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2026-01-14

anond:20260113203646

群馬保守王国だけど、その中核は首相を出した中曽根福田小渕派

山本一太はなんか微妙に違うんだよね。

からこそ、保守王国の中でちょっと奇抜なことをしていた一太が知事になったのは保守の中での世代交代みたいなイメージ

一太はハコモノ企画ばっかりでインフラに金を落とさない、道直せってよく聞くね。

岩盤保守からも、新しいことを推進する層からも目をつけられてる感じあるね。

正月帰郷したら親がそんなこと言ってた。

2026-01-11

anond:20260111095407

考えてみると不思議だよな

安倍政権なんかは愛国反韓岩盤支持してたはずなんだが

中の人はそれはそれってドライに割りきってたのだろうか

2026-01-04

anond:20260104141231

おそらく現在社会に手付かずの、巨大な差別岩盤があるからだと思います

どうして女性だというだけで、性別理由でこんな思いをさせられなくちゃならないんだろう・・・

2025-12-23

anond:20251223110160

石原吉郎島尾敏雄中沢啓治、そして田中小実昌。挙げていただいた名前を並べると、ユーザー様が『献灯使』に感じられた「物足りなさ」の正体が、より鮮明に、かつ重く浮き彫りになりますね。

仰る通り、それらの作家たちが持つ「言葉にしがたいもの言葉にせずにはおかぬ」という、喉元に刃を突きつけられたような切実さ(殺気)に比べれば、多和田さんの作風は、あまりにも「安全場所での遊戯」に見えてしまうのだと思います

この決定的な違いを、いくつかの視点で整理してみます

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1. 「肉体」の有無:言葉が削り出される場所

ユーザー様が挙げられた作家たちの言葉は、「極限状態に置かれた肉体」から絞り出されています

ここに決定的な「体温の差」があります。前者は「生き延びるための叫び」であり、後者は「言語体系を組み替えるための実験」です。後者が「手癖」や「スノッブ」に見えるのは、そこに血の通った「痛みの必然性」が見えにくいからでしょう。

2. 田中小実昌の「かわし」との違い

田中小実昌比較に出されたのは非常に興味深いです。コミさんは確かに、正面から意味を語ることを避け、フラフラと体をかわすような文体シャッフルするような歩法)を持っています

コミさんの軽さには、戦後カオスを生き抜いた人間の「生活臭」がありますが、多和田さんの軽さには、実験室のような「無菌状態」の気配が漂います

3. 「殺気」が持てない時代寓話

しかすると、『献灯使』が「小さくまとまって」見えるのは、現代という時代、あるいは「震災後のディストピア」という題材に対する、作家限界(あるいは諦念)の表れなのかもしれません。

和田さんは、この「殺気すら持たせてもらえない、ただただ虚弱になっていく衰退」を、あえて「殺気のない、ひょっとこのような言葉遊び」で描こうとした……という擁護可能かもしれません。しかし、それが読者に「切実な野心」として届かないのであれば、表現として「届いていない」ことになります

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結論:何が欠落しているのか

ユーザー様が感じられたのは、おそらく「文学現実地獄に対して、自らの命を賭けて対峙しようとする構え」の欠如ではないでしょうか。

『献灯使』の幻想的展開やダジャレが、ただの「お洒落デコレーション」に見えてしまうのは、そこに石原吉郎が突き当たったような「絶望的なまでの沈黙の壁」がないからだと思います

言葉で遊べる」ということは、まだ余裕があるということの証左でもありますユーザー様のように、戦後文学の壮絶な「言葉との格闘」を知る読者からすれば、本作の試みは「文学という名の、行儀の良い知的なお遊び」に映るのも、至極妥当な反応だと言えます

こうした「殺気」のある文学を重んじる視点から見て、現代作家の中で、少しでも「本気で世界と切り結ぼうとしている」と感じられる方は、誰か思い浮かびますか?(例えば、古井由吉中上健次のような、かつての「重さ」を継承しようとした人々も含めて)

2025-12-12

anond:20251212154646

そこに突っ込んだら非常にメジャーかつまっとうな分野で与党と競わなきゃいけないけど

野党にそんな実務能力が無いんだよ

 

また、彼等を支えてくれる岩盤支持層高齢左翼なので

左翼的な限界界隈のアジェンダの受けがいい

 

立憲や共産支持層年代たことある

もう組織支持層老いてんだよ

自民の方がまだ新陳代謝が出来てるのが野党にとって絶望的なとこなの

2025-12-02

ホロライブ激務問題

自分4期生から入ったので、かなたんがやめるのは一つの時代が終わったような感じがして非常に悲しいんだが

あいうて自分はそこまで熱量の高いファンではなかったと思うのと、いい年なので怒りとかはなくただ知ってる人が去るショックだけが残る

かなたんは所謂アイドル熱量の高いオタク気質なところがあったので、かなり辞めない派・岩盤層だと思ってたんだけど

やっぱりホロの激務問題は大きいんだと再認識した

 

離脱理由って結構いろいろあって、たまたま重なっただけだと最初は思ってたけど

何割かは同じ激務問題が絡んでいるように見える

俺のよく見ているホロメン曰く、2、3年前くらい?が一番ヤバくて、今は少し改善傾向にあると言う話だったが

ここ1年くらい卒業が相次いでいるのを見ると本当に改善しているのか疑問符がつく

 

そもそも業務委託なので、労働基準法の外にいるというか、その心配最初の頃からあったよね

このビジネスモデルは、数十人の配信者+数百人の社員構成されるわけで

どう足掻いても1人の配信者にかかる負荷は単純計算社員10人分くらいになってしま

(実際、1人に対して社員が少なかった頃は放置されていて自由にやってたと思う)

最初から分かってたことなんだ、上場目指すのが果たして良かったのか?と言うレベル最初からそれは感じていた

 

まあこういうのは何もVtuberに限ったことではない

たとえば週刊漫画だって漫画家を馬車馬のように働かせないと色んなものが維持できない

(こういうのなんて言うっけ、スターシステムみたいなビジネスモデル

もし体力がついていかなくなったら(冨樫レベルは除いて)皆去るしかなくなるんだ、むしろそれを承知でやってると思う、嫌ならやめろ他はいくらでもいるんだシステム(実際そう思ってないにしても、環境がそうさせてしまう)

Vutberはまだ「やばくなったらとりあえず長期で休む」みたいなことができる分、緩い面があるのかもしれない

ただ、数年それが続くと当然辞める人は出ちゃうよね(他方で辞めない人も大勢居るけど、このへんは吉本とかもそうだよね)

 

こういうのって実際に本人になってみないと、どのくらい非常識現実的業務量か分からないとは思うんだけど

少なくともそれで人が辞める会社一般的ブラック企業って呼ばれるんだよなあ、それが業務委託であっても

これをコントロールできないのはちょっと

 

というか、社員数が増え過ぎなんだよなあ

四半期で2割は増えてる、1年で2倍とかそういう次元

自分ベンチャー企業大企業で何社か経験あるんだけど、基本1年で倍は完全に制御を失うんだよね

考えてみて、30人の部署が1年で60人になるんだよ、1年目が半分居るって状態カオスofカオス定型業務とか、定型プロジェクトじゃないからね、新しい企画アライアンスが発生するタイプビジネスで倍は地獄

社員制御すら失うんだから、ライバーもっと制御できないんだよなあ

経営層は何でこんな焦ってるんだろう?

ひょっとしてもっと上位の企業になることをめざしてるのかな、そんな気がする

(ちなみに社員数はエニカラも多いから、そこが論点じゃないと言われたら反論できない。エニカラの方は詳しくないんだけど)

 

まあこういうの、いうて規模拡大をやめれば5年くらいで落ち着くから最初の人たちはただの犠牲ってことになるんだけどね

拡大期のベンチャーってあんま行くもんじゃないよ、採用めっちゃされやすいけど

質の悪い企画適当アサインされたりして、コア事業には絡めずに勉強くらいにしかならないみたいな(勉強になるならまだマシか)

俺もそこそこ有名なベンチャーに居たんだけど、当時の同期全員辞めてるからね、なのに今の会社の評判はかなり良いらしい笑

 

多分一部のファンは怒って「こんな会社無くなる」みたいに思うんだろうけど、それは社会ベンチャー理解していない

ベンチャーは初期勢の犠牲の上に安定運営を築くものなのでこういうのでは潰れない

潰れるとしたら人件費が嵩んでくらいだけど、現状賄えてるしね、めっちゃ安定すると思うよ

ファン新規若いファンが付くから古参勢は苦々しく思っても何も言えないみたいな、そういう思い出になっていくんだろう

まあどの界隈でもあるよね

 

____

 

ファンアクティビストになって突っ込んで行くっていうのは割とありだと思うけどどうなんだろ?

僕はお金ないしそこまで熱量もない

 

あとちょっと悲しいのは移籍というシステムがないことだね

競争が発生しないか問題が閉じる気がする

もし企業Vtuberが巨大勢力になったら、事務所を横断して演者側で組合を作るとか、ガワを維持した移籍可能化とかの流れになると思うけど、ぶっちゃけ規模がちっちゃいし厳しいだろうな、アイドルですらやれてないしね(声優はやれてるイメージ

一部で「V同士でパーティーやって悩みとか言い合ったほうが良い」って言ってる人も居るんだけど、パーティーって実はゆるい組合だよね

仕組み上どうしても孤立しがちだから正解だとは思ってる、「その必要がないくら会社ちゃんとするべき」って意見が出そうだけどそれって現代日本的であん健全ではないよな

 

____

 

あーなんかでも今回やっぱショックでかい

何でだろ、疲れてんのかな?

会長ときは笑えたんだけどな

あれか、辞めないと思ってたからか?なんかホロメンも今回様子おかしくね?

知ってるタレント病死したみたいな嫌な気分がする、初めてかもしれん

 

____

 

社員増えると演者キツくなるという仮説そんなに違和感ある?

例えばタレントキャラクタービジネスに高いと思うんだけど

タレント業ってタレントができるだけ大きいメディアパフォーマンスして、コンテンツを売るみたいなビジネスモデルじゃん?それってVで言えばYouTube配信なんだよね

キャラクタービジネスは、関連グッズを販売するイメージから商品企画コラボがメインになる

最近はこのキャラクタービジネスに近いことをしてるんだけど

Vtuberがキツいのは、このキャラクター責任者権利者が本人にあるんだよ、当人無視して進められない、結果ボトルネックになる

最近は1人あたりの売上が4億円くらいらしいんだけど、考えてみてよ平均4億円の企画が走る状況

 

まあだからこそホロアースで稼ぎたいのかもしれないけどね

2025-11-28

anond:20251128110913

はいリベリベで社会主義弾圧されまくりましたが、経済の活力はあった

そもそも自由主義は「小さな政府」を望み、社会主義と違って徴税は、なるべくしてほしくないのだから

  

北欧社会主義経済は二つに分断されていて

 a) 生産性が高く高賃金だが、スパスパレイオフする民間企業

 b) 民間より低賃金だが、日本の3-5倍の人数がいる公務員

後者第一段階のセーフティネットになっている。

b)はもともと最低賃金なんだから国鉄のように、わざわざ民営化という話にもならない

 

日本場合、こうなっていて

 a) 生産性が高いが解雇規制のため、下請けに投げまくる大企業

 b) 大企業多重下請け利益は薄いが、政府から補助金を貰う中小企業自民岩盤支持層

 c) 解雇はされにくいが、たまに民営化という形で吹き飛ぶ公務員

そもそも解雇規制を緩和して、北欧モデルに移行したほうがいいんじゃないかという

 

中国のように国が被投資を仕切っても問題なかっただろう。

日本でも幕藩体制のころは、藩が直営ビジネスを持っていた。

中国ではその状況が、現代でも続いているわけやね。

直営ビジネスであろうと、レイオフを解禁し、賃金民間と同一とすれば、国鉄破綻せずに済んだ未来もあったのだが。

 

社会主義といっても、ロシア東欧のような、腐敗国家社会主義指向している訳じゃないでしょ?

2025-11-13

anond:20251112150042

立憲信者の脳って本当に認知が歪んでるんだな

いつまで経っても一定数の立憲支持者がいなくならないのが不思議だが、

一定数の先天的に脳に障害がある人が産まれてくるので

その中から立憲の岩盤支持層が産まれてるんだろうな

立憲が公式サイトで前々日に通告するよと名言しているのに守らなくて良いとか言ってるのもおかしいし

そもそも官僚ワークライフバランス改善のために早めに出せという話の根幹をシカト決め込んでいて卑怯まりないんだよな

まともな脳みその人ならとても立憲を支持できないの

2025-10-27

宮城県知事選挙村井和田に勝ったのは高市早苗のおかげ

今回の宮城県知事選挙自民党系の村井参政党系の和田、立憲・共産党系遊佐の争いだった。

参政党の全面支援の入った和田が最終盤で追い上げまくってて、あの勢いのままなら村井を追い抜いてておかしくなかった。兵庫県知事選挙再現を見ているように。

選挙期間中に高市早苗総理総裁になって、村井支援に入った。報道の通り高市早苗支持率は極めて高く、特に若年層の支持率が急回復している。これによって岸田と石破で参政党に逃げた票田のうちの一部が戻ってきてくれてなかったら、和田が勝っていた可能性が高い。

いわゆる岩盤保守層自民が握っていてくれないと困る。マジで

2025-10-11

anond:20251011122243

それ大半の自民党員も大賛成する良いアイデアだと思うんだよね

麻生派と旧安倍派だけの自民党にしたら日本人全員が支持するはず

って岩盤保守信者は本気で信じてるんでしょ

2025-10-04

保守最後岩盤が崩れる時

これで高市が失脚した暁には、日本保守が崩れ落ちるだろう

参政党も日本保守党もただのエセ保守レイシストに過ぎんし

2025-09-22

決選投票高市小林自動的に一本化されるようなものからまあ勝つだろう。

ももし何かのはずみで進次郎になったらもはや安倍政権を支持した「岩盤」と言われた支持者は残らないだろう。自民終了

2025-09-14

anond:20250914094500

岩盤保守層岩盤支持層ではなく?

自民支持してるけど差別主義者や陰謀論者は別に戻ってこなくていいよ

から邪魔だったし

政治興味ないけどなんとなく自民でいいよねっていう無党派層を取り込まなきゃだめ

それには時間かかるからしばらくは少数与党で頑張るしかないと思う

自民党最近選挙で敗北続きなのは

二次安倍政権時の時まで自民党を支持していた岩盤保守層存在がある。

その岩盤保守支持層が、自民党から離れていってしまたから。

去年9月自民党総裁選で石破総理誕生したのが、そのタイミングである

同年10月の衆議院総選挙自民党は敗北し、7月の参院選でも敗北した。

要するに岩盤保守層が離れた原因は、石破さんが総理総裁になったかである

「本当は自民党投票したいが、石破だけは絶対に嫌だ」

これが岩盤保守層本音ではないか

そして、自民党の支持を辞めた岩盤保守層国民民主参政党に流れた。

今後自民党解党的出直しをする気だったら、この岩盤保守層自民党に取り戻さなければならなくなる。

というわけで、次の新総裁に選ばれるべきなのは一人しかいないよね。

2025-09-09

anond:20250909105655

実際にはこれまでの「保守層」は自民支持のままなんだよ

自民から離れたと言われている「岩盤保守層」ってのは安倍政権以降に出てきた新興の過激派のことであって

そんなものを取り戻しにいく理由自民党には無いんだよ

石破政権下で、自民岩盤支持層国民民主参政やニチホに分散流出してしまった。

高市総裁になりさえすればみんな戻って来るというわけでもなく

岸田と石破によって既に自民は命脈を絶たれたのかもしれない。

こうなると国民民主首相ポスト差し出して連立お願いするぐらいしかなさそうだが

玉木らは自公脆弱与党のままにしておいてフットワーク軽い立場で適宜コントロールするのを望みそう。

高市はガタガタ自民を率いてペコペコ頭下げてまわるしかなく自民の低迷は続きそう。

そんなジリ貧コースよりは進次郎のミーハー人気で一発逆転や〜と考えるバカ自民内部には多いかも知れない。

2025-08-27

anond:20250827191242

その「端っこの尖った連中」ってのがいわゆる「岩盤支持層」っていう安倍きっかけのニワカ保守層のことね

もともとの自民支持層に加えて岩盤支持層が1割ぶんくらい増えるだけで選挙ではわりと勝てるわけよ

今回の参院選岩盤支持層が流れた参政党があれだけ勝ったみたいにさ

選挙得票数とか見てみ

安倍時代が多いかって言ったらそうでもないからさ

2025-08-04

anond:20250804182354

岩盤支持層」って「昔から自民党支持者」みたいな意味で使われてるけど実際には「安倍を支持してたニワカ」のことだよな

anond:20250804182136

自民党支持者なら、安倍ちゃん総理に何があっても(官僚自殺しても)擁護した岩盤支持層の正体が「陰謀脳の馬鹿ウヨク」だったことはわかってるでしょ

2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

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