はてなキーワード: ヴァイオリンとは
なぜだか私はひとの話題にされる。疑ってそうなんじゃなく、おまえのことを話した、と言われる、本当に。
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じじつ私はすこし変なひとなのは認める、話題になるんだから、どこかが平凡じゃない。べつに良い話題でそれでも、悪くいってそれでも、ふしぎなふうに話していても、どのみち、話す人がそのていどの人間だということ、つまり、私より基本的におもしろくないから、私のことを話すしかないし、その人の考え方で言葉を選ぶのだから、私はそういうの、愚かなことだと思う。
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それにしても、気分が悪いときにそれを思い出すと、普通にしんどい。
そういうとき、そのひとらを恨むけど、これは逆恨みではないよね、だって、また聞き代表者がそれを勝手にしてるんだから。この私がどこかおかしくても、他人のことふらふら話すなんて、それがおかしいんだから。
☆
ということで、私もそのひとらについて話してみよう。
ーー
まず、アベというのだが、こいつはあからさまに私のことをバカにしてくる。
そのひともたいがいで、私がどれだけこのひとに譲歩して会話をしているのか、なんだか本人はわかっていない。私は、正直なことをほとんど言わない。相手が何か疑問じみた話題をしてきて「こうなんじゃない?」と「いや、それが~なんだよ」私は「じゃあ、これがああで、それなのかも」とか、いっしょにかんがえて、最後に「考えるの疲れた」「思考を放棄」とかマジに言ってきたり、
ほかに「いやあ、人間ってむずかしいねえ」とかすり替えたり。おかしくね? そっちが疑問を与えてきてるんだから、いちおうの落としどころをいれないでどうしてそんなことを言うのだろう? それで私が言ってみてもつまるとこそいつはキャバ嬢なんで、くだらん人間との間をつなぐのに適当にゆがんだ認知で私らしいやつのことを話すのだろうから、私はそいつと話すときは、そいつが想像していそうな私らしいやつが言うだろうことを言っている。
おまえのことを考えると、私はまだマシだって思えると言われたけど、あっちは別になんも秀でた才能(名刺のような、これを言っておけば全国でわかるというもの)もなくて、くよくよしては、寂しいと私に話しかけてこれなんだから、なんなのと思うし、へえ、そう、と私は私に得なものだけはもらっておく。こいつに「おまえが何を考えてるのか全く分からない」と言われたことがある。
ーー
やっかいなのがずっとXにはりついてるところで、そのX的な文句を理解して、いないのにそのふりをしている、正真正銘だ。
こいつはほんとうに…、どう話していてもパラノイアで他責な(本人がそう言ってる)ので、ほんとうにおかしいやつ。または狂っている。狂うとかいう言葉も好きじゃないんだが、こいつは狂ってる。というか、狂い続けている。「ああ……」と思うのが、そのおかしい点を自覚したとして、自分が相手を傷つけたと自覚してもはっきりと謝らない、恩返しか目をつむってくれなのか、恩のように何かをプレゼントしてくるのだけど、それは、恩着せがましいと言う言葉がぴったりで、そう謝罪の気持ちなんだろう、と貰ってはいい感じの反応をしていると、金を返せと言ってくる、まったく、おかねという制度は、こういう歪んだ人間、なにも持っていない人間のためにあるんだなって、深く思える、あとなんか時間を返せとか言うけど、じゃあもう私と関わらないで消えてほしい。
何年こいつと触れ合っているのかわからないが、暇つぶしにはちょうどいいし、本人はおもしろいと思っているらしいこと、Xしぐさみたいなのを送られてくると、ほんとうにセンスのかけらもないので、へえ、と思っている。
それでいて、よう顔をSNSにのせてはいるけど、このひともこのひとで、特に何かすごいところはない、その上、音大受験に遅れて専門にいったけれど、そこでも幾らかの人間関係などで脱落し、とはいってもその間、なにか活動してたわけではなく、知りそめのとき、私は音大と聞いていたので、プロコフィエフってなんであんなに変なんだろう、と話したら「誰?知らない、どこの人?」といわれて驚いた。しかしカリキュラム的にはそこで優劣をつけることはしちゃいけない。けど、それにしたって、すくなくともヴァイオリンを習って音大を目指していたのだから、と思うが、その人はきらきら星を弾いて、それしかできなかったというのだ、こぼした言葉によると、音大は偏差値が低いから、習ってたし、それで、というのだ。もちろん音大受験のそれを知った後はまた習い始めたのだが、これもおかしく、ピアノを習い、いそいで学ぶためミクロコスモスを課題にやっていたそうだが、全くわからなかったと、今でもダブルシャープ、ダブルフラットの意味が分からないという。それで私も一応はクラ(中高)とピアノ(小学から習い事)ができて、聴音のだいたいは早くに身に着けたので、そして演奏はあまり好きじゃないから作曲科に行った。Youtubeなどをみているとへきえきする、そんなことをこいつに話したら話を露骨に変えてこいつもキャバほか身体接触が許されないていどの夜職を転々としては、追い出され晒され、体験入学がどうのとかを話してバニラはどうだのバニラよりこっちのがだのと私に話してきて、正直どうでもいいし、そもそも聞いてない、そんなこと全く聞いていない、というところなのだ。
夜職、と書いたが、それが悪いということではないし、私のいちばんながく、ふるい友人もそれで、別にこいつはウタというのだが、そんな仕事のあれこれは話してこないし、お金はあるから趣味(バイクと電子楽器)に費やしていて、私もたまにお邪魔して、おーおもしろいと思っていたり。ウタはウタだけど、歌うのは好きじゃないらしい。私も好きじゃない
。
あとさっきのひとは、私が心臓をやってしまってそれから半年くらいで数日家に帰ったとき、通話を寄こしてくるのでとりあえず出たら、ずっと、延々とその次の職はどうしよう、どれなら身バレしないだろう、とかずっと話しかけてきて、そういうのは詳しくないから、まず、悩み事と考え事、それを踏まえた判断で総合しよう、とゆっくり話していたのに、延々そのことをはなされ、もうどうしようもないから詳細を聞いて一緒に考えてみた。
そうすると、AがBでA-cはいやだからなあ、と言うので、じゃあBだけのものを選ぼう、と提案すると、いや、AはA-dがあるからよくって、でもB-xは捨てがたいなあとか、さっき話された内容じゃ全く分からない、知らない、その内通者じゃないとわからない、ネットで調べられるものじゃないキータームをだしてくる。それで、「へえ、へえ」と聞いていて、夜が明けてきたので、これは大事だからって、こう考えようね(あなたのその考え方ちょっとおかしいよ)と話ししばらく黙るもんで、なにか気分悪くした?と聞くと、「この界隈で働いたことないくせにずけずけ言ってくんのイライラする」と。
それを言ったきりで、通話を切って、私がトークで謝っても「うっさい」とか「嫌い」「さよなら」とか言うんだって。はあ。私、一応まだ入院中で外界に触れて大丈夫かの経過観察でアパートに帰ってきてるのに、本当、私はどうしてこんな人と性別超えて付き合ったのだろうとめちゃくちゃ悲しくなるし、底なく虚しく感じた、空はよどみながらも青く見えた。その日は少し泣いた。
こういうやつ。こういうやつが私の話をするのだから私はまるで自分が鏡のように感じる、つまり、相手の歪んでいる様様を映すという。
このひとにも「何考えてるか全くわからない」と言われた
本当に困った。なんというか、もう消えてほしい
言っちゃ何だけど
これだけで情報の洪水。日本人はユサペッカサラステなんて知らないしヘルシンキがどこにあるかも知らないし曲なんてどれ聴いても大して面白くないし角野隼斗しか興味ないんだわ。
チラシに指揮者の名前がないから問題だなんてむしろライトな人が聞いたら「は?」としか思わないよ。それくらい指揮者の仕事は理解されてないし「誰が振っても同じでしょ?」と思われてる。注意してほしいのは聞けば違いは分かるけどバカみたいに高い金と時間を払ってまで知る必要はないという意味ね。
そんなことよりヴァイオリンのコンマスと不義密通の関係にある楽団員は誰とかドビュッシーってエロいよねとか名前だけじゃなくてあいつはヤリチンだったんだよとかいう情報のほうが有益。
学校の授業の範囲だけでも10個か20個ぐらい分野が別れてるわけで、その中で「コイツはこれだけはクラスで一番できる」みたいなのがあった人が多いんとちゃうかなと。
それとは別にソロバンやヴァイオリンといった習いごと、特定のゲームや趣味への興味(たとえば電車の名前を全部言えるとか将棋だけやたら上手いとか)、親から引き継いだ何らかの技能だったりがあるわけで。
とにかく分野を細分化しまくっていけば半分ぐらいの人は「私は小学校の頃はクラスじゃ誰にも負けないその分野の天才だった」と言えるものがあったと思うんだよな。
でも同時に「何の分野でもニ番手以下だった」という人もマイノリティとしているわけだ。
こういう人らが持ってる世界観と、元何らかの天才が持ってる価値観ってどこかで絶対的に違うと思うんだよな。
その差がたまに顔を出すことがある気がする。
ある気がするんだけど具体的にどういうタイミングなのかが上手く言えないんだわ。
じゃあ、あとは任せるから
まず前提知識(常識)から。グランドピアノは鍵盤を押すとハンマーが跳ねて打弦される。つまりボールを正確に射出して弦に当てて音を出してるのと同じで、「打鍵」と「打弦」がメカニカルに縁が切れている。鍵盤への入力はハンマーの運動エネルギーに一意に変換される。
奏者がコントロールできるパラメータは音の強さ(Attack)と長さ(Sustain)と止め方(Release)であり、「音色」は入ってない。老ピアニストの入魂の一撃も猫が歩いても同じ音量なら同じ音色なのがピアノというinstrumentの特徴の一つである。
音色とは楽音の倍音構成とその経時変化である。奏者がダイレクトに弦を触ったり唇を震わせたりする楽器では表現のために音色を積極的にコントロールする。
さてしかしここで「タッチ」という謎概念が挟まってくる。ピアノはタッチによって音色が変わるというのだ。
いや当たり前といえば当たり前なんだが。弱く弾けば小さい音が出る。小さい音は相対的に高調波成分が聴こえにくく丸くくぐもった音になる。
でもそれは他の楽器のように直接音色を作ってるんじゃなくて打鍵強さの制御で音楽的表現をしてるのである。
「ピアノはタッチによって音色が変わる」と聞くと鍵盤の押し込みようにより同じ音量で違う音が出せるのだとしか解釈できず、何言ってんだという話になる。
でもそのあたりの用語の混乱はべつにいいじゃんという感じでふんわり放置されている。考えるより感じろの世界だからだ。
さて、その用語の意味的な混乱以上でも以下でもないはずの事象をかがくてきにしょうめいしたというのだ。
でも読んでみたらこれ何も証明してないよね。奏者の意図が聴衆に伝わるのを統計的にトレースしたからQEDってそんなわけないだろう。
奏者の頭の中のフィーリングが打鍵の強さやタイミング、それらのパラメータの相対的配列という音色以外の操作によって聴衆の頭の中で再構築された、それ「タッチ」の問題じゃなくて「ピアノ演奏」そのものなんですが。
用語的混乱にそのまま乗っかって言葉遊びしてるだけにしか見えないんだが、まあ論文を精査したわけじゃないしなにがしたかったのかはよくわからん。
でもブクマカどもが口々に「ヴァイオリンでも弾く人によってぜんぜん音違うから納得だ〜」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000170232.html
美術品をどれだけ見たかとか、都心のお洒落な店だとか、お薦めの本は新書だとか
・MARCH以上の大学に行ってマクロ経済学とミクロ経済学の本買って理解する(テストで合格点取れるくらい)事
・パソコン自作、自作プログラム(すごい簡単なのでいい)、自作ホームページ(自宅サーバとHTML直書き)
・簿記3級、できれば2級。経済の仕組みがちゃんと分かるようになる
要するに現代社会の仕組みを根幹から理解したり、創造の土台になるようなものなんじゃないかな適当だけど
特にピアノとかヴァイオリンとかはやったことないからその辺は適当ふかしてる可能性が高い
MARCHのどこかの経済学部卒なので経済に関してはある程度合ってると思う
ネット人間達の経済の語り口がめちゃくちゃを通り越してめちゃくちゃなのが散見されるので、まず全国民が土台知らんと無理じゃないかなと
つーか書いてて思ったけど、こち亀の両さんこそが本当に教養が豊かな人なんじゃないかな、ワイが間違ってたわ
遊びも流行も超広く程よく知ってて実践もしてて、ワイが上に挙げた堅苦しい学びに関しても時々スイッチ入ったり実利の為に学んで使ってるし
好きな曲 (順不同)
ベートーヴェン 運命、英雄、ハンマークラヴィーア、熱情、ピアノソナタ32番、クロイツェル・ソナタ
アイヴス 2番
ブラームス 4番
ニールセン 不滅
派手目なのが好きなのかも
ヴァイオリンを愛する、年間600冊読む、元(現LINE)エンジニア、元データサイエンティスト、理論物理学(修士)と情報工学(修士)。Zenn,はてな にも投稿してます。いろんなジャンルを書いてます。Mac/フランス語/ラテン語/アニメ。Amazonアソシエイト・プログラム参加者。
まあ俺よりは現実では活躍してるんだろうけど、ネットに書いてる記事は全然バズってるの無くてインフルエンサー的な影響力は皆無なんだよな。
こういう「結構有能なのにネット民=大衆の支持(言い換えれば政治家的/スター的な支持)は集められてない」人って結構見かけるけどなんなんだろうね。
有能ってカリスマ性も込みのことなんだと思うんだけど、インフルエンサーになるよりも小金持ちになる程度の業務遂行能力を持つ方が全然難易度低いってことなのか。
暇空はなんだかんだこんな勉強ができるだけの有象無象よりは全然人間として希少価値が高かったんだな。
それより気になったのは
「アニメ」とかこんな雑な括りで共通の趣味を持つ人と仲良くなろうとするような浅薄な思考回路の人間とは付き合いたくねえな。「小説」が好きとかも全く同様な。
永き航海の果て、陽が沈む寸前の水平線に、ついに麦わらの一味は辿り着いた。
何十年も正体が伏せられていたひとつなぎの大秘宝ワンピース)。
幾多の海賊、王、兵、そして夢追い人たちが命をかけて求めたその答えが、いま、目の前にある。
ルフィは、いつもの調子でニッと笑い、手を伸ばして宝箱を開いた。
「開けるぞ、宝箱!」
ギィィ……と重い音がして、蓋が持ち上がった。
光り輝く財宝が……なかった。
その代わりにあったのは、1冊の分厚い本。
革張りの、年代を感じるそれには、金の箔押しでこう書かれていた。
ナミがページをめくると、中には手書きの航海日誌のような文章と、写真のような記録映像が詰まっていた。
少年が海に飛び込む様子、帽子を預ける場面、仲間を守るために立ち上がる姿、泣き笑い、喧嘩、別れ、再会、そして宴。
それはまさに、これまでルフィたちが旅してきた記録そのものだった。
「これって……」
「そう……」
ゾロが「ハァ?」と目を細め、
ウソップが「いや……でも……」と肩を震わせた。
「おれたちが繋いできたもの全部が、ひとつなぎの大秘宝だったんだ!!!」
空が、パァァァッと黄金色に染まった。
夕日が雲の間から差し込み、ルフィの背中と麦わら帽子を照らしていた。
「おれは……ほんとに、海賊王になれたのかな?」
その問いに、ナミが笑って答えた。
「なったわよ。もう、誰も否定できない。」
「じゃあよォ!!言ってくれよ、ルフィ!!!最後にアレを!!!」
「おう!!!!」
「宴だァ~~~~~~~~~!!!!!」
その声に合わせて、ウソップが火を放ち、チョッパーが肉を並べ、
誰もが泣きながら、笑っていた。
かつて、ロジャーがここで見たという笑い話は、きっとこういう光景だったのだろう。
そして全員が理解していた。
仲間と過ごした全ての時間こそが、何よりの宝だったのだと。
夜はふけ、焚き火がぱちぱちと音を立てる。
赤く照らされた顔をルフィに向け、ナミが尋ねる。
「ねぇ……次は、どこに行く?」
誰もが黙って頷いた。
──そして翌朝、ラフテルに停泊していたサウザンド・サニー号は、静かに、新たな航路を進み始めた。
You:
コピー機について質問します。コピー機がコピーできるのはどのような仕組みによりますか。読み取り、トナーの吹き付け、それぞれを中学生のレベルで回答してください。
ChatGPT:
コピー機がコピーできる仕組みは、いくつかの段階を経て行われます。簡単に言うと、読み取り、トナーの吹き付け、そして熱で定着させるというプロセスです。それぞれを詳しく説明しますね。
1. 読み取り(スキャン)
コピー機にはスキャナーがあり、これで元の文書を読み取ります。文書の上に置くと、スキャナーが中の光を使って、白と黒、または色の違いを読み取ります。これは、光を当てて、反射してきた光の強さを測ることで、紙に書かれている内容(文字や図形など)をデジタル信号に変換しているんです。
2. トナーの吹き付け
次に、コピー機の内部でトナーと呼ばれる粉が使われます。このトナーは、紙に文字や図形を印刷するためのインクのようなものです。コピー機の内部には感光体ドラム(写真のようなもの)があり、これがデジタル信号を受け取って、電気的に静電気を使ってトナーを吸い寄せます。
このドラムが、最初にスキャンしたデータを基に、元の文書の形に合わせて静電気を使ってトナーの粉を「くっつける」んです。
3. 定着(熱で押さえる)
最後に、トナーが紙にくっついた状態では、まだ完全に印刷された状態にはなっていません。そこで、コピー機は高温のローラーを使って、そのトナーを紙に定着させます。このローラーが熱を加えることで、トナーの粉が溶けて紙にしっかりとくっつくんです。
このようにして、コピー機は元の文書をコピーします。簡単に言うと、光で情報を読み取って、静電気とトナーで印刷して、熱でそれを定着させるという仕組みです。
You:
コピー機の印刷には静電気が役立っていて、紙にトナーを付けた後に、トナーが取れないように熱でしっかり紙に付ける、とのことですか。
ChatGPT:
はい、その通りです!印刷の仕組みは、静電気と熱が重要な役割を果たしています。
まず、静電気を使ってトナーを紙に「吸い寄せる」ことで、文書の内容が紙に転写されます。静電気によって、感光体ドラムにトナーがくっつき、それが紙に転写される仕組みです。
その後、トナーはまだ紙にしっかり固定されていないので、熱を加えることでトナーを溶かし、紙にしっかりと定着させます。熱でトナーが溶けて、紙にしっかりくっつくため、コピーが完成します。この工程がないと、トナーが紙から簡単に取れてしまうことがあります。
ですので、静電気でトナーを紙に転写し、熱でそれをしっかり定着させるという流れが、コピー機やプリンターでの印刷の基本的な仕組みです。
You:
カタカナについて質問します。「ヴ」というカタカナが使われるようになった経緯を教えてください。
ChatGPT:
「ヴ」というカタカナが使われるようになった経緯については、主に外国語の音を表現するための必要性から始まりました。
もともと、カタカナは日本語の音を表記するために使われていましたが、19世紀後半、特に西洋からの外来語(特に英語)を表記する際に、日本語にはない音をどう表現するかが問題となりました。英語などの外国語には「v」の音があり、これを日本語のカタカナに表す場合、従来は「ブ」(「b」の音)で代用されることが一般的でした。
しかし、外国語の音により忠実な表現が求められるようになり、「v」の音を正確に表すために「ヴ」という表記が考案されました。
2. 「ヴ」の登場
「ヴ」のカタカナは、明治時代末期から大正時代にかけて、特に外国語に対応するために使われるようになったとされています。その発端としては、1890年代に英語やその他の言語の音を正確に表記するための日本語のカタカナの改訂がありました。
その後、特に英語における「v」の音を表記するため、「ヴ」は20世紀に入ってから正式に使用されるようになり、特に外来語をカタカナで表記する際に広まりました。例えば、「ヴァイオリン」(violin)や「ヴェルサイユ」(Versailles)などがその例です。
4. 現在
現在では、「ヴ」の使用は主に外来語や外国の名前などで見られます。正式な日本語辞書やメディアでも使用されるようになっていますが、まだ一般的には「ブ」と使われることもあり、特に日本語を学ぶ際には混乱することもあります。
このように、カタカナ「ヴ」は、日本語にない音を表現するために生まれ、主に外来語を正確に表記するために使われています。
You:
近代日本の西洋化で、福沢諭吉が「ヴ」を使い始めたようです。その後、森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』のタイトル表記で小説を発表しました。
ChatGPT:
「ヴ」のカタカナ表記の生まれた経緯について、以下のようにまとめることができます。
近代日本の西洋化が進む中で、特に明治時代には欧米諸国からの文化や技術が急速に流入しました。それに伴い、英語やフランス語、ドイツ語などの外来語が日本に取り入れられ、これらの言語の音を日本語のカタカナで表現する必要が生じました。特に、「v」の音を表現する手段として、「ヴ」が考案されるようになったのです。
福沢諭吉は、日本の近代化に大きな影響を与えた思想家であり、教育者でもありました。彼は、外国語を日本語で表現する際に「ヴ」を使い始めたことで知られています。具体的には、英語やフランス語からの外来語を正確に表記するために、「ヴ」を使用する必要性を感じ、その表記法を採用しました。
福沢諭吉の影響を受け、次第に他の知識人や翻訳家たちもこの表記を採用し、広まりました。彼の使用によって「ヴ」の表記が一定の権威を持つようになったと言えるでしょう。
その後、森鴎外も「v」の表記を積極的に使用しました。特に、彼の小説『ヰタ・セクスアリス』(1909年)のタイトルに見られるように、「ヰ」は、外国語の音を表現するために使われました。この作品は、西洋文化への関心と、それに伴う西洋の価値観や考え方を日本語で表現する試みとして注目されました。
『ヰタ・セクスアリス』における「ヰ」の使用は、外来語の音をより忠実にカタカナで再現するための試みの一環であり、森鴎外自身が西洋の文化や哲学に精通していたことが影響していると考えられます。この小説のタイトルは、「v」の音を表すために「ヰ」を使った、重要な文化的な象徴となったのです。
4. まとめ
近代日本の西洋化が進む中で、外来語を表記するためにカタカナの表記法が進化。
福沢諭吉が「ヴ」を用いて、英語やフランス語の「v」の音を正確に表現し始めた。
森鴎外が『ヰタ・セクスアリス』のタイトルに「ヰ」を使うことで、この表記が文学的にも定着。
「ヴ」の表記は、外来語や西洋の音を正確に表現するための手段として、徐々に広まりました。
このように、「ヴ」のカタカナ表記は、近代日本の西洋化とともに発展し、特に福沢諭吉や森鴎外といった文化的影響力のある人物によって広められました。
You:
福沢諭吉がフランス語の「v」音を日本語で表記するために「ヴ」の表記を生み出した。続いて森鴎外らもそれまで日本語で使われなかった音を、日本語の文脈で使うために「ヰタ」(vita)など、西洋語の音の表記に気を配ったということですか。
ChatGPT:
はい、その通りです。
福沢諭吉は、特にフランス語などの外来語を日本語で表記する際に、「v」の音を正確に表現する必要性を感じ、「ヴ」というカタカナ表記を生み出しました。フランス語や英語には日本語にはない音が多く、特に「v」の音をどう表現するかが課題でした。福沢はこの音を日本語に取り入れるために「ヴ」を使い始め、これが広まりました。
その後、森鴎外などの文学者たちも、同様に西洋の言語(特にラテン語、フランス語、ドイツ語)からの外来語やその発音を日本語で表現するために「ヴ」を積極的に使用しました。例えば、森鴎外が『ヰタ・セクスアリス』(vita sexualis)というタイトルに使ったように、「ヴ」や「ヰ」を使うことで、外国語の発音に近い表記を実現しようとしました。
これにより、これまで日本語にはなかった音が表記として定着し、日本語に西洋の音を導入するための重要なステップとなりました。「ヴ」は、まさにこのような文脈で生まれた、外国語の音を日本語で表現するための工夫の一つと言えます。
要するに、福沢諭吉や森鴎外らは、西洋の音を日本語に合わせるためにカタカナ表記に注意を払い、日本語文脈で西洋語の音を表現するための革新的な取り組みを行ったということです。
You:
余談です。森鴎外は自らの子供にヨーロッパ風の名前を付けました。
杏奴(次女)…アンヌ
不律(二男)…フリッツ
類(三男)…ルイ
ChatGPT:
森鴎外が自らの子供たちにヨーロッパ風の名前を付けたことは、彼の西洋文化への深い関心や影響を感じさせるエピソードですね。特に、彼の時代背景や西洋化が進む中で、子供たちにフランス語やドイツ語など、ヨーロッパの名前を付けたことは、彼の思想や文化的な意識を反映していると言えるでしょう。
於菟(オットー):ドイツ語の「Otto」に由来しており、ドイツの伝統的な名前です。オットーは、ドイツ語圏ではよく見られる名前で、強い意味を持つ名前でもあります。
茉莉(マリー):フランス語の「Marie」に由来しており、フランス語圏で非常に一般的な女性の名前です。マリーは西洋文学や王族に多く見られる名前でもあります。
杏奴(アンヌ):これもフランス語の「Anne」に由来しており、フランス語圏の女性名です。シンプルで優雅な響きが特徴的です。
不律(フリッツ):ドイツ語の「Fritz」に由来しており、ドイツ語圏で親しみやすく使われる男性名です。日本では珍しい名前ですが、ドイツではよく使われる名前の一つです。
類(ルイ):フランス語の「Louis」に由来しており、フランス王族に多く見られる名前です。ルイは西洋の王族名として非常に有名で、歴史的にも多くのルイ王が存在します。
これらの名前を子供たちに付けたことは、森鴎外が西洋文化に対して敬意を持ち、また自らがその文化の中に身を置こうとしていたことを示しています。ヨーロッパ風の名前をつけることによって、彼は自分の家族にも西洋文化を象徴的に取り入れ、近代化の一環として日本の伝統と西洋文化の融合を目指していたのかもしれません。
You:
西洋語の「v」「w」の音を日本語の文脈で使用するため、近代になり「ヴ」が生まれた。一般的に日本語文章で外国語、外来語を表記する場合にカタカナを用います。したがって、カタカナの「ヴ」はあっても、ひらがなの「う゛」が使われないと考えます。
ChatGPT:
はい、正確です。「ヴ」はカタカナにおいて使用され、ひらがなでは「う゛」は使われません。
日本語では、外国語や外来語を表記する際にカタカナを使用します。カタカナは、もともと外来語を取り入れるために発展した文字体系であり、特に西洋の言語の音を日本語に適応させるために用いられます。「ヴ」はその一例で、「v」の音を正確に表記するためにカタカナの一部として導入されました。
一方で、ひらがなには「う゛」という形は存在せず、「゛(濁点)」はカタカナの中で使用されるものです。ひらがなでの濁音(「が」「ざ」「だ」「ば」など)は、通常、「う」や他のひらがなに直接濁点を付けて表記されますが、「う゛」という形は基本的に使われません。
ひらがなの役割: ひらがなは、主に日本語の語尾や助詞、助動詞、または和語(純粋な日本語)の表記に使われます。外来語や外国語を表すのはカタカナの役割であり、「ヴ」のような表記はカタカナで行われます。
日本語の音体系: 日本語の音韻体系には「v」の音が存在しないため、外来語を日本語に適応させるためにカタカナがその役割を果たします。ひらがなは、古来の日本語の音の表現に基づいており、外国語の音を表記するために無理にひらがなを使うことはありません。
したがって、「ヴ」はあくまでカタカナで使われる表記であり、ひらがなでは「う゛」は使われません。外来語を表す際には、カタカナを使うことが一般的であり、「ヴ」のような表記はその一部として定着しています。
※Udioは最初に貰える無料クレジットがSunoより多く100クレジット。また生成時間を選べて、30秒なら2クレジット、2分10秒なら4クレジット。30秒でプロンプト実験していたので生成回数はもっと多い。
正直、サブスク1か月分のクレジット使ってみても、Sunoの実力を引き出せたとは言い難い。曖昧な表現が出たら評価保留中だと思って欲しい。(Udioに至ってはサブスク契約すらしていない)
以下具体的な例
Sunoは日本語歌詞のニュアンスを上手にくみ取って曲調に反映してくれる。
Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz, Jazz,
みたいな頭の悪そうなプロプンプトから名曲が生まれ得る。Trendを漁ってるとそういう歌がたまにある。(もちろんがっつりプロンプト書いた方が確実)
プロンプトなしで歌詞だけでもいい感じ仕上がることも↓日本語歌詞だけの例
https://suno.com/song/66144ae8-3d8d-47b0-951a-9c8c3512be1b
語彙力には自信あるけど音楽用語は何も分からねえって人は挑戦してみて欲しい。Youtubeで音楽生成とは関係ない動画を見ていた時に、偶然Sunoで生成したと思しき歌が流れてきたのだが、投稿者の怨念、絶望と希望がこもった歌詞が良くて思わず聞き入った(その人はDTMとかはしていない。動画の中でネタにするためにAIで作った曲らしい)。
UdioはSunoに比べてクセが強く、プロンプトを理解できないとアンビエントに寄る傾向がある。Sunoで上手くいったプロンプトをそのまま突っ込むと、謎アンビエントが生成される確率が高い。(UdioはUIこそSunoに似ているが最適なプロンプトの形式が異なる)
どうやらUdioが映画劇伴やプロモーション動画に強い影響のようで、空間的に広がりのあるボヤっとした仕上がりになりがち。逆にいえばリバーブを強めにかける癒し系の曲はかなり得意と言える。
Sunoでも癒やし系が作れなくもないのだが、プロンプトを無視して後半いきなり盛り上がったり、クソ重いバスドラを突っ込んだりすることがあり、当たりはずれが大きい。Baby Sleep MusicやLullabyとプロンプトに入れて生成していたら、いきなり盛り上がり始めることが多かったんで「赤ちゃんが!寝てるって!言ってるでしょうが!!」とキレたくなった。(2、3曲は上手くいったんだけど)※
※サブスク分クレジットを使い切ったあたりで上手く曲調をコントロールする方法が分かったので、このあたりは後でまた検証してみるつもり
日本の映画劇伴も学習しているのか、かなりリアルな和楽器の音が生成される。この三味線とか琴とかを知らない人に聞かせたら、AIとは判別できないレベル。(ただAIと知って聞くとわずかに違和感がなくもない)
一方Sunoは癒やし系と同じで当たり外れが大きい。一聴すると「まあまあよくできた和風の曲だな…」と感じるのだが、次第におかしなメロディーが混じってくる。特に尺八のソロは分かりやすい。日本人なら「尺八はこういうフレーズにならんやろ」と気づけるレベル。(尺八を安定させるテクニックもあるが、それでもまだ外れが多い)
和風の曲はUdio勝ちと書いたが、例外として演歌は別。Sunoでは演歌らしい演歌を生成できるが、Udioは演歌とは似ても似つかない音楽が生成される。これはUdioの得意ジャンルが偏っていることに起因していて、次のややマイナージャンルが苦手という評価に繋がる。
Kawaii Popとは:日本のKawaii要素を取り入れたポップス
他にもKawaii_future_bassとかあるらしい。
https://dic.pixiv.net/a/Kawaii_future_bass
試しに冬をイメージしたKawaii Popを作ってみた結果、Sunoではそれっぽい曲が生成されたが、Udioでは謎アンビエントになった。プロンプトが理解できてないパターンである。
幅広いジャンルをカバーするSunoが強く、ジャンル名の前にJapaneseと入れるだけで日本人がすきそうな曲調になる。
Udioだと日本要素を取り入れた曲であっても、どこか日本人に馴染みのない感覚が付きまとう(先述の和風の曲のこと。音質はすごくいいのだが…)。私は基礎的な音楽理論しか分からんので、感覚的に「日本人の好みじゃない」としか言いようがない。Sunoに比べて日本のポップスをあまり学習していないからだと思われる。
これがSunoの場合は同人音楽まで学習してるらしく、doujinと入れるだけでいかにも同人音楽っぽいのが出来上がる。(東方Projectっぽいやつ)
これは先行者のSunoに軍配が上がる。Sunoは生成中であっても再生開始できるので、結果を聞きながらプロンプトを改良することもできる。
Udioは生成完了しないと聞けず、少なくとも30秒分が終わるまで待たないといけない。文章だけだとそんなもんかって感じだが、実際にやってみると待機時間がじれったい。
Sunoを使った後にUdioに戻ったら、この機能の快適さを痛感した。
これはUdioが圧倒的に強い。特に人の声はAIとは分からないくらいにリアル。特に洋楽とかは英語なのもあいまって素人の自分には変なところが分からない。
Sunoもリアルな人の声ではあるものの、イヤホンでじっくり聞くと合成音声っぽい違和感がまだ残っている。それからピアノやヴァイオリンなど目立ちやすい花形楽器の音質の悪さが目立つ。最初から最後までクリアな音質を保つのが難しく、一部こもったような音になる。Sunoは静かなインストを生成すると高確率でピアノを挿入してくるので、インストを作ってる間は「またこもったピアノが聞こえてくるよ…」と音質もこもこピアノに悩まされた。
SunoがUdioの音質を手に入れれば最強。
Udioがベータを卒表して(不具合修正・機能性アップ)、Sunoみたいに幅広いジャンルに対応すれば最強。
互いの長所がお互いの短所になっていて、どちらかを選べば選べなかった方が気になるという状況。Sunoは音楽において最も重要な音質で負けているが、Udioはまだベータで全体的に不安定な印象がある。
だが、Sunoの方が先行者だけあって使いやすく、簡単にそれっぽい曲を作れる。音楽生成AI初心者にすすめるなら、現時点ではSuno勝ちといったところ。
炎上しそうすぎて大幅改変になった現代ビジネス記事原案を供養。
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(前編)
私は小中高と地方の公立を出て、浪人して都内の医学部を卒業している。
「東大生の親の6割が年収950万円以上」というデータが話題になったが、地方出身からすると、やはり医学部も華々しい世界だった。
まず医学部では「親が医者」なのは当たり前で、教授や講師と話す時も、世間話は最初に「親御さんは医者?」が挨拶代わりになる。私の体感では、おそらく学生の半数近くが医者の子息だった。
ハリー・ポッターになぞらえて、両親が共に医者という人を「純血」、片方が医者だと「半純血」、両方とも医者ではない人のことは「マグル」と呼ぶ文化まである。「マグル」は家系に医者がいない学生が、自虐的に苦笑いしながら使う単語だ。
しかし、「マグル」の学生も、平均的なサラリーマン家庭出身という人はほとんどいない。みな経営者や士業の家庭で、都心のタワマンが「実家」だった。
出身高校もほとんどがいわゆる「御三家」など、都内の名門私立高校が並ぶ。入学式の日、周りが何故か全員、初対面ではありえない打ち解け方で話していて困惑したものだ。
蓋を開けてみれば元々彼らは中高の同級生だったか、SAPIXや鉄緑会などの有名塾で一度は顔を見知ったメンバーだったのだ。
私のように地方公立校から、塾にも行かずに来たという子は全く見当たらなかった。
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大学生はお金がかかる。私も美容や服飾、外食や旅行を楽しみたかったので、多い時は週9でバイトを3つ掛け持ちして、必死に時間をお金に変えた。
学費や家賃、生活費などは親持ちだったが、その他は自分のバイト代で賄うように言われていた。
けれどここではバイトを親に推奨されるというのは珍しく、むしろ「禁止」される方が普通だ。特に、家庭教師はOKでも、高卒やフリーターと一緒に働くような飲食店などは禁止されている子が多い。
そのため、そういったバイトをしたいお嬢様は、親に隠れてこっそりやることになる。私も、友達の給料明細の送付先を、私の一人暮らしの住所にするなど「協力」したことがある。
この「バイトをしたい」とはもちろん、お小遣いが欲しいという意味ではない。「人生で一度はやってみたい」「大学生っぽいことがしたい」という、興味と好奇心でやる子が多かった。
こういう子達は、1回で何十万とする美容代や旅行費も全て親の負担だ。ブランド物も親のカードで買い放題。
限度額は聞いたことがないので分からない。この顔ぶれの中で「限度額」などという貧乏くさい言葉を口にすることすら憚られた。
当然、金額を理由に遊ぶ場所を決めることもまずない。味や質、美しさ……綺麗な概念ばかりで話し合いが進む中、頭の中で電卓を弾き、時給計算などしているのは私だけだった。
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ここまでの話だけ聞くと、「地方出身の庶民が階級社会に直面してショックを受け、格差に悩む」というあらすじになりそうだが、私はそのような気持ちになったことは、実は全くない。
実際のところ、これまで属した集団の中で、大学は一番居心地がよかった。なんせ周りの人間のほとんどが私より頭が良く、私より裕福で、性格も曲がっていないのである。普通に暮らしていて、不快にさせられることはほとんどない。
尊敬できる人ばかりの中に混じり、今までしたことがなかったような華やかな経験を教わることは、とても刺激的で楽しく、毎日が面白かった。
地方公立の狭い世界のみみっちい基準で「神童」だの「お嬢様」だのとくだらないことを言われて暮らすよりもよほどいい。周りのやっていることがバカバカしく思えて退屈することも、足を引っ張られて苛立つこともない。
生まれて初めて自分が全てにおいて下位、いやほぼ底辺に位置する環境に身を置いたが、劣等感を持つどころか、なんて気が楽なのだろうと感動した。
要するに「上には上がある」といっただけのよくある話なのだが、私はその「上」の存在を知って心の底から安堵したのである。
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(中編)
私が育ったのは地方都市のド真ん中。東京で「都会」と言うと笑われるが、下手に「田舎」と言うと顰蹙を買う、そんな街だ。近くの有名大に行かず、わざわざ地元では知名度の低い都内の大学に行ったのは、その街にとことん嫌気がさしたからだった。
先祖代々続く大病院の家系などではないので、決して高い身分ではないのだが、私も一応、医者の娘ではある。ちなみに、母親は医者ではないので「半純血」だ。
金銭的な理由から受けられない大学もあったし、贅沢三昧という訳ではなかった。だが、本当の意味で生活に困ったことはないと思う。
「全身脱毛の費用を自分で稼いでいる」というだけで、大学の中では十分「苦労人」のポジションだったが、それだけだ。学費も家賃も、いくらかかっているのか知らないまま生きてきた。
そもそも、私の家庭ではそういうことを詮索するのはタブーだった。三階建てのまあまあ広い一軒家に住んでいたが、幼い好奇心で「この家、いくらしたの?」などと聞こうものなら、なんて下品で失礼なことを言うのかと眉を顰められた。
よって親の学歴も自分が大学受験をするまで知らなかったし、収入は今でも知らない。なんとなく肌感覚で予想はできるが、聞いたことはない。
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わざわざ地方公立の小中高に進んだのは、習い事の練習時間を確保するためだ。物心つく前からピアノやヴァイオリン、新体操などを習っており、そちらを人生の軸に据えたかった。そのため、進級が厳しく勉強時間を取られる中高一貫私立を避けた。
しかし、その選択のせいで、私は信じられない世界を目にしてしまう。
校内のヒエラルキーのトップにいたのは、我が家のクローゼットより狭い団地に住むヤンキー達だ。暴力や窃盗などの犯罪行為、くだらない揉め事が起こるのは日常風景だった。後ろの黒板にはデカデカと卑猥な言葉が書かれ、授業中も大声で教師に反抗する。共用部の壁には穴が開き、「アスベスト発生注意!」と貼り紙がされるも、その意味も理解できない生徒がまた上から穴を開けていた。
一番呆れ返ったのは中学校で、「廊下に繰り返し大便をしてそのまま片付けない人がいる」という全校集会が開かれた時だ。まるで動物園だ。
外で障害を持った通行人を取り囲んでからかい、面白がって恫喝している場面にも遭遇したこともあり、これが同じ人間なのかと目を疑った。
生まれてからこの環境しか知らなかったにもかかわらず、私はこちらの方がよっぽど馴染めなかった。いや、大学の時と違って、馴染む努力をする気にもなれなかった、というのが正しいだろうか。
ことわっておくが最初から「知能」だの「貧富」だの、そういうことで差別意識を抱いていた訳ではない。ただ、そんな概念が生まれる前の、何も知らない子供の目からしても、違和感を覚えることがたくさんあった。
何か作業をする時、見るからに効率の悪いやり方で苦労しているのが理解できなかった。建設的な話し合いができず、どれだけ分かりやすく説明しても話が通じないことが不思議だった。卑猥な話で大喜びするのも、暴力で強さを誇示するのも、正直バカバカしいと思っていた。
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何よりも嫌だったのが、その層に漂うあの独特な僻み根性、卑屈な被害者意識のようなものだ。
クラスでナルミヤの服が流行り、皆がメゾピアノやポンポネットの服を自慢する中、私はいつもラルフローレンやバーバリーの服を着ていた。ナルミヤに興味もあったのだが、親の趣味で買ってもらえなかった。
その時、私は価格の差など何も知らず、愚痴のつもりでこう発言してしまう。
「みんないいなあ、うちの親、ラルフローレンばっかり買ってくるからもう飽きちゃう」
たったこの程度であからさまに数人の目つきが変わり、その後も悪意を持ってこの発言が拡散された。
子供が「他人の服をそうやって価格で値踏みしており、それを恥ずかしげもなく表に出す」という感性は初めて見るものだったし、それが物凄く卑しく思え、正直ドン引きしてしまった。
自分の性格が良いというつもりは全くないが、もし私が逆の立場になったら、そんな態度は絶対に取らなかっただろう。そのような言動は「悪い」というよりも「恥ずかしい」からだ。
たとえ内心で反感や嫉妬は覚えたとしても、そういう行動は自ら「私は負けています!可哀想な貧民です!」と宣伝して歩いているとしか思えないではないか。
別に私にとって服は値段ではなく、ナルミヤは負けではなかったのに。
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万事がそういった雰囲気だった。
あまり勉強をしすぎるとバカにされるので、「カースト上位」のグループに属している子は実は勉強ができても、学校のテストではわざと悪い点を取るなど工夫していた。実際に勉強している時間を「テレビを見ている」と嘘をつき、親から聞いた内容を覚えてから学校に行くという話も耳にしたことがある。
何もかもが面倒くさかった。先入観などなくても反射的に、彼らに対して「卑しい」という軽蔑が沸々と湧いてきて、止められなかった。
お金や学力のあるなしなんてどうでもいい。ただ、それによって勝手に「見下された」「自慢された」と思い込んで攻撃性を発揮してくる、その人間性を見せられるとやはり「見下す」以外の感情が湧かない。
そういう人を表すぴったりの言葉は「育ちが悪い」しか思いつかないのだ。
そして、その思いが強くなればなるほどに、そんな低俗で差別的な感情を持つ自分に対してもまた同じように「卑しい」と自己嫌悪に陥った。
よく「人を見下している」「お高く止まっている」と悪口を言われたが、次第にそれが事実になってしまっていることも自分では分かっていた。
やがて進路を変更して医学の道に進んだ私は、この自らの醜さにも似たもう一つの「卑しい世界」を嫌というほど味わうことになる。
体力面の自信のなさから、ほとんどの医学部生が就職するような「ブランド病院」とは程遠い、「ハイポ(仕事量、労働時間が少ない)だけど治安が最悪な風俗街の病院」に就職したのだ。
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(後編)
立地や将来性、指導体制などを考慮せず、「あまり働かなくていい」「給料が高い」というだけで風俗街の病院に流れ着くような医者は、まあロクな層ではない。街の治安と相応に、職員の民度も低かった。
病院があるのは中途半端な田舎だ。ここでは娯楽が、酒と性とギャンブルとゴシップしかない。
都会で大学生活を過ごした同僚たちも、その鬱屈した思いからか、段々と空気が荒んでいった。
数ヵ月経つ頃には、口を開けば下ネタと自慢や武勇伝、他人の悪口や噂話、そして「女性職員の容姿を採点し、デブやブスと言って大笑いする」といった、聞いているだけで気が滅入るような下卑た話題ばかりが出るようになった。
百歩譲って内輪だけの飲み会でやってくれればいいのだが、職場の男女共用のスペースで大声を出して話しているのは、流石に品性を疑ってしまう。
「このバッグは何十万円した」「今月はいくら使った」などという、赤裸々すぎる金額事情をストレートに自慢してくるのにもびっくりした。今まで出会った医者の中で、そんな恥ずかしいことを嬉々として吹聴する人間は一人もいなかった。
彼らの鬱憤の矛先は、「見下している相手」により強く向けられる。
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立地が立地なので患者層もあまり良くなく、社会的に地位が低かったり、生活に困っていたりする患者が多い。それをストレス解消とばかりに、裏で笑いながら蔑むのが、病院の常になっていた。
気持ちは分かる。確かに、あそこまでかけ離れた階層の人たちと関わるのは、正直つらい。頭がおかしいのかと思ってしまうようなクレーマーもいる。貧困のために清潔が行き届いておらず、吐き気を催すような悪臭に涙目で耐えて処置をすることもある。病院に来ているのに、こちらが一生懸命になっても、まるで治す気がないのか?という横柄な態度を取る患者もいる。
救急車がタダだから、生活保護は医療費がタダだからと、まるでタクシーや無料相談のように使う人のせいで、本当に必要な人に医療が行き渡らなくなることもある。
特に槍玉に挙がるのは「せいほ(生活保護)」と「プシコ(精神疾患)」、「痴呆(認知症)」である。他にも、「ホームレス」「反社」「デブ」「ババア・ジジイ」「底辺」「貧乏」「キチガイ」など、診察室を一歩出れば、とても患者には聞かせられないような、ありとあらゆる差別用語が飛び交った。
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バカにされるのは患者だけではない。看護師も同様だ。ある同期が看護師に怒られた時、「大学を出てないから分からないんだろ」「低学歴が」とあまりにも直接的に吐き捨てるのを聞いたことがある。
一方で看護師たちの当たりも強かった。いや、当たりが強いというか、私達とは、元々装備している語彙がそもそも違うのだ。
特に怒っている訳ではなくでも、「ちょっと邪魔!」「うるさいよ」といった風な、私達が「初対面の人に対して一度も発したことがないような言葉」を、まるで当たり前のように使ってくるのだ。
これにはかなりギョッとする。私達が急いでいても「すみません、ちょっとよけてもらえますか?」と言うのは、別に敬っている訳でも遜っている訳でもなく、これしか適切な語彙が浮かばないからだ。
根本的な問題は、学歴や収入の高低ではなく、培われた文化の違いなのだ。「そんな風に人間を扱う文化」に染まりたくない気持ちが勝り、同じ土俵で言い返す気にもなれない。
病院の同僚医師たちも、私立医学部を卒業している人間が多く、元々それほど育ちは悪くなかったはずだ。しかし、あまりのカルチャーショックに耐えられず、段々と人格が歪んでいった……いや、歪めていくしかなかったのかもしれない。
地方にいた頃の私のように——。
*
医者や政治家など「救う仕事」をする人間に、できるだけ庶民の感覚を取り入れるための方策として、「学費を下げる」「お金が足りなくても成績優秀者が医学部や名門大学に入れる枠を作る」といったことが推奨されているのをよく見る。
実際に、現状の医師たちの間でも、「国立は苦労していて性格が悪い」「私立は裏口で頭が悪い」といった論争があり、お互いに見下しているような風潮が一部ある。
それを、もっと幅広い層の人間を混ぜたからと言って、お互いに馴染めるとは思えないのだ。
同業者の間で「もし自分の子供を行かせるなら私立がいいか、公立でもいいか」という話が出ることがある。この話題は、温室から一度も出たことがない人ほど「公立でもいい」と言いがちだ。
公立の良い所として、「早いうちから色々な階層の人と関わって免疫をつける」というものが挙げられるが、私はそれこそが最大のデメリットだと思っている。皮肉なことに「その経験の多さ」こそが、差別や偏見、選民思想を強め、分断を生むことになるのだ。
免疫どころか、触れれば触れるほどウンザリして、アレルギー反応を起こすようになってしまう。様々な階層の人間の存在を見せたいのなら、同級生として一緒くたに扱われるのではなく、ボランティアでもすれば十分ではないか。
だからこそ自分が多様な層と関わった経験があったりする人ほど「子供は絶対に私立」と言う。もし他が全て同じ条件なら、学費の「高い」方に行かせたいという発想すらある。
「知らなくていい世界を知らない育ちの良さ」というのは、その後いくらお金を積んでも手に入らない。一生ものの財産だ。
社会の下層と徹底的に隔離され守られてきた人は、「みんな同じ人間。差別は良くない」という綺麗事を良い意味で本気で信じ、汚れのない心で生きていける。
もしかしたら私の親は、私を「世間知らず」にしたくなかったのかもしれない。だが私は「知ってしまった」ことを、後悔している。
もし子を持つことがあったら、我が子には私のような性根の歪んだ人間になってほしくない。
といっても、首席卒業クラスの上澄みレベルをdisるつもりはない。
あくまでアマチュアの自分が教室の先生とか、最近だったら主に配信とかでお目にかかれる、いうなれば「量産型」卒業生のお話。
自分が習っている先生は3人目(社会人向けレッスン)だけど、幼少から高校まで習ってた1人目と2人目は藝大卒の人。
これが原体験にあって、かつ藝大卒を自称する配信者の演奏を見た感じ、ホントにこの学校出身の人って、根本が驚くほど似通っているというか、弾き方に共通点がある。
とにかく
この弾き方のメリットは、普通の人から見たらわかりやすく上手に見えて、すごい!という評価をもらえることだろう。
そして大抵の場合はそれでいいじゃん、いやそれが大事じゃんになると思う。
だから自分がこれから書くデメリットは、正直かなり逆張りな自覚はある。
ということで、上掲の弾き方の問題点を挙げると
もちろん上に書いた弾き方を出発点にして、表現の繊細さを極めるのは不可能じゃないと思うし、それを実現できている人もいるにはいる。
でも、何をどう聴かせたいのか?という根本部分を置き去りにして、最初からやたらと正確さと音の大きさだけを是とする価値観を主軸にするのは、表現として不自然過ぎるでしょっていう。
何より表現を突き詰める過程で、このままでは伝えたいことが伝わらない→伝わるよう正確に弾こう、いや弾けなきゃ気が済まない!というのが本来の上達の流れなわけで、
そういう順序も踏まえずにいきなり正確に弾け!とか、習う方からしたらなぜそんなに厳しくツッコむのか理解できないので、苦痛でしかない。
結果、こういう超面倒な技術習得ありきのプロセスに過剰適応できた人しか生き残れないし、そういうタイプの人が、後から細やかな表現を磨くのは並大抵のことじゃないというのは、この学校出身の人の演奏の多くが、
音程だけはやたら正確だけど、それ以外はインパクトだけの大味な表現だったり、細やかさを実現していてもどこかわざとらしい(≒不自然さが抜けてない)音になっていることで証明されていると感じてしまう。
ちなみに自分はそういう価値観に嫌気が差したことや、何より身体に対する負担が大きすぎてこのままでは先がないと判断したことで、より古典的な弾き方に回帰し、音大受験レベルの曲をさらいつつ楽しくやっている。
即ち
その結果、今は自分の弾き方に近い音を出してる人が多い、桐朋出身のヴァイオリン奏者をいいなーと思うようになった(習ってる先生は桐朋出身じゃありません、念の為)。
なお桐朋出身のソリストで、サイトウ・キネン・オーケストラのコンミスも務めた故・潮田益子氏は生前
ネットで見かけた、「自称」音大ヴァイオリン卒という人が言ってた話ではあるんだけど。
彼曰く
「チャールダーシュは自由度が高く奏者がいくらでもアレンジできる曲で、実際余興として弾かれるケースが圧倒的に多い時点で本格的なクラシックじゃないので、それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」
だそうだ。
いや、チャールダーシュはロマ音楽をリスペクトした作品であって、それはそれでどう弾くかは入念な考察が必要なわけで、自由度が高いなんて解釈は雑もいいところ。
だいたい、それだったらジャンルを同じくするスペイン交響曲やチゴイネルワイゼンだって、本格的なクラシックじゃないという話になるんじゃねーの?
と思ったら、その2つは難易度的な観点(チャールダーシュのほうが遥かに簡単かつ、上の2曲は音大受験レベルの難しさ)から、本格的クラシックなんだそうな。意味わかんねー。
とはいえ現実には、プロほどチャールダーシュを悪い意味で余興的なスタンスで弾くことが非常に多くて、そうやって弾かれたチャールダーシュは、残念ながらどれもこれもセンス的に微妙過ぎたり。
まあでも「それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」んだったら、好き勝手に弾いていいってことなんでしょうね、どうにもがっかりですわ。
音大卒しかもヴァイオリンとなると、それこそ音大入るまでに比喩でも誇張でもなく、文字通り「百万回さらってきた」人たち。
その時点で誰もがその場所に立てるものじゃないどころか、それを生き抜いてきただけでとんでもなく凄いと思う。
だからあんまりそういう立ち位置の人をdisることはしたくないんだけど…それにしたってあまりにレベルが低すぎないか???
アレか?音大はクラシックを本格的かそうじゃないかを、曲の難易度だけで選別するのが教育なんですかね??実に芸術的で頭が下がりますね。
そんなんだったら音大なんて行かなくて良かったって心底思うし、悪いけど「音大なんか行くもんじゃない」って周りに言いふらすことにさせてもらうわ。
でも、いつか行きたくなった時に好きなアーティストが死んでたり解散してたりしたら困るな、じゃぁ行ける時に行っておこう
と、何故だか急に思い立ち某シンガーソングライターのライブのチケットを予約していた。
有休をとり、新幹線のチケットを買い、会場に向かう・・・のではなく途中で美術館に寄り道をする。
原田マハの小説を読んだ影響で国立西洋美術館に行ってみたいと思っていた。ライブの開演は夕方だし、せっかく有給とるんだからそれぐらいやらんと勿体ないな。
これが東京か!盛りだくさんの文化施設の内、国立西洋美術館なんて、ほんの一角ではないか。都民め良い暮らししやがって。
毒づきながら美術館に向かう。
平日なんだから空いてるだろと思っていたが、そうか夏休みか。老若男女いっぱいいた。おのれ。チケット売り場は結構並んでる。
企画展のチケット(常設展も入れる)を購入し、企画展の会場に向かう。やはり混んでいる。そして企画展の内容は残念ながら自分にはあまり興味が無いものだった。
かと言って素通りは損した気になる。写真撮影はOKらしいのでいくつか撮っておく。常設展に向かう。
再度ビビる。これが500円?で企画展込みだと1700円?価格設定おかしくない?
チケットは常設展だけにすればよかったかな。まぁ、その場合は「これが500円なら、企画展とやらはどんだけすごいんだ?」と気になって仕方なかっただろうから、結果オーライだろう
とりあえず、松方コレクション(美術館を作った偉い奴のコレクション)とあるものを注意深く見る方針で回っていく。あとはモネ。
普通に写真撮影OKで驚く。え?美術館ってそうだったっけ?でもいちいち撮影していたらキリがないので気になるものだけ撮っていく。
別に美術に造詣が深いわけでもなく、鑑賞のポイントなんてさっぱりわからない。
意外と最近買ったものが多いんだなぁとか、寄託作品で写真撮影不可の作品に「貸主の度量が狭いのかな」とかしょうもないことを考えつつ見て回る。
モネとルノワールとデカい点描の絵が良かったです。僕にはとてもできない。感想は以上。
美術館を後にして、時計をみる。思ったより時間が経っていない。普段であればまだまだ机に向かって仕事をしている時間だ。
ものすごく一日が長く感じる。これが美術の効能なのか?すごいぜ松方。
同僚は普通に働いている時間である。若干の罪悪感を抱えつつ本日メインの目的であるライブ会場に向かう
途中、コンビニでパンなど食いつつ開場時間に会場にたどり着く。物販コーナーでCDが売っている。なんか直筆サインだかの特典があるらしい。
物を増やしたくない思いと、記念や特典は欲しいなという葛藤で割と迷った末、スルーして着席。あとでまた悩めばいいだろう。開演を待つ。
当該アーティストのファン層が良くわからなかったので、ものすごく自分が浮いていたり、逆にものすごく馴染んでいたら(自分と同じオッサンばっかりだったら)
嫌だなぁと思っていたので、お客さんを見渡してみる。いろんな人がいて安心する。まぁよく考えたら平日の夜にオッサンは集まらんか。
定刻となり、無事に開演。知ってる曲、知らない曲、色々歌ってくださる。ありがてぇ。やっぱ生で聴く歌は良いな
あとコントラバス、ヴァイオリン、ピアノの皆様がみんなカッコいい。
でも、やっぱ知ってる曲の方が楽しめるんだから漏れなくしっかり予習すべきだったなぁと少し後悔する。
アーティストの皆さま退場。
拍手。
拍手。
皆様再登場。アンコールに応えてくださるそうだ。この茶番必要?まぁ嬉しいけど。
結局、その後3曲くらい歌ってくれた。気前良いな。
今度こそライブは終わり、席を立つ。物販コーナーでCDを買うかもう一度迷う。
自分の隣に座っていたおねーさんが迷うそぶりもなく会場を後にするの見て、決断力に嫉妬する。
結局、買わずに会場を出て駅に向かう。
アーティスト本人がその場でサインを書いてくれる形式だったら多分買ってたと思う。
そのまま駅に向かい、新幹線に乗る。車中ではついさっき生で聴いた曲をイヤホンで聞いていた。これはこれで良いな。そんな感じで帰宅。
当該アーティストを好きなのは間違いないがファンを名乗る資格は無いと思っているので、これからは有資格者となるべく努力していきたい