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2022.10.11
東京下町散歩01 202208の1
2022年8月28日(日)に日比谷野音で開催される「琉球フェスティバル2022」を観るため、28日から31日(水)までの3泊4日で東京日本橋、地下鉄人形町駅近くにあるホテルを確保しました。中央区にありながら、3泊で11,500円そこそこの価格は安いです。
それはさておき、28日は上京+琉フェス鑑賞に充て、翌29日には日帰りで甲府市街を歩いてくることにしていて、残りの30日終日と31日の午前は、東京下町の散策に充てる考えです。
琉フェス鑑賞と甲府散策については別途整理することにして、これらを除く部分について、以下にまとめてみました。
数10年前の学生時代には4年間も東京の西部に住んでいたのに、当時は街を知る、歩くということにまったく興味が向いていなかったので、東京の主要部は満足に歩いたことすらありませんでした。
しかし、年齢を重ね、藤沢周平の江戸庶民を描いた小説や、司馬遼太郎の「街道をゆく」、太田和彦の東京居酒屋めぐりなど、東京に関するいくつかの書籍の記述を読んでいるうちに、“東京無知”がだんだんと気恥ずかしくなり、知ろうとする欲求が徐々に高まってきていたところなのでした。
今回の腹積もりとしては、ホテル近くの日本橋と人形町界隈のほか、門前仲町、清澄白河、両国をメインにして、余裕があれば、新橋、お茶の水、神保町を歩くつもりで、これらの地域に関する資料を作成して持参しました。
今回立ち寄れないところがあれば、次回以降の東京散歩に機会を譲るつもりで、そうなると今後東京および首都圏近郊は、何回かのシリーズとして歩き回ることになるかもしれません。
出発前には、あいにく天候は曇り、ところによってにわか雨という芳しくない予報が出ていました。まあそれなら、東京には今後も用事があるだろうし、来ようと思えばいつでも来れるので、あまりがんばらず、遅出・早上がりでいいのではないか。QUSUMI風に言えば、ただの散歩なのだから、日程は適当に、歩く速度はたらたら程度で十分でしょう。
では、まずは8月28日(日)のことから。
山形発10時02分の新幹線で、上野まで。
上野で下車したのもしばらくぶり。かつて奥羽・東北本線はここが終点だったので、上京する際には特急「やまばと」に乗ってここの16番線あたりに降り立つのが通例でした。中央改札付近は当時よりも小綺麗になっているものの、歩いている人の数はずっと少ない印象です。上野広小路口から見た風景もすっかり様変わりしていました。
そんな感じで、上野でしばし感傷に浸ってから、日比谷線で人形町へと向かいます。
(上野駅中央改札口付近)
(上野駅広小路口の風景)
人形町に着き、まずは今後3泊するホテルに赴いて、キャリーバッグを預かってもらい、歩き始めます。まだ小雨が降っています。
人形町の交差点付近にあった「天丼てんや人形町店」で遅い昼食をとり、その後人形町界隈を散策。しかし、小雨の中を歩いているのがいやになり、地下鉄にニゲて、琉フェス会場の日比谷野音がある霞ヶ関駅へと向かいました。したがって、この日の東京散歩はここまでです。
(人形町通り)
翌8月29日(月)は、5時過ぎに起きて、新宿発9時の特急「あずさ」で甲府へと向かい、終日甲府を散策しました。結果、暑さと距離にやられ、疲れ果てて18時頃人形町に戻りました。したがって、この日の東京散歩はありません。
それはさておき、28日は上京+琉フェス鑑賞に充て、翌29日には日帰りで甲府市街を歩いてくることにしていて、残りの30日終日と31日の午前は、東京下町の散策に充てる考えです。
琉フェス鑑賞と甲府散策については別途整理することにして、これらを除く部分について、以下にまとめてみました。
数10年前の学生時代には4年間も東京の西部に住んでいたのに、当時は街を知る、歩くということにまったく興味が向いていなかったので、東京の主要部は満足に歩いたことすらありませんでした。
しかし、年齢を重ね、藤沢周平の江戸庶民を描いた小説や、司馬遼太郎の「街道をゆく」、太田和彦の東京居酒屋めぐりなど、東京に関するいくつかの書籍の記述を読んでいるうちに、“東京無知”がだんだんと気恥ずかしくなり、知ろうとする欲求が徐々に高まってきていたところなのでした。
今回の腹積もりとしては、ホテル近くの日本橋と人形町界隈のほか、門前仲町、清澄白河、両国をメインにして、余裕があれば、新橋、お茶の水、神保町を歩くつもりで、これらの地域に関する資料を作成して持参しました。
今回立ち寄れないところがあれば、次回以降の東京散歩に機会を譲るつもりで、そうなると今後東京および首都圏近郊は、何回かのシリーズとして歩き回ることになるかもしれません。
出発前には、あいにく天候は曇り、ところによってにわか雨という芳しくない予報が出ていました。まあそれなら、東京には今後も用事があるだろうし、来ようと思えばいつでも来れるので、あまりがんばらず、遅出・早上がりでいいのではないか。QUSUMI風に言えば、ただの散歩なのだから、日程は適当に、歩く速度はたらたら程度で十分でしょう。
では、まずは8月28日(日)のことから。
山形発10時02分の新幹線で、上野まで。
上野で下車したのもしばらくぶり。かつて奥羽・東北本線はここが終点だったので、上京する際には特急「やまばと」に乗ってここの16番線あたりに降り立つのが通例でした。中央改札付近は当時よりも小綺麗になっているものの、歩いている人の数はずっと少ない印象です。上野広小路口から見た風景もすっかり様変わりしていました。
そんな感じで、上野でしばし感傷に浸ってから、日比谷線で人形町へと向かいます。
(上野駅中央改札口付近)
(上野駅広小路口の風景)
人形町に着き、まずは今後3泊するホテルに赴いて、キャリーバッグを預かってもらい、歩き始めます。まだ小雨が降っています。
人形町の交差点付近にあった「天丼てんや人形町店」で遅い昼食をとり、その後人形町界隈を散策。しかし、小雨の中を歩いているのがいやになり、地下鉄にニゲて、琉フェス会場の日比谷野音がある霞ヶ関駅へと向かいました。したがって、この日の東京散歩はここまでです。
(人形町通り)
翌8月29日(月)は、5時過ぎに起きて、新宿発9時の特急「あずさ」で甲府へと向かい、終日甲府を散策しました。結果、暑さと距離にやられ、疲れ果てて18時頃人形町に戻りました。したがって、この日の東京散歩はありません。
2022.10.12
東京下町散歩01 202208の2
2022年8月30日(火)。
ここからが本格的な東京下町散歩となります。まずは朝の腹ごしらえからです。
この旅には「立ちそば春夏秋冬」という食べ歩き本を携えてきていて、それを読み、東京で立ちそばも食べたいと思っていたのです。
人形町駅近くの「福そば」という店が朝からやっているのを見つけているので、この日の朝食はそこで食べます。
天ぷら(かきあげ)そば580円。立ち食いそばなんて実に久しぶり。値上げしたばかりかもしれませんがけっこうな価格で、この価格ならつい牛丼チェーンのほうに行ってしまいそうです。
厨房で日本の蕎麦をつくっているのは、中国語訛りのある二人の男女。こういう人たちが現在の日本の食文化の多くを担っているのだと思うと、花のお江戸も遠いところまで来てしまったものだと、感慨深いものがあります。
(日本橋人形町「福そば」の店構え)
(「福そば」の天ぷらそば)
人形町から地下鉄日比谷線、茅場町乗り換えの地下鉄東西線で、門前仲町へ。
出口から地上へと出ると、そこは永代通りの商店街。通りの両側にアーケードを配していて、深川不動堂と富岡八幡宮のある由緒ある街であること主張しているようです。以前は通りのすぐ裏に芸者がいる花街があったといい、政治家なども訪れたところだったようです。
その通りを東へと進んで、「八幡橋(旧弾正橋)」を見に行きます。
その橋は「八幡堀遊歩道」というビル群の中に忘れられたようにぽっかりと残された緑地帯の途中にありました。その昔、運河だった場所を埋め立てて出来た遊歩道のようで、クルマが入ってこられない歩道は幼稚園児の散歩コースになっていて、何組かが黄色い声を上げながらにぎやかに昆虫・植物観察をしているのでした。
八幡橋(旧弾正橋)は、長さ15.2mある都内最古の鉄橋で、単径間アーチ式。もとは1878年に京橋楓川(中央区)に弾正橋としてかけられたものが、1929年に現在地へ移され、八幡橋と改称したものであるとのことです。
(「八幡堀遊歩道」の南口から)
(「八幡橋(旧弾正橋)」と園児たち)
(遊歩道にはこのような造形物も)
遊歩道のすぐ西隣には「富岡八幡宮」があります。
通称「深川八幡宮」。江戸最大の八幡宮で、日枝神社、神田明神と並ぶ江戸の代表神社です。8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つになっているそうです。
正面の赤い鳥居のすぐ左手には、いかにも健脚でいまにも歩き出しそうな、「伊能忠敬像」があります。伊能忠敬は、50歳のときに江戸に出て、八幡宮近くに隠宅を構えていたそうで、1800年、蝦夷地測量の旅に出かける前にこの八幡宮で参拝してから出かけたとのことです。2001年の建立。でもチト頭部がデカすぎるのではないか。(笑)
参道を挟んで「伊能忠敬像」の反対側には、「大関力士碑」があります。富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地でもあり、明治年間には「横綱力士碑」(後述)が建立されたほか、1983年に歴代の大関を顕彰するものとしてこの碑が建立されたものであるとのこと。その一部には高々とした「釈迦嶽等身碑」なるものもあり、その力士は身の丈7尺5寸(2.26m余り)の巨体だったそうです。
「昭和天皇救国の御決断と富岡八幡宮」の碑というものもありました。2019年に建立された新しいものですが、1945年3月にこの地で東京大空襲の被害状況の説明を聞いた昭和天皇は、「こんなに焼けたか」と絶句し、立ちすくまれたとのことです。
(富岡八幡宮)
(伊能忠敬像)
(大関力士碑)
(「昭和天皇救国の御決断と富岡八幡宮」の碑)
ようやく参道が尽きると、拝殿に到着です。現在の社殿は1956年に鉄筋コンクリートの「重層型準八幡造り」となっています。もともとの社殿は1683年に焼失、その後も1703年に地震により損壊、1923年の関東大震災で損壊し、さらに空襲でも被害を受けるなどしているとのことです。
社殿の左奥の見つけづらいところにあった「力持碑」は、東京都の民俗芸能「深川の力持」を記念した石碑であるとのこと。江戸時代、この付近には食料倉庫が多く、そこで働いていた力自慢が米俵等を持ち上げて手玉に取り曲技として興行していたそうです。
社殿の右奥には「横綱力士碑」がありました。歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰するもので、12代横綱の陣幕久五郎が発起人となり、1900年に完成したものであるとのことです。
(「富岡八幡宮」拝殿)
(力持碑)
(横綱力士碑)
ここからが本格的な東京下町散歩となります。まずは朝の腹ごしらえからです。
この旅には「立ちそば春夏秋冬」という食べ歩き本を携えてきていて、それを読み、東京で立ちそばも食べたいと思っていたのです。
人形町駅近くの「福そば」という店が朝からやっているのを見つけているので、この日の朝食はそこで食べます。
天ぷら(かきあげ)そば580円。立ち食いそばなんて実に久しぶり。値上げしたばかりかもしれませんがけっこうな価格で、この価格ならつい牛丼チェーンのほうに行ってしまいそうです。
厨房で日本の蕎麦をつくっているのは、中国語訛りのある二人の男女。こういう人たちが現在の日本の食文化の多くを担っているのだと思うと、花のお江戸も遠いところまで来てしまったものだと、感慨深いものがあります。
(日本橋人形町「福そば」の店構え)
(「福そば」の天ぷらそば)
人形町から地下鉄日比谷線、茅場町乗り換えの地下鉄東西線で、門前仲町へ。
出口から地上へと出ると、そこは永代通りの商店街。通りの両側にアーケードを配していて、深川不動堂と富岡八幡宮のある由緒ある街であること主張しているようです。以前は通りのすぐ裏に芸者がいる花街があったといい、政治家なども訪れたところだったようです。
その通りを東へと進んで、「八幡橋(旧弾正橋)」を見に行きます。
その橋は「八幡堀遊歩道」というビル群の中に忘れられたようにぽっかりと残された緑地帯の途中にありました。その昔、運河だった場所を埋め立てて出来た遊歩道のようで、クルマが入ってこられない歩道は幼稚園児の散歩コースになっていて、何組かが黄色い声を上げながらにぎやかに昆虫・植物観察をしているのでした。
八幡橋(旧弾正橋)は、長さ15.2mある都内最古の鉄橋で、単径間アーチ式。もとは1878年に京橋楓川(中央区)に弾正橋としてかけられたものが、1929年に現在地へ移され、八幡橋と改称したものであるとのことです。
(「八幡堀遊歩道」の南口から)
(「八幡橋(旧弾正橋)」と園児たち)
(遊歩道にはこのような造形物も)
遊歩道のすぐ西隣には「富岡八幡宮」があります。
通称「深川八幡宮」。江戸最大の八幡宮で、日枝神社、神田明神と並ぶ江戸の代表神社です。8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つになっているそうです。
正面の赤い鳥居のすぐ左手には、いかにも健脚でいまにも歩き出しそうな、「伊能忠敬像」があります。伊能忠敬は、50歳のときに江戸に出て、八幡宮近くに隠宅を構えていたそうで、1800年、蝦夷地測量の旅に出かける前にこの八幡宮で参拝してから出かけたとのことです。2001年の建立。でもチト頭部がデカすぎるのではないか。(笑)
参道を挟んで「伊能忠敬像」の反対側には、「大関力士碑」があります。富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地でもあり、明治年間には「横綱力士碑」(後述)が建立されたほか、1983年に歴代の大関を顕彰するものとしてこの碑が建立されたものであるとのこと。その一部には高々とした「釈迦嶽等身碑」なるものもあり、その力士は身の丈7尺5寸(2.26m余り)の巨体だったそうです。
「昭和天皇救国の御決断と富岡八幡宮」の碑というものもありました。2019年に建立された新しいものですが、1945年3月にこの地で東京大空襲の被害状況の説明を聞いた昭和天皇は、「こんなに焼けたか」と絶句し、立ちすくまれたとのことです。
(富岡八幡宮)
(伊能忠敬像)
(大関力士碑)
(「昭和天皇救国の御決断と富岡八幡宮」の碑)
ようやく参道が尽きると、拝殿に到着です。現在の社殿は1956年に鉄筋コンクリートの「重層型準八幡造り」となっています。もともとの社殿は1683年に焼失、その後も1703年に地震により損壊、1923年の関東大震災で損壊し、さらに空襲でも被害を受けるなどしているとのことです。
社殿の左奥の見つけづらいところにあった「力持碑」は、東京都の民俗芸能「深川の力持」を記念した石碑であるとのこと。江戸時代、この付近には食料倉庫が多く、そこで働いていた力自慢が米俵等を持ち上げて手玉に取り曲技として興行していたそうです。
社殿の右奥には「横綱力士碑」がありました。歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰するもので、12代横綱の陣幕久五郎が発起人となり、1900年に完成したものであるとのことです。
(「富岡八幡宮」拝殿)
(力持碑)
(横綱力士碑)
2022.10.13
東京下町散歩01 202208の3
次は「深川不動堂」へ。いったん永代通りへと戻って、「深川不動堂赤門」をくぐってから、門前の通りを北へと進んで不動堂へと進みました。
ここは成田山の東京別院となっていて、交通安全祈願の参拝者が多いところ。正面に安置されている不動明王がお出迎えです。その表情は、チコちゃんの片頬笑いの表情と似ていなくもありません。(笑)
建物内部の多くの部分が無料で見られるようになっていて、そこにはたくさんの仏像があるのですが、それらにはそれぞれに賽銭箱が用意されていて、強い経済志向をもつ寺院であることがうかがえます。仏像を前にして手を合わせて熱心に願い事をしている人が多くあり、現代においても神や仏にすがる人は多いのだなと再認識したところです。
不動堂の西隣の「深川公園」で短い休憩を入れてから、11時前にリスタートして、次は清澄白川方面へと向かいます。
(「赤門」をくぐって不動堂へ)
(門前の「人情深川ご利益通り」)
(深川不動堂)
首都高速9号深川線の高架をくぐって北へてくてくと。タラタラとした足取りで歩いても15分程度で、あっさりとはじめの目的地の「江東区深川江戸資料館」に到着します。
ここは今年7月まで改装のため休館していたようで、いわば再開館したばかりです。地下1階から地上2階までの3層にわたる高い吹き抜け大空間に、約170年前の江戸深川の町並みを再現されています。
町並みを形成する各家の中には生活道具類が置かれていてなかなかにリアル。この中に実際に人がいたりするともっとリアルでしょうが、長屋様の建物内部は薄暗いので、ヌッと現れたりされると少し怖いかもしれません。また、人々の1日の暮らしを、物売りの声や火の用心など音響や照明の効果によって、30分おきで演出しているところがおもしろく、楽しいです。これで入場料400円なら高コスパでしょう。
(江東区深川江戸資料館)
(江戸深川の町並みが再現されている)
(町人がいないのが惜しいぐらいの再現建物)
(江戸風情が感じられる館内)
資料館のすぐ東並びに入口があった「霊巌寺(れいがんじ)」にも立ち寄りました。
江戸六地蔵のひとつ「銅造地蔵菩薩坐像(5番)」と、松平定信の墓所があるというので寄ってみた、浄土宗の寺院です。本堂自体は近代建築になっていて歴史的価値はないようでした。
本堂へと進んでいく途中右手に、「銅造地蔵菩薩坐像(5番)」があります。江戸六地蔵とは、病気平癒を祈願するため宝永から享保年間(18世紀前半頃)にかけて、江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像のことで、いずれも銅造。現存するのは第一番から第五番までで、すべて東京都の有形文化財に指定されています。なお6番は、先ほど見てきた「富岡八幡宮」あったのですが、神仏分離令による廃仏毀釈によって取り壊されたそうです。
「松平定信の墓」もありました。江戸生まれ、江戸後期の老中・白河藩主で、田沼時代の政治を正すべく「寛政の改革」を断行したものの、理想主義に過ぎ失敗におわった人物の墓です。
墓所内部には入れないようになっていたため、門の外から見るにとどまりました。門柱には「松平楽翁公霊域」「昭和4年5月修築」と記されていました。なお、霊巌寺周辺の地名「白河」は、定信に由来するとのことです。
(「霊巌寺」の本堂)
(銅造地蔵菩薩坐像(5番))
(松平定信の墓所)
清澄白河では、関宿藩主久世家下屋敷跡で、明治期に岩崎弥太郎が手に入れたという「清澄庭園」、関東大震災後の震災復興事業としてドイツ・ライン川の吊り橋をモデルにして1928年に竣工したという「清洲橋」、漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の作品や遺品を展示している「田河水泡・のらくろ館」などにも立ち寄る予定でしたが、傘が必要な程度のにわか雨が降ってきたため、割愛することにしました。
森下を経由して両国まで歩くこともあきらめて、清洲橋通りと清住通りが交差する清住3丁目の交差点の下にある地下鉄清澄白河駅から都営大江戸線に乗って、正午頃に両国へと向かいました。
(清住3丁目の交差点)
ここは成田山の東京別院となっていて、交通安全祈願の参拝者が多いところ。正面に安置されている不動明王がお出迎えです。その表情は、チコちゃんの片頬笑いの表情と似ていなくもありません。(笑)
建物内部の多くの部分が無料で見られるようになっていて、そこにはたくさんの仏像があるのですが、それらにはそれぞれに賽銭箱が用意されていて、強い経済志向をもつ寺院であることがうかがえます。仏像を前にして手を合わせて熱心に願い事をしている人が多くあり、現代においても神や仏にすがる人は多いのだなと再認識したところです。
不動堂の西隣の「深川公園」で短い休憩を入れてから、11時前にリスタートして、次は清澄白川方面へと向かいます。
(「赤門」をくぐって不動堂へ)
(門前の「人情深川ご利益通り」)
(深川不動堂)
首都高速9号深川線の高架をくぐって北へてくてくと。タラタラとした足取りで歩いても15分程度で、あっさりとはじめの目的地の「江東区深川江戸資料館」に到着します。
ここは今年7月まで改装のため休館していたようで、いわば再開館したばかりです。地下1階から地上2階までの3層にわたる高い吹き抜け大空間に、約170年前の江戸深川の町並みを再現されています。
町並みを形成する各家の中には生活道具類が置かれていてなかなかにリアル。この中に実際に人がいたりするともっとリアルでしょうが、長屋様の建物内部は薄暗いので、ヌッと現れたりされると少し怖いかもしれません。また、人々の1日の暮らしを、物売りの声や火の用心など音響や照明の効果によって、30分おきで演出しているところがおもしろく、楽しいです。これで入場料400円なら高コスパでしょう。
(江東区深川江戸資料館)
(江戸深川の町並みが再現されている)
(町人がいないのが惜しいぐらいの再現建物)
(江戸風情が感じられる館内)
資料館のすぐ東並びに入口があった「霊巌寺(れいがんじ)」にも立ち寄りました。
江戸六地蔵のひとつ「銅造地蔵菩薩坐像(5番)」と、松平定信の墓所があるというので寄ってみた、浄土宗の寺院です。本堂自体は近代建築になっていて歴史的価値はないようでした。
本堂へと進んでいく途中右手に、「銅造地蔵菩薩坐像(5番)」があります。江戸六地蔵とは、病気平癒を祈願するため宝永から享保年間(18世紀前半頃)にかけて、江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像のことで、いずれも銅造。現存するのは第一番から第五番までで、すべて東京都の有形文化財に指定されています。なお6番は、先ほど見てきた「富岡八幡宮」あったのですが、神仏分離令による廃仏毀釈によって取り壊されたそうです。
「松平定信の墓」もありました。江戸生まれ、江戸後期の老中・白河藩主で、田沼時代の政治を正すべく「寛政の改革」を断行したものの、理想主義に過ぎ失敗におわった人物の墓です。
墓所内部には入れないようになっていたため、門の外から見るにとどまりました。門柱には「松平楽翁公霊域」「昭和4年5月修築」と記されていました。なお、霊巌寺周辺の地名「白河」は、定信に由来するとのことです。
(「霊巌寺」の本堂)
(銅造地蔵菩薩坐像(5番))
(松平定信の墓所)
清澄白河では、関宿藩主久世家下屋敷跡で、明治期に岩崎弥太郎が手に入れたという「清澄庭園」、関東大震災後の震災復興事業としてドイツ・ライン川の吊り橋をモデルにして1928年に竣工したという「清洲橋」、漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の作品や遺品を展示している「田河水泡・のらくろ館」などにも立ち寄る予定でしたが、傘が必要な程度のにわか雨が降ってきたため、割愛することにしました。
森下を経由して両国まで歩くこともあきらめて、清洲橋通りと清住通りが交差する清住3丁目の交差点の下にある地下鉄清澄白河駅から都営大江戸線に乗って、正午頃に両国へと向かいました。
(清住3丁目の交差点)
2022.10.14
東京下町散歩01 202208の4
地下鉄両国駅で下車し、地下道を北へと歩いてまずは「横網町公園」へ。
ここも鬱陶しい霧雨が止まないままですが、なんとかずぶ濡れにならない程度でとどまってくれているので、歩くことにします。
この公園には、関東大震災や第二次大戦の戦災のメモリアルパークとして歴史的な建造物及び記念碑が数多く保存されています。
そのひとつが「東京都慰霊堂」です。どんとした立派な建物の前にあった説明書きによれば、関東大震災(1923年)で最大の死者が出た被服廠の跡に建てられたもので、その震災遭難者とともに第二次大戦の戦災遭難者の霊を併せて奉安している場所であるとのことです。
毎年9月1日の震災記念日と東京大空襲(1945年)のあった3月10日には大法要が行われているとも記載されていました。この日はその法要の2日前ということで、準備が始められていました。来年は大震災から100年の節目の年になります。
(東京都慰霊堂)
(慰霊堂正面)
(慰霊堂内部)
横網町公園内の日本庭園を歩いて、公園の北東角にある「東京都復興記念館」へ。
東京都慰霊堂の付帯施設として1931年に建てられた展示館です。関東大震災と戦災資料が展示されており、入館無料で、誰もがその惨禍を目の当たりにできるようにされています。
建物は、伊東忠太らの設計による鉄筋コンクリート2階建。門・柱・屋根の装飾など剛健と繊細さも併せ持つ建築で、内装や窓にも建築当時の面影が感じられます。
当時のものが多く展示されていますが、特に大震災時の写真の力は訴求力が強く、生々しさがずしんと伝わってきました。
(横網町公園の日本庭園を歩いて――)
(「東京都復興記念館」のファサード)
(多くの写真から、震災の生々しさが伝わってきた)
(震災の焼け跡に残った物の数々)
横網町公園からいったん地下鉄両国駅方面へと戻り、「江戸東京博物館」の北側の細路地を西へと進んで、「両国国技館」方面へと向かいます。
「江戸東京博物館」は、江戸・東京の歴史や文化、生活を体感できる博物館として見どころ満載のようなのですが、大規模改修工事のため全館休館中。再オープンは2025年以降だそうです。
そして「両国国技館」も、場所開催中でもないため建物の近くに寄ることもできず、守衛の数も多くて近寄り難い感じです。東京を歩いていて思ったのですが、この大都会には守衛を業として生きている人々はどのくらいいるのでしょう。おそらく、扶養家族を含めれば5万人は下らないのではないでしょうか。そんなクダラナイことを考えてしまうのでした。
平日は開館しているはずの「相撲博物館」も入口がわからず入れずじまい。国技館では唯一ギフトショップには入れましたが、こういう扱いをされれば何も買わないで帰りたくなるものです。
国技館から少々北へと歩を進めていくと、入場無料の「旧安田庭園」があったので、入ってみます。
江戸期、丹後宮津藩主本庄因幡守の屋敷跡で、安政年間(1854~60)に隅田川の水を引いて潮入回遊式庭園として築庭されたものであるとのこと。管理が大変な庭園で入場料を求めないのは珍しいと思います。
(旧安田庭園)
ここも鬱陶しい霧雨が止まないままですが、なんとかずぶ濡れにならない程度でとどまってくれているので、歩くことにします。
この公園には、関東大震災や第二次大戦の戦災のメモリアルパークとして歴史的な建造物及び記念碑が数多く保存されています。
そのひとつが「東京都慰霊堂」です。どんとした立派な建物の前にあった説明書きによれば、関東大震災(1923年)で最大の死者が出た被服廠の跡に建てられたもので、その震災遭難者とともに第二次大戦の戦災遭難者の霊を併せて奉安している場所であるとのことです。
毎年9月1日の震災記念日と東京大空襲(1945年)のあった3月10日には大法要が行われているとも記載されていました。この日はその法要の2日前ということで、準備が始められていました。来年は大震災から100年の節目の年になります。
(東京都慰霊堂)
(慰霊堂正面)
(慰霊堂内部)
横網町公園内の日本庭園を歩いて、公園の北東角にある「東京都復興記念館」へ。
東京都慰霊堂の付帯施設として1931年に建てられた展示館です。関東大震災と戦災資料が展示されており、入館無料で、誰もがその惨禍を目の当たりにできるようにされています。
建物は、伊東忠太らの設計による鉄筋コンクリート2階建。門・柱・屋根の装飾など剛健と繊細さも併せ持つ建築で、内装や窓にも建築当時の面影が感じられます。
当時のものが多く展示されていますが、特に大震災時の写真の力は訴求力が強く、生々しさがずしんと伝わってきました。
(横網町公園の日本庭園を歩いて――)
(「東京都復興記念館」のファサード)
(多くの写真から、震災の生々しさが伝わってきた)
(震災の焼け跡に残った物の数々)
横網町公園からいったん地下鉄両国駅方面へと戻り、「江戸東京博物館」の北側の細路地を西へと進んで、「両国国技館」方面へと向かいます。
「江戸東京博物館」は、江戸・東京の歴史や文化、生活を体感できる博物館として見どころ満載のようなのですが、大規模改修工事のため全館休館中。再オープンは2025年以降だそうです。
そして「両国国技館」も、場所開催中でもないため建物の近くに寄ることもできず、守衛の数も多くて近寄り難い感じです。東京を歩いていて思ったのですが、この大都会には守衛を業として生きている人々はどのくらいいるのでしょう。おそらく、扶養家族を含めれば5万人は下らないのではないでしょうか。そんなクダラナイことを考えてしまうのでした。
平日は開館しているはずの「相撲博物館」も入口がわからず入れずじまい。国技館では唯一ギフトショップには入れましたが、こういう扱いをされれば何も買わないで帰りたくなるものです。
国技館から少々北へと歩を進めていくと、入場無料の「旧安田庭園」があったので、入ってみます。
江戸期、丹後宮津藩主本庄因幡守の屋敷跡で、安政年間(1854~60)に隅田川の水を引いて潮入回遊式庭園として築庭されたものであるとのこと。管理が大変な庭園で入場料を求めないのは珍しいと思います。
(旧安田庭園)
2022.10.15
東京下町散歩01 202208の5
国技館付近から南下して「JR両国駅」へ。
JR両国駅は2016年に旧駅舎が全面リニューアルされたばかり。旧駅舎のアーチ型の3つの大きな窓や、中央の駅時計などの面影を残し、江戸の町屋を意識した吹抜け空間に改装したのだそうです。館内には、相撲協会監修の土俵が設置され、江戸情緒もたっぷりのつくりになっていました。
また、総武線ガード下に店々が並ぶ風景はいかにも都会にある庶民のオアシス的でいい雰囲気です。こういうところで夕暮れ時に一杯やるのもいいかもしれないなと、近隣の生活者をうらやましく思ったところです。
(「JR両国駅」のファサード)
(総武線のガード下に店々が並ぶ風景がいい)
ぼちぼち両国を切り上げ、隅田川を西へと渡って帰ることにしようか。そう思って国技館通りを南下して突き当たったところにあった、「両国回向院」にも立ち寄ってみます。
明暦の大火(振袖火事、1657年)の焼死者10万余人を、当時の将軍徳川家綱の命によって葬った「無縁(万人)塚」が始まりで、のちの安政大地震のほか、水死・焼死・刑死した者などの無縁仏も埋葬しているところです。また、家綱の愛馬を供養したことに由来し、各種動物の供養もしているようです。
行ってみてわかったこととして、この地は1768年に回向院で初めて相撲の興行が行われ、国技館建設まではここで相撲がとられていたらしいこと。さらには、この北並びには1909年に建てられた旧両国国技館があったことなど。参道の左手にあった「力塚」は、そのような歴史を背景に1936年、大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立されたとのことです。
また、参道の奥のほうの墓地群の一角には、時代劇で義賊として活躍する通称ねずみ小僧、「鼠小僧次郎吉の墓」がありました。墓石には「天保二年八月十八日 俗名中村次良吉之墓」と、戒名「教覚速善居士」と記されており、鼠小僧の「するりと入れる」軽やかな身のこなしから、現在も受験生が合格祈願に来るのだそうです。
(「両国回向院」の山門)
(力塚)
(鼠小僧次郎吉の墓)
回向院を西へと進んで、隅田川に架かる「両国橋」を渡ります。
隅田川と神田川の合流点付近にある、中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ、1932年竣工の橋です。国境が変更される17世紀後半まではここが武蔵国と下総国の国境になっていたことから、両国橋と呼ばれたのだそうです。橋の東詰付近にも首都高速の高架が架けられていて、風景は無残です。
(「両国橋」の東詰付近)
両国橋から地下鉄浅草橋駅までは、歩いてほどなくの距離です。駅に向かうべく北に折れたところ、隅田川に架かる「浅草橋」がありました。澱んだような川面に沿って船宿と屋形船がずらりと並ぶ風景は、昭和の東京そのままといういい眺めです。
浅草橋から地下鉄都営浅草線で人形町へと戻ります。
(昭和の風情が残る「浅草橋」からの眺め)
人形町に戻った段階で、喉の渇きが抑えきれなくなり、人形町交差点近くの「中華食堂日高屋人形町店」に寄って、餃子をつまみに生ビールをごくごくと。ああ、うまいな。初めて酢胡椒で餃子を食べてみましたが、これはおいしい食べ方でした。
(「中華食堂日高屋人形町店」でギョール)
15時前、ホテルの部屋帰着。ああ疲れた。この日はここまでで1万6千歩。昨日よりは少ないけれども、2日連続なので、脚のきつさは昨日よりも増幅しています。
東京ステイの最終夜なので、その後は夕刻からたっぷり飲んで、早めに寝ることにしました。
JR両国駅は2016年に旧駅舎が全面リニューアルされたばかり。旧駅舎のアーチ型の3つの大きな窓や、中央の駅時計などの面影を残し、江戸の町屋を意識した吹抜け空間に改装したのだそうです。館内には、相撲協会監修の土俵が設置され、江戸情緒もたっぷりのつくりになっていました。
また、総武線ガード下に店々が並ぶ風景はいかにも都会にある庶民のオアシス的でいい雰囲気です。こういうところで夕暮れ時に一杯やるのもいいかもしれないなと、近隣の生活者をうらやましく思ったところです。
(「JR両国駅」のファサード)
(総武線のガード下に店々が並ぶ風景がいい)
ぼちぼち両国を切り上げ、隅田川を西へと渡って帰ることにしようか。そう思って国技館通りを南下して突き当たったところにあった、「両国回向院」にも立ち寄ってみます。
明暦の大火(振袖火事、1657年)の焼死者10万余人を、当時の将軍徳川家綱の命によって葬った「無縁(万人)塚」が始まりで、のちの安政大地震のほか、水死・焼死・刑死した者などの無縁仏も埋葬しているところです。また、家綱の愛馬を供養したことに由来し、各種動物の供養もしているようです。
行ってみてわかったこととして、この地は1768年に回向院で初めて相撲の興行が行われ、国技館建設まではここで相撲がとられていたらしいこと。さらには、この北並びには1909年に建てられた旧両国国技館があったことなど。参道の左手にあった「力塚」は、そのような歴史を背景に1936年、大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立されたとのことです。
また、参道の奥のほうの墓地群の一角には、時代劇で義賊として活躍する通称ねずみ小僧、「鼠小僧次郎吉の墓」がありました。墓石には「天保二年八月十八日 俗名中村次良吉之墓」と、戒名「教覚速善居士」と記されており、鼠小僧の「するりと入れる」軽やかな身のこなしから、現在も受験生が合格祈願に来るのだそうです。
(「両国回向院」の山門)
(力塚)
(鼠小僧次郎吉の墓)
回向院を西へと進んで、隅田川に架かる「両国橋」を渡ります。
隅田川と神田川の合流点付近にある、中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ、1932年竣工の橋です。国境が変更される17世紀後半まではここが武蔵国と下総国の国境になっていたことから、両国橋と呼ばれたのだそうです。橋の東詰付近にも首都高速の高架が架けられていて、風景は無残です。
(「両国橋」の東詰付近)
両国橋から地下鉄浅草橋駅までは、歩いてほどなくの距離です。駅に向かうべく北に折れたところ、隅田川に架かる「浅草橋」がありました。澱んだような川面に沿って船宿と屋形船がずらりと並ぶ風景は、昭和の東京そのままといういい眺めです。
浅草橋から地下鉄都営浅草線で人形町へと戻ります。
(昭和の風情が残る「浅草橋」からの眺め)
人形町に戻った段階で、喉の渇きが抑えきれなくなり、人形町交差点近くの「中華食堂日高屋人形町店」に寄って、餃子をつまみに生ビールをごくごくと。ああ、うまいな。初めて酢胡椒で餃子を食べてみましたが、これはおいしい食べ方でした。
(「中華食堂日高屋人形町店」でギョール)
15時前、ホテルの部屋帰着。ああ疲れた。この日はここまでで1万6千歩。昨日よりは少ないけれども、2日連続なので、脚のきつさは昨日よりも増幅しています。
東京ステイの最終夜なので、その後は夕刻からたっぷり飲んで、早めに寝ることにしました。
2022.10.16
東京下町散歩01 202208の6
2022年8月31日(水)。山形に戻る日です。
10時前に人形町のホテルをチェックアウトし、フロントでキャリーバッグを預かってもらい、午前中だけ東京街歩きを続行します。今日は日本橋界隈へと向かいます。
ホテルからてくてくと東のほうへ歩けば日本橋はすぐなのですが、この日のこの時間の東京は早くも異常に気温が上がっている上に、湿度がハンパありません。数分歩いて日本橋の北東橋詰に着き、写真を撮ろうとすると、レンズが曇っていてなかなか写真が撮れません。つまり、ホテルの部屋の温度及び湿度とは格段の差があったということで、日本橋前で曇りが取れるまでしばしボーゼンとしていました。こんな湿気は東北地方ではあまり体験することがありません。
橋の北詰に、「日本橋魚市場発祥の地」のモニュメントがありました。
説明版には「日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした」と書かれていました。
それから、日本橋を北から南へと渡ってみます。それにしても橋の真上にある首都高都心環状線の高架は邪魔すぎで、せっかくの景観が台無しです。これでは「景観行政」なんてあったものではありません。日本の道路交通の原点というシンボリックな場所なのですから、ここぐらいは金がいくらかかってもアンダーパスにするなどの改良を行うべきではないでしょうか。
(日本橋魚河岸跡にあったモニュメント)
(「日本橋」の真上の高架はどうにかせんといけん!)
(せっかくの名橋が薄暗くなっています)
(日本橋麒麟像(西側))
橋を渡りきった南西橋詰には、「日本橋由来記の碑」がありました。
屋根の付いた石碑に漢字とカタカナで由来が記されています。1603年に日本橋がはじめて架けられ、東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋としたことなどが記されているようです。
北西橋詰には「日本国道路元標複製」などがありました。なお、ホンモノの元標は、日本橋の車道上にあるため、見学には不向きのようです。
(日本橋由来記の碑)
(日本国道路元標複製)
日本橋の下を流れているのは日本橋川という一級河川ですが、画像のとおり川面の上のほぼ全面が首都高の高架で覆われています。あとで地図を見ると、この光景は上流の神田錦町まで続き、その先は、神田川から水道橋で分岐するところまですべて暗渠になってしまっているという、痛ましい川なのでした。高度経済成長時にはずいぶんひどいことをしたものです。
複製日本国道路元標のある日本橋北詰交差点の北西角には「三越日本橋本店」がありました。
開業1904年。画像のアールの入った14階建てのビルは新館で、2004年に竣工したものであるとのことです。
ビルの南側の通りを歩くと、歩道脇には“銀座の柳”が配され、なぜか2階付きのロンドンバスが停まっていました。これも調べてみると、日本橋三越で「三越英国展」の開催中、このバスを貸切でクルージングできるサービスを提供しているようなのでした。
(高架が覆って薄暗い日本橋川)
(「三越日本橋本店」新館)
(銀座の柳とロンドンバス)
10時前に人形町のホテルをチェックアウトし、フロントでキャリーバッグを預かってもらい、午前中だけ東京街歩きを続行します。今日は日本橋界隈へと向かいます。
ホテルからてくてくと東のほうへ歩けば日本橋はすぐなのですが、この日のこの時間の東京は早くも異常に気温が上がっている上に、湿度がハンパありません。数分歩いて日本橋の北東橋詰に着き、写真を撮ろうとすると、レンズが曇っていてなかなか写真が撮れません。つまり、ホテルの部屋の温度及び湿度とは格段の差があったということで、日本橋前で曇りが取れるまでしばしボーゼンとしていました。こんな湿気は東北地方ではあまり体験することがありません。
橋の北詰に、「日本橋魚市場発祥の地」のモニュメントがありました。
説明版には「日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした」と書かれていました。
それから、日本橋を北から南へと渡ってみます。それにしても橋の真上にある首都高都心環状線の高架は邪魔すぎで、せっかくの景観が台無しです。これでは「景観行政」なんてあったものではありません。日本の道路交通の原点というシンボリックな場所なのですから、ここぐらいは金がいくらかかってもアンダーパスにするなどの改良を行うべきではないでしょうか。
(日本橋魚河岸跡にあったモニュメント)
(「日本橋」の真上の高架はどうにかせんといけん!)
(せっかくの名橋が薄暗くなっています)
(日本橋麒麟像(西側))
橋を渡りきった南西橋詰には、「日本橋由来記の碑」がありました。
屋根の付いた石碑に漢字とカタカナで由来が記されています。1603年に日本橋がはじめて架けられ、東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋としたことなどが記されているようです。
北西橋詰には「日本国道路元標複製」などがありました。なお、ホンモノの元標は、日本橋の車道上にあるため、見学には不向きのようです。
(日本橋由来記の碑)
(日本国道路元標複製)
日本橋の下を流れているのは日本橋川という一級河川ですが、画像のとおり川面の上のほぼ全面が首都高の高架で覆われています。あとで地図を見ると、この光景は上流の神田錦町まで続き、その先は、神田川から水道橋で分岐するところまですべて暗渠になってしまっているという、痛ましい川なのでした。高度経済成長時にはずいぶんひどいことをしたものです。
複製日本国道路元標のある日本橋北詰交差点の北西角には「三越日本橋本店」がありました。
開業1904年。画像のアールの入った14階建てのビルは新館で、2004年に竣工したものであるとのことです。
ビルの南側の通りを歩くと、歩道脇には“銀座の柳”が配され、なぜか2階付きのロンドンバスが停まっていました。これも調べてみると、日本橋三越で「三越英国展」の開催中、このバスを貸切でクルージングできるサービスを提供しているようなのでした。
(高架が覆って薄暗い日本橋川)
(「三越日本橋本店」新館)
(銀座の柳とロンドンバス)
2022.10.17
東京下町散歩01 202208の7(完)
そこからさらに西へと進んで、日本銀行金融研究所の「貨幣博物館」を見にいきました。
日本銀行創立百周年の1985年開館で、和同開珎や大判・小判の実物など、日本の古代から現在に至るさまざまな貨幣や関係資料のほか、世界の珍しい貨幣も展示しています。
入館無料なのはいいことなのですが、入館受付時にX線検査装置と金属探知機による所持品検査が求められるなど対応が物々しく馬鹿丁寧です。警備上の理由とはいいますが、そこまでやる必要があるのか、一般客としては疑問です。自分たちは選ばれていると勘違いをしているむこう側の人々は、一般人は悪い奴ばかりだと思っているようです。
入室前のエントランスだけ撮影可で、展示物は一切写真撮影禁止としていることについても、疑問が募るし、今どき時代遅れだと思います。撮られて困るようなものなどそうないではありませんか。
あまりいい気分がしないまま見終えて外に出ると、そこには「日本銀行本店ビル」がありました。
言わずと知れた、1882年創業の日本の中央銀行で、江戸時代の金座(金貨鋳造所)の跡地に建っています。上から見ると「円」の文字のように見える1896年竣工の本館は、明治時代の貴重な本格的洋風建築として国重文になっていて、その建物は想像していたよりも大きく感じました。その周りにも関係する建物がいくつかあり、それらはいずれも立派で権威主義的に見えた――と言っておきましょう。
「三井記念美術館」前の道を通って、その向かいにある「日本橋三越本店」に入り、買い物もしないのに店内をひととおり眺めてみます。さすが日本を代表するデパートだけあって、1階の化粧品売り場の設えはシックで素晴らしいと思いました。平日の午前中だったためか客は少なく、入込み状況としては地方の百貨店とそう変わりません。エスカレーターで8階まで行ってみましたが、英国物産展が行われている7階だけは超満員なのがなんだか可笑しかったです。
(「貨幣博物館」での写真撮影は、展示室手前のここまで)
(日本銀行本店ビルの一角)
(いい雰囲気の「日本橋三越本店」1階)
このたびの東京散歩はここまで。
昼食は、人形町駅付近まで歩いて戻り、事前にリストアップしていた「アジア料理菜心」で、サービスランチ900円を食べました。
アジア料理を名乗っていますが、店の女性は中国系のようで、食べた「XO醤と野菜の鶏肉炒め」は中華料理風。搾菜・白飯・スープ付き。メイン以外はすべてスチロール製の皿というのが泣かせますが、味は確かで、料理もごはんも量が多めでした。主菜が汁がちだったので、これはこうやるべきだろうと、途中からつゆごとごはんにかけてレンゲでパクつきます。人形町にも安価でしっかりした内容のいい店がありました。
食べ終える頃には正午となり、入店者が増えてきたので、冷たい中国茶をもう1杯もらって飲んで退店しました。この界隈にいくつかある狭い路地には飲食店がひしめいていて、「ランチ・とんかつ定食800円」を掲げる小さな中華料理店など、そそる店をいくつか見つけました。うん、いいトコだったな、人形町。
(「アジア料理菜心」のXO醤と野菜の鶏肉炒め)
いい時間になったので、荷物をテイクして、日比谷線で上野へ。
上野駅新幹線コンコースでしばらく、エアコンの吹き出し口に近いところを選んでベンチで汗をひかせて、13時06分の「つばさ」に乗ります。
車内では本を取り出したものの、東京の暑さと湿気にやられてしまい、ほぼすぐさま眠りへ。米沢を過ぎるぐらいまでずっとうつらうつらしていました。
ということで、2022年8月末の東京散歩のインプレを終えます。
今回の上京の前に、上記のほかにも何か所か訪問地をリストアップしていました。それらは、湯島聖堂、神田明神、聖橋(ひじりばし)、ニコライ堂、明治大学博物館、阿久悠記念館などがある「お茶の水界隈」、神田古書店街、すずらん通り、岩波ホールなどがある「神保町界隈」、新橋の旧新橋停車場鉄道歴史展示室、中央区の築地本願寺、勝鬨橋、かちどき橋の資料館、警察博物館などでした。
これらについては、またいずれ機会があれば見て歩きたいと思っています。
(了)
日本銀行創立百周年の1985年開館で、和同開珎や大判・小判の実物など、日本の古代から現在に至るさまざまな貨幣や関係資料のほか、世界の珍しい貨幣も展示しています。
入館無料なのはいいことなのですが、入館受付時にX線検査装置と金属探知機による所持品検査が求められるなど対応が物々しく馬鹿丁寧です。警備上の理由とはいいますが、そこまでやる必要があるのか、一般客としては疑問です。自分たちは選ばれていると勘違いをしているむこう側の人々は、一般人は悪い奴ばかりだと思っているようです。
入室前のエントランスだけ撮影可で、展示物は一切写真撮影禁止としていることについても、疑問が募るし、今どき時代遅れだと思います。撮られて困るようなものなどそうないではありませんか。
あまりいい気分がしないまま見終えて外に出ると、そこには「日本銀行本店ビル」がありました。
言わずと知れた、1882年創業の日本の中央銀行で、江戸時代の金座(金貨鋳造所)の跡地に建っています。上から見ると「円」の文字のように見える1896年竣工の本館は、明治時代の貴重な本格的洋風建築として国重文になっていて、その建物は想像していたよりも大きく感じました。その周りにも関係する建物がいくつかあり、それらはいずれも立派で権威主義的に見えた――と言っておきましょう。
「三井記念美術館」前の道を通って、その向かいにある「日本橋三越本店」に入り、買い物もしないのに店内をひととおり眺めてみます。さすが日本を代表するデパートだけあって、1階の化粧品売り場の設えはシックで素晴らしいと思いました。平日の午前中だったためか客は少なく、入込み状況としては地方の百貨店とそう変わりません。エスカレーターで8階まで行ってみましたが、英国物産展が行われている7階だけは超満員なのがなんだか可笑しかったです。
(「貨幣博物館」での写真撮影は、展示室手前のここまで)
(日本銀行本店ビルの一角)
(いい雰囲気の「日本橋三越本店」1階)
このたびの東京散歩はここまで。
昼食は、人形町駅付近まで歩いて戻り、事前にリストアップしていた「アジア料理菜心」で、サービスランチ900円を食べました。
アジア料理を名乗っていますが、店の女性は中国系のようで、食べた「XO醤と野菜の鶏肉炒め」は中華料理風。搾菜・白飯・スープ付き。メイン以外はすべてスチロール製の皿というのが泣かせますが、味は確かで、料理もごはんも量が多めでした。主菜が汁がちだったので、これはこうやるべきだろうと、途中からつゆごとごはんにかけてレンゲでパクつきます。人形町にも安価でしっかりした内容のいい店がありました。
食べ終える頃には正午となり、入店者が増えてきたので、冷たい中国茶をもう1杯もらって飲んで退店しました。この界隈にいくつかある狭い路地には飲食店がひしめいていて、「ランチ・とんかつ定食800円」を掲げる小さな中華料理店など、そそる店をいくつか見つけました。うん、いいトコだったな、人形町。
(「アジア料理菜心」のXO醤と野菜の鶏肉炒め)
いい時間になったので、荷物をテイクして、日比谷線で上野へ。
上野駅新幹線コンコースでしばらく、エアコンの吹き出し口に近いところを選んでベンチで汗をひかせて、13時06分の「つばさ」に乗ります。
車内では本を取り出したものの、東京の暑さと湿気にやられてしまい、ほぼすぐさま眠りへ。米沢を過ぎるぐらいまでずっとうつらうつらしていました。
ということで、2022年8月末の東京散歩のインプレを終えます。
今回の上京の前に、上記のほかにも何か所か訪問地をリストアップしていました。それらは、湯島聖堂、神田明神、聖橋(ひじりばし)、ニコライ堂、明治大学博物館、阿久悠記念館などがある「お茶の水界隈」、神田古書店街、すずらん通り、岩波ホールなどがある「神保町界隈」、新橋の旧新橋停車場鉄道歴史展示室、中央区の築地本願寺、勝鬨橋、かちどき橋の資料館、警察博物館などでした。
これらについては、またいずれ機会があれば見て歩きたいと思っています。
(了)
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