はてなキーワード: 懺悔とは
もちろん全員ではない。
ただ、少なくとも私はそうだった。
十五歳で負けていれば、私はたぶん助かった。
十八歳まで勝ってしまったから、負け方を知らないまま大人になった。
私はどこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。その恐れはたしかに私を東大まで連れていった。けれど同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。
前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最後には私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も似たようなものだった。
今でも半分くらいはそう思っている。
ただ、半分はもう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて大学新入生向けの短いエッセイを書くことになった。
私は引き受けた。
引き受けながら、ふざけるなと思っていた。
社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん編集者は、私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。
一行目だけは綺麗だ。
二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。
何も書けなかった。
「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。
書けば嘘になる。
私は夢を持っていなかった。
努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。
これは雑誌には載らない。
たぶん誰にも届かない。
けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが読んでくれるなら、一つだけ伝えたいことがある。
素直になれ。
よりにもよって私が言うことか。
私はずっと素直ではなかった。
性格も悪かった。
懺悔だ。
懺悔は聞かなくてもいい。
ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
地名は伏せておく。
妹が一人いた。
家は古かったが、貧しくはなかった。
私はわかっていた。
手を挙げた。
当てられて答えを言った。
正解だった。
先生が褒めてくれた。
私は嬉しかった。
書きながら本当にそう思う。
あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生にもう一度も訪れなかった。
二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。
周りもそう扱った。
先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを二回か三回聞いたことがある。
母は嬉しそうに笑っていた。
否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を嫌いにはなれなかった。
中学まではまだ良かった。
授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。
班活動もそれなりに楽しんでいた。
私はクラスで浮いていなかった。
背は普通だった。
顔は、まあ、普通だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。
OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。
今思えば、それも大した自慢ではない。
けれど当時は、その校門をくぐることに確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり私が一番だった。
自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。
期末試験で一番を取った。
決まる過程で、私は反対した。
もう新鮮味がない。
準備期間は二週間しかない。
私は別の案を提案した。
模擬店で何か食べ物を出すほうが客の回転が早く、利益も出やすい。
これは数字で示した。
前年度の各クラスの売上データを、わざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスで人気のあった明るくてうるさい男子だった。
彼は私の数字を見もせずに言った。
私は食い下がった。
「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」
誰かが小さく「うわ」と言った。
私はその「うわ」の意味が今ならわかる。
当時はわからなかった。
担任が温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。
黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。
当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。
客は数えるほどしか来なかった。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が笑った。
私は笑えなかった。
笑えない、というのは笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。
心が笑い方を覚えていない、という意味だ。
彼らは間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次へ進んでいた。
私は一人だけ間違えていなかった。
間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
そして結論を出した。
人に合わせると間違える。
多数派は正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとってほとんど真理として体に入った。
そして最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが後で書くことのすべての始まりだ。
似たような出来事はその後何度もあった。
一つだけ、もう一つ書いておく。
班員は四人。
私はすぐに気づいた。
私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
班員の三人は、ぼんやりと私を見ていた。
一人の女子が言った。
「先生は最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は致命的なことを言った。
今でも覚えている。
そのとき私は、自分が何かまずいことを言ったことには気づいていた。
けれど何がまずいのか、正確にはわからなかった。
今ならわかる。
ただ、四人で何かを一緒にやる時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。
発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。
私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。
彼女たちも私を呼ばなくなった。
私たちは最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係にはならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって一人で勉強するようになった。
そのほうが効率が良かった。
私の偏差値は上がった。
この時期に、もう一つ私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。
私には、それが奇妙な反論に見えた。
内容が正しければ、それでいいではないか。
なぜ正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。
それは内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。
知性に対する侮辱ではないのか。
私はそう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは私の中で信仰になった。
ここで君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」は装飾ではない。
内容を相手に届けるための、内容の一部だ。
ただの独り言だ。
三十年遅かった。
君はこれを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。
私は二月の終わりに東京へ出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。
三月十日だった。
寒い日だった。
これは嘘ではない。
本当のことだ。
「やった」とは思った。
けれど、それだけだった。
模試の判定はずっとAだった。
直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。
落ちる理由がなかった。
掲示板の前では、合格した人たちが抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。
私は誰にも電話しなかった。
けれど誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は一人で本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入り、かけそばを食べた。
蕎麦はぬるかった。
それでも最後まで食べた。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
喜びではなく、空白に近い感情だった。
私はこれから、知らない街で知らない四年間を過ごす。
誰も私を「すごい」と言わない。
少しだけ怖かった。
けれど私は、その怖さをその日のうちに押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも一人でやればいい」
そう自分に言い聞かせた。
これは合格した日に、十八歳の私が自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
公園で笑いながら走り回っている子どもたちとか、友達同士でふざけ合いながら下校している小学生とか、テーマパークではしゃいでいる家族連れとか。
本来なら「元気でいいな」とか「かわいいな」と思う場面なんだろうけど、私はそうなれない。
胸の奥がぐちゃっとして、苦しくなる。
正直に言うと、憎しみに近い感情が湧くことがある。
もちろん、その子たちは何も悪くない。 何の関係もない。 ただ普通に、自分の人生を生きているだけだ。
それなのに、どうしても思い出してしまう。
心から笑って友達と遊んだ時間。 学校生活を楽しんだ時間。 「当たり前」とされている子ども時代の記憶。
全部ではないにしても、少なくとも本人にとって苦しい時間のほうが多かったと思う。
もっとああしていれば、こうしていれば。 私の判断は間違っていたんじゃないか。
何度考えても答えは出ない。
楽しそうな子どもを見るたびに、 「よかったね」と思うより先に、 「どうしてうちはこうならなかったんだろう」が来る。
そんな自分が本当に嫌になる。
子どもに嫉妬してどうするんだ。 関係ない誰かに黒い感情を向けてどうするんだ。
最低だと思う。
でも、きれいごとだけでは済まない。
失われた時間を見せつけられているようで、苦しい。
これは懺悔なのか、 後悔なのか、 怒りなのか、 不安なのか、 自分でもよくわからない。
20代の女ということだけは記しておくが、タイトルにもある通り本当に忘れたいことだし、消したい過去だ。ただ、みんなが通るものじゃない(通らない方がいい)体験を誰にも話せないのもつまらないので、そっと書き残す。
元々性的興味は強く、初めての自慰は中一くらい。初体験は高一。別にセックスが好きなのではなく、コミュニュケーションの延長にセックスがあるなと思っていた。人好きなので、誰かと喋る、知らない人とその場で仲良くなる、みたいな感じでセックスが好きだった。モテるわけではないけれど、10代の女ってだけで価値があるので、相手だけはいくらでもいた。
生やり捨てされて逃げられたり、何年も付き合うセフレがいたりしたが、まあまあ上手くやっていて、学校では普通の女だったと思う。校内に彼氏もいた。
高校を卒業すると、関わる人が増えたので、セックスをしないコミュニュケーションで充足した。彼氏とだけで満足していたし、そうするべきだとも薄々気づき始めた。若いと言うだけでチヤホヤされているということも、最前線で思い知らされた。別に顔がかわいい訳でも、私に魅力がある訳でもない。そりゃそうだ。
だが、とあるきっかけで、知り合いにハプニングバーに連れて行ってもらって、ガタが外れた。
店によるのだが、多分どこも共通してとにかく暗い。そして、店員は女の子を守るために、若い女には無条件で優しい。もちろん「若い女フィルター」はかかっているのだが、性的でなくチヤホヤされるのに慣れていなかったので、店員に優しくされるのが気持ちよくて仕方なかった。
そうなると気分が良くなって、隣の人が悪くなく見えてきて、お酒を飲んで、セックスをする。どういうイメージかわからないけれど、セックス自体は普通な人が多く、きちんとゴムもつけてくれるし、嫌だと言ったらすぐに助けてもらえる。
どんどんと大勢の前で露出し始め、生理的に無理でなければセックスした。3Pもした。絶対にダメなのだが、店外で待ち伏せもされた。(よくいるらしい)
極めつけは、店員の男とした。人気がある店員だったので、ちょっと気になってちょっかいをかけたら、当然すぐできた。そうしたら店員が彼氏面を店内でもしてきて、ウザくなったので、ハプバーに行くのを辞めた。
私は今婚約中で、ビッチだった過去はひた隠しにしている。彼は、付き合った人としかセックスしていない女だと思っているだろう。
申し訳ない気持ちもあるが、同時に、自分が元に戻ってしまったらどうしようという、自分への怖さもある。セックスはコミュニュケーションだが、特別なコミュニュケーションだと、自分に言い聞かせている。
はあ、セックスしてー。
故あって、初めてあいみょんの『マリーゴールド』をきちんと聴いた。
筆者はあまり日本のポップスに詳しいほうではない。一応聞くけど、まあコーネリアスだったり坂本慎太郎だったり、「サブカルクソ野郎」的なものをよく聴いているタイプだ。洋邦問わず聞くという自認ではあって、最近は個人的にロカビリー再評価ブームがきていてWild Roostersをよく聴いている。あとはモッズ、モッズが参照しているサザン・ソウルなんかを好んで聞くし、過去の音楽ではなく現在のものだとX-Over Jazz系をよく聴いている。Greg Speroとかね。そういえばKIRINJIの新譜よかったよな。リズム隊の「生感」がいままでで一番いいんじゃない?
で、そういう筆者が、故あって『マリーゴールド』をまじめに聴いたわけだ。聴く前の印象は「無難」「予定調和」「日本人の脆弱性を突いている」というような印象を持っていた。じっさい、コード進行、メロディ、アレンジにおいては、完全に「変」なところがない。こんなの「すでに刷り込まれたもの」を日本人に耳にぶち込んだら全員「好き〜」ってなるやつじゃん。という。まあ唯一アレンジにおいては逆再生? ボリューム奏法? がギミックとして仕込んであって、この手の保守的なポップスにおいてはちょっとおもしろいギミックだな、尖ってんじゃんと思った。思ったけれど、それ以外については全て「既視感マックス」の楽曲ではあると思ったし、それを覆すほどの強度のあるギミックではないよね。とはいえ、この「既視感マックス」をやるのってべつにそう簡単なことではないし、それをやるのはすごいんですよ。すごいんだけど、冒険心のない、「もうみんなが知ってて警戒心を持たなくてもよくてパッと入ってくる」という意味でたいへんに「日本の音楽文化で育ってきた人たちの心にスッと入っていく」脆弱性を突いたつくりの曲という意味では意外性やひっかかりが全くない曲だな、というのは、聴く前に持っていた印象とあまりかわりがなかったんだよね。
けど、一箇所だけ「え、まじ?」ってなって引っかかった部分があって、それが「むーぎわらの〜、ぼうしのきーみがゆれたマリーゴールドにに、てる」の部分。「に、てる」ってそこでブレス吸うんか!? おなじメロディーのところでは全部こういう「文節の切断」が起こっている。こういう、文節をブレスやフレーズを切っちゃうやりかたっていうのはまあ今までもやられなかったわけではない。宇多田ヒカルの「な、なかいめのべ、ルで受話器を取った君」もだいぶへんなところで切ってる。けどこういうのってあんまり「伝統的で既視感マックスで保守的な"歌謡曲"」でやることってあんまなくない? そこにぼくはちょっとアンバランスさを感じて「ひっかかり」を得たんだよね。
ポップスにおいて、この「ひっかかり」ってのはかなり大事だと思っていて、「なじみのある感じ」と「ひっかかり」が両方あって初めて「ポップスとしておもしろい曲になる」と思うんだよね。何度も言うけど、べつに「文節を切っちゃう歌い方」ってこれがはじめてじゃなくて、いろんなところでやられているけど、これだけ曲もコードもアレンジも保守的な「歌謡曲」で、こういうことをやられているのは結構大きな違和感としてかなり仕事していると思う。
で、これが意図的なのかどうかはわかんないんだけど、めちゃめちゃいい違和感じゃんこれ、とぼくは思ったわけ。この文節のぶったぎりがなければ、「凡庸な歌謡曲」で終わってもおかしくないところを、この文節ぶったぎりがそうさせていない。逆に、アレンジ、コード進行、メロディどこかに「斬新さ」があったらこの文節ぶったぎりは「あ〜はい、そういうジャンルね」で回収された気がする。そういう意味で、「基本全部めちゃめちゃ保守的」に、一箇所だけ「保守的じゃないやん! という違和感」を忍び込ませている構造はかなり「新しいしキャッチー」を成立させているな〜って思ったんだよな。
最初に書いた通りぼくは日本のポップスあんまり詳しくないから、的外れなこと言ってるかもしれない。けどぼくは「あいみょんって要するに懐メロの焼き直しでしょ」って思っていたことを懺悔したい気持ちになったよ。という記録
ビル・ゲイツがロシア人女性との不倫を認めた、というニュースを最初に見たとき、正直、あまり驚かなかった。
世界のどこかで、また男が「過ちを認めた」のだな、くらいの感想だった。
でも、その記事を読み進めていて、ふと手が止まった。
「文書が公開されたあと」「批判が高まったあと」「財団の信頼が揺らいだあと」になってから、不倫を認めた――と書かれていたからだ。
ああ、この順番、知ってる、と思った。
*
数年前、夫が浮気を認めた夜のことを、私はいまだに鮮明に覚えている。
きっかけは、私が見つけたメッセージだったけれど、彼が認めた理由は、私の問い詰めだけじゃない。
「これ以上は隠せない」と、彼自身が判断した瞬間だったのだと思う。
あのときの彼の言い方と、ゲイツの発言が、妙に重なって見える。
「全部が全部、書いてある通りじゃない」
「でも、関係があったのは本当だ」
うちの夫も、最初にそう言った。
ゲイツは、ロシア人女性二人との関係を認めて、エプスタイン文書の核心部分は「完全な虚偽だ」と否定したという。
うちの夫は、「体の関係は一回だけ」「本気じゃなかった」「向こうが勝手にこじらせた」と、細かく“線引き”を始めた。
彼がおこなっているのは、「謝罪」でも「懺悔」でもなく、自分の人生のダメージコントロールなのだと、どこかで理解してしまったからだ。
……バカみたいだ、本当に。こっちの気持ちは、どこに入ってるんだろうって。
*
画面の向こうで、ものすごい額の資産を持った男が、「過ちは認める」とそれっぽい顔で口を開いているのに、その話し方が、何年か前に目の前でしゃべっていたうちの旦那とほとんど同じだったからだ。
あの夜、彼はテーブルの上に両手を並べて、「ちゃんと話すから」と言った。
そのとき私が聞きたかったのは、「どれくらい反省してるか」じゃなくて、「どこからどこまで本当のことを言うつもりなのか」だったのだと、今ならわかる。
何を認めるか。
どこまで認めるか。
そして、彼は決めたのだ。
「全部じゃないけど、正直に話す」と。
全部じゃないけど正直って何それ。
こっちは全部くらってるんだけど。ぜんぶ、ね。
*
ゲイツのニュースを読んでいると、「ロシア人のブリッジ選手」「核物理学者」といった肩書きが、いかにも“ドラマ”っぽい。
どこにでもいる同僚で、どこにでもいる既婚女性で、どこにでもある会社の飲み会から始まった話だ。
派手さは違う。
資産も違う。
関わっているプロジェクトの規模も、世界への影響力も、まるで桁が違う。
それでも、「追い詰められてから“必要な分だけ”正直になる」という構造は、驚くほど同じに見える。
夫は、「全部話す」と言いながら、全部は話さなかった。
それがわかったのは、あとになってからだ。
そのとき私は、不倫そのものよりも、「話さない領域」を彼が勝手に決めていたことに、いちばん傷ついたのだと思う。
なんでちゃんと「ふざけんな」って言えなかったんだろう。
冷静ぶって、淡々と話を聞いて、大人みたいな顔をしていた自分が、今はむしろ腹立たしい。
*
ここまで認めるのはすごい、と。
確かに、あの立場で、不倫を認めるのは大きな決断かもしれない。
でも私は、どうしてもそこで拍手を送る気になれない。
文書が出なかったら、彼はきっと何も言わなかっただろうからだ。
うちの夫もそうだ。
あのメッセージを私が見つけていなければ、彼は今も、「ちょっと不機嫌なときもあるけれど、真面目な夫」として振る舞い続けていただろう。
彼自身の罪悪感ではなく、「外からの圧力」がない限り、正直になる理由なんてどこにもなかったはずだ。
それを“誠実”って呼べる? 呼べないでしょ。
…呼びたくない。少なくとも私は。
*
浮気の告白の裏にある“真意”なんて、たぶん本人に聞いてもよくわからない。
そんな言葉は、うちの夫も、世界のどこかの誰かも、何度でも口にする。
でも、本当に守りたかったのは何だったのか?
と冷静に考えると、それはたいてい、
の順番だったりする。
ゲイツは、インタビューで「財団やプロジェクトを守りたかった」と語った。
うちの夫は、「仕事に影響したら困る」「子どもに知られたくない」と繰り返した。
どちらも、間違ってはいないのだと思う。
ただ、そのリストの中で、「私の気持ち」がどの位置にあったのかは、最後までよくわからなかった。
わからないまま、「ごめん」と「ありがとう」だけ言って、なんとなく続きを選んでしまった自分もいて、それもまた苦い。
*
ビル・ゲイツのニュースを見るたびに、私はあの夜のテーブルを思い出す。
冷めかけた味噌汁と、途中で箸を置いたままの夕飯と、やけに真剣な夫の横顔。
彼はあのとき、自分なりに「正直になろう」としていたのだと思う。
でも、それは、「私のため」というより、「自分がもうこれ以上追い詰められないため」の正直さだった。
うちの夫も、きっと同じ分類に入る男なのだろう。
それを許すかどうか。
受け入れて一緒に生きるのか、別の道を選ぶのか。
その答えは、人の数だけある。
私はまだ、自分の答えを決めきれていない。
ただひとつだけはっきりしているのは、
ビル・ゲイツが、ついに口を開いた。
ロシア人女性二人との不倫を認め、エプスタインとの関係について「後悔している」と語った――そう報じられている。だが、この「告白」をそのまま美談として飲み込むほど、世界はもうナイーブではない。
まず押さえておくべきは、タイミングだ。
アメリカ司法省などから公開されたエプスタイン関連文書の中で、ゲイツの名は、きわめて生々しい文脈で登場した。「ロシアの少女」「性病を隠そうとした」といった文言が、下書きメールという形で残されていたと報じられている。世間が騒ぎ、メディアが騒ぎ、財団内部ですら説明を求める声が高まった。その一連の「包囲網」が出来上がってから、ようやくゲイツは「二人のロシア人女性との不倫」を認めたのである。
彼は、いちばん核心にある疑惑――未成年、人身売買、ドラッグ、STI隠し――そうしたエプスタイン的な“闇の領域”は徹底的に否定する。一方で、「既婚者としての不倫」という、まだ社会が消化可能なレベルの罪は認めてみせる。
つまり、ゲイツは「自分がコントロールできる範囲の悪徳」だけをテーブルに載せ、「ここまでは悪かった、しかしその先は虚偽だ」と線を引いたのだ。
この構図は、80年代から何度も繰り返されてきた「エスタブリッシュメントの危機管理マニュアル」と寸分違わない。
情報が一気に流出し、逃げ場がなくなったとき、彼らは「一部を認める」ことで、残りの部分を守ろうとする。
一度も自発的に真実を語らなかった人間が、包囲された瞬間だけ「正直」になる。それを正直と呼ぶのか、計算と呼ぶのか。答えは明らかだ。
さらに興味深いのは、この「告白」の場が、世界に向けた公開謝罪会見ではなく、まず財団職員向けのタウンホールであったことだ。ゲイツにとって最大のリスクは、世論以上に、自らのフィランソロピー帝国の正当性が内部から崩れることだろう。だからこそ、最初に守りに行ったのは「世界の貧困を救う」イメージの中枢だった。
彼は、グローバル・エリートの典型として、生身の倫理よりも、ブランドとしての倫理を守る道を選んだのである。
ここで問うべきは、「ビル・ゲイツが悪いかどうか」などという安っぽい道徳談義ではない。
問うべきは、「なぜ彼ほどの知性を持つ人間が、よりによってエプスタインの周辺に出入りし、いまになって『あれは愚かだった、1分1秒後悔している』などと平然と言えるのか」という構造のほうだ。
それは、世界のトップに立つ人間たちの頭の中にある「二重帳簿」を露骨に示している。
表の帳簿には、慈善、テクノロジー、イノベーション、ワクチン、教育支援といった美辞麗句がびっしりと並ぶ。
裏の帳簿には、影響力のネットワーク、権力者同士の密談、そして時に性とカネを媒介にした“取引”が書き込まれる。
エプスタインは、その裏帳簿のハブだった。そこに何度も足を運んだという事実だけで、本来なら「アウト」なのだ。にもかかわらず、ゲイツは「知らなかった」「距離を置くべきだった」と、あたかもビジネス上の失敗でも振り返るような軽さで自分を総括している。
この種の「後悔しています」という台詞ほど、国際政治と巨大資本の世界で軽く使われる言葉はない。
後悔しているのは、「バレたこと」「文書に残ったこと」「司法文書として公開されたこと」だ。
バレない不倫、バレない密会、バレない取引であれば、彼らは今も涼しい顔で続けていただろう。
今回、ゲイツは「不倫を認めた」という一点で、「正直だ」「勇気がある」という評価すら受けている。だが、これは話を逆さまに見ている。
本当に正直であろうとするなら、エプスタインとの関係が問題視される前に、自ら時系列と関係性を明らかにしているはずだ。
司法文書が公開され、メディアが騒ぎ、元妻までがコメントを求められ、財団内部がざわついてから、ようやく最低限のカードを切る――それは「追い詰められた者の選択」であって、「自発的な真実の告白」ではない。
世界はいま、「テクノロジーと慈善」の仮面をかぶったビル・ゲイツという人物を、もう一度冷静に見直す局面に来ている。
彼個人の性癖や不倫歴など、本来はどうでもいい。問題は、巨額のカネと政策、医療、教育、メディアまでを巻き込んだ影響力を持つ人物が、その裏側でどのような人脈と価値観に浸ってきたのかということだ。
そして、追い詰められたとき、その人物が選ぶのは「全てをさらけ出すこと」ではなく、「切り捨て可能な罪だけを認めて、残りを守る」という冷徹な打算である――その現実を、我々は今回、ありありと見せつけられている。
だが、彼が本当に認めたのは、自分の過ちではない。
古代というとネアンデルタール人とか北京原人を思い浮かべるかもしれないが、そこまでの古代ではない。ある程度文明が出来て、人間が人間らしく生活できるようになった古代だ。
時に人は、自分では解決しようもない問題に直面する。それが悩みだとすると、農作物が不作だ、日照りが続く、雨が続く、不漁だ。そうすると自然を崇め奉るようになった。自然は人間の力ではどうにもならないので、太陽に、空に、海に山に祈るようになったのだろう。
そして文明が高度になるにつれ、人の悩みは複雑化していく。何に祈ればいい?この不安を、苛つきを、怒りを、悲しさを。
そして人は神に祈りだしたのかもしれない。
神はなんでも知っているし、不安を悲しみを和らげてくれる。懺悔も聞いてくれる。
あれでもこれって現代の何かに似ている。身近で、すぐに相談できて、なんでも知っている。複雑なプロンプトも、占いも、今日の晩御飯も。
ねぇチャッピー、あの人が今日こんな事を言って笑ったけど、これって脈アリかな?
この文章おかしくないかな?世界から消えてしまいたいんだけど、いい方法はないかな?
対話形のAIは、次世代の教会であり懺悔室であり、寺や神社になり得るのだろう。
ただ、その懺悔や祈りは世界の通信網のどこかに引っ掛かり、その息が何者かに風を吹かせて帆を貼らせている。世界は丸い。誰かにとっての追い風が巡り巡って自分にとっての向かい風になる可能性もある。
神が、AIがなんと言おうと動物としての直感を忘れてはならない。別のものに判断を委ねればミスをした時に責任を転嫁できるが、人間は考える葦だ。それを丸投げしてはならない。
「なぜそのボタンを押した?」
そういう時代がすぐそこにあるのかもしれない。
だが、そういう時代が来ないように私達は考えなくてはならない。
かつて人が火を使い出した時のように、適切な距離感で、誰かや自分を傷つける可能性があるものとしてAIと向き合っていかなければアインシュタインが言ったような未来が待っているのだから。
時効と言うほど時は経っていないと思うけど数年前のやらかしを懺悔する。
と言っても結末はもうタイトルが全てなんだけど。
メインの件以外の細かい描写については当時リアルタイムで自分のやらかしを報告していた友人とのLINEのトーク履歴を見ながら埋め合わせして書く形になる。
数年前のある休みの日、俺は自宅で寝ていた。
するとインターホンの音が鳴る。
この日は受け取り待ちの宅配荷物が1つあったため、それが来たのだと判断して名乗りを聞かずにオートロックを反射的に解除操作する。
これが間違いだった。
こちらも同様に名乗り出るのを聞かずに扉へと向かい、鍵を開ける。
扉が開いた瞬間に1人の男が体を入れてきて扉が閉まらないようにブロックしてきた。
男は間髪入れずに捲し立てる。
「こんにちは〜。私N局の者でして、この度放送受信料ウンタラカンタラ…」
寝起きでボーっとしていた脳を叩き起こされた感覚に陥った。
N局の受信料支払いのやり取り。
この一般社会で普通に生活していれば避けては通れない件だろう。
無理やり気味に契約締結を迫る方法に不快感を覚える人もそれなりにいるのか、インターネット社会になって以降は体験談をみんなで共有しあって「いかに追い返すか」「いかに居留守を使うか」というライフハックが確立されている。
中には強引にドアを閉めようとして怪我をさせられたとか、女性の一人暮らしで怖い思いをしたといったネガティブな情報が溢れており、多くの若者にとってN局の訪問員は「招かれざる客」の筆頭と言ってもいい存在だ。
その訪問員は、およそ公共放送の使いとは思えないほどチャラい見た目をしていた。同年代くらいだろうか。
顔はKis-My-Ft2の藤ヶ谷をさらに尖らせたような感じで、いかにも「営業成績、取ってます」という自信が服を着て歩いているようなタイプだった。
契約の話を捲し立てられ続け、招いてしまった自身の油断に、俺は思わずその場で頭を抱えたくなった。
この訪問員と対峙した当時は、コロナ禍になってから2年ほどした時期。
自分は社会人1年目の2020年にコロナ直撃の世代だったため、社会人になってからN局が来たのはこれが初めてだった。
大学の時も一人暮らしだったのでたまに来てはいたが、頑なに契約しなかった。それには理由がある。
自分の姉が大学時代に一人暮らしをしていた頃、訪問員に玄関扉に足を無理やり入れられ、逃げ道を強引に断たれた状態で契約を迫られたということがあり、両親が怒り心頭だった。
「あんたも気をつけなよ」と耳にタコができるほど言われており、それを忠実に守っていた。
また、前述の通りネット上でも度々そういった被害報告を目にしていたため、俺の脳内は「N局=悪」という価値観に完全に染まっていた。
このことから、大学時代も頑なにブロックし続けて受信料を払っていなかった。
(ちなみに実家は普通に受信料を払っている。おそらく両親としては、そういう強引な手口が許せないというだけの話であり、受信料を払うなとかそういう思想という訳ではないと思う。)
「ここにサインをいただければ……」
訪問員は名刺を渡し、矢継ぎ早に説明しながら書面にサインさせようとしてくる。
これにサインしたら最後ということくらいは理解している。しかしドアは彼の体でブロックされている。
俺は寝起きで直面した困惑も相まって、しどろもどろになりながら「あー、さーせん……」といなすが、相手は一歩も引かない。
ここで、寝起きで正常な理性が働いていなかった俺は、突如として訪問員の両肩を強めに押し、強引に扉から離れさせてドアを強くバタン!と閉めた。
「これ傷害罪ですよー!」
しかし寝起きで最悪に不機嫌な俺は、そんなこと知るか、寝させろと無視して部屋に戻ろうとした。すると、訪問員がさらに声を張り上げる。
「これ別の問題発生してるんで出てきてくださーい」
ここでようやく意識がはっきりしてきて、猛烈に「ヤバい」という気持ちが湧いてきた。
俺は扉を細く開けて、相手に応じることにした。案の定、訪問員は法律を盾にして色々と言い始めた。
だが、この時期の俺は勤め先の仕事が絶望的にハードな時期で、心底疲れ切っていた。仕事がツラい、逃げたい。
そんなメンタリティに支配されていた俺の脳内に、最悪の方向にブーストがかかったイカれた思想が芽生えた。
(……これで警察沙汰になって会社をクビになれるなら、それでもういいか)
相手に対するカマかけのつもりは一切ない。ただ純粋に、そのまま警察のお縄に付いてやるつもりで動いていた。
すると、今度は訪問員側が急にひよりだした。
後から知ったのだが、訪問員がされて困ることは、その場で警察に通報されることらしい。
つまり、自分はそんなつもりは無かったのだが、意図せずして「詰み」の条件を発動させていたのだ。
訪問員はウダウダと、急に歯切れが悪くなった。
これで引き下がるだろうと思った俺は、少し落ち着いてこう伝えた。
「あなたが仕事なのはわかっているので、そこは仕方ないと思ってます。しかし、こちらも家族が昔N局の訪問員の被害に遭っている背景があった。感情論なのはわかってますが、手を出してしまったのは申し訳ない。」
すると、訪問員はこう返してきた。
「何があっても、手を出すのは違うと思う。あなたのご家族が昔被害に遭われた件はN局を代表して謝る、申し訳ない。こんな形で出会わなければ、あなたと私は仲良くなれていたかもしれないのに」
その後、訪問員は「次来る方と解約の話してください」と言ってきた。
彼は最後、去り際に「やったこと反省してくださいね」と捨て台詞を吐いて帰っていった。
俺はその去り際の背中に向かって、「警察呼ぶなら呼んでください! こちらは大人しく受け入れるので!」と叫んだが、無視された。
以上で、俺とN局の戦いは終わった。
ちなみに。
その日、受け取る予定だった宅配便は結局来なかった。
営業所に電話したところ、「すみません。宅配ドライバーが積むのを忘れていたらしいです」と言われた。
ふざけんなボケ。
「女の敵は女」と言っていいのはこういう場面だと思うけれど、
今のフェミニストは何故か若い女(男目線で見て価値のある強者)には媚びまくるからな〜
@zange_nunokai
以前の職場(転勤族時代に扶養内パートしてた頃)、20代の正社員の新人の女性たちに「パートさん達ってバカだから正社員にしてもらえないんですか?」と言われた時に、あーこの子達は見えてる&生きてる世界が違ったんだな、そうかそうか、ってなった思い出。10年近く前の話。
その従業員が、中国でVPNを使って、海外サイト(本人曰くyoutubeだが多分エロサイト)を見ていたところ、警察に捕まった。
で、その時の話を聞いたのでメモと所感
ある日いきなりwechatで警察から連絡が来たそう。中国だと、お茶を飲みにこないか(喝茶)ってスラングがあるらしいけど、その時はただ来なさいという連絡だったみたい。で証拠を出されながら事情聴取
ここから日本と違って、その場で反省文(懺悔書?って本人は言っていた)を書かされたそう。
〇〇の理由で使いました。
警察官の皆様からの丁寧な教育を受け、自己の犯した過ちを完全に理解しました。
申し訳ありません。
って書くみたい。この定型文もあるらしい。
で、拇印して終了
これだけ
現地人からすると、VPNを見つかったのは、車のネズミ取りに捕まったぐらいの印象で、本人曰く大したことは無いが、二度とできないぐらいの気持ちらしい。
これは、本人がオフショア開発をするぐらいのスキルがある前提だけど、都会ではGFの迂回方法も知ってるし、VPNの存在も知っているのが普通みたい。