
朝から雨が降った。雨降りと月曜日が重なるとは何という不運。時々仕事の手を休めては何度も窓の外を眺めた。時折聞こえる遠い雷。窓ガラスを打つ強い雨。路上にはあっという間に大きな水溜りが幾つも出来て、気温は思ったよりも上がらぬ肌寒い月曜日になった。もう秋物を出さなくては。半袖に重ねて着たコットンセーターの上から腕を摩ってそんなことを考える。雨の日はいつもそうだ、私が暮らしたアメリカの町を思い出す。坂が沢山ある町で、雨期になると毎日こんな雨が降った。雨期でない時は濃い霧がしばしば発生した。夏でも肌寒くて長袖が離せなかった。快晴の日は心がわくわくした。独りで、それから皆で町を歩くのが好きだった。海が見えるあの坂の上まで。もうこれ以上は歩けないと言いながら、それでいて得意げに胸を張って歩いたものだ。なのに、わくわくした快晴の日よりもこの町の雨降りを真っ先に思い出すのはどうしてだろう。ボローニャのようなポルティコがあればどんなに良かっただろう。傘を持たずに降られた日は着ていたジャケットを頭から被って近くのカフェまで走った。カフェはそんな人達で混み合っていて、空席だったらそれが相席でも構わなかった。私には町のあちこちに気に入りのカフェがあった。だから急に降られても駆け込み先に困ることは無かった。一番覚えているのはカフェ・トリエステ。トリエステがイタリアの町の名前であることすら知らなかった。このカフェは兎に角この辺りでは有名で、ここに通う人が沢山居た。アメリカにしてヨーロッパの匂いが立ち込めるカフェだった。友人のうちの半分ほどがこの店の常連で、だから昼過ぎから夕方にかけて、それとも夜も9時頃に立ち寄ると大抵誰か見つけることが出来た。誰にも会わずに手紙を書きたい午後まだ早い時間なら、大通りを挟んで向こう側の若いカフェへ行った。カフェ・グレコ。夜になると猛烈に混むこの店もそんな時間ならば相席もせずに悠々と、カップチーノ一杯で長居することが出来た。いったい何通の手紙を書いただろか。時には嬉しい手紙を、時には辛い手紙を綴る為に。手紙を書き終えて、さあ店を出ようとした時に雨に降られたこともある。10分もすれば止むだろうと店の出口に突っ立って待ったが、止むどころか益々雨脚が強くなるのを見てまた席に着いたこともある。店の人はそんな私を追い出すこともしなければ他の注文を求めることも無く、全く居心地の良い店だった。などと、雨音に耳を傾けながら十何年も前の雨の日のことをまるで昨日のことのように思い出した。数日前ボローニャ旧市街を歩いていた時、広場にせり出したテーブル席に座る人たちを見て何か思い出しそうになりながら、遂に思い出すことが出来なかったそれは、多分そんなことだったのかもしれない。窓ガラスを叩きつける強い雨の音、ガラスを滑り落ちる雨の雫を見ながら、そうそう、多分このことだったのよ、と安堵の溜息を漏らした。