表を発明しなければならない。ある者は牛丼で測り、ある者は時給で測り、ある者は「推しの笑顔何秒分」で測る。全員が異なる度量衡を使って、同じ恩寵に値段をつけている。バベルの塔の崩壊後に、全員が異なる言語で同じ神に祈っているようなものだ。
そして隣の席の人が¥10,000を投げる。わたしは¥500。牛丼一杯分。わたしの信仰は隣人の20分の1なのか。この比較が可能になること自体が地獄である。テッツェルの料金表は残酷だったが、少なくとも比較の苦痛からは解放していた。全員が同じ表を見ていたから。
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カトリック神学の核心に聖体変化(transubstantiation)がある。パンとワインの外見——偶有性——はそのままに、実体(substantia)がキリストの肉と血に変わる。見た目はパン。本質は神。
スーパーチャットでは逆の変容が起きている。¥500の偶有性は経済的取引そのものだ。通貨単位、決済システム、プラットフォーム手数料率30%。だが送信者にとっての実体は牛丼を離れている。それは承認の要求であり、匿名性からの脱出であり、ときに悲嘆の放送であり、ときに愛の宣言である。牛丼の偶有性を保持したまま、実体が非経済的な何かに変容している。
投げ銭批判者は偶有性を読む。「¥500は¥500だ。牛丼だ。取引だ。搾取だ。」
投げ銭擁護者は変容後の実体を体験している。「金額の問題じゃない。気持ちだ。」
聖体論争 (16世紀) カトリック(実体変化説): 実体は変化し、偶有性は残る → パンは肉である ルター(共在説): 実体は共存し、偶有性は残る → パンの中に肉がある ツヴィングリ(象徴説): 実体は不変、偶有性も不変 → パンはパンを表すのみ 投げ銭論争 (21世紀) 送信者: 実体は変化し、¥500の偶有性は残る → ¥500は愛である 穏健派: 実体は金銭と共存する → ¥500の中に愛がある 批判者: 実体は不変、金は金のまま → ¥500は牛丼のままである
批判者のポジションはツヴィングリの象徴説と構造的に同型である。パンはパンだ。¥500は牛丼だ。そこに超越的な何かが宿ると信じるのは幻想にすぎないと。
だが配信者がハンドルネームを読み上げた瞬間、送信者の体に起きていること——心拍の微細な変化、ドーパミンの放出、名前を呼ばれたという事実の身体的登記——は、幻想では説明がつかない。何かが起きている。偶有性の内側で。だがそれが「何」であるかは、原理的に、外部から観測できない。
だからこの論争には決着がつかない。500年前と同じく。
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配信者は司祭職を選んでいない。プラットフォームが収益化を有効にした瞬間、叙任が起きた。ダッシュボードの「収益化」トグルをONにすること、それがこの時代の按手礼である。テッツェルは少なくとも自分が贖宥状を売っていることを知っていた。現代の司祭たちにはその自覚がない。彼らは読み上げという秘跡の執行を通じて承認という恩寵を発行している。Ex opere operato——事効的に。執行者の内面に関係なく、プロトコルが走れば恩寵は発行される。
会衆の側でも制度化は進む。常連が生まれ、ハンドルネームが記憶され、内輪の典礼が形成される。奉仕(切り抜き、ファンアート)がある。教義(推し文化のコード)がある。異端審問がある(「あいつはガチ恋勢だ」)。破門がある(BAN)。殉教者がいる(炎上して垢消しした古参)。
投げ銭文化への反発が最も激しくなる瞬間は、金額が高い時ではない。コミュニティが自分たちを教会だと気づきかけた時だ。気づきかけて、その認識を拒否する力が反発として噴出する。「いや、これはただの趣味だ」「推しているだけだ」「宗教じゃない」。否認の強度がそのまま、構造的同型性の証拠になっている。
初期キリスト教の信者たちも自分たちを「教会」とは呼ばなかった。エクレシア——集会——と呼んだ。ただの集まりだと。
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¥500が牛丼でありかつ愛であるという命題は、パンが小麦粉でありかつ神の肉体であるという命題と同じ構造を持ち、同じ検証不能性を持つ。スーパーチャットのintentフィールドは未定義のままであり、聖体の実体が変化したかどうかを外部から観測する手段は存在せず、料金表は永遠に再発行されない。
この不確定性は投げ銭に固有のものではない。すべての価格決定に潜んでいる。ただ、スーパーチャットの¥500はそれを素手で触れるほど近くに引き寄せた。牛丼一杯という、誰にでも分かる度量衡を使って。
できないまま、¥500は今日も飛ぶ。松屋に向かう¥500と、チャット欄に向かう¥500。同じ硬貨の表と裏のように。片方はカロリーに変わり、片方はintent未定義のまま、どこかの配信者の唇を通過して、消える。
主観現実から見れば、認識していないものは、自分の宇宙には存在していない。
哲学者ジョージ・バークリーは「存在するとは、知覚されることである」と説いた。
世界は五感を通じて脳内に構成された像に過ぎない。意識のスクリーンに映し出されないものは、その人にとってはこの世のどこにも存在しないのと同義。
脳は、生存に不要な情報を徹底的に削ぎ落とす「引き算」のシステムである。
馬鹿の世界を認識の対象外に設定することは、脳のこの機能を能動的に使い、自分専用の快適な宇宙を再構築する作業と言える。
何かが自分に影響を与えるためには、まず認識という窓口を通過する必要がある。
認識しなければ、腹を立てることも、失望することも、時間を奪われることもない。
近年の国際政治は、まさに自己放尿の連鎖反応として理解するのが最も整合的である。
ここでいう自己放尿とは、合理的選択の仮定から逸脱した政治的意思決定、すなわち短期的インセンティブに支配された非効率な政策行動である。
イスラエルとアメリカによる予防戦争という名目のイラン攻撃、そしてそれに連動するホルムズ海峡閉鎖は、この自己放尿の典型例であり、
しかも単発ではなく、複数主体による安全保障と国内政治のダブル放尿として観察される。
国家もまた合理的主体としてモデル化されるが、その合理性は完全情報でも完全最適でもない。
むしろ、政策主体はしばしばルールではなく裁量に依存し、その結果、期待形成を歪め、市場の調整機能を破壊する。
今回の軍事行動はまさにその裁量主義の暴走であり、価格システムに対する外生的ショックとして機能する。
ホルムズ海峡は単なる地理的ボトルネックではない。それはエネルギー市場における情報伝達装置、すなわち価格メカニズムの中枢である。
そこが閉鎖されるという事態は、供給曲線の急激なシフトを意味し、結果として価格のボラティリティを増幅させる。
だが問題は、これが自然災害ではなく、政治屋共の自己放尿によって引き起こされている点にある。
さらに深刻なのは、この自己放尿が合理的無知によって支えられていることである。
一般有権者にとって中東政策の詳細を理解するコストは高く、その便益は極めて分散している。
そのため政治屋は短期的な支持獲得のために強硬策を採用しやすく、結果として国際市場に巨大な外部不経済を撒き散らす。
これはまさに価格理論的に言えば、政治市場におけるインセンティブ構造の歪みであり、非効率均衡への収束を意味する。
イスラエルとアメリカの行動は、安全保障の名の下の自己放尿であり、対する産油国や地域勢力の対応もまた報復としての自己放尿である。
この相互作用はゲーム理論的には囚人のジレンマに近く、各主体が個別に合理的に見える行動を取った結果、全体として最悪の結果、すなわち海峡閉鎖と市場混乱のダブル放尿に至る。
ここで強調すべきは、政府の裁量を最小化し、ルールベースの枠組みを確立すること。
自由市場は完全ではないが、政治屋の自己放尿よりは遥かに優れた調整メカニズムを持つ。
価格は情報を伝達し、資源配分を最適化するが、軍事介入という自己放尿はその信号を歪める。
「政治屋共が自己放尿してホルムズ海峡閉鎖、これが現実である」という命題は誇張ではない。
命題「バトル漫画も恋愛漫画も「目の前のシチュエーション」をパートナーと攻略するという同じ構造をしている」
これが今回のテーマです。
バトル漫画においては「逃げ切る」「殺す」「交渉できる状態に持っていく」といった様々な勝利条件が提示されますが、それらの最終目的は「暴力によって成し遂げられる行為の完結にたどり着く」こととなります。
同時に恋愛漫画も「成就する」以外にも「いい思い出として終わる」だとか「片方が命を落とす」だとか「寝取られて終わる」とか色々なものがありますが、よほどの打ち切り作品以外は「恋愛という状態に対する結末が描かれる」ことになるわけです。
物語構造において「暴力」と「恋」という全く違うものを使ってはいますが、基本構造自体は変わらないのです。
両者の大きな違いとなるのが「敵キャラクター」と「恋愛対象」という部分ですが、実はこれも分解してみると似通ったものになります。
実は両者の違いは「決着に至るまでの固有の障壁」が「戦い」という角度から見たものか、「恋愛」という角度からみたものかの違いしかないのです。
たとえばバトル漫画では「物凄く防御力が高くどんな攻撃も通用しない」という能力が出てきますが、これは恋愛漫画において「物凄く鈍感でどんなアピールも通用しない」という恋の障壁と極めて似通ったものと捉えることが出来るのです。
バトル漫画における固有能力は、恋愛漫画における恋の障壁に似ているという漫画構造は、時に人間の脳に大きなバグを引き起こします。
それは恋愛漫画に深く染まった人間がバトル漫画を読むと、敵キャラクターを倒すためのやり取りに、恋愛工学的な意味合いを見出してしまうことがあるということです。
主人公が固有能力を持って相手の固有能力を倒す様は時として、「超奥手なオタク君の心の壁を、物怖じせずグイグイ来るギャルだけがこじ開けることが出来る」といった関係に似たようなものさえも感じさせるのでしょう。
中でもバトルジャンキー系のキャラクターとの戦いにおいて相手キャラクターが主人公の存在に感謝や愛を伝えてしまうと「やっぱりそうなんだ。この解釈でいいんだ」とお墨付きをもらったように一線を越えてしまう腐女子も少なくありません。
バトル漫画と恋愛漫画には一見すると絶対的な壁があるのですが、実際に構造を分解していくと「相手キャラクターの存在を通して決着までの間にある障壁を解決して結末にたどり着く」という形では酷く似通っているわけで、その類似性について整理をつけていない状態で中途半端に理解を進めると脳がバグって聖闘士星矢がBL漫画に見えてしまう腐女子が誕生するわけですよ。
これは恐ろしいことです。
皆もっとちゃんと両方の漫画を読んで「似ているとも言えるし、全然違うとも言える」ということを実感するべきです。
「全く似ていない絶対に違う」という前提を強く持ちすぎると、意外と似ていることを発見したあとに凄い勢いで間違った結末にたどり着くリスクが跳ね上がります。
乙骨の「1回だけですよ」が優しさと熱の両輪で生み出される演技はベテラン声優の流石の風格でありんした。
はてさて、ああいうシーンを見ると世の中の腐女子は「ヤバイ!キテる!BLだ!う”わ”き”だ”よ”」となってしまうのもよく分かるというものですね。
では何故そうなるのか?
個人的な突っ走りに基づきすぎているのでこんなの最初に出したら一瞬で読者のHPがゼロになる防御力0記事ですわ。
防御力理論の提唱者である松井優征先生に殴り殺されますよこんなの。
そもそも呪術廻戦のアニメを最新話まで追ってる人が日本に何人いるのかですわ。
いやー話にならないね。
そしてこれを全部削除できずに残す女々しさよ。
僕は予定通り、午前中の抽象数学とか超弦理論とかの理論的進捗を完了した。
進捗率は87%。残りの13%は、世界の物理学者の理解能力に依存しているので、実質的には完了と見なしていい。
今日の主題は、超弦理論における因果ダイアモンドの再定式化だった。
通常、因果ダイアモンドとは、ある2点 ( p, q ) に対して、pの未来光円錐と q の過去光円錐の共通部分として定義される。
つまり時空内の情報が閉じ込められた領域だ。だが、この定義は古典的すぎる。僕が扱っているのは、背景独立な量子重力の極限での話だ。
僕はこれを、弦のワールドシート上の埋め込みではなく、より高次の圏論的対象として再構築した。
具体的には、因果ダイアモンドを単なる領域ではなく、可観測代数の双対的束として扱う。ここでのポイントは、境界が単なる幾何学的境界ではなく、エンタングルメント構造によって定義されるという点だ。
つまり、因果ダイアモンドの境界は、リーマン多様体上の単純な測地線ではなく、情報の流れの不変量としてのホログラフィック境界になる。
ここで通常の人間は混乱する。ルームメイトも例外ではなかった。
朝、僕がホワイトボードに書いた「因果ダイアモンドのエンタングルメント・エントロピーは境界の極小曲面ではなく、∞-圏における射のスペクトルで定義される」という式を見て、彼はコーヒーをこぼした。
非効率だ。
このとき重要なのは、時間順序ですら派生概念になる点だ。つまり、因果構造は基本的ではなく、エンタングルメントのネットワークから誘導される。
友人Aにこの話をしたところ、「それはつまり、観測するまで何もないってことか?」と言った。
典型的な誤解だ。僕は正確に訂正した。「観測するまで何もないのではなく、観測という操作自体が圏の射として再定義される」と。
彼は沈黙した。理解したわけではない。ただ処理能力が飽和しただけだ。
一方、隣人は朝からドアを3回ノックした。3回というのは許容できるが、間隔が不均一だった。
僕は即座に調教した。彼女は「普通はそんなこと気にしない」と言ったが、それは単に最適化問題を解く能力が低いことを意味するだけだ。
友人Bとは昼前にビデオ通話をした。彼は因果ダイアモンドの「ダイアモンド」という語が比喩的であることに納得していなかった。
僕は説明した。「それはローレンツ対称性のもとでの光円錐構造の投影形状に由来する」と。彼はなぜか安心した。
さて、ここまでが今日の進捗だ。
次にやることは明確だ。
1. 因果ダイアモンドを用いたブラックホール内部の情報再構成
これが完了すれば、時空は存在しないという命題が、単なる哲学ではなく、厳密な数学的定理として成立する。
その前に、13:00ちょうどに昼食を取る必要がある。今日は決められたメニューの日だ。変更は許されない。宇宙の基本法則と同じくらい重要だ。
ルームメイトが「たまには違うものを食べよう」と言ってきたが、僕は明確に拒否した。対称性の破れは慎重に扱うべきだ。特に昼食においては。
以上。今日はここまで。
同情はごく大まかに言って発展の法則を、つまり淘汰の法則を妨げる。
同情はありとあらゆる種類の出来損い的人間を生の中に引き留め、そうした人間を夥しく地上に溢れさすことによって、生そのものに陰惨でいかがわしい表情を与える。
生命そのものは、一有機体の健全な部分と退化変質した部分との間にいかなる連帯性も、いかなる「平等な権利」も認めない。
変質した部分は切除されなければならない。
—フリードリッヒ・ニーチェ 著、氷上英廣 訳『ニーチェ全集 第12巻 (第II期) 遺された断想 (1888年5月-1889年初頭)』白水社、1985年8月30日、125-126頁。
生きる意味、生きる権利が失われてしまった後で、医師や病院の処置に女々しく頼って植物人間として生きつづけるのは、
社会の側において深い軽蔑を招くことになりかねません。(中略) ――処方箋を示すのではなく、毎日、自分の患者に対する新しい嘔吐の一服を盛るべきでありましょう。
極めて皮肉なことに、「病人は社会の寄生虫である」と書いた4か月後、ニーチェは脳梅毒により精神に異常をきたし以後の10年余り狂人として家族の世話になって過ごした。
エルンスト・クレーが著書『第三帝国と安楽死』の中で書いているように、ニーチェがナチス・ドイツの時代に生きていれば真っ先に殺害対象になっただろうことは疑いようがない。
https://anond.hatelabo.jp/20260325163037#
@新刊発売予定、というのは@の意味を意図通りに解釈させる、ひいては@の前の部分が名前に相当するものであることを正しく解釈させるための方便に過ぎない。
特にブクマ民は鈍いと思われ、よほどわかりやすく名前を表示していなければすぐ増田呼びするだろう。そんな彼らを特に念頭に置いた方策だ。
以前は「@執筆依頼募集中」としていたわけだが、これよりも上記の方が旧ツイッター特有のアカウント名に対するアットマークの使い方として類似例が多そうで、そういうニュアンスでの記号使用であることをより確実に伝えられるだろうと考えた。
実際には本を出すことはないが、嘘をつきたくなくないから、予定と添えておけば嘘にならないと考えたから。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260325172710#
意味不明すぎ
https://anond.hatelabo.jp/20260325172947# 署名をつけず偽装をしたdorawii
この方は増田ではありません。
https://anond.hatelabo.jp/20260325174406#
https://anond.hatelabo.jp/20260325175149#
たとえば矢沢永吉や大谷翔平や今上天皇がSNSにも書いたと引用URL付き報告するうえで増田に名乗って書いた場合、明らかにその人は変わらず矢沢永吉や大谷翔平や今上天皇でしかなく、増田ではないだろ。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260325175851#
そうですね。彼らのような著名人が増田に書きこんだ時点で、増田には増田しかいないという命題に対する反例が成立しますね。
彼らが増田に書いたからといってその事実をもって増田と呼ぶようにする人よりも、増田呼びに違和感を持つ方が一般的でしょうから。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260325175944#
https://anond.hatelabo.jp/20260325163037#
@新刊発売予定、というのは@の意味を意図通りに解釈させる、ひいては@の前の部分が名前に相当するものであることを正しく解釈させるための方便に過ぎない。
特にブクマ民は鈍いと思われ、よほどわかりやすく名前を表示していなければすぐ増田呼びするだろう。そんな彼らを特に念頭に置いた方策だ。
以前は「@執筆依頼募集中」としていたわけだが、これよりも上記の方が旧ツイッター特有のアカウント名に対するアットマークの使い方として類似例が多そうで、そういうニュアンスでの記号使用であることをより確実に伝えられるだろうと考えた。
実際には本を出すことはないが、嘘をつきたくなくないから、予定と添えておけば嘘にならないと考えたから。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260325172710#
意味不明すぎ
https://anond.hatelabo.jp/20260325172947# 署名をつけず偽装をしたdorawii
この方は増田ではありません。
https://anond.hatelabo.jp/20260325174406#
https://anond.hatelabo.jp/20260325175149#
たとえば矢沢永吉や大谷翔平や今上天皇がSNSにも書いたと引用URL付き報告するうえで増田に名乗って書いた場合、明らかにその人は変わらず矢沢永吉や大谷翔平や今上天皇でしかなく、増田ではないだろ。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260325175851#
そうですね。彼らのような著名人が増田に書きこんだ時点で、増田には増田しかいないという命題に対する反例が成立しますね。
彼らが増田に書いたからといってその事実をもって増田と呼ぶようにする人よりも、増田呼びに違和感を持つ方が一般的でしょうから。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260325175944#
そうですね。彼らのような著名人が増田に書きこんだ時点で、増田には増田しかいないという命題に対する反例が成立しますね。
彼らが増田に書いたからといってその事実をもって増田と呼ぶようにする人よりも、増田呼びに違和感を持つ方が一般的でしょうから。
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自称漫画好きに「好きな作品は?」と聞くと色々な作品を次々と挙げてくる。
そのたびに思う。
浅いな、と。
別にアメコミ読んでない=漫画好きじゃない、とまでは言わない。
だがアメコミにも名作は多い。そういった作品を全く知らずして「漫画好き」を名乗るのは、ちょっと違うんじゃないかとは思う。
そこで今回は、アメコミにおいて名作と呼ばれる作品を五つ紹介しよう。
老いたスーパーマンが再び立ち上がる物語、と要約することもできるが本質はそこではない。
この作品が問うているのは「ヒーローは誰のために存在するのか」という一点だ。暴力がエンタメ化した世界で、かつてのヒーローたちは古くさくなり、代わりに制御の効かない“新しいヒーロー”たちが台頭する。
正義とは何か。力とは何か。
そして人間を守る存在が人間を超えてしまったとき、それはまだヒーローなのか。
必読である。
ヒーローがいるのに世界は全然マシになっていないどころか、むしろ終わりに近づいている。
ヒーローがいたら世界は救われる。なんていう都合のいい話は一切ない。
中でもロールシャッハは象徴的で、彼の正義は徹底している。善悪は絶対に分かれるもの。だから妥協はしない。その姿勢は一見ヒーロー的だが、同時に極端で、社会とは決定的に相容れない。
この作品がやっているのはヒーローという存在の解体というより「正義とは何か」を冷戦という現実の中に放り込んでいることにある。
その結果として示されるのは、正しさは必ずしも倫理的ではない。
読後、ヒーローという言葉を以前ほど単純には受け取れなくなるだろう。
だがこれは復活劇ではない。むしろ「なぜ彼はやめられなかったのか」を描いた作品だ。
老いた身体。変わってしまった社会。それでもなお暴力に身を投じるしかない男の執念。
正義が美徳ではなく衝動として描かれるとき、ヒーロー像はここまで不穏になるのかと気づかされる。
といった構図だけ見れば分かりやすい。
だがこの作品の本質は、Vではなくエヴィーという一人の少女の変化にある。
恐怖に縛られていた彼女が、Vとの出会いを通して“自由とは何か”を問われ、やがてそれを自分の意思で引き受けていく。
この作品は「自由は与えられるものではない」という命題を、極めて危うい形で提示している。
読後、その問いを読者は引き継ぐことになるだろう。
彼の目を通して、スーパーヒーローたちは“憧れ”であると同時に“理解不能な存在”として映る。
超人たちの戦いは当事者にとっては日常でも、周囲の人間にとっては災害に近い。空を飛ぶ神のような存在を人間はどう見ているのか。
ヒーローの物語を、ヒーローの外側から見直すことで初めて見えるものがある。
マーベルズはそういった新たな視座を与えてくれる、稀有な作品であるといえるだろう。
アメコミは派手なアクションや分かりやすい勧善懲悪ばかりと思われがちだ。実際、確かにそういう側面もある。
だがその先には「力を持つとはどういうことか」「正しさとは誰が決めるのか」といった、答えの出ない問いがずっと流れ続けている。
それは日本の漫画とはまた違う形で積み重ねられてきた、もう一つの“物語の歴史”だ。
ヒーローの話だと思って手に取った作品が、いつの間にか自分の倫理観を揺さぶってくる。
そういう体験が、ここにはある。
僕はいつも通り18:30時に日記を書き始めた。時間の厳密性は文明の基礎であり、文明が崩壊する最初の兆候は人間がだいたいを許容する瞬間だからだ。
ルームメイトは18:30:03に電子レンジを開けた。これは許されない。僕はその誤差を指摘したが、「3秒くらいいいだろ」と言われた。3秒を軽視する人間は、やがてゲージ対称性も軽視する。
午前中はトポロジカルM理論の再構成を試みた。標準的な理解では、これはトポロジカルAモデルとBモデルを7次元で統一するような構造で、ヒッチン汎関数を基礎にした3形式の理論として現れる。
だがこの説明はあまりにも低解像度だ。問題は統一するという言葉が、圏論的に何を意味するのか曖昧な点にある。
僕の現在の仮説はこうだ。トポロジカルM理論は単なる7次元TQFTではなく、コヒーシブ∞トポス上の場の理論の内部化として理解すべきだ。
つまり、通常の多様体上の場ではなく、幾何そのものが内部論理として振る舞う圏における場だ。
このとき、3形式は単なる微分形式ではなく、∞-スタック上の2-群的接続の曲率として再解釈される。
ここで友人Aがやってきて、「それって物理的に何の意味があるの?」と言った。典型的な誤解だ。物理的意味を問うのは最後だ。構造が先で、意味は後からついてくる。量子力学もそうだった。
話を戻す。
トポロジカルM理論の古典解がG₂ホロノミー多様体に対応するというのは知られているが、僕はこれをさらに一段抽象化して、
と見ている。ここで重要なのは、「状態」がヒルベルト空間ではなく、層の圏そのものに拡張される点だ。
友人Bはこの話を聞いて「それもう物理じゃなくて数学じゃない?」と言った。逆だ。物理が遅れている。
さらに進めると、AモデルとBモデルの共役性は、単なる双対性ではなく、シンプレクティック構造と複素構造の間の∞-レベルのフーリエ変換として理解できる。
ここで僕は少し興奮した。なぜならこの構造は、トポロジカル弦の分配関数が波動関数になる理由とも整合するからだ。
つまりこうだ。
これは量子化そのものだが、通常の位相空間ではなく、モジュライ∞-スタックの上での量子化になっている。
ルームメイトはこの話を聞いて途中で寝た。合理的な判断ではあるが、知的には敗北だ。
午後は習慣の維持に時間を使った。
これらは単なる癖ではない。状態空間のエントロピーを最小化する操作だ。乱雑さは思考を汚染する。
隣人がまた勝手に僕の場所に座っていたので、厳密な確率論的説明を用いて「そこに座る確率はゼロであるべきだ」と説明したが、理解されなかった。人間は頻度主義に縛られすぎている。
これからやること。
命題: M5ブレーンの電荷は通常のコホモロジーではなく、楕円コホモロジーやMorava K理論に自然に値を取る。
これは単なる一般化ではない。物理的対象の分類そのものが、一般化コホモロジー論に移行することを意味する。
もしこれが正しければ、場の理論は最終的に∞-圏におけるコホモロジー値関手として書き直される。
ウィッテンでも完全には把握していない領域だ。つまり、僕がやるしかない。