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2022.09.12
甲府散歩20220829の1
2022年8月29日(月)、甲府市内を歩いてきました。
毎年楽しみにしている野外ライブが今年は8月28日に日比谷野外音楽堂で行われるので、それを見て、せっかくなのでこの日から3泊4日の日程で東京に泊まり、このうちの1日を甲府の散策に充てることにしたわけです。
2019年以降、日本全国を車で回るいわゆる「車旅」をし始め、南房総、北陸・山陰、北海道、東海・紀伊、九州、四国、山陽と巡りまわり、その間に沖縄での長期滞在を挟み、その後は名古屋、青森、福岡、金沢とタウンステイをしてきています。
こうして振り返ってみると、いつも海岸線を念頭において回ってしまったためか、中部地方が手薄になっています。それではいずれ、信州を主にして車旅を再開しなければならないなと思っているのですが、このところ長い間自宅を空けることができない諸般の事情があるため、まずは手始めに甲府の町なかだけは先取りして見てしまおうかと思い立ち、このたびの日帰り訪問に至ったのでした。甲府市以外の山梨県の見どころについては、道の駅などで寝泊まりしながらいずれ車旅で巡ってみたいと思っています。
そんなことで、東京で1泊した翌日の8月29日(月)、新宿発9時のあずさ9号に乗って、甲府へと向かいました。
乗るのが初めてとなる「あずさ」の車両は、斬新なデザインのE353系。新幹線の車両と比較すると、ずいぶん細面の表情を持っています。2019年3月のダイヤ改正から定期列車のすべてがこの最新鋭車両に統一されています。
なお、先代のE351系「スーパーあずさ」までは、曲線の通過対策として振子式を採用していましたが、E353系では振子式に比べて左右の揺れが少なく、自然で快適な乗り心地を実現した空気ばね式車体傾斜装置を導入しているとのことです。
新宿駅を発車した列車は、はじめに停車する立川駅までは、先行列車での乗客の救命措置のためとかでのろのろと走っていましたが、その後は快走して徐々に遅れを取り戻しながら走ります。高尾駅を通過すると山間の風景となり、富士急行線が連絡する大月駅を過ぎ、車窓に一面のブドウ畑が現れるとすぐに塩山、そして左手から身延線が合流して、10時35分の定刻、甲府駅に到着しました。
(新宿駅のE353系あずさ9号)
下り立った甲府駅はべらぼうに天気がよく、すでに気温が急上昇中。駅前では植木のある数か所でスプリンクラーが作動していて、気休めにはなりますが、これから炎天下をたっぷり歩くことを思うと、すでにくらくらと来そうな感じです。(笑)
(快晴。駅前広場ではプリンクラーが作動していた)
甲府に来たからには何はともあれ、駅前に立つ「武田信玄公銅像」にごあいさつです。武田信玄の生誕地・甲府のシンボル的存在です。
武田信玄を知らずに甲府は歩けないでしょうから、ここで改めて、武田信玄について調べたことを概括しておきます。
(武田信玄公銅像)
武田信玄(たけだしんげん=武田晴信(はるのぶ)、1521~1573)は、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐武田家第18代武田信虎の嫡男で、第19代当主。「信玄」は出家後の法名。
武田氏は、信虎の時代に守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄もその体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。その過程で越後国の上杉謙信(=長尾景虎)と5度にわたる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加えて信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。20代の勝頼期にかけては領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没しています。
武勲のみならず政策面においても、早くから領国内の交通路を整備して伝馬制度を確立させ、治山・治水に力を入れて信玄堤などを築き、領国内の農民支配のための検地を行い、商人・職人などを甲府へ集めて城下町を建設したことなどが、功績として挙げられます。
そのようなこともあり、徳川幕府が成立してから著しく評価を落とし豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価されたといいます。
(武田信玄)
毎年楽しみにしている野外ライブが今年は8月28日に日比谷野外音楽堂で行われるので、それを見て、せっかくなのでこの日から3泊4日の日程で東京に泊まり、このうちの1日を甲府の散策に充てることにしたわけです。
2019年以降、日本全国を車で回るいわゆる「車旅」をし始め、南房総、北陸・山陰、北海道、東海・紀伊、九州、四国、山陽と巡りまわり、その間に沖縄での長期滞在を挟み、その後は名古屋、青森、福岡、金沢とタウンステイをしてきています。
こうして振り返ってみると、いつも海岸線を念頭において回ってしまったためか、中部地方が手薄になっています。それではいずれ、信州を主にして車旅を再開しなければならないなと思っているのですが、このところ長い間自宅を空けることができない諸般の事情があるため、まずは手始めに甲府の町なかだけは先取りして見てしまおうかと思い立ち、このたびの日帰り訪問に至ったのでした。甲府市以外の山梨県の見どころについては、道の駅などで寝泊まりしながらいずれ車旅で巡ってみたいと思っています。
そんなことで、東京で1泊した翌日の8月29日(月)、新宿発9時のあずさ9号に乗って、甲府へと向かいました。
乗るのが初めてとなる「あずさ」の車両は、斬新なデザインのE353系。新幹線の車両と比較すると、ずいぶん細面の表情を持っています。2019年3月のダイヤ改正から定期列車のすべてがこの最新鋭車両に統一されています。
なお、先代のE351系「スーパーあずさ」までは、曲線の通過対策として振子式を採用していましたが、E353系では振子式に比べて左右の揺れが少なく、自然で快適な乗り心地を実現した空気ばね式車体傾斜装置を導入しているとのことです。
新宿駅を発車した列車は、はじめに停車する立川駅までは、先行列車での乗客の救命措置のためとかでのろのろと走っていましたが、その後は快走して徐々に遅れを取り戻しながら走ります。高尾駅を通過すると山間の風景となり、富士急行線が連絡する大月駅を過ぎ、車窓に一面のブドウ畑が現れるとすぐに塩山、そして左手から身延線が合流して、10時35分の定刻、甲府駅に到着しました。
(新宿駅のE353系あずさ9号)
下り立った甲府駅はべらぼうに天気がよく、すでに気温が急上昇中。駅前では植木のある数か所でスプリンクラーが作動していて、気休めにはなりますが、これから炎天下をたっぷり歩くことを思うと、すでにくらくらと来そうな感じです。(笑)
(快晴。駅前広場ではプリンクラーが作動していた)
甲府に来たからには何はともあれ、駅前に立つ「武田信玄公銅像」にごあいさつです。武田信玄の生誕地・甲府のシンボル的存在です。
武田信玄を知らずに甲府は歩けないでしょうから、ここで改めて、武田信玄について調べたことを概括しておきます。
(武田信玄公銅像)
武田信玄(たけだしんげん=武田晴信(はるのぶ)、1521~1573)は、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐武田家第18代武田信虎の嫡男で、第19代当主。「信玄」は出家後の法名。
武田氏は、信虎の時代に守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄もその体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。その過程で越後国の上杉謙信(=長尾景虎)と5度にわたる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加えて信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。20代の勝頼期にかけては領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没しています。
武勲のみならず政策面においても、早くから領国内の交通路を整備して伝馬制度を確立させ、治山・治水に力を入れて信玄堤などを築き、領国内の農民支配のための検地を行い、商人・職人などを甲府へ集めて城下町を建設したことなどが、功績として挙げられます。
そのようなこともあり、徳川幕府が成立してから著しく評価を落とし豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価されたといいます。
(武田信玄)
2022.09.13
甲府散歩20220829の2
さて、街歩きです。
まずは信玄公の銅像のある南口側、甲府城跡や官公庁、繁華街を歩き、その後北口側に出て、「アシストエンジニアリングよっちゃばれ広場」付近を見てから、ずっと北方面にある武田神社まで足を延ばしてみることにします。
南側から改めて「甲府駅」周辺を眺め、昼食はここかなと目星をつけている「甲州ほうとう小作甲府駅前店」の前を通って、駅前の大通りとなっている「平和通り」を南下していきます。このあたりは近年再開発がなされたとみえて、きれいな街になっています。
(南側から「甲府駅」を眺める)
(「甲州ほうとう小作甲府駅前店」を見つけた)
はじめに目に入ったのは、ほうとうの店のすぐ近くの「山梨県議会議事堂」でした。
公園付きの立派な建物で、観光客向けの歴史的建造物なのかと思って近づくと、驚くことにこれが現役の議事堂なのでした。
広く県民に開かれているような雰囲気だったので、図々しく入ってみると、建物には議事堂のほか事務局、各会派の控室などがあり、2階の会議室のいくつかでは議員や市民の勉強会が行われているのでした。
わが県の議会棟も知っていますが、そこは県民から遠いところにあって、とても観光客がふらりと入るような雰囲気にはできていません。県議会は山梨県のようにあるべきだよなと考えさせられるものがありました。
(山梨県議会議事堂)
その南隣には、今は「山梨県庁別館」と呼ばれている旧庁舎があり、その2階には「山梨近代人物館」があるので、職員たちが使っている議会棟からの渡り廊下を歩いてそちらに移動します。
建物の正面1階には、小さいながら格式のあるホールと飾り階段が保存されていて、階段のすぐ脇の部屋から県庁の課室が並んでいるのでした。
(「山梨県庁別館」の1階旧正面玄関)
2015年にオープンしたという「山梨近代人物館」。役所の展示なので、無料です。
明治時代から戦前までの間、幅広い分野で活躍した山梨ゆかりの人物50人を選定し、この中から毎年2回ずつテーマに沿って9人の人物を紹介しているようです。それらの人物の中で、自分が知っているのは石橋湛山と樋口一葉ぐらいで、いかに山梨県のことを知らないかを痛感させられます。
役所にある展示室にしてはわりかし質が高いと思われます。各人物や県の歴史を紹介する展示のほか、旧知事室と、特別な行事が行われていた部屋・正庁を創建当時の重厚感ある内装に復元し、公開されていました。また、笹子トンネル(鉄道)の歴史映像が楽しめるプロジェクションマッピングなどもありました。
ただ、写真撮影は入り口までが可能で、内部にあるこれらの展示物が写真撮影不可というのは、どういう理由によるものなのか、よくわかりません。
(「山梨近代人物館」の撮影は入り口まで)
山梨県の場合、議事堂と県庁舎は一般人に開かれている印象が極めて強いです。都道府県レベルであっても、役所はこうでなくてはいけません。どこぞの県のように、自分たちだけ濠の中の旧城跡に籠っていたり、中心部を離れた人の寄りつかない場所に唐突に新庁舎を建てて移転したりしているようでは、県民のための県庁とは言えないと思います。
別館の南西隣には、近代的な本庁舎がありました。
(旧庁舎の「山梨県庁別館」)
(こちらは「山梨県庁(本庁舎)」)
まずは信玄公の銅像のある南口側、甲府城跡や官公庁、繁華街を歩き、その後北口側に出て、「アシストエンジニアリングよっちゃばれ広場」付近を見てから、ずっと北方面にある武田神社まで足を延ばしてみることにします。
南側から改めて「甲府駅」周辺を眺め、昼食はここかなと目星をつけている「甲州ほうとう小作甲府駅前店」の前を通って、駅前の大通りとなっている「平和通り」を南下していきます。このあたりは近年再開発がなされたとみえて、きれいな街になっています。
(南側から「甲府駅」を眺める)
(「甲州ほうとう小作甲府駅前店」を見つけた)
はじめに目に入ったのは、ほうとうの店のすぐ近くの「山梨県議会議事堂」でした。
公園付きの立派な建物で、観光客向けの歴史的建造物なのかと思って近づくと、驚くことにこれが現役の議事堂なのでした。
広く県民に開かれているような雰囲気だったので、図々しく入ってみると、建物には議事堂のほか事務局、各会派の控室などがあり、2階の会議室のいくつかでは議員や市民の勉強会が行われているのでした。
わが県の議会棟も知っていますが、そこは県民から遠いところにあって、とても観光客がふらりと入るような雰囲気にはできていません。県議会は山梨県のようにあるべきだよなと考えさせられるものがありました。
(山梨県議会議事堂)
その南隣には、今は「山梨県庁別館」と呼ばれている旧庁舎があり、その2階には「山梨近代人物館」があるので、職員たちが使っている議会棟からの渡り廊下を歩いてそちらに移動します。
建物の正面1階には、小さいながら格式のあるホールと飾り階段が保存されていて、階段のすぐ脇の部屋から県庁の課室が並んでいるのでした。
(「山梨県庁別館」の1階旧正面玄関)
2015年にオープンしたという「山梨近代人物館」。役所の展示なので、無料です。
明治時代から戦前までの間、幅広い分野で活躍した山梨ゆかりの人物50人を選定し、この中から毎年2回ずつテーマに沿って9人の人物を紹介しているようです。それらの人物の中で、自分が知っているのは石橋湛山と樋口一葉ぐらいで、いかに山梨県のことを知らないかを痛感させられます。
役所にある展示室にしてはわりかし質が高いと思われます。各人物や県の歴史を紹介する展示のほか、旧知事室と、特別な行事が行われていた部屋・正庁を創建当時の重厚感ある内装に復元し、公開されていました。また、笹子トンネル(鉄道)の歴史映像が楽しめるプロジェクションマッピングなどもありました。
ただ、写真撮影は入り口までが可能で、内部にあるこれらの展示物が写真撮影不可というのは、どういう理由によるものなのか、よくわかりません。
(「山梨近代人物館」の撮影は入り口まで)
山梨県の場合、議事堂と県庁舎は一般人に開かれている印象が極めて強いです。都道府県レベルであっても、役所はこうでなくてはいけません。どこぞの県のように、自分たちだけ濠の中の旧城跡に籠っていたり、中心部を離れた人の寄りつかない場所に唐突に新庁舎を建てて移転したりしているようでは、県民のための県庁とは言えないと思います。
別館の南西隣には、近代的な本庁舎がありました。
(旧庁舎の「山梨県庁別館」)
(こちらは「山梨県庁(本庁舎)」)
2022.09.14
甲府散歩20220829の3
県庁別館の東側には、道路を挟んで甲府城跡への入り口があったので、「鍛冶曲輪門(かじくるわもん)」のあるそこから「舞鶴城公園(甲府城跡)」に入ることにします。
甲府城跡は、1582年に武田氏が滅亡した後、豊臣秀吉配下の有力大名が関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として、この地に築城されたものです。城の建設は豊臣系の有力大名によって引き継がれ、1600年に築城(推定)。その後、柳沢吉保の時代に大増築が行われたものの、1727年(享保年間)の火災でほとんど消失し、それ以後は往時の姿を取り戻すことなく今日に至っているとのことです。
なお、鍛冶曲輪門に関しては、享保の火災でも焼けずに明治初年まで残っていたそうで、現在の門はそれを1999年に復元したものです。
(鍛冶曲輪門)
坂下門跡を通り、本丸へと向かう手前にあった「鉄門(くろがねもん)」。これも2013年、約140年ぶりに復元整備されたものです。
その左奥に見える塔は「謝恩碑」というもので、1911年、県内にあった皇室山林を県に払い下げてもらったことを記念して建てられたという、由緒あるもののようです。
このあたりに立っていると、二の丸跡にある「武徳殿」から剣道の稽古をしている気合の声や、面を叩く竹刀の音が聞こえてきました。現在は山梨県警が使用しているようです。
(「鉄門」と「謝恩碑」)
そして本丸。今は芝生の広場になっていて、東側にある天守台の高みからは甲府市内を一望することができました。
(天守台から南南東方面を望む)
(同 西方向)
「銅門(あかがねもん)跡」や「本丸櫓跡」などを見て、公園の北側へと下りていき、「稲荷櫓(いなりやぐら)」へ。城の鬼門となる北東角に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)ともいわれ、江戸期には武具蔵として使われていたそうです。この門への入館は無料ですが、この日は月曜であいにくの休館でした。本丸から一段低いところにあり、周辺は散策するのによさそうな小公園になっています。
北側出口となっている「内松陰門(うちまつかげもん)」を出て、大通り方面へと戻ります。
(稲荷櫓)
(内松陰門)
甲府城跡は、1582年に武田氏が滅亡した後、豊臣秀吉配下の有力大名が関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として、この地に築城されたものです。城の建設は豊臣系の有力大名によって引き継がれ、1600年に築城(推定)。その後、柳沢吉保の時代に大増築が行われたものの、1727年(享保年間)の火災でほとんど消失し、それ以後は往時の姿を取り戻すことなく今日に至っているとのことです。
なお、鍛冶曲輪門に関しては、享保の火災でも焼けずに明治初年まで残っていたそうで、現在の門はそれを1999年に復元したものです。
(鍛冶曲輪門)
坂下門跡を通り、本丸へと向かう手前にあった「鉄門(くろがねもん)」。これも2013年、約140年ぶりに復元整備されたものです。
その左奥に見える塔は「謝恩碑」というもので、1911年、県内にあった皇室山林を県に払い下げてもらったことを記念して建てられたという、由緒あるもののようです。
このあたりに立っていると、二の丸跡にある「武徳殿」から剣道の稽古をしている気合の声や、面を叩く竹刀の音が聞こえてきました。現在は山梨県警が使用しているようです。
(「鉄門」と「謝恩碑」)
そして本丸。今は芝生の広場になっていて、東側にある天守台の高みからは甲府市内を一望することができました。
(天守台から南南東方面を望む)
(同 西方向)
「銅門(あかがねもん)跡」や「本丸櫓跡」などを見て、公園の北側へと下りていき、「稲荷櫓(いなりやぐら)」へ。城の鬼門となる北東角に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)ともいわれ、江戸期には武具蔵として使われていたそうです。この門への入館は無料ですが、この日は月曜であいにくの休館でした。本丸から一段低いところにあり、周辺は散策するのによさそうな小公園になっています。
北側出口となっている「内松陰門(うちまつかげもん)」を出て、大通り方面へと戻ります。
(稲荷櫓)
(内松陰門)
2022.09.15
甲府散歩20220829の4
時間は12時前となり、このあたりで昼食タイムにしましょう。気温はどんどん上がってきていて、そろそろ冷房の下で涼みたい気分にもなっています。
では、計画どおりほうとうだねということで、「甲州ほうとう小作甲府駅前店」の前へと戻ってみました。しかし、訪れる時間がちょっぴり遅かったようで、外で入店待ちをしている人がすでに数名。う~ん、この噴き出る汗を早く何とかしたいのだけど、しばらく外で待たなければならない上に、中では熱々のほうとうをぜひとも食べなければならないのだろうか。
そう考えたらどうにも馬鹿々々しくなってしまったので急遽予定を変更し、これも事前にチェックしていたすぐ近くの店にすぐさま入り、涼しいところで熱い汁物ではないものを食べることにしました。
「大衆食堂安べゑ甲府駅前店」。
この店の名物でもあるらしい、肉豆富定食の黒768円。豆腐半丁サイズに牛モツがメインで、小鉢・漬物・ごはん・味噌汁。全然甲府らしくないけれども、こういうものが食べたかったのさっ。
ある程度食べ進めてから、煮込みのつゆをごはんにぶっかけてさくさくと食べれば十分に至福です。ただ、事前情報には白身フライが付いていたのに、それは付かず。昨今の急激な食品物価の上昇でカットされてしまったのでしょう、残念です。
なお、ほうとうに関しては、甲府を去る前の夕刻に、北口にある「甲州ほうとう小作北口駅前店」で食べて帰ろうと目論みましたが、その時間になっても肉豆腐の満腹感が持続していたので、今回は断念することにしました。
(「大衆食堂安べゑ甲府駅前店」の肉豆富定食(黒))
食後の午後は、平和通りをさらに南下して、「甲府市役所」の交差点から東に入る城東通りへと進みます。
甲府市役所の庁舎は、新しくて立派です。2013年にできた、5代目の庁舎なのだそうです。中核市ほどの規模になると、庁舎を新しくしているところが多いような気がします。
(甲府市役所)
旧甲州街道の城東通りを進んでいくと、道の左側にデパートらしき建物が見えてきました。「岡島百貨店」で、あとで調べてみると、百貨店としては1936年創業した地元資本のようです。商店街自体の人通りが少ないため苦戦していますが、館内はそれなりに買い物客がいてしっかり現役営業中で、冷房が涼しくていい気持ちです。
しかしながら、この7月には、この百貨店を来年2月に閉店し、近くの商業ビルに移転して縮小再オープンすることが決まったようです。
(岡島百貨店)
(城東通りは旧甲州街道(岡島百貨店前))
岡島百貨店前の信号を南に進めば、「春日モール」という商店街。人がいないんだよねぇと思いつつ南下していくと、右手にぼんぼりがたくさん吊るされた細い路地を発見。
ここは「甲府ぐるめ横丁」という飲食店が並ぶ古い通りで、かなりの奥行きがあり、その向こうは春日モールと並行する一本西の通りまで続いているのでした。いくつかの店は開いていましたが、初めて入るには多少の緊張を強いられる感じがあり、こういうところはやはり夜の時間帯に賑わうのでしょう。
(「甲府ぐるめ横丁」の入口)
春日モールの一本東側に位置する「弁天通り」も歩いてみます。
表通りこそほかの町の飲食店街とそう大きく変わりませんが、その右側には小規模な飲食店が密集している細路地があちこちにあって、独特です。このあたりは通称「裏春日」と呼ばれる一帯だそうで、再開発からすっかりおいていかれたような感じです。ここでもし飲食店火災が発生したなら大変なことになるだろうなとも思ったところです。
(弁天通り)
(「広瀬大通り」の入口)
(「オリンピック通り」の入口)
その細路地の代表格は、「広瀬大通り」と「オリンピック通り」です。
広瀬大通りは、日中のこの時間にはちょっと入る気がせず、入口を撮るだけでスルーします。
おそるおそる入ってみたオリンピック通りの様子は、下の写真のようなところでした。東京オリンピックのあった1964年、甲府の「中心」と呼ばれる繁華街に誕生したのだそうです。この通りには、高度経済成長期からバブル経済のような華々しい時代の甲府の夜を支えてきた歴史が刻まれているのでしょう。
(オリンピック通り 2画像)
では、計画どおりほうとうだねということで、「甲州ほうとう小作甲府駅前店」の前へと戻ってみました。しかし、訪れる時間がちょっぴり遅かったようで、外で入店待ちをしている人がすでに数名。う~ん、この噴き出る汗を早く何とかしたいのだけど、しばらく外で待たなければならない上に、中では熱々のほうとうをぜひとも食べなければならないのだろうか。
そう考えたらどうにも馬鹿々々しくなってしまったので急遽予定を変更し、これも事前にチェックしていたすぐ近くの店にすぐさま入り、涼しいところで熱い汁物ではないものを食べることにしました。
「大衆食堂安べゑ甲府駅前店」。
この店の名物でもあるらしい、肉豆富定食の黒768円。豆腐半丁サイズに牛モツがメインで、小鉢・漬物・ごはん・味噌汁。全然甲府らしくないけれども、こういうものが食べたかったのさっ。
ある程度食べ進めてから、煮込みのつゆをごはんにぶっかけてさくさくと食べれば十分に至福です。ただ、事前情報には白身フライが付いていたのに、それは付かず。昨今の急激な食品物価の上昇でカットされてしまったのでしょう、残念です。
なお、ほうとうに関しては、甲府を去る前の夕刻に、北口にある「甲州ほうとう小作北口駅前店」で食べて帰ろうと目論みましたが、その時間になっても肉豆腐の満腹感が持続していたので、今回は断念することにしました。
(「大衆食堂安べゑ甲府駅前店」の肉豆富定食(黒))
食後の午後は、平和通りをさらに南下して、「甲府市役所」の交差点から東に入る城東通りへと進みます。
甲府市役所の庁舎は、新しくて立派です。2013年にできた、5代目の庁舎なのだそうです。中核市ほどの規模になると、庁舎を新しくしているところが多いような気がします。
(甲府市役所)
旧甲州街道の城東通りを進んでいくと、道の左側にデパートらしき建物が見えてきました。「岡島百貨店」で、あとで調べてみると、百貨店としては1936年創業した地元資本のようです。商店街自体の人通りが少ないため苦戦していますが、館内はそれなりに買い物客がいてしっかり現役営業中で、冷房が涼しくていい気持ちです。
しかしながら、この7月には、この百貨店を来年2月に閉店し、近くの商業ビルに移転して縮小再オープンすることが決まったようです。
(岡島百貨店)
(城東通りは旧甲州街道(岡島百貨店前))
岡島百貨店前の信号を南に進めば、「春日モール」という商店街。人がいないんだよねぇと思いつつ南下していくと、右手にぼんぼりがたくさん吊るされた細い路地を発見。
ここは「甲府ぐるめ横丁」という飲食店が並ぶ古い通りで、かなりの奥行きがあり、その向こうは春日モールと並行する一本西の通りまで続いているのでした。いくつかの店は開いていましたが、初めて入るには多少の緊張を強いられる感じがあり、こういうところはやはり夜の時間帯に賑わうのでしょう。
(「甲府ぐるめ横丁」の入口)
春日モールの一本東側に位置する「弁天通り」も歩いてみます。
表通りこそほかの町の飲食店街とそう大きく変わりませんが、その右側には小規模な飲食店が密集している細路地があちこちにあって、独特です。このあたりは通称「裏春日」と呼ばれる一帯だそうで、再開発からすっかりおいていかれたような感じです。ここでもし飲食店火災が発生したなら大変なことになるだろうなとも思ったところです。
(弁天通り)
(「広瀬大通り」の入口)
(「オリンピック通り」の入口)
その細路地の代表格は、「広瀬大通り」と「オリンピック通り」です。
広瀬大通りは、日中のこの時間にはちょっと入る気がせず、入口を撮るだけでスルーします。
おそるおそる入ってみたオリンピック通りの様子は、下の写真のようなところでした。東京オリンピックのあった1964年、甲府の「中心」と呼ばれる繁華街に誕生したのだそうです。この通りには、高度経済成長期からバブル経済のような華々しい時代の甲府の夜を支えてきた歴史が刻まれているのでしょう。
(オリンピック通り 2画像)
2022.09.16
甲府散歩20220829の5
甲府駅の南側はこの程度にして、いったん駅へと戻り、次は駅の北側を攻めてみます。
甲府駅の北口は、タクシー乗り場やバスプールがある、「アシストエンジニアリングよっちゃばれ広場」と名のつく園地になっていて、その北東角地に「武田信虎公之像」と「甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)」がありました。
「甲府市藤村記念館」は、旧睦沢村(現甲斐市亀沢)に睦沢小学校の校舎として1875年に建てられた擬洋風木造建築物を移築し、郷土の民族・歴史教育・考古資料、当時の山梨県令・藤村紫朗の書簡や遺品などを展示しているとのこと。この日は休館日なので、外観のみを見学しました。
その前に立っている「武田信虎」は、晴信(信玄)の父。甲斐国を統一して武田家を戦国大名へと成長させるとともに、1519年、現在の武田神社の地に館を築き、甲斐国の新たな府中として「甲府」を開いた人物です。
(「甲府市藤村記念館」と「武田信虎公之像」)
舞鶴通りを挟んだすぐ東側は、「甲府市歴史公園」になっています。
甲府城の山手門(山手御門と山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)の総称)が復元されていました。2007年の復元で、山手渡櫓門の中は展示室になっているようですが、ここも月曜休館なのでした。
(山手渡櫓門)
次は、「甲州夢小路」。甲府市歴史公園のすぐ南東に位置し、甲府駅に進入するため速度を落としたJRの列車内からもよく見えるところにあります。
甲府市中心市街地活性化基本計画の甲府駅北口再開発の一環として整備され、2013年にオープンしたものであるとのこと。古民家を移築し、蔵や倉庫、石畳など昔ながらの建築様式を取り入れて、明治・大正・昭和初期の甲府城下町を再現しています。
遠くからでも見える茶色の塔は、明治初期まで200年以上にわたって住民に時刻を知らせていた「時の鐘」を再現したもので、甲州夢小路のランドマークになっています。
また、「時の鐘」のそばにある「明治館」は、明治時代に山梨県各地に建てられていた藤村式建築物を模した建物で、1階は県産果物を使ったドライフルーツ販売所、2階は貸展示場になっています。
ほかにも山梨の伝統工芸品を扱うショップや、県産の食材を使ったレストラン、美術館などがあり、雰囲気のいい商業施設になっています。
(「時の鐘」と、線路沿いに並び建つ店々)
(明治館)
(この通路の奥にはいくつかの小さな店が)
甲府駅の北口は、タクシー乗り場やバスプールがある、「アシストエンジニアリングよっちゃばれ広場」と名のつく園地になっていて、その北東角地に「武田信虎公之像」と「甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)」がありました。
「甲府市藤村記念館」は、旧睦沢村(現甲斐市亀沢)に睦沢小学校の校舎として1875年に建てられた擬洋風木造建築物を移築し、郷土の民族・歴史教育・考古資料、当時の山梨県令・藤村紫朗の書簡や遺品などを展示しているとのこと。この日は休館日なので、外観のみを見学しました。
その前に立っている「武田信虎」は、晴信(信玄)の父。甲斐国を統一して武田家を戦国大名へと成長させるとともに、1519年、現在の武田神社の地に館を築き、甲斐国の新たな府中として「甲府」を開いた人物です。
(「甲府市藤村記念館」と「武田信虎公之像」)
舞鶴通りを挟んだすぐ東側は、「甲府市歴史公園」になっています。
甲府城の山手門(山手御門と山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)の総称)が復元されていました。2007年の復元で、山手渡櫓門の中は展示室になっているようですが、ここも月曜休館なのでした。
(山手渡櫓門)
次は、「甲州夢小路」。甲府市歴史公園のすぐ南東に位置し、甲府駅に進入するため速度を落としたJRの列車内からもよく見えるところにあります。
甲府市中心市街地活性化基本計画の甲府駅北口再開発の一環として整備され、2013年にオープンしたものであるとのこと。古民家を移築し、蔵や倉庫、石畳など昔ながらの建築様式を取り入れて、明治・大正・昭和初期の甲府城下町を再現しています。
遠くからでも見える茶色の塔は、明治初期まで200年以上にわたって住民に時刻を知らせていた「時の鐘」を再現したもので、甲州夢小路のランドマークになっています。
また、「時の鐘」のそばにある「明治館」は、明治時代に山梨県各地に建てられていた藤村式建築物を模した建物で、1階は県産果物を使ったドライフルーツ販売所、2階は貸展示場になっています。
ほかにも山梨の伝統工芸品を扱うショップや、県産の食材を使ったレストラン、美術館などがあり、雰囲気のいい商業施設になっています。
(「時の鐘」と、線路沿いに並び建つ店々)
(明治館)
(この通路の奥にはいくつかの小さな店が)
2022.09.17
甲府散歩20220829の6
次は、甲府駅から北の、かなり離れたところにある「武田神社」に向かいます。
距離がある上、駅から北へはずっと上り道となるので、北口のバスプールから30分間隔で出ているバスで向かうことにしました。
バスが来るまでしばらく列をなして待ったものの、乗車の所要時間15分ほど、運賃190円にて、造作なく「武田神社前」バス停に到着します。
武田神社に行く前に、少しでも勉強してからにしようと考えて、まずは門前にある「信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)」へ。
武田氏館跡に関わる歴史や史跡の見どころを紹介するガイダンス施設として、2019年に開館したものであるとのこと。でもまあ、無料の常設展を見た程度では容易に理解は進まず、併設されている「旧堀田家住宅」を見て早々に切り上げることにしました。なお、特別展示室は一般300円です。
(信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館))
(旧堀田家住宅)
そして「武田神社」。武田信玄(1521~1573)を祭神として、武田氏の居館跡に建てられた神社です。
武田信虎が1519年に築き、1581年まで信虎、信玄、勝頼がその本拠としたところで、東西284m、南北193mの内郭に土塁と堀をめぐらしていたとされています。武田氏の盛時、信玄はここで、8ケ国にまたがる政治・軍事の主導権を握ったわけです。現在は、土塁・堀・石垣などが残るだけで、当時の本丸付近には武田神社があります。
正面から「神橋(しんきょう)」を渡り、参道へ。石段を上り小高くなっている鳥居付近で振り返ると、神橋の向こう(真南)に、「武田通り」と名の付く甲府駅方面へと続くまっすぐな下りの道が見えました。この道をバスで上ってきたわけです。
(「武田神社」入口)
(「神橋」と、甲府駅へと続く一本道)
まずは拝殿へと進み、神様に拝礼。檜皮葺屋根の立派な拝殿で、その右手に回れば奥の本殿を望むことができます。
ほかに見たのは、今も清水が湧き出ている「姫の井戸」。信玄公の息女が誕生したときに産湯として使用されたことから名付けられたとされ、延命長寿・万病退散のご利益があるものだそうです。
「武田水琴窟」。底に小さな穴をあけた瓶を土中に埋め、わずかな水を流すと、水は穴から水滴となって落ち、瓶の中で反響して、琴の音にも似た澄んだ音を地中に響かせる――というもののようです。竹筒に耳を当てて聴くのですが、私は遠慮し、撮影するだけにしました。
「甲陽武能殿(こうようぶのうでん)」。いわゆる能舞台で、古来より武芸を嗜む者は同時に舞をも嗜んだそうです。
なお、「宝物殿」には、「吉岡一文字」の太刀(国重文)や、武田家伝来の古文書、刀剣、甲冑類などが多く展示されているそうですが有料なので入りませんでした。
(「武田神社」拝殿)
(姫の井戸)
(武田水琴窟)
(甲陽武能殿)
距離がある上、駅から北へはずっと上り道となるので、北口のバスプールから30分間隔で出ているバスで向かうことにしました。
バスが来るまでしばらく列をなして待ったものの、乗車の所要時間15分ほど、運賃190円にて、造作なく「武田神社前」バス停に到着します。
武田神社に行く前に、少しでも勉強してからにしようと考えて、まずは門前にある「信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)」へ。
武田氏館跡に関わる歴史や史跡の見どころを紹介するガイダンス施設として、2019年に開館したものであるとのこと。でもまあ、無料の常設展を見た程度では容易に理解は進まず、併設されている「旧堀田家住宅」を見て早々に切り上げることにしました。なお、特別展示室は一般300円です。
(信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館))
(旧堀田家住宅)
そして「武田神社」。武田信玄(1521~1573)を祭神として、武田氏の居館跡に建てられた神社です。
武田信虎が1519年に築き、1581年まで信虎、信玄、勝頼がその本拠としたところで、東西284m、南北193mの内郭に土塁と堀をめぐらしていたとされています。武田氏の盛時、信玄はここで、8ケ国にまたがる政治・軍事の主導権を握ったわけです。現在は、土塁・堀・石垣などが残るだけで、当時の本丸付近には武田神社があります。
正面から「神橋(しんきょう)」を渡り、参道へ。石段を上り小高くなっている鳥居付近で振り返ると、神橋の向こう(真南)に、「武田通り」と名の付く甲府駅方面へと続くまっすぐな下りの道が見えました。この道をバスで上ってきたわけです。
(「武田神社」入口)
(「神橋」と、甲府駅へと続く一本道)
まずは拝殿へと進み、神様に拝礼。檜皮葺屋根の立派な拝殿で、その右手に回れば奥の本殿を望むことができます。
ほかに見たのは、今も清水が湧き出ている「姫の井戸」。信玄公の息女が誕生したときに産湯として使用されたことから名付けられたとされ、延命長寿・万病退散のご利益があるものだそうです。
「武田水琴窟」。底に小さな穴をあけた瓶を土中に埋め、わずかな水を流すと、水は穴から水滴となって落ち、瓶の中で反響して、琴の音にも似た澄んだ音を地中に響かせる――というもののようです。竹筒に耳を当てて聴くのですが、私は遠慮し、撮影するだけにしました。
「甲陽武能殿(こうようぶのうでん)」。いわゆる能舞台で、古来より武芸を嗜む者は同時に舞をも嗜んだそうです。
なお、「宝物殿」には、「吉岡一文字」の太刀(国重文)や、武田家伝来の古文書、刀剣、甲冑類などが多く展示されているそうですが有料なので入りませんでした。
(「武田神社」拝殿)
(姫の井戸)
(武田水琴窟)
(甲陽武能殿)
2022.09.18
甲府散歩20220829の7(完)
さて、ここまでで見どころはあらかた見たことになりましたが、帰りの電車までまだ時間があるので、歩いて「武田信玄公の墓」を見に行くことにします。
墓は、甲府市岩窪町というところにあり、そこはバスでやってきた「武田通り」を大きく東にそれたところです。歩けばかなりの回り道になり、そのまま甲府駅まで歩いて戻ればハンパない道のりとなります。
でも、まあいいか。甲府の住宅地をそんなに歩くことはもう二度とないだろうからと考えることにして、歩き始めました。
武田通りを南下し、「護国神社入り口」の四辻から左に折れて、「愛宕山スカイライン」をひたすら東へ。15分ほど歩くと、変形の五叉路に行き当たり、スマホの地図を頼りに南へと折れて、なんとか「武田信玄公の墓」にたどり着くことができました。
墓石には「法性院大僧正機山信玄之墓」とありました。掃除や献花などがきちんとされていて、近所の方々が、どれほど信玄公を大切にしているかがよくわかります。
(「武田信玄公の墓」入口)
(武田信玄公の墓)
しかし、はるばる歩いてここまで見に来た甲斐はあったかというと、それは疑問です。ただの墓地であるわけですから。しかし、その場に立ってみなければわからないことだってあるはずです。よく言うじゃないですか、しなくていい経験なんてない、苦労は買ってでもしろ、って。……それらの金言とは多少ずれるところがあるかもしれないけれども。
見終えて甲府駅方面へと歩き始めると、防災無線から、還付金詐欺の電話が多数かかってきているのでご注意を、との大音声が響き渡りました。おそらくはこういうことが、この訪問地の記憶となって残ることになると思います。
ここからが地獄の行軍となります。下り道だから多少はよいものの、距離と気温は侮れず、疲労困憊して駅にたどり着くことになりました。
途中、山梨大学グラウンドの脇を通り過ぎたところに同大学工学部の東門があったので、そこから大学構内へと入り、キャンパス内を横断して西口まで突っ切って、成り行き任せに歩きました。地方大学らしいつくりと思われ、当方の住む山形の国立大学でも、同じように構内を東西に歩いて通り抜けることができます。
(山梨大学工学部の東門から入って……)
(武田通りに面した西門まで、通り抜け)
そこからさらに武田通りをてくてくてくてく……と南下して、ようやっと甲府駅北口に到着です。
時刻はまだ15時ちょっと前。東京へ戻る列車は16時31分発のあずさ42号の指定席を取ってありましたが、すっかり疲れ果ててしまい、もう歩いて回ることはしたくないので、便を繰り上げることにします。駅の窓口で、15時54分発のあずさ38号に変更。これなら新宿到着も17時23分に早まり、その後が楽チンでしょう。
列車時間が近くなるまで、うっすらと冷房が効いている駅ビル「セレオ甲府」内のベンチで、水分の大量摂取をしながら一休みします。いやもう、今日は暑い中を歩き過ぎでしょ。胸ポケットに入れていた野帳なんて、汗を吸ってヨレヨレになってしまっています。
ナニナニ、スマホの万歩計はここまでですでに2万歩超え?! やはり「信玄公の墓」が余計だったですかねぇ。
そんなことで、1日限りの甲府散歩を終え、東京のホテルへと戻ったのでした。(了)
墓は、甲府市岩窪町というところにあり、そこはバスでやってきた「武田通り」を大きく東にそれたところです。歩けばかなりの回り道になり、そのまま甲府駅まで歩いて戻ればハンパない道のりとなります。
でも、まあいいか。甲府の住宅地をそんなに歩くことはもう二度とないだろうからと考えることにして、歩き始めました。
武田通りを南下し、「護国神社入り口」の四辻から左に折れて、「愛宕山スカイライン」をひたすら東へ。15分ほど歩くと、変形の五叉路に行き当たり、スマホの地図を頼りに南へと折れて、なんとか「武田信玄公の墓」にたどり着くことができました。
墓石には「法性院大僧正機山信玄之墓」とありました。掃除や献花などがきちんとされていて、近所の方々が、どれほど信玄公を大切にしているかがよくわかります。
(「武田信玄公の墓」入口)
(武田信玄公の墓)
しかし、はるばる歩いてここまで見に来た甲斐はあったかというと、それは疑問です。ただの墓地であるわけですから。しかし、その場に立ってみなければわからないことだってあるはずです。よく言うじゃないですか、しなくていい経験なんてない、苦労は買ってでもしろ、って。……それらの金言とは多少ずれるところがあるかもしれないけれども。
見終えて甲府駅方面へと歩き始めると、防災無線から、還付金詐欺の電話が多数かかってきているのでご注意を、との大音声が響き渡りました。おそらくはこういうことが、この訪問地の記憶となって残ることになると思います。
ここからが地獄の行軍となります。下り道だから多少はよいものの、距離と気温は侮れず、疲労困憊して駅にたどり着くことになりました。
途中、山梨大学グラウンドの脇を通り過ぎたところに同大学工学部の東門があったので、そこから大学構内へと入り、キャンパス内を横断して西口まで突っ切って、成り行き任せに歩きました。地方大学らしいつくりと思われ、当方の住む山形の国立大学でも、同じように構内を東西に歩いて通り抜けることができます。
(山梨大学工学部の東門から入って……)
(武田通りに面した西門まで、通り抜け)
そこからさらに武田通りをてくてくてくてく……と南下して、ようやっと甲府駅北口に到着です。
時刻はまだ15時ちょっと前。東京へ戻る列車は16時31分発のあずさ42号の指定席を取ってありましたが、すっかり疲れ果ててしまい、もう歩いて回ることはしたくないので、便を繰り上げることにします。駅の窓口で、15時54分発のあずさ38号に変更。これなら新宿到着も17時23分に早まり、その後が楽チンでしょう。
列車時間が近くなるまで、うっすらと冷房が効いている駅ビル「セレオ甲府」内のベンチで、水分の大量摂取をしながら一休みします。いやもう、今日は暑い中を歩き過ぎでしょ。胸ポケットに入れていた野帳なんて、汗を吸ってヨレヨレになってしまっています。
ナニナニ、スマホの万歩計はここまでですでに2万歩超え?! やはり「信玄公の墓」が余計だったですかねぇ。
そんなことで、1日限りの甲府散歩を終え、東京のホテルへと戻ったのでした。(了)
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