相模原障害者施設殺傷事件、京都ALS嘱託殺人事件、そして映画『PLAN 75』など、日本でもたびたび安楽死が話題になることがあります。
 安楽死については当然ながら賛成派と反対派がいますが、賛成派の1つの論拠としてあるのは「海外ではすでに行われている」ということでしょう。

 著者は以前からこの安楽死問題について情報を発信してきた人物ですが、著者が情報発信を始めた2007年頃において、安楽死が合法化されていたのは、米オレゴン州、ベルギー、オランダの3か所、それとスイスが自殺幇助を認めていました。
 それが、ルクセンブルク、コロンビア、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア(一部を除く)、スペイン、ポルトガルに広がり、米国でもさまざまな州に広がっています。

 では、そういった国で実際に何が起こっているのか? というのが本書に書かれていることになります。
 その内容は結構衝撃的で、例えば、カナダのような「人権先進国」的なイメージのある国でも、かなり功利主義的な運用がなされていることがわかります。

 後半は、障害者の子を持つ親の立場からの安楽死反対論といった色彩が強くなるので、やや好みが分かれるところだとは思いますが、安楽死にはっきりと賛成だという人であっても本書の前半は読む価値があると思います。
 安楽死について、今一度再考を求める本と言っていいでしょう。

 目次は以下の通り。

序章 「安楽死」について
第1部 安楽死が合法化された国で起こっていること
第1章 安楽死「先進国」の実状
第2章 気がかりな「すべり坂」
第2部 「無益な治療」論により起こっていること
第3章 「無益な治療」論
第4章 コロナ禍で拡散した「無益な患者」論
第3部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ
第5章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える
第6章 安楽死の議論のおける家族を考える
終章 「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う

 まず、日本ではまとめて「安楽死」と呼ばれることが多いですが、「積極的安楽死」と「医師幇助自殺」という区別があります。医師が死なせる意図をもって毒物などを注射するのが前者であり、医師が処方した薬物を患者が飲んだり、医師が入れた点滴のストッパーを患者が外したりするのが後者です。
 ただし、カナダが両者を「医療的臨死介助(MAID)」と呼ぶようになってから、区別されずに議論されるようになっています。
 なお、2019年にNスペでとり上げられた難病女性がスイスに行って死を選んだケースは「医師幇助自殺」になります。

 また、「尊厳死」という言葉もあります。これは日本では治療を差し控えるときなどに使われますが、海外では「医師幇助自殺」などに「尊厳死」という名前がつけられていることもあり、注意が必要です。

 最初にも述べたように、安楽死は世界で急速に広がりつつありますが、注目すべきは安楽死そのものの広がりとともに要件の緩和が進んでいることです。
 例えば、カナダでは2016年に合法化された当時は、「死が合理的に予見可能」で耐え難い苦痛なる人を対象にしていましたが、2021年に「死が合理的に予見可能」の要件を撤廃しています。

 スイスは安楽死を合法化しているわけではありませんが、個人的な利益が目的でなければ自殺幇助が違法とみなされないために、医師幇助自殺機関が合法的に活動しています。
 外国人を受け入れる医師幇助自殺機関も増えており、いわゆる自殺ツーリズムが行われています。厳しい要件があるわけではないので、例えば、安楽死が合法化されているオランダからスイスに赴いて自殺する人もいるそうです。
 
 オランダは最も早い時期から積極的安楽死が行われていた国で、2022年には総死者数の5.1%にあたる8720人が安楽死しています(大半はがん患者だが、認知症患者も288人いる)。
 オランダでは2016年末に、75歳以上の高齢者が冷静に熟慮した上で死にたいを望む場合は安楽死を認める法案が議会に提出されました。成立はしませんでしたが、まさに『PLAN 75』のような世界の一歩手前という感じです。

 オランダでは「コーヒー事件」というものがありました。これは認知症で重症化して家族のことがわからなくなったり、施設で暮らすことになったら安楽死を望むという意思をあらかじめ書面で示していた女性が4年後に施設に入所し、意思確認にはどちらともはっきりしなかったものの、医師がコーヒーに鎮静剤を入れて安楽死させたという事件です。
 この一連の手続きは問題視されましたが、2019年に出た判決は医師を無罪としています。

 また、お隣のベルギーでも安楽死は合法化されていますが、「耐え難い苦痛」は精神的なものにも拡張されつつあり、生まれつき耳の聞こえない40代の男性の双子が近く失明することがわかって2人揃って安楽死したケースもあるそうです。
 ベルギーでは年齢要件も撤廃され、終末期で耐え難い身体的苦痛を条件に子どもにも安楽死を認めています。

 カナダで安楽死が合法化されたのは2016年ですが、安楽死の割合は急増しており、ケベック州ではオランダに近い数字になっているといいます。
 カナダの先述のMAIDは「ケア」として位置づけられているのが特徴で、ケベック州の高齢者問題大臣は「MAIDは人々が最後の瞬間まで自分が望むように生きることを可能にするケアなのです」(47p)と語ったそうです。
 カナダでは、医療や福祉を十分に受けられない人の安楽死の申請が医師らによって承認されるケースが報道されており、化学物質過敏症で住む場所がなくなっていた50代の女性や、難病に加えて家賃の高騰で住む場所がなくなった女性などが安楽死しています。

 安楽死の反対意見として良く用いられるのが「すべり坂」論です。これは「死が間近」「耐え難い苦痛」などの要件が徐々に緩和されていき、気がついたら安楽死の対象が広がってしまうことを危惧するものですが、本書によるとこの危惧にはリアリティがあるといいます。

 まずは安楽死が「緩和ケア」の一環のように扱われているケースです。
 先述のカナダ以外でも、緩和ケアの研修を十分に受けていないと、身体的・精神的な苦痛がケアで取り除けないと判断すると、安楽死を唯一の解決策と考えてしまう医師も多いそうです。
 また、安楽死の存在が自殺を防ぐという議論もありますが、オランダでは2007年に1353人だった自殺者は2019年には1811人にまで増えているといいます。

 また、安楽死が「死ぬ権利」として定義されると、「なぜそれを認めないのか?」という動きが起こってきます。
 アメリカのオレゴン州では当初、医師自殺幇助の対象を州民に限っていましたが、となりのワシントン州の州境近くの医師が、わずかな距離で認められないとは権利の侵害であるとの訴訟を起こし、結果として州民の要件は撤廃されることになりました。
 オーストラリアの安楽死合法化の運動でも、「スイスにいけばできるのに」ということが論拠として使われたそうです。

 アメリカでは自発的に飲食を断って死に至る自発的飲食停止(VSED)というものがあるそうです。もちろん、これはかなり苦しいものなのですが、緩和ケアを受けながらVSEDで衰弱して医師自殺幇助の条件を満たして投薬などを受けるというケースもあるそうですし、「VSEDのような酷い死に方が行われているのは安楽死が認められないからだ」という議論もあるそうです。

 安楽死が合法化されているベルギーでは、法律で禁止されているにもかかわらず、医療職が安楽死を提案するケースも絶えないそうです。さらに緩和ケアの流れの中で必要以上のモルヒネが投与されて死に至るようなケースもあるといいます。

 安楽死の前提として「自己決定」がありますが、安楽死の対象者が認知症患者、子どもなどに拡大されていくにつて、この前提は揺らいでいます。
 オランダでは2004年の「フローニンゲン・プロトコル」によって0〜1歳の安楽死が認められており、親の意思決定による安楽死が行われています。

 安楽死は社会保障費の削減とリンクされて論じられてもいます。
 カナダではカルガリー大の医師らはMAIDで毎年1万人死ぬと予測した上で1億3000万ドルの医療費が削減できるとの試算を発表し、カナダ予算局も2016年の合法化によって8690万ドル、さらに要件緩和を行うと1億4900万ドルの削減が見込まれるとのデータを出しています。

 海外では安楽死と臓器提供も結び付けられています。
 安楽死と臓器提供に同意した人に関しては、安楽死を行って心肺停止になってから数分後に臓器を取り出すということが、ベルギー、オランダ、カナダ、スペインなどで行われています。
 ケベック州では臓器ドナー全体における安楽死後臓器ドナーの割合は15%に達しており、そのほとんどがALSなどの進行性神経疾患の患者だといいます。
 臓器ドナーは常に不足しており、この面から安楽死の合法化、対象拡大、あるいは心肺停止から摘出までの時間の短縮などに圧力がかかっているのです。

 安楽死とともに、医療サイドに一方的に治療の差し控えや中止の決定権を認める「無益な治療」論も世界では広がっているといいます。 
 もともとは末期のがん患者などに心肺蘇生などを行うことへの批判などから起こってきたものですが、1999年に米テキサス州で成立した「無益な治療」法(TADA)では、病院の倫理委員会で終末期や不可逆な患者のケースで「無益」と判断した治療は、患者に転院先を探す10日間の猶予を与えた上で、中止できるとしています。

 こうした中で2007年に起きたのがゴンザレス事件です。エミリオ・ゴンザレス(1歳)はリー脳症という難病にかかっており、病院側は治療の中止を決めました。これに対して母親は治療の続行を求めましたが、病院側は書面で治療の中止を通告します。与えられた10日間のうちに転院先を見つけられなかった母親は期限の延期を求めて訴訟を起こし、裁判官も裁判の決着まで治療を続けるように命じますが、その間にエミリオは亡くなりました。
 このように「無益な治療」論によって、トラブルも生じているのです。

 TADAが治療中止の要件としている「不可逆性」の定義の中には、たとえば四肢麻痺で人工呼吸器に依存している人や、経管栄養に当てはまりかねないものもあり、米国の障害者からは「QOL」を理由に重度障害者の治療を差し控えることになりかねないとの懸念も出ています。
 実際、ゴンザレス事件に関して、生命倫理学者でもあるノーマン・フォストは「エミリオはあまりにもQOLが低すぎて、救命にも治療コストにも値しない」(107p)と述べています。

 イギリスでは2018年に、それまで裁判所の判断が必要だった遷延性意識障害のある人への生命維持の中止について家族と医師だけで決めることが出来るようになりましたが、これも「自己決定」が掘り崩されている事例を言えるのかもしれません。
 
 QOLを数値化しようという動きもあり、ゲイツ財団の支援によって誕生したIHMEでは、医療経済学者で所長のクリストファ・マレイが薬や治療法の費用対効果を図る新基準であるDALYを提唱していますが、そこでは目の見えない人の生存年数はそうでない人の6掛け、移動機能に障害がある人は8.5掛けなどの「割り引き」が行われています。
 WHOなどで採用されているQALYでも、自分の健康状態を自己申告させた上で、その人のQOLを値を割り出すということがなされており、こうした動きと「無益な治療」論が結びつく可能性もあります。

 特にQOLにおいて「人間らしい生活」といったものが重視されるようになれば、意識がなかったり、周囲とのコミュニケーションが難しかったりする患者のQOLは著しく低いと判断されかねません。
 アメリカの障害学者のジェイムズ・ワースは「「無益な治療」論によって「医師の権限が最大になり、逆に障害のある人々とそのアドボケイトが最小化される」(122p)と危惧しています。

 イギリスでは一方的なDNR(蘇生不用)指示も問題になっています。患者も家族も知らないうちにカルテにDNR指示が書き込まれていることがあるとして、2011年には高齢者の入院時にDNR指示がルーティン化していることが明らかになりました。
 日本でも医師が1人でDNR指示を決めてしまうことがあるといい、また看護師へのアンケートでは「経済的な問題がある場合」にDNR指示が出されていることもあるといいます。

 英語圏では”bed blocker”という言葉もあるそうです。これはベッドをふさいでいる人という意味で、医療現場からは「その人が治療をあきらめれば他の生命が救えるのに」といった形で使われます。
 費用面でも「そのお金があれば」「その医療資源があれば」という形で使われ、安楽死を後押しする考えにもなりかねません。
 さらに先述のように、臓器移植と「無益な治療」論が結びつくと、「QOLが著しく低い人はドナーになるべきである」ともなりかねないのです。

 ここまでが第3章までの内容で、安楽死に賛成でも反対でも、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
 一方、第4章以降は障害のある子どもを持つ親としての著者の個人的な思いが強く出ている内容で、切実ではありますが、医療関係者などには反発される内容も含まれていると思います。
 以下、第4章以降の内容を簡単にまとめておきます。

 第4章ではコロナ禍において「無益な治療」論が語られるようになったきたことへ警鐘を鳴らしています。
 コロナ禍においては、集中治療室などが埋まってしまい、救急搬送できないといった状況が各地で見られましたが、そうなるとできるだけ先のある人、経済的に責任を負っている人などを優先しようとする動きが出てきます。
 また、知的障害者などに対する家族の付き添いが感染防止のために禁止されることも各地で起き、それが障害者の生活を脅かしました。知的障害のある人がコロナに感染して亡くなる確率は一般人の3〜4倍とも言われており(168p)、障害者の権利が果たして守られていたのか? という問題があります。

 第5章では障害のある子どもの親としての経験から、家族と医療職のギャップの問題をとり上げています。
 「医療」を重視する医療職と、「生活」を重視する家族、障害を持つ子どものQOLに対する考え方の違いなどがとり上げられています。
 また、透析の中止を一旦は決めた患者が痛みに耐えかねて透析の再開を求めたものの、病院側が意識が清明であったときの意思を尊重するとして、透析の再開に応じなかった福生病院事件についてもとり上げられています。

 第6章は安楽死と家族の問題です。
 安楽死合法化が広がるとともに家族ケアラーが相手を死に至らしめる行為について司法や社会が寛容になっているのではないかと著者は疑っています。
 イギリスではモルヒネ入りのスムージーを飲ませて85歳の父を死なせた59歳の男性に、「自殺幇助」が認められ、執行猶予がついた事件もあるそうで、これが一種の「思いやり」のように扱われるようになることを著者は危惧しています。
 日本は家族に介護の負担を負わせる社会になっていますが、この負担が安楽死を後押ししてしまうかもしれません。
 また、本人の自己決定がポイントだといっても、人間の意思は変わりゆくもので、安楽死の基盤にある意思決定を絶対視していいものか? とも著者は考えています。

 後半はかなり駆け足で紹介しましたが、前半を中心に非常に重要な問題を扱っている本だと思います。
 日本だと人権の中心に「いのち」があって、その反面、刑務所などでの「尊厳」に対する感度の低さがあると思うのですが、本書では紹介されている安楽死を合法化した国々では、ある種の「尊厳」を守るために「いのち」が軽んじられているような印象も受けました。
 著者のスタンスについては当然ながら賛否もあるでしょうが、とにかく考えさせられる本であることは間違いないです。