はてなキーワード: 理由とは
風俗一度も通ったことなし、AVやエロ漫画はまあまあ見る既婚者の雑な感想です。またセックスワーカーの人権及び基本的な職業権利が認められて欲しいという立場でもあります。その上でエロを捨てきれないおじさんの愚にもつかない話を置かせてください。
風俗には国内ジャンルとして「ソープ」「ピンサロ」「メンズエステ」「デリヘル」「ホテヘル」「茶屋」などがあることは知ってましたが、最近そのうちメンエスに「マンションタイプ」ということがあるのを、最近、今更知りました。今までメンエスは店舗型と出張型しか知らなかったんですが、店舗とわからない形で民間のマンションにひっそり店を構えていて、予約した客をそこに呼び出す仕組みでやってるところもあるんですね。
それ聞いて「えっ、部屋の借り方と営業の仕方含めてだいぶグレーやな、ソープみたいな届出型以外が違法だから? そんな曖昧な働き方では女性の権利は余計に保証されづらいのでは?」という感想とは別に、「今歩いてるこの住宅街のどこかでメンエス部屋があったりするかもしれないってコト???」と、背中がざわつきました。背徳的なエロい気持ち半分と治安の悪さへの率直な忌避感半分ずつくらいある。
それで、道徳的に良くないことだと思いつつ近所のメンエス検索してみたら、そこで急速に気持ちが冷めちゃった。どうも自分がエロさを感じたのは行為そのものではなく、「近場で知らんまにえっちなビジネスが日々静かに行われてる可能性」についてだけだったみたい。いや自分でまとめるのも馬鹿らしいんですが、写真見ようが「別にこの人と身体的接触したいとは全然思わない……いや多分お綺麗だとは思いますよ、でも綺麗に見えることが自分にとって性行為に及びたくなる理由にはぜんぜんならんので……」で終わってしまう。改めて風俗客むいてない、知ってた。普通に妻ともっとセックス機会増やして愛したいです。
ソープとかメンエスで何がどう行われているかについては引き続き多少の興味は残ってはいるので、フィクション含みでもそういうAVとかは見てしまうかもしれない。
歴史の授業でインフレを習ったかどうかなんてどうでもいい話してないんだよな。ドイツの札束の写真を見たかどうかも関係ない。言ってるのは、実生活でインフレが起きたときに自分の生活がどう影響を受けるのか、どう備えるのか、国の政策が家計にどう跳ね返るのか、そこまで理解できてる人がどれだけいるのかって話。
それを「習ってるはず」「覚えてないだけ」で済ませるのは楽だけど、現実は全然追いついてないでしょ。だから消費税減税が魔法の政策みたいに扱われる。なんか直接得しそうだから、って理由だけで持ち上げられる。財源も、社会保障との関係も、インフレ下で本当に生活が良くなるのかも、ほとんど考えられてない。
もし義務教育でちゃんと身についてるなら、消費税減税のメリットとデメリットを自分の言葉で説明できる人がもっといていいはずなんだよ。でも実際はできない。できないのに「習ってます」だけは胸張って言う。
消費税は目的じゃなくて手段の一つに過ぎない。生活を良くするために何が必要か、その全体像を考える力がないまま、部分だけ切り取って騒いでる。これを「金融教育できてる」って言うのは無理がある。
習ったって言うなら、どう習って、何を理解して、今どう判断できるようになってるのか、一回ちゃんと説明してみてほしいわ。説明できないなら、それは習ったことになってない。
今のフェミニストって、女性が男性に依存していい理由をひねり出してるだけの人って感じ
とにかく「男はこうしろ」ばっか
男性を見下しながら、自分ではできないやりたくないことを男性にやらせたいと欲望している
いや、むしろ自分のやりたくないことは男性がすべきなのだと当然のように信じている
その前提(「負け条件を提示しない限り議論不能」)自体には同意していません。
1.MMTにおける「負け条件」について
「政府は通貨発行主体であり、失業は資源制約ではなく制度的選択である」
このレベルの主張は、
会計・オペレーション・法制度の整合性によって評価されるものです。
その意味で、
制度記述そのものに対して主流派的な“反証条件”を要求することは適切ではありません。
設計と運用を伴う制度である以上、修正・改善の余地はあります。
例えば、
労働移動が成立しない
ただし、これは
あなたが求めている「負け条件」は、
を前提にしています。
• 失業を均衡結果として扱わない
という点で、
したがって、
4.結論
私の立場は次の通りです。
• しかし、それを主流派的な敗北条件で裁定する議論には応じない
この前提が共有されない限り、
そこを理由に低評価ついてんのはかわいそうだなと思うよ。多少はね
まあ、実際に作品読んでないから(一生読みたくねえし読む義理もねえ)、
転換に意味が感じられないとか、
増田さんの書いていること、私は次のように理解しました。合ってますか?
1.主流派の批判(反証主義的テスト要求)は、MMTを「財政拡張を正当化するマクロ理論」として扱っている
でも増田さんの見立てでは、それはMMTの本体ではなく、すでに「主流派がMMTを別物に再定義している」ので批判として失当。
2.MMTの出発点は“減税や財政拡張の是非”ではなく、国家と貨幣の制度的な定義
具体的には、政府は「市場から資金を調達して支出する主体」ではなく、
通貨発行→(その通貨での納税義務)→実物資源へのアクセス確保
という意味で、社会的資源を provision(動員・調達) する主体だ、という前提(会計・制度の説明)を置く。
「コア命題の固定」「事前予測」「負け条件の明文化」みたいな“反証主義の要求”自体が、
MMTを主流派マクロに翻訳し直した上で、翻訳版が主流派の基準を満たさないと批判する方法論的循環
になっている、と言いたい。
4.さらにBさんは「主流派が provision をモデルに入れられない理由」を4点挙げていて、要旨はこう:
(主体定義) 政府を家計・企業と同型に置く主流派モデルの前提が、provision を入れると崩れる
(価格理論) JGなどを“制度的な価格アンカー”とすると NAIRU 等の枠組みが内側から否定される
(方法論) provision は予測誤差で勝負する命題ではなく、制度記述の正否の問題なので反証主義と相性が悪い
(帰結) provision を認めると政策含意(失業は政策選択、財政破綻論は虚構等)が大きく変わり、主流派の「価値中立」っぽさが保てなくなる
その上で、確認したいのは1点で、
増田さんは 「MMTは“制度記述の正否”として評価されるべきで、予測精度や推計による反証は原理的に適用不能」 という立場ですか?
それとも 「制度記述部分(会計やオペの説明)は記述として正しいとしても、政策パッケージ(JG・ゼロ金利固定・国債制度設計など)の含意は別途、因果推論や予測で検証されるべき」 という立場ですか?
私には、後者(記述の正否と政策含意の検証を分ける)なら、反証主義的な検証要求は“翻訳”ではなく、むしろ政策理論としての責任の話に見えます。
制度記述が正しいことと、そこから出る政策主張(例:ゼロ金利固定が望ましい、国債廃止が望ましい、JGが物価の錨になる等)が正しいことは別で、後者は反証可能な形でテストできるはずでは?
MMT(Modern Monetary Theory)はしばしば
と誤解されがちです。
しかしMMTの核心は、政策の是非以前に、私たちが前提にしている“国家・貨幣・財政”の理解そのものが間違っているのではないか、という問題提起にあります。
この記事では、
⸻
主流派マクロ経済学では、暗黙のうちに次の前提が置かれています。
⸻
MMTの答えは明確です。
• 税の役割は財源確保ではなく、通貨需要の創出とインフレ調整
つまり政府は、市場からお金を集めてから支出する存在ではなく、
通貨を発行することで自ら必要な資源を動員(provision)する主体だ、という理解です。
⸻
• 「まず財源を示せ」
理由は単純で、
間違った制約(財政破綻論)を外し、正しい制約(実物資源とインフレ)を直視しろと言っているのです。
⸻
主流派では、インフレを抑えるために失業が必要だと考えます(NAIRU)。
MMTが提案するのが**ジョブ・ギャランティ(雇用保障)**です。
これは単なる福祉政策ではなく、
⸻
経済学が政府をどう描いてきたかという前提そのものの崩壊を意味します。
と再定義して批判しがちですが、それはMMTの射程を意図的に狭めた評価です。
⸻
MMTは、
MMTがやろうとしているのは、
です。
と言われるたびに、
と応答するのです。
政府は通貨を発行することで、自ら必要とする資源を provision(調達・動員)する主体である
これは需要管理のテクニックではなく、国家と貨幣の関係についての定義です。
という構図が暗黙に置かれています。
この前提に立つ限り、MMTは「拡張的な財政政策を正当化する理論」に見えてしまいます。
通貨を発行し、課税によってその通貨を回収することで、実物資源へのアクセスを確保する主体です(Mosler, Wray)。
この前提を捨象したまま、
「コア命題の固定」
「負け条件の明文化」
を要求することは、MMTを別物に作り替えた上で反証しているに等しい。
それは
財政とは「需要刺激」ではなく、政府が社会的資源をどのように provision するかという制度問題である
という点です。
この命題の真偽は、推計上の予測誤差ではなく、貨幣・税・国債・中央銀行オペレーションの実在的運用によって評価されるべきものです。
したがって、主流派が行っているのは
という方法論的循環です。
MMTが主張しているのは、
同じ土俵で勝つことではなく、
その土俵が、政府という主体の性質を誤って定義したまま構築されている
という点にあります。
• なぜ主流派は provision 概念をモデルに入れられないのか
MMTでいう provision とは、
実物資源(労働・財・サービス)へのアクセスを制度的に確保すること
です。
これは「需要刺激」でも「財政拡張の余地」でもなく、国家という主体の定義に関わる概念です。
⸻
2. 主流派が provision を入れられない【第1の理由:主体定義】
provision を入れると何が起きるか
provision 概念を入れると、
結果として、既存の効用最大化・予算制約の形式が成立しません。
⸻
• 政府は「外生的ショック」
という扱いが基本です。
provision を導入すると
MMTの provision 論では、
になります。
これは、
• NAIRU
⸻
を前提にしています。
しかし provision は、
例:
• 税は支出の前提条件か?
⸻
これは単なる理論変更ではなく、
別にそんな好きではないというか、
むしろ鼻につくところはあるけど、
あの件でちゃんと、
それとこれとは別問題だよね?
と言える冷静な人間がいたのはさすがだなと思った
ある点において「悪いやつ」だからと言って、
増田さんの挙げた例は、どれも「最初は傍流・異端扱い → その後に主流化」ですが、主流として受け入れられた“型”がかなり共通しています。
② 新説が「定量的な予測」や「決定的な検証(テスト)」を提示
④ その過程で「何が反証になりうるか」のルールが徐々に固まる
決め手は「天体の運動を一つの法則で統一し、予測が当たった」ことです。
ニュートン力学と万有引力は、地上の落下と天体の運動を同じ枠で扱える(統一性が強い)。
そして象徴的なのが、ニュートン理論を使ったハレー彗星の回帰予測(1758年頃)で、実際に1758年末に観測され、ニュートン理論の有力な実証例として扱われました。
ここで重要なのは「それっぽい説明」ではなく、“いつ出るか”を事前に言える(予測可能性)が強かった点です。
決め手は「熱機関の効率という工学的に検証される領域で、普遍的制約として働いた」ことです。
第二法則は19世紀中頃にクラウジウスやケルヴィンらにより整理され、代表的には「熱は自発的に冷→温へは流れない」等の形で表現されました。
これは“哲学”ではなく、蒸気機関などの熱機関の性能限界(どんな工夫をしても超えられない上限)として現場で繰り返し確認され、理論の信頼を固めました。
つまり第二法則は「実験室で一発」より、工学・化学での再現性と有用性が、主流化を支えたタイプです。
決め手は「原子が実在すると仮定すると出る定量予測が、実験で確認された」ことです。
19世紀末〜20世紀初頭まで、原子の“実在”には懐疑もありましたが、
アインシュタイン(1905)がブラウン運動を原子(分子)の運動に結びつけ、観測できる量(平均二乗変位など)に落とした。
その予測がペランらの実験で支持され、原子・分子運動論が受け入れられる大きな契機になった、という整理が教科・解説論文で繰り返し語られています。
ここは反証主義っぽく言うと、「観測できる指標への翻訳(操作化)」が勝因です。
決め手は「メカニズム不在の弱点が、海底観測データで埋まり、“決定的テスト”が登場した」ことです。
ウェゲナーの大陸移動説は「大陸の形が合う」「化石・地質が対応する」などの状況証拠はあった一方、動く仕組み(メカニズム)が弱く、北米などで強い反発がありました。
1950〜60年代に海底探査が進み、海嶺で新しい地殻が生まれ広がるという「海洋底拡大」的な絵が出てきた。
さらに1963年前後、海嶺の両側に地磁気の“縞模様(磁気異常の対称パターン)”が出るはずだ、という形で「科学的テスト」が明確になり、これがプレートテクトニクス確立の重要な一歩として整理されています。
このケースは、まさに「傍流が主流へ」の典型で、“良い話”が勝ったのではなく、“測れる予測”が揃ってひっくり返った例です。
決め手は「微生物の存在→感染→予防・治療の成功」までが連結して再現されたことです。
パスツールやリスター、コッホらの仕事が「病原体が病気を引き起こす」という枠組みの確立と受容に大きく貢献した、と整理されています。
具体的には、パスツールの実験が“自然発生”を否定し微生物の役割を示す方向で影響し、
コッホは炭疽菌などで「特定の病気に特定の病原体」という因果を実験で強く示しました(コッホの業績・方法論として説明されます)。
ここは理論の受容が、手洗い・消毒・衛生・ワクチン等の実務成果に直結し、主流化が加速したタイプです。
増田さんの列挙は「傍流が主流になった」という点では正しいですが、より重要なのは、
という点です。
私がMMTに対して言っている「反証主義の土俵に乗れ」という要求は、まさにこの主流化パターン(=科学史の勝ち方)を踏まえたものになっています。
なんで吐き始めたのか、理由は今でもはっきりと覚えている。
両親に気にして欲しかった。恵まれた一般家庭で育ったけれど、両親は子育てが下手だった。私がどんなに心身を崩しても、なんの興味も関心も持たない両親の気を惹きたかった。
ただ私に気づいて欲しかった。食べたものを吐いて極端に痩せたら心配してもらえるかな、なんて子供の試し行動の成れの果てだったと思っている。痛いのは嫌だから、痛くない自傷行為はこれしか思いつかなかった。
もともと食べることが好きだった。
高校に進学して1年、毎日同じ道を通っていたはずの通学路である日突然迷子になった。その日から調子を崩し、あっという間に不登校になって通信制に転校した。不登校を理由にお小遣いを止められて、毎日家に居るわけにもいかずアルバイトを始めた。親との関係は最悪で、ろくに会話もしないし、なるべく会わないようにしたし、お互いに空気みたいに見えないふりをしていた。
不登校になってからは希死念慮が全身にべったりと纏いついて離れなかった。毎日死にたくて泣いていた。唯一アルバイトだけは真面目に続けていた。仕事は楽しかったし、そこしか居場所がなかったから。
3年生になって、卒業後の進路が全く決まっていなかった。本当は受験して大学に進学したかったが、親とは冷戦状態のままである。特に父親とは1対1で少し話をするだけで震えと涙が止まらなくなるほど重症だった。
何かが変わるきっかけが欲しかった。それと同じくらい現実から逃げたかった。コンビニでお菓子を買ってきてたくさん食べた。Twitter(当時はまだXじゃなかった)で『過食』と検索したら、大量の食べ物を並べた写真を載せている女の子が沢山いた。こんなに食べたら太ってしまうのにと思ってプロフィールに飛んでみると、どうやら彼女たちは、太らないように食べたものを吐いているようだった。インターネットって本当に最悪。これが過食嘔吐との出会いだった。
胃の中身をみずから吐こうとするなんてことはもちろん人生で初めてだった。具合が悪くなって幼少期に数回戻してしまったことがある程度で、嘔吐恐怖症とまではいかないが直接喉を伝う嘔吐は想像するだけで怖かった。
他の女の子たちも吐こうと思ってすぐに吐けるわけじゃなくて、水を沢山飲んだりして練習していた。5chに吐き方のコツを教え合う場所もあった。オープンなTwitter上で吐き方を教えるのは御法度という風潮もあった。
私は直接の嘔吐が本当に嫌だったので道具を使って戻していた。明らかにアレなため詳細は書かないけど、この道具を使うにもかなり練習が必要で、同じように吐きたがっている女の子たちと日々励まし合っていた。
界隈では、食べ物を戻さずに消化することを『吸収』、自分が食べられる量を『胃キャパ』などといい、食べる前後に体重計に乗って自分の胃キャパを自慢する独特の文化があった。痩せを追求する女の子たちはいかに吸収を少なくして食べ物を大量に食べて戻すかを試行錯誤していた。
今思うと本当におかしいけど、Twitter上には同じような人が沢山いて、そこでの交流が世界のすべてだったから異常だとは思わなかった。人間の脳は都合良くできている。
私も練習の甲斐あって吐けるようになった。けど月の過食費は数万円かかった。バイト代から出す学生の子、ふつうに働いている社会人のお姉さん、親公認で親の金で食べ吐きする子(かなり少ないけど)、金の出所はそれぞれだった。
同じ年頃の女の子たちのほとんどは、パパ活や援交をして食べ物代を稼いでいた。それで高校卒業したらそのままデリヘル。自分よりも歳下の、この間までは摂食障害でもなんでもなかった15、6の女の子がお腹いっぱい食べて吐くために知らないおじさんとファミレスに行き、テーブルいっぱいに奢ってもらった帰りにそのままホテルで身体を差し出している様子は正直見ていられなかった。摂食障害につけ込んで未成年をホテルに連れ込む大人もまともではないと思った。
毎日スーパーとコンビニをハシゴして、菓子パンやおにぎりを買い込んで、深夜に一心不乱に食べてはトイレに戻していた。食費を気にするようになってからは、チルド麺を茹でたりドーナツを揚げたり、白玉団子作りにハマっていたこともあれば安い食パンを買ってきて致死量の砂糖とバターをかけた揚げパンを作ったりもしていた。なるべく吐きやすいものを、とにかくたくさん詰め込められればなんでもよかった。
親も多分気づいていたけど、なんでかわかんないけど気づかないフリをされていた。たまに監視するみたいに夜起きてきて、乞食みたいに夜中にこそこそしやがって!と嫌味を言われたことは覚えてる。
一度だけ、手に吐きだこがないか確認されたことがある。でも自分は前述の通り道具を使って吐いていたので吐きだこなんかできたことなかった。綺麗な手を見て安心したのか、それ以降触れられることは二度となかった。
バレなくて安心した気持ちと、自分の抱えている辛さに気づいてもらえなかった悲しさで大泣きした。娘が毎日毎日食べ物を買い込んで、夜中にトイレ流す音が何回もして、明らかにゲロってたら普通は心配するもんなんじゃないのかな。
今更自分から言い出すこともないし、このまま一生無かったこととして扱われるんだろう。でも、お母さんのご飯は今も昔も大好きだから、吸収しないように食後すぐ吐いていたことだけは一生知られたくない。どんなに反抗期でも口を利かなくてもご飯を用意してくれた母親に対して、生涯で最も酷い裏切りだったと思う。
1年間ほぼ毎日吐いていた。食べて吐いての1セットを毎日5回以上も繰り返していた。食べても太らないなんてラッキー!という気持ちはいつからか消えて、義務みたいにひたすら食べて吐いていた。
夕方にのそりと起きて、決まったルートで食べ物を調達して、今日はこれ食べるよって写真撮ってTwitterにアップして。吐くのは苦しくて嫌いだけど食べたら吐かなきゃいけないし。『もう食べるのも吐くのも辞めたい』とTwitterに何度も投稿した。
何か大きなきっかけがないと一生辞められないんだろうと思ってた。が意外と終わりはあっけなかった。
コロナウイルスの濃厚接触者になってしまい、1週間自宅謹慎することになった。つまり過食するための食べ物を買いに行けないのだ。それにトイレに入った後は毎回消毒することになっていて、不自然にトイレにこもって吐くことができなかった。わたしは至ってまじめな人間であったため、食べ物のために家を抜け出すなんてことはせず、本当に大人しく過ごしていた。するとどうだろう、その1週間で異常過食衝動がすっかり治ってしまった。しばらくは食べすぎた時に数回だけ吐いたけど、日常的に吐かないと嘔吐反射が復活して吐くのが辛くなる。
そのうち二度と吐かなくなった。道具も捨てた。ご飯を腹12分目まで食べるのを辞めた。店員に面が割れてて行くのが気まずくなっていたコンビニ通いも辞めた。
実家暮らしかつ、お酒が飲める年齢じゃなくて幸運だったと思う。逆にそうじゃない子は全然辞められないんじゃないかな。
今でも生理前は食欲が止まらないけど、菓子パンを見ても美味しそうと思えないし、コンビニの味がトラウマで食べられなくなった。
当時の写真もアカウントも全部消したし、辛かった記憶を脳が封印しているのかもうあんまり覚えていない。親もひとりの人間だから簡単に変わったりはしないし、自分を救えるのは結局自分だけなんだろうなと思う。それでも助けて欲しいと願った自分がいたことを愚かだったとは思わない。みんなも自分のこと大事にしてね。
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ここまでが数年前に増田に上げていた文章。身バレを恐れて削除してしまったが、文章自体はスマホに残っていたので加筆修正した。
このとき温かい言葉をくれた人たちには本当に感謝している。「大変だったね」と声をかけてくれたのは友達でも両親でもなくインターネットの向こうのあなただけだったので、当時のわたしは本当に救われてお守りのように見返していた。
あれからもずっと嘔吐していない。道具がなくて吐けないのもあるし、今となっては道具を使った嘔吐の方法はあまりにもおぞましすぎて絶対にやりたくない。若さと無知って怖いなと思う。
後年、両親にわたしの摂食障害を知っていたか聞いてみた。父親は前述の通り知っていてそれを無かったことにしていた。その理由は簡単に言うと「どうしたらいいかわからないし、面倒だから」であった。普通の親なら慌てて病院に連れて行ったりするもんなんじゃないんだろうか……。正直どん引いた。
母親は一切気付いていなかったらしい。いくら食べても太らない子だなあと思っていたと。自分はてっきり知っていて無視されているのだと思い込んでいたため、少し気が楽になった。
両親とは普通に話せるようになった。それでも、この人たちは人生のいちばん苦しいときに助けてくれなかった人たちなんだとどうしても思ってしまう。助けてほしいときに誰からも手を差し伸べられなかったことへの絶望は深い傷となって残り、その後の価値観に大きく影響した。
成人して数年経つが、高校生の子を見るとなんて幼いんだろうと思う。まだまだ大人の保護下にあるべき年齢だろう。10代のわたしにとって1人孤独に過食嘔吐を繰り返した日々は間違いなく本当につらかったのだ。
しばらくはどんなに親しい友人にもそのことを隠し通していた。最近はたまに、昔ゲロ吐いてて〜と面白おかしく話してしまうことがある。自分の中で少しずつ昇華しているんだと思う。完全に忘れられるようなことはないだろう。
ボトラーならぬ、部屋でペットボトルにゲロを吐いて置いていたらなんか発酵?していて焦った話とか、抹茶アイスを1箱食べて吐いたらトイレが若草色になって面白かったとか、度を越した過食嘔吐ジョークは人に話さないように気をつけているが、エピソードとしては強烈なのでちょっともったいないなとも思っている。
一応体重がガクンと減ったりもしたのだが、すぐに元に戻ってしまった。飢餓状態が続くのと同じで、結果的に太りやすい体質になるため過食嘔吐はおすすめしない。それでもどこにも居場所がなく、かといって非行に走るようなタイプでもなかった自分にとって、持て余したエネルギーを過食嘔吐によって発散できていた1年はきっと必要なものだったと思う。食べて吐くことに夢中になっていたおかげで生きていられた。依存先としてはセックスとかドラッグに比べれば全然ましな方だと思うし……。
あの頃のわたしは20になる前に死んでしまおうと思っていたけど、ごめんけど今ものうのうと生きているよ。楽しいことだってたくさんあるし。もし同じように苦しんでいる子がいたのなら、苦しいだけの日々には終わりがあるし、きっと光が差すから大丈夫だよと伝えたい。
「主流派経済学が反証主義的に“証明”されてきたか?」は、厳密には 証明(数学みたいに真を確定)ではなく、より現実に近い形でいうと
以下、主流派がどう“反証に耐える形”に進化してきたかを、代表例で整理します。
サミュエルソンは、理論を“操作可能(operational)な命題”=観測・検証できる形に落とすことを強調した流れの中心人物として語られます。
フリードマンは、(前提のリアリズムよりも)予測力を評価軸に置く「実証可能な含意で勝負する」方法論を強く打ち出しました。
ここがまず“反証主義っぽい”土台です(ただし、後述の通り経済学は補助仮説が多く、純粋なポパー型の運用は難しい)。
1950〜60年代に「失業率を下げるとインフレが上がる」ような安定関係が“政策メニュー”として扱われましたが、のちに
長期ではトレードオフが成り立たない(自然失業率/NAIRU)方向へ
という更新が起きます。フリードマンの1968年講演が、期待を組み込む方向に大きな影響を与えた、という整理は一次資料・研究史で確認できます。
また1970年代の経験が、この見方を後押しした、という研究史的整理もあります。
要するにここは、「古い単純形が反証(説明不能)に晒され、修正された」例です。
ルーカス批判は、「過去の経験則(縮約形)をそのまま政策評価に使うのは危ない。政策が変われば人々の意思決定(期待)が変わり、推計式のパラメータが不変でなくなる」という主張です。
この主張自体も、のちに実証的に検討(テスト)される対象になっています。
この流れが、マクロを「ミクロ基礎(最適化・期待)」を持つ構造モデルへ寄せる大きな動機になりました。
DSGEは強い仮定が批判され続けていますが、「政策変更の効果を、前提・メカニズムを開示した上で評価する枠組み」として中銀・研究で中心的に使われてきた、という位置づけは一次資料でも見られます。
同時に、危機後の批判や改良も含めて「適用可能性・限界」を体系的に検討する研究も積み上がっています。
ここでの“反証主義”は、「このモデルが真」ではなく、競合モデルと比べて予測・政策評価・整合性がどれだけ良いかで生き残る、という競争です。
これはまさに、「この推定は因果だ」という主張が、設計の穴を突かれて反証される/改善される、という反証主義の制度運用です。
ので、単発で「はい反証、理論死亡」とはならず、部分修正・モデル更新になりやすい。
それでも主流派が“反証主義的に強い”と言われるのは、上で見たように
主流派がやってきたのは「理論の核を固定し、反証条件を明確化し、方法論を更新し続けて生存してきた」という歴史です。
だからMMTが“学界で対抗可能な理論”として評価されたいなら、同じ土俵で
が必要です
科学の哲学には、理論は反証可能な予測をしなければならず、これらの予測のいずれかが誤りであることが示されると、私たちはその理論を捨てるべきだという古い見解がある(事後修正は「アドホック」と呼ばれる)。
問題は、良い理論は通常、スタートとエンドの両方で反証されることが多いということだ。例えば、ニュートンの運動理論はもともと月の運動を説明できなかったため、反証主義的な基準ではほぼ即座に無視されるべきだった。しかし、これは間違いだった。なぜなら、実際にはニュートン力学が最終的に月の軌道を説明できたからだ。
一方、アインシュタインの理論が登場したとき、それが支持された理由は、水星の近日点を効果的に説明したからであり、その予測はニュートンの理論が誤っており、ニュートンの理論の反証と見なされるようになった(とはいえ、ニュートンの理論が水星の近日点を説明できないことには数世紀の間私たちは慣れていた)。
これは、硬い科学の描く反教条主義的なイメージが魅力的なので教えられ、また、社会科学は自らを硬い科学のように見せたいので教えられている。
つまり、常識とされる側が間違ってるのに、その間違ってる側で検証されても正しい理論かどうか何か分からんのよ
お金一つとっても考え方が違うのよ↓
BSのワールドニュースみてるとさ、海外の要人とかコメンテーターって
「中国は西側と価値観を共有する国ではありません(だから仲良くできない)」
みたいなことを平気で言ってるんだけど、ぶっちゃけ、プーチンが死んだってEUはロシアと仲良くできないだろうし、中国の中国共産党独裁が終わっても、たぶん理由つけて締め出すだろ?
サウジアラビアとかUAEなんて王国だけど仲良くしてるじゃん。
金払いがよくて牙が抜けた国とは仲良くするってだけなのに、なんなんだろあの言い回し…
つうか、日本だってアメリカやヨーロッパとつるんでるのは、アメリカやヨーロッパが自由とか民主主義の国だからじゃなくて、いろいろあってそうなってただけで。
無理だって
MMTの話
https://note.com/stairlimit/n/nb76f64b326bd
現状、MMTという理論を肯定的に議論しているグループは二グループに分かれている。
片方は学問的なグループであり、もう片方は政治的なグループだ。
おそらく大半のまともな経済学者はこのグループを分離して語るべきであるという前提に同意すると思われる。
政治的なグループは極めて悪質で、彼らが「MMTである」と主張する出典不明な学説から、荒唐無稽としか言いようのない結論を自由に引き出し、それを用いて政治的な対立者を罵倒している。
僕の知る限り彼らは何度も事実と異なる主張をして、そのたびに反例を突きつけられているのだが、彼らの中ではこれは論破されたことにはなっていない。
この理由は多岐に渡っており、主張自体がなかったことになる場合もあれば、「それは誤解であり、この例は反例にならない」と主張される場合もある。
いずれにせよこのグループは、上で挙げた学問的なグループと自身らのグループを都合よく使い分けており、普段は学問的なMMTの権威を用いて自説を展開するが、都合が悪くなると「それは誤解であって、MMTはそう主張していない」「論敵はMMTの勉強が足りていない」と言って反撃する傾向がある。
したがって、MMTの政治的なグループについては、大半のまともな経済学者は数年前の時点で「議論にならないため、無視すべき」という結論に達している。
ただ、彼らは別に学問的に勝とうとしておらず、単に自分のお気に入りの政策を実現したいか、あるいはもっと単純に政敵を都合よく罵倒したいだけなので、この無視は結果としては彼らにとってまったくダメージになっていないのが現状である。