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2025-12-17

飯田一史の批判三宅香帆の反論は、それぞれどこが間違っているのか

表題のとおりです。

事の発端は、12月12日飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。

これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田批判に対する反論を試みました。

このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判三宅反論論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます

まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います

なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html から抜粋であることを念の為補足しておきます

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📰 0. 三行要約(問題点

飯田批判は、特に三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないかダメだ」という主張に相当問題があると思う。

三宅反論は、そもそも反論」できてない。言い換えると、飯田論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。

三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたか飯田データ処理の問題すり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。

以下、飯田批判三宅反論についてより詳細に検討していきます

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📚 1. 飯田批判論点

飯田批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います

理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。

まあ私の読解力の問題のような気もします。

読みやすくするため、飯田批判の主張のうち、

三宅本への指摘に該当するものには「◎」

・直接的には指摘ではないものには「◯」

という記号を付けておきます

また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます

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(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人読書量は減らない」の節)

◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。

しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。

<主張1-1の論証>

根拠1-1-1. データ書籍の月間平均読書冊数

根拠1-1-2. データ:1ヶ月に読む本の冊数の割合

根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。

これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。

<論証おわり>

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◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。

<主張1-2の論証>

根拠1-2-1. 「積ん読」という言葉存在

根拠1-2-2. データ: 紙の書籍推定販売金額と月の平均読書冊数

根拠1-2-3. アメリカイギリスでの調査.

根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。

<論証おわり>

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(「・「雑誌」と「書籍」も別の話」の節)

◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である

<主張2-1の論証>

根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌推定販売金額と月の平均読書冊数

根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。

<論証おわり>

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◎主張2-2. 三宅本では、書籍雑誌区別ができていない。

<主張2-2の論証>

根拠2-2-1. 三宅本のp.38の記述

根拠2-2-1は、三宅本において雑誌書籍区別できていないことを示している。

<論証おわり>

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[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌書籍区別するべきである。]

(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)

---------------------

◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である

<主張2-4の論証>

根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間である。主張2-1から雑誌接触時間は減少傾向であると推察されるので、

読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である

根拠2-4-2. そもそも読書時間」もそれほど減っていない。

根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.

根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。

[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、

三宅本のやり方では書籍読書時間減少を導くことはできない。

また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。

<論証おわり>

--------------------

(「・労働時間は減り、自己啓発時間も減っている」の節)

◎主張3-1. 三宅本は、日本人現在長時間労働であることを前提にしている。

しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である

<主張3-1の論証>

根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年2023年)の労働時間の推移についての考察

<論証おわり>

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◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:

(i) 1990年代から自己啓発市場が拡大した.

(ii) 自己啓発労働による自己実現)のための読書(=「情報摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.

(iii)代わりに、人文書小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者文脈」を含む)時間が減少した

(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例グラフを描く

しかし、(ii), (iii), (iv)は誤りである

<主張3-2の論証>

根拠3-2-1. 黒田山本論文

根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的根拠はない(提示されていない)

根拠3-2-1から労働者の 「自己研鑽」 = 「学習自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。

これは(ii)を否定する。

主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)

根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)

<論証おわり>

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◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。

言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:

(1)自己啓発市場は拡大している

(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。

しかし、これは誤りである

<主張3-3の論証>

根拠3-3-1 牧野論文.

根拠3-3-2. データ: 日本出版市場推定発行金額

根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。

これは(1)の根拠としている。これ自体問題はない。

しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場小説市場よりはるかに小さいということを意味する。

これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。

以上から、これは誤りである

<論証おわり>

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[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]

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🧠 2. 飯田批判の怪しい箇所

以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。

飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別本質的か?

主張2-4の背後には「書籍雑誌分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。

三宅本の「読書から雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。

・「書籍」と「雑誌」の違いを整理しておく。

といっても自分出版業界人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。

(間違ったこと言ってたらごめんなさい)

書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。

ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである

これは、1985年ユネスコ出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。

("図書新聞及び定期刊行物出版及び配布についての統計国際的標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm

より実際的な取り扱いは, "既存雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/

によれば、

そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。

一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります

ということらしい。(しかし、これはあくまコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)

書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。

日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコード雑誌コードを持っている。

その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである

("「雑誌」の定義出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/

ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠雑誌コードが付いているかどうかだったりである

コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。

さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリシリーズ書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍である

一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。

このように「書籍」と「雑誌」の区分そもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。

この区分はかなり表面的、形式的ものであると見るべきだろう。

・以上を踏まえて、飯田批判、つまり書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したこと妥当性ついて吟味してみよう。

飯田批判とはなんだったのか。

それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である

そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、

特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているかである

ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。

飯田はその直前に「「書籍読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。

ともかく、飯田批判妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。

三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書小説などのような(「ノイズ」や「他者文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。

したがって「読書離れ」は「人文書小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである

転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。

要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル文芸歴史書哲学書・理工書・サブカルゴシップファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである

もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションゴシップ支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通におけるPermalink | 記事への反応(0) | 20:21

2023-09-23

無断引用重言だ」とかいデマについて

引用」という言葉には、たとえこれを著作権法32条意味に限ったとしても、「著作権者に無断で」という意味内包しない。

無断引用という言葉おかしい」というデマは、もともとは(無断リンク禁止の如く)適法無断引用に対して「無断引用だ!」と言いがかりをつけてくる輩に対する「引用は無断でやっても良い」という反論が、「引用は無断で行うものから無断引用という言葉おかしい」に転化したのではなかろうか。

 

職場に行かないとちゃんとしたコンメがないので、さしあたり手元のおぐおぐコンメから引用するけれども、

1.3.1 引用定義

引用定義規定は、現著作権法には置かれていない。

引用」をあえて定義するならば,自己著作活動への利用目的引用目的)で,自己著作物の中に,他人著作物を複製または無形に再生して,利用または自己著作物等を創作,または自己著作物等の中に複製以外の方法で利用する行為である

小倉金井著作権法コンメンタール[改訂版]Ⅱ」94頁)

とあるとおり、そこに「許諾が無いこと」は要件とされていない。許諾がある場合引用ではなくなるということもない。

 

そもそも著作権法32条ベルヌ条約10条の引き写しだ。ベルヌ条約に加盟するためにそのようにしている(条約国内法化)。

Article 10

(1) It shall be permissible to make quotations from a work which has already been lawfully made available to the public, provided that their making is compatible with fair practice, and their extent does not exceed that justified by the purpose, including quotations from newspaper articles and periodicals in the form of press summaries.

日本語訳

第十条 〔引用

(1) 既に適法公衆提供された著作から引用新聞雑誌の要約の形で行う新聞紙及び定期刊行物記事から引用を含む。)は、その引用が公正な慣行合致し、かつ、その目的上正当な範囲内で行われることを条件として、適法とされる。

著作権法

引用

第三十二条 ① 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行合致するものであり、かつ、報道批評研究その他の引用目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

したがって著作権法の条文における「引用」はベルヌ条約における「make quotations」という程度の意味しかない。

そしてベルヌ条約は、make quotations が(許諾なしに)適法化される条件を示しているに過ぎず、この条件を満たさなmake quotationsが許諾によって適法化されることを排除していない。

世界中多くの著作権者が、copyrightのあるworksをquoteするためのpermissionのガイドラインを示しているのはそのためだ。

 

「許諾があるならそれは引用ではなく複製だ」みたいな意味不明な主張も見られた。

上記おぐおぐコンメの引用部分にもあるとおり、「引用」には「複製以外の方法」も含まれている。裁判例上も、たとえば複製ではない要約引用も認められている(「血液型性格事件など)。

 

ついでに、法律家が「引用」といった場合、もしかすると原著作物を書き写さな用法のほうが多いかもしれない。「本件控訴の趣意は,弁護人**作成控訴趣意書記載のとおりであるから,これを引用する。」とか「**は、次のとおり付加・訂正するほか、原判決の**の「**」に摘示のとおりであるから,これを引用する。原判決の*頁*行目の*を*に改める…」といったアレだ。

民訴規則刑訴規則には、下の例を含めさまざまな書面の「引用」が認められているが、いずれも「他の文書に書き写さなくても、同じ内容が書いてあることにするよ」という意味だ。

刑事訴訟規則

判決書への引用

218条 地方裁判所又は簡易裁判所においては、判決書には、起訴状記載された公訴事実又は訴因若しくは罰条を追加若しくは変更する書面に記載された事実引用することができる。

民事訴訟規則

第一審の判決書等の引用

第184条 控訴審の判決書又は判決書に代わる調書における事実及び理由記載は、第一審の判決書又は判決書に代わる調書を引用してすることができる。

2022-07-18

UNIX 哲学」についていくつか

名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita

この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である

参考文献

初期の UNIX歴史について興味がある向きには次の書籍お薦めする。

Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)

和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。

また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。

哲学

記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。

https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date

ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。

もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。

この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDFOCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX論文なのだ。もちろん論文性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイ哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白いUNIX開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然時代だったことは間違いない。

UNIX認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイ論文に影響を受けた布教のためのああい説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本最初期の UNIX 解説本のひとつである村井純井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。

オペレーティングシステムは,コンピュータを使うものにとっての環境形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIXオペレーティングシステムとしての個性ではないだろうか。

 

    プロフェッショナル UNIX村井純井上尚司・砂原秀樹,1986,アスキー)p 3.

「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能コマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである

そしてじつは UNIX場合布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。

UNIX の利用環境

UNIXPDP というミニコンピュータミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校コンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器コンピュータではなくコンピュータ接続するための端末装置ターミナル)だ。端末装置キーボードで打った文字コンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 UnixOSCLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置エミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。

さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっとコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥CPU でそっちの洗濯機ハードディスク,あの机に置かれているタイプライタ管理コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代お話だ。

端末装置それぞれからUSB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。

結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。

自由不安定OS

当時の UNIX評価一言で表すと〝自由不安定OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由さらに他のメインフレームミニコンOS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロOS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番ディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。

こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイ1986年11月から1988年10月掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器1980年ごろから UNIX サイトスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。

CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU実質的に停めてしまうことが UNIXはいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンド10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに viカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているとき勝手をやられると非常に困るのである当人仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。

ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイル自由に作ることができる。したがって,自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソールタイプライターにエラーメッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソールタイプライターが一晩中エラーメッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図完璧に打ち砕かれてしまうのである

 

    root から / へのメッセージ高野豊,1991,アスキー)pp16-17.

そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンド10個くらい同時に走らせ」たり「自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイト利用者全員に UNIX設計基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX伝道がより苛烈だった理由ひとつがここにあるのだ。

ミニコン UNIX終焉

ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代UNIX は Research UNIXCSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIXライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。

もっともそういう70年代風味の牧歌的風景ミニコン世界限定の話であった。BSDのものミニコンのものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSDUnixAT&T推し進める System V などがワークステーション市場舞台80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PCUnix であるマイクロソフトXENIX も当然参戦した。ミニコン世界牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争あくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&TBSDUnixSun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。

こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unixのもの文化にも変化をもたらした。まず激しい競争Unix の高機能化を加速した。商品として判りやす惹句が「あれもできます,これもできますなのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者自由制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix現在UnixOS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unixシステム管理入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空ソフトウェアハウス(開発会社)を舞台新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。

UNIX 哲学背骨

当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイ論文結論部分に書かれたそれは,1973年出版されたイギリス経済学者エルンストシューマッハー著作題名で,中学生英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。

Small is beautiful.

マキルロイは『人月神話』を引いて一定留保をつけてはいものの,これが UNIX 哲学背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•csアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?

ひるがえって現在UnixOS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX仮想敵とした OSのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。

2022-05-15

ゆっくり茶番劇商標登録に関する考察

ゆっくり茶番劇』が、上海アリス幻樂団でもアンノウンXでもない第三者によって、商標登録がされてしまhttps://togetter.com/li/1887094

本件、企業知財部員増田考察してみた。4年ぐらい前には商標実務も担当していたけど法令上の有資格者じゃないので

現実に遭遇した具体的な事件・事案に関してはちゃん弁護士弁理士相談してね。

栗原先生あたりが何か書かないかな:同業の方からツッコミはむしろ大歓迎)

 

ゆっくり茶番劇」という商標権の範囲名称

商標権は、同一の表記だけではなく類似範囲にも効力が及ぶ。

どこまで類似判断されるかはケースバイケースだが、例えば「ゆっく~り茶番劇」のようにちょっとズラしただけで

実質的に「見た目・読み方・意味」が同じになるものについては類似判断されうる。

 

一方で、商標法上は「単に商品の産地、販売地、品質等又は役務提供場所、質等のみを表示する商標」は登録対象となっていない。

商標法第3条第1項第3号)

ゆっくり」という単語自体一般的ものであり、動画性質を示す単語とも捉えられるので、

今回の出願ではやはり「ゆっくり茶番劇」という合成語になっている事で商標登録が認められたと増田は考える。

それであれば、「ゆっくり実況」「ゆっくり解説」などの他の言葉との結合語は、今回の商標登録排除できる権利範囲には含まれないと思われる。

 

ゆっくり茶番劇」という商標権の対象となるサービス

今回の商標出願がカバーする役務サービス範囲は、下記の通り。

商標登録された名称は何でもかんでも権利主張できる訳じゃなく、今回は下記の一覧に該当するサービス名称として

ゆっくり茶番劇」という商標使用すると、「この商標使用した」と法的にみなされることになる。

電子出版物提供図書及び記録の供覧,図書の貸与,移動図書館における図書の供覧及び貸与,オンラインによる電子出版物提供ダウンロードできないものに限る。),図書の貸出し,書籍制作オンライン提供される電子書籍及び電子定期刊行物制作コンピュータを利用して行う書籍制作映画演芸演劇又は音楽演奏興行企画又は運営インターネットを利用して行う映像提供映画の上映・制作又は配給,オンラインによる映像提供ダウンロードできないものに限る。),ビデオオンデマンドによるダウンロード不可能映画の配給,インターネットを利用して行う音楽提供演芸の上演,演劇演出又は上演,音楽演奏放送番組制作教育文化・娯楽・スポーツビデオ制作映画放送番組広告のものを除く。),興行企画運営又は開催(映画演芸演劇音楽演奏興行及びスポーツ競馬競輪競艇小型自動車競走の興行に関するものを除く。),娯楽施設提供映画演芸演劇音楽又は教育研修のための施設提供

しかし、上記にあるような「インターネットを利用して行う映像提供」は、例えばプラットフォーム名称個別提供されるサービス名称等を想定していると思われ、

そもそも投稿された動画タイトルのものが「サービス」の名称とみなされるかどうかは争いがありそう。

個人的にはサービスというよりデジタルコンテンツ商品としての性質が強いんじゃないの?と思う。

 そして彼らの言うコンサルティング業務みたいなのは指定されている役務に入っていないと思われる)

 

商標権のつぶし方

商標権の無効審判請求

 その商標登録されるものでなかったことを、商標実務に則って特許庁説明して登録無効判断してもらう手続

 その際の証拠は当たり前ながら審判請求する人が用意する必要があるし、

 証拠の選定、出し方、主張の仕方に独特な実務ノウハウが要る。正直素人では無理。

(また、匿名手続きできず、個人法人実名申し立て必要あり)

②不使用取消審判

 その商標登録後3年以上不使用だった場合、その事実を以て登録の取消を申し立てることが可能

 (この場合商標権者側が使用していた証拠等を提出して対抗する)

 

商標の異議申立期間後に出願の事実を公開したのは不誠実ではないのか?」

 商標が出願されると公開公報が、登録されると登録公報が発行される。

 これらは特許庁無料DBや商用DBに当たらないと調査できないものだが、

 公報として公開されていることで商標登録存在が周知されたものと法的にみなされるので

「その商標が出願/登録されていることは知らなかったので、自分は悪くない。」という言い訳通用しない

(=たとえ一般人であっても調べなかった方に過失があるという理論

 

所感

そもそも二次コンテンツであるもの商標登録するか普通?と個人的には思うが

正当な手続方法で成立した権利ではあることは変わらないので、潰したい方はぜひ専門家と頑張ってほしい。

(そういう意味では、今なんか特許庁裁判所に提出するとかい署名活動やってるけど全然無意味だし本当に迷惑から止めて。)

↑(追記:ごめんね、ここは適切な表現じゃなかったから書き換えさせて。

  あと現段階では無関係第三者意見特許庁登録を再検討することは制度上ないので、電凸公式Twitterへの爆撃もマジでやめてあげて・・・

  特許庁は定められた基準に則って仕事をしただけだし、業務が止まると困る人が山のようにいるんだ・・・

 

ただ、少なくとも一部の人が過剰にイメージしているようにゆっくりコンテンツ全体に影響が及ぶ訳ではないし、

動画タイトルに「ゆっくり茶番劇」とつけることまで権利が及ぶかも争いの余地があるんじゃないかと考える。

知的財産権の話は難しい話が多く、出てくる度に吹き上がるが、少しでも正確な理解をして欲しいと思いまとめた。

 

追記

 リアルタイム検索ウォッチしていたけど、『特許庁に問い合わせろ(特許庁は出願人でも代理人でもない無関係の人の意見なんか聞かない)』とか

 『何か言われても先使用権がある(商標の先使用要件は、ゆっくり茶番劇が「自分商標であることが「周知」されてる必要があるから無理)』とか、

 どこかで聞きかじったんだろうなっていう素人ツイートがすごく拡散されてて頭痛くなってくる・・・

 増田非エンジニア職だけど、これがはてブに居るエンジニアの人たちが普段見てる景色か。

2021-10-21

anond:20211021114329

総選挙における政治活動規制」(公職選挙法第201条の5)違反により警察通報

「通常範囲で配布される定期刊行物を、不特定多数に配るのは明らかな選挙違反」と言えばいいよ

日本共産党選挙違反 撃退マニュアル

遂に、期日前投票所まえで、ポスターを掲げたり、赤旗を配布するという明らかな選挙違反を、組織的に始めやがった。

 

ステップ

怪しい日本共産党員を見かけたら、「選挙運動」か「政治活動」かを確認

 

ステップ

選挙運動」と答えた場合

 

①標旗がなければ【選挙違反

 

ポスターボードなどに証紙が貼ってなければ【選挙違反

 

③配布物が法定ビラ(証紙付き)でなければ【選挙違反

 

定期刊行物赤旗を配っていれば、不特定多数に配布で【選挙違反

 

政治活動」と答えた場合

 

①「総選挙における政治活動規制違反で【選挙違反

 

ステップ

 

写真を撮って、地元警察署通報する

 

ステップ

 

ツイッターで発信する

2020-11-25

そもそもなんでフォロワー大勢いないと本が出せないのか

https://twitter.com/keiichisennsei/status/1331027778230046721

このへんのツイートがやや燃えている。

じわじわ燃え続けてる感がある。

 

https://anond.hatelabo.jp/20200716012131

↑の増田にくっついていた↓のコメント(消えてるのではてブ)が元なんだと思う。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200716203604

 

このへんについて、自分の思ったことを書く。

なお自分出版社で働いている。今の職場で3社目。昔は編集者をしていた。現在のメイン業務知的財産管理から、直接本を作っているわけではないけど……

大手になればなるほど縦割り構造が色濃く残っているんだよね。

 

大手基準は大体、駅内・電車広告を出せるかどうか)の出版社は、ざっくりいえば、戦中戦後出版黎明期から支えてきたタイプ会社(小●館、集●社、講●社等)と、高度経済成長さなか生まれ会社(宝●社、日●BP等)に分けられる。これらの会社はいずれも「ニッポン会社」像を色濃く残したまま現在に至っている。男尊女卑もまあまああるし、給料の差こそ法律でなくなっているだろうけど、女性の昇進はかなり大変そうだ。子供を持たない女性管理者を多く知っている。それ以上に、子供を産んだ後いち編集者まりで生きている女性がたくさんいるのだ。「会社にいられるだけでもありがたい。成果を出さねば」口を揃えて彼女たちは言う。

 

男性社員も同じだ。なかなか上にはいけない。窓際族と呼ばれる人は大抵、厄介払いされた部署に固まっている。そうならないように上のご機嫌を取りながら、どうにか戦力外通告されないように、ガッチリしたエビデンスがある「絶対売れますよ」という企画を出さないといけない。

 

全ての決定権がある管理職の世代は50代以上。役員になると65歳ぐらいまで会社にいるのだ。そいつらが、本を出す・出さない、重版をする・しない、一押し作品として猛プッシュする・しないを決めている。新卒の頃に「津軽海峡景色」や「悲しみにさよなら」がヒットしてたようなオヤジ共がそれを全部決めている。オヤジ共は目先のことしか今は見えていない。かつて抱いていた大志バブルとともに消えたのだから自分のやってきた事業が泡のように消えていく絶望オヤジから肝を引っこ抜いてしまった。

 

そこでSNSだ。オヤジ共にも「フォロワー10万人」は魅力的に見える。オヤジ共は「10万部刷っても売りきれだな!」ぐらいに思っている。バカである。この世の人間全員が本を買いたい・本が好きだと思って疑わない。そこのところがずれている。

しかしそんな中でも10万人のフォロワーの本を出す。「発売即重版!」をつけたいがために5万部。ところが、1万部ぐらいしか売れない。おかしい。企画を出した編集者に「売れないじゃないか!」と叱咤する。若い編集者は売れるように考える。「フォロワー数だけじゃなく、バズったモノなら本が売れる」と企画書に書く。編集者自分キャリアを守りたいのだ。

 

ここでよく聞く「未来の大樹を苗から育てるのが編集者だろがい」派について一つ言っておく。編集者仕事は本当に多岐にわたる。案外外から見えていないだけで、定期刊行物を多数抱えているかである。もちろん、オヤジ共のご機嫌とりの時間も含まれているし、定期刊行物執筆者・著者・イラストレーターフォトグラファーデザイナー等々大勢と関わっているハブ立ち位置編集者である。全員が全員協力的なわけでもないので、撮影は押すし、校了ギリギリになる。どこで育てろと言うのだ。そんな中で!売れるかわかんない人を!!上に推すために!!!使う時間なんてあるか!!!……ということだ。(結局人材不足、ひいては少子化のせいだと思うぞ)

 

 

そういう業務量の暴力を浴びる役職から自分は降りた。編集者をやめて、管理サイドに回った。生きているのが楽になった。

結局、本を売りたいんじゃなくて、自分生存できるために全員必死になっているんだと、俯瞰で見られるようになった。

 

中小出版社はもちろんだが、大手も今はびくびくしながら本を作っていることだろう……。コロナ書店が閉店を余儀なくされて、工場もとまって、大ダメージをくらって潰れている出版社がそこらじゅうにある。書店に左右されないはずの業界専門誌の会社ですら最後の一撃になっている。 

そんな中でも、鬼滅なんかは最終巻がおっかない部数になっているが、そういう「苗から大樹を育て上げられる有能な編集者」が一握りしかいないから、ヒット作がこれだけ少ないのだ。もとい、有能な編集者でも、苗を見誤ることもある。そもそも苗の数も少ないと思う(漫画家志望の持ち込みが減ってると数年前に聞いた、具体的な数は知らない)。

 

 

オチらしいオチはそんなにない。もし今の仕事を追われることになっても、編集者にはもう絶対ならない。恐ろしい。

 
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