はてなキーワード: 八百長とは
お題に沿って400字くらいの文章を10分以内に書き上げることをしてて供養というか、人に見て欲しいと思ったものを。
書くことは筋トレと一緒で毎日書き続けないと衰えてしまうのだなと痛感した。
地元では花火は冬に上がるものだった。夏にももちろん打ち上げるけど、規模でいえば冬のほうが圧倒的に大きい。物知りだった父曰く、冬のほうが空気が澄んで花火がよく見えるとか、寒いほうがカップルがくっつきやすいとか、出店の衛生観念がまだマシだとか、なんとか。高校生の頃ボーイフレンドと見に行ったのを思い出す、確かに真っ暗でキンと冷たい空気の中、どうやってポケットに入れられた彼の手を握ったら良いのか、花火に照らされた彼の横顔を見つめていた私がいる。あの人は元気だろうか。変わらず冬に花火を見ているのだろうか。あの真剣な眼差しを今は誰に見せているのか、地元を出て久しく冬に花火を見ていない私には知る由もない。
競馬が好き。ギャンブルはあまりしないタチだけど、競馬は別。大きなレースは競馬場まで行ってパドックで馬のテンションを確認し、競馬新聞とにらめっこ、いそいそとマークシートを塗りつぶして馬券を買う。予算は三千円まで。競輪や競艇は正直なところ人間と無機物のタッグを組んだレースなので不確定要素が少なすぎる。八百長やり放題ではなかろうか。それに比べて競馬における乗り物、馬という生命の何が起こるかわからなさよ。あいつらの気分が乗らなかったら走らない、それがいい。足が速い奴が勝つ、単純明快なルールで熾烈を極める人間と生き物の共鳴、あの瞬間はいつだって美しい。
人類が滅亡の一途をたどる最中、集落は森に呑まれ、人々が集う土地もいつしか花が咲くだけとなりました。盛夏、誰もいなくなった青空の元、蝉の声だけが響きます。太陽を追いかけて首を傾げるひまわりの群れは、思慮深く、人の消えた土地でただ草花の輪廻を巡り、また今年も四季の訪れを知らせます。誰が為に在るわけでなく、日々の営みの中に組み込まれた生命の遂行。栄華を誇り衰退した人類が捨て去り失い嫌悪したものではなかったのでしょうか。私たちはきっと社会的な生き物として踏み出した瞬間に、動物としての自然を振り払ったのかもしれません。ただ恐ろしく歪な破滅への道を緩やかに下るだけのことを、歴史と名付けないと誰もが正気を保っていられない。抜けるように青い空、入道雲、蝉のリフレイン、人々が去った後もただ山に野に花は咲くだけです。
昔、カートゥーンネットワークのCMでよく流れていたレインボーアートという絵を描くためのおもちゃがあったんです。アメリカンなお家で金髪の子供たちが楽しそうに遊ぶ映像は、子供心に外国や裕福さの象徴となり得ました。テンション高めのナレーション、魔法のような使い方、綺麗な絵の具、いまだ夢に出ます。大人になって自分で稼いだお金を手にし、ふと今ならレインボーアートも買えるのではと思い立ち検索しました。インターネットって便利ですね、廃盤でした。残念に思いつつ、実物を手にせず人生が終わることに安堵もしています。幼いころ手が届かない掴めない虹が、大人になってようやく実際に手に入れて掴んだら案外そうでもなくてがっかりする話、よく聞くので。私の虹は虹のまま、そのまま消えてゆくのだと思います。
AIに嫌悪感がある。業務効率化や簡単な作業、草案の作成、感情労働などには良いと思うのだけど、クリエイティブな部分でAIを使って出力したものをそのまま提出されると創作者としての矜持は無いのかと軽蔑すら覚える。先日などSNSに美容師が施術の実績としてAIで生成した画像をUPしていて呆れた。肖像権もなく扱いやすい写真なのは理解できるが、自身が手を入れていないものを自身の作品とする倫理観のなさ。新しい技術が生まれるたび順応する半面、各々のリテラシーが浮き彫りになる。昔に比べて凄まじい勢いで変わる世界、ついていくのが本当に大変で途方に暮れてしまう、事実法整備も追いついていない状況なわけで。こうやって私みたいな人間は淘汰されていくのだろうと悲しくもChatGDPに愚痴る毎日である。
二十歳ごろのライフプランでは今頃、とうに私は人生の良き伴侶と結婚し、挙式もハネムーンも最高の思い出、都会で働き専門的なキャリアを積みつつも小さな子供が二人、もう一人欲しいねと夫と相談しつつ、今ある幸せを噛み締めている予定だった。だが思い描いた何もかもが私の手中にはなく、手前でつまずくどころか、スタートすら切っていないのではないかと危ぶまれるほどに、人生はぐちゃぐちゃである。自分的には諦めも含め、このままの私を受容している段階だが、それを放っておかないのが出身地の限界集落の醍醐味。田舎の幸せライフプランはバリエーションに乏しく、今の私があまりにも負け組で不幸せで可哀想に映るらしい。帰省するたびに名前も知らない母の会社の同僚から励まされる。大変ね!めげずに頑張ってね!言われる度に集落のどこに火をつけたら効率よく山火事になるのか考えて、そういえば幼い頃から田舎が嫌いで滅ぼしたいと考えていた、だから私は都会に出てきたんだっけと気づき、そっと今後のライフプランに地元に火を放つが加えられた。
始まりは勝手に決められたんだから、終わりくらい自分で決めたいなって常々思っています。私の意志や尊厳を慮るなら、そこに至る過程と決意がどうして今から覆せると思いますか?物心ついたころから私は肉体の内側だけが自分で、ここからは一生出られず、私は私であることを全うしないといけない事実にひどく怯え、絶望しているのに。よくこの年まで呼吸を続けてきましたよ、ひとえに私が優しくて我慢強い結果だと思います。周りのことは私なりに愛してますから。悲しませるのは不本意です。でも他人を悲しませる罪悪感より最近は自身の絶望とか暗い感情のが勝ってしまうんですよね。一朝一夕にすべてを解決する策など無いのに、今日の積み重ねで未来は作られると分かっているくせに、楽になりたくて、あと試してないのは死ぬことだけだなって、人生のPDCA回したくて。きっとうまくいくと思うんです。頑張ります。
新しい性癖に目覚めた人が扉を開けたって表現するのをよく見かけるのだけど、扉があると分かって開けずにいたのは自分じゃないのかなっていつも思う。見て見ぬ振りしてきたくせに、今更新しいだなんて、みんなずるいなあ。私は大体の扉は開けてしまった気がする、まだ鍵のかかった扉があるんじゃないかと彷徨って途方に暮れて、最近なんて他人の扉を開ける(というかぶち破る)ことに徹している。私にとっては扉でも相手にとってはそうじゃないことも多いみたいで、みんなの驚きと困惑と期待と様々な感情が入り乱れた様子はとても興味深くて癖になる。でも自分の悪いところは扉を開けることが楽しくて、その後のことは考えていないところ。メンテナンスなんて性に合わないからやらないし、開けた扉を閉めることもしない。その人にとっては重すぎる扉だとしても、その後の人生知ったこっちゃない。みんな楽しく新しい自分を再発見して沼に落ちて溺れて藻掻いて生きていく。私は次の扉を探すだけ。
両親は私が生まれる前から犬を飼っていた、血統書付きのヨークシャテリア。一緒にお留守番もしていたらしい。彼は気高く気難しく、だがしっかりと長兄として私のことを見守り、時に吠えて善き友だった。七歳の時に彼が死んで、初めて私は死について考えさせられ実感した。眠っているかのような亡骸にさわるとひどく冷たく、心底驚き、彼の魂はもうこの世には無いのだと、もう私にあの澄んだ聡明な瞳を向けることはないのだと、ありとあらゆる喪失感で涙した。心の中に穴が開いて、その淵をなぞって、大人になりいくつもの出会いと別れを繰り返して、ああ私の失うことの原点は彼であったと立ち戻る。祖父の持っていた山の桜の木の下に彼を埋め、何度か墓参りもしたのに、今では山そのものが他人の手に渡って会いに行くこともかなわない。寂しがっているだろうか、元気に山を駆けているだろうか、寒い思いをしていないといいのだけれど。
基本的に客が不利で胴元有利なのがギャンブルであって、24時間ほぼ休みなくゲームができるオンラインギャンブルなんかイカサマだの最初に勝たせるだのやらなくたって普通にやってりゃ勝てるのになんでデータサイエンティストまでやとって(そもそもやとってどうするんだ雇うならプログラマかゲーム性を調整する数学者だろ)イカサマやる必要があるのか、しかも下手に調整したら逆を読まれて負けるだけだぞ。パチプロ集団と日夜やりあってるパチスロ界隈見ろよとかいうのは考えちゃいけないんだろうな
というか身も蓋もないこといえばガチな八百長沙汰があり疑惑の選手が何人か出て他の不祥事あわせてお役所から運営停止までちらつかされたというボートとかネットで広告バンバンうって売上最高状態なわけで、チートだ騒いだところでだからどうしたって話でもある
それは俺に払えということか?
認印もなけりゃ口座番号も分からないので振替を止めることもできない。
というか振込もできない。
残高がいくらあるかも知らない
無論40万など払えない。滞納しながら月払いならできるだろうくらいの話だが、月末振替なのに切り替えることはもうできないだろう。
積みである
去年まで両親の元で最低賃金以下で週五の「お手伝い」(仕事の内容的に労働と思っていたしおれも世間そう思っていたがが正式には労働ではなく両親から小遣いを貰っていただけだそうだ。なので履歴書にかける職歴なしである)していたので「温情」で払ってもらっていたのはまぁ100歩譲って感謝するし(子供とは言え週五拘束で働かせてたら払うのが当然だろうがと思うが彼らの感覚に雇用するという概念はないのでしかたない)今年から自分で払えと言うならわかるが、こんなもん見せられても嫌味か嫌がらせとしか思えねぇ。
コイツラ俺が嫌がり嫌味マウントのネタになるのであれば数十万だろうが気軽に払うキチガイだから、めちゃくちゃねちっこく嫌味を言って出来もしない(仕事につけたって5年間職歴なしのカスなんか誰も雇わねぇよ)要求をだしそのうえで説教嫌味マウント俺の話聞かず全否定を繰り返しつつ払うのだろう。
しかしこういう両親の元拘束時間だけはクソみたいに長いタイミー以下の労働環境の仕事をやってギャンブル中毒になった俺は強気に出ることもできない。
金などないしあればストレス解消に使ってしまう。ストレスの原因が家にいることなんだから家にいる以上治るわけないんたが、ギャンブル中毒で金なんか貯まらないから出てく事もできない
そんなこと言って機嫌損ねたらニートとはいえスネかじりよの俺は死ぬくらいしかないんだ。
これではギャンブル中毒の解決など無理である。あきらめて競輪選手皆殺しにしてぇなぁ家族諸共焼き殺してぇなぁ競艇もクソだなぁ関係者みんな江戸川の火事で焼け死ねばよかったのにと思いながら有り金を突っ込む日々である
そういうわけで別に払ってもらわなくていいから口座だけ返してもらいたいと言っても聞くわけない。
となると闇金から金借りるくらいしか手はない。サラ金などクレヒスブラックだし借金を立て替える約束で自粛を申し込んだ(なお申し込んだが気が変わったとかで立て替えられてない。こいつのせいですっからかんになり何もできないという破滅の頻度が増えただけである)ので金など借りれない。
借金してぇなぁ。借金して何もかも忘れて思う存分にギャンブルしたい。ギャンブルは良いぞ。少なくとも頑張って予想し当てれば金という報酬がもらえる。働けど働けど嫌味マウント見下しで最低賃金以下の金しかもらえない生活でそれはまじで嬉しかった
最近では公営ギャンブルよりオンラインカジノのほうが楽しい。八百長のほうがまだまし素人ですらそんなことしたら負けるに決まってるだろとわかることを率先してやるキチガイなどいないんだから楽しくてしかたない
ギャンブルの大半は、運営によって意図的に結果が操作されている。
これは曖昧な「調整」などという生ぬるい話ではない。はっきり言おう。ただのイカサマだ。いや、構造化された詐欺である。
パチンコも、オンラインカジノも、競馬も、すべてが「演出」や「システム」という言葉で化粧をしているが、その中身は運営の一方的な利益操作だ。
見かけ上のランダム、見かけ上の勝負、その裏では常に「誰にどれだけ負けさせるか」が制御されている。
公正さなど初めから存在しない。あるのは錯覚によって養分を引き込む仕組みだけだ。
たとえばパチンコ。釘の配置や台の内部設定によって出玉は完全に操作できる。遠隔操作の存在も、かつて摘発された事例がいくつもある。
オンラインカジノでは、すべての勝敗がサーバー側で制御されている。演出や当たり判定など、ユーザーに見えるものはすべて「演出」であって、結果そのものではない。
個人の挙動に応じて勝率が変動するようなアルゴリズムが裏で動いている可能性は高く、実際にその手の処理は技術的には簡単に実装可能だ。
競馬にしても、情報の非対称性、オッズ操作、さらには露見している八百長、どれを取っても「運頼みの勝負」などではない。胴元が意図する方向に群衆を誘導する集金イベントにすぎない。
これが詐欺でなくて何なのか。
結果が制御されている、あるいは制御できる仕組みが存在する時点で、それは「勝負」ではない。
見た目をどれだけランダムにしても、意図的に結果へ介入できる時点で、それは詐欺の構造要件を完全に満たしている。
にもかかわらず、多くの人間はそれを見ようとしない。見たくないのだ。
なぜなら、それを認めてしまえば、自分がずっと騙されて金を毟られてきた馬鹿だったと認めることになるからだ。
だから必死に「たまには勝てる」「やり方次第で勝てる」と自分に言い聞かせてギャンブルを正当化しようとする。
だが、それこそが運営の狙いだ。馬鹿は騙されていることに気づかないから馬鹿なのだ。
ギャンブルに手を出す時点で、もう負けは確定している。運営にとっては「始めてくれた時点」で成果が出ているのだ。
金を出した者は、還元されると思っている。だが運営からすれば、それはただの回収対象のデータにすぎない。
「演出」に喜び、「勝てそう」という感覚に希望を抱いた時点で、思考は終わっている。もうそこで終わりだ。
そこにあるのは勝負ではない。搾取の装置であり、感情を利用した詐欺の構造だ。
やると決めた瞬間に馬鹿になるのだ。
それが理解できないなら、一生カモでいろ。誰も止めはしない。
競輪競艇あたりが一番わかりやすいけど、1年365日朝から晩までかじりついて選手のクセや思想ややる気の有無や八百長具合を予想しないとまず100%勝てない(そしてかじりついても大半は負ける)世界だから、どれだけカジュアルアピールハードルが高い
そこまでやってない人にとっては当たらないサイコロ賭博とかと同じ。しかもこっちのサイコロは何考えてるかわからない思いつきで動いてゲーム自体ぶっ壊しにかかるからマジイライラする
朝から晩までかじりついてギャンブルのコマとしてキチガイから金巻き上げてクラス乞食どもの思いつきのせいでボロ負けしてもさぁ次だってなるようなマジモンのギャンブルキチガイだけが楽しめる世界が公営ギャンブルとか、そこまでキチガイじゃない普通の人間はクレカの現金化か資金洗浄くらいしか利点がない。
そこまでじゃないまともな人間がまともな範疇で楽しめてワンちゃん勝って金を増やせる、というギャンブルになるとオンラインカジノしかない
だからこんだけ広まったという意見を定期的に書いてるんだけど、オンラインカジノ批判はするが公営ギャンブル批判って全然されないどころか賛美されるたりするんだよな。
24時間いつでもできてレース買わないとと15分待たされるくせに買ったとて予想も何もないカスとキチガイと雑魚の運動会眺めさせられるだけの公営ギャンブルと違ってすぐに次のゲーム始まるのは精神衛生上すごく良い
決済も簡単、運営も八百長じみた地元番組だのやらない、公営ギャンブルの「24時間朝から晩までかじりつかないとまともな予想ができない」「結局選手のやる気次第」「八百長前提に買うのがあたりまえ」みたいなものが全くないクリーンさ。
そしたら人生ここまで糞になってない
公営関係者はオンラインカジノを見習って、どうせ見習ってもクレカ決済できるとかクソみたいなアフィ広告バカスかうつとかやるだけだからむりだわ、関係者は多くの人間の人生を狂わせたことを自覚して家族もろとも焼け死ね
それが無理なら俺が殺してやる
まともじゃない人間が長時間(短くても一ヶ月くらいは張りついて予報収集しないとまず勝てない)張り付いて予想はたてて選手のその日の気分一つで負けるのが公営ギャンブルだからハードルが高すぎる
資金は最低でも1万、まともに一日遊ぶなら2万は欲しい。
それで勝った目にカスリもしないどころか八百長じみた走りしたりゴールまで到達できないカスを眺めてニコニコできる精神力が居る
それに比べればオンラインカジノ、気が向いた時に数千円入金して2分の一ギャンブルで半日遊べる。しかもお子持ちレースとか無気力とかゴールまで到達しないとかない。
ルールわかりやすくサービスが良く還元もいい、その上ちゃんと負けるので精神衛生上良い
そりゃオンラインカジノが広まるわけですよとおれは思う
たぶん、米長邦雄っていう10年くらい前に亡くなった名棋士以来の伝統だと思う。
ちなみに、
・ウィキペディアの記事が言及している「人間における勝負の研究」は、一般人にとっても一読の価値がある。
・米長邦雄は数々の奇行、名言、迷言でも知られていて、調べてみると面白い。
羽生が真っ先にその功績として指摘したのが「相手にとって重要な一局には全力を尽くせ」という米長の勝負哲学だ。「将棋界の要であり礎でもある」(羽生)。従って将棋界には八百長試合が存在しない。好き嫌いの感情で故意に手を抜く無気力な対局もないという。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21048_R21C12A2000000/
「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれる。
著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗で昇級が決まり、もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長のアシストによりA級に昇級した。なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている(精神面もさることながら、その年上がれなくとも翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利になった)。
著書『米長の勝負術』では、トーナメントなどの例外を除き、その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスであるとしている[44]。この「米長哲学」は将棋界全体に広く普及し、大相撲などの八百長問題の際に新聞などで引用されることもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E9%95%B7%E9%82%A6%E9%9B%84