はてなキーワード: サブジとは
チック・リット(英語: chick lit)は大衆小説のジャンルで、「個々の主人公の試練と苦難に焦点を当てた、ヒロイン中心の物語で構成されている」もののことを指す[1]。このジャンルは多くの場合、現代における「女性らしさ」の問題(恋愛関係や女性の友情、職場での問題など)をユーモラスで軽快な方法で取り扱っている[2]。
このジャンルが始まった当初、チック・リットの主人公は「独身、白人、異性愛者、イギリス人かアメリカ人の女性、20代後半から30代前半、大都市圏在住」である傾向が高かった[1]。このジャンルは1990年代後半に人気が出てきて、チック・リットの小説がベストセラーとなったり、チック・リットに特化した出版社ができたりした[3]。チック・リットの批評家の間では、チック・リットのジャンルの始まりはイギリスの作家キャサリン・アリオットのThe Old Girl Network(1994年)であり、チック・リットの「原典」として広く知られているヘレン・フィールディングの『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996年)は、これにインスピレーションを受けたものであるということで合意している[4]。
"chick"は英語で「雛鳥」を意味し、転じてアメリカのスラングで「若い女性」を意味する。"lit"は"literature"(文学)の短縮形である。チック・リットの研究者は、この用語の初出は、1995年のクリス・マッツァ(英語版)とジェフリー・デシェルが編集したアンソロジーChick Lit: Postfeminist Fictionであるとしている。これは、マッツァとデシェルの「ポスト・フェミニストの作品を」という呼びかけに応えた22の短編小説を収録したものである[5]。1990年代半ばには、女性作家が女性読者のために書いたフィクションを指す言葉として、様々なメディアでこの言葉が使われるようになった。
この用語を、この用語が生まれる以前の同様の女性向け作品についても適用して、"chick lit in corsets"(コルセットを着たチック・リット)と呼ぶことがある[6]。また、このジャンルの要素と青春物語を組み合わせた、若い読者向けのチック・リットのことを"chick lit jr."(チック・リット・ジュニア)という[6]。
論争
チック・リットは、読者の間では非常に人気となったが、批評家の大半はこのジャンルを支持しなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評において、アレックス・クジンスキー(英語版)はフィールディングの小説を特に非難し、「ブリジットは男に狂わされた無力感に浸っている哀れな姿であり、彼女の愚かさは言い逃れできない」と書いた[7]。作家のドリス・レッシングはこのジャンルを「すぐに忘れられてしまう」とし、ベリル・ベインブリッジ(英語版)は「泡のようなもの」(a froth sort of thing)と呼んだ[8]。編集者エリザベス・メリック(英語版)は、2005年にアンソロジーThis Is Not Chick Lit(これはチック・リットではない)を出版した[9]。メリックはこの本の紹介文の中で「チック・リットのお決まりのパターンは我々の感覚を麻痺させる」と主張した[9]。編集者ローレン・バラッツ=ログステッドは、メリックの本に対抗して2006年にThis Is Chick Lit(これがチック・リットだ)[10]を出版し、このプロジェクトは「怒りから生まれたものである」と述べた[10]。
このジャンルの作家たちは、その弁護に乗り出した。チック・リット作家のジェニー・コルガン(英語版)は、すぐさまレッシングとベインブリッジに反撃した[11]。『グッド・イン・ベッド(英語版)』(2001年)や『イン・ハー・シューズ(英語版)』(2002年)など数多くのチック・リット小説を著したジェニファー・ウェイナー(英語版)は、常にチック・リットを擁護した[12]。『スレート』誌2013年5月22日号では、『ウーマン・アップステアーズ(英語版)』(2013年)の著者である小説家クレア・メスード(英語版)が、女性の小説と主人公の好感度について語ったコメントに対する、ウェイナーの記事を掲載した[13]。ウェイナーはその記事の中で、商業小説、特に女性の商業小説に存在する偏見に疑問を投げかけた。ウェイナーは、『ニューヨーク・タイムズ』紙に"The Snobs and Me"を執筆するなど、チック・リットに対する人々の認識に挑戦し続けている[14]。この記事では、自分の作品を軽視する文化的風土の中で、自分の作品を信じようとする彼女の個人的な葛藤が綴られている[15]。
ダイアン・シップリー[16]などの他の作家もこのジャンルを擁護している。特に、フェミニストのグロリア・スタイネムがウェイナーの意見に共鳴し、女性の文学に対する偏見に注目しながら、自分たちがこの言葉を使っていること、そしてこの言葉が女性や女性の小説について何を語っているのかを問うよう人々に求めた[17]。
その後の状況
出版社がこのジャンルをプッシュし続けているのは、売上が高い状態が続いているからである。作品の市場性を高めようとして、この用語の様々な派生語が造語されてきた。
『リファインリー29(英語版)』のライター、ローレン・ルヴァイン(Lauren Le Vine)は、2016年3月に"The Chick-Lit Books That Won't Destroy The Feminist Inside You"(あなたの中のフェミニストを破壊しないチック・リット本)と題して、女性が女性のために書いた8冊の本を紹介した[18]。ルヴァインは、女性を題材にした小説の文学的伝統には、時に、買い物に夢中になって夫とはぐれた女性が夫を探すという物語が含まれており、このような本はフェミニストの価値観と矛盾しているということを認識している。しかし、ルヴァインはヘレン・フィールディングの1996年の小説『ブリジット・ジョーンズの日記』を紹介する際に、「一人の女性が個人的な満足感(それは彼女にとって愛、キャリアの成功、身体の受容を意味する)を見つけようとすることにのみ焦点を当てた本であり、それはフェミニズム(どの波に乗っても)とは何かということである」と書いている[18]。
『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌の編集者であるサラ・ネルソン(英語版)は、2008年に、チック・リットというジャンルの中で考えられるものの定義が、より完成度が高く、「成長した」ものになってきていると示唆している[19]。
2000年、『シドニー・モーニング・ヘラルド』は、女性読者を対象とした小説の新しいトレンドについて、次のように述べた。「ポスト・トーリー、ポスト・グランジの軽やかさの精神が、雑誌を読む女性やテレビを見る女性たちの間に広まっていった。この小説は、『チック小説』(chick fiction)または"chicfic"いう『出版現象』の誕生であり、主題、パッケージ、マーケティングによってすべてが統一されている。キャンディ・ブライトで、ピンクと蛍光色の重い表紙、『キャンディ・ブライト』なタイトルにより、簡単に消化しやすく、良い笑いを提供することをほのめかしている。そのような本は、雑誌の記事、小説や小説化されたもの、テレビと、自宅で一晩で消化できる快適な食べ物のハイブリッドとして市場に位置づけられている[20]。」
チック・リットは一般的に女性が主人公であり、プロットの中でその女性らしさが重要なテーマとなっている。ほとんどの場合で現代世界を舞台としているが、歴史上の時代を舞台とした作品もある。扱われている問題は、しばしば消費主義よりも深刻なものである。例えば、マリアン・キーズ(英語版)の『子持ちクレアの逆転勝利』(Watermelon)は、現代世界で母親であることに悩む主人公を描いている。宗教的なチック・リットの市場も成長している。他のタイプの大衆小説と同様に、著者や出版社は多くのニッチ市場をターゲットにしている[3]。主人公の民族、年齢、社会的地位、配偶者の地位、キャリア、宗教などは様々である。goodreadsでは、チック・リットは恋愛小説のサブジャンルとしては扱われていない。それは、チック・リットは、プロットに恋愛の要素が含まれていることもあるが、恋愛関係と同じくらいにヒロインの家族や友人との関係が重要であることが多いからである[21]。チック・リットのやや厳しいジャンルルールにより、チック・リットの作家が異なるジャンルに進出するのは難しくなっているが、チック・リットは歴史小説に結びつくこともできる。
女性作家の中には、自分の作品が「チック・リット」というレッテルを貼られるのを避けるために行動している人もいる。例えば、『ガーディアン』紙の2010年の記事によれば、ユーモア作家のD・J・コンネルは、自身の作品がチック・リットとされるのを避けるために、ペンネームを「ダイアン」から「D・J」というイニシャル表記に変更した[22]。コンネルは、女性名でユーモアを書くことは、自身の作品を危険にさらすことになり、チック・リットのレッテルが貼られた場合、その作品は真剣に受け取られないだろうと言った。別の例では、作家のルース・ギリガン(英語版)は、自身の作品がチック・リットとみなされることで、どのように一般の人々、エージェント、出版社から軽蔑されたかについて書いている[23]。ギリガンは、大学のキャンパスでの性的暴行についての小説で新しいスタイルを試したが、出版社は明るい花のような表紙を提示し、ギリガンはこれを失礼だと感じた。
反AIって、やっぱり異常だよな。
高校入る前にアニメ卒業したんだけど、理由は「面白くなくなったから」なんだよ。流行りの新ジャンルが刺さらなかったのもあるし、シリーズものに飽きたのもある。
そんなアニメを見続けていたら、俺はアンチになってたと思う。「最近のアニメおもんない」って言ってたと思う。
でも、最近になって、またアニメ見るようになった。ラインナップが変わったのもあるけど、俺も変わって、新しく楽しめるものが増えた。過去のアニメを見ることの方が多い。
それと同じだと思う。反AIの状況って。
仕事に直結する方々の気持ちは分かるが、消費者側の反AIはガチで異常。
しゃーないやん。お前が声上げたところで変わるわけでもないんだから。
それで人が減って困ったら、またAI使わない方向で戻ってくるだろ。その時にお前も戻ればいいんだよ。
後、「今まで二次創作許されてきたのに、AIになると批判するのはおかしい」理論。とあるクリエイターが発言してたが、これは本当によく分からんね。
ほならね、人間とAIの作る速度を比較しろって話。AIタグなかったら出てくるものぜーんぶAI製で、個性出そうと頑張ってるものはいいけど、そのほとんどがなんの工夫もされてないマスピ顔or絵柄パクりなんだけど、それが健全な状態だとも?
そのAIタグ付けるルールすら守らんやつもいて、そいつが投稿するだけで、1つのジャンル(サブジャンル)の新着がAIで埋まるんやが…
内容はマーセナリーズシリーズをブラッシュアップしたような感じ。スキルや装備はまんま同じのが出てきてる。
けっこう良かったと思う。
バトル
引き継ぎ
フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に傭兵学校を設立しました、並木書房から日本人の参加ルポが出ていたと思いますがその詳細を教えてください
エコー・イン・ジャパン:フランク・キャンパー、並木書房、そして傭兵の呼び声に応えた日本人
ご質問の内容は、単なる書籍の問い合わせにとどまらず、1980年代の日本における特異な文化的モーメントを映し出す歴史的アーティファクトである。この時代、日本では軍事、特に傭兵や特殊部隊といったロマンチックかつ危険な世界への大衆的関心が急激に高まった 1。この熱狂は、落合信彦氏のような作家が手がけた「スーパードキュメント」と呼ばれるノンフィクションによって大きく煽られた。特に、氏の著作『傭兵部隊』はフランク・キャンパーを大きく取り上げ、後の日本人参加者を含む当時の若者たちに強烈なインスピレーションを与えたのである 1。
本報告書は、ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」と完全に一致する一冊の本は存在しないものの、その記憶がフランク・キャンパー、高橋和弘、毛利元貞といった人物、並木書房による出版物、そしてキャンパーの学校とその「後継」組織という、相互に関連し合う魅力的なネットワークを指し示していることを明らかにする。その全貌は、一個人の参加報告よりもはるかに複雑で、示唆に富むものである。
この現象を解き明かす上で、並木書房の役割は極めて重要である。同社は単に受動的な出版社ではなく、日本の市場に向けて「傭兵」や「サバイバル」といった特定のサブジャンルを積極的に開拓・形成した「キュレーター」であった。まず、1990年に高橋和弘訳によるフランク・キャンパー自身の著書『ザ・マーセナリー』と『ザ・ラープ』を出版し、日本におけるキャンパーのブランドを確立した 9。同年、その翻訳者である高橋自身の体験記『USサバイバル・スクール』を刊行 14。これは、確立されたキャンパーのブランドと翻訳者の信頼性を利用して、新たな日本のオリジナル作品を市場に投入する戦略であった。翌年には、キャンパーが象徴する世界に直接繋がるもう一人の日本人、毛利元貞の『傭兵修行』を出版した 15。この一連の流れは、海外の著名な人物を輸入してブランド化し、次にそのブランドに連なる国内の物語を発掘・出版することで、ニッチな市場全体を掌握するという、並木書房の意図的な戦略を示している。
1.1. 論争の的となった経歴:兵士、情報提供者、そして神話の創造者
フランク・キャンパーの公的なペルソナと、彼が設立した傭兵学校の信頼性の核となっていたのは、その軍歴であった。彼は自身をベトナム戦争に従軍した第4歩兵師団の長距離偵察パトロール(LRRP)隊員であると主張し、そのエリートとしての経歴を喧伝した 17。この物語は、後に日本で『ザ・ラープ 長距離偵察部隊』として翻訳・出版される自著『LRRP: The Professional』によって、さらに補強された 10。
しかし、1985年に公開された公式の軍記録は、彼が歩兵およびトラック運転手として訓練を受けたと記しており、その経歴に疑問を投げかけた 17。この矛盾は、1988年にキャンパー自身が上院小委員会の公聴会で証言したことにより、ある種の解決を見る。彼は、軍事情報部、CIA、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)、FBIとの「高度な機密指定を受けた経歴」を明らかにし、矛盾する記録は情報機関によるカバーストーリーであったと説明した 19。彼によれば、1970年から秘密情報提供者として活動し、アメリカ共産党(CPUSA)やアラバマ黒人解放戦線(Alabama Black Liberation Front)のような組織に潜入していたという 17。この兵士と情報提供者という二重のアイデンティティこそが、彼の行動を理解する上での鍵となる。
1.2. マーセナリー・スクール(1980年-1986年):準軍事的事業の実態
1980年、キャンパーはアラバマ州ドロマイト近郊で「マーセナリー・スクール」を開校した。当初、実地訓練はフロリダで行われていたが、原子力発電所付近での不法侵入容疑による逮捕後、拠点をアラバマ州ジェファーソン郡のウォリアー川沿いにある77エーカーの森林地帯に移した 17。
学校は『ソルジャー・オブ・フォーチュン』のような軍事雑誌で宣伝され、2週間のコース料金は350ドルから500ドルに設定されていた 17。訓練内容は、体力トレーニング、銃器の取り扱い、白兵戦、ナイフ格闘術、サバイバル技術、ランドナビゲーション(地図判読)、E&E(脱出と回避)、爆発物、ブービートラップの設置など、多岐にわたった 1。機密解除されたCIAの文書には、司令部であった「バンカー」の様子や、実弾が飛び交う中で行われた「ライブ・ファイア」演習の生々しい記述が残されている 22。
キャンパーは学校設立の理念として、米国政府のための情報収集と、将来的な協力者となりうる外国人の資質を見極めることの2点を挙げていた 21。これは彼が担っていた情報提供者としての役割と一致する。しかし、批評家たちからは、この学校は単なる「大規模なペイントボール・ゲーム」に過ぎないと揶揄されてもいた 17。
キャンパーの学校は、単に軍事技術を教える場にとどまらず、国際的なテロリズムや犯罪と深く結びついていた。
1984年から85年にかけて、4人のシーク教徒過激派がこの学校で訓練を受けた 17。キャンパーは彼らに武器や爆発物の使用法、暗殺技術を指導した 21。彼は、当時インドのラジブ・ガンジー首相の訪米に合わせた暗殺計画を阻止するため、FBIと協力しておとり捜査を進めていたと主張している 17。しかし、このおとり捜査の網をすり抜けた2人の訓練生が、キャンパーの学校から盗まれたとされる爆発物を使用し、1985年に329名の命を奪ったエア・インディア182便爆破事件を実行した 21。キャンパーは後に、容疑者全員を逮捕できなかったのは、自身が提供した情報が関係機関によって不適切に扱われたためだと非難した 21。
学校の終焉を決定づけたのは、1985年にキャンパーと3人の教官がカリフォルニア州の学校経営者から依頼を受け、元従業員の車に爆弾を仕掛けた事件であった 21。彼らは1986年5月に逮捕され、この逮捕がアラバマ州司法長官に、州の私立学校免許なしで運営されていた同校を閉鎖する法的根拠を与えた 17。キャンパーは有罪判決を受け、14年の懲役刑を宣告されたが、実際には5年半服役し、1991年12月に釈放された 17。
この一連の出来事は、マーセナリー・スクールが単に犯罪者が集う場であったという以上に、より複雑な本質を持っていたことを示唆している。キャンパーが公言していたように、この学校は米国政府のための情報収集を目的とした「ハニーポット(蜜の壺)」として構想され、運営されていた。その設計思想自体が、過激派や犯罪者を引き寄せるものであった。彼は実際に、ナイジェリアへの武器密輸計画やKKK関連のクーデター計画など、訓練生の違法行為を当局に通報し、逮捕に貢献している 17。シーク教徒の事件に関するFBIの宣誓供述書にも、アラバマ州の「信頼できる情報源」からの通報があったことが記されている 22。
しかし、このモデルは致命的な欠陥を抱えていた。エア・インディア機爆破事件は、この「ハニーポット」戦略が破綻した最悪の事例である。キャンパーが教えた技術は、彼が仕掛けたおとり捜査の網をすり抜けたテロリストによって、悲劇的な形で実行されてしまった。したがって、この学校の遺産は単なる犯罪の歴史ではなく、国家による情報収集活動が民間委託され、危険な個人を「育てる」ことと「罠にかける」ことの境界線が曖昧になった結果、大惨事を引き起こした高リスクな秘密工作の失敗例として記憶されるべきである。学校の存在そのものが、ある種の秘密工作の一環であり、その破綻は、その機能から直接的にもたらされた必然的な帰結であった。
2.1. 直接的な回答:高橋和弘の『U.S. Survival School』
ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」に最も直接的に該当するのが、高橋和弘氏による著作である。高橋氏はアウトドアやサバイバル技術に造詣の深い日本のライター兼翻訳家であり、並木書房から出版されたキャンパーの著書の日本語訳も担当していた 9。
1990年、並木書房は彼のオリジナル著作『USサバイバル・スクール―極限の野外生存術』を出版した 14。この本こそが、ご質問の核心に触れる一次資料である。本書は、高橋氏自身がアメリカに渡り、8つの異なるサバイバルおよび軍事系スクールに参加した際の体験を綴った一人称のルポルタージュであり、その第3章が「傭兵学校―マーク・スクール(MS)」と題され、ユーザーが記憶する詳細な参加報告が記されている 14。
2.2. 決定的な繋がり:「マーク・スクール」と教官「ピート」
重要なのは、高橋氏が参加した「マーク・スクール(MS)」が、1986年に閉鎖されたキャンパーのアラバマの学校そのものではないという点である。調査によれば、この学校は、フランク・キャンパーの元アシスタント教官であった「ピート」という人物が新たに設立した「後継」の学校であったことが特定されている 2。この事実は、毛利元貞氏のWikipediaページの脚注において、高橋氏自身の著書『USサバイバル・スクール』を典拠として明記されている。「スペシャル・アサルト・スクール」とも呼ばれたこの後継学校は、ミシシッピ州に拠点を置いていた 2。
この事実関係を整理することで、ご質問者の記憶の謎が解ける。記憶は機能的には正しく、しかしキャンパーという著名な名前と、実際に日本人が報告した学校とを混同していたのである。その報告は、キャンパーの弟子が運営し、キャンパーを中心としたカタログを構築していた並木書房から出版された、「キャンパー・スタイル」の傭兵学校に関するものであった。つまり、ご質問者の記憶の核心は正しく、その背景には直接的な血脈が存在していた。1990年当時の読者にとって、キャンパー本人の学校と、その直系の後継者が運営する学校との区別は些細なものであり、体験の「精神」はキャンパーの遺産そのものの延長線上にあったのである。
この物語には、もう一人の重要な日本人が登場する。1964年生まれの毛利元貞氏である 2。彼もまた落合信彦の『傭兵部隊』に触発され、より実践的な経験を求めて自衛隊、そしてフランス外人部隊へと進んだが、いずれも脱走している 2。
彼の探求は、アメリカでピートが運営するミシシッピ州の「スペシャル・アサルト・スクール」へとたどり着く。しかし、彼は参加者としてではなく、その卓越した技能を認められ、同校の「教官」となった 2。1991年、並木書房は彼の体験をまとめた『傭兵修行―世界に冒険を求めて』を出版した 15。この本は、ジャーナリスト的な参加者として訪れた高橋氏の視点とは対照的に、組織のスタッフとして完全に内部に溶け込んだ日本人の視点から描かれた、ユニークで並行する報告となっている。
高橋氏と毛利氏の物語は、このアメリカのサブカルチャーに対する日本人の二つの異なる関与の形を象徴している。高橋氏は、体験し、記録することを目的とした「観察者・記録者」であり、その役割は本質的にジャーナリスティックであった 14。一方、毛利氏は、その世界を報告するだけでなく、自ら生きることを目指した「実践者・求道者」であり、その目標はプロフェッショナルになることであった 2。並木書房がほぼ同時期に両者の著作を出版したことは、同社が、体験談を読んで楽しみたい「 armchair enthusiast(安楽椅子探偵)」層(高橋の読者)と、自らもそうなりたいと夢見る層(毛利の読者)の両方を読者層として認識していたことを示唆している。二人の本は、日本の「傭兵ブーム」が内包するファンタジーの全スペクトラムに応えるものであった。
著者/翻訳者
年
関連性
Merc: The Professional
1990
キャンパー自身の傭兵としてのキャリアを語り、日本での彼のペルソナを確立した 9。
LRRP: The Professional
1990
フェミニズムは、イデオロギーあるいは文学のサブジャンルに過ぎず、さすがに学問とまでは言えないのではないか。
「フェミニズムは一人一派」という言葉は、対話の不可能性を示している。
たとえば「天動説」というものは、批判的に検証されてきた。しかし「一人一派」の言説は、批判的に検証のしようがない。当然のことながら、おおむねの合意事項や、主流派の理論が存在するからこそ、批判や検証がなされ得るからである。
「一人一派」の主張は、突きつめれば相対主義となり、「わたしがこう思うのだから、こうだ」の世界に陥ってしまう。それは学問などではなく、たんなる「対話の拒否」である。なんの合意事項も、体系的に組織化された知識もなく、ただただ自閉していく「一人一派」。エコーチェンバーにフィルターバブルで倍々ゲームのいいね競争。そしてその結果、失われてしまうのは対話の可能性である。
(最近になって、「天動説」を主張するひとたちが現れはじめているらしい。でもそれは、批判的に検証された場合には、たんに「陰謀論」であるとの結論になるだろう。だいいち、天動説が正しいとしたら、ニュートン力学や相対性理論、量子論はどうなってしまうのだろう? たとえば、その手に持っているたくさんの半導体が組み込まれたスマートフォンは、いったいどういう理論のもとに動いていることになる?)
「日本人は特別だ」との主張をもつ人たちと、それに反対する人たちのあいだで、うまく対話が出来なくなっていく状況を見たことがないだろうか。そもそも日本人とはなにか?という点についていまいち定義がまとまっておらず(ようするに「一人一派」的状況が生まれている)、そのせいで議論が空転していくのだ。やがておたがいにイデオロギー的な主張を繰り返すことしかできなくなり、ついにはそれ自体が目的となってしまう。そこになにか結論が生まれることなどありえない。では、フェミニズムが絡んだ議論ではどうか? もはや言うまでもないことだろう。
しかし「一人一派」が昇華されうる場所というのは、じつは存在する。もちろんそこはSNSーーなどではなく、文学というエリアだ。だからフェミニズムは、今後も文学のサブジャンルという形ではおおいに発展しうるだろう。個有の傷を個有の傷として引き受ける覚悟が、そこで引きつづき試されていくことになる。
ただし、宣言だけはしておく。そもそも「一人一派」だと言うのであれば、わたしがみずからをフェミニストだと名乗った上で、「フェミニズムなど学問ではない」と主張しても、だれも批判のしようがない。けっきょく、現状のフェミニズムが産み出しているのは、そういったたんなる「対話の不可能性」だけである。
それではいったい、フェミニズムとは陰謀論となにが違うというのだろうか? ーーいや、なにも違うことなどない。まったくの一緒だ。もちろん、この結論への反論は不可能である。「わたし派」の意見に反駁できるのは、とうぜん「わたし」以外にはあり得ないのだから。
読書が趣味なんだけど、他人にそれを伝えると大抵「どんな作家が好きなんですか?」と返ってくる あんま本読まない人にとって読書のイメージは文芸本を読むことっぽい
でもおれは大体学者や専門家が書いた本を読むことが多い、今読んでんのはアセモグルのこれ↓
こういう、一般人向けに専門家が書いた特定ジャンルについての知見をちょっとエンタメっぽくした本を端的に表現する言葉ってなくない?上記のアセモグルの本はAmazonだと「世界史」のジャンルなのだが、それをもって「世界史の本読んでます!」というのも憚られるし
ちょっと前に売れてたFACTFULLNESSも似たようなジャンルな気がするけど、これもAmazonでは「確率・統計」ってジャンルに入ってて、でもあの本を読む人の意識として「確率・統計について知りたい!」っていうモチベーションではないと思うんだよな、もっとざっくりと「あんまコア過ぎない知識を楽しく得たい」っていう感じで読まれる本というか
「専門書」だとなんか固すぎるよな、それこそ専門家や学生が大学の授業で使うような、予備知識のない一般人では読めない本って感じ 「教養書」もなんか違う、ちょっと観念的すぎというかカーネギーみたいな自己啓発本が想像される感じ
これが例えば岩波新書だったら「新書をよく読みます」といえば結構ニュアンスが伝わる感じがするけど、これはしょせん本のサイズによる分類を表したものでしかないんでね
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なんかブコメとトラバ眺めてみても結構割れてて、イメージは共有できててもスパッと表現できるようなコンセンサス取れてるワードはなさそうに感じる
書店、版元、読者、本読まない人がそれぞれ考える本の分類のちょうど狭間にあるエアポケットって感じがするんだよなあ
でも素朴でライトな知識欲を満たすために本を探したら自然とこういうのに行き着くよね、ていう本は沢山あって、書店でも目立つ場所に平積みされてる印象があるのに端的に表すワードがないのは不便だなと思う
ゴールディンの賃金格差に関する本とノアハラリの人類史に関する本って全然テーマ違うけど多分読者層は被ってるよね
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「一般書」→いくら何でも抽象的すぎ、初対面の人にそういったとしてこの人会話進める気あんのかって思われそう 雑誌読む人がどんなジャンルが好きって聞かれて一般誌とか言わんやろ
「啓蒙書」→人口に膾炙した言葉じゃなさすぎ、初対面の人に「啓蒙書好きです」って言ったら99%「ケーモーショ???なに???」ってなると思う
「学術書」→ニュアンスの一致具合と言葉の使いやすさとしては一番バランス良さそう ただ自分の考える定義だともう少しライトな本も入るのよね 例えば 「なぜ働いてると本が読めなくなるのか」みたいなライトな新書を含むにはちょっと大仰かも
「人文、科学」→これもニュアンス近いな、ただ理系と文系の垣根をちょっと感じる もっと包括的なジャンルとして捉えたい
「哲学」→めっちゃ広義に考えればそうかもしれんが絶対「ニーチェとか?」ってなるやろ
「雑学本」→まあ超ざっくり分けるならそうなのだろうけど、ノーベル賞取るような学者が書いてることを一般に「雑学」といえるか?という疑問はある もっとトリビア的なことを指さない?
「リベラルアーツ」→この言葉自体が一種のサブジャンルなのでは?教養を目的とした知識が書かれた本というか もっと上のレイヤーを想定してる
「新書」→やっぱこれが一番無難なのかなーでも言葉の厳密性に欠けること言うのがほんと嫌 冬用タイヤ全般をスタッドレスって呼称するような居心地の悪さを感じる
「教養書」→俺が考えているより広範なイメージっぽいな、でもまだ高尚すぎるというか、知識についてのニュートラルな感覚に欠けるというか、教養という言葉自体が「値打ちこいてんな」って感じする
最初に断りますが、自分はアラフォー男性です 名古屋在住でもありません
そもそも「ヴィジュアル系」という言葉自体がもう死語であろうが
全盛期は、どんなメイクの系統か、曲がどんな音楽の系統なのかで、ヴィジュアル系はさらに細分化されていた
「コテ系」 「オサレ系」 「ラウド系」 「白塗り系」 など、ヴィジュアル系の中に多様なサブジャンルがあった
そして増田はその中でも「名古屋系」と呼ばれるヴィジュアル系が好きだった
源流はSilver Roseあたりからだと思うが、個人的には黒夢が祖だと思っている
そもそもヴィジュアル系以前のロックは、汗くさくて、男くさくて、力強くて、体育会系で…という音楽だった
そういうロックのステレオタイプに対して、ロックという枠組みの中でのアンチテーゼとしてヴィジュアル系の流れが生まれ、
その流れを決定的にしたのが名古屋系であり、黒夢だというのが増田の持論だ
黒夢は上記のようなロックのイメージの、すべて真逆をいった、つまり、
耽美で、女々しくて、病的で、退廃的な世界観で、ロックをやろうとしたのだ
これが衝撃的だった
すぐに多数のフォロワーが生まれ、名古屋系と呼ばれるジャンルが確立されていった
共通しているのは上記のような世界観なのだが、どうもこの方向性で長く続けるのは難しいようで、
名古屋系のバンドは軒並み短命、あるいはだんだん方向性が変わってポップになっていくことが多かった
また世間一般的なセールスもあまりふるわず、商業的に大成したバンドも少ない
それでも当時の世界観というか、名古屋系と呼ばれるバンドたちの空気感は何物にも代えがたく、
あれから30年近くたった今でも、当時の音源を引っ張り出してきてはたまに聞きたくなる
黒夢、Laputa、ROUAGE、Merry Go Round、Lamiel、kein、deadman、GULLET
当時の名古屋系バンドでしか感じられない没入感のようなものがある
いつか、同志と心ゆくまで語り合いたいと思っていたのだが
リアルで出会うことのできないまま、気づけばアラフォーのおっさんになってしまった
やり場のない熱をここで供養させてください
まんがはカンブリア爆発並みに何でもありで、低予算で作れるんだなーアニメ化、ゲーム(≒ソシャゲ)は予算が桁違いなんだなーというのがわかる
訳あってきらら系(雑誌)を何十冊か読んだが「ジャンル」でくぎると元増田の視界に入っていない作品があった
・Youtuber・・・ 街歩き・街の意外な〇〇発見レポートを配信する系Youtuber(美少女キャラクター数人 メイン配信者とリアクションキャラクター達)
多いのはファンタジー系(魔王、妖怪、サキュバス…) ファンタジーものは出尽くしたのでサブ要素が差別化になってる
時間停止したモノに衝撃が蓄積されるやつ
あれの歴史を調べたい
SFにおける時間停止モノの歴史はH・G・ウェルズ「新加速剤」が元祖だろう……
SFにおける「時間停止」ギミックの歴史としては先行研究として以下の私家翻訳を見つけた
#ライマン・フランク・ボーム #翻訳 捕まった《時の翁》 - カスガの小説 - pixiv
▼『オズの魔法使い』シリーズの作者として知られるライマン・フランク・ボーム(1856年~1919年)の童話集“American Fairy Tales”(1901年10月)に収録された“The Capture of Father Time”の拙訳。私が知る限りでは、世界で最初の「時間を止めてイタズラをする話」です(ウェルズの「新加速剤」は1901年12月)。
▼「透明人間になってイタズラをする話」の元祖が紀元前4世紀のプラトンの著作にまで遡れるのに対して、「時間を止めてイタズラをする話」の歴史は意外に浅く、時間停止ジャンルの古典とも呼べる上の両作ですら1901年、「性的なイタズラをする話」となると、1962年のジョン・D・マクドナルドの『金時計の秘密』まで待たねばなりません。あるいは、これより古い時間停止作品の例があるのかもしれませんが、今のところ私には見つけられていません。
うーむ、「時間停止したモノに衝撃が蓄積される」というサブジャンルについてはなかなか情報が見つからない
いわゆる「ステイシスフィールド」「停滞フィールド」と呼ばれるギミックとも隣接しているんだよな
「停滞フィールド」のWikipediaにクラフトワークもビタロックも言及がある
英語版Wikipediaの「Stasis (fiction)」にも有力情報なし
それ以前で見つけることが出来るかどうか
DLSiteの同人誌で「時間停止」タグが付いたものを古い順にみてみるか……うーん、2000年より古くは調べられないのか
しかし古めの作品で快感蓄積系はぱっと見だと見当たらないように見える
エロジャンルにおける時間停止モノで快感が蓄積されるギミックの歴史はもうちょっと浅いのかもしれんな
(関係ないが、同人誌で取り扱われたものの流行の変遷って後世の人が調べるの超大変だな……資料が散逸している)
ドラえもんのひみつ道具で時間停止系のものはないか?そのなかで衝撃蓄積するタイプは無いか?
pixiv百科事典の記載が全網羅しているとは思わないが、簡易的に調べるにはまあいいだろう
「ウルトラストップウォッチ」「狂時機」「時門」「むだ時間とりもどしポンプ」「ちょっと待っタイマー」「わがまま時計」「タイムコントローラー」「倍速時計」どれも蓄積しなさそうだなあ……
ドラえもんのひみつ道具で無いなら……もうないんじゃない?という気もするが
星新一のショートショートだとどうだ?いや、結構読んだけどちょっと覚えがない(忘れているだけかも)
え、まさか「クラフトワーク」が元祖?そんなわけないという勘が働いているんだがな……
調べ方が悪いな……
時間停止能力を持つキャラの一覧みたいなリストはニコニコ大百科とかにあるから、上から順番に見ていくしかないかもしれない
あるいは時間停止にこだわらず衝撃を貯めておけるギミック、ガジェットの呼び名を考えるべきか
ワンピースの衝撃貝みたいな(そういえばノロノロの実もまんま衝撃蓄積できるタイプのギミックだ、2004年)
一旦調査ここまで
日記です
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あっ
ジョジョ3部の「ザ・ワールド」の時間停止中にラッシュ突きして相手が吹っ飛ぶってことはこれも時間停止中に衝撃蓄積してるじゃん!
発動者が超高速で動いているから発動者が100回殴れば通常速度世界側では一瞬で100回殴った衝撃がやってくる(スタープラチナ・ザ・ワールドの時間停止中オラオラで相手が吹っ飛ぶのも納得だ)
加速装置ギミックも一応調べるか……サイボーグ009だと衝撃蓄積みたいなことはしてなかったと思うんだがな……
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ロックマン2(1988)のタイムストッパー、これは時間停止中に他の武器使えないから衝撃蓄積できない
敵キャラを時間停止させて(凍らせて、みたいな)攻撃叩き込むみたいな……
逆にSF小説だと時間停止中に衝撃蓄積の概念は育ちにくいんじゃないかという予感もある
衝撃蓄積and解放はビジュアルイメージが伴ったほうが面白いと言うか文章オンリーだと映えないというか
……いや、いやいや早計だぞ
まずは「新加速剤」読むべきでは?という勘が働いた
加速装置系だしな
Kindleでサクッと買って読みましょうね……Kindleに無い!はぁ〜
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一旦この件は保留
前提
ゼタ→ゼタに耐えられる魔法防御を確保すると重殺で落ちるようになり回復役が落ちたら建て直しは困難。
ゼタフレアは後半、割り込み不可能の弱体化からゼタがあり、無効化や属性軽減ができない。
そのため、地力で耐えつつ重殺を対策する必要があるが、ランダム回数なため必要な物理防御の確保も難しい。
ランパート役を置いてみたが、一人では長期戦のいつかにくる重殺→重殺が対処できずいいところまではいくが後半に全滅を2回経験して挫折。二人置けばいけそうだがアタッカー一人は流石に時間がかかりすぎる。
決めた作戦
魔法と物理の両受けが難しいため、「相手に重殺を使わせない」ことにした。
ボスはBPが1あると確定で弱体化→ゼタフレアを行うので、毎ターン開始時にボスにBP1を維持させれば魔法攻撃だけに固定できる。
そこで、ワールドヘイストを覚え全員BPが増加した状態にすることにした。これにより、物理防御を無視し毎ターンの弱体化→ゼタフレアを耐えられる魔法防御力と毎ターン体力満タンでターンを開始できる回復力の問題にできる。
装備
魔法防御を重視する。アタッカーはフレイムタンで一応弱点をついた。
パーティ編成と行動
ジョブは全員魔法剣士。アンチマジックの魔法防御150%で一応の安全をとる。なので以下のジョブ名はサブジョブ。
また、「魔法防御特化」は全員の固定枠。なので省略している。
1.時魔道士
ワールドヘイスト担当。ワールドヘイストが枠を喰うのでサポート役。
自由枠
祝福の盾装備。
後攻回復を安定させるために「相手にヘイスト」をかけ、回復量が不安なので祝福の盾でケアルラを全体に。
エアリーは素でかなり早いためこちらがほぼ後攻になるが、BDは素早さ乱数が大きいため相手にヘイストして先攻をアシストしてやる。恐らく回復役にスロウより変動量が多いだろう。
2.白魔道士
両手盾(自由枠)
祝福の盾装備。
後攻回復で全快が目標。ケアルダと祝福の盾のケアルラを使う。徐々にMP回復の30ではケアルダの27でいっぱいいっぱいなので祝福の盾を使っている。時魔道士と合わせてこれで全回復できた。自由枠を魔法クリティカルなどに変えれば一人で全回復できるかも。
34.海賊
一応、脳天落としで魔法攻撃力を下げて生存率を高める役目がある。2行動目は甲羅割りなどで防御力を削りわずかに加速を狙う。
念のため二人にしたが、パターンに入れば安定なのでもう一人はもっとディーラーな構成でいい。
以上により相手が行動速度150%、魔法攻撃力75%、こちらが魔法防御200%+後攻全回復になり、MP収支も黒。以降オートで安定する。
ただ1ターン目が運で、重殺がくれば全滅するため祈りつつ全員生き残って全回復して2ターン目を迎える必要がある。
1ターン目ゼタフレアでアンチマジック発動しつつ後攻回復と魔法攻撃力低下を入れられればベストだろう。
最凶の布陣の4人編成よりも単純に両属性の火力の暴力で苦戦した。まあオミノスたちも確定行動があってそこを突いた感じだが。
wikiで先んじてワールドヘイストの存在をネタバレしてなかったらオート攻略は諦めたかもしれない。戦法を思いついてから時魔道士を育てたので。
さすがにウロボロス戦は不可避行動不能技があるので回復役が止まったらケアしてたけど、似たような感じで魔法防御で耐えるようにして勝った。
聖騎士+魔法防御特化+ボルテージ。相手のバフ解除が間に合わないのでこっちのバフで相殺する感じで150%UP維持と基礎ステ重視に。エアリーより考えるのは楽だったが最終形態まで行って試行するのが面倒面倒。
でもほぼオートで勝てたので満足。
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」みたいな定義だっけ?
だとすると俺が読んだことがある純文学は「アルジャーノンに花束を」と「虎よ虎よ」だけかなあ。
え?じゃあ純文学ってなんだ?
恋愛ドラマや戦争映画でサブテーマに人種差別が入ってきてるような感じ?
純喫茶は「純」=「酒の力に頼らずソフドリと飯と雰囲気だけで勝負してますよ」って意味だっけ?
じゃあ純文学も「純」=「内容に頼らずに文学性だけで勝負してますよ」じゃないとアウトなんか?
チョット調べたら「こころ」や「よだかの星」も純文学らしいね。
でもどっちも「"潔癖症的な自己憐憫&自己否定"vs"自己満足的な懺悔&自己破壊"のタッグマッチ」がメインテーマであって、文学としての表現力はそれを盛り上げるための裏方業務って感じじゃね?
裏方凄いなーって所で盛り上がるときがあるのは分かるよ。
サマフェスのスピーカーの仕組みがバズるとか、競馬の名実況で思い出トークが始まるとか、でもそれってやっぱりサブジャンル的な楽しみ方だと思うんだよなあ。
それとも「SF」や「歴史小説」や「架空戦記」みたいに単なる舞台設定の一種なのか?
いやそもそもの考え方が違う気がしてきた。
小説って作品のジャンルを何によって定義するのかが他のコンテンツよりも自由すぎるんだな。
あとテレビゲームの「アクションアドベンチャー」とか「MMOFPSRPG」みたいな合体型のジャンル表現が発達してない。
分類する人間が漠然と一番濃度の高い要素で定義してるだけなんだな。
そうなると「純文学」って言われる作品の傾向がなんか見えてきたわ。
「他にメインジャンルになれるような要素が強いものがなく、かつ純文学のカラーが強い」って場合に「純文学」の棚に分類されていくってことなんじゃねえか?
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であることは「純文学」の必要条件でしかなく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」だったら全部「純文学」になるわけじゃない。
逆に「純文学」と呼ばれている作品はすべて「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であるってことか。
すげー地味なオチだな。
しかしアレだな、こうなると「純文学」ってジャンルに区分されるってのは「それ以外の要素が特定のジャンルに含まれるには弱いね」を意味しているってことだな。
「恋愛小説」や「ライトノベル」っていうジャンルに区分けされるのと「純文学」ジャンルに入れられるのどっちが作者的に満足が行くのだろうかってのは永遠の謎だなあ。
「アルジャーノンに花束を」にしたって文章によって主人公の知能状態を表現しているのは凄いんだが、それを通して描かれる差別問題、知性の絶対性に対する問題定義の方もちゃんと読み込んでやらんとアカンやろとは思うんよな。
絵画の世界だと手段そのものが目的になっていることは結構あると思うが、文学の世界でそうなってる作品ってあんま多くなさそうなんだよな。
結局求めているのは自分が切り取りたい世界観に合わせたより適切なレンズやフィルターであって、それが凄いねって褒められたとして作者的には「いやそれを通して見せたかったものの方の感想言えよ」なのかも知れねえなあ。
2022年10月より ミライアカリがMCを務める音楽番組 が開始されると聞いて思いついたことをつらつらと述べる。
先日活動休止したキズナアイには「未来」のイメージがあった。未来はバーチャルタレントが当たり前のようにテレビ出演する日が来るのかもしれないと視聴者に思わせる存在感があった。そしてあたりの柔らかい万人受けするキャラクターデザインであった。
では今いるVTuberでキズナアイの抜けたニッチを埋められるVTuberはいるのか?
ほとんどのVTuberは現存する漫画アニメから断片的にデザインモチーフを借用しており、いまいち未来感がない。ホロライブもにじさんじも全滅である。いま形成されつつあるアイドルVTuberというサブジャンルもアイドルという現実の存在をデザインモチーフとして借用しているのでやはり全滅である。万人受けという観点では、ケモ耳が生えているだけでテレビ業界における万人受け基準を満たさないだろう。
VTuberに詳しいリスナーからすればミライアカリは下ネタ好きのうるさい女だが、歌・踊り・MCもこなすマルチタレントであり、あたりの柔らかい万人受けするキャラクターデザインである。胸が大きいのでフェミの攻撃対象になる恐れが心配される程度である。そして最も重要なポイントとしてキズナアイの猿マネではない。あくまでも未来からやってきた二人目のバーチャルタレントの立ち位置を維持している。ミライアカリはキズナアイの後を継げる可能性がある。
懸念ポイントもある。キズナアイには企画に膨大な金をかけるという運営方針がありそれが未来感の演出に効果的だった。ミライアカリの運営に同じことができるのか?バンダイナムコの本気度が試される。