郷愁
- 2009/12/27 18:31
- Category: 友達・人間関係
あまりホームシックになることは無い。でも時には堪らなく日本へ帰りたいと思う。ただ、その周期が普通の人よりも長くて、何年に一度やって来る訳だ。それは日本への郷愁というよりは私の家族や友人達への郷愁で、つまり人間が恋しくなるのだ。例えば私が暫くボローニャを離れていてボローニャを恋しいと思うときは町が恋しいわけで人間関係への郷愁ではない。生まれ育った日本ではあるが、国よりも私を取り囲む人々への想いのほうがずっと強いと言うのは、つまり私はそれだけ人々と強いつながりを感じていたからなのだろう。私は自慢ではないが友人と呼べる人が少ない。知人や友人に限りなく近い存在は山ほど居るけれど、これが私の友人、と心から呼べる人は割と少ない。それを昔は寂しいことだと思ったが、よく考えてみると心から友人と呼べる人がひとりだっていることは大変な幸運であることに気がついた。毎日会うでもない、毎日電話で話すでもない。でも、何か大切なことを話したい相手が居て、それを聞いてくれる相手が居る。気持ちの一方通行でないことがとても嬉しいと思う。まだメールなんて便利なものが無かった頃、私と友人達は頻繁に手紙を交わした。寂しいなあ、と思っている時にまるで見抜いたみたいに手紙が届く。文頭にボローニャの生活を満喫してますか、と書かれているのを見ては、はい、満喫するよう心掛けます、と手紙に向って誓ってみたり。数え始めたら両手の指では納まらないほど沢山ある不安や悩みよりも、今ある小さな幸運をひとつひとつ数えてみることを手紙に記して教えてくれた友人も居る。考えてみれば慣れない生活の中で私はいつも友人達に支えられていたように思う。何しろ私は頑固なくせに直ぐに弱音を吐くので、友人達も放っておけなかったのかもしれない。でも、そんなおかげで私はいつも皆に支えてもらって今日までやって来た。私の友人達は一様に地に足がついていて、立派な人たちばかり。私のように弱気を吐く人なんていやしない。私の手など必要とする人なんて居ないように見える。それでは何時か別のことで恩返しが出来たらよい。友人達がボローニャを訪れるようなことがあったら、そんなことがあった、こんなことを考えたと話しながら、暮らしていく中で見つけた私の目線から見たボローニャの道案内するのもよいだろう。ボローニャのどの道もどの広場にも様々な私の想いが詰まっている。昨日、収納家具の奥底から老朽化して今にも切れそうな輪ゴムに束ねられた手紙の束がごっそり出てきた。その幾つかを開いて読み始めたら有難くて涙が沢山零れた。久し振りにひとしきり泣いたら体が冷えたのだろう、風邪を引いた。ホームシックな上に風邪を引いて、冴えない日曜日になった。
レオナルド
友人は私も少ないです、、、友情はそれこそ恋愛よりも時には長く続くものなので、お互いに吟味していかないと、、、悲しみも郷愁も人生のスパイスですよね、、、、ただ風邪はいけませんね、、、、、早く治して一年を締めくくってください。