はてなキーワード: 自死とは
友人には吐き出せないのでここで。数ヶ月前に友人が自死した。なぜ彼は自死を選んだのか。
わたしは彼とすごく仲良かったわけではない(きっと彼もそう思ってるはず)。旅行とかにはグループでちょくちょく行っていたくらい。1対1で遊ぶことはまずない。そのくらいの関係性なのに今でもふとした瞬間に吐き気と共に涙が出てくる。親交が深かった方はもっと辛いだろう。
聡明で社交的で体力お化けだった。いろんなコミュニティに属して人生楽しそうだった。そんな彼がなぜ自死を選んだのか分からない。決断の前に頭に浮かぶ友人が多くいるやつだったと思うのに、何故踏みとどまれなかったのか。何でも挑戦しちゃうようなやつだったからノリと勢いでいっちゃったのかな。それだったら笑って終わらせたいな。事故とか病気だったら良かったのに。せめて理由が知りたかった。
はてな匿名ダイアリー(増田)の住人の方々の感覚には、底知れぬズレを感じてやみません。
立憲民主党と公明党の合併という仮定に対し、「よりマシな泥を選ぶだけだ」と嘯(うそぶ)く姿。それは私には、自ら思考を放棄した敗北宣言のように映るのです。誰かの言葉をなぞり、自分を納得させているのかもしれませんが、その判断はあまりに短絡的と言わざるを得ません。
政治家という生き物が、「消極的に自分を選んだ層」のために、その身を粉にするはずがないからです。
皆様はこれまで、特定の宗教団体や組織票が選挙に与える影響を、あれほどまでに苛烈に糾弾してこられましたよね。
それならば、なぜ今になって「数は少なくとも熱心な支持層が政治を規定する」という厳然たる現実から目を背けるのでしょうか。
政治家が優先するのは、いついかなる時も、確実に票を投じてくれる強固な組織です。
つまり、この合併が意味するのは、旧立憲が創価学会の意向に沿って動くという、逃れようのない帰結です。
これは私の妄想ではありません。
「組織票を持つ団体は政治を歪める」「だから自民党は認められない」と主張してきた、皆様自身の論理が導き出す答えのはずです。
突き刺さるブーメラン
それを認めず、「自民よりはマシ」と繰り返すのは、もはや現実的な判断ではなく、ただの脊髄反射的な嫌悪感に過ぎません。
これからの旧立憲を支持するということは、間接的に創価学会の票に加担するということです。その事実を直視できないのであれば、政治を語る資格は、もはや潰(つい)えたと断じるべきでしょう。
はてなブックマークの短いコメント欄に逃げ込み、真摯な言葉のやり取りを拒む皆様へ。
もし、ご自身が「是々非々で対話ができる」と信じておられるなら、逃げずにこちら側へお越しください。
100文字程度の短文で紡げる言論など、この世には存在しません。
「選挙前になると湧いてくる」「無給で工作活動をするのは異常だ」
それらの言葉はすべて、鏡に向かって放たれたものではありませんか?
誰に頼まれるでもなく、一銭の得にもならず、延々とアンチ活動に勤しんでいるのは皆様自身です。
皆様はただ「嫌いだから叩く」という衝動に従っているに過ぎない。
そして今、叩かれている側もまた、同じ理由で皆様を拒絶している。
構造は鏡合わせのように同一なのです。
決定的な違いはたった一つ。
皆様は、ご自身が疎まれている「少数派」であるという自覚が決定的に欠けています。
自民党支持者でない層からすら、「アンチ自民界隈は教条的で鬱陶しい」と思われている現実に、いい加減気づくべきです。
「よりマシな方を選ぶ」と言い続け、何も変えられなかった30年。
日本はハッキリ言って韓国以下、いや、台湾より最悪な慢性的な地獄の国になっているのは事実だし今後発展しないのは断言してもいいだろう。
その大きい理由の1つは利権と化した団体、メディア、再生産された富裕層か安全地帯で育つエリート地位にいる人材(悪魔)、大企業の寡占だろう。
本当に弱い立場にいる被害者側も声高に現状を話すことできず、結局は自死するか息をひそめるしかない。自分だって例外でない。
地方はおろか、中核都市も残るのは頭でっかちか、無能を通り越して有害な成功体験にとらわれ続けている属性を持つ老人の存在。
あらゆるところを転々としているが、最後に残るのは「若いんだから未来はあるよぉ~」とか言いつつ現実を直視しない、そのような属性の老人しかいない印象
「戦争はやめろ!」と叫ぶ連中(老人)が多いが「相手国の基地も撤去すべき」「対話すべき」とかも主張しないし、さらには戦争の形態も1945年に比べてあらゆるものに進化しているし、その源となるあらゆる問題にはダンマリ。
日本や地方が発展するだなんて声高に叫ぶ奴らは馬鹿が現実逃避して幻想を見ているか富裕層的な地帯にいながら軽視して見栄を張るものが仕掛ける夢物語にすぎない。
そういえば最近のものは全国の地方のスーパーを沢山喰い込んだだけで飽き足らず、さらには西友の支配に名をあげたり道の駅まで支配しようとしてきた企業は脅威だ。地域に機会がないのもこの企業のせいなのも1つあるだろう。
結果は嘘をつかないが嘘つき(主に大企業)は虚構の未来を語り、その事業は決まって連鎖的に地域の経済や昇進の機会を破壊する。こんなん教養なきレベルでも容易に想像できる展開だ。
ここで一つの仮説が立つ。
結局は戦争とか破局級な地震が起こらないかぎり、保身のために強がる悪魔の利権とかした為政者や大企業は調子に乗り続ける法則ということ。
たしかに1945年であらゆるものが焼け野原にされて、岩戸景気やら高度経済成長(笑)やら言われているのは無から色々開拓がすすみ豊かになり
惨事から立ち直ったのはいいものの、問題はそこから生まれた一部の強い地位を得たものがウソや責任転嫁をお得意としノウハウを固め悪魔の利権と化したこと。
利権と化している馬鹿な責任ある立場のものはお得意の言い訳と無視で切り抜け、挙句の果てには責任を擦り付ける
まともなどれだけこつこつ努力をしようとも、直接間接問わず打撃を与える。そいつらが決まって媚びるのは理性すらない利権団体、オールドメディアやら腐った大企業なのだ。
最近スポンサー問題とやらで因果応報を受けたテレビ局が罰を受け続けた中、のうのうと蘇っているのは結局はこういう嘘をつく"上の者"に魂を売り渡すしかないというカラクリがあるのだろう。
国連だって結局はアメリカやら中国やら強がる常任理事国が居座りが自分がやっていることを棚に上げ、第3国からあらゆる形態で搾取しつつ
「ロシアのウクライナにしてることは犯罪だ!」「日本の戦争犯罪ガー」やらその国の強い立場にいる国民が日本含む外国であらゆる金をチラつかせ汚い方法で、
歪んだ正義が今も立て続けに形成され続ける。結局は腐った企業やら団体と歪んだ正義を洗い流すのは大地震やら大規模な戦争などで罰を受けるしかまともな人たちが前に進まないのだ。
当然平和な世界が続くならいいに越したことはないし、破滅主義者でもない。
こっちは停滞した空間に居座らされることを余儀なくされいつまで「ひきこもり」などひとくくりにされ馬鹿にされればいいか。
結局自分のような立場の人は何も光も生まれない中、そういう歪んだ正義で支配続ける連中が戦争の炎を浴び滅びるまでの辛抱なのかもしれない。
自死はよくないよ、うん
井戸敏三氏の知事時代(2001年〜2021年)において、「子ども支援担当職員の自殺」として大きな注目を浴び、遺族が県を提訴した事案があります。
この件は、「利権」や「自殺対策」というテーマと結びついて、行政の体制や職場環境のあり方を問う象徴的な事件として議論されています。
2014年11月、兵庫県明石市にある県中央こども家庭センター(児童相談所)に勤務していた当時27歳の男性職員が自ら命を絶ちました。
男性は2012年に県職員となり、2014年4月に情報関連の部署から同センターへ異動。虐待対応など、極めて専門性が高く精神的負担の大きい業務に従事していました。
専門的な指導が十分になされないまま、上司による不適切な言動(他の職員の前での叱責、電話中に受話器を奪い「こいつは頼りないから」と相手に告げるなど)があったと指摘されています。
連日の長時間残業による過労状態であったことも報告されています。
2019年、亡くなった男性の両親は「自殺の原因は上司のパワハラと過重労働である」として、兵庫県に約1億1800万円の損害賠償を求めて神戸地裁に提訴しました。
当初、地方公務員災害補償基金兵庫県支部(支部長は当時の井戸知事)は、この件を公務災害(労災)と認めませんでした。これに対し遺族は不服として審査請求も行っています。
井戸知事が掲げた「子ども支援」や「自殺対策」の旗振りの裏で、その最前線で働く職員が過酷な環境で命を落とし、さらには県がその責任を容易に認めなかった姿勢が、行政の「矛盾」として厳しく批判されました。
この事件は、単なる一職員の不幸というだけでなく、以下の社会的問題を浮き彫りにしました。
児童虐待の相談件数が急増する中、現場の職員に過大な責任と業務が集中している実態。
事務職を短期間で専門部署(児相など)へ異動させる人事システムの限界。
「県庁」という巨大な組織の中で、ハラスメントを是正し職員の命を守る仕組みが機能していなかった可能性。
湊かなえの小説、結構好きで何冊か読んでいるが、「暁星」はとても面白かった。
・実際の事件がモデルになっている。実際の事件の内容は報道くらいでしか知らんけど、あの事件にも、こんな側面があるかも(ないかも)と、思った。てか、そう思わせる作品に思えた。「自分が殺さないと、自分の大事な人が殺人を犯してしまう。」「自分が殺して社会に問題提起しないと、自分と同じような被害者が今後も大量発生してしまう」とかが最終的な動機のようだが、そのような動機は分からんでもない。共感できる。いや、テロで社会を変えるのはあってはならないことだが。今の社会(利権が弱者を喰い物にするのを正攻法で阻止できない)だと、それしかない、と極端な行動に出る奴が出てきてもおかしくない、と思う。
・あの実際の事件、求刑は無期懲役だっけ?重くないか。普通の人1人殺人だとそんな重くならないだろ。ここ数年、厳罰化著しいので、やむを得ないのか。
・ネットの感想で、作者が後半の「金星」のエピソードに作者自身を自己投影しているようで気持ち悪い、みたいな内容のものがあった。作者自身を自己投影していると思ってしまうのは分かる。てか、実際の事件を改変して小説にして恋人を出したんだからそうなるだろうと思う。ちょっと夢小説みたいになっている。でも、それがとてもいいと思う。あんな大物作家がそこまでしてこの事件に肩入れ?して、あの事件の被告を精神的に支援している(ように見える)のは良いことだと思うし、作家としての気概を感じた。この小説を読むことによって、あの事件の被告に同情的な見方をする人がより増えると思う。
・宗教2世問題について。例えば親がパチンコで身を滅ぼして家庭崩壊した場合、子供は、パチンコは大嫌いになるとは思うが、パチンコの元締め?(とかパチンコで最も利益を得ている政治家とか)を殺そうと思わんだろ。それが宗教だと、今回の事件のような出来事が発生してしまったわけで、なんかちょっと思考が飛躍してないかと思うわけだが。何も知らない場合は。それが、暁星ではその辺りが説得的に書かれていて(主人公が殺人起こしたのは恋人の肩代わりであって、恋人が殺人を決意したのは1億円渡したはずの母が餓死したのを知ったから。そこに至るまでも色々酷いことがあった。)、そこもなんというか、実際の事件に、(宗教問題とかに全く縁がなかった層も)気持ちが寄り添えるような工夫になっているんじゃないかと思う。
・しかしながら、ここまで実際の事件に肩入れした内容ではあるものの、この本の最終的なメッセージは、「テロ(暴力)ではなく、″書く″ことで社会を変えよう」というもの。先程「利権が弱者を喰い物にするのを正攻法では阻止できない」と書いたが、暁星で作者の言いたいことは、「諦めないで、暴力や自死に走らないで、正攻法(作者の場合は″小説″)で阻止しよう」ということだと思う。そうだよね。弱者がテロに走らないでいいよう、物書きの方(作家さんや記者さん)などには是非頑張ってもらいたいし、そのような物書きの方を応援したいと思った。とりあえず、暁星は電子書籍で買ったが、本も買って布教しようと思う。
ポジティブな意味で。死にたいわけじゃない。幸せな日常を過ごしている。
結婚し、家庭を成し、育てた。
あとはもう墓に入るだけのような気分なんだ。平均寿命の半分にも至っていないのに、余生の気分。
日々に満足している。
この幸せがピークだとしたら、後は下るだけかななんて思ったりして。
死にたいわけじゃない。でも、死んだとしたら家族が困るから、その困る量は減らしておこうと思う。終活。主に金融資産の。どんな資産を持っているか、どんな口座を持っているか、どの口座から何のサブスクを払っているか。(光熱費などのインフラ)遺族年金や保険金や年金で、遺族は困らなさそうだなとは思った。手続きは面倒だろうけど。
この先幸せより、幸せじゃないことの方が増えるかもななんてちょっと不安に思ったりして。自死は取らない。気力が無いわけでもない。ただ、現世でやりきったかなって。
生きよう。
賛否入り混じるこの旧劇場版だけど、個人的には名作と思ってる。
仕事でも行き詰まりプライベートでも今で言う所のチー牛レベルの人間だったので、全部がうわーッと襲いかかってきてぶっ壊れかけて、人生の中で唯一この時は精神科にも通った。
劇中、最後の方でシンジは他者と自分との境界が曖昧な、誰も傷つかない優しい世界の中で生きようと思えば生きられたはずなのに、でもこれは違う、と答えそして世界は自分と他人が存在する境界のある世界に戻った。
現実。でも、どうやっても生きていくしかないんだよなって。死んだって何一つ世界は変わらない。
ミサトが劇中で言った、しっかり生きて、それから死になさいと言う言葉は、死ぬ事で何かを変えようとした兄弟と、残されて自分もどうにもならないと自暴自棄に近い考え方しかできなかった自分の境遇と恐ろしいほどにシンクロしていた。
生きてなきゃ死ぬことすらできない。
結果、気持ち悪いと言われみっともなくしか生きることが出来なかったとしても、それは決して悪いことじゃないんだと。
あれから30年近くが経って、結婚もし子供も産まれ、だけどみっともない生き方しか出来てないし、多分格好悪い気持ち悪い生き方しか出来てない。
でもいいや、生きてないと気持ち悪いとすら言われない。
大椿ゆうこ 社民党副党首 参議院議員/労働者の使い捨ては許さない!
https://twitter.com/ohtsubakiyuko/status/1333886801702862848
まるで現代の魔女狩り? 性被害を訴えた草津町議会女性議員へのリコール〈dot.〉(AERA dot.)
セクハラで刑事告訴された朴元淳ソウル市長が自死したと知った時、日本にはセクハラで訴えられたからといって自死するような男性はいないのではないかと思った。続
むしろ、完全に居直り、再起不能になるまで、セクハラや性暴力を訴えた女性を叩き潰すのが日本社会ではないかと言う話をしたら、他の女性も同じことを思っていた。それを確信するかのような草津議会の有り様。草津市民の判断が問われる。
ふと変な考えが頭に浮かんだ。道端に貼ってあった就活セミナーのポスターを見たせいかもしれない。スーツ姿の大学生が笑顔で「未来をつかめ!」みたいなことを書いていて、
で、そのまま考えが変な方向にすべって、
「もし自分に子供がいて、その子が大学卒業直前で自死したら、悲しいんだろうか」
とか考え始めた。
日本で働くって、幸福期待値としてはマイナスな気がする。よく言われることだけどブラック労働国家だし、朝の満員電車、上司に怒鳴られて消耗する日々とか、あれのどこに人生の肯定要素があるんだろうと思う。もちろん例外はあるんだろうけれど、多くの人にとっては「まあ、こんなもんでしょ」で誤魔化しながら続けるしかない。
そんな世界にこれから飛び込む寸前で、もし子供が降りてしまったら?
それって「悲しい」と考えるべきなのか(いや、普通に考えたら悲しいはずなんだけど)
それかあれか?親自身がこれから先の未来に穴が空いてしまうから悲しいのか。
たぶん多くの親は前者と言うんだと思うけどもそうはいっても、日本で大学卒業前に自殺するのは勝ち逃げという気もする
長く生きるほど苦労が増える国で、「本人の将来を思って涙を流す」とは言えない気もする
もし仮に、大学までそこそこ楽しく過ごして、友達と遊んだりサークルで飲んだり、講義サボって喫茶店で時間つぶしたり、そういう「人生のいいとこ取り」だけをして終えてしまったとしたら、それを悲劇と呼ぶべきなのか?本当に子供の幸福を思うなら喜ぶべきなんじゃなかろうか?
そもそも「悲しい」という言葉の中には、「寂しい」「自分の未来が変わってしまう」「周りから色々言われる」とか、ぜんぜん別の感情がごちゃまぜに入ってるような気がする。
それを全部ひっくるめて「子供のために泣く」と言い換えてるだけで、実際には自分の方の時間軸の喪失が大きいんじゃないだろうか
週末にライブ行った。ライブ自体はまあそこそこで、好きな曲もいくつか聴けた。MCは下手であった。
最近気分が落ちているとは思っていたが、ライブで好きな曲がはじまると、何故か自死のイメージがありありと思われて、死ななければという思いとその方法に考えが巡った。その曲は自死はもちろん命に関わるようなテーマの曲ではないのに。ホームセンターで縄買ったら理由聞かれたりするのかな、まで思いいたった。でも自分の部屋はそんなに気に入ってるわけでもないし、事故物件になっても困るだろうし辞めておく。海がいいと思った。
1人になると食べるか寝るかしかできない。正しい量や栄養的によい食事が選べずまた食べ過ぎてしまった。最近はお菓子ばかり食べている、あとはパスタとハンバーガーくらい。パスタはすぐ作れるしマックはいつでもウーバーできるから。野菜も米も食べたい気持ちはあるのに選べない。ついでに最近またお風呂も入れない。平日は朝急いでシャワーしてなんとか通勤に間に合わせている。休日は予定がなければ風呂には入れない。だいぶ髪を切って風呂の苦痛さが減るかと思ったがそうでもなかった。ラクではある。
大変興味深く観ています。
話があちこち飛んだりメシ食いながら考察してるのとかも賛否ありそうですが、私はわからなさや臨場感を共有している感じがして嫌いじゃないです。
観てない人は観てみてね。
4話目まで一通り見て上出氏も「ここからは集合知だ」と言っていたので、ここまで観て感じた疑問や仮説をここに書き記しておきたいと思い、眠っていたはてなアカウントを掘り起こした次第です。
事件のきっかけになったのではと推察されている小原が仕事を飛んで顔を潰されたとYに恐喝されたとされている事件ですが、こういう事は田舎のヤンキー社会ではありふれた事案で、こんなことが被害届の件なども併せて考えたとしても殺人事件なんかに発展するかな?というのが小原より少し下の世代で東北地方で少し悪い子をしていた私の肌感覚です。
アホであるが故に仕事を飛んだり不義理したり衝動的におかしなことをするのがヤンキーであり、ヤンキーの先輩はそういう後輩ヤンキーの愚行を目ざとく見つけては恐喝ネタにするというのが昭和〜平成のヤンキー界の日常風景でした。
強先輩ヤンキーは複数の後輩にこういった恐喝や脅迫を同時並行的に行っていて、かつそれらを真面目に精緻に追い込みや取り立てなどしているわけでもなく多額の金銭を要求していたかと思えば毎夜のごとく呼び出して可愛がってやったりと、大人の世界の契約とは違いヤンキー社会の債務など全ては先輩の気分や都合次第でどうとでもなる程度の事といった温度感だと思います。
だからこそ後輩はほどぼりが冷めるまで逃げたり命令に従うことで機嫌を取ったりするわけです。
この小原とYの事案もそういうものの一つだったのではと思うのですが、例え小原がYの脅しにテンパって被害届を出したとてそれを契機に殺人にまで至るというのは上記の温度感を考えると極めて不自然で、
自身への被害届が出ているタイミングで被害届の提出者である小原の自死を偽装したり小原の関係者であるBを殺害するのはYにとっても極めてリスキーでナンセンスな行動だと思いますし、このような小ヤンキーと中ヤンキーのショボいトラブルに上位ヤンキーのXが関わってくるというのも物凄く変。
偉い不良というのは自身に何かメリットや何か強い動機がないと下の者の揉め事になんて顔を突っ込んでこないものです。直接の後輩でないなら尚更。
このあたりは上出氏には釈迦に説法かもですが。
じゃ、なんなんだよという話ですが
Yに恐喝された小原が状況を打開するためにここまで明らかになっていない深刻で重大な敵対行為や裏切り行為をYに対して働き(Bも関わっていた)
その事態を収拾するためにYもXを頼らざるを得なくなり小原の自死偽装やB殺害に至ったのではないか?というのが私の仮説です。
上で述べた通り先輩ヤンキーにとって後輩を恐喝することは日常茶飯事であり遊びです。
それがエスカレートして殺人に至るというよりも恐喝されて追い詰められた側がラインを超えた行動を起こしてしまい取り返しのつかない事態になるという方が私にとっては自然に思えます。
小原は仙台方面で得た裏社会との繋がりを後ろ盾にYとのトラブルの解決を図ったのではないでしょうか?
しかしそのアテが外れ、解決の目がなくなり命の危険を感じた小原は被害届を出し、いよいよ危ないというところでAを実家に逃したのではないかと(小原が自発的に逃したと考えると無事を確認するためのワンコールと説明がつきます)
なぜBが殺害されるに至ったのかなど不明ですが小原サイドからYに対して重大な敵対行為があったと考えると色々説明つきやすくなるのではないかと思います。
以上、
子どもに言うことを聞かせるための(これも思い返せば躾の一環というより母の我儘を通すためのものだった)、例えば説得する能力だとか論理的に説明する能力が足りなかった。
そして口で子どもを言いくるめられないとわかった母は、殴る蹴る・飯抜き・怒鳴る・大切なものを壊すという手段を選び、幼少期の俺にはそれらの効果がテキメンなことを理解しそれを繰り返すようになった。
また母は生来コンプレックスが強く、いつも誰かの学歴や若さや自由であることをひがんでいた。そして同時に(守られる立場の)"子どもであること"にさえ嫉妬していた。
俺を自分のコンプレックスを代わりに晴らしてくれる操り人形にしようとしたし、俺が"子どもであること"にムカついたときは憂さを晴らせるサンドバッグにしようとした。
疲れた顔を見せると「自分がやるって言ったじゃん」とお決まりの文句を言う。
たしかに「やるよね?」とは聞かれて、「やる」と答えた。
そう言わないと、殴られたり蹴られたり「あんたのことを思っているのに! 恩知らず!」とヒステリックに怒鳴られる。
(どうしても嫌でずっと「やる」とは言わなかった時があった。母は自分の思い通りになるまで夕飯終わりから深夜にかけて、そして夜が明けてもずっと怒鳴っていた。眠そうな素振りを見せると殴られ起こされた)
こんなこともあった。
(俺が使っている)毛布を買い替えた方が良いと思って。
もう汚いでしょあれ。
新しいの選んで。
そう言った。
俺は嫌で、黙っていた。
母が汚いと言った毛布はあの頃の俺にとっては"あんしん毛布"で、家庭にも心休まる場所のない俺の精神にとってすごく大事なものだった。
それを替えたくなくて選ばずにいると、母はもういい!と怒って早歩きで駐車場へと向かっていった。
慌てて追いかけると、車が無い。
ここまで連れてこられた車が無い。
そのうちに店員さんに保護され1時間ほど経って母が帰ってきた。
にこやかに店員さんに「〇〇くん〜! 良かったー! はぐれちゃって心配したんだよ! 本当にありがとうございます!」と挨拶をし(外面だけはほんとに良かった。少し成長した後、周りの人間に毒母について相談しても信じてもらえず「甘え」認定されて終わった)、もう一度毛布売場に俺を連れて行った。
「毛布選んで。選ばないと今日から寒い寒いだよ。汚い毛布はもう捨てたから」
やるせなさにいっぱいいっぱいになった俺を『してやったり』という微笑で見る母の顔を今でも覚えている。
心はずっとぐちゃぐちゃだった。
(今は、少年期でも鬱病はあるという認知が広がっているらしいが、この頃[20年前]は少年期の鬱病はおろか精神疾患に対する偏見が今よりもっと酷かった)
母は一貫性が無い。
思いつきで俺を様々な方向へ行かせようとして、そしてそれに従わないと大人と子どもの差を利用して心をめためたに潰してくる。
そして、たまに甘やかすのだ。
「母は愛してくれていて、期待に応えられない自分が悪い」って感情と、
「この苦しみの元凶はこの女である」という本能という相対するものが頭の中を絶えずぐるぐると回っていてこの時期が人生の中で一番辛かった。
なんとか死なず(死ねずに。自死は何度か考えたが、怖かった。怖すぎた)に中学、高校と俺が成長していくにつれて、大人と子どもの差を利用できなくなっていった。
殴る蹴るは成長した男の身体には効かず、飯抜きもどうにかできるようになり、大切なものもあらかじめ隠しておくようになった。
またこの頃からインターネットやそもそも俺の移動範囲が増えて図書館等から毒親(まだこの名称は一般的では無かったと思う)や虐待に関する知識を得られて、前述の「この苦しみの元凶はこの女である」という本能に確信を持ち始めていて、母に抗うようになっていった。
(言い返せるようになったからといって平気になったわけではなく、言い返すたびにエネルギーの消耗は激しかったし、なにより虚しくひたすら悲しかった)
母はおそらく焦った。
そしてやはりそれを受け入れる資質が無かった。
高校3年生の冬、相変わらず母は毎日俺を"矯正"しようと怒鳴ったが(子の受験期よりコントロールを取り戻すのが大事なようだった)、俺はいっぱいいっぱいになりながら勉強を重ね、センター試験ではまあまあの結果を残し、県外の国公立大なら進学できるかもしれなかった。
だが(授業料等は自分でなんとかするにしても)、どうしても県外まで受験しにいくお金が無かった。
俺はここまで母への憎しみばかり記してきたが、この頃はまだどこかで『親は子を愛しているものだ』という偏見を抱いていた。
また高卒の母の息子が国公立大学に行くというのは、母のコンプレックスを代償として晴らすという点で目的が合致しているように思われた。
だから、金の無心をしに勇気を持って話し、そこで出願書類をビリビリに破かれた。
真っ赤な顔をしてボロボロと涙をこぼしながらわめいていた。
全然言うことを聞かないで。生意気言って。親の言う通りにしないで。
都合の良い時だけ頼るな。
もう良い。
働け。働いて今までお前にかけた金を返せ。
そう言った。
子どもがおままごとかなにかをしていて、最初は楽しぬ遊んでいたんだけれど思い通りにいかなくなったとたん、どうでもよくなってすべてめちゃくちゃにするようなことがあるけど、それを実の子の人生でやったのだ。
そうして少し落ち着いたあと、おそらく急に『人(子)の人生を壊した』ことに怖くなったのか「お前の人生だからな」と俺を突き放した。
上の記事のコメントで『体験を書いてみたら』というものがあった。
自分の境遇を省みる過程の中でネットにあまり虐待体験期は転がっていない(女性のものは時たま見かけるが、男のものはほんとに見ない。まるで存在していないかのように)のが気になった。
だからここに記してみる。
"同じような境遇の人がいるんだな"程度でも役立ってくれたらいいな。