栃ノ木の花が咲く頃

24042022small2.jpg


明日が祝日のイタリアは、今週末も3連休。昨日は気持ち良く晴れて、青い空を仰いだが今日は空が晴れたり雨が降ったりの落ち着かない天気である。雨が苦手な私だけれど、今日の雨はなかなかいい。天気雨と言う奴で、太陽の光が降り注ぐ中に降る雨を眺めるのは案外好きだ。窓の前の栃ノ木は白い花を満開にさせて、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、私を励ます。私はここ数日不調なのだ。何がどう悪いという訳でなく、言うなれば恒例の春の病。毎年3月終わりから4月に掛けてあることで、冬の疲れが溜まっているところに季節の変わり目が重なって、偏頭痛、そして体力低下。足に力が入らなくなって、椅子に座っているのも辛くなる。こういうのがかれこれ25年くらい続いているから、もう驚きもしない。ああ、今年もやって来た春の病、と私も相棒も慣れたものだ。体を休めればいいだけで、5日間ほどすれば通り過ぎていく病とも呼べぬような病。兎に角そういう訳だから、猫と一緒に窓辺に佇んで栃ノ木を眺めながら過ごす3連休。

若い頃、私は何事もチャレンジしてみなければと思っていた。試してみる前に諦めるなんて考えられないことだったし、いつかきっとと思っているだけで過ごすなんてことも考えられなかった。だからアメリカに住みたいと思い始めた時、それを単なる希望で終わらせるつもりはなかった。だから色んな準備をした。資金を貯めることもそのひとつだったし、定期的に通って住みたい街のことを調べたり、其処に住んでいる人達と知り合ってみたり、英語のクラスに通ってみたり。まだ若すぎると言って首を縦に振らなかった母が、4年後にはもう若くないのだからなど言って私を笑わせたことは今でも忘れない。あの雪が沢山降った日のことだ。自分の人生、後悔したくないからチャレンジしたい、それで駄目だったら後悔はするまい、自分が選んだことなのだから、と言ったとき、母は嬉しそうだった。何も出来ない、何も自分で決められない子供だと思っていた娘が、こういうことを考えるようになったことが嬉しかったのだろう。ならば自力で前に進みなさいと言って、背中をぐいっと押してくれた。それからは早かった。半年後にアメリカに暮らすために飛び立つまで、あっという間だった。
まさかアメリカでイタリア人と恋愛して、たった4年でアメリカを離れるなんて思っても居なかった。ボローニャに暮らすようになるなんて。脱線事故に遭ったようなものだと思う。ボローニャに暮らし始めたばかりの数年は軌道に乗れずに苦悩した。今の自分があるのは、遠巻きに応援してくれた沢山の友人達のおかげだと思う。どれほど沢山の手紙を受け取ったことか。そしてどれほど沢山の手紙を私は書いただろう。手紙を読みながら、そして書きながら、私は自分に言い聞かせていた。どんなことも過ぎてしまえば、笑い話のひとつのようにして人に話せるようになるものだからと。
今の自分は大勢の中のひとり。特別なこともしていなければ、人に自慢できるようなことも無い。手の中にはごく僅かものしかないけれど、毎日泣いていたあの頃のことを思えば、随分幸せだ。様々な花が咲く春は、そんなことを思いださせる。自分がひとりで歩んできた道ではないこと。相棒を含める沢山の人達が居たから、私が居ること。春は感謝の気持ちを思いださせてくれる。

体調不良なんて言いながら、着々と夏の計画は進んでいて、心がそちらに飛んでいる。3年振りの夏の小旅行。勿論昨夏のフィレンツェ日帰り旅行も良かったけれど、もう少し遠くへ。違う空気が流れる街へ。気持ちのリセットの旅。目に刺激を与える旅。考えればまだ4カ月も先のことだけど、きっとあっという間にやって来る。そうだといいと思っている。




人気ブログランキングへ 

アートかな

22042022small.jpg


昨日から今日に掛けて、予報通り散々雨が降った。強い降りではなかったけれど、休むことなくひたすら降った。だから今朝は通勤路のあちらこちらに大きな水溜りが出来て、通過する車が速度を緩めることなく通るたびにザブンと水飛沫を立てた。運が良かったのは通行人が居なかったことだ。
それにしても昨日からボローニャの気温はぐっと下がった。昼間も15度に満たぬ。其れに雨や風とくるから、体感気温はもっと低かったに違いない。地面も樹も草も濡れて光っている。乾燥していたから、彼らにとっては恵みの雨だ。今日は仕事帰りに旧市街に立ち寄って、小さな色々な用事を片付けた。そして帰りのバスを待つべくポルティコの下に佇み、雨に濡れた建物の外壁を眺めていたら、ふと思いだしたことがある。

ミラノへ行ったのはもう2週間前のことだ。ボローニャの毎日の渦に巻き込まれていて、段々ミラノの記憶が薄れつつあるが、幾つか忘れることが出来ないことがある。そのひとつが歩いている時に見つけた、建物の外壁に取り付けられた奇妙なもの。昼食を終えて散策をしていたら目に飛び込んできたものだ。ミラノ旧市街は根本的にボローニャ旧市街の様子とは異なるから、何も見ても新鮮だったが、しかし此れほど新鮮なものは無く、私は思わず足を止めて見上げた。そしてレンズに納めていたら、通り掛かった人がやはり足を止めて携帯電話で写真を撮り始めた。ちょっといい感じの雰囲気の人で、歳の頃は40歳前後だろうか。こんな人がボローニャの街を歩いていたら、さぞかし目立つに違いないと思った。ミラノでは其れほど飛びぬけて目立たないのは、この街にはこんな感じの人が多いからだろう。察するに、彼はどうやらこの辺りの人らしかった。ちょっと昼食のためにオフィスから出てきたような感じで、その証拠に書類やパソコンなどを入れた鞄類は持っていなかった。彼は写真を数枚撮ると、こちらを向いて声を投げかけてきた。興味深いよね、と。彼も私のように知らない人に平気で話しかける種類の人らしい。其れで私は外壁を眺めながら、うーん、アートかな、と答えると、そうさ、アートだよ、ミラノ市内にはこうしたアートが結構あるんだよ、と彼は言った。へえ、そうなの、なんて簡単な会話をして別れた後、私は再び観察しながら思うのだった。木材を利用したアート。此れは長雨など降ったら痛んでしまうアート。苔など生えてしまったら、しかし其れもアートなのかもしれない、と。

今週末も3連休。しかも今夜のうちに雨が上がって素敵な休みになるそうだ。だから多くの人が外に遊びに出掛けるだろう。私はゆっくりして、そして本格的に夏の休暇のプランを練ろうと思っている。週末万歳。




人気ブログランキングへ 

寒い4月

20042022small.jpg


復活祭の連休を終えて私達の生活が通常運行になった。早起きして仕事へ行って、夕方帰ってきて家でゆっくりして。時には仕事帰りに旧市街に立ち寄ったり。こうした普通の生活ができることを嬉しく思う。其れに今週末も3連休が控えている。こんな嬉しい4月ってあるだろうか。ツイていないのは明日から数日雨降りになること。まあ、私には特別な計画がある訳でも無いから雨降りだろうとなかろうと、あまり関係が無いと言えばそうだけど、しかし世の中には前から計画を立てて楽しみにしている人が沢山居るのだから、そういう人達の為にも週末は晴れてほしいと思う。

それにしても寒い。冬の寒さではないが、再び冬のジャケットやコートが必要なくらい。道行く人達の姿だって、なかなかの厚着である。4月も20日というのに、と言うと必ず帰ってくるのフレーズがある。4月に雪が降ったことだってあるのだからボローニャは。いったい何度聞いただろうか。相棒の両親から、近所の人から、行きつけのクリーニング屋の女主人から。其れは1991年の4月のこと。だから31年前のことになる。とても寒い日だったそうだ。4月というのに氷点下になって。だから年配の人達は口を揃えて言うのだ、4月だからと言って油断してはいけないと。それから冬の暖かいコートをクリーニングに出すのは、4月末まで待たねばならないと。もっとも地球の温暖化で、昔ほど寒くならなくなったけど、一応年配の人達の忠告には耳を傾けるようにしている。冬の暖かいコートの多くは既にクリーニング屋さんに持ち込んだが、ひとつだけ残しておいた。万が一の時の為、というやつだ。
夜中のうちに雨が降り始めるのかもしれない。今夜は月も星も無い真っ黒の空。ところが窓の外を見て驚いた。暗闇の中に浮かび上がった栃ノ木の白い花。それは大変幻想的で、釘付けになった。何時の間に花が咲いたのか。栃ノ木は本当に生命力があり、何時も先に先に急いでいる感がある。もっとゆっくり行こうよ、と声を掛ける私に栃ノ木は言う。もっと元気にいこうよ、と。栃ノ木を眺めていると、いつもそう言われているように思う。私の元気の源。私の元気のお手本。暗闇に浮かび上がる栃ノ木の白い花に、明日はもっと元気になると約束した。

今夜、相棒は沢山の野菜を抱えて帰って来た。知り合いの八百屋さんが、持っていきなよと美味しそうなのを袋に入れてくれたらしい。どうしてそんなことをしてくれたのかと訊いてみたら、何やら随分前に困っているのを助けたらしい。相棒よ、なかなかいいところあるじゃないか。身近な人から学ぶことあり。困っている人に手を貸すこと。これくらいなら、私にもできるかもしれない。




人気ブログランキングへ 

老舗高級食材店

18042022small.jpg


先々週、ミラノへの列車の中にあった小冊子。開くつもりもなく其のままにしておいたが、社内での乗車券とグリーンパスの確認の際にばさりと床に落ちて、その時偶然開いた片側のページの古い写真と文字が目に留まった。Castroni。ローマの老舗高級食材店Castroniの広告だった。写真は随分昔のもので、多分創業当時、つまり1932年頃のものだろう。記憶に残っている、私がローマで少し暮らした1996年とは異なるにしても、写真を見て懐かしいと感じるところを見ると、案外それほど変化していないのかもしれない。ローマの人ならCastroniといえばすぐに分かる程、名の知れた店。へええ、広告など出しているのかと多少ながら驚いた。広告など出す必要などないのにと思っていた私は、此の店を買い被っていたのかもしれない。

1996年、私はローマのプラティと呼ばれる界隈に住んでいた。若いイタリア人4人との共同生活は、賑やかで楽しくも、時々独りになりたくて外に出たものだった。午前中の時もあれば午後の時もあったし、夕食後の場合もあった。そんな時に行くのはVia Cora di Rienzo。テヴェレ河に架かる橋に向かって真っ直ぐ走る大通りで、道の左右には大小様々な店が連なっていた。幅広の歩道にはリラやプラタナスの樹が植わっていて、春は花や緑が目に美しく、其の下を歩きながらローマに暮らす幸せを感じたものだった。ローマに暮らす幸せとは。当時外国人が少なかったボローニャでは歩いているだけでも目立ち、人からじろじろ見られたものだが、ローマには世界中から旅行者がやって来るから街の人達は外国人に見慣れていて、私が歩いていたって誰も気にしない。其れが心地よかった。私は視線に疲れていたのだ。ローマでなら私はその他大勢で居られた。此の界隈に暮らし始めたばかりの頃は何も知らなかったが、次第に分かり始めたのは此の界隈はなかなか良い暮らしがあること。つまり、高級住宅地とは言わずも、それなりの人達が暮らして居るらしく、だから連なる店もまた、なかなか質が良かった。Castroniを押しててくれたのは同居人だった。彼女は生活に切羽詰まっていない人で、だからこうした高級食材店に気軽に通う人だったのだ。美味しいカッフェが始まりで通い始めたが、じきに此の店に行くと知ると他の同居人に御遣いを頼まれるようになった。フェタ・グレコを買ってきてほしいと。フェタ・グレコとはつまりギリシャのフェタチーズのことである。他に店にもあるけれど、あの店のが一番美味しい、というのが同居人の意見で、時々彼女の為にチーズも購入するようになった。そんなことをしているうちに私は店に毎週通うようになり、この店には多少なりの愛着を持つようになった。だからローマを離れてボローニャに戻って来た時、時々あの界隈のこと、あの店のこと、あの店のカッフェの匂いを思いだして溜息をついた。何か大切なものを残してきてしまったような気がしてならなかった。
そういうことも時間が解決してくれるらしい。私はあの店のこともあの大通りのこともたまに思いだすことがあったにしても20年以上が過ぎたから。だけどこんな風に偶然小冊子が開いてあの店の名前が飛び出して来たら、此れはもう運命としか言いようがなく、もう一度足を運びたいと思うようになった。ミラノに行くのに随分足踏みしたように、ローマへ行くのもなかなか億劫な私である。隣のフィレンツェにだって、列車に乗れば僅か30分というのに腰が重い私だから何時になるのか分からないけれど、一応手帳に書き留めておこう。ローマ、Castroni。日帰りだってよいのだから。

復活祭の翌日の月曜日でイタリアは祝日。連休を利用した旅先から戻って来た人達で、周囲は俄かに賑やかになった。明日からいつもの生活が始まるのだ。それにしても風が冷たい。4月も18日だと言うのに、まだコートが必要な寒さ。薄着もいいけれど風など引いたら困るから、格好つけるのはやめておこう。明日はコートを着て出よう。スカーフを首に巻き付けて。今が勝負時。風邪なんて引いてなるものか。




人気ブログランキングへ 

復活祭の青い空

17042022small2.jpg


今日は復活祭。朝から冷たい風が吹いたが空が晴れて上等な天気だった。ざわざわと音がしたのは今の窓の前の栃ノ木のせいだ。つい少し前、ようやく小さな緑色の芽が出たと思ったのに、今はもう葉が茂り、おまけにもうすぐ花を咲かせようとしている。もう隣の敷地の建物すら見えない。茂りに茂った葉が風に揺れてざわざわと音をたて、私に知らせてくれるのだ。ほら、もうそんな季節になったんだよ、と。そんな季節とは、ウールのセーターをしまう季節。重いコートを脱いで軽快に外を歩く季節。そしても直きツバメが空を飛び交うようになること。復活祭の週末には雨が降って残念がるのが恒例だけど、今年に限っては違うらしい。何か愉しいことを企てた人達にとっては最高の復活祭の週末。家族で丘へ行こうとしていた彼女も、故郷から両親がやってきて沢山の計画のある彼も、山の家に数日前から行っている近所の家族も、此の快晴を存分に楽しんでいればいいと思う。私は、特別な計画は無い。其れを残念とか何とか思うことは無い。私にとっては此の明るい空の復活祭の週末を元気で、そして心穏やかに過ごせること、それだけで充分嬉しいのだから。

先週、クローゼットの中を整理した。いよいよ冬物が不要になり、爽やかなシャツやパンツ、そして軽いジャケットが必要になってきたからだ。勿論まだ寒い日は戻ってくるだろうけれど、しかしもう冬物である必要はない。靴下にしても然り。ブーツを棚の上の方に、手の届かぬ上の方にピカピカに磨いてしまったから、モカシンやスニーカーに合う靴下を手前の方に引っ張りだした。素足にモカシンシューズとは言うけれど、傍からは見えない薄手の小さな靴下を私達はちゃんと履いている。足を守るためにも、靴を守るためにも、コットンの靴下は必要なのだ。それからシャツ類。半其れのシャツが眩しかった。此れを着る日はまだ先だと思いながらも、なるべく早くそんな日が来ることを願う。半袖シャツにジーンズ。其れにジャケットを着るのが好きだ。兎に角シンプルであればあるほどいい。
昔、私がまだ20代になったばかりの頃、私が住む街の大通りに小さな店が開いた。衣料品店でアメリカのトラッド物を扱っていた。半分以上が男性もので、女性ものはごく僅か。男性の方がこうしたものを必要としていることが多いからなのか、それとも男性の方がこうしたものを好むからなのか、遂に店主に訊けなかったことを残念に思っている。当時の私は恥ずかしがり屋だったのだ。今の私とは違って、知らない人と平気で話すなんて考えられなかったから。店主は身なりの良い男性で、40代くらいだっただろうか。彼は店のモデル代わりもしていて、彼が身につけるものは簡単に売れて行った。店が開いて間もなく母と一緒に興味半分で立ち寄ったら、今まで欲しいと思ったこともないようなジャケットに一目惚れした。其れは俗に言うブレザージャケットで濃紺の生地に金色のボタン。肩がカッチリしていてその美しさにぞっこんになった。今まで手に入れたこともなければ来たことも無いタイプの服だったが、試着してみたら丁度良く、思いがけず似合ったので迷わず購入した。それから私はこのジャケットを愛用して、行く先々で褒められたものだった。
アメリカに渡る時、私は多くのものを家に置き去りにした。其のうちのひとつが此のジャケットだった。理由は分からない。あれほど気に入っていたのに。そのうちその存在すらも忘れてしまった。随分後に母がひとりで住むには広すぎるから、そして庭の草取りが大変すぎるからと言って家を売ってしまった時、私が残したものは様々な場所に寄付されたと言う。残していったものだから執着は無く、だいたい何を残したかすら覚えていなかったから、全然残念ではなかった。敢えて言うならばレコード。70年代、80年代に買い集めたレコードだけは、残して貰いたかったけれど。其れが数年前、帰省した時に母があのジャケットをとっておいたと言うではないか。あのジャケットは仕立てがよく流行も無いから、また何時か着る日が来るに違いないと母は思ったらしい。そうしてクローゼットから出してくれたあのジャケットは確かに今見ても流行を超えた美しさがあった。痛んでも汚れてもいない。母が丁寧に保管してくれたことが分かった。有難う、取っておいてくれて有難う。そう言って私はジャケットを鞄に詰めてボローニャに持ち帰った。さて、其のジャケット。確かに好みだが、着てみたらキツかった。あれから随分の年月が経ち、私の体型もコットロールが利かなくなり、様々なものを諦めたが、此のジャケットもその運命をたどることになった。痩せっぽちだった頃のジャケットだから、仕方がなかった。それ以来、私は此の類のジャケットを探している。シャツにジーンズのラフな姿、だけどこんなジャケットを着ると格好良く決まる。だけど見つからない。もう何年も経つと言うのにまだ見つからない。だけど探し物とはそういうものなのだと思っている。

隣の家の奥さんから頂いた、トマトの美味しさに脱帽。話によれば彼女の娘の恋人がローマの郊外の出身で、農家だそうだ。家族こぞって遊びに行ったら、山ほど収穫物を分けてくれたと言って、うちにも沢山分けてくれた。大きなカルチョーフィ。大小様々なトマト。そのと窓が驚くほどいい匂いで、太陽の恵みたっぷりで味が濃く、連日うちはトマト祭りだ。トマトなんて一年中手に入るけれど、やはり季節のものはその季節に食べるのがいい。昔私達の親友ボブがそう言って譲らなかったが、今の私は其れに同感だ。トマトも季節に食べるのが一番美味しい。此れから夏の終わりまで、美味しいトマトが毎日食卓に登場する、そんな季節。




人気ブログランキングへ 

Pagination

Utility

プロフィール

yspringmind

Author:yspringmind
ボローニャで考えたこと。

雑記帖の連絡先は
こちら。
[email protected] 

月別アーカイブ

QRコード

QR