はてなキーワード: 供給とは
経済学部生でこれ言ってたら落第だろ
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俺は楽ができる
戦争なんて起きるわけがないとたかをくくってる方々、ここ数年で成立した法案をちゃんと確認してみてね。
・食料供給困難事態対策法(24年6月、国が農家に生産命令を指示可能に)
これから起きること
【はじめに】
日本のサブカルチャー、特に二次元コンテンツにおける「廃(ハイ)」や「萌え」の底流には、特有の湿り気がある。それは、公的な領域から撤退し、極めて私的で、時に猥雑とも言える内面世界への耽溺である。
一般に、これは戦後日本の豊かさが生んだ徒花だと解釈されがちだ。しかし、この「社会からの撤退と内面への沈殿」という構造自体は、決して新しいものではない。
本稿では、明治期の自然主義文学が変異した「私小説」と、現代の「二次元オタク文化」を、同一の精神構造を持つ歴史的な双子として定義する。両者は、近代日本という抑圧的なシステムの中で、個人の主体性を確立できなかった者たちが選び取った、必然的かつ病理的な適応戦略である。
1.明治の「布団」と現代の「モニター」:同型としての引きこもり
日本の近代文学は、「自然主義」の受容から始まった。本来、ゾラなどの西欧自然主義は、社会の暗部を科学的かつ客観的に暴き出すリアリズムの手法であった。
しかし、この「社会を記述するメス」が日本に持ち込まれたとき、奇妙なねじれが発生した。田山花袋の『布団』に象徴されるように、記述の対象が「社会」から「作家の私生活(性欲・嫉妬・無様な内面)」へと急速に矮小化されたのである。
なぜか。明治維新後の強権的な藩閥政治(前稿参照)の下では、知識人がペンによって社会を変革することは不可能だったからだ。
巨大な国家権力という「壁」を前にして、個人のエネルギーは行き場を失い、内側へと逆流した。彼らに残された唯一の自由な領土は、国家が干渉しない「布団の中(性生活・内面)」だけであった。
現代の「廃(オタク)」がモニターの中で美少女キャラクターを消費する構造は、明治の文人が女弟子の布団の匂いを嗅いで文学へと昇華させた構造と、位相幾何学(トポロジー)的に完全に一致している。
それは、「公的領域での敗北」を「私的領域での支配」によって代償しようとする、日本近代特有の精神運動である。
2.ミッシングリンク:生存の「私小説」から、消費の「データベース」へ
しかし、明治の文人と現代のオタクの間には、決定的な環境(エコノミー)の違いがある。私の初期の考察における欠落は、この「経済的下部構造」の変容を軽視していた点にある。
明治の「私」への撤退は、貧困と封建的家制度の中での「苦悶」であった。
対して、現代の「私」への撤退は、高度資本主義下での「消費」である。
①「公」の死(1945年):
敗戦により、天皇という絶対的な「父(公)」が失墜した。これにより、個人の内向化を止める道徳的ストッパーが消滅した。
60年安保・70年闘争の敗北により、若者たちは「政治で社会を変える」というルートが完全に閉ざされたことを悟った(明治期の再演)。
時を同じくして日本は高度経済成長とバブルを迎える。資本主義は、行き場を失った若者たちのリビドーを見逃さなかった。
資本は、かつては恥ずべきものとされた「私的で猥雑な欲望」に「商品価値」を与え、二次元産業としてパッケージ化したのである。
「二次元」という楽園の底にある心理的基盤として、私はかつて「小農経済的な私有性」を仮定した。この視点は、現代風に修正することでより強固になる。
彼らは広大な社会(荒野)に出て他者と連帯することを拒否し、自室という「一畝(ひとせ)の畑」を耕し、そこで自分だけの作物(推し)を愛でる。
この「他者不在の閉鎖性」こそが、日本のムラ社会が近代化の過程で到達した成れの果てである。
高度に発達した資本主義は、この「精神的小農」たちに、安価で高品質な肥料(アニメ・ゲーム・グッズ)を供給し続ける。
このシステムにおいては、もはやリアルの他者と関わるコスト(リスク)を払う必要はない。経済的豊かさが、逆説的に「人間関係の貧困化(私化)」を可能にし、それを永続させるための産業構造を完成させたのだ。
明治の鏡(私小説)には、国家に押しつぶされて布団に逃げ込む「無力な知識人」が映っていた。
平成・令和の鏡(二次元)には、豊かさの中で社会性を喪失し、モニターに逃げ込む「消費する原子(アトム)」が映っている。
この二つは、異なる花に見えて、同じ根から生えている。
その根とは、「個人の自立」を許さず、「公的な変革」も許さない、日本という硬直した社会構造そのものである。
外部世界への作用を諦め、内なる欲望の充足のみに生のリアリティを求める態度。
それは「醜悪」あるいは「猥雑」と指弾されるかもしれないが、この国のシステムが正常に稼働した結果排出された、極めて合理的な「排泄物」なのである。
我々が二次元コンテンツに見る輝きと虚しさは、行き場を失った魂が、資本主義というプリズムを通して屈折した際に放つ、最期の光なのかもしれない。
あのさ本当に言いたいんだけど
俺は保守だけど日本保守党に伸びてほしい 参政党は胡乱すぎるから
見れば見るほど手ごわい組織だと思う
運営を続ける・選挙に勝つということにかけては相当なもんだと思うよ
政策は多分作れない気がするけど
選挙に勝つ力は凄いだろ
対面ディベートだったら迫力と回転速度でお前等が圧倒されると思う
社会で強いのはあいつらなんだからもっと警戒心を持って見下すべきだ
俺は参政党が怖い
中革になってから立民よりはずっと効果的なネット戦略打つようになった
中革:世間のネガティブな声を拾って頭抱えるサムネの動画で答えようとする
まあ立民が無能すぎるともいえるけど
あと老いたりとはいえまだまだ創価学会の組織力が凄いんだと思う
立民の支持層はノイジーマイノリティがイキりすぎて他の人がげんなり静かに…になりがちだけど
顔見知り同士の宗教団体だと無能個人がイキれなくて統制が取れるんではないか
左派政党が糸引いてるあの愚連隊とかどんどん統制効かなくなってるでしょ
左派政党も更にイメージ悪くなるだけでなんにもメリットが出てない
あれで得してるのはジョーカー議員みたいなあいつらとのもみ合いで撮れ高得てる奴だけ
自分達がドーパミン出て気持ちいい、自分達がTシャツ売って儲けたい、自分達がモテたい
こういうだらしないのに比べると宗教的信念で個を捨てられる学会がそら強いわね
自民党の移民政策を止めないと奴隷労働力が欲しい経営層の目先利益以外全員が不幸になるぞ 外国人もな
中革はダメだ
公明党の親中姿勢からも創価学会の人間中心主義からも立民の左派傾斜思想からも
日本がぶっ壊れるような移民政策を止めるインセンティブが無いからね
どっちかが伸びないとヨーロッパの二の舞だよ
移民政策で入ってくるのは異文化ってより非文明的なチンピラだぞ
多文化共生じゃなくてお前等の大嫌いな公立中動物園の100倍ひどいバージョンが
公共心もなんもない自分が良ければそれでいいって言う必死な奴等
チャンスがあればどんなズルでも犯罪でもやって
取り締まられたら少しも後ろめたさを見せずに猛然と食って掛かるやつら
社会のあらゆる性善説設計面を「日本人は間抜け」「俺達のチャンス」と捉える奴等
ほんとにそんなの入れるのが進歩的で明るい未来につながると思ってる?
もうこれ以上外国人を入れるのやめて
今ある在留資格で帰る人は帰ってもらう
それじゃ来てくれないとかいうやついるけど
社会と未来にツケ回してまで無能経営者に外国人奴隷供給する意義あるか?
足りない人数は日本人が工夫してシュリンクする社会でも頑張るしかないだろ
危機の団結力とAIでやっていく方が日本の明るい未来になると思うよ
移民を入れたいのは奴隷抜きに利益出せない今だけ金だけ自分だけのクズ経営者か
ほとんどの外国人に比べりゃ左翼日本人は圧倒的に親しみ持てる同胞だと思ってるよ
Gemini+Copilot+Chatgptで20分でつくってみた。
優しくて穏やかな日本か、こわくて強い日本か、といった分析ではあんまりなので
もっぱらAIに判断材料をもとめている。AIの急速な向上により、3、4年前と異なり、相当程度、事実に基づいた分析をするようになったと感じるが、所詮AIなので自分用メモ。
自民・維新連立: 成長の原動力を主として「企業の投資力」と「産業競争力の強化」に求める。日本経済の停滞要因を「規制の多さ」や「労働市場の硬直性」に見出し、半導体・AI・防衛産業への重点投資や、規制改革による民間活力の引き出しを重視。近年は賃上げ税制など家計への波及も意識しているが、あくまで「企業活動の活性化」が起点。
中道改革連合: 成長そのものは否定しないが、「企業利益が賃金や消費に十分回らなかった」過去の反省を重視。
教育・医療・人的資本など「人への投資」を成長戦略の中核に据え、家計の購買力(需要)と労働生産性を底上げすることで持続的な成長を促す「ボトムアップ型」のアプローチ。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | トリクルダウン(利益の波及)が起きるまでにタイムラグがあり、実感に乏しい。 | 教育や人的投資の効果が経済成長として現れるには10年単位の時間がかかる。 |
| リスク | 補助金競争による財政悪化と、利益が配当や内部留保に滞留し格差が拡大するリスク。 | 財源先行で投資を行う場合、成長の果実を得る前に財政や金利が悪化するリスク。 |
| 実現性 | [高] 経団連等の支持基盤があり、既存の省庁スキームを活用しやすいため実行に移しやすい。 | [中] 予算配分の抜本的組み替えが必要であり、財務省や既得権益層の抵抗が予想される。 |
自民・維新連立: 物価高を「外部要因(円安・資源高)」による一時的危機と捉え、補助金や定額減税などの「激変緩和措置」で対応。財政規律を重視するため、恒久的な減税には慎重姿勢。
中道改革連合: 物価高の痛みを「賃金の伸び悩み」や「社会保険料負担」という構造問題と捉える。消費税の時限的減税、給付付き税額控除、社会保険料の軽減、トリガー条項凍結解除などを通じ、制度改革によって「毎月の手取りを恒久的に増やす」ことを目指す。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 補助金の「出口戦略」が難しく、一度始めると既得権益化してやめられなくなる。 | 消費税減税は、システム改修のコストや「一度下げると二度と上げられない」政治的ハードルが高い。 |
| リスク | 財政支出が膨らむだけで根本解決にならず、円安是正や賃上げが追いつかないリスク。 | 大幅な税収減により、国債格付けの低下や長期金利の上昇(住宅ローン金利増)を招く恐れ。 |
| 実現性 | [高] 予算措置だけで即効性があり、政治決断として行いやすい。 | [低〜中] 財務省の強硬な抵抗に加え、社会保障財源との兼ね合いで調整が難航しやすい。 |
自民・維新連立: 少子高齢化による制度破綻を防ぐため、「持続可能性」と財政規律を最優先。
給付の重点化、医療・介護の自己負担見直し、制度のスリム化によって、現役世代の負担増を抑制しつつ制度を維持する立場。
中道改革連合: 社会保障を「生活の基盤(ベーシック・サービス)」と位置づける。
医療・介護・教育・子育ての自己負担を極力減らすことは、将来不安を解消し、結果として消費や経済活動を支える「投資」であると考え、公助の拡大を重視。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 高齢者層(大票田)の負担増に直結するため、選挙対策上、抜本的なカットが難しい。 | 「負担なし・フリーアクセス」の拡大は、医療需要の増大(コンビニ受診等)を招きかねない。 |
| リスク | 「医療難民・介護難民」の発生や、低年金高齢者の貧困化が進むリスク。 | 必要な財源が確保できず、結局は現役世代への増税や保険料アップに跳ね返るリスク。 |
| 実現性 | [中] 小幅な負担増は可能だが、維新が掲げるような抜本改革(積立方式等)はハードルが高い。 | [低] 巨額の財源が必要。高福祉高負担(北欧型)への国民的合意形成が前提となるため困難。 |
自民・維新連立: 防衛費増額や社会保障費の自然増を見据え、プライマリーバランスを重視。恒久減税には極めて慎重で、必要な税収確保を排除しませんが、時限的な措置は柔軟に行う。
中道改革連合: まず家計負担の軽減を優先し、経済回復による自然増収を狙う。不足財源は「金融所得課税の強化」「大企業の内部留保課税」「特別会計の活用」などで補い、応能負担(力のある所から取る)と再分配を強化。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 国民負担率(税・社会保険料)の上昇に対し、国民の不満が限界に近づいている。 | 富裕層や大企業への課税強化は、キャピタルフライトを招く懸念。 |
| リスク | 負担増が消費を冷え込ませ、デフレ脱却の腰を折るリスク(アベノミクス後の消費増税の二の舞)。 | 内部留保課税は「二重課税」との批判が強く、企業の投資意欲を削ぐリスク。 |
| 実現性 | [高] 財務省の方針と合致しており、政策決定プロセスにおいて摩擦が少ない。 | [中] 「金持ち課税」は世論の支持を得やすいが、株式市場への影響を懸念し骨抜きにされやすい。 |
自民・維新連立: 成長産業への労働移動を促すため、「労働市場の流動性」を重視。特に維新は、解雇規制の緩和(金銭解決制度の導入)を強く主張し、企業の新陳代謝と賃上げの原資確保を目指す。
中道改革連合: 雇用を生活の安定基盤と捉え、非正規雇用の拡大による格差固定化を問題視。最低賃金の引き上げ、非正規の正規化支援、長時間労働是正など、雇用の「量(流動性)」よりも「質と安定」を優先。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 日本の雇用慣行(年功序列・職能給)とのミスマッチ。セーフティネット(再就職支援)が未成熟。 | 急激な最低賃金引き上げは、体力のない中小企業の倒産や、雇用調整(リストラ)を招く。 |
| リスク | 中高年層を中心に失業者が増え、再就職できない層が社会的不安要因となるリスク。 | 労働市場が硬直化し、生産性の低い企業が温存され、経済全体の新陳代謝が遅れるリスク。 |
| 実現性 | [中] 経済界の要望は強いが、労働者保護の観点から法改正には激しい抵抗が予想される。 | [中〜高] 連合などの支持基盤があり、「賃上げ」の社会的要請とも合致するため進めやすい。 |
特に物価高対策や税制においては、「手取りを増やす」という明確なスローガンのもと、与党が得意とする一時的な補助金(ガソリン補助金など)を「その場しのぎ」と批判し、「基礎控除の引き上げ(103万円の壁突破)」や「トリガー条項凍結解除」といった恒久的な制度改正を強く求めている。
この点において、財政規律を重視して増税も辞さない一部の自民・立憲勢力とは一線を画し、「家計減税による経済再生」を最優先する独自のアクセル役を果たす可能性が高い。
支持母体に民間企業の労働組合(自動車・電機・電力など)を持つため、産業競争力強化やエネルギー政策(原発活用など)では自民・維新に近い「供給側重視」の姿勢を見せる。
しかし一方で、労働者の権利保護も絶対的な使命であるため、維新が掲げるような「解雇規制の緩和(金銭解決制度)」には強く反対し、賃上げや人への投資を重視。
つまり、「産業には強く、雇用は守る」というスタンスであり、市場原理主義(維新)と大きな政府志向(立憲)の間を取り持つ現実的な調整点となる可能性が高い。
中道改革連合の一部に見られる「給付拡大(高福祉)」路線とは距離を置き、社会保険料の引き下げや医療制度の改革を通じて「現役世代の負担を減らす」ことに注力している。財政論においても「経済成長による税収増」を前提とした「高圧経済」を志向しており、緊縮財政的な発想には批判的。結果として、国民民主党は、与党案・野党案のどちらに対しても「現役世代のためになるか」という単一の基準で判断を下すため、キャスティングボートを握る「是々非々の実務的調整役」として振る舞うことが予想される。
今回の総選挙では自民党は票を伸ばすものの、中道の目新しさが手伝い、自民が圧倒的多数をとるほど票を伸ばすとは思えず、引き続き、野党との協力が必須となると想像している。その場合、国民民主がどのようにふるまうかによって調整型国会にも停滞型国会にもなりうるので上記のAI評価は参考になった。現状の国民民主の行動を見る限り、足を引っ張る政党
というより高い修正コストを要求する政党として定着してゆくだろうと思われる。
自民が参政と票が割れるなど圧倒的多数をとれないなか、維新は構造改革路線、一方で中道改革連合が伸び、国民民主が一定数存在、というシナリオを考えてみる。完全に停滞国会とは思わないが、決まるまでに時間がかかる国会になるだろうことが容易に想像がつく。
これは国民民主という個別政党の評価にとどまらず、今回の総選挙をどう読むかという構造的な視点と感じた。
第一に、有権者がどの政策軸(減税か再分配か、成長か分配か、防衛か生活か)を選ぶかと同時に、実際の政策の中身を決めるのは、選挙後の国会における調整次第ということなる。どの政策が勝つかという視点で総選挙をみるだけではなく、政策がどう決まる国会になるかを見据えた投票行動が大切だと思った次第。
【合意形成に対する態度】という軸で見ると、今回の高市首相による解散は「政策の是非」を問うというより、合意形成をどう扱う首相なのかを露呈させた行為として読める。高市首相の解散は、少数与党のもとでの調整(野党や党内リベラル派との妥協、段階的実施)を「足かせ」と捉えた結果に見える。
本来、少数与党状況は、政策を現実的な形に練り直す契機にもなり得るが、今回それを選ばず、選挙による一括承認を求めたことは、「合意形成を通じて政策を作る」よりも「高支持率を背景に、選挙で正当性を取って押し切る」スタイルを優先したと解釈できる。これは、解散の自民党内の根回しすらもなされていなかったことからも傍証される。その意味で、現時点の国会運営における限界、少なくとも調整型リーダーとしての適性の限界を示した面は否定しにくい。
そもそも高市内閣への高支持率の背景には「決断型リーダー」への期待や、保守的アジェンダの分かりやすさ、安全保障・国家像を前面に出した政治姿勢への評価が含まれていたはずだ。ただし、その支持は「自民が圧勝する」という前提と相性が良く、逆にいえば、接戦・中途半端な勝利となり、選挙後も調整が必要な議員構成になった場合には、調整能力が問われ、弱点が露呈する、という構図が再び浮上する。
「解散で意思決定基盤を盤石にする」という狙いと裏腹に、「圧倒的多数でなければ能力を発揮しにくい首相」であることを有権者に示してしまった面がある。したがって、今回の解散は、高市首相の政治的賭けであると同時に、【合意形成を通じて統治する指導者か/選挙による動員で突破する指導者か】という資質を選挙そのものの争点にしてしまった、という見方もでき、自民圧勝以外のシナリオでは、首相の統治能力そのものが試される構図となっている。
筋が悪い。
まず、科学教育を受けさせエリートを育てさせるという発想が愚か。サラリーマン根性に囚われて世の中を理解できていない。
教養と収入(ひいては収入に連動する税収や社会保険料)も関係はない。収入は需要と供給のギャップによって左右するものである。
筆者が語る大企業頼みの構造も悪い。大企業の仕入先には中小零細企業があり、人数はそちらのほうが多い。まるで大企業がすべてのような価値観なのは全体が捉えられていない。
AIが発達する中で思考停止して安易にホワイトカラーサラリーマンを目指す思考はいかがなものか。
例えば、死の危険と隣り合わせでリスクも有り、需要に対して供給が追いついていない建設現場の職人や現場作業員たちの給与はもっと高騰していいはずである。ポテンシャルがある。ましては移民より日本人であればより重宝されるであろう。それらが満たされればより税収は増えるのでは?建設業界は規模もでかい。
昔は高給取りだったテレビ局は年収が下がってきている。テレビの需要がないから。
だから要するに、金の損得で考えようとしている割に、金のポイントをおさえていない。
人口が増えると国家は得をする。その国家に対して損をさせているのだから、独身はその負債を分担して負うべき。独身は生産性がない。これは受け入れるべき事実。
これは単なる愚痴ではなく、きちんとした経済学と情報理論の話になる。
期待利益最大化で推薦するとき、典型的な目的関数は「広告単価 × クリック確率 × コンバージョン確率」になる。
ここで厄介なのは、広告単価だけが企業側の意思で即座に引き上げられる変数だという点だ。
品質は短期では上げられないし、ブランド信頼やプロダクト完成度は時間と実力が要る。結果として、短期最適化では単価で殴れるプレイヤーが有利になる。
本当に良い商品は、広告に頼らなくても自然流入やリピート、口コミで売れる。
一方、質で勝負できない企業ほど広告でしか露出できないため、広告単価を釣り上げるインセンティブを持つ。
市場に出てくる広告枠の供給者が、だんだんと質の低い側に偏っていく。
オークション理論的に見ると、これはシグナリングの反転でもある。
本来なら「高いコストを払える=強い企業」というシグナルになりそうだが、広告市場では逆だ。
高い広告費を払ってでも露出したい、という行動自体が自然需要が弱いことのシグナルになりやすい。
スパムメールと同じ構造だ。反応率が極端に低い前提だからこそ、数を打つ。
さらに悪いのは、推薦アルゴリズムが短期KPIで学習すると、ここに正のフィードバックがかかる点だ。
低品質だが広告単価が高い商品が表示される→ 一部が誤クリック・誤購入する→ 「利益は出た」とモデルが学習する→ さらに似た広告が増える
という自己強化ループが回り始める。長期的なユーザー満足や信頼は、目的関数に明示的に入れない限り、静かに破壊される。
期待利益最大化は局所最適では正しいが、品質という潜在変数を無視すると、プラットフォーム全体の劣化を最適化してしまう。
・広告単価をそのまま重みにしない
世界はだいたい、放っておくとグレシャムの法則みたいに「悪貨が良貨を駆逐する」方向へ最適化される。
国語や文系科目が何の役に立つのか、という話は定期的に蒸し返されるけど、短期的な就職スキルだけで見ると、どうしても評価を誤りやすい。
国語って「読む・書く」の授業に見えて、実際には、曖昧な言葉の裏にある意図を推し量ったり、文脈で意味が変わる概念を扱ったり、他人の視点を一度自分の中に仮置きする、かなり高度な思考訓練をしている。
これは法律や契約を読むときや、制度や政策の前提を疑うとき、あるいはAIやアルゴリズムの設計思想を見抜くときに、あとからじわじわ効いてくる能力。
国語教育で当たり前にやっている、解釈のズレを話し合うとか、複数の読みを許すとか、根拠を示して意見を言う訓練は、そのまま民主主義の足腰になる。
意見が違っても即敵味方に分けない耐性や、単純な正解に飛びつかない姿勢は、政治的分極化や陰謀論へのブレーキとして働く。
これは理想論じゃなく、教育や政治の研究でもかなり一貫して指摘されている。
もう一つ大きいと言えるのは、学び直しができる力。
金融教育や労働教育は確かに大事だけど、中身は10年もすれば平気で陳腐化する。
一方で、文章を読み、要約し、批判し、組み替える力は、新しい制度や知識が出てきたときに自分で更新できる能力そのものになる。
国語は、人生全体で見た教育コストを下げる教科でもある、という見方。
STEMや実学重視に振り切った国や地域では、短期的にはテストの点や就業率が上がっても、時間が経つと副作用が出た。
批判的思考が弱まり、政治的な分断が進み、フェイクニュースに弱くなり、労働市場の変化に適応しづらくなる。
「正解を早く出す訓練」ばかりの教育は、環境が変わった瞬間に脆い、というのはOECD調査でも繰り返し出ている話。
経済学や哲学の世界では、教育を「すぐ役に立つ人的資本」ではなく、「生き方の選択肢を広げるケイパビリティ」と捉える考え方が強い。
国語や哲学、歴史は、今すぐ儲かる能力じゃない代わりに、社会そのものが壊れにくくなる力を供給している、という位置づけになる。
文系を削って実学を足すのはリスクが高くて、現実的なのは、国語を土台にして、その上に金融教育や労働教育を乗せる設計だ。
金融を教えるなら文章理解と判断訓練として、労働を教えるなら制度を読む力としてやる。そのほうがずっと合理的だと思う。
そもそも「役に立つ教育を」という声が強まるのは、経済不安が強くて先が見えない時代だ。
そういう時代ほど必要なのは即効性より、長期的に考え続けられる思考力だったりする。
世界の多くの国では消費税(付加価値税)は20%前後だが、デンマークを除く大半の国では軽減税率で半分以下もしくは0%となっている
他がどれだけマズくても食料品を安定供給しています、というアピールが政権の基盤として求められている
高等教育への支援が日本を復興させる、と会田誠がXで書いていた。
日本の戦後の復興は、戦後に「偶然」起きたのではない。むしろ戦争そのものが、復興のための下地を、皮肉なほど周到に準備してしまった。戦争は破壊であると同時に、国家をひとつの巨大な工場に変える。資源配分、計画、規格、物流、品質、そして何より、人間の配置と訓練。これらが「総力戦」という名のもとに、暴力的に、しかし異様な密度で組み上げられていく。技術開発とは、研究室の机上で美しく完結する知の遊戯ではない。目的が与えられ、期限が切られ、失敗のコストが極端に高い環境で、試行錯誤を反復し、設計・製造・検査・運用までを一気通貫で回す能力の総体だ。戦争は、その能力を、恐ろしい速度で社会の中に注入した。
戦時の研究開発は、単なる発明ではなく、システムの構築だった。たとえば「技術者」という語は、ひとりの天才の顔を連想させがちだが、実体は違う。設計者がいて、解析者がいて、材料の供給者がいて、加工の技能者がいて、検査の手順を作る者がいて、現場に落とし込む監督者がいる。部品表があり、図面があり、仕様があり、誤差の許容範囲があり、標準化がある。つまり、工学的知識と組織的運用が結びついて、初めて技術は社会に実装される。戦争は、その結び目を強制的に太くした。しかも、若者を大量に吸い上げ、時間を奪い、睡眠と健康を削り、失敗に対する許容を奪うことで、訓練を「圧縮」した。倫理的には呪うべき圧縮だ。しかし能力形成の観点だけを冷酷に抜き出すなら、戦争は、最悪の形で最高効率の訓練装置になり得た。
そして戦後。御存知の通り日本は完膚なきまでの敗北を喫した。当然だ。しかし瓦礫と飢えと混乱の中に、奇妙な資産が残った。焼けた街ではなく、焼け残った手だ。軍需のために鍛えられた設計思考、現場の段取り、試験と改善の習慣、そして「とにかく動かす」ための執念。戦争目的が剥ぎ取られたあと、その手は、民生に向けて仕事を始める。工場は鍋を作り、ラジオを作り、やがて車を作る。品質管理という名で統計が導入され、カイゼンという名で現場が賢くなる。輸出という名で世界と接続され、稼ぐという名で生活が安定する。高度経済成長は神話ではなく、忌まわしき制度と虐げられた技能の合成体・キメラだ。そして、その合成の触媒として、あるいは淘汰圧として、戦争という毒が、過去に撒かれていた──そう言ってしまうと、気分が悪いほどに筋が通ってしまう。敗北はしたが、敗北するためには戦わなくてはならず、戦うためには戦えなくてはいけない。奇妙なことに戦えてしまったことが呪いであると同時に祝福でもあった。真珠湾攻撃は、無条件降伏を経て、米国中を所狭しと走り回るトヨタに至った。まともな経済感覚をもっている米国人は一時期まで日本車を買うのがあたりまえだった。
だからこそ、戦後日本の次なる課題は、戦争なしに繁栄を継続することだった。ここが本丸だった。戦争が供給するのは「目的」と「緊急性」と「資源の集中」であり、その果実として新しい「産業」が結ぶのだ。平時の社会では、それらが自然に生まれない。目的は分散し、緊急性は個人の都合に解体され、資源は合意形成の手続きに溶けていく。ゆえに、平時の繁栄には、別種のエンジンが要る。暴力や強制ではなく、自発性と創造性によって、産業の餌を自分で狩りに行くエンジンだ。そこで登場したのが、大学院という高等教育の訓練装置だ、という物語をわたしたちは信じた。研究という名の訓練。論文という名の競技。専門性という名の武器。産学連携という名の橋。これらを通じて、戦争の代わりに「知」が繁栄を準備するはずだ、と。
だが、いつの間にか装置は、別の生き物を量産するようになった。保身に東奔西走するばかりの大学教員だ。大学院が、主体性の発火点ではなく、依存の温床になったとしたら、それは制度設計の敗北だ。研究費、評価指標、採用、任期、ポスト、学会、査読、ランキング。こうした外部条件が、大学教員個人の内側に「餌は上から降ってくるものだ」という反射を植え付ける。申請書の書き方は教えるが、産業という新しい鉱脈の掘り方は教えない。論文の体裁は矯正するが、社会の問題を嗅ぎ分ける鼻は鍛えない。安全な問いを選ぶ癖、失敗しない範囲での最適化、既存の潮流に寄り添うことによる生存。そうした行動は合理的だ。合理的であるがゆえに、群れは同じ方向にしか動かなくなる。
そしてSNSだ。SNSは思想の市場であると同時に、承認の自動給餌機になった。群れは、空腹そのものを叫ぶことで、誰かが餌を投げてくれると学習する。「分かってほしい」「評価してほしい」「誰かが何とかしてほしい」「政府は間違ってる」。鳴く。鳴くことが生存戦略になる。しかも鳴き声は可視化され、数値化され、増幅される。いいね、リポスト、フォロワー。これらは、栄養ではなく興奮剤だ。満腹にはならないが、空腹の感覚を麻痺させる。やがて、いつまでも上から餌を与えてくれるのを求めて、ぴいぴい鳴き続けるトッチャンボウヤのような元雛鳥の群れができあがる。外敵に襲われない巣の中で、口だけが上を向き、翼は畳まれたまま、眼球だけが光る。自分の脚で地面を蹴るという最初の行為が、いつまでも始まらない。
自分の地位が脅かされるときは自分が悪いのではなくいつも政府が悪い。省庁が悪い。国民の教育水準が、頭が悪い。外で何が起きているのか少し頭を働かせてみようともしない。誰かが群れから外れたことを言ったときは袋叩きにして火にくべる。その結果、誰もが同じことばかり言い続けている。
だが、はっきり言っておく。お前が新しい産業という餌を捕るんだよ。お前がやることになってたんだよ。餌を「作る」のでもいいし、「掘る」のでもいいし、「盗む」のでもない形で「奪い返す」のでもいい。つまり、価値を生むという行為を、制度の他人に外注するなということだ。もちろん少子高齢社会は強力すぎる逆風ではあるが、それさえも誰かのせいに陰謀論めいて帰着させる前に一度よく考えてみたらどうか。産業は勝手に湧かない。誰かが、失敗の責任を自分で引き受け、見えない需要を言語化し、未熟な技術を鍛え上げ、供給網を組み替え、法や倫理の地雷を避け、顧客の怒りと無関心の中で立ち続けた結果として、ようやく姿を現す。論文の引用数のように、キーボードを叩けば増えるものではない。獲物は森にいる。森に入った者だけが、血の匂いと風向きを知る。
お前たちは選択と集中ではなく研究者の自発的な興味や関心が大事という。
では聞くが、お前たちはお前たちが学生だった頃の自分たちに恥じることはないだろうか。
お前たちは、お前たちが知りたいと思ったことを、お前たちが知りたいと思ったかたちで、明らかにしつつあるのか。
わたしは大学の門をくぐったとき、自分が畳の上で安らかに死ねるとは思わなかった。畳の上で死ぬというのは、単に死に場所の話ではない。生が、社会と和解しているという感覚だ。努力が見返りに接続し、未来が計算可能で、家族が暮らし、老いが制度に回収されるという約束だ。だが、あのときのわたしには、その約束が見えなかった。見えなかったというより、最初から信じる気がなかった。自分は、本と論文と電線の塵芥の中で、目を開けたまま息絶えるのだと思った。研究室の片隅で、半田の匂いと紙の埃にまみれて、未完成の仮説を握ったまま、呼吸だけが止まるのだと。
なぜそんな死に方を想像したのか。たぶん、それは恐怖ではなく、ある種の誓いだったのだろう。畳の上の安寧を最初から目標にしない者だけが、森に入れると。森に入るとは、制度の外側に一歩出ることだ。誰も餌をくれない場所に行き、自分の手で何かを捕まえることだ。捕まえられなければ飢える。飢える可能性を引き受ける者だけが、捕まえる可能性を持つ。そういう単純な力学を、大学に入った頃のわたしは、たぶん予感していた。戦争をする国家という本質的な暴力装置に大学そのものを重ねて見ていた。
戦後の復興が戦争によって準備されたのだとしたら、戦後の次の繁栄は、戦争ではなく、わたしたち一人ひとりの「狩り」によって準備されなければならない。制度は餌箱ではなく、森へ向かうための靴であるべきだ。大学院は巣ではなく、飛び立つための筋肉を作る場所であるべきだ。SNSは鳴き声の競技場ではなく、狩りの情報を交換する地図であるべきだ。そうなっていないなら、装置を叩き壊すか、装置の使い方を変えるしかない。鳴くのをやめて、翼を伸ばして、地面を蹴るしかない。
最後に、あの想像に戻る。目を開けたまま息絶える、というのは、救いのない悲観ではない。目を閉じる暇も惜しんで見ていたかった、ということだ。世界の配線の仕方、言葉の連結の仕方、仮説の跳ね方、そして価値が生まれる瞬間の、あの微かな火花を。もし本当にそういう最期が来るなら、せめて塵芥の中に、誰かの餌になる小さな骨を残して死にたい。鳴き声ではなく、獲物の痕跡を。上から落ちてくる餌ではなく、自分で森から引きずってきた何かを。畳の上で死ねなくてもいい。だが、巣の中で口を開けたまま死ぬのだけは、御免だと。
お上を叩くのは簡単だ。叩いても腹は減らないからだ。制度を呪うのは気持ちがいい。呪っても給餌は止まらないからだ。君たちの批判は刃物ではない。換気扇だ。臭いを抜いて、建物を延命する装置だ。君たちは自由の名で柵を磨き、純粋の名で鎖を正当化し、公共性の名で自分の安寧を公共財にすり替える。いつまで巣の縁で鳴くのか。餌は捕れ。捕れないなら黙れ。黙れないなら巣を出ろ。——平和の繁栄は、配給では続かない。
公共財供給によって、あまりにも多くの恩恵を国から受けているからじゃないの。
法律の整備とかだって公共財。治安や財産権の保護なんかも当然公共財。普通に生きているだけであまりに多くの、国からの恩恵を享受することになる。
https://anond.hatelabo.jp/20260122113135
元増田は資産形成で数字が積み上がることに自己実現を感じているようだし、それはそれでいいと思うんだよ。
だから、元増田に対して「そんな人生楽しいの?」とか「お金貯めても使わなかったら意味なくない?」という指摘は的外れだ。
貯めるのが楽しい奴だっているんだよ!人の趣味をバカにするのは良くないぞ。
そして、自分の選択肢に対して自信がなさ過ぎて、何とか自分を肯定しようと必死なあまり、トンチンカンすぎる話をしてしまっている。
まず、元増田の話で、明確に変な部分を指摘しよう。
なんなら、田舎によっては「結婚して実家に住め」まである。サザエさんとか思い出せ。
…まあ、うちだな。
増田のように「旅行に行くと疲れる」「そんなことよりお家大好き」人間は一定数存在する。
…まあ、俺なんだが。
完全に増田の言うとおりで、
現代の衣服はとてもよくできていて、滅多なことでは着れなくなるようなことはないからだ
服を頻繁に替えたいのは趣味だ。そういう人間に任せておけばよろしい。
これは、そう。
子育てには金がかかる。ただ、DINKsという選択もあるのは頭に入れておくべきだ。
(浮いた金は全部妻の趣味の旅行に突っ込んだ。なので新婚旅行に2回行ってる。)
そんなわけで、元増田の出した5つは、独身のメリットとしては全く芯を食ってないんだよ。
あと、よく見過ごされがちなんだが、
食費が分かりやすいが、大量に買って消費すると、安く上がる。
うん、のろけだ!悪いな!
ただ、多くの動物が群れを形成するのは、群れることには様々なメリットがあるからだ。
有る。
何かをやるときに誰かと意見を擦り合わせる必要がない。ノータイムで実行に移せる。
…ていうか推測だけど、元増田が結婚に消極的なのは、むしろここがメインなんじゃないのか?
誰かとコミュニケーションするのが苦手。誰かに合わせたくない。誰かの都合で振り回されたくない。不確定要素は減らしたい。
人といるより一人の方が心安らぐ。
そういう人間は一定数いる。そしてそういう人間は独身適性がある。
さてじゃあ、どういう人間が結婚すべきで、どういう人間が独身でいるべきかだ。
単純にコスパでは無いのはここまでで分かったと思う。そこじゃない。
結婚するとあらゆる意思決定場面で、夫婦の合意形成が求められる。
好みが同じだと、結婚の最大の特権であるスケールメリットが発生しやすい。
ただし似たタイプ同士は、弱点も被ることが多い。ポケモンよろしく「こうかはばつぐん」で4倍ダメージ食らいやすいから、対策は怠るな。
前述の通り、子育てには金がかかる。
一人暮らしによる家賃なんて、子育て資金の前には誤差と言えるレベルだ。
金銭的なコントロールは子供の数で行う。独身が向いていないが金銭面のメリットを最大化したいならDINKsだ。
完全に独身に向いている人というのは実はそこまで多くは存在しない。
趣味があって、独身が楽しくても、40年も生きると多くの人間は同じ日々の繰り返しに「飽きる」。
だが、独身であっても人生に飽きない人間もいる。自分で趣味を開拓していけるのがそのタイプだ。
このタイプは独身であっても問題ない。むしろ、人に合わせる時間が惜しい。
この手の人間は、自分の好みのコンテンツの供給が止まると、詰む。
いやいや、供給が止まるなんてない…と思うか?そうじゃない。
多くのアニメ・ゲーム・動画は若者をターゲットにしている。年齢が上がると、自動的に自分がターゲットから外れていってしまう危険性があるんだ。
そして、飽きたときにも、詰む。どんなに好みに偏りが大きい人間も、さすがに数十年同じ事を繰り返すと脳は飽きる。
(ごくまれに全く飽きずに一生を終える人間がいるが、そういう人間は放っておくと好きが高じすぎて、だいたい研究者やクリエイターなどコンテンツ創出側にジョブチェンジしてしまう。)
趣味の乗り換え先を常に複数持ち、アンテナを高く張り、新しい分野の開拓を怠るべきではない。人間の脳の特性上、飽きるときは飽きるのだ。
人がそこまで嫌いじゃないなら、新しいコンテンツの一つに結婚や子育てがあっても良い。自分はその口だ。
結婚したけど合わなかった…というリスクはあるが、合えば「人」はコンテンツとして楽しいし、飽きにくいぞ。
いやいやそれは本当に無理!苦手!というタイプは、必ず、全くの別ジャンルに緊急用の乗り換え先候補を探せ。リスク分散だ。
俺の友達にも、「完全に独身が向いてるな」というタイプも、「人づきあいが得意ではないけど結婚した方がいいな」というタイプもいる。DINKsを選択した友人もいる。
反証主義(ポパー型)で「MMTが自分で自分を検証可能にする」ために必要なのは、要するに “ルール固定(calvinball回避)”+“他理論と区別できる事前予測”+“反証条件の明文化” です。
クルーグマンが「MMTersと議論するのはカルビンボールみたいだ」と書いた、という批判はまさに「反証可能性を逃げる構造があるのでは?」という疑念で、引用される形で流通しています。
(MMT側は“学者のMMTとネット言説を混同するな”と反論しがちで、ここが定義の揺れ=calvinball問題の温床になりやすいです。)
以下、「反証主義の手法でMMTが己の証明(≒検証)をするには?」への、実務的な設計図です。
反証主義で大事なのは「どこを撃てば理論が死ぬか」を明確にすることなので、MMTは最低限:
を分離して、文書化した “MMTプロトコル” を公開するのが第一歩です。
例:MMT文献では「税が貨幣需要を支える」「赤字は民間の純金融資産になる」「国債発行は準備(当座預金)と金利管理の技術問題」などがコアとして語られます。
あなたが挙げた条件(MMTだと起こり、他では起こらない/その逆)に落とすなら、MMTに固有色が出やすい争点を選ぶのがコツです。
モズラー系MMTには「自然利子率はゼロ」や、金利引き上げが利子所得を増やし得て、結果としてインフレ圧になり得る、という発想が色濃くあります。
事前に「政策金利サプライズの引上げは、一定期間内にインフレ率を(平均して)下げない/むしろ上げる」と符号を宣言。
高頻度識別(FOMC/日銀イベント等)+ローカルプロジェクションで検証。
結果が一貫して「引上げ→インフレ低下」なら、少なくともこの命題は棄却。
MMT側には「国債は準備吸収のオペで、財源ではない」的な整理があります。
これを“国債を減らした/止めたとき、何が起きるか”に落とす。
予測:国債供給を大きく減らしても、(IOR=準備付利などで)短期金利を管理できれば、マクロの主要変数への悪影響は限定的。
対立仮説(主流派寄り):安全資産不足・担保制約・金融仲介の歪みで、クレジットスプレッドや金融不安が顕在化し得る。
検証:国債供給ショック(QEや発行構成の大変更)を使い、スプレッド・レポ市場・信用量・実体への波及を事前に“どっち向き”か宣言して当てる。
MMTの有名な主張に「Taxes drive money(税が貨幣需要を支える)」があります。
新しい税(または納税手段の規則変更)が導入され、「その通貨でしか納税できない」制約が強まった地域・時期で、通貨受容や保有が(他条件一定で)増える、という予測を置く。
検証:差の差(DID)や合成コントロールで、通貨受容指標(預金、決済、為替プレミアム等)を追う。
結果が一貫して「税制変更が通貨需要に有意な影響を持たない」なら、この強い形の命題は修正が必要。
MMTはJGを「失業(バッファ在庫)ではなく雇用(バッファ在庫)で物価安定と完全雇用を両立」と位置づけがち。
地域パイロットで、JG導入地域と非導入地域を比較。賃金分布・離職・物価・民間賃金への波及を事前に予測。
予測に反して、JGが賃金・物価を不安定化させる/民間雇用を恒常的に圧迫する等が再現的に出れば、JGを“安定装置”とする主張は反証され得る。
calvinball批判を真正面から潰すには、これがいちばん効きます。
を「事前登録」して公開する。
これができれば、少なくとも「検証不能状態を意図的に作っている」という疑いは大幅に減ります。
理論争いが泥沼化しやすいときは*政策イベントに対する事前予測(forecast)を提出して、
で どっちが当たるかを数年単位で競うのが、実は一番フェアです。
MMT側も教科書的整理は進めていますが(例:Springerの体系的テキスト)、
「事前予測で勝ちに行く」動きは、外からは見えにくいのが現状だと思います。
反証主義でMMTが「検証に耐える理論」になる道筋はシンプルで、
この4点をセットでやることです。
Bさんは 「MMTは金利上げ下げ自体を問題視していて、ゼロ金利で固定する事を主張している なので国債は必要ではない」 と反論しています
この意見を論評すると?
Bさんの反論は、MMT(特にモズラー系)に「政策金利をゼロに固定し、国債発行を最小化/廃止して、銀行準備(当座預金)を増やす」というアイデアがある点では“それっぽい”のですが、「だから国債は必要ない」まで一般化するのは飛躍です。論点を分けるとこうなります。
MMTの一部論者は、金利操作を景気調整の主役に置くことに懐疑的で、
なので、Bさんの「MMTはゼロ金利固定を主張」は、少なくとも一派については妥当です。
ここがポイントで、ゼロ金利固定は「中央銀行の短期金利ターゲット」の話です。
一方、国債には金利ターゲット以外に、現代金融で次の役割があります。
ゼロ金利に固定しても、こういう役割が消えるわけじゃないので、
「金利いじらないから国債いらない」は “non sequitur(論理的につながらない発言や結論、あるいは会話の流れと無関係なコメントを指し、ラテン語で「(それは)続かない」という意味で、論理の飛躍や唐突な話題転換(コメディで使われることも)を表す言葉)” になりがちです。
政府支出 → 銀行預金が増える → 銀行の準備(当座預金)も増える
(利子のつかない or 中銀付利次第の)準備
になりやすい。
年金・保険が欲しい「長期で安全な利回り資産」は何で満たすの?
みたいな“国債が担ってるインフラ”を、別の仕組みで用意し直す必要が出ます。
つまり「国債不要」は理屈というより制度設計の提案で、タダではないです。
インフレが強い局面で、金利を上げずに財政だけで抑えるのは政治的に難しい(増税・給付削減が必要になりがち)
通貨安・資本フロー・金融機関の収益構造など、別の歪みが出る可能性
“ゼロ固定”を信認させるほど、別の価格(為替やリスクプレミアム)に調整が出ることがある
なので「金利上下が問題だからゼロ固定」→「よって国債不要」は、政策としてもだいぶ単純化しすぎです。
Bさんの反論は、
✅ MMTの一派(特にモズラー系)に“ゼロ金利固定+国債最小化”の主張がある点は当たっている
❌ しかし それを根拠に「国債は必要ではない」と一般化するのは飛躍
❌ 国債には「金利ターゲット以外の金融インフラ機能」があり、廃止するなら代替制度が必須
電子機器関係、まともに使える製品が国内から出てないジャンル、どんどん増えてる
政府がサプライチェーンを設計しようとする瞬間、経済学的にはほぼ確実に自己放尿が始まっている。
なぜなら、サプライチェーンとは図面に描ける静的構造物ではなく、価格という情報信号を媒介に、無数の主体が分散的に調整し続ける動的過程だからだ。
これを中央から最適化できると思い上がる時点で、フリードマンが一貫して批判してきた知識の問題とインセンティブの問題を同時に無視している。
無知のまま権限だけを持つ者が、善意を言い訳に市場へ介入する行為ほど、体系的に失敗する自己放尿はない。
市場を重視せよ、というのは倫理的スローガンではない。計算可能性の問題だ。
サプライチェーンにおいて重要なのは、どこで何が不足しているか、どの工程がボトルネックか、代替はどの程度効くのか、そしてそれを解消するコストはいくらか、という情報である。
これらは事前に集約できない。価格変動、利潤機会、損失という形で初めて可視化され、事後的に修正される。
政府が「重要物資」「戦略分野」などとラベルを貼った瞬間、その分野では価格シグナルが歪められ、企業は需要ではなく補助金申請書を最適化し始める。
結果として起きるのは供給の安定化ではなく、補助金と規制のダブル放尿である。
フリードマン理論の核心は単純だ。市場は万能ではないが、政府は無能である確率が高い。
より正確に言えば、政府は失敗した際のフィードバックが弱すぎる。
企業が誤ったサプライチェーン設計をすれば倒産するが、官庁が誤った設計をすれば予算が増える。ここに非対称なインセンティブがある。
政治的に都合の良い国内回帰、過剰な内製化、象徴的な工場誘致は、短期的には「やっている感」を生むが、長期的にはコスト構造を悪化させ、価格競争力を削ぎ、結局は消費者にツケを回す。
さらに悪いのは、政府主導のサプライチェーン設計がリスク分散を名目に、実際にはリスク集中を生む点である。
本来、市場では異なる企業が異なる判断基準で調達先を分散させる。
しかし政府が「この国は安全」「この技術は国策」と決め打ちすると、意思決定が一極集中し、外れたときの損失は社会全体に拡散される。
これは保険ではなく、強制的な賭博であり、失敗すれば税金で穴埋めされる。
ここまで来ると、計画と責任の分離という、経済学者が最も嫌う構図が完成する。
市場を重視せよという主張は、放任を意味しない。フリードマンが認めていたのは、明確に定義されたルールの下での競争だ。
サプライチェーンの「形」を決めることではない。政府がやるべきなのは、どの部品をどこから買えという命令ではなく、どこから買ってもよい環境を維持することだ。
それ以上踏み込めば、価格という情報媒体を潰し、分散知を破壊し、結果として自己放尿を社会化する。
サプライチェーン設計を政府がやりたがるのは、不確実性に耐えられないからだ。
だが不確実性を消す方法は存在しない。あるのは、誰がそれを引き受け、誰がコストを払うかという選択だけだ。
政府が設計すれば、失敗は不可視化され、成功は政治家の手柄になる。
経済学者が納得する結論は一つしかない。政府はルールを整えろ。価格に語らせろ。サプライチェーンに口を出して自己放尿するな。