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 ネットを検索していて、国吉源次が逝去していたことを知る。

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(国吉源次 2009年12月の「民謡紅白歌合戦」出場に際して撮影)

・戦後の宮古民謡の第一人者、国吉源次さん死去 90歳(2021年5月5日琉球新報)
 戦後を代表する沖縄・宮古民謡の歌い手・国吉源次さんが4日午後、前立腺がんのため沖縄県南風原町内の病院で死去した。90歳。告別式は7日午後4時、浦添市勢理客のフェニックスホール玉泉院。喪主は妻・義子さん。
 1930年城辺町生まれ。祖母の民謡を聴いて育ち、新城青年会の活動を通してのどを鍛えた。1967年、NHK「のど自慢」沖縄大会・民謡の部で1位に輝いたのをきっかけに、民謡歌手としてデビュー。2度にわたる脳腫瘍の手術からカムバックし、「先祖の残した宮古民謡が、世界の隅々まで行き届くまで頑張りたい」と活動を続けた。
 代表的な演目に「なりやまあやぐ」「トーガニーあやぐ」など。「伊良部トーガニー」などのアルバムを残した。宮古民謡保存会会長、2003年県文化功労者。

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(国吉源次 2007年7月)

 国吉源次がうたう誠心誠意追求し尽くした「伊良部トーガニー」や、人頭税を納付し終えた爆発的な歓呼を連想させる「漲水のクイチャー」などを再現できる人物は、今後もうこの世に出てくることはないだろう。

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(CD「綾語~国吉源次の世界~」(1999)と、「伊良部トーガニー」(2002))

 また、勝連繁雄も亡くなっていた。

・勝連繁雄さん死去 80歳 三線「野村流」保存会会長(2021年7月21日琉球新報)
 琉球古典音楽野村流保存会会長などを務める琉球古典音楽実演家で、山之口貘賞を受賞した詩人でもある勝連繁雄(本名繁男)さんが20日午後0時38分、誤嚥性肺炎のため、北中城村内の病院で死去した。80歳。今年に入ってから体調を崩し、病気療養中だった。北谷町出身。自宅は北谷町。告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻エミ子さん。
 勝連さんは1940年9月、北谷町生まれ。10代のころから文学や三線に親しんだ。歌三線では琉球古典音楽野村流保存会の師範。三線奏者として、国指定重要無形文化財「組踊」や同「琉球舞踊」(いずれも総合認定)の保持者、県指定無形文化財「野村流」保持者などに認定された。沖縄芸能協会会長も務めた。
 詩人としては詩集「火祭り」で2002年に第25回山之口貘賞を受賞した。
 文学関係では他に、詩集「風の神話」や小説集「記憶の巡歴」などを刊行した。芸能関係でも「歌三線の世界」「琉球舞踊の世界」「組踊の世界」など多くの著書がある。
 近年も19年に県文化功労者となり、20年9月には小説「大主の国遊び物語」を刊行するなど、芸能の実演や研究、文学活動、評論活動などで幅広い活動を続けていた。

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(「南島の魂-私の沖縄文化論-」(ゆい出版、2000)、「組踊の世界」(ゆい出版、2003)、「琉球古典音楽の思想 沖縄人の想いをめぐって」(沖縄タイムス社、2007))

 かようにして、時代は確実に移り変わっていく。

 「まかちょーけ 興南甲子園春夏連覇のその後」(松永多佳倫著、集英社文庫、2020)を読んでいる。
 2010年、沖縄・興南高校が成し遂げた史上6校目の甲子園春夏連覇。島中が歓喜と興奮に包まれた。あれから10年。プロに進んだエース、大学在学中に公認会計士試験に合格した元選手、辺野古生まれの幼馴染、沖縄から高校野球を変えようと強き信念を持ち続けた監督など、多士済々の選手や監督のその後に迫る。あの熱狂をもう一度。(カバー背表紙から)
 ――というもので、興味深く読ませてもらっている。

 その第4章は「本音の辺野古 我如古盛次」で、そこには連覇メンバーのキャプテン我如古盛次とライト5番の銘苅圭介はともに名護市久志の出身とあり、「2020年の今年、春夏連覇の偉業を讃えて我如古と銘苅のモニュメントが久志に建てられる予定だ」と書かれていた。

 興味が湧いたので調べてみると、それは2020年11月1日に完成していて、琉球新報には以下のような記事が掲載されていた。モニュメントは、「久志区野外運動場」に建立されたとある。

 名護市久志は、いつだったか一度集落内まで入り込んで、「久志のガジュマル」や「久志若按司御位牌安置所」などを見たことがある。運動場は、集落の北側にあった「久志公園」のことらしい。
 またいつか沖縄に行く機会には、この地も訪れて、記念碑を見てみたいと思う。
 琉球新報の記事は、次のとおり。


○琉球新報 2020年11月4日
 甲子園春夏連覇メンバーの地元に記念碑 優勝インタビューの名言も刻む

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 10年前に春夏連覇を成し遂げた銘苅圭介さん(後列左から4人目)、我如古盛次さん(同5人目)と共に碑の完成を喜ぶ区民ら=1日、名護市久志・久志区野外運動場

【名護】 2010年に興南高校が甲子園春夏連覇した際に主将だった我如古盛次さん(28)=東京都、打線の中軸を担った銘苅圭介さん(27)=那覇市=の活躍をたたえる記念碑が、2人の地元・名護市久志区の運動場に完成した。1日、除幕式が行われ、2人や区民が完成を祝った。
 連覇から10年の節目に碑を建立し、子どもたちの目標にしてもらおうと、区の費用で建てた。碑には甲子園での勇姿や優勝インタビューでの我如古さんの「県民で勝ち取った優勝」との言葉が記されている。
 棚原憲栄区長は「小さな区から2人も連覇に貢献したことは誇りだ。2人に続く人材が育つことを期待する」と述べた。子ども会代表の金城佑采(ゆあ)さん(14)は「私も夢をかなえるため努力したい」と誓った。
 立教大から社会人野球の東京ガスに進み2年前引退した我如古さんは現在、東京で会社員として働く。「地域の皆さんのおかげで、共に興南でレギュラーを勝ち取れた。やればできると感じてほしい。碑に恥じぬよう自分も頑張る」と話した。
 現在シンバネットワークアーマンズBBC(浦添市)でコーチ兼選手として活躍する銘苅さんは「田舎でも「できる」と信じていた。久志の子は能力はある。頑張ってほしい」と後輩にエールを送った。
 風化が進んでいた区の記念碑「根性」も併せて建て直した。

 奄美シマウタの第一人者・坪山豊が亡くなったことを、知名定人のフェイスブックで知る。
 えっ!という感じだ。
 坪山の肉声を聴いたのは、2013年の琉球フェスティバル大阪での「あやはぶら節」、「まんこい節」、そして「ワイド節」が最後となった。正直言うと、この時にはすでに声にかつての迫力はなく、かなり衰えてしまった印象があったものだった。
 今日の奄美シマウタの存続、隆盛があるのも、坪山豊が師として手本を示し、育成し、見守ってきたという彼の功績は極めて大きいものがあると思う。

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坪山豊

 以下に、南海日日新聞と毎日新聞の記事を引用しておきます。

○坪山豊さん死去 奄美島唄の第一人者  南海日日新聞 2020年7月21日
 奄美島唄の第一人者で「ワイド節」を作曲した坪山豊さん(つぼやま・ゆたか=南海文化賞受賞者)が、20日午後5時7分、老衰のため入院先の奄美市内の病院で死去した。89歳。
 自宅は奄美市名瀬港町×の×。新型コロナウイルス感染拡大防止のため通夜、告別式は近親者のみで執り行う。告別式は22日午前8時半から同10時まで、同市名瀬末広町17の3の青葉会館で受け付ける。喪主は妻の利津子(りつこ)さん。

 宇検村生勝生まれ。1980年、第1回奄美民謡大賞で大賞受賞。奄美島唄の第一人者として普及や後継育成に尽力、海外公演にも積極的に参加した。
 長男の良一さんと共に、奄美伝統の板付け舟を造る舟大工としても知られた。
 2001年に第25回南海文化賞(郷土・民俗部門)を受賞した。

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元ちとせと島唄を披露する坪山豊(2003年11月16日、鹿児島県名瀬市(当時)の奄美振興会館にて)


○心躍る「ワイド節」 奄美の唄者、坪山豊さん死去  毎日新聞 2020年7月21日
 城南海(きずき・みなみ)さんや元(はじめ)ちとせさん、中(あたり)孝介さんらの活躍で、沖縄とはちょっと違う奄美(鹿児島県)の島唄も、その文化とともに全国的に知られるようになってきた。
 そんな奄美で、誰もが知っている唄者(歌手)が坪山豊さん。そして、今では奄美の島唄を代表する曲が、豊さんが作曲した「ワイド節」だ。南海さんも、ちとせさんも、孝介さんも、豊さんと共演し、もちろんワイド節も歌っている。
 その豊さんが20日、老衰で亡くなった。89歳。地元ラジオ局「あまみFM」は、21日朝から豊さんの曲を訃報、そしてエピソードとともに奄美の島々に届けた。

 ワイド節の「ワイド」とは、闘牛が盛んな徳之島で牛への掛け声のこと。でも、ワイド節は徳之島で生まれた唄ではない。
 奄美にあるハンセン病療養所のレントゲン技師だった中村民郎さんは、徳之島出身の患者から「闘牛の唄を作ってほしい」と頼まれた。「ふるさとには帰れないけど、思い出して涙した」のだ。
 歌詞を書いた中村さんが「豊、闘牛の島唄作ろうね」と豊さんに作曲を依頼すると、闘牛を見たことがなかった豊さんは、徳之島まで闘牛を見に行って、曲はすぐにできた。
 録音したテープを患者に聴いてもらったら、その患者は喜び、そして泣いていたという。

 豊さんの曲は、ワイド節も「ばしゃやま節」も「綾蝶(あやはぶら)節」もそうなのだが、決して古臭くなく、現代人にも通じる。中でもワイド節は、心躍るテンポで、一度聴いたら耳を離れない。
 奄美では生活の中に島唄がある。イベントなどで盛り上がってくると、ワイド節、そしてさらにテンポが速い「六調」で踊り、フィナーレ、というのが定番だ。奄美を旅して、目の前で聴くことができた豊さんのワイド節は忘れられない。

 豊さんは唄だけではなく、奄美の伝統的板付け舟の舟大工でもあった。舟大工の技術はご子息が、そして島唄は、後輩の唄者が引き継いでいくだろう。



 新型コロナ蔓延の影響で厳しく外出制限が叫ばれているので、昨日午後は部屋で未視聴のDVDを引っ張り出してきて鑑賞することにしました。
 「南の島のフリムン」。吉本興業と角川映画のコラボによる製作で、お笑い芸人ガレッジセールのゴリが初の長編映画監督を務めた作品です。もちろん本人も映画に登場します。2009年の公開というから、もう10年以上も前のものです。
 自分の購入記録を調べてみると、2017年2月に沖縄関連の中古映画DVDを6本まとめ買いしていて、そのときに買ったものでした。なお、「フリムン」とは、ウチナーグチで気のふれたもの、「馬鹿者」の意味です。

 ゴリの地元の沖縄を舞台に、愛すべき人々が繰り広げる恋の大騒動をハイテンションでつづる、笑ってちょっぴりほろりとする感動の人間ドラマ。コザの中央パークアベニューや安慶名闘牛場などでロケが行われたようです。
 沖縄の養豚場で働く30歳で独身の栄昇(ゴリ)は、三線名人の60歳のマサル(照屋政雄)や、よく聞き取れない言葉を話す後輩のヒトシ(諸見里大介)らとつるんで日々楽しく遊んで暮らしています。
 そんな栄昇はある日、コザにあるポールバーでダンサーのオレンジ(レイラ)に一目惚れします。しかし、ほかにも彼女にちょっかいを出す筋肉隆々の米兵マックス(ボビー・オロゴン)がいて、栄昇はこの男と彼女を賭けて1か月後に闘牛場で決闘に臨むことになってしまいます。
 到底勝てない相手であることに悩む栄昇に、マサルは若い頃に空手を師事した金城先生(平良とみ)を紹介し、栄昇は金城先生の下でみっちりと修業をし、勝利の極意を掴んでいきます。そして……。

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 ストーリーはお笑い系のエンターテインメイントだとわかっているので、興味はキャスト陣へ。
 栄昇役のゴリは、今「よしもと沖縄花月」でやっているおきなわ新喜劇の「ゴリセクシー」よりは多少なりともまとも。
 マサル役の照屋政雄は、すでに多くの映画でとぼけたオジイ役を経験しているので安定感があります。
 マサルの厚化粧の妻役には沖縄の芝居役者の福田加奈子。彼女も2018年11月に他界。その娘の看護師りみ役のAKINAは、沖縄アクターズスクール出身の元アイドル歌手で、ビビる大木の妻なのだそうです。
 平良とみが空手の達人役というのは意外。平良とみが亡くなったのは2015年12月のことでしたが、この映画ではまだ十分元気でした。
 このほか、サーターアンダーギーを使う占い師として友情出演の夏川りみ、ヒトシの母で沖縄の芸人田仲洋子、ホールバーの派手派手経営者として吉田妙子、遺影に写る栄昇の父で玉城満、決闘のレフェリー東風平役で川田広樹などなどが出ていました。沖縄の映画は沖縄の役者たちがたくさん登場するから面白い。
 また、挿入歌のひとつは仲田まさえがやさしい声で歌っていました。

 本編97分。束の間ではありましたが、コロナで浮かない日々を忘れることができました。

 新型コロナウィルスの蔓延防止のため自宅にとどまり、2019年8月7日にNHK・BSプレミアムで放送された「甲子園とオバーと爆弾なべ」を観ました。録画して、今まで見ずにあたためていたものです。

 戦後の沖縄が一つになって夢を見た一日がありました。それは1990年夏の甲子園決勝、「沖縄水産」vs「天理」の試合です。
 当時まだ春夏を通じて優勝経験のなかった沖縄勢が、栽弘義監督のもとで初めて決勝戦に進出したとあって、沖縄じゅうが一つになってテレビの中継にかじりついたのでした。道路からは車が消え、店は開店休業。試合は1対0で惜しくも沖縄水産は涙を飲みましたが、この時のテレビのアナウンサーの「沖縄は今日1日だけ、夢を見ました!」という実況は今も語り草になっているといいます。

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 このドラマでは、沖縄出身のアーティストBEGINが作詞作曲した「オジー自慢のオリオンビール」と「オバー自慢の爆弾鍋」に着想を得て、県勢初の優勝に向けて勝ち上がっていく沖縄水産高校の活躍を、戦中・戦後を必死に生き抜いてきた自らの人生と重ね合わせて応援するオジーとオバーを中心に描いています。
 那覇の平和通り、第一牧志公設市場界隈を舞台に、人情味あふれる人々の物語が展開されます。
 ドラマの脚本と演出を担当するのは、映画「ナビィの恋」や「さんかく山のマジルー」で知られる、沖縄在住の中江裕司です。

 あらすじは次のとおり。
 1990年夏。末吉(平良進)とウサ(吉田妙子)の夫婦は那覇の市場で食堂を営んでいる。とはいっても、末吉は酒を飲んでばかりで昼間から働かず、毎日海へ行って変わった漂着物を拾ってくる。ウサは不発弾の破片を再利用した鍋で食堂の料理をつくる。この爆弾鍋で生計を立て、子どもを大学まで行かせたのが自慢だ。
 夏の甲子園が開幕してほどなく、孫娘のゆかり(蔵下穂波)が本土から帰ってくる。理由は語らないが東京で何かあったようだ。
 沖縄水産が勝ち進むにつれて、盛り上がっていく市場。食堂には沖縄の戦後を支えた愛すべき人たちが通ってくる。しかしオジーは高校野球が終わると、食堂の手伝いもせず、海へ行ってしまう。そして、拾ってきた漂着物を食堂に飾る。オバーはそんなオジーを黙って見守っている。
 そんな中、ゆかりはオジーの秘密を知る。海に行っていたのは子どものとき、家族を疎開船・対馬丸の沈没で失ったからだと。
 甲子園はついに決勝へ。みなが食い入るようにテレビにかじりつく中、ウサオバーがいない。オバーは沖縄戦で亡くなった妹の遺骨を今も探している。ゆかりはオバーが爆弾鍋で料理を作るのは、死んだ妹への供養と生きていることへの感謝だと知る。
 オジーがオバーを連れて市場に戻ると決勝戦は大詰めを迎えていた。沖水が負けてしまうが、市場中から拍手が起きる。みなが「オジー自慢のオリオンビール」を歌い出す。

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 沖縄好きにとっては最高のエンターテインメントに仕上がっています。そして、画面づくりは事前に監督の名を聞かなくとも中江裕司作品とわかるもので、ワクワク感を覚えます。

 何と言っても配役がオキナワンで固めているのがよく、これは中江裕司でなければ集められなかったでしょう。
 末吉とウサ夫婦に沖縄俳優界の大重鎮の平良進と吉田妙子を配し、「さんかく山のマジルー」で主役を張った蔵下穂波がいい娘になって登場。息子を放課後食堂に預けて昼夜働くシングルマザー役は沖縄アクターズスクールでマキノ正幸が見出した逸材の満島ひかり、また、ゆかりの幼馴染みには現代版組踊「肝高の阿麻和利」で7代目阿麻和利役を演じた佐久本宝も出演します。
 島唄界からは大城美佐子、徳原清文が出演していて、三線を弾きながらうたう場面もあります。
 平和通りで路上パフォーマンスをしている唄者は奄美竪琴の名手・盛島貴男。60年前の里国隆そのままという感じです。
 沖縄芝居からは瀬名波孝子、仲嶺眞永、沖縄のお笑い・演劇界からは城間やよい、新垣正弘、津波信一、島袋寛之、現役時代は那覇市の総務部長だったエッセイストの“アコークロー”宮里千里なども登場していました。

 いい作品だったので、DVDにコンバートして保存版にすることにしましょう。



 新型コロナウィルスの蔓延拡大防止のための外出制限が行われている2020年3月29日(日)、ずいぶん前にDVDを入手してまだ見ていなかった映画「ぱいかじ南海作戦」を部屋のテレビで見ました。

 「ぱいかじ南海作戦」は、2004年に発売された椎名誠の小説。これを2012年に、放送作家・脚本家の細川徹が初めて実写映画のメガホンをとってつくられた作品です。
 2011年11月に沖縄県の西表島でロケが行われています。
 なお「ぱいかじ」とは、沖縄方言で「南風」のことです。

 カメラマンを本業とする男・佐々木は、勤務していた会社をリストラされ、さらには愛する妻・佐和子と別れ、一人寂しく暮らしていましたが、ある日、唐突に気分転換をしようと思い立ち、東京から沖縄へと一人旅立ちます。飛行機から船を乗り継いで辿り着いた島の浜辺には4人のホームレスが先客として暮らしていました。佐々木は彼らとすぐに打ち解け、「ここはパラダイスだ!」と楽しい一夜を過ごしましたが、酔いつぶれて翌朝に目覚めると、持って来たはずの全財産(バッグなど)が彼らとともに消えていました。
 途方に暮れた佐々木は浜で、都会からやってきた青年「オッコチ」や、関西在住の美女2人組「アパ」「キミ」と出会い、4人の奇妙な海浜生活が始まります。女性二人のおかげで料理の質が向上し、不審者侵入防止のためにテント前に掘った落とし穴にイノシシが落ちて大喜び。
 そんなある日、ホームレス4人組の噂を聞きつけた佐々木は、彼らから全財産を取り返すべく、“ある作戦”を決行するために、彼らがいる「北パナリ島」に渡ります。しかし、身構えて臨んだものの、4人とも見事な土下座をして謝るのでした。
 浜に帰ると、美女2人組を連れ帰りにきたおばさんたちがいました。また、元妻の撮影対のADも先乗りでやってきて「イントレ」(高い足場)が必要だと言います。それでは流木などでつくってしまおうかということになり、土下座の4人もやってきてみんなで作り上げます。撮影隊の本体もやってきて大忙しに…。

 主たるロケ地としては、南風見田(はえみた)の浜周辺。県道白浜南風見田線の南風見側終点や、南風見田の浜へと続く細道、大富共同組合売店、大富給水塔などが登場していました。

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 配役は、主人公の佐々木に阿部サダヲ、佐々木の相棒となるオッコチに永山絢斗、美女2人組には貫地谷しほりと佐々木希、ホームレスのリーダー格のマンボさんにピエール瀧などを配し、りんけんバンドにいた桑江良美もわけのわからない現地語を話す陽気な船頭として登場していました。

 115分の本編と、特典の予告編など。映画の出来としてはまあ普通で、山場のような場面はなくフィナーレでようやく盛り上がる感じ。こうしてみると、貫地谷しほりというのはなんでもこなすいい女優だと思いました。

 外出できない日は部屋で映画を見るのも悪くありませんが、コロナ対策は長期戦になりそうな観測も出ており、これからの日々をどうしようかと不安です。

 5時台に目が覚めてしまったので、しばらく本を読んで明るくなるのを待つ。
 6時半には活動を始める。この部屋での最後のパソコンワークを行い、この朝まで使った寝間着や少しの洗濯ものなどを段ボール箱の隙間に突っ込んで、ゆうパックの荷物2個口が出来上がる。あとは身の回り品をキャリーバッグに収納すれば荷造りはすべて終了だ。

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(ゆうパックのパッキングが完了した)

 8時過ぎに2個口の荷物を車に搬入してから、開店直後の「A&Wマリンタウンあがり浜店」に行って朝食をとる。ステイの最終日にしてようやっとエンダーに入れたことになる。フィッシュサンドバーガーとルートビアのモーニングセットで小1時間ほど本を読んで寛ぐ。

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(朝食はA&Wでモーニングセット)

 9時に開いた「与那原郵便局」でゆうパックの手続きをする。手続はすんなりといき、10時にはマンションをチェックアウトして、部屋の鍵を郵便受けへと入れて退去する。2か月以上にわたって住まいした部屋を離れるのは名残り惜しいが、とうとうここでサヨナラだ。寝具の匂いがやや気になったが、一人で住むには十分のスペースと立地があり、近所づきあいも不要なのでほぼ純粋にプライベートな日々を送ることができたのがよかった。

 フライトまでの時間に何をするかは決めていなかったので、アウトレットモール「あしびなー」か小禄の「イオン那覇店」あたりで時間をつぶそうかと考えて、糸満、豊見城方面へと走っていく。が、ここまで来たのなら豊見城市名嘉地の名店「海洋食堂」で豆腐を食べていこうと、方針を変更する。10時からやっている店。よし、決まった。コロナ禍の影響が大きい中でなにもこちらから敢えて人混みの中へと進んでいくことはあるまい。

 「海洋食堂」の豆腐チャンプルー670円。
 「海洋食堂」はもともとが豆腐屋だったと聞いていて、何度か訪問している。3年ほど前にもここで豆腐ンブサーを食べたが、ものすごい豆腐の量とそのうまさに驚愕したのだった。当時のログを見ると750円と記されているが、今回確認すると720円。安くなったの? もしかしたら量を少なくして親しみやすくしたのかな、よくわからない。なお「ンブサー」とは、沖縄で言う味噌煮のことだ。
 ここの豆腐チャンプルーにはポークなどの肉類が入らず、豆腐、野菜、卵のみとシンプルだが、やはり豆腐の量が多くこれがメインになっている。沖縄の豆腐にしては硬さがなくて箸で挟めないぐらいに柔らかく、付いてきたスプーンですくって食べるのがこの店流のようだった。薄味の逸品で、大豆の濃厚な香りと味が際立つ。
 この店定番のおからも付いている。そばスープも付いて腹がたっぷりと満たされ、沖縄ステイを締めるにふさわしい食事となった。

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(「海洋食堂」の豆腐チャンプルー)

 その後は最寄りのスタンドでガソリン満タンにしてレンタカーを返却し、送迎バスで那覇空港へ。空港では、もう毎度のことなので土産を買うことなく、12時には搭乗待合室で読書をする態勢に入る。フライトまで2時間もあるが、ゆっくりと読書ができる環境が得られたと考えればむしろ時間を得したような気にもなれる。

 仙台行きの機内はざっと3割ぐらいの混みようで、このぐらいスカスカなのも珍しい。機内でも眠ることなくたっぷり読書をする。

 仙台は雨で、気温6度とのこと。機内でワイシャツの袖を下ろし、それにトレーナを重ねる。
 17時に降り立てば、天候のせいもあるだろうが、東国なのでこの時間すでにもうだいぶ暗い。バス待ちの間にはフードの付いた外套を着る。
 17時30分発、これもコロナ禍なのか、乗客わずか4人の高速バスに乗り、山形へ。片道,1600円だが、これは山形~仙台空港間の高速料金程度の額。この乗客数ではバス会社も大変だろう。

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(山形駅行きの高速バスに乗る)

 高速バスが山形駅に着くのと同じタイミングで、30分に1本しかない自宅方面に向かう市内線がやってくる。駅前で1杯ひっかけてから帰ろうかという思いもあったが、待ち時間ゼロの乗り換えなどそうあるものではないので、それに乗って帰宅する。山形は雨も上がっている。積雪も全くない。

 自宅到着19時15分。長かった沖縄訪問が終わる。沖縄ステイの終わりは、リタイアしたはじめの1年間は日本各地を巡る旅をしまくろうと決めていた行動計画の終焉でもあった。振り返ってみれば1年に満たないこの間、旅先での宿泊数はざっと180日ぐらいになっている。つまり、1年弱の半分以上は旅をし続けていたわけだ。松山千春の「人生(たび)の空から」のメロディが脳内を流れる。

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(1979年、松山千春)

 家を離れている間に母が入院し、その後介護施設に入居して不在となっているのが気になるが、家の中はそれ以外に大きな変化点はなさそうに思える。
 東北山形の自宅に戻ってきて気づいたことなどをいくつか挙げると、2カ月も離れているとさすがに届いた郵便物や宅配品が山となっている、部屋の三菱製の国産テレビが待ち受け状態になっていてスイッチオンでパッと点くのがスバラシイ、毎週録画などに設定していた録画が2月18日時点で記憶容量を超えている、沖縄とは違い水道の水は手が痺れるほどに冷たい、しばらくぶりに乗った体重計が従来よりも2kg以上高い数値を示している、睡眠時にはソックスを穿く必要がある――などだ。

 この日は待ち時間や移動中にたっぷり本を読むことができた。
 「十九の春」を読了し、「蝉しぐれ 下」(藤沢周平著、文春文庫、2017)を読み始めてこの日のうちに一気に読了する。これが沖縄ステイ中の読了20冊目だ。
 さらに、「東京居酒屋十二景」(太田和彦著、集英社文庫。2019)を読み始める。
 結局のところ、この沖縄ステイに持参した17冊のうち15冊を読み切り、残りの2冊は途中まで。読むものが足りなくなったため沖縄の書店で5冊買い足し、これらは全部読み終えた勘定になる。

 狭い自室内のデスクやベッドの上の荷物類を整理してスペースをつくり、24時にようやく横になることができるようになる。少し読書をして眠りへ。

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(久高島で見かけた花)

(了)