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hanamizuki 201907

 北海道をめぐる中で、浜中町の「霧多布岬灯台」や「アゼチの岬」に寄りました。
 「霧多布岬」は、標高40~60mのテーブル型の霧多布半島の東側に位置し、太平洋の荒波に突き出ていて、その先っちょには「湯沸岬灯台(=霧多布岬灯台)」がありました。
 旅は全体としてあまり天候には恵まれませんでしたが、この日は北海道だって晴れさえすればこうなんだ!というようなすばらしい景色! ライダーも車旅の高齢夫婦も、天気のせいかみんな機嫌がよく、にっこり笑って「コンニチハ」と言い合います。灯台へと続く歩道の両脇には黄色い花のゼンテイカが咲いていました。

 霧多布半島の西端は「アゼチの岬」。琵琶瀬(びわせ)湾に突き出た岬で、小島・ゴメ島・嶮暮帰島(けんぼっきとう)が望め、遥かに琵琶瀬湾や浜中湾の対岸の海岸線を見渡すことができます。またアゼチの岬では、昆布盛漁期の晴天の日には互いに競うように一斉に出漁する船団の様子が見られるのだそうです。

 「湯沸岬灯台」と「アゼチの岬」には、その場が新垣結依がヒロインを演じた映画「ハナミズキ」のロケ地になったことを示す案内板があり、その映画は見ていないので、旅を終えて戻ったらぜひ観てみようと思いました。


 ということがあり、さっそく入手して鑑賞。

 舞台は釧路に近い鉄道沿線。夢のために東京の大学受験を目指す紗枝(新垣結衣)と、漁師の家業を継ぐために励んでいる康平(生田斗真)は、奇妙な縁から出会い、お互い想い合うようになる。
 しかし、東京に上京した紗枝と釧路に残った康平は遠距離恋愛を始めるも、それぞれのすれ違いから別れを選ぶことになってしまう。
 そして、それぞれの道を進む2人は再び出会うこととなった。
 ――という、一青窈の「ハナミズキ」をモチーフにした10年の時をかける純愛ラブストーリー。

 「アゼチの岬」での昆布船団の出漁シーンから映画はスタート。おお、ここだここだ、見てきたのは。
 「湯沸岬灯台」は、紗枝と康平が二人きりで逢う場所として何度か登場します。

 紗枝にとって灯台は、会えない父との思い出の象徴になっていて、大人になった紗枝は父との記憶が残るカナダの灯台を訪れます。その地で偶然見つけたのは、かつて康平が紗枝にプレゼントした小さな船の模型でした。これって運命だよな~と、ベタな設定にも感動!

 2010年8月の公開で、監督・土井裕泰。
 出演者はほかに、向井理、蓮佛美沙子、井浦新、木村祐一、松重豊、薬師丸ひろ子、徳永えりなど。

 公開初日と翌日だけで30万人超の動員を記録し、同じ監督作品の「涙そうそう」の興行収入上回って、公開9日目には動員100万人を突破したとのことです。



 世界がどんなに複雑でも、バカなぼくたちにかかればどうってことない、はずだった。
 懐かしくて、悲しくて、間抜けで、切ない、青春小説の傑作が誕生!
 1970年代から80年代初頭にかけての宮古島。おバカでナイーブな少年は、南の街を自由に飛び回り、やがて島から羽ばたくはずだった。目眩を起こしそうなほど素晴らしくて、迂闊な時代。でも(振り子の季節)から思春期の扉の向こうに待っていたのは、失われた明日だった……。
 遠く離れた宮古島の小さな風景、出来事があなたの心を静かに揺さぶる。(コシマキから)

 著者は1966年生まれなので、物心ついた頃からティーンエイジャーまでぐらいの時期の宮古島のことを、当時の思いと目線で描いている秀作です。

 当時の平良は人口密度が異常に高く、昼は自動車や簡易な荷馬車がガンガン行き交い、夜は酔っ払いが奇声をあげながらフラフラ歩き回っている、空が狭く青い海も見えない猥雑な町だったと著者はいいます。
 そして、そこを小汚い子供が自由に飛び回って、こっぴどく怒られたりドヤされたりしながら、少年から少し大人の少年になっていくのでした。
 こういう記憶は昭和40年前後ぐらいまでに生まれた人間ならば誰もが経験してきていて、それぞれの心の中でほろ苦い思い出になっているのではないでしょうか。
 著者は、このようなつまらなくて古い記憶が感情のどこか端のほうに引っかかり、振り払っても振り払ってもしぶとく食い下がって消えようとしないことに困り果てていることを告白し、そのひとつひとつを書き綴っていきます。

 著者は、小・中・高と平良市内で過ごすが、高校3年生の夏、大きな交通事故に遭い半身不随となってしまいます。長期の入院、東京でのリハビリのあと宮古島に戻り、生活のほとんどをベッドで過ごすなか、読書に目覚めてやがて小説、エッセイなど文章を書いて友人らに発表するようになります。
 そして2005年、「前、あり」で琉球新報短編小説賞。14年には「病院鬼ごっこ」で琉球放送RBCiラジオのファンタジー大賞。
 その後もフェイスブックなどで小説や小・中・高校時代の様々な記憶をエッセイと小説の間のような作品を書き綴ってきました。それらは「マクラム通りから下地線へとぐるりと」「パイナガマヒーローズ」という私家版でまとめられています。
 今回、失われた記憶を求めるかのように書き綴られた作品を加筆し、さらに書き下ろし加えて連作短編集としてまとめたのが、当書。現在も半身不随のまま、宮古島にて執筆活動や地元宮古エフエムでのパーソナリティを行っているとのこと。



 新日本出版社 1,600円+税 2015年9月20日 第1刷発行

 著者は、1940年東京都生まれの報道写真家で、デザイン事務所勤務。長年沖縄の取材をし続け、米軍基地問題に関する発信を続けています。代表作に「沖縄100万の叫び―嬉野京子写真集」(1968)があります。

 「米軍基地はいらない」――様々な妨害にも屈せず、党派を超え、新基地建設やオスプレイ配備に抵抗する沖縄。そこにある現実と人々の思いを、アメリカ施政下の時代から半世紀にわたって見つめてきた女性写真家が語った。世界に衝撃を与えたスクープ写真、日本復帰前・後の人々の生活やたたかいをとらえた写真の数々も収録。

 彼女の撮影した、在沖米軍の車両に轢殺され道路に横たわる少女の写真(1965年4月20日、宜野座村漢那区)は極めて印象的。
 この本の制作意図等がわかる「あとがき」(2015年8月、一部)を以下に引用しておきます。

 阿波根昌鴻さんが他界された後、彼の徹底した非暴力の抵抗と万物に対する慈愛の生き方を引き継ぐ学習会が、毎年3月の第1土・日に伊江島「わびあいの里」で開催されています。アレン(※アレン・ネルソン。元海兵隊員。その体験をもとに基地も戦争もなくすべきと訴え、2009年に没するまで活動)のサポートをしていた間はあまり出かけられずにいたのですが、2011年、久しぶりに参加しました。そこで絶版になっている私の写真集「沖縄100万の叫び」(新日本出版社、1968)の復刻版をつくりたいと提案されたのが、この本を出すきっかけでした。
 結局、復刻版ではなく、新しい内容をおりこんだ本として、前掲写真集に収録した写真も少し収録し、沖縄を取材してきた50年の流れに沿って、私なりの印象を綴らせてもらったのが本書です。この5年間、沖縄の方々はじめ、複数の出版社や編集者の方々にご迷惑をかけての難産となりましたが、ヒトラーばりの政治家たちの出現に抗して声を上げている沖縄と全国の方々とともにありたいと思ってのことです。

 「ヒトラーばりの政治家」とは誰のことかは、国民の誰もが容易に想像がつくことでしょう。

 さて、北海道旅。
 北海道を純粋に旅するのは大学時代の1979年に、男女の友人たち8名で道東方面を10日間ほどドライブして以来のことになる。もう40年も前のことで、当時の記憶と現在との間にはいかほどのギャップがあるのだろうか。今思えばそのメンバーから2組の夫婦が誕生するという記念すべき旅で、その夫婦は今も地元山形で仲睦まじくやっている。

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野付半島にて(1979年8月)

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小清水原生花園にて(1979年8月)

 その後仕事では、1993年に取引先関係者10数名を引き連れるツアコン業務で道東を回ったほか、何度か札幌周辺で開かれる会議等に出向いたことがあった。しかしそれらは業務上のことなので、あまり楽しい印象として残ってはいない。仕事で行くのは根本的に目的が違うので、純粋な旅とはどうしても別物になってしまう。
 したがって今回は事実上まるまる40年ぶりの北海道旅となる。

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釧路湿原細岡展望台にて(1993年9月)

 一筆書きでおよそ北海道を一周するルートを考えて、その先々の観光情報を集めたので、前回の北陸・山陰旅よりは途中でどうしようかと立ち止まるようなことは少なくなると思う。
 北海道の場合、本州よりも都市間、観光地間の移動が長く、退屈なものになるかもしれない。いわば「線状」というよりも「点をつなぐ」形のものになるのだろう。その分都市や観光地では濃密な時間を得たいと思っている。

 そんなわけで今回は、都市で何をするかがポイントになるのではないか。次から次に観光地を見てまわるのは疲れるし、北海道は人のいる地域や場所の様子を見たいという思いもある。
 宿泊地点、入浴場所、都市の起点となる駅(または駅跡)なども忘れずに、いや、できるだけかな、写真を撮ってきたいと思う。

 太平洋フェリーで仙台から苫小牧に上陸し、復路もこのフェリーを利用する。フェリーは予約済みで、往路は6月26日、復路は7月23日発、24日着の便を押さえてある。
 出発日が6月26日となったのは、旅の準備が整うまでの時間を考慮し、できるだけ早い日がこの日だったため。復路は、7月25日以降は混雑期となり運賃もぐっと上がるのでパスし、24日の二等客室がすでにキャンセル待ちになっていたので、ほぼ自動的にこの日となった。大きな事情変更がなければ、全行程29日の旅となる。

 道内での大まかなルーティングは、ざっと次のようなものだ。一筆書きで北海道をほぼ一周する形になっている。
 どこでステイするか、どこにどの程度の時間を充てるかなどは行き当たりばったりとなる。進み具合によっては一部割愛せざるを得ないこともあるかもしれない。

苫小牧 ~ 厚真(北海道胆振東部地震被災現場) ~ 安平 ~
追分 ~ 新夕張 ~ 夕張(旧炭鉱都市の現状) ~ 栗山 ~
岩見沢 ~ 三笠 ~ 美唄 ~ 砂川 ~ 滝川 ~ 江部乙 ~
赤平 ~ 歌志内 ~ 芦別 ~ 富良野 ~ 中富良野 ~
上富良野 ~ 美瑛 ~ 旭川(北海道第2の都市) ~ 層雲峡 ~
旭川 ~ 深川 ~ 沼田 ~ 留萌(道北の東海岸地域) ~
増毛 ~ 留萌 ~ 小平(おびら) ~ 苫前 ~ 羽幌 ~
苫前 ~ 幌加内 ~ 士別 ~ 名寄 ~ 美深 ~ 音威子府 ~
中川 ~ 幌延 ~ 豊富 ~ 稚内(最北の都市) ~
宗谷岬(最北端) ~ 猿払(オホーツク海沿岸) ~ 浜頓別 ~
枝幸 ~ 雄武 ~ 興部 ~ 紋別 ~ 湧別 ~ 遠軽 ~
サロマ湖 ~ 常呂 ~ 女満別 ~ 網走 ~ 小清水 ~
斜里(知床半島) ~ 羅臼 ~ 標津 ~ 中標津 ~
根室(最東端) ~ 浜中(霧多布) ~ 厚岸 ~ 釧路 ~
阿寒湖 ~ 標茶(多和平) ~ 摩周湖 ~ 川湯温泉 ~
屈斜路湖 ~ 美幌 ~ 北見 ~ 訓子府 ~ 陸別 ~
足寄 ~ 本別 ~ 池田 ~ 帯広 ~ 広尾 ~ 襟裳岬 ~
えりも ~ 様似 ~ 浦河 ~ 新ひだか(静内) ~ 新冠 ~
日高 ~ むかわ ~ 千歳(道央を北上) ~ 恵庭 ~
北広島 ~ 江別(札幌は通過) ~ 石狩 ~ 小樽 ~ 余市 ~
積丹 ~ 岩内 ~ 共和 ~ 倶知安(くっちゃん) ~ 京極 ~
ニセコ ~ 蘭越(らんこし) ~ 寿都(すっつ) ~ 島牧 ~
瀬棚 ~ 八雲 ~ 乙部(おとべ) ~ 江差 ~ 松前 ~
福島 ~ 木古内 ~ 北斗 ~ 函館 ~ 七飯(ななえ) ~
大沼 ~ 長万部 ~ 豊浦 ~ 洞爺湖 ~ 壮瞥 ~ 伊達 ~
室蘭 ~ 登別 ~白老 ~ 支笏湖 ~ 苫小牧

 2019年6月26日(水)。
 15時過ぎに山形発。2時間余り運転して仙台港の近くまできて、早めの夕食を多賀城の「大衆食堂半田屋多賀城店」で食べる。かつ丼とサラダで526円。実質的で素晴らしい店だ。

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大衆食堂半田屋多賀城店のかつ丼とサラダ

 仙台港の太平洋フェリーターミナルに着き、18時前には出航手続を済ませ、車内で待機。この日の船は「きそ」だ。
 19時前には乗船。カーキ色の車両とともに乗り込んできた自衛隊員の団体などもあってけっこう混んでいて、2等客室はほぼ満員。苫小牧航路ってこんなに混むんだな。客室に荷物を置いて、6階にOAコーナーがあるのを見つけ、さっそくそこに陣取ってビールを飲みながらパソコン作業をしたり本を読んだり。
 19時40分、定刻に出航。このフネには外甲板はないようで、室内から見た仙台港はこの時間だともう灯りも多くなく、寂しい出航風景となる。

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仙台港フェリーターミナル

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フェリーきその雄姿

 21時半頃には切り上げて、早めに寝る態勢に入る。二等和室は一人置きでも十分ぐらいの客数なのだが、なぜか隣席にも客がいてすでに横になっている。このフネの場合、隣りの客との距離がものすごく近く、互いに少し寝返りを打っただけで身体が接触する。だがまあ、耳栓とアイマスクがあればどこだって安眠できるからそれも苦にならないのだった。

 6月26日の走行距離は82km。持参の本を110ページほど読む。
 読んだ本には帯広の豚丼、根室のエスカロップ、芦別のがたたんスープなどが出ていた。この旅ではこれらをぜひ食べてみたいと思う。

 2019年6月27日(木)。
 横向きで寝ると船の振動が妙に体に伝わってきて、それほど熟睡したとは言えないが、6時過ぎまで眠る。
 母からもらってきたお菓子と笹かまを朝食代わりにして、昨晩も使ったOAコーナーで海を眺めながらパソコン作業。北海道内での電子機器の充電対策には不安を抱いており、コンセントが使える今のうちはありがたく使わせてもらう。

 フェリーには大浴場があり、到着30分前まで入浴できるので、8時頃から朝風呂。とは言っても軽く汗を流す程度だ。浴槽の湯が少なくて肩まで浸かれないのが難点だが、洗い場の湯の出はよく、それなりに寛げる。

 あとはやることもないので読書。写真の多い文庫本を読了。船室に持ち込んだ2冊を読み終えて、読むものがなくなる。
 客室では旅のおじさんたち数名がわいわいと話をしているのについていけず、というか賑やかに過ぎるので、10時前には荷物を持って共有スペースのソファへと退散。

 11時、苫小牧西港フェリーターミナル着。下船作業にさらに15分ほどを費やす。

 まずは北海道メシだ。苫小牧公設地方卸売市場にあるホッキカレーで有名な「マルトマ食堂」を訪ねると、なんと行列が60人はいただろうか。まあ旅のはじめだし、急ぐ旅でもあるまいしと悠長に構えて並んではみたものの、たっぷり1時間半は待っただろうか。

 ホッキカレー、味噌汁付きで1,000円。待った甲斐あってうまい。ホッキのコキコキとした食感がよいのに加えてカレーが本格的なのだった。
 ここにも中国系の団体が多く進出していた。混んでいる中でますます大声でしゃべるし、食事のマナーが異なるし、他の日本人客はシラケ顔。こういうのを見ていると、観光立国を目指すという政府の方針は果たして正しかったのかと疑いたくもなる。

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ようやくありつけたマルトマ食堂のホッキカレー

 復路も同じフェリーを使うので苫小牧は最後に見ることにして、苫小牧駅前の観光案内所でパンフレットをもらう程度にとどめる。

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JR苫小牧駅

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苫小牧駅の新しい複合ビル

 再開発を施して市民が港に親しめる空間として生まれかわった「キラキラ公園」を眺めて、その後はさっそくドライブに移行する。
 いやはや、早速だが北海道は道が広い。苫小牧の市内から港周辺は片側4車線もある上に、路肩が広い。本州の道路みたいにせせこましくないんだよな。

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キラキラ公園からは大きな船が見える

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公園内にあったユニークな遊具

 はじめに北海道胆振東部地震で甚大な被害が生じた現場である「厚真町吉野地区」を見に行く。
 最大震度7を観測し、災害関連死を含め42人が犠牲となった胆振東部地震は2018年9月。あれから9カ月が過ぎ、少しは落ち着いただろうかと心配しながら向かったのだが、今まさに災害復旧の真っ最中で、むき出しになった山肌は応急措置こそされているものの、白々とした風景は当時のままで、倒木がそのまま放置されているところもあった。
 道路はいまだに波打っているところが多く、アスファルトの亀裂を修復しきれないでいるところもあった。
 吉野地区では住民34人のうち19人が亡くなったという。つい10日ほど前には山形県鶴岡市でも震度6弱の地震被害があったばかりだが、こちらは死者は出てないのが幸いで、いかに北海道胆振東部地震のダメージが大きかったかがわかる。

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ニュースによく出ていた場所はまだ復旧が進んでいない

 安平町を経由して夕張市に入り、「北海道企業局滝の上発電所」を見る。「滝の上公園」内にある建物で、1925年に炭鉱の自家用発電施設とし建設されたが、炭鉱の閉山により道営の発電所として稼働している。保存状態がよく、立派だ。
 その近くには「千鳥ケ滝(夕張滝)」。赤い橋の上から眺めた滝は勇壮で美しい。観光資源としてもっと活用してもいいのではないかと思う。

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滝の上発電所

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千鳥ケ滝(夕張滝)

 「清水沢のズリ山」。夕張地区で石炭採掘をしていた北炭清水沢炭鉱の円錐型のズリ山だ。
 ズリ山よりも、当時その周辺に建てられた炭鉱労働者用の古い住宅地が放置されたようにずらりと遺っているところがすごい。昭和40年代前半に建てられたものだろうか。多くが空家のようだが、まだ人が住んでいる気配もある。その近くには新しい公営住宅が建っていて、そのコントラストの大きさが印象的だった。

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清水沢のズリ山

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古い集合住宅が並んでいる

 「旧北炭化成工業所の大煙突」が遺構として遺っている。「ゆうばり温泉ユーパロの湯」の隣に立っているというので、今夜はそこの風呂に浸かろうかと思ったが、閉鎖されてしばらく経っている模様だった。大煙突のほうは昭和35年に作られたもの。

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旧北炭化成工業所の大煙突

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閉鎖されていたゆうばり温泉ユーパロの湯

 ここで、今夜の泊地を新夕張(紅葉山)の「道の駅メロード夕張」と定めて、来た道を戻る。
 その前に、夕張に来たなら夕張名物カレーそばを食べようと、新夕張の「栗下食堂」へ。カレーそば750円。おいしいけれども、豚バラ肉と薄切りのタマネギが入ったごく一般的なもので、山形で食べられているカレーそばと大きく変わるところがないように思われた。
 そういうことも実食してみないとわからないので悔いはないけれども、今日食べた食事はいずれもカレーになってしまったことに食べていて気付く。

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新夕張栗下食堂のカレーそば

 「道の駅メロード夕張」なのだが、地震の影響で24時間トイレが使えないということで、ここはどうやらダメのよう。なんだよ。第1夜からやってくれるんじゃない。
 ここだダメとなると、最寄りの道の駅は安平町の「道の駅あびらD51ステージ」だ。しょうあんめい、そこまで戻ろうか。

 風呂も安平町の「安平ぬくもりの湯」で済ませる。入浴客は少なく、500円でゆったりでき、ここはいい風呂だった。
 「道の駅あびらD51ステージ」は今年3月にオープンした新しい道の駅。さて、久しぶりの車内泊、北海度の第一夜はどんな夜になるだろうか。

 6月27日の走行距離は157km。
 昼食の行列時などで読書は進み、90ページほど読む。