はてなキーワード: アスリートとは
宮沢りえさんはオランダとのハーフとWikipediaに書かれているが知らない人は日本人といえばハーフだとは疑わないかもしれない。外国人とは言われにくい。日本国内では有名な白人系女優さん→化粧品の広告に出られる
一方で大坂なおみ選手については「日本人ではない」「外国人」という日本語で書かれたコメントが多数見られた。日本国籍なのに。
→肌の色の違いで日本国内に居るだけだと明暗が分かれるんだろうな。白人系は日本で有名女優になれるチャンスがあるが、黒人・一部の南アジア系は中々白人系程伸びにくい?→スポーツ・アスリート系がやや多め。
https://www.us-lighthouse.com/life/point-of-view-america-japan/half-popularity.html
そう考えると、この「ハーフ美女」現象というのは、やはり容姿や肌の色「だけ」を取り上げて憧れたり批判したりという一種の「人種差別」に見える。同じ「ハーフ」でも、プロテニスの大坂なおみ、ミスユニバースの宮本エリアナなどアフリカ系の「ハーフ」になると、全く別の視線で見られることも含めて、社会現象としては未熟なカルチャーに思える。
ーー
あなたが指摘している現象は、日本社会にある「見た目による日本人認定」の問題としてかなり本質的です。
宮沢りえ はオランダ系のルーツがありますが、多くの日本人は「典型的な日本人女優」として受け止めています。
一方、大坂なおみ は日本国籍を持ち、日本代表としてプレーしていても、「外国人」「日本人ではない」という反応を受けやすい。
この差は、かなりの部分が「外見」、特に肌の色や顔立ちによって生じています。
日本では建前上は国籍ベースで「日本人」と言っていても、実際の社会感覚では:
日本語を話せるか
肌の色
顔立ち
髪質
“日本人らしい”振る舞い
美しい
洗練
芸能人的
として消費されやすい一方で、黒人系ルーツや南アジア系、中東系などになると、「外部の人」として扱われやすい傾向がある。
実際、宮本エリアナ がミス・ユニバース日本代表になった際も、「日本代表ではない」という反応が大量に出ました。
しかし同時に、白人系ハーフモデルは「日本の美の象徴」として広告に起用される。
この非対称性は、単なる「ハーフへの興味」ではなく、日本社会の中にある階層化された人種イメージを反映している、という批判はあります。
また、日本では「差別」を暴力や露骨な侮辱だけで考える傾向が強いため、
「悪気はない」
「日本人に見えないだけ」
「事実を言っただけ」
として処理されやすい。
何度も出自を聞かれる
国籍を疑われる
「本当に日本人?」と言われる
こうした経験の蓄積が、「条件付きの日本人認定」に感じられることはあります。
金がなくても、家で能力を獲得できることは色々ある、
社会に排除されたんだから、だったら、社会の枠組みの外でできることをやるしかない、
結局、自営業としても能力を切り売りしやすいのはプログラミング、システム開発で、
絵とか、音とか趣味止まり、運動は健康維持のためにやるもので、今更アスリートになれるはずもない、
結局、敗残兵として社会に戻ってきて、あなたは何ができるんですか?と問われると苦しい…😟
実績を証明できるものは、やっぱりプログラミングとかになるけど、
ザナルディさんを知っているだろうか?
彼は成功したカーレーサーとして知られ、
そののち事故で両足を失い、
それでも不屈の闘志で再びレースに復帰してチャンピオンになった人だ。
その後、ハンドサイクルに挑戦しパラリンピックでも数々の金メダルを獲得した。
しかし、2020年にハンドサイクルのイベントに参加中にトラックと正面衝突し重篤な怪我を負う。
その後、表舞台に再び現れることはなかった。
男性が5色程度にしか分類できない色のグラデーションを、女性は倍以上の色に区分できるなどという実験結果もある。
このような女性特有の「見かけ」を判断する能力は、我々人類種が生き残りをかけた淘汰圧といわれるものにより進化してきたものである。
人間が集団で「狩り」というものを道具を使って組織的に行うようになったのはいつ頃なのか?
それは判然とはしないが、ひとつ推察できるのは、その「狩り」は男性が中心となって行われたに違いないということだ。
現代に生きる我々のスポーツ競技などや、もっと一般的な学校における体力測定などの結果でも、身体的能力の平均は男性の方が女性より優れている。
体格も、筋力も、持久力も、何もかも男性の方が女性よりも「平均的」に優れている。
もちろん個人差はある。
オリンピックに出る女性アスリートと、週末に多少のウォーキングをする程度の人とではその能力は当然女性アスリートのほうが上である。
戦闘における歩兵集団に大事なのは、その平均的な能力であると定義したのはナポレオンであったか?
ひとりの勇者よりも、集団として平均的な能力が高いほうがより優秀な戦力となるのは、我々には自明であるが、当時はそうではなかったようである。
確かに騎士文化華やかなりし頃には1人の武勇が尊重されていたとしてもおかしくない。
そのような偏見がある人にとっては、たったひとりの特異点を重要視する傾向にあるが、科学的に考えれば平均の能力が集団としての能力になるは当たり前である。
そう考えると「狩り」という集団的な行いをするにあたって男性だけが選抜されてそれを行うのも当たり前である。
体力の劣る、女がそこに加わることは集団としての能力を下げることになるからだ。
では、女性はそのような狩猟集団の中で、ただ養われるだけの存在であったのか?
もちろん、そんなことはない。
女性は、狩りが出来ない代わりに料理や多少の保存が出来るように食材を加工したりすることに精を出すことになる。
つまり、男が狩りをして獲物を持ち帰り、女はそれを料理したり加工したりするのが仕事になったのである。
そのような当たり前の姿の発展として、女性が獲得していったのが「見た目」を判断する能力である。
食材の調理や加工を担当する女性にとって色の判断や、あるいは臭いの判断は重要である。
とくに、ある一定の保存をした食材が食べれるものであるかどうかを判断する能力は死活問題である。
もちろん有史以前の人類の食材の長期保存技術などというのは現代と比べものにならない。
精々が1週間程度の保存ができたかどうか?というところだ。
しかし、そのわずかな食料の備蓄が出来かどうかが生死を分けた時代もあったはずである。
彼らは転々を居住地域を移動することにより適度な環境破壊をしつつ自然と共生していたからである。
ときに自然は過酷な状況を見せつけ、人類がその生存を賭けて様々な挑戦をし続けなければならなかったはずである。
そんななかで食料という人間に欠かすべからずものを、何が食べれて何が食べれないかを判定するための能力が女性にあるかどうかはその集団の生死を分けた。
腐りかけているが、まだ食べれる。
腐り始めだが、もう食べれない。
そのような判定が現代であれば、少しお腹を壊す程度のものであったとしても、有史以前の脆弱な人間集団において、極めてシビアで欠かすことの出来ない能力であった。
その判定ができない女性を多く含む集団は進化の淘汰圧の中で滅んでいったのだ。
こうして、我々人類は、女性は「見た目」に対する鋭い判別能力と、ジャッジメントする習性を見に付けたのである。
このような知識を得ると、「清潔感」が「清潔感」と呼ばれるのもある種の納得がいくというものである。
そして、女性が太古の昔から引き継いできた家事をするために獲得してきた大いなる能力が現代においてはあまり意味のないものに活かされているのも、何やらいっそ人間的でおかしみがある。
彼女らは、大昔の祖先たちが生存のために必死の状態で獲得した能力を極めて無意味なことに傾けているのであるのだから皮肉である。
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
イケメンに対してすら「蛙化したw」とか仲間内で大笑いしてピエロにする育ち悪い陽キャ男性的な強さを持ってて金に対する凄まじい執念持ってたりするけど(理想の男は「社長」とか即答したり)、そういう子がセックスのときちゃんと喘いでイクことにとんでもなく興奮するのは普通よな?
だから俺、そこらへんの少年みたいな顔した数々のアスリート女子(※選手引退含む)とばっかりセックスしてきた人生だった
ワカメちゃんかよってくらい後ろ髪を刈り上げてる子とかヘアケアスルーで競技に打ち込んでたから中学生男子みたいにツンツンのタワシ頭の子とか普通にいるからバックのときの風景はほぼホモセックス状態
オードリー若林アンパラレルドのBMI回見た。凄まじい技術だな
https://tver.jp/episodes/epdcxrrlhz
Brain Machine Interface(脳波とリンクする外付けデバイス。「念」を見える化する技術)
「リハビリ」させるというのが意外だ。以前からあるものは「脳波をキャッチして体を動かすサポート」というイメージだった
このBMIを使用して、脳卒中で麻痺した前腕をリハビリ6週間で「ほぼ健常」状態までもってくという驚異的な成果が示されていた
脳の損傷した部位を迂回して体を動かす。「違うルートの開拓」そして「開拓したルート」を脳に学習させる
なんかこういうの見ると「念じる」っていう能力を鍛えておく必要があるなと思う
念じるというか想像するかな
でも、考えてみれば元々「体を動かす(特に『スポーツ』)」っていうのは「イメージ」が大事だもんな
畳の上の水錬じゃないけれども、常日頃からちゃんとイメージして体を動かすようにした方がいいのかもしれない
番組後半で言ってたけど、このBMIを使ってアスリートの能力向上も見込めるとのことで
そんな高度なことも大事かもしれないけど、自分の様な「逆上がり出来ない」層にも希望の光を与えて欲しいものだ
小学校の体育でも導入すべき!!
それはともかく、自分は普段、PTが一生懸命リハビリさせてるのを見ているけれども、こういう技術が当たり前になってくれたら助かる患者も増えるだろうと思う
先進技術隆盛の現代ではこういったものが出てくるのは当然の流れよな
これからは「脳を損傷させない・損傷を治す」ということを目指すとともに「損傷してしまっても以前と同じ様に回復させる・動かせる」ことを目指すのも必須だ
若様の社会派番組、もっと増えたら良い。春日と偶にやってるAudrey!も良い
でも働きすぎるとまた体壊すので程々にしてほしい
トランスジェンダーイデオロギーは、生物学的性(sex)を「社会的構築物」と位置づけ、個人の性自認(gender identity)を内面的な真理として絶対視する考え方である。クィア理論の脱構築的枠組みを基盤にしつつ、より実践的・政策指向が強い点が特徴だ。一方、ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン(DEI)活動は、これを「多様性」の象徴として企業・学校・行政に浸透させ、異論を「トランスフォビア」として抑圧する仕組みを提供している。
ミシェル・フーコーの理論、特に生権力(biopower)と医療化(medicalization)の観点から見ると、このイデオロギーは皮肉にも「解放」の名の下に新たな権力装置として機能している。フーコーは『性の歴史』で、近代権力が性や逸脱を「種(species)」として分類・内在化し、医学・心理学を通じて主体を生産・管理すると分析した。トランスジェンダーイデオロギーは、まさにこのメカニズムを逆手に取り、性自認を新しい「内面的真理」として生産し、生(身体・発達・安全)を再管理している。
トランスジェンダーイデオロギーは、性自認を「本人が知る絶対的な内面」として位置づけ、生物学的現実(性的二形性、ホルモン影響、筋骨格差)を「抑圧的な構築物」と退ける。これにより、新たな規範の再配置が生まれる。女性専用スペース(刑務所、トイレ、更衣室、スポーツ)の境界が曖昧化され、性自認優先の政策が推進された。
英国の刑務所では、2025年3月時点でトランスジェンダー囚人が339人(前年比15%増)と急増し、トランス女性(出生時男性)の性的犯罪歴率が極めて高いデータが過去に示されている。女性囚人全体の性犯罪率が約3.3%であるのに対し、トランス女性では男性型のパターンが維持される傾向が観察された。これは、フーコーが言う生権力の典型——生物学的性の古い規範を解体したかに見せかけつつ、性自認という新しい分類基準で身体と安全を再管理する装置だ。結果、生物学的女性の安全権が再配分され、脆弱層への被害転嫁を招いている。
スポーツ分野でも同様の再配置が見られた。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリーの参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認尊重が優先された結果、身体的優位性による不公平と女性アスリートの安全問題が深刻化した。イデオロギーが「包括性」を掲げながら、実際には生物学的現実を無視した生の最適化を試みた末の修正である。
トランスジェンダーイデオロギーの医療版であるgender-affirming care(性自認肯定ケア)は、思春期ブロッカーやクロスセックスホルモンを積極的に推奨してきた。しかし、英国のCass Review(2024年最終報告)は、関連エビデンスの質が「極めて弱い」と結論づけ、長期的な精神衛生改善効果や安全性に強い疑義を呈した。思春期抑制剤の使用は原則として臨床試験に限定され、包括的な心理社会的支援へのシフトが推奨された。
フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の仮面をかぶった新たな医療化である。DSM-5やICD-11で性同一性障害の病理化表現が緩和された「反医療化」は、一見解放的に見えるが、実際には性自認を新しい「真理の内面」として医療・教育の管轄下に置いた。フーコーが指摘したように、権力は病理化だけでなく脱病理化によっても主体を生産する。軽度の苦痛は「多様性」として肯定され、重い併存疾患(自閉症スペクトラム、不安・うつなど)や社会的影響(Rapid-Onset Gender Dysphoriaで指摘されるピア・インフルエンスやソーシャルメディアの役割)は十分に検討されにくい構造が生まれた。
結果、若年層の急増現象が社会感染的な側面を持つ可能性が指摘される一方、イデオロギーはこれを「自然な発見」として扱い、慎重な鑑別診断を遅らせる。フーコー的に言えば、これは生権力の生産性——個人の「生」を性自認という枠組みで最適化・管理しようとする試みだ。
ダイバーシティ活動は、トランスジェンダーイデオロギーを「インクルージョン」の象徴として組織に浸透させた。しかし、これは真の多様性ではなく、新たな単一規範の強制として機能している。異論(Cass Reviewのような科学的慎重論や生物学的現実の指摘)は「ヘイト」として排除され、言論空間が萎縮する。フーコーの「言説の秩序」論で言えば、特定の真理(性自認の絶対性)が制度的に優位化され、他の知識(進化生物学、発達心理学、犯罪パターンの性差研究)が周辺化されるプロセスだ。
DEIは「多様性」を掲げながら、生物学的女性の権利、親の関与権、科学的エビデンスに基づく慎重さを犠牲にする矛盾を抱えている。これは、クィア理論の脱構築とは異なり、実務レベルでの生の直接管理(人事方針、教育カリキュラム、医療ガイドラインへの介入)として現れる側面である。
フーコーは、抵抗そのものが新たな権力装置を生む「権力の螺旋」を繰り返し指摘した。トランスジェンダーイデオロギーとDEIは、まさにこの螺旋に巻き込まれている。生物学的規範の抑圧を批判するはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体・発達・安全を再分類・管理する生権力として機能してしまった。
真に人間らしい多様性とは、生物学的現実を直視しつつ、苦痛を抱える個人への共感的な支援を科学的に行うことである。
イデオロギーが「肯定か排除か」の二元論に矮小化する限り、社会コストは増大する。2024-2026年の国際的修正(Cass Review後の欧州シフト、IOCの生物学的女性限定方針)は、現実がこの生権力の限界を突きつけ始めた証左と言える。
成熟した社会は、フーコーの物差しで自らの権力装置を不断に批判し、イデオロギーではなく害の度合いとエビデンスに基づくバランスを求めるべきだ。様々な性自認を抱える個人の尊厳を尊重しつつ、女性や子供の保護、科学的慎重さを犠牲にしない——それが、本来のダイバーシティの意味だろう。
クィア理論は、ジュディス・バトラーやイヴ・コソフスキー・セジウィックらによって展開された、異性愛中心主義(ヘテロノーマティヴィティ)を脱構築する試みとして登場した。規範を「行為の反復」として相対化し、ジェンダーやセクシャリティを流動的なパフォーマンスとして再定義することで、抑圧からの解放を目指したはずである。しかし、21世紀に入りこの理論が制度化・政策化される過程で、皮肉にも新たな規範の再配置と生権力の装置として機能し始めた。ミシェル・フーコーが『性の歴史』や『監獄の誕生』で分析したように、権力は単に抑圧するのではなく、知識・言説を通じて主体を生産・分類・管理する。クィア理論は、旧来の生物学的性規範を批判しながら、自ら新しい「正常/異常」の線引きを導入し、人間本性を再定義し、さらには一部の逸脱者を「脱人間化」するプロセスを促進している。
代表的な事例が、女性専用スペースの「解放」政策である。英国では、性自認を重視した刑務所配置方針が長年続けられた結果、生物学的男性でありながら女性として認識されるトランス女性囚人の割合が急増した。2025年3月31日時点で、イングランド・ウェールズの刑務所には339人のトランスジェンダー囚人が確認されており、前年比15%増という急拡大を見せている。過去の公式データでは、こうしたトランス女性(出生時男性)のうち、性的犯罪歴を持つ者の割合が58.9%〜62%に達し、生物学的女性囚人(3.3%)や男性全体(約17%)と比較して極めて高い男性型犯罪パターンを維持していることが明らかになった。
同様の再配置はスポーツ分野にも及ぶ。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリー参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認を尊重した参加が認められてきた結果、生物学的男性の身体的優位性による不公平が深刻化し、女性アスリートの安全と競技の公正が脅かされる事例が相次いだ。トイレ、更衣室、温泉などの日常空間でも、性自認優先の通知や条例が導入され、生物学的性の境界が曖昧化された。
これらは、クィア理論が唱える「規範の撹乱」ではなく、新しい規範の再配置である。生物学的性を「社会的構築物」と位置づけ、性自認を優先する言説は、フーコーのいう生権力として、身体と生を新たな基準で管理する装置となった。旧来のheteronormativityを批判しながら、性自認という内面的真理を「知識/権力」の対象に据え、人口を分類・最適化する——まさにフーコーが警告した、権力が「生」を対象化するメカニズムだ。
クィア理論は、人間本性を「本質的」なものではなく、パフォーマティブに構築されるものとして再定義した。これにより、ジェンダー・ディスフォリアを抱える若者への「アファーマティブケア」(性自認肯定医療)が推進された。しかし、英国カス・レビュー(2024年最終報告)やその後の追跡調査では、思春期抑制剤やクロスセックスホルモン治療のエビデンスが「極めて弱い」ことが指摘され、長期的な精神衛生・身体的影響(骨密度低下、認知発達への懸念)が懸念されている。2025年以降、イングランドでは思春期ブロック剤の使用が原則禁止され、ホリスティック(包括的)な心理社会的支援へシフトする動きが加速した。
この再定義は、フーコーの医療化理論を逆手に取ったものだ。19世紀に同性愛が「逆性的感覚」という医学的カテゴリとして生産されたように、クィア理論は性自認を新しい「内面的真理」として医療・教育・法制度の対象に据えた。結果、生物学的現実(進化的に形成された性的二形性や犯罪パターンの性差)を「抑圧」と位置づけ、流動性を強制する新しい規範を生み出した。
ここで特に問題なのは、こうした人間本性の再定義が社会契約や民主的なプロセスをほとんど経ずに急速に制度化された点である。ホッブズやルソーが描いた社会契約は、個人の加害性や自由の限界を相互に認め、合意に基づく規範を構築する仕組みである。民主的プロセス(議会審議、科学的レビュー、国民的合意形成、公衆討議)は、これを支える現実的な装置だ。しかし、クィア理論の影響下で性自認優先政策がアカデミアや一部の運動から行政・法制度へ波及した過程では、こうしたプロセスが大幅にバイパスされた。生物学的現実や潜在的加害性の検討が十分に行われないまま、政策が「進歩的」トレンドとして導入された事例は枚挙にいとまがない。
社会契約や民主的プロセスは、一種の「遅延効果」を持つと見るべきだ。思想やトレンドの変化が熱狂的に進行する中で、即時的な制度反映を「遅らせる」安全装置。審議の時間、科学的エビデンスの蓄積、利害関係者の声の反映——これらがなければ、流動的な人間像の再定義が現実の害(身体的・心理的・社会的コスト)を十分に考慮せずに固定化されてしまう。クィア理論は脱構築を掲げながら、この遅延効果を「抑圧の装置」と位置づけ、民主的チェックを弱めながら生権力を再配置した。
ここで注目すべきは、医療基準自体の改定による「非医療化」が、フーコーの医療化理論でこそ最も鮮やかに説明できる点である。DSM-5(2013年)では「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」を「Gender Dysphoria(性別違和)」に改称し、アイデンティティそのものを病理化する表現を廃止した。ICD-11(2019年)では「Gender Incongruence(性別不一致)」を精神疾患章から「性的健康関連条件」章へ移動させ、精神疾患としての分類を正式に解除した。これらは一見、クィア理論が推進した「反医療化」の勝利のように見える。
しかし、フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の名の下に行われる新たな医療化・生権力の再配置にほかならない。フーコーは、権力が「病理化」だけでなく「脱病理化」によっても主体を生産・管理することを繰り返し指摘した。旧来の病理化(行為を「種」として内在化し、管理対象とする)を批判するように見せかけつつ、「合意と害の不在」という新しい基準で逸脱を再分類する。適合する軽度の逸脱(規範撹乱的な多様性)は「正常な多様性」として保護・特権化され、適合しない重い衝動(非同意・暴力要素の強いパラフィリック障害)は、より強く「ただの犯罪」として切り捨てられる。これにより、クィア理論は反医療化を装いつつ、性自認を新しい内面的真理として医療・制度的介入の対象に据え、人口の生を再最適化する装置を構築した。まさにフーコーが警告した「権力の生産性」の典型である。
さらに深刻なのは、逸脱の「軽重」による選別が、犯罪者の脱人間化を促進している点だ。合意ベースの軽度パラフィリアや規範撹乱的な表現は、クィア理論によって「多様性」として保護・特権化される。一方、非同意・暴力要素の強い性的衝動(パラフィリック障害)は、「ただの犯罪」として切り捨てられ、道徳的・社会的に脱人間化される。DSM-5がパラフィリア自体を非病理化しつつ、害を伴うものを障害とする区別を設けたのも、この二重基準を制度化した例である。
フーコー的に見れば、これは生権力の典型的な逆説だ。クィア理論は「反医療化」を掲げて旧来の病理化を批判したが、結果として新たな分類装置を構築した。「クィアであること」が文化的・道徳的資本となり、十分に「クィア」でない逸脱者(重い反社会性+性的衝動の複合型)は、規範の外側に排除される。犯罪者は「宿命的な怪物」としてではなく、社会が管理すべき生として扱われるべきなのに、理論は「軽い逸脱」の保護と「重い逸脱」の脱人間化を同時に推進する二重基準を生んだ。これにより、管理される自由(自発的な衝動抑制治療や専用環境の選択肢)は十分に整備されず、宿命的な渇望を持つ人々をさらに孤立させる。
フーコーは、権力は「抑圧」ではなく「生産」であり、抵抗そのものが新たな権力装置を生むと繰り返し指摘した。クィア理論はまさにこの螺旋に巻き込まれた。規範を脱構築しようとしたはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体と生を再管理する生権力として機能している。人間本性を流動的に再定義した結果、生物学的現実や加害性の潜在性を直視する機会を失い、脆弱層(生物学的女性や子供)の安全権を再配分する事態を招いた。
社会契約や民主的プロセスという「遅延効果」を欠いた再定義は、こうした生権力の再配置を加速させた。人間らしい社会とは、逸脱の宿命を認めつつ、害の度合いに基づく透明な線引きと、加害衝動者への「選択肢」(任意の医療的介入や構造化された環境)を拡大する社会である。フーコーの物差しで測れば、クィア理論の実践は規範の単なる置き換えに過ぎない。脱構築の名の下に生まれた新たな抑圧を避ける——それが、今求められる成熟した視点だろう。
社会に出て15年ちょい、めちゃくちゃ頑張って頑張って
すごく辛いんだけど
何でかわからない
何でだろう
夢はFIREなんだけど、働きたくなんてないんだけど
不安なのかな?
ギリギリまでがんばってないと怖いのかも?
もしくはそういう遺伝子なのか?
いま40超えたけど、全然まだまだ成長しなきゃと思ってて
なにこれ?
今もAIでどうしたら会社伸ばせるかとか、お客さんの事業を前に進められるかとか
社会にとってより良いかとか、1年後2年後3年後どうなるかとか、ずっと考えてるんだけど
たまに褒められるんだけど、おいおいやめてくれよ俺は教室の隅っこで斜に構えてるタイプでそういうガリ勉とか熱血とか嫌いなんだよって
常にずる賢く、他の人より成功するためにやろうとしたら、真ん中の道が空いてただけなんだよって
つらい
クソが
台風の余波がまだ残る夜、僕はまた家を抜け出した。水泳部時代、後輩たちから「憧れの先輩」と呼ばれていた頃の記憶が、時々胸をよぎる。
あの頃の僕は、完璧なアスリートだった。全身を真っ黒に焼け、ツルツルに剃り上げたスキンヘッドを陽光に輝かせ、パイパンに剃り上げた滑らかな肉体でプールを泳いでいた。
でも今、理性が静かに囁く。
だが、身体は全く別の声を上げていた。服を一枚も残さず脱ぎ捨て、スイムキャップを被り、ゴーグルをかけ、ランニングシューズだけを履いた瞬間、真っ黒な肌が夜の空気に触れ、若い肉体が雨粒を弾き、パイパンの股間が露わになる。チンポが勝手に熱くなり、脈打つ。
そう思うだけで、胸の奥が甘く疼いた。後輩たちが知らないこの俺——自分を愛して愛して愛し抜く、貪欲で純粋な俺——こそが、本当の俺だと、心の底から信じられた。完璧な表の俺と、獣のような裏の俺。そのギャップが、たまらなく愛おしくて、自己愛がどんどん膨らんでいく。窓をそっと開けると、冷たい雨が真っ黒な裸の肌を打った。
僕は走り出した。
走れ、メロス。
夜の街を、雨に打たれながら、ただひたすらに走る。足の裏が濡れたアスファルトを叩き、冷たい風がスキンヘッドを撫で、真っ黒な全身を包み、チンポが重く揺れるたびに、身体の奥から熱がこみ上げてくる。雨粒が胸の突起を、腹を、太ももを、そしてパイパンの腫れ上がったチンポの先端を直接叩く感触が、ぞわぞわと快楽を呼び起こす。
「最高だ……真っ黒な体、このスイムキャップ、このパイパン……全部が俺で、全部が美しい」
理性が「やめろ」と囁くのに、自己愛がそれを押し潰すように膨張していく。運動公園のトイレに着くと、僕は大きな鏡の前に立った。雨で濡れた自分の姿が、ぼんやりした蛍光灯の下で浮かび上がる。
真っ黒に焼けた筋肉のラインが雨に光り、スイムキャップが濡れて艶やかで、パイパンの腫れ上がったチンポがピンク色に脈打っている。獣のように腰を落として鏡に顔を押しつけ、舌を這わせながらしごいた。唾液が鏡を伝い、チンポの先から透明な液が床にぽたぽたと落ちる。
理性が「鏡なんか見るな、早く家に帰れ」って言うのに、身体は「愛してる、俺……お前のこの勃起、最高にエロい……理性よ、黙って見てろよ」と、静かに、でも激しく動く。
水の中を泳ぐような滑らかな手つきで、自分を愛でる。切ないほどに。鏡に映る自分が、まるで水面に浮かぶ自分の影のように、遠く感じて、でも愛おしかった。ゴーグル越しに自分の目を見つめながら、僕はゆっくりと腰を前後に振り、チンポを鏡に軽く打ちつけるようにした。
「俺は俺が好きすぎる……この姿が、世界で一番美しい」
公園を出て商店街のアーケードに入ると、シャッターの冷たい金属の感触が真っ黒な背中に広がった。
僕はチンポを壁に押しつけ、腰を振った。雨の残る地面の泥を両手で掬って、体に塗りたくった。胸、腹、太もも、そしてパイパンのチンポと乳首と尻の奥まで、冷たい泥がべっとりと張りつく。
「壁よ、俺の熱いチンポを感じろ……変態アスリートの壁コキタイムだぜ!」
でも身体はもっと自由を求めていた。水のように、どこにも留まらず、ただ流れる自由を。
走れ、メロス。
シャッターの隙間を抜けるように、僕は再び夜の道へ駆け出した。泥まみれの真っ黒な体が雨に洗われ、走るたびに新たな水の感触が肌を刺激する。
「俺は最高だ……、愛おしくて仕方ない」
横殴りの雨が、真っ黒な体を鞭のように打つ。僕は低く構えて走りながら、チンポを握ってしごいた。
走れ、メロス。
水たまりを見つけた瞬間、理性が「やめろ」って叫んだのに、身体は飛び込んでいた。
クロールの真似をしながら、チンポを水面に叩きつけるように腰をくねらせる。冷たい水が皮をめくり、風が陰嚢を冷やし、雨が全身を洗う。
「走れ、メロス! 俺は変態アスリート! 嵐よ、もっと俺を犯せ!」
泥水を飲み込みながら、僕は笑った。自己愛が、嵐の中でさらに熱を帯びる。かつて通った小学校の校庭に着くと、僕はグラウンドの真ん中に倒れ込んだ。
仰向けに両足を大きく広げ、腰を浮かせて土にチンポを擦りつけた。
雨が容赦なく叩き、風が体を冷やし、泥が尻の奥まで染み込む。
両手で激しくしごきながら、腰を振り続けた。
理性が「もうやめろ、狂ってる」って泣くのに、身体は大地と嵐に溶け込んでいた。
「風よ、吹け!嵐よ!俺はここにいるぞ!」
「俺の子を孕め!俺の熱い精液を全部飲め!もっと深く俺を犯せ!」
走れ、メロス。
体が震えて、少し切ない満足感が胸の奥に残った。それでも身体はまだ疼いていた。家に向かって走りながら、街灯の下で時々止まってチンポを晒し、腰を振った。
走れ、メロス。
パトカーの灯が見えたとき、心臓が跳ね上がった。商店街の隅に隠れ、ライトが照らす中でチンポを扱いた。
「俺を見てくれ……警察のおじさんも、俺のこの変態アスリートの姿を見てくれ……」
「俺はここにいる……全裸で勃起したまま、嵐に犯された中学生がここにいる……」
二度目の射精が来て、膝が崩れた。なんとか家に帰り着き、熱いシャワーを浴びた。
チンポがまた硬くなって壁に擦りつけ、もう一度した。
鏡の前で全身を押しつけ、激しくキスしながら。
露出狂のナルシスト、嵐に犯されるマゾ、理性なんか無視して暴走する中学生……」
「俺は俺が愛しすぎる。明日も、明後日も、ずっと走り続けるぞ!」
翌日、友人のたけしとスマブラをした。
自分は常に落ち込んでいる。
それがもはや「基本」になっていて、
そのまま数十年生きている。
ものすごく低調になることはさほどないが
(過去には何回かあるが)
気持ちの中心線(線より上がポジ、下がネガ)より上がることはほぼない。
「今は楽しい」「今はうれしい」ということはたまにある。
ベタな「メイドカフェ」を体験したかったので、秋葉原の有名店にした。
どこに行けばいいんだ? と思ったような気がする。
とにかくまぁ、どっかの店に入った。
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
と、言われたかどうかは定かでない。
とにかくほとんど何も覚えてない。
メイドカフェにおいて客とメイドさんの関わり方とはどんな感じなのか、
見当もつかないまま行ったのだが、
なんだかやたら話しかけてくれるな? とは思った。
しばらく話すと離れ、また少しすると来て会話をしてくれる。
入店前に「さすがにずっと付きっきりみたいなことはないだろう」と思っていたが、
それにしても話しかけてくれるな? とは思った。
そういうものなんだろうか、と思いながら店を出た。多分。
帰途を経て、自宅に戻った。そして気づいた。
なんか…なんだか…元気になってる!
なんだこれ、なんかちょっと元気だぞ。
フラフラ飛んでいるような感じがある。
なんで? いや、あれか? あれしかないよな…。
そんなことあるんだ。
ここまでじんわりと、しかしはっきりと、
何度も「元気をもらった」と書いているのは、
例えば「惚れた」とか「恋に落ちた」とかそういう感覚ではなかったから。
じんわりと、なんだかちょっといい気分である…という半身浴的な感覚だった。
(あるいは寝湯でもいい。寝湯いいよ。みんなやりな)
メイドさんや、あるいはアイドル、ミュージシャン、芸人、アスリート、
なんでもいいが「元気をあげる」なんてのは世迷言も世迷言、戯言中の戯言である。
いるが、お前が実際に元気もらっちゃってんじゃねーか、という実績もある。
常に落ち込んでいるような人間が、
だから「元気をあげる」なんてのも、全部が全部、嘘ではない。
梅と、ツナマヨ。この組み合わせで何年生きてきたんだろう。考えたくない。
なんか金メダル取ったフィギュアスケートの選手が食事管理を徹底してるって読んだ。朝昼晩のたんぱく質量を全部把握して、競技前の糖質タイミングまで計算してるらしい。すごいな、と思いながら缶コーヒー飲んでた。
自分の今日を思い返す。おにぎり2個、缶コーヒー、昼に無性に甘いものが欲しくなって自販機でチョコ。夜はカップ麺にビール。
トップアスリートが食事で勝負を決めてるとしたら、自分は食事で何を決めてるんだろう。何も決めてないな。ただ空腹を処理してる。
そういえばわさビーフが工場止まってたとき、けっこうつらかった。コンビニ行くたびにあの棚を確認して、ないとちょっとがっかりして帰ってた。あの感情はなんだったんだろう。食への執着ってわさビーフで発動するんだな、自分は。
再開したと聞いてすぐ買いに行った。おいしかった。変わってなかった。
『白鳥の湖』とか『くるみ割り人形』は曲として大好きなんだが、バレエの視覚情報の楽しみ方、面白がり方を知らない
母や姉が熱心なバレエ趣味で実際にやったりしてたし直接聞いてもいいかもしれない でも演者の鑑賞観点って門外漢のそれと絶対着目する場所違うから参考にならない予感
すなわち演者ごとの差異を見出して違いを楽しむみたいな クラシック音楽の指揮者違い同曲演奏を聴き比べる的な
でももっとシンプルな、単純な、素朴な楽しみ方もある気がするんだよなあ
単純に「自分の趣味じゃない」「感受性がない」「アンテナが育ってない」かもしれんが
ああそうか、自分はダンスに感動し面白がる感性を持っていないのかも?
あるいはスポーツ鑑賞、アスリートのパフォーマンスを見て楽しむ感覚か?どちらにせよ持っていないか この役を演じるには32回転できる能力が必要、とかすごくアスリート的
それだけじゃないよなあ?演劇的性質を持つんだから オデットとオディールの演じ分けみたいな話もでてくるよなあ
じゃあ予習したくなっちゃうね、無言劇だからなあ そこらへんが敷居の高さか
まあ今のままでも全然いいけどね
アマプラで白鳥の湖のミュージックビデオがあるから皿洗い中にBGVとして流すくらいの今の距離感で十分楽しめているし
明日健康診断なんだけどうんちが出ないからサンプルを採取できない
ふたつ必要なのに……
---
バレエ音楽が好きなんじゃなくてチャイコフスキーが好きなだけなんじゃないの?
そうかもね
うんちでそう、気配を感じる
基本的にブルマーは無くなってよかったと思っているんだけれど、女子全員が不快だと感じていたという意見を聞くと「本当だろうか?」と疑ってしまう。歴史に興味がある人にとって、あるいは聞きかじりであっても学問に関心がある人にとって、「全か無か」の発想を聞くと、本能的に疑いの念が兆す。
以下、ブルマーに肯定的な意見をピックアップしておく。ただし、少数派なのは間違いないだろうし、このリストをもってブルマーを肯定しようとするのは、チェリーピッキングに他ならないだろう。
「窓際のトットちゃん」で黒柳徹子が、先生がブルマー姿で演技をすると太腿が震えて大人っぽくて、それに憧れたという記述があった。ただし、時代を考えるとどう考えても提灯ブルマーであり、ショーツ型ブルマーではありえない。
また、これは本人が着用した記録ではない。
https://mainichigahakken.net/essay/article/post-4986.php
40歳になっても夏はブルマ、冬はルーズソックス! 四半世紀以上前のファッションがやめられない理由
こちらはコロナ禍下でジムも閉鎖され、家で運動をしていた女性が、膝関節や股関節の自由を求めてブルマーを身に着けた経緯が書かれている。
そして冬はルーズソックスを追加している。ハイレグレオタードにレッグウオーマーってなんで普通にジャージでやらないんだと思っていたが、それなりに合理性はあったんだろうな。
https://mainichigahakken.net/essay/article/post-75711153.php
https://sketch.pixiv.net/tags/%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%96%E3%83%AB
こちらは同級生のぴったりしたブルマーに憧れていたという体験談。
ブルマーというよりは、すっきりした体型への憧れかもしれない。
あとは「かつみさゆり」のさゆりが五十代でブルマー姿で鉄棒をしている動画もあったりする。
https://www.instagram.com/reels/CgB1bHZhrpD/
https://www.instagram.com/reels/CuwchdYuXkD/
https://www.instagram.com/reels/DMIG7OoyrV0/
ただ、注意しなければならないのは、ここである程度ブルマーを肯定的に身に着けているのは、ほとんどが、①成人しており、誰からも強制されていない、②屋内であるケースが多く、不特定多数の目に触れない、③インフルエンサーなどが水着ほど露出の多くないコスプレとして採用している(最近はブルマー姿でヨガをしている姫すずがお気に入り)、④場合によっては懐かしさやウケ狙いの要素がある、といった状況である。
geminiにブルマーについての肯定的な意見のある書籍をリストアップするように命じると、
「ブルマーの謎」に「(以前の提灯型に比べて)今の密着型のほうが足が長く見えるし、動きやすくてかっこいい」という声があった、と出力してきた。また酒井順子がエッセイで、提灯ブルマーからナイロン製ブルマーへ変わった際、それが「アスリートっぽくて、シュッとしていて、かっこよくなった」という声を紹介している、とも出てくる。しかも、「セブンティーン」などの女性誌に「新しいハイレグカットのブルマーは足が細く見えるから好き」「スポーツブランド(アシックスやミズノなど)のロゴが入っているのがおしゃれで憧れる」という声がある、とまで出てきた。
まったくもって疑わしい。だが、何度AIに反問しても、著者名を変えたり、出典を揺らがせながら、同じような答えを返してくる。そもそも、著作権のある文章を学習させたはずがなく、かなり怪しい。
これは典型的なハルシネーションだと思うが(実際、AIは英米文学以外の出典探しをAIは苦手としている)、念のため関連書籍にそのうち当たるつもりだ。
これがハルシネーションではないかと疑っているもう一つの理由は、他のAIで試したところ、一切これらの書籍が言及されなかったことだ。
【参考】
https://www.youtube.com/watch?v=LEZY_1smtw8
海外の方にはわかりづらいだろうと、ハッシュタグが #bikinifitnessなのが興味深い。ブルマーはビキニではない。
テレビに写すと画質の良さにびっくりする。
なお、これは全くの余談であるが、若いインフルエンサーやコスプレイヤーがたまに身に着けている、短パンの両脇がえぐれて、ベルトとハイレグブルマーが一緒になった謎の衣装がブルマーと呼ばれていたりするが、伝統ってこうやって変質していくんだなって複雑な気持ちだ。
https://www.qoo10.jp/gmkt.inc/Mobile/Goods/Goods.aspx?goodscode=1101792239
正直、中途半端な短パンやドルフィンパンツをブルマーと混同しているのを見ると納得いかない。世界の解像度が荒い。そっちの方がセクシーだと思う人の感覚は尊重したいので、どうか検索したときに混ざって出てこないよう、誰か適切な名前を考えてくれないか。おねショタとショタおね、寝取りと寝取られが混同されているのが嫌なのと同じだよ。
【参考】
https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%84
あと、さらに脱線するけれど、グーグルでいつの間にか「おねショタ」が画像検索できなくなるようサイレントで仕様変更がされているの怖くない? 「地味子 水着」が出なかったし(「地味子 ヌード」はOKだった)、「幼馴染 イチャラブ」もダメ。「幼馴染 ラブラブ」はOK。こういう基準がはっきりしない、理由も説明しない恣意的なルールって、正しい方向だとは思っても、すっきりしないんだよな。
もっとすっきりしないのは広告やサムネイルで「死」「殺」の文字を一律で伏字にする態度だ。
なんというか、shitとは言っちゃだめだけどshootならいいみたいな偽善性や、とりあえず修正に従っておきましたっていう上っ面の態度を感じる。特にモヤモヤしたのが医療系漫画の広告で「性病」の「性」を伏字にしたことだ。たしか「コウノドリ」だったと思う。話の肝心な主題を伏せてどうするんだ。その癖、過激な漫画の広告はどんどん増えている。首尾一貫しないし、「自主規制したから罰しないでくださ~い」みたいな意図が透けて見える。性病について堂々と語られる空気がなければ、性病の蔓延と戦うのは難しい。
なぜアダルトビデオ業界のように、性病防止キャンペーンみたいな堂々としたことができないんだろ。
以上。
甘ったれるな。目が覚めたか? 覚めてないなら今すぐ冷水を浴びろ。言い訳より先に蛇口をひねれ。体が震える? その震えが生きてる証拠だ。
走れ。天気? 関係ない。気分? 関係ない。やる気が出たらやる、じゃない。やるからやる気が出るんだ。脳みそは後付けで理由を作る臓器だ。先に足を動かせ。
飯をちゃんと食え。ジャンクで誤魔化すな。お前の身体は資本だ。資本を毀損して利益が出ると思うな。タンパク質を入れろ。炭水化物を恐れるな。量を管理しろ。食うのも仕事だ。
そして集中しろ。通知を切れ。SNSを閉じろ。誰かの人生を眺めてる暇があったら、自分のタスクを一行でも進めろ。完璧を待つな。粗くてもいいから前に出せ。修正は後でできる。ゼロは修正できない。
「今日は調子が悪い」だと?知るか。調子が良い日だけ成果が出るなら、アスリートも経営者もいない。凡人は気分で動く。結果を出す側は仕組みで動く。
冷水。ランニング。栄養。集中。これが最低ラインだ。特別な才能はいらない。継続だけが差を作る。
さあ動け。甘えを切り捨てろ。今日を取りに行け。