はてなキーワード: 公共の福祉とは
公共の福祉でいうならローソンのオーナーにはなるべきではないという周知のほうが公共の福祉になってるだろう?
dorawiiより
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公共の福祉って知ってる?
日本基督教団においては、宗教団体としての名目(信教の自由・宗教活動)と、実態(政治的抗議活動・平和学習プログラムの供給)との乖離が、成立しています。グレーゾーンを最大限活用してると説明できます。
日本基督教団(UCCJ)は宗教法人法に基づく宗教法人。牧師の活動は「伝道」「社会正義の実践」「祈りと行動の一致」と位置づけられ、献金・謝儀で支えられます。
社会派牧師(金井創氏など)らは、抗議船運航、座り込み参加、特定団体との連携、修学旅行向けプログラム提供を職業的に継続。これを「信仰の実践」として教会会計・研究所報酬で賄う。
この乖離は、宗教法人法の緩やかな監督と税制優遇が支えています。
抗議船「不屈」の購入費も全国教会からの募金で賄われました。これが「伝道活動」の一環と解釈されれば、宗教法人の枠内で政治色強い活動が持続可能です。
◦ 宗教法人法81条(解散命令)は「法令違反で著しく公共の福祉を害する場合」に限定され、運用は極めて慎重(オウム・旧統一教会級でないと発動しにくい)。
◦ 憲法20条(政教分離)は「宗教団体が政治上の権力を行使してはならない」とするが、個別牧師の抗議活動や「平和教育」提供までは「政治的権力行使」とまでは認定されにくい。
◦ 教団内部ガバナンスが弱く(教会自治が強いため)、社会派活動を教団全体で抑制しにくい構造です。
政治活動が「宗教的実践」と主張されれば、税制優遇を享受したまま活動が可能になります。批判者はこれを「間接的な公的補助」と見なし、課税強化論(宗教法人全体の見直し)が度々浮上します。
現行法上、牧師個人の政治的言動や市民活動自体は禁止されていません。教団も公式に「社会正義」を掲げています。
宗教法人格と税優遇を「隠れ蓑」にして、教育基本法第14条(政治的中立性)や学校安全管理をすり抜けるような運用が、長年放置されてきた点。事故で表面化した「外部丸投げ平和学習」は、この乖離の典型例です。
この構造は日本基督教団に限ったものではなく、社会派宗教団体全体に共通する課題です。事故後の文科省通知・学校調査は、宗教団体自体の監督強化(ガバナンスや税制見直し)までは及んでいません。
「デモの抑圧=独裁への第一歩」というが、現在の日本において政府が組織的・構造的にデモを物理的に弾圧している事実は確認されていない。
道路を使用すれば交通が遮断され、騒音は周辺住民の生活権に触れる。
憲法における公共の福祉に基づき、他者の権利を不当に侵害しない範囲で調整されるのが法治国家の原則。
「デモ=正義の行使」という前提が透けて見えるが、正しくない。デモもまた一つの政治的表現であり、批判の対象。
※ ヘイトスピーチを伴うデモや、他者の人権を侵害する内容のデモもある。「声を荒げること」自体に価値があるのではない
「デモをする自由」があるのと同時に、そのデモに対して「他者の主張を批判する自由」や、冷ややかな視線を送る自由もまた健全な民主主義。
選挙は不完全というが、現状不正など選挙が形骸化しているわけではない。支持率等によって議席は増減し、過去に政権が入れ替わったこともある。
選挙は、国民の意思を法や政策に変換するための法的正統性を持つ唯一の手続き
「デモそのもの」によって法が無視されてはいけない。選挙は主張を法に反映させる手続きである。 属性そのもののマイノリティ、マジョリティではなく。デモは、主権者集団における思想のマジョリティを獲得するための手段である。(同性愛者の当事者は少なくても、同性婚容認賛同する人を増やす)
日本の場合、選挙の公正さが担保されてる。公正さでいえば指数は上位。この状況で「選挙よりデモが重要」と言うのは、「ルールに基づいた民意の結果を、特定集団の熱量で拒否したい」という、憲法や法治主義の否定につながる。
デモそのものが法の鉄好きを無視して社会を動かすそれは別の形の衆愚政治、独裁につづく。
自分の意見が通らない=国が独裁に傾いているという解釈は、多様な意見の共存を認める民主主義ではなく、自分の理想を絶対視する独裁的な思考に近い
これらを基準に、主要報道機関を**A(優れている)〜D(問題大)**で評価します。 (2026年3月16日辺野古沖転覆事故報道を基準とした評価)
・記事数が最多クラスで、事故の本質(反対協の無登録運航、安全管理のずさんさ、波浪注意報下の出航判断、教育基本法第14条違反の可能性、外部偏向団体の無批判重用)を積極的に深掘り。
・遺族メモの事実を引用し、多角的視点を提供。学校・行政・反対協の責任を明確に指摘。
・権力監視機能が強く、報道機関としての倫理と役割を最もよく果たしている。民主主義への寄与度が高い。
・地元紙として詳細を報じつつ、「抗議のあり方問い直せ」「安全管理の判断は誰がしたのか」と現実的な視点を提示。
・反対協の主張も取り上げながら、安全管理の問題をぼかさずバランスを取っている。
・視野が広く、責任の所在を明確にし、地元紙として公共の福祉に資する報道を行っている。
・事実中心の配信記事で「事業登録せず」「無登録運航の疑い」などの核心的事実を比較的早く報じる。
・通信社として正確性と多角的配信の役割をしっかり果たしているが、深掘り分析は少ない。
・報道の倫理(正確性)は守られているが、独自の権力監視機能は限定的。
・事実報道は比較的丁寧だが、行政・学校側の対応を前面に押し、外部委託の構造的問題や政治的偏向への深掘りが不足。
・責任の所在がややぼかし気味で、報道機関としての多角性がもう一段階欲しい。
・ 中立的・事実中心の報道だが、「事故の教訓」としてまとめがち。
・構造的問題(教育の政治化・外部依存のリスク)の指摘が薄く、多角性が不足。
・正確性は守られているが、権力監視の強度と視野の広さで物足りない。
・学校・行政の対応を強調し、責任の所在をやや曖昧にする傾向。
・ 外部偏向団体の問題や平和学習の政治的側面を避けやすく、視野が狭い。
・公正性と多角性に課題があり、報道の倫理として責任ぼかしが目立つ。
・「平和学習中の不幸な事故」「デマ防止」に重点を置き、一面的フィルタリングが強い。
・反対協の安全管理問題や教育基本法第14条の可能性を薄く扱い、視野が極めて狭い。
・権力監視機能が弱く、報道機関としての公正性・多角性が大きく欠如している。
・ 「安全対策強化」「デマ・誹謗中傷防止」を強く強調し、反対協の責任や構造的問題を大幅に避ける。
・ 地元紙として最も視野が狭く、責任の所在をぼかし、運動擁護の枠組みが強い。
・報道の倫理(公正性・多角性・責任の明確さ)が最も低く、公共の福祉への寄与が限定的。
産経新聞、八重山新報、共同通信 これらは事実検証を進め、多角的視点を提示し、責任の所在を比較的明確にしようとする姿勢が見られます。報道機関としての倫理と役割を比較的よく果たしています。
東京新聞、読売新聞 事実報道は標準的だが、構造的問題への深掘りが不足し、多角性に欠ける。
毎日新聞、朝日新聞、琉球新報 視野が狭く、一面的フィルタリングや責任ぼかしが目立ち、報道機関としての倫理と役割を十分に果たせていない。特に琉球新報と朝日新聞は、事故の本質を避ける傾向が強い。
報道機関としての倫理と役割を最もよく果たしているのは産経新聞です。 一方、琉球新報と朝日新聞は、視野の狭さ・一面的傾向・責任ぼかしが最も顕著で、報道の自由度と民主主義への寄与という観点から見て課題が大きいと言えます。
この事故報道は、日本のメディアが「権力監視」「多角的視点の提供」という本来の役割をどこまで果たせているかを問う試金石となりました。遺族のnoteメモが報道機関より視野が広く本質的である現状は、メディア全体の自己検証を強く求めていると言えます。
恐怖を煽って混乱を引き起こし政府を転覆させるってのは煽ってるやつらの悲願みたいなものでしょ
法的にどうにかしない限り無理だけど言論の自由的な要素もあるし
生命の危険もあるし過度な言論の自由の主張に対して公共の福祉で対抗することはできそうだけど
ただでさえ、透析患者さんは週に3回程度の透析を必要とし、透析の合併症が起きている方も少なくなく、健康な方よりストレスフルな毎日を送っています
その方々にとって
『もうすぐ透析が出来なくなる』
という間違った情報は、強い恐怖を引き起こします
何卒、お気をつけ下さい https://t.co/pPQ0jx8DPg— 知念実希人【公式】 (@MIKITO_777) April 5, 2026
たまには憲法読むのもいいよな
前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
とか今の国際情勢を見るとすごく味わいぶかいし
第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
とかも、日本国民は濫用しない責任を負わされてるけど、外国人は来日して医療享受したあと踏み倒して帰国したりとか共有地を悲劇的なまでにハックしても何ら問題ないことを嚙み締められるし
立場が弱い人を食い物にする作品がダメというなら、オフィスものや、館もののエロ作品は作れなくなるわけだし。
ご主人様とメイドだとメイドの立場は弱者になるだろうし、館ものでよくある住み込みなら逃げ場はないわけだし。
もちろん実際に弱者を食い物にする事件が起きたのなら、それは厳しく罰するべきだと思うよ。
その線引きは大切だと思う。
SNSで「震災被害者への性犯罪を煽るAV」として拡散されたポストについて、調べた結果を書く。
まず拡散されたポストについて。取り沙汰された作品のシチュエーションは「ゴミ拾いボランティア」であり、震災避難所での性犯罪とは無関係だった。無関係の作品を被災者のトラウマと結びつけて感情を煽る手法は、それ自体が悪質なハラスメントであり、批判されるべきものだ。この点については、拡散したポストの主張は事実誤認に基づくものだったと言える。
しかし調べると、避難所を舞台に女性レスキュー隊員が性行為を行うという作品が別途存在していた。これについては擁護できない。
避難所とは、有事において警察機能が著しく低下した閉鎖空間だ。そこで実際に性犯罪が起きていたことは、公式記録には残りにくいが複数の証言や報告から明らかになっている。そして現在に至るまで、日本の性犯罪対策はこうした環境への対応が十分とは言えない。
そのような構造的脆弱性が存在する状況下で、避難所という環境を性的行為の舞台として描いた作品を公開することは、意図の有無にかかわらず、その環境を犯罪機会として可視化・強化しうる。これは公共の福祉に有害であると考える。
個人においては悪人にも人権があり、法人においてはコンプライアンス(法律、規制への順守)があり、職業倫理や企業倫理、個人的な感情、法人としてのモラールがある。
刑事罰と別に、個人や私企業が制裁を加えて良いかで言うと、悪い。私刑については議論の余地無く行ってはならない。日本国憲法第三十一条に定めがあり、法律や条例ではひっくり返せない。企業倫理や職業倫理、個人のモラルが日本国憲法より上に来ることは無い。
最も守りたくない人間を想定して人権の議論をせよ、と言われるように、人権は(日本国において主流な学説では)万人が条件無く持っている。
ただし、日本国憲法で人権について述べられていると言われる第十三条は「公共の福祉に反しない限り」という但し書きが付いており、議論の余地がある。この但し書きをめぐって国際社会との争い(解釈の余地が大きく人権の制限を認めるものであるため)もある。しかし概ね、国家権力による刑罰や個人の自由に一定の制限を認めると解釈されており、前述の通り私刑を許容するものでな無い点には注意が必要である。
コンプライアンスとして、法律や規制に順守するというのは、本来は日本国で業を営む法人なら当たり前のことである。これに企業倫理や職業倫理、道徳を守るという意味を持って社会秩序を守ろうというのがコンプライアンス遵守になる。
さて、議論の余地無く私刑は許されず、誰もが人権を持つという前提の上で、今回の件で法律上問題になるのは非弁行為である。
弁護士でないものが、報酬目的で弁護士の業務を行ってはならない。
知人として無報酬で示談交渉を行う場合には非弁行為にはあたらないが、編集者として賃金を得ている状態で、多数の示談交渉を反復継続して行なっている場合、通常これは非弁行為にあたる。謝罪文が曖昧な書き方になっているのは、この部分を回避するためだと容易に推測できる。
いくつかの立場があるが、ある程度の理解を得られている主張として、法律での取り締まりは慎重であるべき、というものがある。
なんでもかんでも、法律を作って雁字搦めにして正しい行為以外は法律違反にすると言うのは、無理があるし乱用に繋がるのでは無いか、というものだと考えてもらってそう間違いでは無い。
そのため、問題ない行為、世間の一般常識として問題のある行為、職業倫理上問題のある行為、法人格として問題のある行為などの先に、やっと、法律上問題のある行為として法律違反がある、というものである。
だから、法律に違反していないならば、何をしても問題が無い、とは言えない。
また、一般的にも法律的にも、同じ結果であっても動機や状況によって罪の重さは異なる(例えば、業務上過失致死と殺人は明確に異なる)。
営利企業は、法律に特に定めがなければ契約する相手を選ぶことができる。そのため、犯人隠匿などの問題が無ければ、どのような相手と取引をしても問題無い。
ただし、前述の通り、法律に違反していなければ何をしても良いとされることは通常無く(それが罷り通ると法の取り締まりが厳しくなるため)、職業倫理上の問題が無いか、法人格としての社会通念上問題が無いかは、大企業であればより厳しく見られる。
そのため、漫画作成に関わる優越的な立場を利用しての犯罪を犯したと推定される者と漫画作成に関わる契約を結ぶことは特に慎重になる必要があり、推定無罪の原則に照らして司法による判断が下されるまでは契約を継続すると判断したとしても、その旨を関係者に周知しないのは信義則に反する。
平たく言えば、漫画の権威がグルーミングして性犯罪を行ったと告発されている状態で仕事をするのであれば、その旨を関係者間で共有し、出版社の矜持を持って推定無罪の原則に従い、訴えられている漫画原作者ですけど、我々は無罪であると信じるので、漫画描いてもらえますよね?プラットフォームに載せて良いですよね?と、同意を得ていないと、関係者や読者を騙して仕事をしていることになる。
特にペンネームを変えて仕事を続けていた点が致命的であり、積極的に周りを騙す目的でペンネームを変えたと捉えるのが自然である。
さらに、では、実際に有罪であるとされたときにどのようにするかを決めていなかった、決めていたとして実際に行動に移せなかったことも問題である。
職業倫理に反した職業人と仕事をすることが、企業倫理に反しないと言えるだけの説明をする必要があったが、その説明が無く、逆に企業倫理に反するのであれば、どのような行いが問題であり、どのように処罰が行われ、どのように再発防止を取るのか、またそれらをいつまでに決めるのかの説明がなかったことも問題である。
問題がある人物をペンネームを変えて起用し、炎上するまで行動せず、炎上したら配信を止め、関係者を処罰せず再発防止もしない。出版社は企業倫理について無頓着であり、残念ながら世間を舐めておりコンプライアンスは無い。
編集者は常習的に示談交渉をしており非弁行為を行なっている可能性があるが、法人として調査や再発防止をとっている気配は無い。該当編集者に職業倫理は存在しない。
犯罪者にも人権があり、出版社として矜持を持って人権を尊重して才能を世に問うという立場で戦うのであれば一定の理解は得られたと思うが、炎上すれば即座に配信停止にするあたりに矜持は無く、単に関係者を騙して仕事をしたかっただけにしか見えない。
作品はそれ単体では存在せず、各個人が関わって出来上がるものである以上、関係者の犯罪を許容するのかと問われることは避け難く、犯罪は許容しないが作品は世に出すと説明するのは非常に困難(先例もある為、不可能では無い)である。単にそのまま漫然と発売を続けることは、合法であっても企業倫理や職業倫理に反する。
発売を続けるには覚悟も説明も足りず、世の中は法律に反しなければ何をしても良いというものではなく、倫理に反すれば非難されるのが健全な社会である。つまり、説明無しに販売を続けるのは、法による規制を招きかねず、社会通念上あり得ない。
残忍な殺戮シーンや過激に猥褻な表現が含まれるDVDやゲーム、書籍についても、子ども達が容易に入手できる現状に危機感を抱いておられる保護者が多いのではないでしょうか。
都道府県条例で有害図書等の指定や青少年への販売制限を行っているものの、都道府県ごとに指定対象や罰則にばらつきがある上、条例そのものが無い県も残っています。
店舗販売ならば店側のご協力で改善もできますが、ネット販売・通信販売による入手には対応が困難です。
児童買春や児童ポルノの製造・提供・輸出入を禁止する法律はできましたが、単純所持を禁ずる法律が無く、お客がいる限り違法業者は無くならないと思われます。
また、子どもに対する性行為を描いたコミックは法規制の対象外になっています。
違法・有害情報や、犯罪に巻き込まれたり犯罪を誘発したりする可能性のある情報から子どもたちを守ることについて、反対する保護者は殆ど居られないと思います。
過去に政治の場で法規制が模索された折には、業界からの反対が非常に強く、「言論・出版・表現の自由を制限することは憲法違反ではないか」、「有害情報の範囲と定義を明確にできるのか」といったご批判も寄せられ、頓挫したままになっていました。
確かに日本国憲法21条は「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定していますが、同時に憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、(中略)国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としています。
公共の福祉の観点から、国として「次代を担う子どもを有害情報から守る」という強い姿勢を示し、有害情報を子どもの目に触れさせないように社会全体として取り組むことは、決して憲法違反にはあたらないと思います。もちろん、有害情報の定義や範囲を明確にすることが前提ですが。
https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
現行憲法97条の「基本的人権の尊重と恒久性を確認する条項」が削除されてる
これにより内閣総理大臣が緊急事態を宣言することで 基本的人権を制限できるようになる
本来、憲法は国家権力を縛るものであるが、草案では国民一般にも義務を課している
現行憲法が「公共の福祉」としていた言葉を「公益及び公の秩序」に置き換えており、個人の権利制限につながる
・国民を縛り
・自由を奪い
窓際三等兵が憎い。
正確に言うなら彼が書くタワマン文学を消費しては自分たちの空虚さをコーティングして悦に浸っているあの界隈の空気が反吐が出るほど憎い。
夜のロピア。惣菜売り場。値付けの権限を握った店員の後ろをハイエナみたいに中高年がゾロゾロと這い回る。その不快な列に30代中盤の増田も並んでいる。8時45分。ようやく貼られた値引きの赤いシール。鶏ぷりぷり甘辛和え弁当。598円が398円になる。その瞬間、これまで四半世紀かけて積み上げてきたはずの自尊心もわずかな小銭と一緒に切り捨てられる。
手取り25万2千円。職業は地方中核都市の地方公務員。最近、自分の生涯賃金を計算して、それがあっさりと親の生涯収入を下回ることに気づいた。地方のノンキャリ公務員の給与カーブなんて、定年まで走っても親がバブルの余韻の中で稼ぎ出した総額には到底届かない。大学時代、行政法のゼミで法の支配や公共の福祉を議論していた頃の自分に教えてやりたい。お前が必死に勉強して手に入れるのは、親世代が当然のように享受していた中流の生活ですらなく、深夜のスーパーで売れ残りの炭水化物を奪い合う権利だけだぞ、これがお前の選んだ正解の成れの果てだぞ、と。
恋人もいない。友達もいない。部屋に誰かが来る予定も無ければ、誰かを呼ぶ気力はとうに失せている。マッチングアプリの広告がスマホの画面に虚しく光るが、年収欄に500万未満と刻む勇気もなければ、それを笑い飛ばしてくれる友達もいない。
Xのタイムラインにはまた窓際三等兵のフォロワーたちが泣いて喜びそうな物語が流れてくる。恋愛、結婚、競争、マウント。笑わせるな。彼らが嘆くその地獄は選ばれたエリートだけが入場を許される高級なテーマパークみたいな地獄だ。その絶望には常にペアローンという名の共犯関係と資産価値というセーフティネットがついている。
弁当を食う。冷え切って米粒が硬くなった割引弁当を食う。彼らが嘆く虚飾すらここには存在しない。あるのはただの虚無だけ。階級社会の再生産において増田は敗者として舞台に上がる権利すら剥奪された。もはや守るべき配偶者も教育虐待を施す相手としての子供も、親を超えてみせるという野心も、何一つない。
港区の不倫もタワマンの階層格差も宇宙の果てで起きている出来事と同じくらい遠い。きっと彼らが描写するドラマチックな不幸の背景に増田の姿は映り込まないだろう。
明日もまた生活福祉課の窓口に座らなければならない。タワマン文学の住人たちが、「ネトウヨ」という概念を記号的に分析して遊んでいる間、増田は目の前で「ワクチンに毒が入っている」「日本は支配されている」と詰め寄ってくる参政党支持者と向き合っている。彼らのロジックを公務員という立場ゆえに否定もできず、ただ無表情に相槌を打ち続ける時間の虚無。自分が依って立つ「法と理性」の体系が、言葉の通じない他者によってゆっくりと削り取られていく絶望。
税金で食ってるんだろ。その手垢のついた台詞を吐き捨てていく彼らの方が、よっぽど手厚い社会福祉の恩恵に預かっている。彼らの剥き出しの憎悪を受け止めながら、脳内では判例や法理が高速で空回りする。大学で学んだ知識は、目の前の人間を見下すための薄汚い眼鏡に成り下がった。
弁当を食った。空になった弁当殻を水で洗う。明日が資源ゴミの日だからだ。丁寧な暮らしなんて言葉を嘲笑いながら、ゴミの分別というこの街で唯一己に残された市民としての義務を淡々と遂行する。誰にも看取られない独身公務員の夜が、こうして音もなく過ぎていく。
プラスチックを洗う水の音が部屋に響く。Xでは誰かがタワマンの窓から見える夜景を背景に、高尚な不幸を嘆いている。明日もまた25万2千円のために地獄の背景として出勤する。そこにドラマはない。反転もない。ただ冷え切った日常が半額シールの粘着剤みたいにベタベタと自分の人生に張り付いているだけだ。
消えたい。