2023.05.20
宮城北部車旅202305 01
仙台北部を走る、車中泊の旅に出た。
車中泊の旅は、2020年の秋に山陽地方を28日間にわたって巡って以来、ほぼ3年ぶりとなる。もうそんなに経つのだな。
コロナの影響による外出の自粛や、母の病状なり心の落ち着きに問題があったために、なかなか頻繁には旅に出られないでいた。加えて、ほぼ日本を一周し終えた車中泊の旅のスタイルが、その後自分の中でタウンステイ型へと移行してきたため、「車旅」はずいぶん間が空いた。
今回は1泊か、多くても2泊という、過去と比べるには短すぎる行程なので、車中泊のプレッシャーはなく、久しぶりであることがうれしくて楽しみな感覚が先走る。むしろこの長さでは車旅とは言えないのではないかという思いもある。
(5月9日。素晴らしくいい天気だ)
この旅を思いついたそもそもは、「晴れた日は巨大仏を見に」(宮田珠己著、幻冬舎文庫、2009)という本を読んで、仙台市泉区にある「仙台大観音」を見てみたくなったためだ。
空中にドドンと聳える巨大仏の“マヌ景”をまずはとくと眺めて、そこから先は北へと針路を取り、わりかし近くなのにこれまでよく見たことのなかった仙北地域をウロウロとして、テキトーに帰ろうと考えてみた。
2023年5月9日、6時10分起床。今朝はかなり冷えたが、素晴らしくいい天気だ。今週はしばらくいい天気が続くということなので、いよいよ車旅のチャンスが巡ってきたと前のめりに捉えたい。
髭を剃り、日記書きなどの日常的な作業を手早く済ませ、荷物の細々したところを確認して、布団類などを積み込み、8時45分に家をスタートする。
(布団類を積んで、では行ってきます)
9時40分頃に関山街道(R48)の「大滝ドライブイン泉や」で一休みする。ここに立ち寄ったのはおそらく40年ぶりぐらいで、ものを食べるのは初めてだと思う。
(大滝ドライブイン泉や)
けっこういいと聞いていた、かき揚げ天ぷらそば、650円を食べる。
そうは言ってもドライブインだし、駅の立ち食いそばみたいなものがやってくるのだろうから軽くかっ込んで……と、大きな期待はしていなかったのだが、豈図らんや大充実の一品だった。
(かき揚げ天ぷらそば650円)
天ぷらがいっぱい! 揚げたばかりの手づくりで、タマネギ、ニンジンのほかにナス、サツマイモ、カボチャ、ピーマン、グリーンアスパラなどが入っている。衣のつゆへの散開度合いもグッド。
エッジの立った太めの製麺所製の麺は黒々としていて、よい啜り甲斐と喉越しあり。つゆも塩分が少なく味わい深い。ボリュームも想定以上で、これはもう夕食まで何も食べなくてもいいな。
立ち寄って大正解。食後は関山大滝を眺めながら寛いだが、立派なこの滝をじっくり見るのも初めてだったかもしれない。
(関山大滝)
県境を越えて宮城県に入り、「JR作並駅」も見たことがないことに気づき、寄ってみる。
山間の駅にふさわしく、木がふんだんに使われている建物は2008年3月完成。今年3月から無人駅になったばかりのようだ。この駅で列車交換をするため、上下線がほぼ同じ時刻にこの駅を発車する。
「交流電化発祥の碑」を見逃す。温泉街から離れていて静かな佇まいを見せていた。
(JR作並駅)
(無人駅のホームから仙台方面を望む)
さあ、今回の旅の主目的である「仙台大観音」を見なければならない。
仙台大観音は、仙台市泉区実沢中山南にある大観密寺(だいかんみつじ)にある。この界隈にやって来れば高さ100mあるという白くてでっかい大観音様がいやでも目に入ってくる。ホテルも建っている敷地内に入ると、巨大仏はさらに圧倒的になる。
仙台市の都心部から見て西北の標高180m程度の造成地にあり、大観音の正式名称は「仙台天道白衣大観音(せんだいてんどうびゃくえだいかんのん)」。1964年から、双葉綜合開発を核とする双葉グループが「中山」と名の付く大規模住宅地やレジャー施設等を開発。同グループを率いた実業家が、事業が成功したのは日ごろ信仰していた観音様のお陰と、大観音像建立を発願し、造成地の一部に着工したものなのだそうだ。1991年9月に落慶法要と大観音像の開眼法要が営まれ、隣接地には同日「ニューワールドホテル」(現仙台ヒルズホテル)も開業している。
(「仙台大観音」キター!)
(デカーっ!)
いやぁ、デカいなぁ。感慨に耽りつつ写真を撮っていると、同好の士と思われる同年代男性から「工事関係者の方ですか?」と問われる。「いえいえ、わざわざこれを見に来たのです」と告げて、二人並んで顎を上げ、ポカーンとした姿勢で巨大仏を仰ぎ見るのだった。
1988年9月着工、1990年12月竣工、建設費40億円。計画が発表された当時は周辺住民が反対運動を起こし、建設後も不気味に見られていた時期があったという。また、創建当初は全国からバスを連ねての観光や参拝者も数多く集まり連日賑わっていたが、現在の境内地は静寂な佇まいを見せ、創建時とは違う地域信仰のよりどころとなっているように見えた。
車中泊の旅は、2020年の秋に山陽地方を28日間にわたって巡って以来、ほぼ3年ぶりとなる。もうそんなに経つのだな。
コロナの影響による外出の自粛や、母の病状なり心の落ち着きに問題があったために、なかなか頻繁には旅に出られないでいた。加えて、ほぼ日本を一周し終えた車中泊の旅のスタイルが、その後自分の中でタウンステイ型へと移行してきたため、「車旅」はずいぶん間が空いた。
今回は1泊か、多くても2泊という、過去と比べるには短すぎる行程なので、車中泊のプレッシャーはなく、久しぶりであることがうれしくて楽しみな感覚が先走る。むしろこの長さでは車旅とは言えないのではないかという思いもある。
(5月9日。素晴らしくいい天気だ)
この旅を思いついたそもそもは、「晴れた日は巨大仏を見に」(宮田珠己著、幻冬舎文庫、2009)という本を読んで、仙台市泉区にある「仙台大観音」を見てみたくなったためだ。
空中にドドンと聳える巨大仏の“マヌ景”をまずはとくと眺めて、そこから先は北へと針路を取り、わりかし近くなのにこれまでよく見たことのなかった仙北地域をウロウロとして、テキトーに帰ろうと考えてみた。
2023年5月9日、6時10分起床。今朝はかなり冷えたが、素晴らしくいい天気だ。今週はしばらくいい天気が続くということなので、いよいよ車旅のチャンスが巡ってきたと前のめりに捉えたい。
髭を剃り、日記書きなどの日常的な作業を手早く済ませ、荷物の細々したところを確認して、布団類などを積み込み、8時45分に家をスタートする。
(布団類を積んで、では行ってきます)
9時40分頃に関山街道(R48)の「大滝ドライブイン泉や」で一休みする。ここに立ち寄ったのはおそらく40年ぶりぐらいで、ものを食べるのは初めてだと思う。
(大滝ドライブイン泉や)
けっこういいと聞いていた、かき揚げ天ぷらそば、650円を食べる。
そうは言ってもドライブインだし、駅の立ち食いそばみたいなものがやってくるのだろうから軽くかっ込んで……と、大きな期待はしていなかったのだが、豈図らんや大充実の一品だった。
(かき揚げ天ぷらそば650円)
天ぷらがいっぱい! 揚げたばかりの手づくりで、タマネギ、ニンジンのほかにナス、サツマイモ、カボチャ、ピーマン、グリーンアスパラなどが入っている。衣のつゆへの散開度合いもグッド。
エッジの立った太めの製麺所製の麺は黒々としていて、よい啜り甲斐と喉越しあり。つゆも塩分が少なく味わい深い。ボリュームも想定以上で、これはもう夕食まで何も食べなくてもいいな。
立ち寄って大正解。食後は関山大滝を眺めながら寛いだが、立派なこの滝をじっくり見るのも初めてだったかもしれない。
(関山大滝)
県境を越えて宮城県に入り、「JR作並駅」も見たことがないことに気づき、寄ってみる。
山間の駅にふさわしく、木がふんだんに使われている建物は2008年3月完成。今年3月から無人駅になったばかりのようだ。この駅で列車交換をするため、上下線がほぼ同じ時刻にこの駅を発車する。
「交流電化発祥の碑」を見逃す。温泉街から離れていて静かな佇まいを見せていた。
(JR作並駅)
(無人駅のホームから仙台方面を望む)
さあ、今回の旅の主目的である「仙台大観音」を見なければならない。
仙台大観音は、仙台市泉区実沢中山南にある大観密寺(だいかんみつじ)にある。この界隈にやって来れば高さ100mあるという白くてでっかい大観音様がいやでも目に入ってくる。ホテルも建っている敷地内に入ると、巨大仏はさらに圧倒的になる。
仙台市の都心部から見て西北の標高180m程度の造成地にあり、大観音の正式名称は「仙台天道白衣大観音(せんだいてんどうびゃくえだいかんのん)」。1964年から、双葉綜合開発を核とする双葉グループが「中山」と名の付く大規模住宅地やレジャー施設等を開発。同グループを率いた実業家が、事業が成功したのは日ごろ信仰していた観音様のお陰と、大観音像建立を発願し、造成地の一部に着工したものなのだそうだ。1991年9月に落慶法要と大観音像の開眼法要が営まれ、隣接地には同日「ニューワールドホテル」(現仙台ヒルズホテル)も開業している。
(「仙台大観音」キター!)
(デカーっ!)
いやぁ、デカいなぁ。感慨に耽りつつ写真を撮っていると、同好の士と思われる同年代男性から「工事関係者の方ですか?」と問われる。「いえいえ、わざわざこれを見に来たのです」と告げて、二人並んで顎を上げ、ポカーンとした姿勢で巨大仏を仰ぎ見るのだった。
1988年9月着工、1990年12月竣工、建設費40億円。計画が発表された当時は周辺住民が反対運動を起こし、建設後も不気味に見られていた時期があったという。また、創建当初は全国からバスを連ねての観光や参拝者も数多く集まり連日賑わっていたが、現在の境内地は静寂な佇まいを見せ、創建時とは違う地域信仰のよりどころとなっているように見えた。
2023.05.21
宮城北部車旅202305 02
守護札料500円を納めれば内部の拝観ができる。胎内は12層に分かれ、60mに及ぶ吹き抜けになっているらしいが、上り道はきらいな上に、多くの仏体などの各種宝物には興味がないので、入らず。台座にある胎内への入り口は、龍の口(登龍門)を模している。
(胎内への入り口)
(内部はこんな感じらしい)
大観音像の外装には白色フッ素樹脂塗装が施されていて、2001年に2億円をかけて再塗装工事が行われたが、2020年頃から表面にヒビが目立つようになった。そのため、この3月から約1年をかける修復工事が始まっている。仙台大観音に作業員たちがぶら下がるという、レアな光景が見られるわけだ。
観音像の後ろに回ってみると、おおやってるやってる。2人がぶら下がっている。ヒビが入っているところにマークが付けられ、これらを補修する前に水を当てて表面の汚れを落としているようで、概ね背面の左半分のクリーニングが終わっている模様だった。
(大観音に作業員たちがぶら下がるレアな光景)
大観音の真下には、「油掛大黒堂」があった。
ここに祀られている大黒天は油を掛けて拝む珍しい参拝法で知られる。油を注ぐ参拝法は元々、真言密教の増益法の一つである浴油法に由来するものだと考えられている。縁結びにご利益があるとのことだが、当方にとってはいまさらあまり関係がないかもしれない。ただ、ついこの前、次男が結婚を決めた相手を連れて戻ってきていたので、今後も順調にいってよねとお願いしておいた。なお、油掛大黒天は米沢市竹井の「八幡原公園」にも鎮座しているらしい。
(油掛大黒堂)
(油掛大黒天)
このあと、大観音の撮影スポットを求めて周辺を歩いてみる。
はじめは、大観音の南西の「イオン仙台中山店」の駐車場から。かなり手前にあるはずの自動車と較べられたし。
次は、「南中山1丁目北」交差点の東側から。大魔神か、ラスボスか。
そして、住宅地にある「中山七丁目公園」横の道路から。住宅街と観音を一緒に撮影して異世界感あふれる写真を撮れる場所で、もっとズーム機能の高いレンズで撮ればバッチリだったかもしれない。
(「イオン仙台中山店」の駐車場から)
(「南中山1丁目北」交差点の東側から)
(「中山七丁目公園」横の道路から)
いやぁ、撮った撮った。十分に楽しませてもらった。大観音を見るなら晴れた日に限る。これで旅の目的の半分は達成した感じだな。では次に行こうか。
(胎内への入り口)
(内部はこんな感じらしい)
大観音像の外装には白色フッ素樹脂塗装が施されていて、2001年に2億円をかけて再塗装工事が行われたが、2020年頃から表面にヒビが目立つようになった。そのため、この3月から約1年をかける修復工事が始まっている。仙台大観音に作業員たちがぶら下がるという、レアな光景が見られるわけだ。
観音像の後ろに回ってみると、おおやってるやってる。2人がぶら下がっている。ヒビが入っているところにマークが付けられ、これらを補修する前に水を当てて表面の汚れを落としているようで、概ね背面の左半分のクリーニングが終わっている模様だった。
(大観音に作業員たちがぶら下がるレアな光景)
大観音の真下には、「油掛大黒堂」があった。
ここに祀られている大黒天は油を掛けて拝む珍しい参拝法で知られる。油を注ぐ参拝法は元々、真言密教の増益法の一つである浴油法に由来するものだと考えられている。縁結びにご利益があるとのことだが、当方にとってはいまさらあまり関係がないかもしれない。ただ、ついこの前、次男が結婚を決めた相手を連れて戻ってきていたので、今後も順調にいってよねとお願いしておいた。なお、油掛大黒天は米沢市竹井の「八幡原公園」にも鎮座しているらしい。
(油掛大黒堂)
(油掛大黒天)
このあと、大観音の撮影スポットを求めて周辺を歩いてみる。
はじめは、大観音の南西の「イオン仙台中山店」の駐車場から。かなり手前にあるはずの自動車と較べられたし。
次は、「南中山1丁目北」交差点の東側から。大魔神か、ラスボスか。
そして、住宅地にある「中山七丁目公園」横の道路から。住宅街と観音を一緒に撮影して異世界感あふれる写真を撮れる場所で、もっとズーム機能の高いレンズで撮ればバッチリだったかもしれない。
(「イオン仙台中山店」の駐車場から)
(「南中山1丁目北」交差点の東側から)
(「中山七丁目公園」横の道路から)
いやぁ、撮った撮った。十分に楽しませてもらった。大観音を見るなら晴れた日に限る。これで旅の目的の半分は達成した感じだな。では次に行こうか。
2023.05.23
宮城北部車旅202305 03
次に立ち寄ったのは、仙台市泉区七北田の「ユアテックスタジアム仙台」。
この日はスタジアムでのイベントがなかったので、周辺は静かだ。七北田公園第1駐車場に停めようと思い、間違って入ったのはスタジアム入口目の前の「コジマ×ビックカメラ泉中央店」の無料駐車場だった。ここもガラガラで特に咎められるような雰囲気はなかったので、そのまま使わせてもらうことにする。
ここは「ベガルタ仙台」のホームグラウンド。サッカー応援熱は持ち合わせていないので、地元「モンテディオ山形」とのみちのくダービーを行うライバルの本拠地であっても、ここは初めてやってきた。ピッチと一体感を感じられる劇場型スタジアムなのだそうだ。
(ユアテックスタジアム仙台)
「全国都市緑化フェア・'89グリーンフェアせんだい」の開催を記念して、健康運動公園として開園した「七北田公園」が並びにあるが、園内を歩くのがかったるいのでパスし、地下鉄「泉中央駅」がすぐ北にあるようなので、そちらをチェックしに行く。歩行者デッキから、左手に駅ビルとバスプール、そして右手に居並ぶ商業施設を眺める。眺めながら、大昔に一度、何らかの形でこの場に立ったことがあることを思い出した。だが、なぜ来たのかまでは思い出せないのだった。
(地下鉄泉中央駅)
(駅前の「アリオ」と「セルバ」)
泉中央駅の北西側、仙台市泉区寺岡(泉パークタウン)にある「仙台泉プレミアム・アウトレット」にも立ち寄ってみる。
アメリカ東北部の街並みをイメージした施設に約80店舗が入居しているという。
GW明けとあってか、客数が少なくて快適だ。というか、客数よりも、ここに集う小さな店々の店員の総数のほうが多いのではないか。
はじめに「Tapio」というショッピングモールから入り、1階と2階のモールを見て歩くのだが、いろいろな商品があってディスプレイが賑やかだなぁとは思うが、購買意欲をそそるようなものはほとんどない。まあ大概のものは持っているし、そもそも日々の生活に必要だと思っているもの自体が極めて少ない人間だから、残念ながらこういうところで買わなければならないものなどないのだ。
(「Tapio」内の一角)
連絡通路を通って「仙台泉プレミアム・アウトレット」へ。ブランド品を売る小売店が並んでいる。こういうところはあれを買うんだ!と具体的な目的を持ってやって来なければダメで、値札を見て何コレ、20%引きと言っても普通の店で買うより5倍ぐらいするじゃん……などと思い始めたら、もう興味はスーッと引いていくのだった。(笑)
(「仙台泉プレミアム・アウトレット」の一角)
今回は都市施設を見に来ているわけではない。これは“ついで”なのだ。人の集まるところはこれぐらいにして、ここからはローカルな立寄り地へと戻ろう。
ということで次は、黒川郡大和町の「宮床宝蔵(みやとこたからぐら)」へと向かう。
この宮床地区は、青葉城が攻められた時に逃げ落ちる先としての、伊達政宗の孫・宗房以来の伊達家ゆかりの地。「宮床宝蔵」は、宮床伊達家の宝物を中心に、地域の骨董などを展示する博物館となっている。
宝物には興味が湧かなかったが、庭園が美しく、その一角に「旧宮床伊達家住宅」があったので、見学する。明治維新後には宮床伊達家の当主が住んでいたものを、1999年に移転復元したものであるとのこと。
(「宮床宝蔵」は今風の建物だった)
(「宮床宝蔵」)の庭は整備がゆきとどいている
(旧宮床伊達家住宅)
(住宅内部も見ることができる)
この日はスタジアムでのイベントがなかったので、周辺は静かだ。七北田公園第1駐車場に停めようと思い、間違って入ったのはスタジアム入口目の前の「コジマ×ビックカメラ泉中央店」の無料駐車場だった。ここもガラガラで特に咎められるような雰囲気はなかったので、そのまま使わせてもらうことにする。
ここは「ベガルタ仙台」のホームグラウンド。サッカー応援熱は持ち合わせていないので、地元「モンテディオ山形」とのみちのくダービーを行うライバルの本拠地であっても、ここは初めてやってきた。ピッチと一体感を感じられる劇場型スタジアムなのだそうだ。
(ユアテックスタジアム仙台)
「全国都市緑化フェア・'89グリーンフェアせんだい」の開催を記念して、健康運動公園として開園した「七北田公園」が並びにあるが、園内を歩くのがかったるいのでパスし、地下鉄「泉中央駅」がすぐ北にあるようなので、そちらをチェックしに行く。歩行者デッキから、左手に駅ビルとバスプール、そして右手に居並ぶ商業施設を眺める。眺めながら、大昔に一度、何らかの形でこの場に立ったことがあることを思い出した。だが、なぜ来たのかまでは思い出せないのだった。
(地下鉄泉中央駅)
(駅前の「アリオ」と「セルバ」)
泉中央駅の北西側、仙台市泉区寺岡(泉パークタウン)にある「仙台泉プレミアム・アウトレット」にも立ち寄ってみる。
アメリカ東北部の街並みをイメージした施設に約80店舗が入居しているという。
GW明けとあってか、客数が少なくて快適だ。というか、客数よりも、ここに集う小さな店々の店員の総数のほうが多いのではないか。
はじめに「Tapio」というショッピングモールから入り、1階と2階のモールを見て歩くのだが、いろいろな商品があってディスプレイが賑やかだなぁとは思うが、購買意欲をそそるようなものはほとんどない。まあ大概のものは持っているし、そもそも日々の生活に必要だと思っているもの自体が極めて少ない人間だから、残念ながらこういうところで買わなければならないものなどないのだ。
(「Tapio」内の一角)
連絡通路を通って「仙台泉プレミアム・アウトレット」へ。ブランド品を売る小売店が並んでいる。こういうところはあれを買うんだ!と具体的な目的を持ってやって来なければダメで、値札を見て何コレ、20%引きと言っても普通の店で買うより5倍ぐらいするじゃん……などと思い始めたら、もう興味はスーッと引いていくのだった。(笑)
(「仙台泉プレミアム・アウトレット」の一角)
今回は都市施設を見に来ているわけではない。これは“ついで”なのだ。人の集まるところはこれぐらいにして、ここからはローカルな立寄り地へと戻ろう。
ということで次は、黒川郡大和町の「宮床宝蔵(みやとこたからぐら)」へと向かう。
この宮床地区は、青葉城が攻められた時に逃げ落ちる先としての、伊達政宗の孫・宗房以来の伊達家ゆかりの地。「宮床宝蔵」は、宮床伊達家の宝物を中心に、地域の骨董などを展示する博物館となっている。
宝物には興味が湧かなかったが、庭園が美しく、その一角に「旧宮床伊達家住宅」があったので、見学する。明治維新後には宮床伊達家の当主が住んでいたものを、1999年に移転復元したものであるとのこと。
(「宮床宝蔵」は今風の建物だった)
(「宮床宝蔵」)の庭は整備がゆきとどいている
(旧宮床伊達家住宅)
(住宅内部も見ることができる)
2023.05.25
宮城北部車旅202305 04
「宮床宝蔵」のすぐ近くには、「原阿佐緒(はらあさお)記念館」があった。
「大正の三閏秀歌人」の一人として活躍した歌人の生家なのだそうだが、浅学菲才のためその人物を知らなない。1888年生まれで短歌を与謝野晶子に師事し、のちアララギ派の斎藤茂吉、島木赤彦の指導を受けた人物であるとのこと。
ここはその原阿佐緒の擬洋風建築の復元生家であり、帰郷した48歳から20年ほど、この家で暮らしたそうだ。中は資料の展示室になっているらしいが、開いているか閉まっているのか……。
(原阿佐緒記念館)
どーれ、まだ明るいけれども、そろそろ風呂に入りたくなってきたな。
このあたりには半公営の日帰り温泉施設がわりかしあちこちにあって、利用するならこの辺かなと2つの施設を念頭に置いていた。
一つは加美郡色麻町の色麻町平沢交流センター「かっぱのゆ」、もう一つは加美郡加美町の「やくらい薬師の湯」で、現在地の宮床から近い「かっぱのゆ」をまずチェックして、すごくよければそこで入浴することにし、判断に迷う場合は「やくらい薬師の湯」まで走ってこちらで入ることにする。選択肢が広いって、スバラシイ。でもまあ、時間からいえば後者になる可能性が高いかな。
「かっぱのゆ」は、館内を見せてほしいと窓口に申し出ると、「見学者」の名札を出してきて、どうぞご覧くださいとにっこり。おおっ、対応いいぞ。
本館にあるメインの浴室は、ジェットバス・打たせ湯・サウナ・歩行浴など各種タイプの温泉浴が楽しめ、露天風呂は別棟の別館にある。これら2か所の間は裸でうろつくわけにはいかず、いったん服を着て移動しなければならないところがネックかもしれない。まだ15時半だし、入浴は次でとしようか。
「色麻町平沢穀菜センター(産直所)」が隣接して建っており、地元産の農産物や加工品を揃えているが、夕刻のこの時間では商品が少なくなっていて、ちょっぴりさえないのだった。
(色麻町平沢交流センター「かっぱのゆ」)
(色麻町平沢穀菜センター)
「かっぱのゆ」から15分ほど走って、「やくらい薬師の湯」。旧加美町のシンボルの薬莱山の麓に湧き、男女各100名が一度に入浴できる大浴場、大露天風呂等がある。よし、ここで入ろう。
その前に、ここでも「やくらい土産センター・山の幸センター」が隣接していたので入ってみる。やくらいわさびがウリのようだが、ここも終業時間か近く、品物が少ない。
さあ、風呂。入浴料800円と聞いていたが、16時以降は500円で入れるようでラッキー。広い大浴場は湯温がほどよく、その外にある露天風呂も大きくてゆったりできる。ここの風呂は他と比較してもかなりいいのではないか。
(やくらい土産センター・山の幸センター)
(やくらい薬師の湯)
風呂から上がり、無料で休憩できる大広間を一人で占領する形となり、ごろりと横になって文庫本を読む。ああ、サイコーだ。日帰り温泉の醍醐味はむろん風呂にあるのだが、この時間も大事なのだ。
ところが、山間地にある施設のためスマホの電波が届いていないらしく、ウェブが使えない。ということは地図も見られず情報も取れずで、こうなるとここでゆっくりしている理由のひとつがなくなるのだった。ここの食事処で絶品だというわさビフ丼1,000円を食べて行ってもいいかなと思っていたが、残念ながらこれでは省略になっちゃうな。
「薬師の湯」を出て17時半過ぎ。こうなると、明日のルートを考えれば今夜の泊地は「道の駅三本木やまなみ」となりそうだが、その前にもう1か所、「加美町中新田交流センター」に立ち寄ってみよう。
加美郡加美町の、コロニアルスタイルの旧鳴瀬小学校校舎を保存活用した社会教育施設。木造校舎の懐かしさを残しつつ、モダンな内装の館内は研修室、体育館、宿泊施設が整っている。ここでは教育、芸術、文化、スポーツなどをテーマとして今も多くの交流が行われているという。
18時半の夕暮れ時で、落陽の光を浴びたいい表情の建物を見ることができた。
(加美町中新田交流センター)
(夕日を浴びて威風堂々)
途中コンビニで弁当と缶チューハイを買い込み、19時過ぎの暗くなりかけた頃に、大崎市三本木、国道4号のすぐ脇にある「道の駅三本木やまなみ」着。今夜はここでステイだ。
道の駅はもう閉まって鍵がかかっているのでやることはなく、あとは車内で静かに食べて飲んで、眠くなったら寝るばかりだ。
暗い車内でカーナビの小さいテレビ画面を見ながら、今日はもう運転はしないんだもんねとばかりに呷る缶チューハイがうまい。もそもそと一人でつつく弁当も、連日だとウンザリするものだが、たまにこうやって食べればそれもまた楽しく、それなりに味わい深いものがある。ああ今夜、俺は一人ぼっちで、世の中からは全く隔絶したところで妙な寛ぎ方をしているのだなぁ、と。
いい感じで眠くなってきた21時前、歯を磨き、小用を足して、ベッドとなるトランク+リアシートに移動。これまでいつも、リアシートの背もたれ下に当たる部分の出っ張りが痛くて安眠を阻害されていたので、今回は倒したシートの下に厚みのある座布団を噛ませてみた。するとこれが大正解。背骨に当たる硬いところがあまり気にならない上に、頭の位置が少し高くなって、とても眠りやすかった。したがって、横になるやほぼすぐに眠りへ。
5月9日の走行距離は、166kmだった。
「大正の三閏秀歌人」の一人として活躍した歌人の生家なのだそうだが、浅学菲才のためその人物を知らなない。1888年生まれで短歌を与謝野晶子に師事し、のちアララギ派の斎藤茂吉、島木赤彦の指導を受けた人物であるとのこと。
ここはその原阿佐緒の擬洋風建築の復元生家であり、帰郷した48歳から20年ほど、この家で暮らしたそうだ。中は資料の展示室になっているらしいが、開いているか閉まっているのか……。
(原阿佐緒記念館)
どーれ、まだ明るいけれども、そろそろ風呂に入りたくなってきたな。
このあたりには半公営の日帰り温泉施設がわりかしあちこちにあって、利用するならこの辺かなと2つの施設を念頭に置いていた。
一つは加美郡色麻町の色麻町平沢交流センター「かっぱのゆ」、もう一つは加美郡加美町の「やくらい薬師の湯」で、現在地の宮床から近い「かっぱのゆ」をまずチェックして、すごくよければそこで入浴することにし、判断に迷う場合は「やくらい薬師の湯」まで走ってこちらで入ることにする。選択肢が広いって、スバラシイ。でもまあ、時間からいえば後者になる可能性が高いかな。
「かっぱのゆ」は、館内を見せてほしいと窓口に申し出ると、「見学者」の名札を出してきて、どうぞご覧くださいとにっこり。おおっ、対応いいぞ。
本館にあるメインの浴室は、ジェットバス・打たせ湯・サウナ・歩行浴など各種タイプの温泉浴が楽しめ、露天風呂は別棟の別館にある。これら2か所の間は裸でうろつくわけにはいかず、いったん服を着て移動しなければならないところがネックかもしれない。まだ15時半だし、入浴は次でとしようか。
「色麻町平沢穀菜センター(産直所)」が隣接して建っており、地元産の農産物や加工品を揃えているが、夕刻のこの時間では商品が少なくなっていて、ちょっぴりさえないのだった。
(色麻町平沢交流センター「かっぱのゆ」)
(色麻町平沢穀菜センター)
「かっぱのゆ」から15分ほど走って、「やくらい薬師の湯」。旧加美町のシンボルの薬莱山の麓に湧き、男女各100名が一度に入浴できる大浴場、大露天風呂等がある。よし、ここで入ろう。
その前に、ここでも「やくらい土産センター・山の幸センター」が隣接していたので入ってみる。やくらいわさびがウリのようだが、ここも終業時間か近く、品物が少ない。
さあ、風呂。入浴料800円と聞いていたが、16時以降は500円で入れるようでラッキー。広い大浴場は湯温がほどよく、その外にある露天風呂も大きくてゆったりできる。ここの風呂は他と比較してもかなりいいのではないか。
(やくらい土産センター・山の幸センター)
(やくらい薬師の湯)
風呂から上がり、無料で休憩できる大広間を一人で占領する形となり、ごろりと横になって文庫本を読む。ああ、サイコーだ。日帰り温泉の醍醐味はむろん風呂にあるのだが、この時間も大事なのだ。
ところが、山間地にある施設のためスマホの電波が届いていないらしく、ウェブが使えない。ということは地図も見られず情報も取れずで、こうなるとここでゆっくりしている理由のひとつがなくなるのだった。ここの食事処で絶品だというわさビフ丼1,000円を食べて行ってもいいかなと思っていたが、残念ながらこれでは省略になっちゃうな。
「薬師の湯」を出て17時半過ぎ。こうなると、明日のルートを考えれば今夜の泊地は「道の駅三本木やまなみ」となりそうだが、その前にもう1か所、「加美町中新田交流センター」に立ち寄ってみよう。
加美郡加美町の、コロニアルスタイルの旧鳴瀬小学校校舎を保存活用した社会教育施設。木造校舎の懐かしさを残しつつ、モダンな内装の館内は研修室、体育館、宿泊施設が整っている。ここでは教育、芸術、文化、スポーツなどをテーマとして今も多くの交流が行われているという。
18時半の夕暮れ時で、落陽の光を浴びたいい表情の建物を見ることができた。
(加美町中新田交流センター)
(夕日を浴びて威風堂々)
途中コンビニで弁当と缶チューハイを買い込み、19時過ぎの暗くなりかけた頃に、大崎市三本木、国道4号のすぐ脇にある「道の駅三本木やまなみ」着。今夜はここでステイだ。
道の駅はもう閉まって鍵がかかっているのでやることはなく、あとは車内で静かに食べて飲んで、眠くなったら寝るばかりだ。
暗い車内でカーナビの小さいテレビ画面を見ながら、今日はもう運転はしないんだもんねとばかりに呷る缶チューハイがうまい。もそもそと一人でつつく弁当も、連日だとウンザリするものだが、たまにこうやって食べればそれもまた楽しく、それなりに味わい深いものがある。ああ今夜、俺は一人ぼっちで、世の中からは全く隔絶したところで妙な寛ぎ方をしているのだなぁ、と。
いい感じで眠くなってきた21時前、歯を磨き、小用を足して、ベッドとなるトランク+リアシートに移動。これまでいつも、リアシートの背もたれ下に当たる部分の出っ張りが痛くて安眠を阻害されていたので、今回は倒したシートの下に厚みのある座布団を噛ませてみた。するとこれが大正解。背骨に当たる硬いところがあまり気にならない上に、頭の位置が少し高くなって、とても眠りやすかった。したがって、横になるやほぼすぐに眠りへ。
5月9日の走行距離は、166kmだった。
2023.05.26
宮城北部車旅202305 05
2023年5月10日(水)。
夜は気温が下がり、とても寒かった。この時期車内で寝るときは、上は薄手のトレーナー、下はスウェットパンツを着用し、敷き布団を1枚敷き、タオルケットと毛布を掛ければたいがいOKなのだが、前夜はこれでは足りず、明け方になってから念のために持参していたフリースを着込んでなんとか寒さを耐えた。
4時台には外が明るくなり始めたので、5時起床。朝日とともに起きるのが、車旅の楽しさの一つでもある。さっそく外に出て、忘れないうちに朝日の中の「道の駅三本木やまなみ」の建物を撮る。大崎地域の玄関口として、観光・特産品販売のアンテナショップの役割を果たしている施設のようだ。
(道の駅三本木やまなみ)
ひと晩駐車した場所のすぐ脇にあった建物は、「大崎市三本木亜炭記念館」だった。
道の駅三本木に併設された資料館で、「亜炭」の資料館とは珍しい。かつて「三本木亜炭」は良質の炭質と炭層でその名をとどろかせたといい、建物入口に展示されているオート三輪は実際に炭鉱で使用されていたものなのだそうだ。内部には模擬坑道や日本一の炭柱が展示され、亜炭の歴史がわかる資料等があるらしい。無料なので観たかったところだが、9時まで待たなければ開かない。
(大崎市三本木亜炭記念館)
この日の行動日程について考える。この時点でもう1泊することに決めてしまえば、のんびりと回れていいのだが、7時に開く大崎市古川のマクドナルドでログ付けをするのであれば、現在地の「道の駅三本木やまなみ」から北に進めばすぐなのだが、そうするならばここで1時間半近くも滞留して時間調整をしなければならない。だったらむしろ、東に進んで朝のうちに大崎市松山や鹿島台、美里町の小牛田、涌谷町の中心部のポイントを見てしまい、そこから北へと針路をとって、登米市迫町にある「マクドナルド佐沼店」まで走ってしまったほうがいいのではないか。そうすれば1時間半も時間のロスが省けるし、佐沼でゆっくりログ付けする時間も取れる。
よし、そうしよう。そうなると、もう1泊はしなくても山形に帰れる可能性も出てくるよナ。まあ、今夜をどうするかについては、進み具合を見ながら途中で決めて行けばいい話だ。
というわけで、5時35分に「道の駅三本木やまなみ」を発ってしまう。
「発つ」とは言っても、この日の最初の立寄り地は道の駅のついでといった感じで、すぐそばにある「豆坂地蔵尊」だ。
1765年、放火の大罪を犯して処刑された者の後世を弔うため、広瀬川の巨石で彫刻させたという石彫総高4mの地蔵尊。地震倒壊予防のためか、胸と背のあたりが板木で補強してある。一部にロープが張られて、危ないから近づいてはいけないよという雰囲気。なんだか地蔵様がある種の責め苦、拷問に遭遇しているようにも見える。お地蔵さまも地震には勝てないようだ。
(豆坂地蔵尊)
少し走って6時前、大崎市松山千石地区の中心部に至り、「松山酒ミュージアム華の蔵」着。
この地域の銘酒「一ノ蔵」を醸す酒蔵の展示施設で、アニメと人形を使って酒づくりや酒の特徴・料理との相性などを紹介するとともに、昔ながらの酒づくりや酒の特徴を実際に使われていた道具に合わせて紹介している――という興味深いポイントだ。しかし、ここも9時半にならないと開かない。しょうがないので蔵の外観を撮影するにとどまる。時間のロスは減るが、早朝に立ち寄るポイントはつまらない。
(松山酒ミュージアム華の蔵)
その奥には「松山ふるさと歴史館」もあった。
松山町の歴史を展示する郷土資料館で、「松山」にかかわる考古、美術、歴史的遺品を広く収集展示していて、特に伊達家の重鎮であった茂庭家の資料が充実しているという。また、当地出身のフランク永井の資料展示室もある。
「松山酒ミュージアム華の蔵」と「松山ふるさと歴史館」があるこのエリアは、この地域の一大観光拠点として集中整備されているようで、立派な公民館も建っていた。
(松山ふるさと歴史館)
松山千石地区の少し北に位置する遠田郡美里町の「JR小牛田駅」にも立寄ってみる。
古川に駅がつくられる東北新幹線の開業前は、鉄道の十字路として交通の要衝だったところ。駅周辺や駅舎の佇まいこそかつての栄華を損なっていない広さと大きさだが、駅自体は無人駅となり、この時間ということもあってかタクシープールには1台も停まっていない。
しかし、駅前周辺の歩道には花壇が整備され、かつては繁盛したであろう「旅館旭館」の凝った建物がまだ現存していることに、ややホッとするところがあった。1913年創業の老舗旅館だったが、すでに閉館してしまっていることを、あとで知る。
(JR小牛田駅)
(旅館旭館)
まだ開店していないと知りつつ少し遠回りして、大崎市鹿島台の「デリシャスファーム」にも立寄ってみた。
多くの農家が栽培困難で生産をあきらめるという甘味と酸味のバランスのよい「デリシャストマト」を40年ほど前から生産し、トマト加工品やギフト商品などをつくっているところ。
「デリシャストマトファームカフェ」が併設されていて、そこで供されるトマトを新鮮なうちに調理した野菜たっぷりの味噌ラーメンというものを食べてみたかったのだが、またいずれ何かの機会に。
(「デリシャストマトファームカフェ」の味噌ラーメンが食べたかった)
登米市迫町佐沼を目指す途中でJR石巻線を跨いだので、遠田郡涌谷町の「JR涌谷駅」にも立寄ってみる。石巻線なんて乗ったことがないし、こういう機会にでも寄らなければなかなか見られないだろうと思って。
下り17本、上り19本と本数が異なるのはなぜなのだろう。国道346号から集落に入る交差点付近のつくりは、鶴岡市の旧藤島町のR345から入る道筋の風景とよく似ている。
(JR涌谷駅)
夜は気温が下がり、とても寒かった。この時期車内で寝るときは、上は薄手のトレーナー、下はスウェットパンツを着用し、敷き布団を1枚敷き、タオルケットと毛布を掛ければたいがいOKなのだが、前夜はこれでは足りず、明け方になってから念のために持参していたフリースを着込んでなんとか寒さを耐えた。
4時台には外が明るくなり始めたので、5時起床。朝日とともに起きるのが、車旅の楽しさの一つでもある。さっそく外に出て、忘れないうちに朝日の中の「道の駅三本木やまなみ」の建物を撮る。大崎地域の玄関口として、観光・特産品販売のアンテナショップの役割を果たしている施設のようだ。
(道の駅三本木やまなみ)
ひと晩駐車した場所のすぐ脇にあった建物は、「大崎市三本木亜炭記念館」だった。
道の駅三本木に併設された資料館で、「亜炭」の資料館とは珍しい。かつて「三本木亜炭」は良質の炭質と炭層でその名をとどろかせたといい、建物入口に展示されているオート三輪は実際に炭鉱で使用されていたものなのだそうだ。内部には模擬坑道や日本一の炭柱が展示され、亜炭の歴史がわかる資料等があるらしい。無料なので観たかったところだが、9時まで待たなければ開かない。
(大崎市三本木亜炭記念館)
この日の行動日程について考える。この時点でもう1泊することに決めてしまえば、のんびりと回れていいのだが、7時に開く大崎市古川のマクドナルドでログ付けをするのであれば、現在地の「道の駅三本木やまなみ」から北に進めばすぐなのだが、そうするならばここで1時間半近くも滞留して時間調整をしなければならない。だったらむしろ、東に進んで朝のうちに大崎市松山や鹿島台、美里町の小牛田、涌谷町の中心部のポイントを見てしまい、そこから北へと針路をとって、登米市迫町にある「マクドナルド佐沼店」まで走ってしまったほうがいいのではないか。そうすれば1時間半も時間のロスが省けるし、佐沼でゆっくりログ付けする時間も取れる。
よし、そうしよう。そうなると、もう1泊はしなくても山形に帰れる可能性も出てくるよナ。まあ、今夜をどうするかについては、進み具合を見ながら途中で決めて行けばいい話だ。
というわけで、5時35分に「道の駅三本木やまなみ」を発ってしまう。
「発つ」とは言っても、この日の最初の立寄り地は道の駅のついでといった感じで、すぐそばにある「豆坂地蔵尊」だ。
1765年、放火の大罪を犯して処刑された者の後世を弔うため、広瀬川の巨石で彫刻させたという石彫総高4mの地蔵尊。地震倒壊予防のためか、胸と背のあたりが板木で補強してある。一部にロープが張られて、危ないから近づいてはいけないよという雰囲気。なんだか地蔵様がある種の責め苦、拷問に遭遇しているようにも見える。お地蔵さまも地震には勝てないようだ。
(豆坂地蔵尊)
少し走って6時前、大崎市松山千石地区の中心部に至り、「松山酒ミュージアム華の蔵」着。
この地域の銘酒「一ノ蔵」を醸す酒蔵の展示施設で、アニメと人形を使って酒づくりや酒の特徴・料理との相性などを紹介するとともに、昔ながらの酒づくりや酒の特徴を実際に使われていた道具に合わせて紹介している――という興味深いポイントだ。しかし、ここも9時半にならないと開かない。しょうがないので蔵の外観を撮影するにとどまる。時間のロスは減るが、早朝に立ち寄るポイントはつまらない。
(松山酒ミュージアム華の蔵)
その奥には「松山ふるさと歴史館」もあった。
松山町の歴史を展示する郷土資料館で、「松山」にかかわる考古、美術、歴史的遺品を広く収集展示していて、特に伊達家の重鎮であった茂庭家の資料が充実しているという。また、当地出身のフランク永井の資料展示室もある。
「松山酒ミュージアム華の蔵」と「松山ふるさと歴史館」があるこのエリアは、この地域の一大観光拠点として集中整備されているようで、立派な公民館も建っていた。
(松山ふるさと歴史館)
松山千石地区の少し北に位置する遠田郡美里町の「JR小牛田駅」にも立寄ってみる。
古川に駅がつくられる東北新幹線の開業前は、鉄道の十字路として交通の要衝だったところ。駅周辺や駅舎の佇まいこそかつての栄華を損なっていない広さと大きさだが、駅自体は無人駅となり、この時間ということもあってかタクシープールには1台も停まっていない。
しかし、駅前周辺の歩道には花壇が整備され、かつては繁盛したであろう「旅館旭館」の凝った建物がまだ現存していることに、ややホッとするところがあった。1913年創業の老舗旅館だったが、すでに閉館してしまっていることを、あとで知る。
(JR小牛田駅)
(旅館旭館)
まだ開店していないと知りつつ少し遠回りして、大崎市鹿島台の「デリシャスファーム」にも立寄ってみた。
多くの農家が栽培困難で生産をあきらめるという甘味と酸味のバランスのよい「デリシャストマト」を40年ほど前から生産し、トマト加工品やギフト商品などをつくっているところ。
「デリシャストマトファームカフェ」が併設されていて、そこで供されるトマトを新鮮なうちに調理した野菜たっぷりの味噌ラーメンというものを食べてみたかったのだが、またいずれ何かの機会に。
(「デリシャストマトファームカフェ」の味噌ラーメンが食べたかった)
登米市迫町佐沼を目指す途中でJR石巻線を跨いだので、遠田郡涌谷町の「JR涌谷駅」にも立寄ってみる。石巻線なんて乗ったことがないし、こういう機会にでも寄らなければなかなか見られないだろうと思って。
下り17本、上り19本と本数が異なるのはなぜなのだろう。国道346号から集落に入る交差点付近のつくりは、鶴岡市の旧藤島町のR345から入る道筋の風景とよく似ている。
(JR涌谷駅)
2023.05.27
宮城北部車旅202305 06
「マクドナルド佐沼店」に到着したのは7時15分頃。よしよし、開いている。
いつものようにソーセージマフィンのバリューセットを注文して、ログ付けを始めるために電源のある席を所望したところ、電源席はありませんとのこと。ガガーン……まずは第一の挫折。
ではまあ、バッテリーを電源として作業をしようとモバイルパソコンを開いたところ、なぜかWORとEXCELのアイコンがいつもの青や緑ではなく白っぱけたもので表示されている。頭の中に「?」をたくさん発生させつつ開こうとするのだが、プロクラムを指定して開けときて、どう探してもWORDのアプリが見つからず、作業をする環境が得られずにお手上げ状態となったのでアッタ。
その原因は判然としないのだが、帰宅してから調べてみると、旅に出る前日に行ったウィンドウズ・アップデートの際に、何らかの事情があってこれらのアプリが消えてしまったとしか考えられないのだった。
ちぇっ。こうなれば、マックなんかに長居をする必要性はない。さっさとここを切り上げて、ログ付けは家に戻ってからやることにしよう。そして、ここで使うはずだったログ付けタイムがまたもや大きく浮いてしまったので、ここから先の進捗もさらに早くなる。
じゃああれか。今夜は温泉には入らず、道の駅にも泊まらず、帰っちゃおうか。ま、もう少し様子を見て、ひととおり見終わって帰れる時間ならば、帰ろう。
ということで、ここも8時15分には切り上がってしまったのだった。
(いいことなかった「マクドナルド佐沼店」)
佐沼はこの地域の主要な街地なのだが、早朝では特にやることがないので、ほんのついでに「宮城県立佐沼高等学校」を見に行ってみた。
何のことはなく、大昔の予備校時代にこの高校からもやって来ていた男女が数人いて、若干の面識を持ったことがあるというだけの糸口しかない。ははぁ、彼らが学んでいたのはここだったのか。
思い出したけど、たしかあの年、佐沼高校は夏の甲子園の県予選でベスト4ぐらいまで勝ち進んだのではなかったか。調べてみると、それはまったくの記憶違いで、その3年後の1980、81年に2年連続して地区大会のベスト8まで進んでいた。そして、2014年にはなんと、準優勝しているのだった。
登校時間は過ぎているので生徒の姿は見られない。校舎改築中で、生徒たちは仮設の3階建てプレハブ校舎で授業中だった。
(プレハブ校舎の「宮城県立佐沼高等学校」)
さて、次に向かうのは、今日のメインとなりそうな登米市登米町だ。そちらに向かって走っていると、右手に変わった形の大きな建物が見えた。あれは何?! 寄ってみよう。
それは、「日米祝祭劇場」とはじめは読めて“??”だったけれども、正しくは「登米祝祭劇場」いうものなのだった。これもあとで調べてみると、894席を有する大ホールのある多目的ホールで、合併前の登米郡に属する8町(迫町、登米町、東和町、中田町、豊里町、米山町、石越町、南方町)が財団法人登米文化振興財団を設立して1994年に開館したものなのだった。ザルツブルク音楽祭のようなものを開催できるようにしたいという趣旨で、クラシック向けのホールとして設計されたとのこと。
この日は行事がないようで、静かなものだった。
(登米祝祭劇場)
9時前に、登米市登米町寺池の桜小路地区に到着。ここからは町歩きだ。
登米市登米町は、町のすぐ東側を北上川が流れ、東に北上山地、西には米作地帯が広がる静かな町。仙台伊達藩の一門として、約300年にわたり2万1千石の城下町だったところだ。
歴代当主は、北上川の川筋を変えるなど多くの事業を興して民生の安定に努め、明治維新後は北上川舟運による米穀の集散地として繁栄。廃藩置県により登米県・水沢県の県庁所在地になったが、その後宮城県に統合されている。
町には、ハイカラな洋風建築物、廃藩置県当時に置かれた水沢県庁記念館、重厚な蔵造りの商家など、明治を偲ばせる建物が現存し、少し横道に入ると藩政時代の武家屋敷や史跡が随所に残っているため、旧登米町地区は「みやぎの明治村」と呼ばれているのだそうだ。2021年前期の連続テレビ小説「おかえりモネ」でも、「森の町」登米として紹介されているらしい。
自然にたどり着いた「とよま観光物産センター遠山之里」の背後にある駐車場に車を停めて歩き始める。
開いたばかりの「遠山之里」でまちあるきマップをゲットして、これを頼りに回ることにする。なお「遠山之里」は、登米地域の物産販売施設で、食堂も併設。名物の油麩丼などもここで味わえるらしい。
(とよま観光物産センター遠山之里)
「遠山之里」のすぐ西側に位置する「登米町教育資料館」。
旧登米高等尋常小学校の校舎で、擬洋風木造建築の、「みやぎの明治村」登米を代表する建築物。棟札からは1888年の上棟であることがうかがえるという。内部は有料で、大正時代の授業を体感できる再現教室や明治からの教科書を展示しているとのこと。保存状態も悪くなく、立派だ。
(登米町教育資料館1)
(登米町教育資料館2)
(登米町教育資料館3)
「遠山之里」の前まで戻って、道路を挟んでその向かいにある「水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)」。
廃藩置県により登米県庁舎として、次いで水沢県庁舎として使われた、和洋折衷の建造物。玄関と本棟は当時からのもので、とりわけ玄関の切妻は量感あふれる重厚な構えだ。
(水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎))
「水沢県庁記念館」前から南に伸びる通りは「武家屋敷通り(前小路)」になっている。画像は清野家の外白壁だ。
(武家屋敷通り)
いつものようにソーセージマフィンのバリューセットを注文して、ログ付けを始めるために電源のある席を所望したところ、電源席はありませんとのこと。ガガーン……まずは第一の挫折。
ではまあ、バッテリーを電源として作業をしようとモバイルパソコンを開いたところ、なぜかWORとEXCELのアイコンがいつもの青や緑ではなく白っぱけたもので表示されている。頭の中に「?」をたくさん発生させつつ開こうとするのだが、プロクラムを指定して開けときて、どう探してもWORDのアプリが見つからず、作業をする環境が得られずにお手上げ状態となったのでアッタ。
その原因は判然としないのだが、帰宅してから調べてみると、旅に出る前日に行ったウィンドウズ・アップデートの際に、何らかの事情があってこれらのアプリが消えてしまったとしか考えられないのだった。
ちぇっ。こうなれば、マックなんかに長居をする必要性はない。さっさとここを切り上げて、ログ付けは家に戻ってからやることにしよう。そして、ここで使うはずだったログ付けタイムがまたもや大きく浮いてしまったので、ここから先の進捗もさらに早くなる。
じゃああれか。今夜は温泉には入らず、道の駅にも泊まらず、帰っちゃおうか。ま、もう少し様子を見て、ひととおり見終わって帰れる時間ならば、帰ろう。
ということで、ここも8時15分には切り上がってしまったのだった。
(いいことなかった「マクドナルド佐沼店」)
佐沼はこの地域の主要な街地なのだが、早朝では特にやることがないので、ほんのついでに「宮城県立佐沼高等学校」を見に行ってみた。
何のことはなく、大昔の予備校時代にこの高校からもやって来ていた男女が数人いて、若干の面識を持ったことがあるというだけの糸口しかない。ははぁ、彼らが学んでいたのはここだったのか。
思い出したけど、たしかあの年、佐沼高校は夏の甲子園の県予選でベスト4ぐらいまで勝ち進んだのではなかったか。調べてみると、それはまったくの記憶違いで、その3年後の1980、81年に2年連続して地区大会のベスト8まで進んでいた。そして、2014年にはなんと、準優勝しているのだった。
登校時間は過ぎているので生徒の姿は見られない。校舎改築中で、生徒たちは仮設の3階建てプレハブ校舎で授業中だった。
(プレハブ校舎の「宮城県立佐沼高等学校」)
さて、次に向かうのは、今日のメインとなりそうな登米市登米町だ。そちらに向かって走っていると、右手に変わった形の大きな建物が見えた。あれは何?! 寄ってみよう。
それは、「日米祝祭劇場」とはじめは読めて“??”だったけれども、正しくは「登米祝祭劇場」いうものなのだった。これもあとで調べてみると、894席を有する大ホールのある多目的ホールで、合併前の登米郡に属する8町(迫町、登米町、東和町、中田町、豊里町、米山町、石越町、南方町)が財団法人登米文化振興財団を設立して1994年に開館したものなのだった。ザルツブルク音楽祭のようなものを開催できるようにしたいという趣旨で、クラシック向けのホールとして設計されたとのこと。
この日は行事がないようで、静かなものだった。
(登米祝祭劇場)
9時前に、登米市登米町寺池の桜小路地区に到着。ここからは町歩きだ。
登米市登米町は、町のすぐ東側を北上川が流れ、東に北上山地、西には米作地帯が広がる静かな町。仙台伊達藩の一門として、約300年にわたり2万1千石の城下町だったところだ。
歴代当主は、北上川の川筋を変えるなど多くの事業を興して民生の安定に努め、明治維新後は北上川舟運による米穀の集散地として繁栄。廃藩置県により登米県・水沢県の県庁所在地になったが、その後宮城県に統合されている。
町には、ハイカラな洋風建築物、廃藩置県当時に置かれた水沢県庁記念館、重厚な蔵造りの商家など、明治を偲ばせる建物が現存し、少し横道に入ると藩政時代の武家屋敷や史跡が随所に残っているため、旧登米町地区は「みやぎの明治村」と呼ばれているのだそうだ。2021年前期の連続テレビ小説「おかえりモネ」でも、「森の町」登米として紹介されているらしい。
自然にたどり着いた「とよま観光物産センター遠山之里」の背後にある駐車場に車を停めて歩き始める。
開いたばかりの「遠山之里」でまちあるきマップをゲットして、これを頼りに回ることにする。なお「遠山之里」は、登米地域の物産販売施設で、食堂も併設。名物の油麩丼などもここで味わえるらしい。
(とよま観光物産センター遠山之里)
「遠山之里」のすぐ西側に位置する「登米町教育資料館」。
旧登米高等尋常小学校の校舎で、擬洋風木造建築の、「みやぎの明治村」登米を代表する建築物。棟札からは1888年の上棟であることがうかがえるという。内部は有料で、大正時代の授業を体感できる再現教室や明治からの教科書を展示しているとのこと。保存状態も悪くなく、立派だ。
(登米町教育資料館1)
(登米町教育資料館2)
(登米町教育資料館3)
「遠山之里」の前まで戻って、道路を挟んでその向かいにある「水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)」。
廃藩置県により登米県庁舎として、次いで水沢県庁舎として使われた、和洋折衷の建造物。玄関と本棟は当時からのもので、とりわけ玄関の切妻は量感あふれる重厚な構えだ。
(水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎))
「水沢県庁記念館」前から南に伸びる通りは「武家屋敷通り(前小路)」になっている。画像は清野家の外白壁だ。
(武家屋敷通り)
2023.05.28
宮城北部車旅202305 07
武家屋敷のひとつである旧鈴木家「春蘭亭」が公開されている。
鈴木家は、紀伊熊野の鈴木氏から分かれた一派で、登米伊達氏初代藩主が水沢から登米に移るに伴って、1604年に共に移住したらしい。亭名は、この地に自生する春蘭を加工した「春蘭茶」を提供することから名付けられたとのこと。
(武家屋敷「春蘭亭」)
その南隣は「登米懐古館」。
2019年、建築家隈研吾の設計により「春蘭亭」と同じ敷地内に移転新築された建物。建屋は地元名産の石材を使用したスレート葺きの屋根が特徴になっていて、美しい。館内には登米伊達家ゆかりの甲冑・刀剣・絵画・彫刻等、城下町だった当時を偲ばせる品々を展示しているという。
(登米懐古館)
その通りのさらに南にあった「四脚門」。
説明板によれば、「2本の大柱に扉を付け、4本の控柱を立て、貫で結び、切妻屋根をかけたもの」とのこと。東日本大震災により被災したが、所有者から門及び土地を寄附してもらい、小公園として市が整備した。
(四脚門)
四脚門前をさらに南に進むと、「亀井氏宅(武家の門)」「江崎氏邸(旧江崎醫院)」「町屋ミュージアム菅勘資料館」などがあるにはあったが、古色蒼然、未整備、開閉店不明などのため、見てまわっただけに終わる。
武家屋敷通りよりも1本東に位置する大きめの通りに場を移して歩き、そのもう少し東側となるところの川土手を上って、「北上川」を眺める。
おお、これが北上川か。いい眺めではないか。向こうに見えるのはR342の「登米大橋」だ。
(北上川(登米市登米町))
通りに戻り、何軒かある北上川の清流で育ったうなぎを供する店などを眺めながら南下していくと、少し先に懐かしい火の見櫓が見えた。ああ、こういう風景って今や絶滅危惧種だよなあと、思わず写真を撮る。
(町の向こうには火の見櫓が見えた)
火の見櫓のほうに向かって進んでいくと、櫓の立っているところが「警察資料館(旧登米警察署)」だった。
佐沼警察署登米分署が登米警察署に昇格したのに伴い、1889年に落成したもので、その洋館をそのまま利用した資料館になっている。全体にギリシャ建築の様式をみせる建物で、館内には当時の警察官の制服や帯剣、辞令などが展示され、牢屋も再現されているのだという。まあ、それも見ないで終わったが。
(警察資料館(旧登米警察署))
来た道を戻り、「ヤマカノ醸造株式会社」という味のある建物を見たりしながら登米大橋の西詰まで北進し、そこから西に折れて「遠山の里」へと戻る。
「遠山の里」前十字路の北東角には、この地のB級グルメの油麩丼とはっと汁を提供する名店「大衆食堂つか勇」があった。当初の行程であれば、もう少し後の時間にここで油麩丼とはっと汁のセットを賞味する計画だったのだが、こう早まってしまうと店がまだ開いていない。開くまでにまだ1時間以上もあるためスルーせざるを得ないのが極めて残念だ。店の写真だけ撮って無理やり留飲を下げさせた形だ。
(「株式会社鈴彦」の揚がる建物は、ヤマカノ醸造株式会社)
(油麩丼の「大衆食堂つか勇」)
(「つか勇」の油麩丼とミニはっと汁セット)
「遠山の里」に戻り、車でもう1か所、集落の山手にある「伝統芸能伝承館(森舞台)」を見に行く。歩かず車で行って正解。
300年近い歴史のある登米能(とよまのう)のホームステージとして1996年にオープンしたもので、もと登米伊達家の御鍛冶屋(鉄砲鍛冶)屋敷跡地に、山裾の地形をそのまま利用して建てられたものであるとのこと。
本格的能舞台を備え、能装束や能面等、登米能に関する資料を展示しているというのだが、わざわざ行ったのにこの外観は如何に。柵をこしらえて外から見えなくしてやんの。こんなに囲ってどうするの。建物は外から見えてこそナンボなのではないか。金をもらわなければ寸分たりとも見せたくないってか。
こういう商業主義的で悪趣味な見せ方をする建物なら、この世からすぐさま消えてほしい。車から降りるのも馬鹿らしく、車内から1枚だけ撮って、サヨウナラ。最後だけ後味の悪い形で、登米の町歩きは終了となった。
(よい能舞台をわざわざ外から見えなくしている「伝統芸能伝承館」)
鈴木家は、紀伊熊野の鈴木氏から分かれた一派で、登米伊達氏初代藩主が水沢から登米に移るに伴って、1604年に共に移住したらしい。亭名は、この地に自生する春蘭を加工した「春蘭茶」を提供することから名付けられたとのこと。
(武家屋敷「春蘭亭」)
その南隣は「登米懐古館」。
2019年、建築家隈研吾の設計により「春蘭亭」と同じ敷地内に移転新築された建物。建屋は地元名産の石材を使用したスレート葺きの屋根が特徴になっていて、美しい。館内には登米伊達家ゆかりの甲冑・刀剣・絵画・彫刻等、城下町だった当時を偲ばせる品々を展示しているという。
(登米懐古館)
その通りのさらに南にあった「四脚門」。
説明板によれば、「2本の大柱に扉を付け、4本の控柱を立て、貫で結び、切妻屋根をかけたもの」とのこと。東日本大震災により被災したが、所有者から門及び土地を寄附してもらい、小公園として市が整備した。
(四脚門)
四脚門前をさらに南に進むと、「亀井氏宅(武家の門)」「江崎氏邸(旧江崎醫院)」「町屋ミュージアム菅勘資料館」などがあるにはあったが、古色蒼然、未整備、開閉店不明などのため、見てまわっただけに終わる。
武家屋敷通りよりも1本東に位置する大きめの通りに場を移して歩き、そのもう少し東側となるところの川土手を上って、「北上川」を眺める。
おお、これが北上川か。いい眺めではないか。向こうに見えるのはR342の「登米大橋」だ。
(北上川(登米市登米町))
通りに戻り、何軒かある北上川の清流で育ったうなぎを供する店などを眺めながら南下していくと、少し先に懐かしい火の見櫓が見えた。ああ、こういう風景って今や絶滅危惧種だよなあと、思わず写真を撮る。
(町の向こうには火の見櫓が見えた)
火の見櫓のほうに向かって進んでいくと、櫓の立っているところが「警察資料館(旧登米警察署)」だった。
佐沼警察署登米分署が登米警察署に昇格したのに伴い、1889年に落成したもので、その洋館をそのまま利用した資料館になっている。全体にギリシャ建築の様式をみせる建物で、館内には当時の警察官の制服や帯剣、辞令などが展示され、牢屋も再現されているのだという。まあ、それも見ないで終わったが。
(警察資料館(旧登米警察署))
来た道を戻り、「ヤマカノ醸造株式会社」という味のある建物を見たりしながら登米大橋の西詰まで北進し、そこから西に折れて「遠山の里」へと戻る。
「遠山の里」前十字路の北東角には、この地のB級グルメの油麩丼とはっと汁を提供する名店「大衆食堂つか勇」があった。当初の行程であれば、もう少し後の時間にここで油麩丼とはっと汁のセットを賞味する計画だったのだが、こう早まってしまうと店がまだ開いていない。開くまでにまだ1時間以上もあるためスルーせざるを得ないのが極めて残念だ。店の写真だけ撮って無理やり留飲を下げさせた形だ。
(「株式会社鈴彦」の揚がる建物は、ヤマカノ醸造株式会社)
(油麩丼の「大衆食堂つか勇」)
(「つか勇」の油麩丼とミニはっと汁セット)
「遠山の里」に戻り、車でもう1か所、集落の山手にある「伝統芸能伝承館(森舞台)」を見に行く。歩かず車で行って正解。
300年近い歴史のある登米能(とよまのう)のホームステージとして1996年にオープンしたもので、もと登米伊達家の御鍛冶屋(鉄砲鍛冶)屋敷跡地に、山裾の地形をそのまま利用して建てられたものであるとのこと。
本格的能舞台を備え、能装束や能面等、登米能に関する資料を展示しているというのだが、わざわざ行ったのにこの外観は如何に。柵をこしらえて外から見えなくしてやんの。こんなに囲ってどうするの。建物は外から見えてこそナンボなのではないか。金をもらわなければ寸分たりとも見せたくないってか。
こういう商業主義的で悪趣味な見せ方をする建物なら、この世からすぐさま消えてほしい。車から降りるのも馬鹿らしく、車内から1枚だけ撮って、サヨウナラ。最後だけ後味の悪い形で、登米の町歩きは終了となった。
(よい能舞台をわざわざ外から見えなくしている「伝統芸能伝承館」)