2025-11-28

ゲゲゲの鬼太郎に感じる思想的な偏りと違和感

 『ゲゲゲの鬼太郎』という作品を眺めていると、私たちが当然の前提としてきた資本主義社会規範が、どこか肩透かしを食らったように感じられることがある。もちろん、鬼太郎日本文化財産とも言える名作であり、その魅力を否定するつもりはまったくない。しかし一歩踏み込んで見れば、そこには「働かなくても、なんとなく生きていける」世界観が、物語の根っこに横たわっている。

 まず気になるのは、主要キャラクター生活実態である鬼太郎にせよ、ねずみ男にせよ、明確な職業に就いているわけではない。ねずみ男はしばしば小銭稼ぎに奔走するものの、長期的な就労という発想はほぼ存在しない。鬼太郎にいたっては、妖怪トラブルに介入するものの、報酬安定的に受け取るわけでもなく、社会保険にも加入していない。にもかかわらず、彼らの日常は大きく困窮することなく続いていく。こうした描写は、勤労と収入を基盤とする現実社会とは対照的な、どこかアンチ資本主義的な響きを帯びている。

 さらに興味深いのは、金銭に対する倫理の配置である鬼太郎は見返りを求めずに人助けを行う。一方、ねずみ男金銭動機に動くと、物語は決まって彼を笑い、失敗させる。お金を追う行為のものが、作品内で浅ましいものとして扱われているのだ。ここでは市場原理よりも、情や共同体への忠誠、あるいは伝統的価値が優位に置かれている。資本主義論理自然ではないものとして退ける姿勢が、巧妙に物語構造に組み込まれていることが分かる。

 そして最後に、妖怪たちの共同体が持つ前近代的性格を指摘しておきたい。彼らは国家制度や法の枠組みを頼りにせず、独自の掟やゆるやかな秩序によって暮らしている。その姿は、近代社会時間をかけて構築してきた制度ルールよりも、自然伝承に根ざした世界を好ましいものとして提示しているように見える。これは資本主義社会への適応を前提とした教育観とは、やや緊張関係はらむ。

 もちろん、『鬼太郎』がただちに反資本主義宣言であるなどと言うつもりはない。しかし、もし子どもたちがこの作品だけを拠り所に世界観を育むなら、働くことの意味や、制度を支える責任といった感覚希薄になるのではないか。そう懸念する声が生まれるのも十分に理解できるのである

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