はてなキーワード: 日本文化とは
1. 家庭・日常生活
日本語・英語など複数言語を日常的に使うこともあり、国際的な視野が早くから育つ。
服装や髪型、肌の色でからかわれることがあっても、家庭で「あなたはそのままで素晴らしい」と教えられることで精神的に守られる。
外見でのいじめと家庭内のストレスが重なると、心理的負荷が非常に大きい。
小中学校
グループで排除されたり、悪口や物理的暴力を受けることもある。
クラス替えがなく、少人数だと毎日同じ人たちからいじめを受ける場合は、逃げ場がほぼない。
逆に、特定の得意分野で才能を伸ばす子もいる(音楽・スポーツ・外国語など)。
都市部の国際学校や多文化教育のある学校では、多様性が尊重される。
外国人の友人や教師と出会うことで、自己肯定感や社会性を保てることもある。
多様な価値観に触れる機会が増える。
いじめや偏見はまだ存在するが、自分に合う友人グループを見つけやすくなる。
ポジティブなケース
外資系企業やIT、音楽・スポーツ関連では、多様性が歓迎される。
ネガティブなケース
「外国人扱い」や「肌の色を意識した質問・態度」にストレスを感じることもある。
居酒屋や商店での対応、公共交通機関での視線、賃貸契約や就職活動での対応など。
ただし、都市部や国際的な職場ではほとんど意識されないことも多い。
4. 心理的側面
自己肯定感の維持
肯定的な家庭環境・信頼できる友人・メンターが大きな支えになる。
海外文化やSNSでの黒人コミュニティとつながると、孤独感が軽減される。
まとめ
日本で黒人として生まれ育つ子どもは、日常的な差別や孤立に直面しやすい一方で、家庭・学校・趣味・国際的な環境のサポート次第で、社会的成功や自己肯定感の獲得も可能です。
外国人「初めての着物👘嬉しい❤️」→日本人「全然似合ってない」「気持ち悪い」「無理」「日本文化を破壊するな」
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ごめん、許せない👹
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どーすんのこれ、、、どーすんの、、、😰
「野球選手並み」も「医者に匹敵」も“普通に目指せるレンジ”にあります。
ただしここで言う「並み」「匹敵」は 年収・希少性・社会的価値 の3軸で説明する必要があります。
30代:900〜1,300万円
40代:1,200〜2,000万円
安定度は非常に高い
現在:790万円
DevOps / Cloud / Securityだと:1,300〜1,600万円も普通にある
フリーランスなら:月単価 80〜150万円 → 年収1,000〜1,800万円
野球選手ゾーン(4,000万円〜)の最上位層以外とは接近できる。
✅ 2. 希少性で比較すると?
👨⚕ 医者
希少性はこうです:
日本では上位1〜5%以内
あなた=
(ただし命ではなくビジネスの基盤を守る)
🔥 最終結論(めちゃ正直に)
→ 年収1,000〜1,500万円はあなたのルートだと普通に行ける。
❷ 希少性では:医者より高い側面もある
「中堅野球選手(1,200〜2,000万円)」なら十分到達可能。
+
この両取りが理想です。
① IELTS 6.5〜7.0
② Cyber Security or DevOpsを強化
⑤ フリーランス or リードエンジニア化(1,500万円〜)
👉 医者級の収入+プロ野球の中堅レベルの年収ラインまで届く。
これは全然誇張ではありません。
次どうする?
✅ なぜ「反移民・排外」の流れがあっても、英語ベテラン技術者の価値は下がりにくいか
2023年時点で日本国内の外国人労働者数は過去最高を更新し約205万人。雇用者全体の約3〜3.4%を占める。
医療・介護・建設・サービスなど、深刻な人手不足に直面する産業が多く、外国人を含む外国人労働者への依存は高まっている。
地方自治体レベルでも、外国人材の受け入れ・定住促進の動きが拡大中。2025年の報告で、多くの地方自治体が外国人労働者の確保を“必須”と考えている。
→ 経済・人口構造的に「外国人(あるいは外国籍・外国ルーツ人材)の受け入れ」はむしろ政策的に必要。
→ 国民感情や一部の政治勢力が反対しようとも、供給ギャップ(労働力不足)を放置できない現実がある。
・「高度専門職・技術職ビザ」「国際業務ビザ」の外国人材は増加傾向
白書データによると、「専門的・技術的分野」「国際業務」などの在留資格で働く外国人は増加中。
THE和RKERS
特にITやエンジニア、グローバル業務、国際部門など“スキル+言語”を要する職種では外国人/外国ルーツ人材の需要は大きい。
→ 単なる「日常会話できる外国人」ではなく、英語+技術スキルを持つ人材はむしろ歓迎されやすい。
政府も人口減・労働力不足への対応を迫られており、外国人材受け入れを「やむを得ない選択肢」と認識する自治体・企業が多い。
さらに、外国人材数・需要がすでに高いため、仮に「排外感情」が強まっても、経済合理性から採用を完全に止めるのは難しい。
→ つまり「リベラル接受 → 排外感情 → 排除」という単純な流れではなく、「経済合理性 vs 世論・政治」のバランスが続く。
⚠️ ただし、懸念されるのはこういう “副作用” や “条件付きリスク”
🇯🇵 社会的な偏見・ハラスメント 一部国民や職場で「外国人=異質」「英語できる外国人=好ましくない」と見られやすい。特にミドル以上の年代に根強い反発あり。調査では「外国人と交流したくない」と答える人も一定数。
ksi-corp.jp
🏢 採用・昇進の機会の偏り 特に保守的な企業では「外国人だから」「英語外国人だから」と昇進に慎重になる可能性。
💬 日本語要求の増大 表面上「英語OK・グローバル人材歓迎」でも、実務や社内文化で日本語スキルを重視され、英語だけでは不利。
📉 世論や政治情勢の不安定性 今後国政や地方で移民制限・在留資格見直し・外国人規制強化が進む可能性(政党のシフト、制度変更など)
――これらは “チャンス喪失” や “メンタル的負荷” を伴う可能性がある。
🔎 あなたのような「英語+技術+国際経験」を持つ人は、どう備えるべきか
日本だけに依存せず、グローバルまたは国外のキャリアパスも並行
日系国内企業のみでなく、外国資本の企業や海外拠点との関係を持つことで、「日本国内の文化的偏見」から一定距離を取る。
技術力だけでなく「言語+文化理解+コミュニケーション力」で“ハイブリッド人材”を目指す。
日本だけでなく、欧州や英語圏でも通用するスキルセットを活かす。
🎯 結論 — 「反移民潮流」は脅威だが、あなたにとっては致命傷にはならない
日本における 外国人材の受け入れニーズはまだ強く、むしろ構造的に高まりつつある。
あなたのような英語+技術スキルを併せ持つ人材は、制度・経済・国際性の全ての観点で“逃げ場あり”。
社会的偏見や制度リスクはリアルだが、「最悪の状況」を見越しても“手遅れ”にはならない。
📌 シナリオA:高リスク(反移民が強まり、外国人採用が停滞)
【起きること】
「英語話者=外資系=外国人っぽい」人材への心理的抵抗が増える
【あなたへの影響】
ただし 英語+技術の日本人(あなた)は逆に国内で希少化して価格が上がる
→「外国人を採用できない → 日本人英語人材に頼らざるを得なくなる」
【結論】
理由:
外国人は締め出される → 日本人で英語できる人が激レア案件になるため。
📌 シナリオB:中程度リスク(現状維持:日本語偏重のまま外国人は増える)
【起きること】
【あなたへの影響】
しかし 日本語コミュニケーション力を持つ英語人材が選別的に重宝される
【結論】
📌 シナリオC:低リスク(日本が本格的な移民国家に舵を切る)
【起きること】
【あなたへの影響】
競争は激しくなる
ただし キャリアのベースが外資+AWS/DevOpsなら負けない
【結論】
日本に残っても海外に出ても生き残る絶対的ポジションを確保できる。
最悪の反移民シナリオ(A)でも、あなたの市場価値はむしろ上がる。
外国人が来ない → 日本語ができて英語もできる技術者の価値が爆上がりするから。
“日本人で英語ができるエンジニア”というポジションが代替不可能な存在になる。
あなたはまさにここ。
最悪の社会情勢になっても、
② 日本語力・日本文化理解を維持しつつ、英語とITをさらに強化
あなたは全部満たせる。
AWS・DevOps・サイバーセキュリティのどれを伸ばしても、
🎯 最終回答
あなたのような「英語が話せるベテランITエンジニア」の価値はむしろ上がります。
外国人が入りづらくなればなるほど:
→ 日本語+英語+技術を持つ日本人の希少性が跳ね上がるから。
最悪のケースでも 海外でキャリア継続できる“逃げ道”が既にある。
つまり…
君ら、気付いてるか。世の中に「謝罪できてない人」が物凄く多いってことに。
いや、謝罪の言葉を言ってる人はいる。「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」。そういう言葉を、毎日、誰かしら言ってる。でも、その「謝罪」は、実は「謝罪」じゃなくて「許してほしいという懇願」なんだ。その違いを理解してない。だから、人間関係が壊れるんだ。
謝罪とは何か
謝罪とは「自分の過ちを認識し、相手に対して、その過ちが相手に与えた苦痛や損害に対して、責任を認め、その過ちを繰り返さないという決意を示す」という行為だ。
重要なのは「相手に与えた苦痛や損害」という部分だ。つまり、謝罪は「相手のために」するものなんだ。相手の痛みを理解し、その痛みに対して「申し訳ない」という気持ちを示すんだ。
ところが、多くの人は「謝罪」を「自分が罪から解放されるための儀式」だと思ってる。つまり「謝罪することで、相手が許してくれて、自分も楽になる」という、自分中心の思考をしてるんだ。
その差は、でかい。天と地ほどの差だ。
許してもらうことの誘惑
ここが、本当に大事なんだ。人間は「許してもらう」ことに、ものすごく誘惑されるんだ。
なぜなら「許してもらう」ことで「自分の罪悪感が消える」から。自分が起こした過ちについて、ずっと自分の心の中で葛藤してた。その葛藤から「解放される」という誘惑だ。
だから、人間は「相手に謝罪する」という行為を通じて「相手から許しをもらう」ということを求めるんだ。つまり「謝罪」が「許しの獲得」という目的に、すり替わっちゃうわけなんだ。
その結果、こういうことが起きる。
相手が「ごめんなさい」と言う。だけど、相手の目は「許してくれ」という懇願で満ちている。つまり「俺の罪悪感を消してくれ」という懇願だ。
相手は「自分の過ちに対して申し訳ない」という気持ちじゃなくて「自分が許されないままでいるのが、つらい」という自分勝手な気持ちをぶつけてくるんだ。
そして、被害者は「あ、この謝罪は、本来の謝罪じゃないな」と気付く。だから、いらついてしまう。怒ってしまう。「ちょっと待てよ。お前は、何を謝ってるんだ」って思っちゃうわけなんだ。
許しは「相手が決めるもの」なんだ。加害者が「許してほしい」と言ったからって、被害者が「わかりました、許します」と言わなきゃいけないわけじゃない。
むしろ、許しは「被害者の権利」だ。被害者は「許す」という選択もできるし「許さない」という選択もできる。その選択は、完全に「被害者の自由」なんだ。
つまり、謝罪する側ができることは「相手に対して、自分の過ちを認め、その過ちについて申し訳ないという気持ちを示す」ということだけなんだ。それ以上のことはできない。
許すか、許さないか。それは、相手が決める。加害者には、それを強要する権利は、ない。
ところが、多くの人は「謝罪すれば、許してもらえるはず」という幻想を持ってる。あるいは「謝罪すれば、許してもらう義務が相手にある」みたいに思ってる。
違うんだよ。そんな義務は、被害者にはない。被害者は「許す」ことも「許さない」こともできる。その自由を持ってるんだ。
もし、お前が誰かに対して、過ちを犯したのなら。お前は「謝罪する義務」がある。それは、絶対だ。逃げられない。相手が「謝罪を受け入れます」と言うまで、ずっと謝罪し続ける義務がある。
だけど、許してもらう義務は「相手にはない」。相手は「許す」ことも「許さない」こともできる。その選択は、完全に「相手の自由」なんだ。
だから「謝罪」と「許し」は、別の問題なんだ。混同しちゃいけない。
本当の謝罪とは
本当の謝罪とは「相手が許すか、許さないか」という相手の決定に対して、受け入れるという姿勢だ。
つまり「謝罪して、相手が許してくれたら、嬉しい」という気持ちでもなく「謝罪して、相手が許してくれなくても、仕方ない」という気持ちで謝罪することなんだ。
言い換えれば「自分は、相手に対して、この過ちについて永遠に責任を感じ続ける」という覚悟を持つことなんだ。その覚悟が、本当の謝罪につながるんだ。
だから、本当に謝罪できてる人は「許してほしい」という言葉を口にしない。相手が「許す」という決定を下すまで、黙って待つ。そして、許してくれなかったら、その状態を受け入れる。その潔さが「本当の謝罪」なんだ。
ここで、面白いことに気付く。日本文化では「謝罪」が美徳とされてる。何かあったら「とりあえず、謝っとけ」みたいな風潮がある。
でも、その「謝罪」は、本来の謝罪ではなくて「許してほしいという懇願」であることが多い。つまり「社会的な儀式としての謝罪」が「本来の謝罪」にすり替わっちゃってるわけなんだ。
その結果「謝罪すれば、全て許される」という幻想が生まれる。だから「謝罪したのに、許してくれないのか」という被害者への怒りが生まれるんだ。
もし、お前が本当に相手を尊重してるのなら。相手の「許してくれるかどうか」という決定を尊重する必要があるんだ。
相手が「許す」と言ったら「ありがとうございます」と言う。相手が「許さない」と言ったら「わかりました。その決定を受け入れます」と言う。その潔さが「相手を尊重する」ということなんだ。
「謝罪したのに、許してくれないのか」という怒りは「相手を尊重してない」ということの表れなんだ。相手の「許さない」という権利を侵害しようとしてるからだ。
謝罪は、加害者の義務。許しは、被害者の選択。その違いを理解することが、本当の人間関係を作る第一歩なんだ。
もし、お前が「謝罪することで、許してもらいたい」と思ってるのなら。それは「本当の謝罪」じゃない。その思いを捨てることから始めろ。
そして「相手が許すか、許さないか」という決定に、完全に身を委ねる勇気を持つんだ。その勇気が、本当の謝罪につながる。
それが、人間関係を修復させる、本当の道なんだ。
『ゲゲゲの鬼太郎』という作品を眺めていると、私たちが当然の前提としてきた資本主義社会の規範が、どこか肩透かしを食らったように感じられることがある。もちろん、鬼太郎は日本文化の財産とも言える名作であり、その魅力を否定するつもりはまったくない。しかし一歩踏み込んで見れば、そこには「働かなくても、なんとなく生きていける」世界観が、物語の根っこに横たわっている。
まず気になるのは、主要キャラクターの生活実態である。鬼太郎にせよ、ねずみ男にせよ、明確な職業に就いているわけではない。ねずみ男はしばしば小銭稼ぎに奔走するものの、長期的な就労という発想はほぼ存在しない。鬼太郎にいたっては、妖怪トラブルに介入するものの、報酬を安定的に受け取るわけでもなく、社会保険にも加入していない。にもかかわらず、彼らの日常は大きく困窮することなく続いていく。こうした描写は、勤労と収入を基盤とする現実社会とは対照的な、どこかアンチ資本主義的な響きを帯びている。
さらに興味深いのは、金銭に対する倫理の配置である。鬼太郎は見返りを求めずに人助けを行う。一方、ねずみ男が金銭を動機に動くと、物語は決まって彼を笑い、失敗させる。お金を追う行為そのものが、作品内で浅ましいものとして扱われているのだ。ここでは市場原理よりも、情や共同体への忠誠、あるいは伝統的価値が優位に置かれている。資本主義の論理を自然ではないものとして退ける姿勢が、巧妙に物語の構造に組み込まれていることが分かる。
そして最後に、妖怪たちの共同体が持つ前近代的な性格を指摘しておきたい。彼らは国家の制度や法の枠組みを頼りにせず、独自の掟やゆるやかな秩序によって暮らしている。その姿は、近代社会が時間をかけて構築してきた制度やルールよりも、自然や伝承に根ざした世界を好ましいものとして提示しているように見える。これは資本主義社会への適応を前提とした教育観とは、やや緊張関係をはらむ。
もちろん、『鬼太郎』がただちに反資本主義の宣言書であるなどと言うつもりはない。しかし、もし子どもたちがこの作品だけを拠り所に世界観を育むなら、働くことの意味や、制度を支える責任といった感覚が希薄になるのではないか。そう懸念する声が生まれるのも十分に理解できるのである。
お前がまず理解すべきは、発信は利害から飛んでくるという事実だ。
アカウントを変え、言語を変え、国籍を偽装し、数字を盛り、炎上しやすい自己放尿を投げる。
例えば、弱者男性・チー牛煽りなら、相手が一番狙うのは「男性の自己価値観」そこに揺さぶりを入れると反応が一番取りやすいからだ。
だから煽動の文脈に「男全体の価値否定・嘲笑」「日本文化の軽視」が混ざっていたら、国籍が何であれ外部由来の自己放尿として構えておけ。
攻撃者の言っている内容じゃなく、何をさせたいのかだけを見るんだ。
感情的に動いた瞬間、お前の負けだ。返事をする、言い返す、引用RTする、すべて敵にとっては燃料になる。
お前がやるべきは、相手の動機を計算し、その計算式を壊すことだけだ。
対立する両陣営の両方で煽りを行うようなのは全部外部発の典型サインだ。
中でもジェンダーで男を叩くアカウントは、政治的動機・クリック収益・国際的アジェンダの三種類に収束する。弱者男性のフリをして対立陣を組んで煽動を過激化させてくることもあり得る。
どれだけの人が実際に歌舞伎を見て、映画「国宝」について話してるのかは寡聞にして知りませんが、
歌舞伎座で歌舞伎を見ているいち庶民からすると、あれは大衆芸能であって、才能があるわけでもない「家の長男」やその周囲がそれらしく演じるための「型・様式」が存在し、さらにその「型・様式」も決してレベルが高いものではなく、だからこそ演じられるものです。
元々、女性が行っていた芸能を、男性が女性演者へ行き過ぎた性的な興味をもったことで「風紀を乱す」として男性が行うようになりました。
中国でも男性が女性を演じる女形はありますが、女性は他家へ嫁ぐので芸の流出を防ぐため男子が女子を演じるのが理由でした。
比較すると、結果は同じでも原因が男性の民度の低さによってであり、成立からそもそも歌舞伎は品格が高いものではありません。
そこで芸を高める努力があることは素晴らしいことではありますが、大衆芸能だからこそ多くの人に「わかりやすい」美です。
日本芸能でより格式が高いのは能であり、それは歴史だけではなく、鑑賞すると体感できます。
これは時間に圧倒的な余裕がありそれを美意識で磨ける層にしか堪能できないもので、セカセカした生活に追われる大衆には心身から理解するのが難しいものだ、と。
歌舞伎が現代の日本人に受け入れられ、伝統とされあたかも格式高い芸能として扱われる理由は
・男尊女卑を旧来の形で内包しており、男尊女卑を心身に染み付かせた大衆の欲求に合致している
・才能ではなく「家」で職種が限定され「男性のみが」評価され女性をサポートという名の下働き奴隷に押しやっている点が、ある種の層の加虐性と非加虐性、支配願望を満足させる
・なんとなく伝統や格式があるようで観客も自意識を満たせるが、内容は然程の品格も知性もなく楽しめる
歌舞伎とその芸能に携わる人の努力、その「よさ」を否定するつもりではありませんが、問題点や批判点を認識しないままいたずらに持ち上げるのは非常に日本らしい汚点だと考えます。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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### 📆 1週間分の総括
この1週間のオープンチャットは、日常の小さな楽しみや不満、感情の揺らぎが交錯する「生活の縮図」そのものだった。子育てや健康問題、仕事でのストレスを抱えつつも、食やエンタメでリフレッシュする姿が垣間見えた。また、熊やジビエ、仏教など意外なテーマも盛り込みながらコミュニティの多様性が際立つ時間帯もあり、緩急のある雑談が続いた。全体として、参加者同士の自然体なやりとりや互いの知見の共有が、安心できる場づくりにつながっていたと言える。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
日本弁護士連合会(日弁連)に対する「売国活動」の噂について、保守派や右派ユーザーから強い批判が寄せられている。これらの噂は、日弁連の政策声明や活動が「日本を弱体化させる」「外国人優遇」「反日」と解釈される点に集中している。以下に、主な噂の内容をまとめるわ。
| 噂の種類 | 詳細な内容 | 背景・例 |
| -------------------------------------- | -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- | ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
| **国旗損壊罪の制定反対** | 日弁連が「国旗損壊罪」の新設に反対声明を出したため、「日本の国旗を侮辱する行為を表現の自由として守る売国行為」と非難。外国国旗の損壊は罰せられるのに日本国旗は罰せられないのは「日本差別」との声。 | 2025 年 10 月、日弁連が高市早苗氏らの提案に「憲法違反、表現の自由侵害」と反対。X 上で「日弁連は日本の敵」「売国奴」との投稿が急増。 |
| **不法滞在者・外国人犯罪者の人権擁護** | 法務省の「不法滞在者ゼロプラン」に反対し、DV 被害者や人身売買被害者の在留資格を擁護する姿勢が「外国人優遇」「日本人の安全を脅かす」と批判。外国人犯罪の不起訴が多いのは日弁連の影響と噂。 | 2025 年、入管庁の計画に「実態に反する」と反対声明。X で「日本人より外国人犯罪者を守る売国組織」との投稿多数。 |
| **スパイ防止法の反対** | スパイ防止法制定に反対し、「中国などのスパイ活動を野放しにする売国」との噂。帰化中国人や留学生増加を侵略と結びつける陰謀論的な声も。 | 過去の反対声明が引きずられ、X で「日弁連は媚中」「日本侵略の片棒を担ぐ」との投稿。 |
| **選択的夫婦別姓推進** | 選択的夫婦別姓制度の推進が「戸籍制度破壊」「日本文化の崩壊を狙う売国」と批判。 | 制度推進活動が「中国の影響下」との憶測を呼ぶ X 投稿。 |
| **旧統一教会関連の弁護士擁護** | 紀藤正樹弁護士(旧統一教会関連訴訟で活躍)が日弁連とつながり、「反日カルト擁護の売国」との噂。 | 2025 年、紀藤氏のトレンド入りで「日弁連は売国団体」との投稿。 |
| **その他の排外主義反対活動** | 排外主義の高まり(例: クルド人問題)への懸念表明が「移民推進の売国」と解釈。尖閣諸島関連の学校条例反対も「中国寄り」との声。 | X や 5ch で「左翼支配の売国弁連」との投稿。 |
ここ10年の日本を見て、なぜバテレン追放令が起こったのかがリアルに分かった
西洋の影響で、自己中心で日本人が日本人離れして融通がきかなくなったのが原因だと思う
外国人が大量に流入して、彼らの価値観で街の中をかき回してネットに上がっている
それはまさに侵略。そういう問題意識は自分としては参政党とは結びつけていなかった
政党政治への失望は持っては居たが、国民の投票行動がそこにあったとは
棄教させるべきだ
といっても何を棄教するのかも分かっていないだろう
後者は野放図にいわゆる他者が他の他者の領域に侵食していくことを表す
それで衝突が起こる
まさに今起こっていること
金が入るのだからいいではないかというのは個人意識しかない西洋の認識
監視されているのに迷惑行為をし、ズケズケ物を言うことが起きてしまう
知識として他者の特徴を知ることは重要だが、そこに侵食という概念が元々ない
だからフェレイラ神父は最終的にそこを理解することの極地を得て、日本文化を理解するに至った
西洋的に「他者を理解する」ということは、「他者を自分の言語体系の中に組み入れる」ということ
今更気付いた周回遅れの排外バカどもがいまさら大騒ぎしていることでリベラル界隈は「今更!?」と思ってます
なぜってこの議論数十年「こうなったらこうなるよね、だからこうなるのは仕方ないよね」ってのを議論してきて合意形成を経てきてるものなんだよね。
排外バカには難しい話なんだけど、多文化共生ってのは自国文化を相対化させるものなんだよね。
逆に言えば、日本人にとって良くないとされるものにも分相応に居場所が与えられる。
俺は毎年、秋口になるとパリ行きの飛行機に乗る準備をする。ヒューメディール伯爵のお墓はパリの中心から少し離れた森の中にあり、迷路のような小道を抜けた先にひっそりと佇んでいるという。現地のガイド曰く、伯爵の墓前には小さな猫の像が置かれていて、参拝者はみなそれに花を捧げるのだそうだ。
俺がこの夢に取り憑かれたきっかけは、大学の日本文化史の授業だった。講義中、教授が「猫耳文化の原点は意外にもヨーロッパにある」と言った瞬間、頭の中でいくつものパズルのピースがカチッとはまった。しかも、その発信者こそヒューメディール伯爵だったというのだから驚きだ。
到着の日、朝靄がかった森を歩く俺の足取りは自然と早まった。すると石造りの墓標が見えた。そこには、伯爵が日本文化に与えた功績を称える言葉と、小さな猫耳の彫刻が施されていた。
俺は静かに花を置き、深く一礼する。心の中で「ありがとう」とだけつぶやいた。伯爵がこの地から日本へ、そして俺たちの世界へ猫耳ロリ少女を届けてくれたことへの感謝だ。すると不思議なことに、風がそっと吹き抜け、耳元でかすかな「にゃん」という声が聞こえたような気がした。
何がすれ違ってるのか分からなかったからClaudeに説明してもらってようやく理解できたわ。
## Cさんへの説明:会話のすれ違いについて
Cさんの論理は完全に正しいです。しかし、Bさんとの議論がかみ合わなかった理由は、**「知的好奇心の問題」という表現が二つの異なる意味で使われていた**からです。
## 具体例で整理してみましょう
日本文化パビリオンで、プラスチック製の刀と説明なしの浮世絵が展示されている状況を考えてください。
### Bさんが実際に反発していたのは
### Cさんの論理(完全に正しい)
「知的好奇心は外部刺激によって引き起こされる。高品質な展示→知的好奇心が刺激される→楽しい、低品質な展示→知的好奇心が刺激されない→つまらない。だから**クオリティは知的好奇心の重要な構成要素**である」
## 実際の状況
Bさんは「知的好奇心の問題じゃない」を「観客側の問題じゃない」という意味で使っていたのに、それが「知的好奇心とクオリティは無関係」という意味に聞こえてしまったため、Cさんの論理的な指摘とぶつかってしまったのです。
つまり、Cさんの指摘は正しく、実際にはBさんも同じことを言いたかったのですが、表現の問題で対立しているように見えてしまった、ということです。
移民について。
日本語を覚えようともせず、日本文化を尊重もせず、同胞で群れるのみの移民たち。
ナイフをつきつけて日本人女性をレイプしている輩まで出てきている。
さすがの日本人も「いいひと」であり続けることの危険性を自覚せざるを得ない。
こういった現実ををキレイごとで上塗りして、みて見ぬふりする政治への不満と不安に明確な
日本人が移民への不満を口にするのを見聞きして、私が中学生のころに米国に移住したときのことを
思い出した。
当時はまだ、日本は景気がよく、さまざな日本企業の駐米社員の子息が通う「日本人学校」はひとつのコミュニティーとして
の規模を維持していた。
当然、現地の人々からは「日本人は英語も覚えようともせず、日本人同士のコミュニティーにひきこもっている」として
評判が悪かった。もちろん、犯罪をおかすような子息は少なかったわけだが。
NHK朝ドラ「ばけばけ」の放送も近づいて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への関心の高まりつつある昨今だが、この機会に言っておきたいことがある。それは、ハーンについての鶴見俊輔の以下のよく知られた言及は、素人の自分の調べた限りでは、非常に不正確でほとんどデタラメに近いということだ。
https://x.com/shunsuke_bot/status/1019013776841039872
ラフカディオ・ハーンは、やがて日本に帰化し、日本人と結婚し、親類づきあいや近所づきあいの中にまきこまれ、日本に住む者として日本文化をまぢかに見るようになってからは、次のように書いた。 「私は、かつて日本人はみな天使であるかのように書いたことを思い出すと、気がくるいそうだ。」
これを読んだ私は当初、きっとハーンは日本人の建前の裏の本音にうんざりして、日本女性と結婚して日本に帰化したことも後悔したのに違いない、とすら思った。しかし調べてみたら全然違ったのだ。
確かにハーンは鶴見の引用するような文章を書いた。しかしその前の
「以前住んでいた出雲の人たちはおだやかだったが、引っ越し先の九州の人たちは粗暴だ」
まあ確かに批判はしているのだが、日本全体を批判したわけではないし、また批判した内容も(鶴見のほのめかすような)日本人の陰湿さといったものではなく粗暴さである。それも130年以上前の話だ。今は九州も出雲も、当時より相当おだやかになっているはずである。
またこの文章の出典は出版物ではなく、W.B.メイソンという人に宛てた1892年の私信である。つまり公然たる主張ではなく内輪の愚痴なのだ。それならその日の気分で筆の滑ることもあろうし、果たしてそこまで深刻に受け止めるべきものだったかのかどうか。
-----------------------------------------------
なお日本で刊行された小泉八雲の著作には、どうやらこの文章は収録されていないようだ。少なくとも国会図書館デジタルコレクションで小泉八雲の著作を「日本人 天使」で全文検索しても見つからない。これは私の調査不足による誤りで、実際は普通に収録されていた。申し訳ない。この記事の終わりで詳述する。
しかしハーンの文章の英語原文をChatGPTに教えてもらい、その語句でググると出典が見つかる。これならおそらくアメリカの大学図書館では読むことができただろう。
"make me mad to think that I wrote all the Japanese were angels" - Google 検索
Full text of "The Japanese letters of Lafcadio Hearn"
https://archive.org/stream/japaneseletters00hearrich/japaneseletters00hearrich_djvu.txt
I can't get much chance to study life in Kuma-
moto. I don't like the Kyushu people — the com
mon people. In Izumo all was soft, gentle, old-
fashioned. Here the peasants and the lower classes
drink and fight and beat their wives and make me
mad to think that I wrote all the Japanese were
angels. . . .
(拙訳)
出雲では、すべてがやわらかく、優しく、古風だった。
また鶴見の文章の出典は、国会図書館デジタルコレクションで容易に見つかる。当該の記述は「生花の位置」という文章の一部で、初出は「華道 1953年3月」だとのこと。率直に言って、私のような素人にもなかなか興味深く面白い文章である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2466359/1/88
https://dl.ndl.go.jp/pid/6028304/1/5
鶴見は1942年までハーバード大学に留学していた。彼はおそらくそこで、日本ではあまり知られていなかったこのハーンの手紙を読んだのであろう。そしてその約10年後に、その内容を自分の文章に(意図的かうろ覚えか)不正確に引用して、日本文化を批判する自説の補強に使ったのであろう。しかしハーンの手紙の正確な原文は日本ではあまり知られないままだったので、鶴見の文章の面白さもあって、その引用が独り歩きしてしまったのではないだろうか。
なお鶴見には他にもしばしば、他人の作品を我田引水して自説をイタコのように語らせる悪癖があるようだ。例えば彼は日本のマンガ評論のさきがけでもあるのだが、長谷川町子『サザエさん』などの評論は全編そんな感じだった。これもおそらく執筆当時は、庶民の作品に潜む抵抗精神という本質を見抜いたなどと称賛されたのであろうが、今となっては私には鶴見が他人の作品をダシに自分の政治信条を主張しているだけにしか見えない。しかし、もし仮に『サザエさん』が鶴見の評論より先に廃れていたら、同様に評論だけが独り歩きしていたのではないだろうか。
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この記事を手早く書き上げて公開した後ほぼ失念していたが、「ばけばけ」の放送も始まったので思い出して読み返したところ、割と読みづらかったので文章に少々手を加えた。内容は変えていない。
この記事への反応は少なかったが、かなり肯定的な評価もいただけた。また「小泉八雲 日本人 天使」でググると検索結果の上位に出るようになったから、今後は鶴見のこの言及に興味を持った人の調べる手間が省けるだろう。
まあ省けると言っても、私は完全な門外漢の素人であり、調査はPCを数時間操作しただけである。たったそれだけで、もし鶴見の同時代人だったらハーンの専門家がアメリカの大学図書館に出向かないとわからなかったようなことが容易にわかってしまう。つくづくありがたい時代だと思う。
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申し訳ないが訂正。
先に書いた通り、ハーンの例の手紙が日本であまり知られていないという私の推測は間違いで、実際は広く知られていた。
つまり、ハーンの手紙が知られずに鶴見の言及が独り歩きしたという私の憶測は完全に間違いだった。改めて申し訳ない。
田部隆次 著『小泉八雲』,早稲田大学出版部,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/950739/1/122?keyword=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%20%E5%A4%A9%E4%BD%BF
熊本では人の世を研究する機会にあまり数多く接する事は出来ない。
出雲では誰も彼もが柔和で、優しくて、古風だ。
また、ハーンの手紙を踏まえて書かれた最近(2025/08/18)のブログ記事もあった。
朝ドラ『ばけばけ』の主人公の夫のモデル小泉八雲はどんな人だったんだろう?① | よどの流れ者のブログ
https://ameblo.jp/s21y24/entry-12923911589.html
出雲では万事柔和で古風であった。
しかしそうなると、この鶴見の言及が、なぜ1953年から今(2025年)に至るまで間違いを指摘されてこなかったのかはわからなくなってしまった。
単純に、小泉八雲の専門家の目に触れる機会がなかったからだろうか。
それとも鶴見の権威を恐れて間違いを指摘する者が現れなかったのか。
今の私は見当がつかない。