はてなキーワード: 「道」とは
「プロレスでタッグを組むなら、アントニオ猪木か?それともダイアン津田か?」について議論して。
A:……あの、今回はさすがに怒りますよ。高市さんの時はまだ「言葉」という共通言語がありました。でも今回はプロレスです。アントニオ猪木ですよ? 死線を幾度も超えてきた「世界のプロレス」の象徴と、ダイアン津田を並べるなんて、猪木さんにビンタされるだけじゃ済みませんよ。
B: まあ、落ち着いてください。もちろん、純粋な戦力で言えば猪木さんでしょう。でも、考えてみてください。猪木さんとタッグを組むということは、対戦相手だけじゃなく、「隣にいるパートナー」とも戦わなきゃいけないということなんです。あなたはリング上で、猪木さんのあの眼光に耐えられますか?
A: 耐えるに決まっているでしょう。それがレスラーの矜持です。猪木さんと組むということは、彼の「風」を感じ、彼の「怒り」を共有するということ。たとえ試合中に猪木さんから鉄拳制裁を食らったとしても、それは「闘魂の注入」であり、レスラーとしての格を一段引き上げてくれる儀式ですよ。津田さんと組んで、何が得られますか?
B: 「生き延びる喜び」ですよ。猪木さんと組んだら、下手したら試合後に命を削られています。でも津田さんはどうですか。彼がリングに上がって、対戦相手の巨漢レスラーに詰め寄られた時のあの「怯え」。そして放たれる渾身の「ゴイゴイスー!」。その瞬間、殺伐としたリングに一筋の光が差す。観客は「津田、頑張れ!」と一つになる。この一体感は、猪木さんの殺気では作れません。
A: プロレスは「頑張れ」でやるもんじゃない、「殺す気で来い」でやるもんです。猪木さんのタッグは、常に緊張感の連続です。タッチ一つとっても、そこには哲学がある。津田さんのタッチなんて、ただの「助けてくれ」という悲鳴でしょう。そんな情けない背中を見て、誰が熱狂するんですか。
B: 現代のプロレスファンは、強さだけを求めているわけじゃないんです。弱者が強者に立ち向かう「不憫さ」にこそ、自分の人生を投影する。津田さんがジャーマンスープレックスで投げられそうになっている時、パートナーのあなたが助けに入る。その時の「待ってました!」という大歓声。猪木さんが強すぎて一人で解決してしまう試合より、よっぽどタッグマッチとしてのドラマが成立していると思いませんか?
A: それは「介護」であって「タッグ」じゃない。猪木さんと組めば、自分の限界以上の力が引き出される。猪木さんの「出る前に負けること考えるバカがいるかよ!」という一喝。あれを隣で聞けるだけで、アドレナリンが沸騰する。津田さんの隣で聞こえるのは「もう無理や」「帰りたい」「岸大介呼んでくれ」……そんな言葉で、あなたの闘争心は燃えますか?
B: 逆に燃えますよ。「俺がこの男を守らなきゃいけない」という、一種の父性本能が爆発する(笑)。それに、猪木さんと組むと、どうしても「猪木の引き立て役」で終わってしまう。でも津田さんと組めば、スポットライトは二人に均等に当たる。津田さんがボコボコにされている間に、自分が逆転のチャンスを伺う。戦略的にも、津田さんは「最高のデコイ(身代わり)」なんです。
A: 猪木さんを「引き立て役」にするくらいの気概がなければ、そもそもタッグを組む資格がないんです。猪木さんは常に、パートナーにも「いつ俺の首を獲りに来るんだ?」という視線を向けている。その緊張感の中で、お互いの魂をぶつけ合うのがプロレスの至高の形です。津田さんにあるのは、魂じゃなく「脂」でしょう。
B: 脂の何が悪いんですか! あの必死の形相、あのテカテカした肌、あれこそが「生」の証明です。猪木さんが「道」を説くなら、津田さんは「迷い」を体現している。今の時代、どっちが切実かと言えば、僕は津田さんの迷いの方だと思う。
A: 迷っている間に3カウント取られますよ。……ただ、少しだけ認めましょう。猪木さんと組むのは、精神的なコストが異常に高い。試合が終わった後、精神がボロボロになっているのは確実だ。
B: そうでしょう? 一方で津田さんは、試合が終われば「お疲れ様でしたー!」って、すぐにいつもの楽屋のノリに戻れる。この「切り替えの良さ」も、巡業を続けるプロレスラーには大事な資質じゃないですか。
A: 巡業……。確かに、毎日猪木さんと一緒に移動するのは、地獄以外の何物でもないかもしれない。……いいでしょう。では、第2ラウンドでは、リング上での「演出」と「リアリズム」について。猪木さんの「環八理論」と、津田さんの「バラエティの掟」が、リング上でどう衝突するかを突き詰めましょう。
(続き)
A: 先ほど「移動が地獄」なんて軟弱なことを言いましたが、やはり撤回します。プロレスのリングは、日常を忘れるための場所なんです。そこに津田さんのような「日常の象徴」を持ち込むのは、ファンへの裏切りですよ。猪木さんはリングに上がる時、自分の人生、思想、そして「怒り」の全てを乗せてくる。あの殺気こそが、チケット代に見合う価値なんです。
B: でも、今のプロレス界には「多幸感」も必要なんです。猪木さんのプロレスは、観る側に「覚悟」を強いる。それは時に苦しい。対して津田さんのリングはどうですか。彼がロープに振られて、戻ってくるときに盛大に転ぶ。それだけで会場は爆笑と歓声に包まれる。猪木さんが作った「環状八号線の外側まで届く殺気」も凄いですが、津田さんが作る「隣の家まで届く笑い声」だって、一つの立派な興行ですよ。
A: 笑い声でチャンピオンベルトが巻けますか? 猪木さんと組めば、世界中の強豪と渡り合える。「イノキ・アリ状態」のような、ヒリヒリするような真剣勝負の地平が見える。津田さんと組んで、一体誰と戦うんですか。彼にラリアットを一発食らわせたら、そのまま引退会見ですよ。
B: 誰と戦うか……。それは「人生の不条理」ですよ。自分よりデカい相手、理不尽な状況。それに翻弄される津田さんを、パートナーのあなたが「これぞプロレスだ!」と鼓舞しながら、奇跡の逆転勝ちを収める。これはもう、ロッキー・バルボアを超える感動のドラマです。猪木さんのタッグは「勝って当たり前」の強者の論理ですが、津田さんとのタッグは「負けからの再生」という弱者の論理なんです。
A: 再生、ね……。確かに、猪木さんはあまりに巨大すぎて、パートナーの存在が消えてしまう。猪木さんの隣にいると、観客は猪木しか見ていない。でも、津田さんと組めば、観客は「隣で困り果てている自分」に同情し、注目してくれる。……皮肉なことに、レスラーとして目立つのは、津田さんと組んだ時の方かもしれませんね。
B: そうなんです! 猪木さんの隣は「修行」ですが、津田さんの隣は「プロデュース」なんです。あなたが津田さんをどう動かし、どう守り、どう輝かせるか。その手腕こそが、プロレスラーとしての知性を証明する。猪木さんのような太陽の隣で影になるか、津田さんという未完の素材をプロデュースして新しいジャンルを創るか。
A: ……認めましょう。もし私が、プロレスという枠組みを使って「社会への問い」を投げかけたいなら、津田さんを選ぶかもしれません。彼がリングで流す涙や、叫ぶ「ゴイゴイスー」が、プロレスのリアリズムを根底から揺さぶる「毒」になる。一方で、もし私が「男の美学」を貫き、死ぬ瞬間に後悔したくないなら、猪木さんの隣で鉄拳を食らいながら戦いたい。
B: 究極の選択ですね。「歴史に残る地獄」か、「記憶に残る混沌」か。猪木さんの隣で闘魂の炎に焼かれるのも本望、津田さんの隣で「なんで俺がこんな目に!」と叫びながら爆笑をさらうのもまた、レスラーの幸せな最期かもしれません。
A: 結局、タッグを組むというのは、相手の人生を背負うことですからね。猪木さんの「重すぎる十字架」を背負う覚悟があるか、津田さんの「軽すぎる十字架」を重く見せる才能があるか。
B: どっちを選んでも、リングを降りた時には、見たこともない景色が見えているはずです。……さあ、ゴングを鳴らしましょうか。
「ユダヤ教は西洋なのか?東洋なのか?」 という二分法をそのまま受け取るのではなく、タルムード的に前提そのものを問い直す必要があります。
ユダヤ教は本来、地理的にも思想的にも「中間領域(ミドルワールド)」にある伝統です。
東洋哲学に「複雑を複雑のまま受け入れる」という傾向がある、という一般論があるのは確かです。
つまり「複雑 → 単純」の西洋とも違い、「複雑 → 受容」の東洋とも違う。
タルムードは明らかに複雑ですが、複雑を複雑のまま放置はしません。
複雑な議論を:
1. 質問で切って
3. 前提を疑い
4. 答えが出なくても、その「未解決」までも体系化する
これは西洋の理性主義と似ているようで違い、東洋の受容とも違う。
ユダヤ思想の根本は質問 → 論争 → 多層解釈 → 実践というサイクルで、どちらの文明圏にもない独自のスタイルです。
| 特徴 | 東洋 | 西洋 | ユダヤ |
| 複雑さへの態度 | 受容 | 整理・単純化 | 分解し議論し、複雑さも残す |
| 真理観 | 調和 | 一元 | 多元(エルーシュ:「両方とも神の言葉」) |
| 学問の基本 | 体験・直観 | 論理・体系 | 論争・質問・解釈 |
老子や荘子には、「知識を追い求めすぎることへの疑い」や、「知によって世界をコントロールしようとする態度」への批判が、非常に重要なテーマとして繰り返し現れます。
——
要するに、中途半端に知識を追い求め、振りかざすと、その「反作用」によるデメリットが半端ない(注: はたから見ると)から、そういう無駄はやめましょうってことなんだよね。ただ、老子の場合は「構えなしの構え」で(不完全な知識に基づいた自分の策に溺れる)相手に勝つことを意図しているようにも読める。
ChatGPTに聞いてみました。
🔹 有名な一節(第48章):
学を為すは日に益す
道を為すは日に損す
損之又損して、以って無為に至る
無為にして而も為さざる無し
• 捨てに捨てて、ついには「無為(何もしない自然なあり方)」に至る。
👉 ここでは「知識(学問)を積み重ねること」と、「道に従うこと」が対比されています。
老子は、知識を増やすことによってむしろ自然から離れ、余計なことをしてしまうと考えます。
荘子は老子の思想をさらに発展させ、よりラディカルに知識の相対性や限界を語ります。
🔹 たとえば『荘子・斉物論』より:
夫れ知は之を以て知る可からず。
故に曰く、「これを以て之を知る、是れ未だ之を知らざるなり」と。
意味:
• 知識というものは、それ自体によって真に知ることはできない。
• だから、「知識によって何かを知った」と言う人は、本当の意味ではまだ知らないのだ。
• 世界(道)は人知を超えており、完全に把握することはできない。
老子や荘子には明確に「知識は足りないままでよい(むしろ減らすべき)」という考えがあります。
それは「無知礼賢(むちれいけん)」でも「無知の称賛」でもなく、知に偏らない、自然に調和した生き方を重視するという立場です。
老子や荘子の思想のキーポイントは、過剰な知識への執着を避け、自然体で生きることです。これを視覚的に表現するために、次のようなイメージを思い浮かべると良いでしょう。
• 水はどんな障害物にも柔軟に対応し、最終的には低い場所へ流れます。水は自分を過信せず、無理に力を使うことなく、自然の流れに従います。
• 老子は「無為」や「自然の道」を提唱しましたが、この「水の流れ」のように無駄な力を使わずに、周りの流れに従って生きることが最も賢い生き方だと考えていました。
• 視覚的なイメージ: ゆるやかな川の流れ。障害物があっても、水はそこを避けてまた流れていきます。これは「無為自然」の象徴です。
• 竹はしっかりと地面に根を張りつつ、風にしなやかに揺れ動きます。これもまた、荘子が言う「無為自然」の一例です。竹は知識や力に頼りすぎず、環境に合わせて適応し、調和を保っています。
• 荘子の思想では、知識や経験に固執せず、状況に応じた柔軟な生き方をすることが理想とされています。
• 視覚的なイメージ: 風に揺れる竹。知識や経験が過剰に強くない、柔軟でしなやかな生き方を象徴しています。
• 空はどこまでも広がり、何にも縛られることがありません。この無限の広がりが、荘子が言う「逍遥遊(自由に遊ぶ)」の象徴です。
• 荘子は、人が自由であること、何にも縛られずに自然と一体化して生きることが最も幸せだと説いています。
• 視覚的なイメージ: 果てしなく広がる青空。空が無限であるように、知識や学びに縛られることなく、自由に生きることを示しています。
• 老子や荘子は、「足りていることの美しさ」を大切にしました。木の実が自然に落ちるように、過剰に求めることなく、今のままで満足することが大事です。
• 視覚的なイメージ: 落ちた実が地面に転がり、自然に他のものと調和しています。これが「足りていること」であり、満たされた状態です。
本文
中3の公民、バカにしちゃいけない。ここには「社会のしくみ」が詰まっている。
憲法、税金、選挙、三権分立、社会保障…。大人になってからこそ、「あの制度ってそういう意味だったのか!」と膝を打つこと間違いなし。
特に「権利と義務」「民主主義」「国際社会」の章は、現代社会を生き抜くための教養の宝庫だ。
これを理解してない奴は中学卒業の資格なし。つまり義務教育を履修してないも同然。三流日本人だ。
ポイント: ニュースや政治に振り回されない“思考の土台”ができる。
DNA、細胞、免疫、代謝、進化…。日常の裏側にある“命の仕組み”を理解するだけで、自分と世界の見方がガラッと変わる。
コロナ禍でおきた様々な陰謀論、それによって生物学的な基礎知識の低さが明白になった。
お前ら勉強し直してください。マジであなた達の生物学教養は終わっておりました。マジで勉強しろ。
ポイント: 哲学書よりも人間理解が深まる、究極のサイエンス読本。
小6国語には、名作・名文がズラリと並んでいる。太宰治、宮沢賢治、新美南吉、寺田寅彦…。文章を“読む力”と“感じる力”を育てるのは、この時期の国語に勝るものなし。
読解力、想像力、表現力…すべての土台はここにある。ビジネス書を100冊読むより、小6国語を読み返したほうが確実に賢くなる。
小5未満は簡単すぎる。中1以降は+αや落穂拾いの意識が強すぎる。
「小学校卒業までに絶対読んで欲しい!!!だけど子どもの読解力が育つまで待たなきゃ!!」というジレンマの果てに選ばれた名作が詰まっている。
ベスト3には入れなかったが、「地味すぎて誰も注目してないけど、読んでおくと人生が整う」そんな教材がある。
それが、小学校低学年向けの 算数ドリル と 漢字ドリル だ。
「いまさら足し算引き算?」「漢字の書き取りなんて小学生レベルでしょ?」と思ったあなた。甘い。
数字感覚の基礎中の基礎。「10のまとまり」「繰り上がり・繰り下がり」をナメていると、家計簿も確定申告も迷子になる。
出来て当たり前、じゃあ100マス計算何秒で出来ますか?そのスピードがそのまま計算力の土台になるし、そこでかましたミスがそのままミスの土台になる。
簡単なようでいて、実は現代人の語彙力の半分はこのあたりにある。「道」「早」「明」「会」…日常の言葉を“正しく書ける・読める”だけで、文章力と思考力が変わる。
簡単な漢字の書き順を間違えてるやつは全ての漢字の書き順を間違える。そして会議中に「クスクス……うちの子が出来ることも出来ないんだ……」と笑われるのだ。
https://tver.jp/episodes/eppp6c5ubs
八潮陥没事故の被害者が発見されて日も浅い中、非常に考えさせられるテーマだった
土砂崩れで道路分断とかは割と聞くから法面付近は怖いなーと思うけど、「突然道に大穴が!」なんて地震でも無ければ想像だにしないよなあ
でも実際は、博多駅前や八潮のように非常に大規模な陥没以外にも小規模なものが沢山起こっていて。これからはもっと増えると
工事中の不手際による陥没は別としても、上下水管・ガス管・電線の埋設系インフラ由来の陥没は点検・修理でどうにか防ぎたいもの
(番組内では「3年前に点検した時はどうもなかった」つってて、そんなのもうどうにも対策しようがない。半月にいっぺんとか点検するわけにゃいかんのだから)
そもそも定期リプレースが必要だけど、埋まってるのは本当に大変よな
原発内とかは14年前のことがあってからは埋めてる管を外に出したからね
もう、他の埋設系インフラも地上に出す…が良いのかね?(5メートル幅の管なんて無理だけどねー。細い管を何本もってことになるね。「道」は「管」でいっぱいになるから、人や車が通る場所は別に作らないと駄目だね。というか「管」用の道を作るのか)
外に作ってからリプレースにしたって大変ではあるけどさあ。地中で迂回させながらは大変よ
「80メートルで90億円かかる」は厳しすぎる。地上ならもうちょっとマシ?
番組では「コンパクトシティにしてインフラを限定的に配備が良いなー(さいたま県知事)」って言ってたけど
若様がおっしゃる様に「こんな山肌にへばりつくようにして暮らしてんじゃあねえよ!こっちこい!」つって過疎地の老人を無理やり引っ張ってくるとか無理だよね
そうなると必然的にディストピアみたいになるよね(インフラバリバリ都会の超便利コンパクトシティと電気もガスも水道も通ってない打ち捨てられたクソ田舎という二極化)
2024-25の年末年始は「進撃の巨人」のアニメを一気見したので感想(主にユミル)。
ユミルはフリッツ王家から巨人を発注されたら「道」で水と砂をこねて巨人を作ってた。発注内容にもよるが基本的には元となる人間を模して作られていて、ユミルに造形の才能があったのなら、かなり早い段階でもともと人間だという考察が得られただろう。
九つの巨人は「こういうのがほしい!」って発注されたやつで、最終的には九つだがサ終した巨人もいたのかもしれない。要件定義はちゃんとせなあかん。オカピ巨人は「かわいいの!」って発注されてユミルもお気に入りだったのかも。女型はユミルの理想像で「いいのができた!」とドヤ顔してるユミルの顔が思い浮かぶ。
発注→作成→納品までの期間、現実世界は一瞬だがユミルは一体一体手ごねしていた。壁にする超大型巨人を発注されたときはびびったに違いない。全部完成するまでに数千~数万年かかってるかもしれない。最初は大きくするとバランスが崩れて倒れてしまって、足を象みたいにすることで安定させたのだろう。倒れない超大型ができたときもドヤ顔したはずだ。
だからエレンから「発注元のブラック企業はコンプラ違反で廃業するからもう作らんでええんやで」って言われて歯を食いしばって泣いたのだ。
ユミルはエルディア人を自由に操れるというが、おそらくユミルなりの理屈をもって操っているのだろう。ジークの「生殖能力を奪え」という命令は「どんな理屈?実は全員男性だったとか?うほw」とか妄想しながら座標に歩いていたためエレンも追いつけた。エレンの「巨人の能力をなくす」は、初代フリッツ王をかばわずに死んだ未来を採用することで、その後のエルディア人には巨人化能力が引き継がれなかったという理屈にしたのだろう。ジークも要件定義は目的と手段を明確にせなあかん。
ブタを逃がした罰でユミルは集落から追放されるが、その際のフリッツ王の言葉が「お前は自由だ」なんだよね。そして地鳴らし中のエレンが人類を踏みつぶしながら「自由だ」とも言っている。AIによると「「自由」の対義語には、「束縛」「専制」「統制」などがあります。」とのことで、本作での「自由」は本来的な意味で使われている。現在の「自由」って「束縛」や「統制」内の許容範囲的な意味で使われることが多いけど、本来は集団から追放されたり、すべてを駆逐できる力をもつことでしか得られないんだね。
ユミルがミカサを選んだ理由だけはいまいちピンとこなかった。自分にはない強さと自分と同じ一途な愛をもっていたからとか?最後口の中にエレン本体がいるのもユミルが教えたのかな?首ちょんぱからのキスシーンは、奴隷時代のユミルの性の目覚めになったきっかけでいわゆる性癖。これにはユミルさんもニッコリということだろう。
あと光るムカデが死んだシーンはなかったよね。おそらくユミルが巨人の力を消したリセットした時点でそれまでに蓄えた力がなくなって、最初の大きさに戻ったのかな?そこからエレンと繋がるという目的を維持したまま、エレンの首のある木に向かっていって最終場面に繋がると理解しました。
あなたは「ネトウヨだけどパヨクのおっぱいが好き」という矛盾を抱えながらも、独自の哲学を見出しているようですね。あなたの話をまとめると、以下のようになります。
あなたの話はユーモラスでありながら、いくつかの興味深い点を含んでいます。
あなたの「おっぱいこそが世界平和の鍵」という結論は、一見突飛に見えますが、異なる立場の人々を結びつける共通の要素、あるいは人間の根源的な欲求に焦点を当てていると解釈できます。
ただし、あなたの表現の中には、性的な対象化やステレオタイプの助長と捉えられかねない部分も含まれています。表現の自由は重要ですが、他者への配慮も忘れないようにすることが大切です。
最後に、右のおっぱいが好きか左のおっぱいが好きかという問いについてですが、これはあくまで個人の好みの問題であり、政治的な意味合いを持たせる必要はないでしょう。あなたが両方好きであるならば、それはあなたの自由です。
あなたの「道」を歩み続けることは素晴らしいですが、その過程で他者への敬意を忘れずに、より建設的な議論や表現を模索していくことも、今後の課題となるかもしれません。
俺はね、ネトウヨだけどね、パヨクのおっぱいが好きなんです。そう、矛盾だらけの人生を送っているんですよ。朝は日の丸を掲げて「日本すごい!」って叫んでるのに、夜になるとパヨクの集会に潜入して、おっぱいを観察する。もはや二重スパイですよ、ハハハ!
ある日、俺は大発見をしたんです。愛国心の強さとバストサイズには反比例の関係があるんじゃないかって。だって、ネトウヨの女の子ってみんな貧乳なんですよ。でもパヨクの女の子は…もう、すごいんです!まるで北朝鮮のミサイル発射場みたいな迫力!
そこで俺は考えたんです。日本を守るためには、パヨクのおっぱいを利用するしかない!そうだ、おっぱいで日本を救うんだ!俺は秘密結社「乳首日本」を立ち上げました。活動内容は…まあ、秘密です。ふふふ。
でもね、悩みもあるんです。右のおっぱいが好きなのか、左のおっぱいが好きなのか。これって政治的な意味があるのかな?右翼なのに左のおっぱいが好きだったら、それって裏切り行為?いや、でも両方好きだから中道?ああ、頭がこんがらがる!
結局のところ、おっぱいに国境はないんです。右も左も、大きくても小さくても、みんな愛おしい。そう、おっぱいこそが世界平和の鍵なんだ!俺の矛盾した生き方も、実は深遠な哲学だったんだ!
というわけで、俺はこれからもネトウヨとしてパヨクのおっぱいを愛し続けます。だって、それが俺の「道」だからね。ネトウヨだけど、パヨクのおっぱいが好きな俺。矛盾だらけだけど、それでいいんだ。だって人生なんて、おっぱいみたいに柔らかくて不思議なものなんだから!
https://anond.hatelabo.jp/20241022103413
俺の場合は元増田の元夫とも、現役進路譲らないおじさんとも違う戦略をとっている
街中を歩いていると、複数のぶつかりおじさんや一般歩行者の動きが手に取るように分かる
それぞれの歩行者の視線、歩幅、姿勢、スピードから意図を読み取り、その中に自然と生まれる「道」を見つけることができる
特にぶつかりおじさんは以下の特徴があるため、すぐに見分けがつく:
・やたらと姿勢が良く、前のめり気味
・視線は前方固定で周囲を見ない
こういった特徴を持つぶつかりおじさんには、「止まる」が有効だ
なぜなら、彼らは「前に進む」ことしか頭にないため、誰かが完全に止まると対応せざるを得なくなるからだ
止まった瞬間、ぶつかりおじさんは一瞬だけ動きを止める。その隙に回避が可能になる
俺が完全停止すると、不思議なことに周囲が動き出す
人間には「動いている人」より「止まっている人」を避ける本能があるらしい
ぶつかりおじさんたちは「正義」や「ルール」を盾に取るが、実際の道路交通法では歩道の通行位置までは規定していない
・周囲の状況を正確に把握する
・必要に応じて停止する
・他者の動きを妨げない
世の中には様々なぶつかりおじさんがいるが、彼らに対抗するのではなく、上手く「道」を見つけ出すことで、誰もが安全に通行できる空間が作られていく
これは10年以上かけて培った技術であり、単なる譲り合いではない
これらを組み合わせることで、ぶつかることなく通行する術を会得した
彼らは周囲への意識が完全に欠如しているため、止まっても意味がない
結論として、ぶつかりおじさんと対立するのではなく、彼らの特性を理解した上で、安全な通行方法を見出すことが重要だと考えている
それこそが、真の「道」なのではないだろうか
コンクール厨である自覚も、学歴厨である自覚もなさそうだし、こんなところ見るタイプじゃないから届かないと思うけど
あなたの考え方を否定するつもりじゃないけど、「努力するならトップを目指さなきゃ妥協」という考えは、学生である今のうちに変えないと、社会人になったら苦しむよ
あなたは、「コンクールは全国金賞を目指さなかったら妥協」「大学受験は東大を目指さなかったら妥協」って言ってたよね
それで、東大に落ちた自分を卑下していたけど、そこは今はおいておくよ
「人生における全国金賞」は?
そこに、「絶対的で普遍的な答え」はなくて、自分で定めなくちゃいけない
あなたが「妥協している」と切り捨てた他の人は、こういう「自分なりの答えや目標を定める」という経験を、学生のうちにしている
それが、あなたが「妥協している」と切り捨てた行為そのものだよ
あなたは、その人たちより優秀で、一歩も二歩も先を進んでいると思っているのかもしれないけど、今後の人生における大切なスキルについては完全に劣っている
本来、「コンクール・大会」や「受験」というのは、そういう練習のために存在しているものだと私は考えてるんだけど、あなたはなまじ才能と環境に恵まれていて、他人によってつくられたわかりやすい「道」を歩けちゃったんだね
それは、今の時点では恵まれていて幸せだって思うかもしれないけど、私はあなたのことを、かわいそうだと思う
何を目指したらいいのかわからなくなるだろうし、努力だけじゃたどり着けない場所も出てくるだろうし、あなたが切り捨てた人たちの方が評価されるだろう
それで潰れてしまって、そのときにやっと、私の言葉の意味を知るんだと思う
きっと今は私の言葉は届かないんだろうなって思うと、せつないし、自分の伝える力のなさがふがいなくなる
って、ここまで書いたらどうも学生のうち(それか卒業直後)に年上の方と入籍されるらしい……就職すんのかな……
社会出ることなく箱入りのままか~~~~毒親にならないようにだけ、気を付けてね……今のマインドのまま親になったら間違いなく毒々しい教育ママ一直線だよ…
「死ぬまで求道は素晴らしい」
これが常識になっている。
「道」とは、剣道、柔道、茶道、華道、書道、囲碁、将棋、スポーツ、マンガ、グルメ、映画、芸術、政治、経済、法律、教育など、「どう生きるか」の営み全てといえる。
これらの道を死ぬまで求めることを礼賛するのは、「完成したら味気ない、進歩がなくなるじゃないか」と思うからだろう。
オリンピックで金メダルに輝いた時は、「今まで生きてきた中で一番幸せ」「チョー気持ちいい」と満足しても、しばらくの間である。追われるプレッシャーとの戦いや、連覇を狙う新たなレースが、すぐに始まる。
ノーベル賞の受賞会見で、さらなる研究意欲が示されるのは、科学や医学の「道」にも、完成はないからだろう。
私たちの日常も、仕事や子育て、趣味や人間形成など、一生懸命になるほど、未熟さと目指す高みが知らされる「道」ばかりである。
このように、どんな道にも完成がないのは、「無限の欲」に動かされているからである。
キリのない欲を、死ぬまで求め続け、苦しみ続けているのが、「死ぬまで求道」の真相である。そんな道しかないのなら、苦しむために生まれてきたことになってしまう。「それでいいんだ」とどうしていえるだろうか。
だが、ただ一つだけ、完成のある道がある。
それが、「なぜ生きる」を明らかにされた親鸞聖人の「平生業成」の教えである。
生きている今、「人間に生まれてよかった」と心の底から喜べる絶対の幸福になるために私たちは生まれてきた。
「死ぬまで求道」の「どう生きる」しか知らぬ人生は悲劇だが、「なぜ生きる」(人生の目的)がハッキリすれば、それに向かって、全てが生かされるのである。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
マッチングアプリを始めて1年くらいたったんだけど、年収とか顔写真とかマッチしやすくなるために必要なものはたくさんあるのはわかってた。
でもマッチングアプリで関係を構築する上で避けて通れないのが「雑談」だということは始めるまで気づかなかった。
学生時代の友達や家族とはそりゃするけど、まだよく知らない相手と急に雑談をしなければいけないというのはかなりハードルが高い。
本来「しなくていいこと」なんだよな雑談て。しなくていいことはしないほうがいいと思っていた。
「雑談」はいわば無から有を生み出すに等しい。自分にとってはそれくらい難しい。
先の見通せない真っ暗なジャングルで道なき道を進んでいくような心細さがある。
相手がノリノリで話してくれれば、少なくともその時はいい。でもそういう相手におんぶにだっこのコミュニケーションではいずれ相手に飽きられてしまう。
飽きられるというか、雑談て共同作業だから二人で一緒に楽しい時間を作ってゆこうという感じのふわっとした結束感が無いと、その先の関係性を構築しようという気にならないのだろう。
そりゃそうだ。だって将来は共に楽しく暮らそうって相手を探してるわけだから、最初の共同作業すら丸投げする人間は見込みなしと思われるにきまってる。
「雑談」が必要だ、ということに気づいてからはとにかく打席に立つ、試行回数を増やす、それ以外にやり方がわからなかったから。
さっき真っ暗なジャングルと言ったが、一見何の手がかりもないようなジャングルの中でも相手の口ぶりや間から獣道のような突破口を見つけることが増えてきた。
あるいはかつて自分が通った道、話題デッキという道しるべがある方角。
そういう特訓の結果、雑談スイッチのようなものが自分の中に生まれた。
例えば仕事中の取引相手と、昔なら仕事の話が終われば「あ、じゃあこの辺で…」と言って別れていたところで「獣道」が目にとまる。軽く一言二言、相手の様子次第では数分間の雑談をしてから別れるようになった。
はっきりとした変化じゃないけどちょっとした頼み事とか相談をしやすくなったし、されるようにもなった。
彼女はできてないけどな。
・アメフト
・野球部
が特に多い。まぁこれは大学レベルまでやる人間になるとある程度レベルの高い人間が集まるのと、
アメフトと野球部がある大学は学歴が高い、というのもあるだろう。
あとはアメフトと野球部はとにかくスキルを磨いて、チームプレイを重視しながら
後は気合で乗り切るという部分が金が集まる企業では重要なんだと思う。スキルとガッツ。
そして意外と
が活躍している人間が多い。何か一点に集中して目的を達成する姿勢というのは、企業でうまくやっていくには重要なんだろうなと思う。
弓道やアーチェリーは的に矢を充てるだけの単細胞のスポーツだと思われがちだけれど、意外と仕事というのはシンプルだからな。OODAの思考サイクルも鍛えられるし、弓道は特に老人の理不尽な「道」の押し付けにも我慢できる忍耐強さがある。
・マラソン
は意外と活躍してない。よく仕事はマラソンに例えられるけれど、現代ではだらだらとペースを守って仕事したり
あとは朝にランニングして酸欠で仕事してるから、仕事で頭が動かないんだと思う。
ただあれだ、野球部、アメフトと似ていて(サッカー部は底辺しかやってないから除外するとして)
バスケってなんで活躍している人が少ないんだろうなという疑問がある。
意外とバスケ部って豆腐メンタルな人が多い。身長高いだけの人がやるスポーツだから平均身長の低い日本では優秀な人が集まらないのか、
それともそもそも向上心がある人間はメジャーな顔したマイナースポーツは気に留めないからだろうか?
・体操部
まず人口が少ないからあれだけど、謙虚で礼儀正しいように見せかけて
なんかすごい動きして褒めてもらおうとする欲がある陰キャばっかだから
結局研究職でシコシコしてなろうアニメ見つつ、いつか活躍する夢を見て実行に移せない人が多そう。
いい年になって体操部はいって女子からキャーキャー言われたいという欲を持ちつつ、
いい年した女はバク転しても引くだけってことに気づけないコミュ障だから
それか一発逆転で何も考えず飛び込んで、手痛く失敗して小さくなってるやつとかしかいない。