はてなキーワード: 賢者とは
炎上にも負けず 「いいね」ゼロにも負けず ギガ切れにも 夏の通信制限にも負けぬ 強靭なメンタルを持ち
欲はなく 決してバズらず いつも静かにタイムラインの隅にいる
一日に二つのカップ麺と エナジードリンクと 少しのサプリメントを食べ
あらゆることを 自分を棚に上げて よく見聞きし分かり そして すぐにレスバをせず
東に高齢の生涯独身者がいれば、 それが一番コスパのよい生き方だと褒めてやり
西にマウントを取る母親がいれば それはただの承認欲求だと諭してやり
南に死にそうな病み垢がいれば 「構ってちゃんだな」とミュートしてやり
北に「日本は終わっている」と嘆く者がいれば 「それはお前の投射だ」と鏡を差し出し
不毛なトレンドが起きたときは涙を流し クソリプの嵐の中を おろおろと歩き
みんなに「情弱」と呼ばれ AIにさえ褒められもせず ブロックもされず
そういう賢者に 私は
私は
○ご飯
朝:アーモンド。昼:柿の種、チョコボール、アイス。夜:大根おろし、人参、キノコのカレーうどん。目玉焼き。キュウリ。ギョニソ。バナナ。ヨーグルト。間食:飴。
○調子
むきゅーはややー。お仕事はじゅうれんきゅーのよぉん。
前回、開始1秒で解かれたので今回はあえて難しく作った。
なかなか歯応えがあったようで長く遊べた、楽しんでもらえてたらイイな。
それとウィークリーのルシゼロフリクエをクリアして、土のM終末を230にした。
青紙緩和で240以降のモチベも上がりかけたが、十賢者超越もありプラマイゼロ。
新弾開幕!
ケーキを買いに街に繰り出したところ、何やら行列ができている。
ラーメン屋でもあるのかと思って歩いていたが実際は年末ジャンボ宝くじを買い求める人たちだった。
いや元々こんなもんだった。非現実的な夢を見て非合理な行動を起こすのは人間の性癖である。
1分で購入できて簡単に三万円を失える。パンチコは玉が消えるまで見ている必要があるし、競馬はどれに賭けるか考える時間が発生する。
なのに行列に並ぶというのは非合理に非合理を積み上げているということで一周回って賢者のようにさえ思える。
寒い中で待っているくらいなら麻雀を打った方がいいのではないか。
暖かい中座っていられる雀荘は宝くじ行列の真逆の賭博体験である。
プレイにある程度頭を使うので現状マイナスな知能レベルの底上げにも繋がる(少なくとも期待値の概念くらいは知れるだろう)。
プロ宝くじプレイヤーは存在しないが麻雀プロによる興行は盛んに行われている。
ハリー・ポッター久しぶりに読み返したんだけどさ、これどう考えても一番ヤバいのダンブルドアじゃない?
闇の帝王ヴォルデモート?いやいや、あいつは最初から悪役として描かれてるからまだ分かる。
でもダンブルドア、お前は「善の側」の顔してやってることがエグすぎる。
まず前提として、ハリーが死ぬ運命なの知ってたよね、最初から。
なのに何したかって言うと、全部黙ったまま「よし、このガキを育てて、頃合い見て殺そう」って計画を静かに進めてるわけ。
スネイプが途中でドン引きするのも当然だよ。
「ハリーは死ななきゃいけない」って聞かされて、え?ってなるのめちゃくちゃまともな反応だからね。
あそこでダンブルドアが言う「あのガキに同情でもしたのか?」、これマジで鳥肌立った。
何その冷笑、人の心とかないんか?長生きしすぎて倫理観バグった上級魔法使い怖すぎる。
しかもタチ悪いのが、ダンブルドア本人は絶対に手を汚さないところ。
「選択は君にある」とか言いつつ、選択肢は最初から一個しかない。
ハリー自身は善人だからさ、「みんなを救うためなら」って納得しちゃうんだよね。
そこを見越して育ててるのが一番キモい。勇気、自己犠牲、仲間想い、全部ダンブルドアが仕込んだステータス。
どっちが邪悪かって言われたら、正直後者の方が陰湿で厄介だと思うんだけど。
少なくともスネイプがドン引きするくらいには、ライン越えてる。
ハリー・ポッターって児童文学の顔してるけど、よく見ると「有能な老人が若者を使い潰す物語」なんだよね。
ダンブルドア、白ひげ生やした賢者ヅラしてるけど、中身はめちゃくちゃ計算高い呪詛師でした、ってオチ。
今読むと笑えないわ。
タルムード的観点から、「推しは資本主義の産物であり、他人崇拝はNPCで主体性がない」をどう見られるか、丁寧に整理してお答えします。
タルムードおよびユダヤ的思想では、人間を神のように崇めることは拒否されます。
ただし、ここでいう崇拝とは宗教的崇拝であって、誰かを尊敬したり、学びの対象にしたりすることとはまったく別です。
タルムードでは、徳のある人、学識ある人、良い行いをする人を尊敬することは素晴らしいこととされます。
「賢者を敬う者は、神を敬う者に等しい」Shabbat 23b
つまり、誰かの良さに感動して応援や影響を受けること自体は肯定的です。
元の文章は「推し=主体性を失う」と決めつけていますが、タルムードはもっと細やかです。
つまり盲目的に従うのはNGだがインスピレーションや学びとしての「尊敬」は優れた行動である。
タルムードは極端な二元論(プレイヤー/NPC)では語らない、という点が重要です。
タルムードは資本主義どうこうは言及しないですが、動機を問うという姿勢があります。
つまり応援してお金を使うのが消費させられているだけなら危ういが「学び」「励まし」などの良い意図なら有意義。
タルムードは「尊敬の概念=悪」とは言いません。むしろどう向き合うかが問題です。
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
あなたの感覚はとても正しいです。「愚者が勝っているように見える状況」は、タナフもタルムードもすでに鋭く描いています。
以下は、ユダヤ的視点からのなぜ愚者が勝ってしまうのかとそれにどう向き合うかの答えです。
さらに
タルムードの答えはこうです:「この世は不完全であり、正義はしばしば遅れて現れる。」
つまり、
という立場です。
声が大きい者が勝ったように見える。
「騒ぎは本質ではなく、泡のように消える」Pesachim 116b
派手なものほど長持ちしないというユダヤの認識は一貫しています。
「本物の影響はゆっくりと根を張る」Avot 1:1
SNSでは愚者が勝つように見えるかもしれない。しかしユダヤ思想では、
と線を引きます。
インフルエンサーのように騒ぎで勝つ競争は、そもそも賢者の土俵ではない。
賢者がやるべきは次の3つ
3. 長期的に残る価値を築くこと(Shabbat 31a)
派手な帝国も、流行も、騒ぎも消えた。その中で、静かに学び、積み重ねたユダヤ教の伝統だけが残った。
「騒がしい者は消え、学ぶ者は残る。」Sotah 13b
タナフとタルムードは愚者や混乱の時代をどう生きるかについて驚くほど多く語っています。
まとめると、究極の方法は 知恵+正しい生き方+道徳を体現することです。
タナフはこう言います。
逆に言えば、知恵を探求し続ける人が愚者の時代を生き延びるということ。
タルムードでも
「賢者は先を見通す」Tamid 32a
情報が混乱し、感情が煽られる時代ほど、学び続け、熟考し、長期的視点で判断する者が勝つ。
だからこそ、誠実、謙虚、対話、責任。これらを実践することが、最も強い抵抗となります。
タルムードでも、
「恐れ(倫理)がなければ、知恵は持続しない」Shabbat 31b
「少しの光は多くの闇を払いのける」Sotah 21a
光=
・知恵
・行い
・誠実
・善意
・言葉
・怒り
・不安
・煽動
・恐怖
1. 知恵を求め続ける
2. 礼節・良識を守る
魔法騎士(マジックナイト)レイアースはアニメ版から入って、海ちゃんが好きだっだよね。
見た目はクールな美少女だけど感情表現豊かで友達想いの海、見た目はショタで美少年だけど長い時を生きる賢者のクレフ
はっきりくっついた訳ではなかったけれどお似合いだと思ってて…
でも後で原作を知って、原作にはクレフとの恋愛要素はなく、アスコットという目隠れガチショタからの片想いがあり、そっちとくっつきそうな可能性を示して終わっていると知る。
で、さらに後年、CLAMP作品はその殆どがジョジョの花京院と承太郎を元ネタにしていると知る。
レイアースにおいては光(ウェーブの赤い髪、相手役のランティスは承太郎と同じ声優)、風(ウェーブの髪、緑色の目、機体が緑)、エメロード姫(ウェーブの髪、緑色の目、名前がエメラルド、CCさくらの雪兎と同じ声優、相手役のザカートは承太郎と同じ声優)、イーグル(ランティスとコンビを組んでいてエメロード姫と同じ声優、機体が緑)が花京院で、それぞれの相手役が承太郎と思われる。
海ちゃんはどうなんだと心配したが、レイピア使い、三枚目といった要素を取り出していくと
とか言っても海ちゃんもやはり花京院である可能性は否定出来ないが
アニメのクレフとの関係を否定してアスコットという別キャラをくっつけようとした事実からは、
どうもCLAMPの自己投影対象である花京院モチーフのキャラ以外の女キャラにはハイスペ男キャラをくっつけてなるものかという意思を感じるんだよな…
それにCCさくらでクレフと声優が同じエリオルはプレセアと声優が同じの観月とくっついていて
そうするとクレフも承太郎で、承太郎要素のあるキャラは花京院以外とくっつけたくなかったと考えると説明が付くから
最近はとにかく原作者至上主義で、メディア化による原作改変は絶対悪のように言われる風潮だけど
しかしCLAMP作品の場合そもそもの「原作」からして、ジョジョと別作品とを組み合わせたツギハギパクリの二次創作みたいなものだしなー
三大、ダイの大冒険の名シーン
・ポップがメルルの死を前にしてザオリクを覚えて賢者になったシーン
・クロコダインがバルジ島の大渦の中で特訓をして獣王激烈掌を習得
あとひとつは?
https://reach.link/traitimquequatviethd
https://reach.link/phadamsinhnhatme
https://reach.link/bitmatbatnai
弱者男性という社会的レッテルやそれをめぐる議論に、ユダヤ教的視点から何か言えるかということですね。
まず最も基本的な観点として、ユダヤ教はすべての人間が神の像(ツェレム・エロヒム, צֶלֶם אֱלֹהִים)に創られたと教えます(創世記 1:27)。
この考え方からすれば、人を強者/弱者とラベル付けして価値づける発想そのものが誤りです。
一人ひとりが神の像を宿しており、その尊厳は社会的成功や能力では決まりません。
したがって、弱者男性を批判する言説に対してユダヤ的に言えばこうツッコめます:
「公の場で他人を辱める者は、血を流す者に等しい(מלבין פני חבירו ברבים כאילו שופך דמים)」
SNS上などで弱者男性などとレッテルを貼り、嘲笑したりすることは、まさにこの教えが戒める行為に当たります。
「誰が強い者か? 自分の欲望を制する者である。」 (אֵיזֶהוּ גִבּוֹר? הַכּוֹבֵשׁ אֶת יִצְרוֹ)
ユダヤ的には、真の強さとは他人を支配する力や経済力ではなく、自分の内面を制御できるかどうかです。
つまり、弱者と呼ばれる人の中に、もっとも強い魂を持つ人がいるかもしれない。
Q: 私は最近、ある気付きがありました。
それは、最初から愚者やクズであると私が思っている人間の発言には動揺しませんが、私が尊敬している人間が攻撃的言動などをしたときにより大きな失望を感じるということです。
私は最近、ある物理学者のツイートで「idiotであるなら、少なくとも有用でいろ」という発言がありました。
この人は尊敬していたのですが、他人をidiotと言ったり、有用というまるで人を道具扱いする言動を見て失望したのです。
ーーー
あなたの感じた「尊敬する人が攻撃的な言葉を使った時の失望」は、人間関係の中で非常に普遍的な体験です。
そして、ユダヤ教の教えには、このような感情にどう向き合うか、またどう自分の中で整理するかについて多くの知恵があります。
ユダヤ教では、すべての人間は「ツェレム・エロヒム(צלם אלוהים)」神の似姿に創られた存在だと教えます(創世記 1:27)。
つまり、誰もが神的な価値を持つと同時に、不完全さをもつ存在です。ラビたちは「賢者であっても、時に罪を犯す」と語ります(コヘレト・ラッバ)。
あなたの尊敬する物理学者も、知性において優れていても、人格や言葉においては未熟な部分があるかもしれません。
ユダヤ教的な視点では、その人の一部の欠点が、全体の価値を打ち消すわけではないと考えます。
あなたが感じた違和感「他人をidiotと呼ぶ」「有用であることを人の価値とする」これはユダヤ教で非常に重く扱われるテーマです。
「ラション・ハラー(悪口・悪意のある言葉)」は、タルムードで「三人を殺す」と言われています:
「悪口は三人を殺す――話す者、聞く者、そして語られる者」(アラヒン 15b)
ですからあなたの失望は、実に深い倫理的感受性の現れです。ユダヤ的に言えば、あなたは言葉の聖さに敏感であるということです。
ミシュナ「アヴォット(先祖の教え)」ではこう述べられています:
つまり、もし可能であれば、「彼は苛立っていたのかもしれない」「彼なりの不器用な表現かもしれない」と、一度は善意で捉えてみる姿勢を持つように、と教えます。
これは相手の行為を免罪することではなく、「自分の心を恨みや幻滅に支配されないようにするため」の精神的防御でもあります。
ユダヤの学者ラビ・ナフマン・ミ・ブレスラフはこう教えました:
あなたがその物理学者の言葉に強く反応したのは、「人の尊厳を守る」というあなた自身の大切な価値を裏切られたと感じたからです。
それは痛みでもあり、同時に、あなたが深く倫理的で思慮深い人である証拠でもあります。