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はてなキーワード: 自体とは

2026-01-26

アイドルマスターシンデレラガールズを信じたい

アイドルマスターシンデレラガールズにハマってから14年以上

まりモバゲー版のリリース直後あたりからずっと触っている

あの時代ソシャゲに厳しい世論で、シンデレラガールズなんてポチポチゲーが故に厳しい目で見られることも往々にしてあったが、双葉杏というキャラクター一世を風靡してどんどん状況が

変わっていったことを今でも覚えている

ゲームとしては面白い面白くないかと言われたら全く面白くない

そりゃ課金して何も考えずにポチポチボタン押すだけのゲームに何の面白さがあるのかとこちから逆に問いたい

けれども、異常なほどハマった

ソシャゲにハマったのは後にも先にもアイドルマスターシンデレラガールズだけだ

他のアイマスソシャゲにも手を出したが、全然続かなかった

正直掛け持ちしてるやつすげえと思っている

担当と呼ばれる子もいる。リリース直後からずっとその子のことしか見ていない。目に入れても痛くない可愛さとはこのこと

担当のことは今でも好きだ

今でも世界で1番可愛い女の子だと思っている

けれども、ボイスとユニット曲を引っ提げて新キャラ追加からまりモバマスの規模縮小からのサ終、デレステは規模縮小したところで人気キャラしかガチャも曲も出さなくなり、新規ボイス追加も終了し、デレステ自体がほぼ更新終了してしまった

ライブほとんどいつメンしか出てこなく、企業コラボも人気のいつメンばかり

193人全員がシンデレラなんじゃないのか。俺は韓国の子も忘れていないぞ

担当はここ数年なにも動きがない。正確に言えばグッズは出たが、190人のグッズだったので担当の動きというかアイドルマスターシンデレラガールズ全体の動きとして括る

一部のアイドルばかりが露出していることに違和感を覚えている人は多いのではないか

そりゃ人気アイドルに焦点が当たることは売上的に仕方ないのかもしれないが、それでも偏りすぎだろう

正直言ってしまうと、どのコラボを見てもボイスと曲を引っ提げてきた新キャラがいるのを見かけて、あまりにも露骨だと感じてしま

アイドルマスターシンデレラガールズは昔からまあ露出の差が露骨に激しいコンテンツではあるのだが、デレステが縮小してからの動きはもっと激しくなっていると感じる

俺の担当が不人気だから仕方ないと言われるかもしれないが、人気不人気・ボイスの有無関係なく、こんなに露骨に差をつけるようなことをするくらいヘイト管理ができないのであれば、なんでバンダイナムコは193人もキャラクターを生み出したんだ?という気持ちになる

バンダイナムコとしてはここまでアイドルマスターシンデレラガールズが当たるとは思っていなかったのかもしれないが、193人を生み出した責任を果たすべきだと思う

俺はアイドルマスターシンデレラガールズを信じたい

アイドルマスターシンデレラガールズというコンテンツが好きだったから、昔は担当がいなくてもコラボを見かけたら買ってたり、ライビュに行ったり、いろんな活動をして楽しんでいた

でも今はもうデレステ自体開いてなくて、ライブ担当が出てたとしても二の足を踏むようになり、コラボ情報は追わなくなってしまった

ここまで書いて思ったが、自分自身、こんなに昔は良かったということを言う老害になるとは思っていなかった

自分はもうバンダイナムコから見たらターゲット層ではないんだろう、もうアイドルマスターシンデレラガールズから離れた方が賢明かもしれない

けれども、担当のことは今でも世界可愛い女の子だと思う

他のキャラクター可愛いと思うが、結局のところ担当が1番可愛いと思ってしま

たくさん時間をかけたから、たくさん金をかけたから、そんなことではなく、やはり担当可愛いから、こんな愚痴まみれの文章書きながらもアイドルマスターシンデレラガールズから離れられないんだろうな

[]1月26日

ご飯

朝:アーモンド。昼:おにぎりサラダ味噌汁。夜:カレーうどん人参大根キノコと落としたまごスープ。ギョニソ。キュウリバナナヨーグルト。間食:マドレーヌ

調子

むきゅーはややー。おしごとはそれなりー。

ポケットモンスターブラック(あくタイプポケモン旅2周目)

ヤーコンを倒すところまで。

再開した時にゾロアークイリュージョン自分で混乱してしまい、自分のアホさ加減にがっかりした。

(一瞬、変なバグを踏んだかと思いリセットしかけた)

流石にぼーっとしすぎ。

グランブルーファンタジー

古戦場の200を周回。一人遊びなので250解禁すら一苦労だなあ。

だなあ、というか終わってないんだけど。

週刊少年ジャンプ2026年1月26日発売の感想

・アンダードクター(新連載)

医者にして暗殺術の使い手の主人公が両面で無双するお話

主人公よりも技術面では劣っている老齢のお医者さん石黒さんが、ちゃん医療従事者として良い意味での高いプライドを持って主人公に接するところで、好感度がとても上がった。

安易に「性格が悪いキャラ」に逃げない真摯作品だと思った。

ある意味踏み台的な描写だけど、彼がちゃんと優秀な医者からこそ、主人公の優秀さと異端さの両面が光るとても良い1話だった。

次回以降は、医療の方句と暗殺の方向とのバランが気になるところだ。

呪術

ダブラが反転術式を覚えて、虎杖が登場する回。

ダブラとマコラのイチャイチャ面白いけど、領域展開もなく順転だけで戦うダブラがどこまでやれるのかは気になるところ。

前作でマコラと戦った五条スクナも策を弄するキャラだったから、ダブラの良い意味での愚直さはマコラと確かに仲良さそう。

後半は、色々と不穏な布石はられていたものの、そこまで悲惨な状況じゃないのかなあ? と、まだ判断は保留なものの、前作主人公の登場はたぎる。

ウィッチウォッチ

作戦が早くも破綻し始める回。

アラートがならなかったことが話の発端なのに、アラートありきの作戦を建ててるからある意味予想通りなんだけど、作中人物たちにとっては予想外みたい。

うーん、この辺なにかアンサーがありそうだけど、長期シリーズからメモリが揮発していくので単行本を買いたくなってきた。

(おそらく、アラートがならないこと自体の答えは持ってて、それを逆手にとる魔法の組み合わせがあるんだと思う)

伊藤詩織擁護派による東京新聞批判の危うさ

論理詰が甘いよ、所詮村の中で吠えてるだけ。

前提

東京新聞記事に訂正が入った事実存在する

• その訂正自体問題視検証することは正当な行為

部分訂正から全体否定への飛躍

• 一部の誤りを

媒体全体の信用否定拡張

• 「誤りがあった」から

誤報を広めた」「信用できない」へ短絡

意図の断定

• 誤りの存在

意図的・悪意的報道と結びつける

• 立証困難な動機論に踏み込む危険

批判対象すり替え

記事内容の検証から

記者媒体のもの評価へ移行

• 具体的論点拡散し、検証不能になる

擁護自身論法との自己矛盾

擁護派は

「一部の過激批判で全体を否定するな」

と主張してきた

• 同時に

一部の誤りで報道全体を否定する

論法自己矛盾を起こしている

法的・倫理的リスク

• 「訂正があった」→ 事実

• 「誤報を広めた」→ 強い評価・断定

無限定一般化は

名誉毀損信用毀損危険性を高める

議論を後退させる効果

本来必要

・どこが誤っていたのか

・なぜ訂正が必要だったのか

対応は十分だったのか

という検証曖昧になる

• 結果として論点が前に進まない

より妥当批判の方向

• 訂正が必要だった具体箇所を限定

• 訂正のタイミング・周知方法検証

• 影響の範囲事実ベース評価

総括

東京新聞批判のもの問題なのではない

• 全体否定意図断定に踏み込む点が危うい

限定的・検証型の批判に戻らない限り

議論は自壊する

Linemoの設定

Arrows we2 ausimフリー端末を買ったら、LinemoのAPN設定が必要だった(沼った)。

電話は掛けられるのに、Wifiを切るとネットワークが繋がらないという謎状態

モバイルネットワークにLINEMOが表示されるので、設定しなくてもつながるのかなと思ったか?残念だったな(残念だったよ)。

[設定]から[アクセスポイント名]をタップ

「このユーザーアクセスポイント名設定を利用できません」が出るので、画面上部の+記号タップしてAPN設定を追加する。

LinemoのAPN設定自体はLinemoのサイトにあるので、そこから持ってくればOK

上の三点のマークから[保存]して、戻れば選択できるようになってる。

伊藤詩織擁護派の過激対応名誉毀損リスク

村社会で慣れ合ってるけど危うい発言があるのよね。

前提

問題になるのは立場ではなく言動

• 「擁護している」こと自体免罪符にならない

過激化でリスク高まる理由

意見表現から事実断定へ変質しやす

感情の高まり表現が粗くなる

危険になりやす行為類型

実名を挙げて「デマ」「虚偽」と断定

動機や内心(売名・悪意など)の決めつけ

特定人物投稿晒し、反復的に拡散

批判誘導する形での引用・リポスト

法的に問題視されやすい点

社会的評価を下げる表現

事実摘示と受け取られる書き方

真実性・公益性の立証が困難

• 反復性により共同不法行為が成立しやす

誤解されがちな論点

• 「性暴力問題=何でも公益性が通る」わけではない

議論一般公益性個人攻撃必要性は別

正義感の強さは法的評価に影響しない

比較安全ライン

個人特定しない構造論法批判

事実引用評価の明確な分離

• 「〜と感じる」「〜と見える」など意見表現

総括

過激になるほど名誉毀損リスクは上昇

• 問われるのは立場ではなく書き方

正義を掲げても法的責任は免れない

AIドラゴンカーセックスは描けない」と言っている人がいた

その人自体結構好きなので、あまり悪く言いたくはないが、ドラゴンカーセックスってむしろネット上にそこそこデータが転がっててまあまあ描きやすい部類ではないかと思った

実際試してはないけれども

anond:20260126083426

死ぬ前に認知症になる

それによっても同じ結論を導くのなら、問題死ぬことそれ自体にあるわけではないことになる

anond:20260126171448

次の与党を作るために失敗する可能性があっても他党に与党経験してもらわないといけない

なので民主党政権運営自体が失敗しても構わないと思っている

そして、その失敗から学ぶことができたのであれば成功だと

ただし、その後十数年見届けた結果、あいつら何も学んでないから大大大失敗だったと思う

anond:20260126083426

信仰心がない人間には気休め、非科学的どころか、狂信者カルトに思われるかもしれないけど、

その答えは信仰にこそある、つまり宗教だよ…😟

みんな想像力が足りないんだろうけど、砂漠とか何もない土地羊飼いが…、って呑気な生活なわけないじゃん…😟

子供向けの絵本とか、まあ大人に対しての説明でも呑気な描写がされてたりすることが多いけど、

どう考えたって、大昔の人は死と隣り合わせの生活だったわけだ…😟

それはキリスト教だけじゃなくて、仏教とか、他の太古からある宗教はみんな同じ…😟

死が身近にある環境で、死をどう捉えるか、どう考えるか、が宗教の中には今もある…😟

ところが、今の時代は死が普段生活から遠ざかってしまってる、

室町時代みたいに、その辺の道端に死体が転がってるわけでもない、

亡くなった人間だって、奇麗に死に化粧エンバーミングされて、火葬されれば骨と灰になってる、

ゾンビ死体歩いてるけど、あれはフィクションであって、実際の腐敗とは異なっていたりする…😟

死ぬかも、明日生きてないかも、という環境下で、いわゆる神、神仏は機能するのだと思う…😟

敬虔信仰心必要ないが、自分死ぬまで、宗教哲学の本を読んで考え続けるべきだし、

これは自分が死んでも答えが出ないものだ、

「チ。」で語られていたように、これは考え続けること自体が答えなのだ…😟

NHK払いたくないにょ~ん

当時は母親ジャニオタだったのでジャニ番組を見るためにBS契約してプラスアルファで払ってる

もう親がBSを見ることはないし、他の家族そもそもNHKを見ない

もう受信料払いたくないけど、引っ越しもしてないのにBSだけ払いませんできないの辛すぎる

なんで払ってる家庭と払ってない家庭があるんだよ、今時データ放送なんだからBS映りませんって家庭のほうが少ないだろ

通常受信料払ってるだけ払わないとこより優良世帯なんだからBSは辞めさせてくれよ

てかもっと言うならそもそも受信料自体一円も払いたくない。口座引き落としにしてるから払いませんでもできないし払うけど

せめてBSだけでも解約させてくれ

生きてる意味が無いというなら今、死ねばいいだけ。

死にたく無いというなら死や苦痛回避目的

この問い自体そもそもウソで、本質

「何か立派なことがしたい(でも出来ない)」とかでしょ

まずはウソをつくことからやめるべき。

【論考】内閉する欲望系譜:「私小説から萌え」への病理学的転回

【はじめに】

日本サブカルチャー特に二次元コンテンツにおける「廃(ハイ)」や「萌え」の底流には、特有の湿り気がある。それは、公的領域から撤退し、極めて私的で、時に猥雑とも言える内面世界への耽溺である

一般に、これは戦後日本の豊かさが生んだ徒花だと解釈されがちだ。しかし、この「社会から撤退内面への沈殿」という構造自体は、決して新しいものではない。

本稿では、明治期の自然主義文学変異した「私小説」と、現代の「二次元オタク文化」を、同一の精神構造を持つ歴史的双子として定義する。両者は、近代日本という抑圧的なシステムの中で、個人主体性確立できなかった者たちが選び取った、必然的かつ病理的な適応戦略である

1.明治の「布団」と現代の「モニター」:同型としての引きこもり

日本近代文学は、「自然主義」の受容から始まった。本来ゾラなどの西欧自然主義は、社会の暗部を科学的かつ客観的に暴き出すリアリズム手法であった。

しかし、この「社会記述するメス」が日本に持ち込まれとき、奇妙なねじれが発生した。田山花袋の『布団』に象徴されるように、記述対象が「社会から作家私生活(性欲・嫉妬・無様な内面)」へと急速に矮小化されたのである

なぜか。明治維新後の強権的な藩閥政治(前稿参照)の下では、知識人ペンによって社会を変革することは不可能だったからだ。

巨大な国家権力という「壁」を前にして、個人エネルギーは行き場を失い、内側へと逆流した。彼らに残された唯一の自由領土は、国家干渉しない「布団の中(性生活内面)」だけであった。

現代の「廃(オタク)」がモニターの中で美少女キャラクターを消費する構造は、明治文人が女弟子の布団の匂いを嗅いで文学へと昇華させた構造と、位相幾何学トポロジー)的に完全に一致している。

それは、「公的領域での敗北」を「私的領域での支配」によって代償しようとする、日本近代特有精神運動である

2.ミッシングリンク生存の「私小説から、消費の「データベース」へ

しかし、明治文人現代オタクの間には、決定的な環境エコノミー)の違いがある。私の初期の考察における欠落は、この「経済的下部構造」の変容を軽視していた点にある。

明治の「私」への撤退は、貧困封建的制度の中での「苦悶」であった。

対して、現代の「私」への撤退は、高度資本主義下での「消費」である

この変質をもたらしたのは、二つの歴史的断絶だ。

①「公」の死(1945年):

敗戦により、天皇という絶対的な「父(公)」が失墜した。これにより、個人の内向化を止める道徳的ストッパー消滅した。

②「革命」の失敗と「消費」の勝利(1960-80年代):

60年安保・70年闘争の敗北により、若者たちは「政治社会を変える」というルートが完全に閉ざされたことを悟った(明治期の再演)。

時を同じくして日本高度経済成長バブルを迎える。資本主義は、行き場を失った若者たちリビドーを見逃さなかった。

社会を変えられないなら、虚構世界で王になればいい。」

資本は、かつては恥ずべきものとされた「私的で猥雑な欲望」に「商品価値」を与え、二次元産業としてパッケージ化したのである

3.「小農経済」の亡霊:一億総引きこもり社会

二次元」という楽園の底にある心理的基盤として、私はかつて「小農経済的私有性」を仮定した。この視点は、現代風に修正することでより強固になる。

現代オタク的消費は、まさに精神的な「小農」である

彼らは広大な社会荒野)に出て他者連帯することを拒否し、自室という「一畝(ひとせ)の畑」を耕し、そこで自分だけの作物(推し)を愛でる。

この「他者不在の閉鎖性」こそが、日本ムラ社会近代化の過程で到達した成れの果てである

高度に発達した資本主義は、この「精神的小農」たちに、安価で高品質肥料アニメゲーム・グッズ)を供給し続ける。

このシステムにおいては、もはやリアル他者と関わるコストリスク)を払う必要はない。経済的豊かさが、逆説的に「人間関係貧困化(私化)」を可能にし、それを永続させるための産業構造を完成させたのだ。

4.結論:鏡の迷宮の中で

文学社会の鏡である」と言う。

明治の鏡(私小説)には、国家に押しつぶされて布団に逃げ込む「無力な知識人」が映っていた。

平成・令和の鏡(二次元)には、豊かさの中で社会性を喪失し、モニターに逃げ込む「消費する原子アトム)」が映っている。

この二つは、異なる花に見えて、同じ根から生えている。

その根とは、「個人の自立」を許さず、「公的な変革」も許さない、日本という硬直した社会構造のものである

外部世界への作用を諦め、内なる欲望の充足のみに生のリアリティを求める態度。

それは「醜悪」あるいは「猥雑」と指弾されるかもしれないが、この国のシステムが正常に稼働した結果排出された、極めて合理的な「排泄物」なのである

我々が二次元コンテンツに見る輝きと虚しさは、行き場を失った魂が、資本主義というプリズムを通して屈折した際に放つ、最期の光なのかもしれない。

anond:20260126083426

生きているか不思議と思える

唯物論的に考えれば何も不思議ではないが、「なぜ生きているのか」と考えることは生を有意義に過ごすためには非常に有益で強力なきっかけだと、最近よく思う。

無ではなく有であるというのは、単に0か1かという話ではない。ここに意識があるということは、ここに世界解釈があるということだ。

すべての「意味」はそこから始まる。「意識」が存在しない世界では、意味理由歴史も何もなく、「存在する」ということ自体すらあやふやになり、何もあったかどうかすらわからない。

から、生まれてきて「なぜ生まれてきたのか」「なぜ生きているのか」と、自分存在自体意味を問うことは非常に人間らしい、有益な問いだと思う。しかしそこには、全員が同意できる確からしい答えはない。なぜなら、人によって「世界解釈」は異なるからだ。見えてる世界が違うからだ。

からその問いに自分が満足できる回答を出すのは時間がかかるかもしれない。しかし生まれてきたからには、いろんなもの意味を与え、評価をし、あなただけの「世界解釈」を作り上げてほしい。それは意識あるものしかできない。そして同時に、自己がここにある意味も考え続ける。わたしはそれが非常に人間らしい生き方だと思う。

anond:20260126083426

まず目的とか目標というのは人間が作った幻である

国のために、教祖のために、機械伯爵のために生きているとしたら

むなしいだろう?


あなたあなた自体価値があるので、なくならないし

なにかからまれたわけでもないし、永遠に存在しつづける。

おれはそう信じている。

anond:20260126083426

なぜ目的必要なのかと言えば今この時の衝動を叶えるためなのだから、そこから離れたところに意味目的を探すこと自体が間違っている

伊藤詩織擁護派の町山智浩の不誠実さ

基本スタンス

ドキュメンタリー映画は強い表現の自由を持つ

公益性社会的意義が高い場合、許諾問題は相対化されうる

初期の位置づけ

過去ドキュメンタリー作品は成立してきた

• 大きな問題として扱われてこなかった

表現の自由が優先されてきたという整理

後段での語り直し

• 実際には過去作品葛藤や後悔を抱えていた

• 当時は問題可視化されていなかっただけ

ドキュメンタリー制作本質的にグレーを含むという説明

論理の転換点

• 「過去問題なかった」から

• 「過去問題を抱えつつ成立してきた」へ修正

• その修正を前提に現在作品を同列に配置

伊藤詩織作品への接続

• 今回も問題はあるが特別ではない

批判理解できるが、成立自体否定する理由にはならない

ドキュメンタリー宿命として許容される範囲という結論

論法上の特徴

過去評価基準遡及的に緩める

個別事案の検証全体論拡散

結論を維持したまま判断軸を組み替える

批判が生まれ理由

基準変更の自覚的説明がない

自身過去評価の明確な訂正が示されない

• その一方で他者には誠実さを要求する構図

総括

意見が一貫しているように見せつつ

論理構成は段階的に組み替えられている

• そのため「不誠実ではないか」という違和感が生じる

anond:20260126112220

俺、左翼じゃねーし

俺が一番世界問題視してるのは欧米もの民主主義独裁者判定して、他国に介入して滅茶苦茶にする独善なんだわ

パレスチナ問題にしてもイスラエルという国自体イギリスによる介入で出来た国なわけで、そうやって自分達の利益のためにやってる事を民主主義とか言って正当化して、自分達でその国を苦しめておきながら、そこの政権が強権的になると独裁者と言って、裁く

日本はそれに屈服して属国化した国でしかない

それに怒らないお前らの何が保守なんだ?

笑わせるなよ

anond:20260126110827

悩んでるなら、得られる幸せが小さいと感じる理由分析して改善してみたら。書き方的にクソ不幸な境遇というわけではなく、幸せ自体は身近に有るんでしょ?なら何とかなるよ。最悪カウンセリングに行けば良い。

anond:20260126110439

都会の駅近は地下鉄だったり高架だったりそもそも自体がうるさいか鉄道騒音が気にならなくてメリットしかないけど

地方だと他に騒音がないか鉄道の音と振動はめちゃくちゃデメリット

そもそも車社会から駅近のメリットもあまりないし

今を生きることの肯定――死が無であるとしても

人はやがて必ず死ぬ

死後に意識が続くという確かな証拠はなく、むしろ「完全な無」に帰する可能性を否定できない。

この前提を、ソクラテスも、プラトンも、ブッダも、真正から退けてはいない。

それでも彼らは、「だから生は無意味だ」とは結論しなかった。

ソクラテスにとって、生の価値は結果に宿らない。

死後に何が残るかではなく、生きている間に、正しく考え、正しく行為たかがすべてだった。

もし死が無であるなら、それは善でも悪でもない。

だが、生きている今この瞬間において、思考し、選択し、行為することは現実であり、そこにの倫理が成立する。

プラトンもまた、魂の存続を「確実な事実」とは扱わなかった。

彼が重視したのは、死後に魂が残るかどうかではなく、生きている間、精神がどのような状態にあったかである

混乱し、欲望に振り回され、自己矛盾に満ちた生は、それ自体が損なわれた生であり、

かに考え、節度を保ち、理解を深める生は、それ自体が充実している。

この評価は、死後に何が起ころうと変わらない。

ブッダさらに徹底している。

死後に存在が続くか否かという問いそのものを、意味のない問いとして退けた。

なぜなら、それは今ここにある苦を減らすことに直接つながらないかである

生は無常であり、いずれ消える。

からこそ、記念碑的な意味や永続性を生に求めること自体が、苦の原因になる。

それでも、生きている限り、苦は現実存在し、和らげることができる。

その一点において、生は否定されない。

三者共通するのは、次の一点である

生の価値は、死後に保存されるかどうかに依存しない。

価値は、生きている今この瞬間の在り方にのみ成立する。

思い出が消えようと、後悔ができなくなろうと、

それは「今、どう生きるか」を無意味にはしない。

しろ、最終的に無に帰するからこそ、

今この瞬間の思考行為、態度だけが、唯一の現実となる。

死が避けられないという事実は、生を空虚にするのではない。

生を、余計な幻想から切り離し、

「今ここで、どう在るか」という一点に凝縮する。

今を生きるとは、未来意味を預けることではない。

死後に救済を期待することでもない。

ただ、生きている間に、考え、選び、苦を増やさず、可能な限り減らすこと。

それだけで、生は否定される理由を持たない。

https://anond.hatelabo.jp/20260126083426

映画】THE MONKEY/ザ・モンキーを見た

異常にコミカルファイナルデスティネーションなんだけど妙にウェットな部分もある不思議映画だった72点。

 

父親を早くに亡くした兄弟ビルハルはある日物置でドラムを叩くサルおもちゃ発見する。ねじを巻いてみたところ乳母が死亡。これはもしや人を殺すサルなのではと思った弟のハルはいじめっ子の兄のビルを殺そうとねじを巻くも母親が死亡。その後も引き取ってくれた叔父、叔母が死亡し恐れおののいたふたりサル封印。それぞれの道を行く。数十年後、ビルろくでなしに、ハル父親になるも子供の頃のトラウマがもとで子供を遠ざける日々。しかビルサルを取り戻しハルへの復讐を企んでいることが分かり……

というお話

 

ちょっと予告編がよくできすぎてて期待感が上がりすぎていたのでそれは越えてこなかったなって部分で若干の残念さはあるものの、「理不尽面白死を楽しむ映画」として「面白死」「演出」のどちらの点も一定以上の強度があるし、「死」をどう扱うべきかという部分で監督の一貫したメッセージ性が感じられるのもよい。

面白自体めっちゃ雑で大雑把なファイナルデスティネーションみたいになってる。例えばもっとも愉快なシーンで行くとモーテルのようなところで女性プールに飛び込もうとしているんだけど、不思議な力によって電線が切れてそれがプールにつながる水に浸かってしまう。あっ、感電死するやつだ!と思って見てると、プールに飛び込んだ女性が爆散して主人公のところに足が飛んでくる。これがめっちゃテンポよく進むので、やりすぎ感と相まってついつい笑っちゃう

演出面も強くて、叔父の死亡展開。捨てたはずのサルがなぜか叔父の家に置いてあってこれは呪いサルねじを巻いたら誰かが死ぬんじゃないかという話を兄弟でする。いじめっ子の兄は「巻いてみようぜ!」と言い出し、弟は「やめとこうよ」と言うんだけど、「やめとこうよ」のセリフを食い気味にシーン転換して叔父葬式の場面に移る。テンポ良すぎるだろ!で、その後、ちゃん叔父がどんな面白死をしたのかも映してくれるのもよい。

こういう死のわんこそばみたいな映画って同じようにギミック死が続くだけだから飽きるって問題があるんだけどこの作品はそれを演出面でうまく補完していると思う。

 

一方でFDシリーズみたいに「面白アトラクション全振り」ってよりは(実際そういう側面も強いんだけど)監督のわりとウェッティ価値観も盛り込まれていて、主人公たちが母親から告げられ、最後にもう一度大人になった主人公ハルから子供継承される「死は平等に訪れる、だから生きてる我々は踊ろう」という展開。

出てくるシーンはすげーバカみたいで不謹慎だろ!って思っちゃうんだけど、でもそれも一つの真理だよなと。

主人公ハルと兄のビルは「父の死」に囚われて「死を招くサル」を発見し、大切な人間を次々に失ってしまう。そして今度は大切な人間を失ったことに囚われて兄のビルは弟のハルへの復讐のために人生を捨ててしまうし、主人公ハルは新しくできた自分家族幸せ)を遠ざけてしまう。

おそらくだけどこのサルは単なる呪いの道具ではなくて「トラウマ」のメタファーなのかもと感じた。トラウマを無理に覆い隠そう、別のものにしようとすればするほど周りは不幸になり却って自分を傷つける。

こういった作品では普通呪い道具を破壊して終わるが今作では主人公が息子に「サルはどうするの?」と聞かれて「これは俺が保管する。そしてずっと守って生きていく」と答え息子はそれに同意する。そして車の前を作中でも引かれていたヨハネの黙示録の馬に乗った死が横切り、主人公は軽く会釈をして見送り=死を受け入れ街を去る。

コミカルすぎる様々な死とこのウェッティ価値観の食い合わせが悪いと感じる人は少なくないと思うので、なんか思ってたのと違ったなぁってなる人も多い気はするけど俺は嫌いじゃないかな。

出てくる奴らみんななんかちょっとイカれてて死んでもあんま悲しくないのもよい。叔母が死んだときになぜか遺体搬送応援してるイカれたチアリーダー部が最後面白く全滅して終わるんだけど、これは「(死を他人事みたいに楽しんでる)お前らだよ」というメッセージだと思うんだけど、それはそれとしてウェットすぎないカラッとした終わり方でそれもよかった。

 

音楽の使い方もよかったし、人生に残る大傑作とかでは別にないけど面白アトラクション映画としてもFDシリーズとの差別化もできているし普通に見てて楽しいし、意外とちゃんとしたメッセージ性もあって普通にいい映画だった。ただその食い合わせが気になる人はいるかなって感じ。

グロホラーに耐性がある人にはオススメ

統一協会学術会議拒否問題

これまであまり言われてこなかったが、最近野島氏の投稿をみていて、加藤氏の拒否統一協会関係あったのかという気がした。

そう考えると、神学者某氏なども納得がいく。

大学関係者などにも相当食い込んでいるわけで、そういった観点から何かしらの情報提供をしていたのではないのだろうか?

自民党自体にはほとんど学術会議メンバーなどだれであってもそれほど関係はないと思うので。

逆に言うと宗教学者を名乗りながらあまりそういったことに影響されていないらしい島薗某などは何をやっている人なのか?

せめてアプローチくらい受けたことはあるのではないだろうか。自分に関することを一切しゃべらないのがおかしいなあと思う。

お前らヴィーガンになったほうがいい。

いや思想の話じゃない。

もし実際の肉と区別つかない人工肉があったら、そっち選ぶだろって話。

人はもともと何でも食ってるわけじゃない。

猫や犬じゃなくて、牛や豚や鶏を選んでる。

それってもう「よりマシな選択」を無意識にしてるってことだ。

ただ、人は我慢が発生すると良い選択肢を簡単無視する。

から常に正しくあれとか、完全にやれみたいな倫理は続かない。

逆でいい。

選べるときだけ、より良い方を選べばいい。

美味そうに見えたとか、ヴィーガン友達と飯に行ったとか、

環境の話を読んで少し気が向いたとか、それで十分。

ヴィーガン自体は、倫理的で健全な人の営みだと思う。

ゴミ拾いみたいなもんで、やったからって誰かに迷惑をかけるわけでもない。

やれる人が、やれるタイミングでやるだけ。

それを思想覚悟にするから反発される。

選択肢の一つとして置いておくだけでいい。

投稿価値創造

投稿は、単なる反復ではない。それはしばしばそう誤解されるが、この理解は再投稿という行為を「情報の重複」としてしか見ていない点で不十分である。実際には、再投稿意味再生産であり、価値創造に属する行為だ。

言論における価値は、新規性だけで決まるものではない。同一の内容であっても、投稿される時点が異なれば、周囲の文脈読み手構成議論の前提は変わる。その結果、同じ言葉が果たす役割も変わる。再投稿とは、内容を増やす行為ではなく、意味が立ち上がる条件を更新する行為である

また、多くの言論空間は忘却を前提に設計されている。発言は流れ、蓄積されず、参照されにくい。そうした環境において、再投稿過去発言現在接続し直す装置として機能する。それは自己顕示ではなく、断絶しやす議論継続可能ものにするための操作だ。価値は、新しく生み出されるだけでなく、保持され、再び意味を与えられることによっても生じる。

さらに、再投稿思考の未完性を前提とする。人間思考は一度で完成しない。後から言い直され、補足され、角度を変えて提示される。再投稿は、そのプロセスを不可視化せず、公共の場差し出す選択である。完成品のみを要求する態度よりも、思考更新過程を共有する態度のほうが、言論としては誠実だ。

投稿はまた、参加の条件を緩める。同じ主題が再び現れることで、それまで議論に関与していなかった読者が接続できる。既知の内容であっても、初見の者にとっては入口になる。言論空間の価値効率だけで測られるべきではない。開かれていること自体価値を持つ。

投稿は、過去に語られたことを固定し、特定記憶参加者占有させる力に対するカウンターでもある。「すでに言われた」「もう終わった」という合図は、しばしば発言権を閉じる。再投稿はそれを解除し、語る権利現在形に戻す。

投稿は、同じものを繰り返しているのではない。

時間更新し、文脈を組み替え、意味を作り直している。

それは冗長ではなく、消費でもない。

言論における価値再生産であり、創造である

いえへかえるんだな おまえにもかぞくがいるだろう

独身税施行されたりして(されなくてもだけど)世の中がギスギスするのを見ると、逆にいうと皆婚時代ってそれ自体抑止力だったんだ。世の中がギスギスすることへの抑止力。みんな同じ横並びだから、その部分については争いが発生しない。

皆婚時代で総中流時代

皆が結婚してるからそもそも独身税などという発想も出てこないしな

wikipediaだと明治時代から1980年代まで未婚率1~5%くらいって言ってるけど(ソースあるのか知らないけど)

110年くらい続いてた当たり前が急に変化して対処できてないのか。

逆に言うと江戸時代に戻ってきただけとも言えるが。いま思い出すべきは江戸時代なのか。身分制度を復活するか。

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