はてなキーワード: サミュエルソンとは
現状、MMTという理論を肯定的に議論しているグループは二グループに分かれている。
片方は学問的なグループであり、もう片方は政治的なグループだ。
おそらく大半のまともな経済学者はこのグループを分離して語るべきであるという前提に同意すると思われる。
政治的なグループは極めて悪質で、彼らが「MMTである」と主張する出典不明な学説から、荒唐無稽としか言いようのない結論を自由に引き出し、それを用いて政治的な対立者を罵倒している。
僕の知る限り彼らは何度も事実と異なる主張をして、そのたびに反例を突きつけられているのだが、彼らの中ではこれは論破されたことにはなっていない。
この理由は多岐に渡っており、主張自体がなかったことになる場合もあれば、「それは誤解であり、この例は反例にならない」と主張される場合もある。
いずれにせよこのグループは、上で挙げた学問的なグループと自身らのグループを都合よく使い分けており、普段は学問的なMMTの権威を用いて自説を展開するが、都合が悪くなると「それは誤解であって、MMTはそう主張していない」「論敵はMMTの勉強が足りていない」と言って反撃する傾向がある。
したがって、MMTの政治的なグループについては、大半のまともな経済学者は数年前の時点で「議論にならないため、無視すべき」という結論に達している。
ただ、彼らは別に学問的に勝とうとしておらず、単に自分のお気に入りの政策を実現したいか、あるいはもっと単純に政敵を都合よく罵倒したいだけなので、この無視は結果としては彼らにとってまったくダメージになっていないのが現状である。
一方で学問的なグループは、それほど支持を集めているとは言えないものの、書籍が出版される程度には活動実績がある経済学の一部分である。
ただ、それはたいして肯定的な評価ではない。というのも、僕の知る限り、1980年代から新しい学派と呼ばれるマクロ経済学の流派は乱立しており、その多くは学問的に成功したとは到底言えず、忘れ去られていっている。
MMTは現状でそれらの学派と異なる結末を得られる保証がなく、「たまに話題になる新しい一学派」という程度の立ち位置にとどまる。
この「学問的なMMT」は実のところ「有力な学説」とすら現状ではまだ言えないので、大抵の学者はまだ様子見しているところである。
様子見というのは「正しいかどうかをもう少し考えよう」ではなく、「勉強する価値があるかどうかをもう少し考えよう」という意味だ。
つまり、MMTは多くの学者にとって勉強すらされていない。だから僕も勉強していない。
この記事の冒頭で述べたように、この理論についての僕の理解は極めて浅いが、その理由は、MMTに勉強するだけの価値があるかどうかについてすら現状では測りかねているからである。同様の経済学者はかなり多いと思われる。
まとめると、MMTの現状としては学問的に成功しているとは言えず、とはいえ失敗しているとまでは言えず、まだ結論は出ていないが、いずれにしても知名度がそもそも足りていない。
その一方で、政治的には一部の国で影響を与えるほど成功しつつあり、政策議論を行うタイプの経済学者にとってはやっかいな状況を生み出している。
このあたりまでは、おそらくたいていの経済学者にとっての共通の現状認識と言えるのではないかと思われる。
では、上の現状が変わる可能性があるかという点についてだが、MMTが学問的に「成功」と言える状況を引き出すための方法は、少なくとも政治的に成功することではないという点は強調しておきたい。
正直に言って、僕を含めてかなり多くの経済学者が、典型的なMMT論者の「論争とは多数派工作である」みたいな態度に辟易しており、これは少なくとも学問的には逆風であると思われる。
だが、現状ではMMTは上で述べたように、大部分の経済学者から「勉強する価値がある」とすら思われていないと考えられる。
そして勉強されなければ当然学問としては成功しない。だから学問的なMMT論者はMMTを勉強させようと躍起になる傾向がある……けど、これも正直、逆効果だと思う。
実際のところ、MMTの政治的グループを批判して「おまえはMMTをまったくわかっていない」と言われるのが嫌だからという理由で、MMTについて一切発言しなくなった経済学者に何人か心当たりがある。
それは当然ながら学問的にはMMTは「そもそも議論されない」ことにつながるわけで、君たちそれでいいの?という感想。
とりあえず、MMTの解説については日本語記事で質がいいものは見つからなかったが、「英語版」wikipediaはたぶんかなり良質な記事だと思われる。
wikipediaだからもしかすると将来の編集でおかしなことになる可能性はあるけど……その中で、最後の方に書かれているこの部分が気になった。
Krugman described MMT devotees as engaging in "calvinball" – a game from the comic strip Calvin and Hobbes in which the players change the rules at whim.
この部分、かなり無視できない点で、つまりクルーグマンの感想が正しければ、MMT論者は「理論を検証できない状態」を意図的に作り出しているんじゃないかという疑いがあるのだ。
経済学では、サミュエルソンが強調して以後、ポパー型の反証主義がかなり重視される傾向にある。
僕はこれについて、必ずしも反証主義が絶対だとは思わないものの、MMTのような新興理論にとっては重要だと思っている。
つまり、MMTだと起こり、それ以外の理論だと起こらない現象はあるのか。
逆にMMTだと起こらず、それ以外の理論だと起こる現象はあるのか。
それらは現実だと起こっているのか、起こっていないのか。
これらは、MMTを支持する学者が中心となって積極的に検証するべきである。
主流派が主流派である所以は、この種の検証に耐え続けているからであり、MMTが主流派と対抗できる理論になるためには、最低限この種の検証に十数年は耐えられる(つまり、積極的な検証の結果としてMMTに深刻な誤謬が見つからないまま十数年が経過する)必要があるというのが僕の見解である。
言っておくが、これができたからと言ってMMTが正しいとは限らない。
しかしその場合、経済学者たちはMMTについて「少なくとも勉強する価値はある」と考えるようになるだろう。
結果として肯定されるか否定されるかはわからないが、少なくともそうなれば理論としては生き残りに成功した状態と言える。
残念ながら、僕が観測した範囲内でMMTの支持者にこのような動きは見られない。
どころか、検証されてもいない新理論であるMMTを無理やりねじ込んで行こうとする人間がやたら多い。
実はこの記事を書く気になった最大の理由は、マクロ経済学の授業改善アンケートで「MMTを教えずに嘘を教えている」というクレームが学生の一人から来たことなんだよね……
出てきて10年ちょいの、定説でもない上に検証されてもいない新理論を必修のマクロ経済学で教えたらその方が問題でしょうよ。というのが僕の感想なのだが。
まとめると、MMTは学問的には、現状では勉強するに値する魅力的な理論とすら思われていないので、まずは状況証拠を集めて、最低限勉強するに足るだけの魅力があるということを立証するところから始めるべきではないかということです。
そして現状はそれができているようには見えず、さらに政策に無理やりねじ込もうとするグループが悪目立ちしすぎるので、僕は少なくとも距離を取っている。
正直その連中に炎上させられたくないから言及すらしたくないが、将来的にこの理論が政治的に大問題を引き起こしたときに、おまえ反論しなかったじゃん!と言われないために、こういう理由で相手にしなかったんですよという証拠を残しておきたかったと、はい、実はまあそんなところです。
比較生産費説は自由貿易を通して富が増加する=豊かになることを説明した理論です。
ここでまず踏まえておかなければならないのは豊かになるとは誰が、何に対してかということです。物財の市場における総供給量が増え、需要者、つまり消費者が豊かになるということです。
ここのところでの異論はあまりありません。説が唱えられてから既に200年の「実験」の蓄積があるのですから、上記の点については事実として扱ってよいでしょう。
比較生産費説が最近、ホットトピックになっているのは、TTPの問題があるからですが、アメリカでもTTP反対論は根強くあるようです。
抗議に参加した人々はTTP協定が仕事と環境に与える潜在的な影響に対して注意喚起したかったと言っています。
「私たちは雇用を求めるためにここにいます」とロレーヌ・アシュビー(66)(シカゴの南東側からの引退した公務労働者)は答えています。
「小さなビジネスを行って、本当の雇用を作り出す人々がここにとどまることが難しくなってきているのです。TTPは雇用を作り出す人々を後ろからナイフで刺すようなものです」
「あまりにも多くの過去の貿易協定は普通の人々を犠牲にし、ウォールストリートと大企業の役立ちました」と彼は言いました。
「私たちは、この地域から海外へ送られた何十万もの高給与の仕事を見ました。また、私たちが必要とするものは、シカゴで、および世界中で労働者の生活水準を実際に改善する貿易協定です」
日本のTTP反対派の人たちもこの言い分には深くうなずくでしょう。日本でもアメリカでも互いを敵視しながら同じような言い分を言い合っているわけです。
こうした言い分に対し、経済学の人たち、というよりもサミュエルソンっぽい新古典派総合っぽい人たちが、誤謬だ誤謬だもっと勉強しろよって膝寄せて鼻を突きつけているわけです。もっとも、その人たちも完全に歯切れがいいわけではなくて、「それは別の話」とか「一時的な痛み」とか、言及している「部分」もあるわけです。
それが果たして別の話なのか、一時的な話なのかというのが、本当は問われるべき問題であろうと思います。
80年代のレガノミックスは、一般に言われているのとは違って、大規模な財政支出と減税による「需要刺激による」景気刺激策でした。レーガンは言っていることはともかくやっていることは無茶苦茶ケインジアンでした。アメリカはそれ以後、蕩尽的消費社会に突入してゆくわけですが、基本的に好景気=インフレです。しかし実際にはインフレ率はそうでもなかった。需要の増大を上回る供給がもたらされたからです。つまり輸入拡大です。この構造はレーガン政権以後、現在まで基本的には続くのですが、では、81年から比較して、「一般アメリカ市民の所得」は増えたのかどうかという話です。全消費者の消費可能量が増えたかどうかという話ではないですよ。リカードさんのおっしゃるとおり、全消費者の消費可能量は増えた、つまり市場は豊かになったに決まっています。しかしそれが、「一般アメリカ人の所得」の増大につながったかどうかという話です。
レーガンから現在までの話ですからね、すでに30年間の記録があるわけです。
決して「一時的な話」ではありません。
結果は言うまでもありませんね。「パパはなんでも知っている」の頃は、パパがフルタイムで働けば子供を大学に行かせられました。今では、ママも働いて、それどころかダブルワーキングをしても、かつかつの生活をしている人が大半になっています。そういう人たちに向かって、理論は正しい、おまえたちが間違っていると言っているのがサミュエルソンのシッポの人たちであるわけです。
比較生産費説の理論的完璧さにもかかわらず、どうしてこのような現象が生じてしまうのでしょうか。
答えは簡単で、産業ごとの特性が異なるからです。比較生産費説は産業ごとの特性をならして、「単位」扱いするところから始まります。産業ごとの特性の問題には最初から対処しきれないというか、扱っている領域そのものが違うのです。
例えばA国とB国がそれぞれ半導体とカカオ豆に特化したとしましょうか。しかしこの両商品はそもそも需要量が違います。必要度合いも違います。産業をスタートさせる難しさの度合いも違います。他産業を発展させ、雇用を創出する能力も違います。もっと言えば収益性も違うわけです。
不安定、低収益、低需要、低波及力の産業に特化した国、つまりモノカルチャーの国が国際経済の荒波にゆられて「豊かになる」どころの話ではなかった原因の根本はここにあります。
労働集約的-資本集約的、高収益-低収益で相に分ければ4つの相が分かれることになります。
「国民の雇用を確保し、そこそこ安定的な経済環境を構築する」のを目的にした場合、もっとも効果的なのが労働集約的-高収益の産業です。ありていにいえば製造業、第二次産業です。
国民経済にとってはコアとなるこの産業が奪われたからこそ、「全体としては経済成長をしながら、格差の増大をもたらし、一般国民の貧窮化を招いた」のがアメリカの姿であるわけです。
これに対して次のように説明するサミュエルソンのシッポがいます。
「給与の高い仕事に転職するということは、比較優位の産業に労働力が移転しているということである。比較生産費説は労働者の経済行動の中にあらかじめビルトインされている」
だから、雇用の喪失は起きない、起きたとしても一時的な調整期間中ものだ、というわけですね。
あなた、30年間を調整機関と呼ぶ神経って、なんていったらいいんでしょうね。
東大に行っているあなた、卒業したらゴールドマンサックスに入りたいなんて思ってるでしょ。給料いいですもんね。給料がいいってのは、生産性が高いということです。もうひとつ、労働需要に対して供給が追いついていないということです。あなたと同じレベルの人を400万円で雇用できるならそうしますよ、ロックフェラーでも。そうしないのは、需要に対して供給が追いついていないからです。
農民が工場労働者になり、事務員になり、というところまではまあそこそこアメリカの労働者でも対応できたかもしれません。もちろんその過程でも脱落していった人はたくさんいるわけですが。
比較生産費説が言っているのはこういうことです。製造業が新興国に特化しても、先進国はさらに生産性が高い産業・職に移動してゆけばよい。みんながジョブスになれば1000万のアップルが誕生して、たくさんのiPhone を手にできるよ!ということです。
それが100年、200年のスパンならばあるいはそういうことも可能かもしれません。しかし現代においては変化はあまりにも急激でありすぎます。
TTPを巡る議論で私が非常に気にかかるのは、TTP賛成派があまりにも気軽に「経済学」を看板にしたがるところです。そしてそれは、「おまえは経済学を知らない」と相手を貶めるために用いられているように見えます。現実の事象について具体的な論拠を求められれば、「経済学は深淵でおまえには分からない」とばかりに現実の問題には何も答えないまま、モデルの話でけむにまきます。
経済学はそういうものではありません。少なくとも、そういうものだけが経済学ではありません。ガルブレイスが生きていたら、なんというでしょうか。
そうした言論的脅しに屈せずに、みなさんは分からないものは分からないと言ってください。納得できないものは納得できないと言ってください。説明できないのは説明できない人の責任であってあなたが頭が悪いからではありません。
2008年10月25日付朝日新聞朝刊 (一部抜粋)
メルトダウン(融解)的な危機を招いた理由のひとつはバブルが発生してそれが崩壊したためだ。資本主義の歴史を振り返ると住宅バブルは古くからあるが、今回はバブルの坂を上がって行く時に「悪魔的でフランケンシュタイン的怪物のような金融工学」が危機を深刻化させた。表現が長すぎるというのならば「金融工学のモンスター」と縮めてもいい。
グリーンスパン前FRB議長が95年ごろから株式市場のバブルに対策を講じなかった事も、惨状を招いた理由のひとつだ。
この危機を終わらせるためには何が有効なのか。それは、大恐慌を克服した「赤字をいとわない財政支出」だろう。極端にいえば、経済学者が「ヘリコプターマネー」と呼んでいる、紙幣を増刷してばらまくような大胆さで財政支出をすることだ。
大恐慌を克服したのは戦争のおかげだという人がいるが、そうではない。大恐慌当時、私はシカゴ大学の学生だったが、自分が学んでいる経済学と、社会で現実に起きていることとの大きなギャップについて、深刻に悩んでいた。周囲では、3人に1人以上が失業していた。
それほど高かった失業率をひとケタまでに減らしたのは、33年に就任したルーズベルト大統領の政策だ。それは戦争前のことで、戦争の脅威も切迫してない時点で着手されたのだ。
(第1次大戦で敗れたドイツの)ヒットラーは報復戦争の準備をするために、際限もなく金を使った。しかし、ルーズベルトがとった政策は、同じ赤字財政であっても、公共事業や農業支援計画を通じた巨額の支出だった。それが資本主義を救った。
国のお金を何に使うかは、その国民が選ぶべき事だ。しかし、無駄な事業でなく善い目的に使うのが、賢明な国民の選択であることは言うまでもない。
今回の危機の克服に当たっても、時間はかかったとしても結局、財政支出が拡大されるだろう。ルーズベルト大統領の雇用政策も、目標実現に7年かかった。前任のフーバー大統領は、ケインズをマルクス主義者呼ばわりするような人物で、恐慌克服になんら有効な手を打っていなかったことが響いた。本来は(株価暴落直後の)30年から32年までに恐慌対策を打つべきだったのだ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/7b23d61878dcbf6ad900123f5f3a7186
定額減税が、2兆円の「給付金」という珍妙な形で行なわれることに決まった。これは経済学でよく冗談でいわれる「ヘリコプター・マネー」をほとんど文字通り実行する漫画的な政策である。
あなたが市役所に行くと、1世帯4万円のクーポン券をもらえる。これが他人の金だったらうれしいだろうが、その財源はあなたの税金だ。「埋蔵金」を使うなどというのはまやかしで、そのぶん国債の償還財源が減るのだから同じことだ。つまり4万円の税金で4万円のクーポンを買うだけなので、あなたが合理的ならバラマキ財政政策に効果はない――というのが中立命題としてよく知られている理論だ。
しかし実証的には、この理論は厳密には成り立たない。それは人々が近視眼的で、将来の課税より現在の現金の価値を高く評価するからだ。朝三暮四というやつだ。つまりバラマキ政策は、国民が猿のようにバカであればあるほど効果の大きい愚民政策なのである。
だが先進国の最近の経験は、国民がそれほどバカではなくなってきたことを示している。特に財政赤字が大きくなると、目の前の財政支出が将来の増税をまねく因果関係がわかりやすくなるため、「乗数効果」が小さくなる。さらに北欧などでは、財政赤字を削減することによってかえって消費が増える非ケインズ効果も観察されている。
まず。
経済学というのはばっさり整理すると社会学・政治学・倫理学と最適化理論とゲーム理論のハイブリッドした学問です。
最適化理論は、工学部(とくに電気系、化学系かな‥)の勉強をきっちり極めた人なら基本はすぐ理解できます(計算だけなら今はExcelがやってくれるし)。実際、現代数理経済学の大成者であるポール・サミュエルソンは学部学生時代にはMITでエレクトロニクスをやってました。ゲーム理論はそれよりはちょっと純粋数学かもしれない。要するに理論系は数学・工学系有利で、すごく勉強が好きなら後からでもなんとでもなります。
問題は最初の文系三科目で、要するに「主張」と「事実」の区別をつけづらい、つけても意味のないことの多い世界です。マックス・ウェーバーの『職業としての学問』とか『プロテスタンティズムの精神と資本主義の倫理』あたり、あとはアマルティア・センとか小室直樹(ただし『ソビエト帝国の崩壊』までね)とかかじってみると、経済論争の原動力になっているそういうどろどろした世界の様子が少しわかるかもしれません。