はてなキーワード: 原点回帰とは
釈迦(ブッダ)はバラモン教の階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。
金銭で功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出を理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教の思想と大乗仏教の展開、そして日本独自の歴史的必然を、独立した視点で整理する。
紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教は祭祀・呪術・金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦は諸行無常・一切皆苦・諸法無我の四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である。
出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施は自発的な喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。
「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道」から逸脱した邪見とされた。
神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的は個人の解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。
釈迦没後約500年後、インド北部で大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教の個人解脱に対し、大乗は菩薩道を理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。
衆生の能力や文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律や無神論的性格が緩和された。
中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教的儀礼と融合。死後供養・功徳回向が積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰(阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律も大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩の利他行を優先するようになった。
この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化に適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド・中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。
仏教は6世紀に日本へ伝来したが、当初は国家鎮護・貴族の氏寺として機能した。飛鳥・奈良時代、僧侶は葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。
転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれる庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。
1630年代、幕府はキリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院の檀家に強制登録させ、寺が戸籍(宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻の証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀・法事・戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士・居士・院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。
荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家からの継続的布施を必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。
江戸幕府は仏教をキリシタン摘発の道具に利用した。信仰の自由などなく、寺檀関係は義務だった。
大乗の方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。
少子化以前から、寺院は布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。
浄土真宗のように法名を簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派は戒名料を伴う葬儀中心だ。
今日、寺離れ・直葬(火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教の視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲を増長させるだけで、涅槃の道ではない。
大乗の方便は、仏教を世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化で檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来の仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。
アンチ宗教の精神を忘れたとき、仏教は単なる葬儀屋となる。2000年の歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。
1990年代前半のフェミニスト系ミニコミ誌『CHOISIR(ショワジール)』を舞台に繰り広げられ、「フィクションの自由」と「他者表象の倫理」をめぐる激しい議論となりました。
• やおいの隆盛:1970年代の「花の24年組」(萩尾望都『トーマの心臓』、竹宮惠子『風と木の詩』など少年愛もの)→1980年代の同人誌ブームで「やおい」(やまなし・おちなし・いみなし=起承転結なしの二次創作)が爆発的に広がる。
• 1992年:ゲイ当事者の佐藤正樹氏が『CHOISIR』に投稿した連載「ヤオイなんて死んでしまえばいい」が火付け役。
◦ 核心主張:BL/やおいは現実のゲイ男性の経験を不正確にステレオタイプ化・美化・商品化し、性的ファンタジー材料にしている。「気持ち悪い女」「ゲイを玩具にするな」と痛烈に非難。
◦ 当時のBL典型描写(美形・裕福・差別ほぼなしの純愛、ホモフォビア的セリフ「男同士なんて…」など)が、現実のゲイの苦しみを無視していると指摘。
この投稿は大々的なゲイコミュニティの総意ではなく、1人のゲイ男性の過激な投書から始まったミニコミ論争でした(溝口彰子氏も後年「一般のゲイたちはほとんど気にしていなかった」と指摘)。
◦ 「これはフィクション・ファンタジーで、現実のゲイとは無関係」
◦ 「ほっといてください」(欲望の自律性=女性の性的想像空間に干渉するな)
◦ 結果、BLファン層が「腐女子」という自称を生むきっかけにも。
◦ BLが「一見寛容そう」なのに、内在的にホモフォビアや女性の欲望優先を再生産している。
◦ 現実のゲイ経験を「借用・消費」するだけで、当事者の声は無視。
石田氏は1992年のフェミニスト誌『Choisir』掲載の佐藤正樹(ゲイ作家・批評家)による批判と、BL側の反論を起点に論を進めます。
「フィクションだから現実のゲイとは無関係」「ほっといてください」(現実のゲイ男性に干渉される筋合いがない)という「欲望の自律性(autonomy of desire)」を盾に、批判を退ける。
石田氏はこの「ほっといてください」という表明を丁寧に分析しつつ、「自律性」と「表象の横奪」の両立した視点で批評します。
「欲望の自律性」は女性の独自の性的・感情的空間として一定の価値を認めつつ、それが「表象の横奪(representational appropriation)」という問題を隠蔽していると指摘します。 
石田氏の造語・概念。女性作者・読者が他者(現実のゲイ男性)の経験・アイデンティティ・表象を無断で借用・商品化している状態を指します。
• 「一見寛容そう」なBLの表層(男性同士の恋愛を描く)とは裏腹に、内在的な差別的要素を具体的に列挙。
1. ゲイキャラの「利用後捨て去り」:物語でゲイ男性を道具的に登場させ、恋愛が成就した後は「現実のゲイ」として扱わず捨てる。
2. 言語的・二元的な非対称性:標準語=正常/オネエ言葉・方言=異常という二分法で、ゲイを「異常者」として描く。
3. 頻出するホモフォビック発言:キャラが「男同士なんて気持ち悪い」「こんなことしちゃいけない」と罪悪感・嫌悪を繰り返す。
4. 同性愛アイデンティティの否定:「自分たちはホモじゃない」「これは特別な相手だけ」といった、ゲイとしてのアイデンティティを拒否する描写。 
これにより、BLは「現実のゲイとは無関係」と主張しながら、実際にはゲイの表象をステレオタイプ化・消費していると結論づけます。
• 肯定的影響:BL作者・読者が表現を見直すきっかけに(ホモフォビア描写減少)。
• 残る課題:石田氏が指摘した「表象の横奪」は今も根強い(会話で触れた書店配置:BLは一般棚、ゲイ書籍は奥の18禁スペース → 一般人の「同性愛=BL」混同)。
• 商業的歪み:BL市場300億円規模 vs. ゲイ当事者メディアほぼ消滅 → 女性の欲望がゲイ文化を「巨大ポルノ産業」的に消費する構造が固定化。
• 海外でも「yaoi ronsō」として引用され、中国danmeiやThai BL研究の基礎に。
やおい論争は単なる「感情的ぶつかり合い」ではなく、フィクションの自由 vs. 他者表象の責任を問う、BL文化の「原点回帰」の場でした。
この論争を振り返ると、現在のBLブーム(ドラマ化多数)や書店配置の歪みが、1990年代の「平行線」の延長線上にあるのがよくわかります。
考えてみた。以下を聞くだけ。
〜の曲〜について、以下を踏まえて解説してください。
・フックとなる特長と、曲全体の印象
・曲構造の特徴
・コード進行の特徴
・ビートの特徴
・曲が発表れた当時におけるインパクト
・対象曲から想起される、関連アーティスト、影響元のアーティスト
↓Beatlesの「Get Back」についてこのプロンプトで聞くと
以下では、**The Beatles「Get Back」**を、楽曲分析・歴史的背景・影響関係まで含めて総合的に解説します。
⸻
■ フックとなる特徴と、曲全体の印象
• **ループ感の強いコード進行(A7ワンコード中心)**と、ドライブ感のあるシャッフル気味のビートがフック。
• 全体としては「軽快だがタフ」「ジャム感のある粗削りなロック」という印象。
• 当時のビートルズとしては珍しく、**“引き算のアレンジ”**によるライブ感が際立つ。
⸻
■ 曲構造の特徴
• イントロ – ヴァース – コーラス – ヴァース – コーラス – エンディング という非常にシンプルな構成。
• 構造上の特徴は、ヴァースとコーラスのコードがほぼ同じで、メロディと歌詞によってセクションを分けている点。
• 1969年のビートルズとしては珍しい、ブルース寄りのワンコード型ロックンロール。
⸻
■ コード進行の特徴
基本は下記の通り:
• A7ワンコードで進む(キーはA Mixolydian的に解釈可能)
• コーラスで D → A7 と行くが、非常に短く戻るため、実質ワンコード感が維持される
結果として、
が強調されている。
⸻
• ほぼライブ録音に近いテイクで、Rooftop Concert(屋上ライブ)演奏が公式版として使われた。
• ジョンのギターのカッティングはゆるいノリで、ポールのベースは跳ねるグルーヴを担当。
● ビリー・プレストンのエレピ(Fender Rhodes)が決定的
• ロールするようなエレピのフレーズがサウンドを“ブラック・ミュージック寄り”にしている。
• プレストンの参加は、ビートルズ内部の緊張を和らげたといわれている(トリビア)。
⸻
■ ビートの特徴
• R&B由来の**「裏」で跳ねるノリ**
• リンゴのドラムはハイハットの刻みが緩い「ロックンロール+R&B」ハイブリッド
• 現代的に言えば**“スワンプ・ロック”**に寄ったグルーヴ(CCR的とも言える)
⸻
■ 歌詞は何を表すか
「ジョジョ」「ロレッタ」といった架空のキャラクターを通じて、
また、一部のデモで語られた社会風刺(1968年の移民問題を揶揄した歌詞)も背景にあるが、公式リリースでは中立的/寓話的になっている。
ポール本人は「深い意味ではなく、ファニーな物語」と語ることが多いが、時代背景が透けて見える作品。
⸻
■ 曲のジャンル
複数の影響が混在:
• ロックンロール
• スワンプ・ロック
特にビリー・プレストンの参加によって黒人音楽寄りのフィールが強くなった。
⸻
• ポールは「R&B / ロックンロール的な原点回帰」を狙った曲。
• “Let It Be / Get Back sessions”の精神である**「Get back to basics(基本に戻る)」**そのものを象徴。
• ビートルズ末期の作品の中では珍しく、明るく、軽快で、ポジティブなムードを保った楽曲。
⸻
■ 発表当時のインパクト
インパクトとしては:
• 「ビートルズがルーツ・ロックに回帰した!」と強く受け取られた
• 深刻化しつつあったビートルズ人間関係が、外部のビリー・プレストン参加で改善したことが話題に
• サウンド的にも、複雑なスタジオ実験に傾いていた後期ビートルズからの大きな転換となった
⸻
■ 「Get Back」から想起される関連アーティスト/影響元
影響元として考えられるアーティスト
• Little Richard / Chuck Berry / Jerry Lee Lewis(ロックンロール)
• Ray Charles, Billy Preston(R&Bピアノ)
間接的に想起されるアーティスト
• CCR(Creedence Clearwater Revival)
• Leon Russell
⸻
直接的・間接的に:
• 1970年代のルーツ回帰ロック全般(カントリーロック、スワンプロック、シンガーソングライター系)
• Rolling Stones『Let It Bleed』『Sticky Fingers』などにみられるルーズなR&B感
• ポール自身のソロ作品(特に「Band on the Run」「Junior’s Farm」など“軽快ロック”部分)
• Oasisなど90年代ブリットポップにも引用的影響(脱力系ロックンロールのスタイル)
⸻
• “The Beatles with Billy Preston”名義でリリースされた唯一のシングル。
• 屋上ライブでは、警察がビルに乗り込むところまでが映像作品に残り、音楽史の名場面となっている。
• 初期デモでは、**移民問題を皮肉る“政治的パロディ歌詞”**があった。
• レノンはこの曲で Epiphone Casino を使用し、ポールは Höfner 500/1ベースを使用。
https://mainichi.jp/articles/20251004/k00/00m/010/030000c
参院選大敗を受けた自民党の総括に記された「解党的出直し」に向けて、総裁選で各候補はこう訴えた。
岸田、石破が解党させるくらい壊したやつを、時間を戻すってつもりなんだろ。
トーンだけだと、こんなふうに感じた。
(自民党を変えたい派) 林≧コバホーク≧進次郎>>茂木>>>高市 (自民党を元に戻したい派)
やんわり改革派と、めっちゃ戻したい派で、戻したい派が勝った。
関税なんかかけたら自分たちの暮らしが困るってのにトランプを押すアメリカの低所得者らと、インフレで困るってのに高市を押す日本の低所得者。
ぶっちゃけこれって構造的な問題であって、お母さんも子供もそれの犠牲者なんですよね。
なんで子供たち(に限らないですが)が靴のかかとを踏むかというとちゃんと靴を履くのが面倒だからですよね。
で、なんで靴を履くのが面倒かというと、日本の家や生活習慣や教育機関が靴をちゃんと履ける環境になっていないからです。
日本の家は、といっても一軒家を除くんですが、玄関で靴を座って脱ぎ履きするようになってないんですよね。
一軒家でちゃんと上がり框がしつらえてあれば座って靴を履いたり脱いだりできるんですが、集合住宅だとたたきと5cmくらいの段差があるだけで座れる構造になってなくて、立ったまま靴を脱ぎ履きしないといけないようになっています。脱ぐときに靴ひもをほどいて、履くときは靴ひもを緩めて足を入れて靴ひもを締めて結ぶというのがきちんと靴を履くということですが、立ったままこれをやるのはかんりしんどいし、腰への負担にもなります。それでどうなるかというと、いちいち靴ひもを緩めたり締めたりしなくていいようにずっとゆるゆるにしておく、それでも面倒だからかかとは踏んでサンダルや草履みたいに履けるようにしてしまう、と。まあもともと日本人は草履と下駄を履く生活をしていたわけである意味原点回帰といえるかもしれないですね。最近はバリアフリーということで一軒家でも玄関の段差も低めになってたりスロープになくしたりするみたいで、ますます靴を履きにくくなっているのかもしれませんね。玄関に段差があるのは、日本では家屋を高床式にして基礎を30~50cm高く作るようになっているからで、これは湿度が高い気候で地面が湿っていて水害もままある土地に木造住宅を建てるには必要なことなんでしょうね。
それで次の問題は、そういうあまり靴をちゃんと履けるようになっていないところで靴をちゃんと履いても子供たちが学校に行くとせっかく履いた靴を脱げとなる上靴下靴文化ですね。せっかく靴を履いても30分もしないうちに脱げと言われるんじゃ、まともに履く気にはならないですよね。そして上靴を履くときに靴を履くための環境は全く用意されておらず、登校してきた子供たちがひしめく中で立ったまま履かないといけないわけです。立ったまま靴を脱ぎ履きできるようになることは新小学一年生が最初にできなくてはならないことの一つだそうです。学校が率先して靴の変な脱ぎ履きの仕方を教えているということですね。それで、休み時間にグラウンドで遊びたいと思ったらまた上靴を脱いで下足に履き替えないといけないし、休み時間が終わったらまた下足を上靴に履き替えないといけないし、グラウンドでの体育や校外学習があったりするとその時も同様ですね。なんというか日本の小学校に足育なんて夢のまた夢、学校がかかとを踏む子を育てていると言っていいでしょう。
大人は子供たちほど靴を脱ぐ場面があるわけではないですが、子育てしていると保育園の登降園時に発生しますし、職場でスリッパに履き替える人がいたり、履き替えないといけない職場だったり、デスクの下で靴を脱いでいたり、昼食や夕食に行った先が座敷だったり、ということもありますね。ちゃんと座って靴を脱いだり履いたりして、靴ひもを結びなおしている人がどれだけいるでしょうか。そもそも靴ひもは毎回結びなおさないといけないということを知らなかったりしますよね。子供のころからそういう風に指導されてませんからね。
まあ、そういうわけで靴のかかとを踏んでしまうのは、靴をきちんと履ける場所がないことと、それにもかかわらず高頻度での靴の脱ぎ履きを要求されるから、ということになりますね。
だからサブスクには心から魅力を感じていたし今年の2月までは加入していた。毎週、何かしらの作品は観ていたんだ。
映画が山ほど揃っていて、好きなときにいつでも観られる。そんなの天国だと思っていた。だが現実にはちょっと違うというか、好きな作品をいつでも観られると思うと集中できないことが増えた。スマホをいじりながら流して、ながら観のようなことも増えていった。
それでも配信終了のお知らせが来ると、まだ観ていない気になっていた作品を慌てて再生するようにもなった。「今のうちに観ないと損だ」と思って、焦るように観る。でもそうやって観ても、正直あまり楽しめない。なんだか映画好きだったはずなのに、全然楽しめない。全然違うことをしているような感覚があった。
そういう状況に気づいて、思い切って2月にサブスクを解約した。原点回帰して、映画を観たいなら映画館へ行こうと思ったんだ。しばらく足が遠のいていたが、ふと気まぐれに近くのシネコンへ行ってみた。
久しぶりにでかいスクリーンの前に座ると、それだけで胸が高鳴った。上映が始まった瞬間、驚いたよ。音響の迫力が昔とは比べものにならなかった。低音が腹に響き、細かい環境音まで鮮明に聞こえる。スクリーンの大きさに包まれる感覚。暗闇の中で物語に没入する感覚。久々だったが、圧倒された。改めて映画はこういうふうに観るものだったと思い出した気がした。
それ以来、毎月何度か劇場に足を運ぶようになった。もちろん費用はサブスク代より高い。観られる本数も当然減った。でも、不思議と満足感は圧倒的に今のほうが高い。劇場で観る一本は、家で観る十本よりずっと心に残る。映画が特別な体験として戻ってきた感じがする。
ちなみに、最近だと『国宝』は特に良かった。これは劇場でこそ観るべき作品だと思う。スクリーンの大きさと、映画館の音響のなかでこそ、この作品の空気感と緊張感は本物になる。これは断言できる。俺がいうんだから、信じて間違いないよ。
「エロゲーってすぐ脱ぐじゃん?逆に服着てる方がエロく感じるときあるよね」
そんな逆張り的な声がSNS上で一定の共感を集める中、そのニーズに技術的に真っ向から応えたエロゲーがいま話題を呼んでいる。
本作は、近年台頭してきた次世代可視化エンジン「QUX(クックス)」を採用。
通称「量子エンジン」と呼ばれるこの描画技術により、同一人物の異なる衣服状態を重ね合わせて同時に可視化するという、従来のゲームにはなかった演出を実現している。
どういうことか。
本作では、プレイヤーが恋人関係になるヒロインの“裸の姿”と“制服を着ている状態”を、量子的に重ねたまま表示することが可能なのだ。
これはつまり、キャラは服を着ているのに、脱いでいる状態も“同時に存在”しているように見えるというもの。
いいえ、違います。
単なるシースルーやエックス線的な演出とは異なり、QUXでは服の質感や重なりによる陰影と、肌の熱反応による微細な色変化までを物理演算している。
”裸を見ながら(味わいながら)、制服を愛撫する”という、高度に内面的なフェティシズムの再現が可能になっている。
シナリオ面でも、本作は一線を画す。
主人公は「世界の観測構造が狂った都市」でヒロインと邂逅するが、彼女は“自分の身体の状態”を自覚的に認識できず、服と裸の“存在確率”が曖昧なまま恋が進行する。
その結果、セックスシーンはどれもが"触れた感触と見えている視覚情報がズレる”という奇妙なズレを帯びており、プレイヤーは常に「これはどちらの彼女なのか?」と問われ続けるのだ。
エロゲーの表現が飽和し、単なる脱衣では抜けなくなった現代のエロゲー表現の限界に挑戦する本作、突きつけるものは視覚ではなく想像力をエロティックに加速させるという原点回帰だ。
そのうえで、技術的進化によって二重の世界を“視覚化”した点で、本作は極めて野心的な試みといえる。
着ているのに見えている
糖質制限ダイエットは何度が試したことがあり、短期的にはガクッと体重が落ちてくれた。しかしいずれも続かなかった。
理由として、食べて良いもの自体が制限されるというのは普通の生活では結構大変というのがまず1つ。ましてや主食だからね。外食しなきゃいけない時とか選択肢がかなり狭まってしまうし、これは食べてよいのか?と一つ一つ気にするのが精神的にキツかった。
よほどダイエットに本気な人(例えば減量期のボディビルダーとか)以外はこのハードルがかなり高いと感じる。
正直、お米やパンや麺類が食べたいという欲とか、血糖値が下がってふらつくとか、そういうのより糖質制限を常に考えて生活するのが辛かった。
それともう一つ、糖質制限中は不足するカロリーを補うために代わりにタンパク質や脂質を多めに摂る事になるんだけど、これらって「密度」が高すぎるのね。
要は物理的な量として一食分の肉とか魚って小さいからあんまり胃が膨らまないわけ。カロリー的には足りてるから長い目で見れば問題なくても、食事そのものの満足感が全然得られなかった。
もちろん血糖値も上がらないから、お腹に入ったのは分かるけど本当に食べたのか?って脳が混乱してる感じがした。
だからカロリー管理に切り替えたけど、まず野菜や海藻中心の食事にしてみたらこれまたあまりうまく行かないと分かった。
これらは肉や魚の逆で密度が低すぎるんだよね。
確かにサラダとかはカサがあるからその場ではお腹も膨れてたくさん食べたなという満足感はある。
しかし結局野菜ってほとんど水なのでしばらくすればすぐにお腹が空いてしまう。いくら食べても早くお腹が空くとどうしても空腹によるイライラが発生してしまう。これまたしんどいものだ。
つまり
・肉や魚:空腹にはなりにくいが食事に対する満足感を得にくい
ということが実感として分かった。
だから今は、主食も含めたバランスの良い食事(要は定食とか)を適量食べるというある意味当たり前な食事に原点回帰した。
野菜や海藻から食物繊維を摂りながら並盛のご飯(なるべく雑穀米とか玄米を選んでる)を食べれば血糖値が適度に上がるから満足感はあるし、そこに肉や魚を組み合わせれば満腹感の持続性もある。
更に気付きとして、小鉢が複数付くなど品数が多い食事はトータルとして少なめでも結構満足できると分かった。ちゃんと食べたという感じがある。
幸いな事に私は肉より魚が好きなので、焼き魚とか刺身とかの低カロリーな和定食を中心にするのは苦ではないし、肉が食べたくなったら別に我慢せず食べればよい。
またご飯を増減させれば1日のカロリーを調整する事もできる。これはすごく便利だった。
子供の頃の教育(田舎の農家出身の両親による、とにかく早くたくさん食えというもの)のせいか丼とか麺類のような一皿完結のものを一心不乱に食べる習慣が付いてしまっていて、定食という選択肢が脳から消えていた。
とにかく大量の米を少量のおかずでかきこむようにしなければならないと思いこんでいた。
でも適正な量のご飯でもちゃんと食事が出来ると良い大人になってからようやく理解できた。
これでやっと人並みの食事が身について、人並みに痩せられそうだ。既にしばらく続いていてそれなりに痩せてきてるので、このまま続けていきたい。
かつての高度な交通網・通信網が十分に保守できず、地方では故障した基地局や新幹線車両を“掘り起こして”部材を転売する個人業者が台頭。半導体を取り出す「都市鉱山」ビジネスがスラムの定番職業に。
百歳人口密度世界一となり、海外の医療・老年学スタートアップがフィールドワーク目的で村ごと受託運営。老人ホームが“生きた博物館”として見学料を取る逆輸入モデル。
電力・通信を自前でまかなうオタク技術者がクラウドファンディングで“町内向けミニ発電所”を量産。コミケのノウハウをインフラ構築に転用し、自治体より早くサービスを復旧。政府が後追いで許認可を出す「公→私」逆転現象。
光熱費高騰で煮炊きが贅沢に。魚粉を超圧縮した“出汁キューブ”が主食扱いになり、食卓は湯に溶かすだけの流動食化。結果として味覚の微差を競うオタク層がガストロノミーを牽引し、“お湯割り職人”が登場。
ネット速度が不安定になる中、テキストベース+8bit音声のみの軽量メタバースが復権。昭和レトロなドット世界が若者の主ステージとなり、「現実はハードだがオンラインは8kbpsで優しい」という逆転。
輸入労働者と高齢日本人が意思疎通するため、ひらがな+簡体字+絵文字を混ぜた即席言語が広がる。やがてインドネシアやフィリピンに伝播し“コンビニピジン”として逆輸出。
中央税収が細り、巨大企業が道路補修や水道維持を肩代わり。結果としてトヨタ藩・ソニー藩・楽天藩など“企業領国”が自治権を持つ。住民は「どの藩に所属するか」を就職ではなく“帰属”として選択。
正規軍維持が難しくなり、個人オーナーのドローンをスマートコントラクトで束ねたバーチャル傭兵団が離島防衛を請け負う。トークン配当で機体を共有保有する“戦争版NFT”が出現。
高層マンション維持費が出せず、上層階が無人化。1–10階は低所得者が占拠、20階以上はクリエイターが格安アトリエとして使用。エレベーター運賃が電動キックボード並みに課金制に。
公教育が縮み塾も淘汰される一方、オープンソースLLMを使った“寺子屋AI”を町内で共同運営。江戸時代さながらの私設学習所にハイテクが融合し、学習の地域格差がむしろ縮小。
海外スタジオが費用を持ち、日本で食えなくなったマンガ家を国外アトリエに“流刑”する制度を創設。現地産業振興と日本マンガ存続を同時に図る“負けて勝つ”クールジャパン2.0。
国家保険崩壊後、外国製新薬のフェーズⅢ治験が日本全土で実施。高齢者が参加して医療費を浮かせる“治験ツアー”が一般化し、治験成績優秀者には「ゴールド被験者カード」が発行。
鎌倉大仏の譲渡担保で港湾を改修、浮世絵一括担保で衛星を打ち上げるなど、美術品がデジタル資産化され国際市場を回遊。やがてDAOが国宝を分割所有する“分散保護”へ。
災害多発と公的補償低下を受け、自宅をリビングシェルター化した住民が“被災シェアリング”の株式を発行。豪雨で止まった地域に対し、家ごと貸し出し配当を得る“寡占シェルター市場”が発展。
「町が無人になる瞬間」をYouTuberが24時間中継し、スーパーチャットで遺跡保存費を賄う。人口ゼロ記念セレモニーが国際的イベントに──“負の達成感”をコンテンツ化する逆転思考。
これNetflixで見て損した。人類滅亡の設定は面白いよ。破滅系が好きな私には刺さる世界観なんだけど、メインストーリーの少女5人組がガチで合わなかった。
政府と自衛隊による侵略者への対応とかサブストーリーだけ切り取って見てる分にはかなり面白かった。侵略者を自衛隊が駆除する描写はそのまんま殺戮って感じで、そこだけフォーカスした物語だったら9/10だった。
メインストーリーの少女5人組がつまらなすぎて一部飛ばしたレベル。UFOがある首都で日常系をやりたかったんだろうけど、『ぼくらの』みたいに悲惨さに寄せてるわけでもないし、
かといって『シンゴジラ』とか有川浩の『海の底』みたいな、政府や自衛隊の描写メインでもなく、出てくるギャグは面白くない。Coopとかナイフ限定鯖とか「その辺も把握してます」って感じでキャラに喋らせてるのも合ってない。
しかもこのゲーム好き、ゲーム得意という設定、全くメインストーリーで生かされてないし、そのセリフに費やす時間がムダすぎる。あと教師と主人公がセックスすることを友人が期待しているという一連のギャグも、
UFOがある街での日常系の一部として描いてるのが無理。そこまで描くならもっとエロ描いてればいいのに結局ほとんど描かれておらず、最終的には並行世界に飛んでハッピーエンドの世界線では同棲して何年を迎えてオチとかも、普通すぎて何も意外性ない。
最近昔の作品をリブートさせる動きが広まってるけど、「色々な人に刺さる要素盛り込みましたこれで全員にウケて稼げますスペシャル」みたいなストーリーより要素の多さを優先するコンテンツが氾濫して全体的に面白くないので、
ストーリー重視の昔の作品に原点回帰したくなってるんだろうな。本作はまさに、良くも悪くもこのスペシャルで、私には合いませんでした。まあタイトルの時点で察するべきだったかもしれない
土曜日に私生活色々やって日曜日はスタレの新エピソードとゴールデンマン読もうと思ってた。
そこにSBR全話無料が来たのでそれを読んでいたら日曜日がバイツァ・ダストした。
充実の一週間だった。
読むのは3周目か4周目。何度読んでも分からない要素は分からないままだなと感じた(保護色・公園でのD4C等)。ジョジョシリーズの集大成みたいな感じの作品なんだなという気持ちが読む度に強くなる。6部が表向きの最終章で、7部が集大成、8部以降がボーナストラックという印象。西部劇ベースってのも映画を漫画でやるジョジョ的空気の原点回帰って感じでいんだよなあ。本当面白かった。読んだことがあって全24巻ぐらいなら12時間もあれば楽しめるもんだなあ。
・スティール・ボール・ラン(24時間全話無料)
双子の男女が両方主人公の「シンジケート」や、サブ的に一部エピソードで女がプレイアブルになる「オリジンズ」があったが、UBIは当初はオデッセイではメインシリーズ初の「単独女性主人公」をやろうとした
しかし、女キャラは「俺達の目」にはなれないという反発があって渋々男女両方使えるようにした
男主人公を選ぶと女主人公は生き別れの妹として登場、女主人公を選ぶと男主人公は生き別れの弟として登場する
次回作「ヴァルハラ」では人間じゃない主人公が性別をいつでも切り替えられる形式になった
ヴァルハラのDLCの予定だったが単独化した次回作「ミラージュ」は男性単独主人公
UBIの公開されている資料を見ると、どうもシャドウズでは男主人公は当初おらず、NINJAの女主人公奈緒江が初期から構想にいたようだ
なんか「はじめは男NINJAが主人公だった」という主張も見るが、それはソシャゲ「メモリーズ」のヤマウチ・タカとの混同なだけと思う
炎上前から現在まで、奈緒江がまず先に作られたとよくスタッフが言っている
正式タイトルが決まる前のリーク画像では奈緒江だけが写っている
悲願の「単独女性主人公」をシャドウズで初めてやろうとしたのではないか
でもやはり女性だけだと「俺達の目」にはなれないので男主人公を追加することになり、「信長に伊賀攻めされ復讐を誓うNINJA」のパートナーに信長サイドのキャラを追加すれば面白い、最近流行りの弥助にしたらいいんじゃね?となったのではないか
ミラージュは原点回帰のステルス重視主人公で、奈緒江もステルスNINJA
奈緒江と正反対の要素が強いもう一人の主人公を組み立てていくのにも弥助は便利だろう
あと男女がプレイアブルの過去作は、ガワが違うだけで体格がほぼ同じで男女差がなかった
小柄なNINJAと巨躯のSAMURAIでぜんぜん違うプレイ体験をできるようにしたい、長身ムキムキ黒人とか差がめちゃくちゃついて面白いよなという発想がありそう
番外編ではなくメインシリーズで単独女性主人公の悲願はまだ叶わないが、次回作が魔女狩りをテーマにしてるそうなので次回作でこそ出来るかも…?