はてなキーワード: 煉獄とは
同じ¥500が二つに分岐する瞬間がある。
松屋のカウンターで券売機のボタンを押す¥500。配信のチャット欄でスーパーチャットを送る¥500。前者は340kcalの熱量に変わり、胃に届き、数時間後に消える。後者は配信者の口から自分のハンドルネームが発声される3秒間に変わり、鼓膜に届き、数秒後に消える。
どちらの¥500も、使われた瞬間に消滅する。だが消滅の仕方が違う。牛丼の¥500は何に変わったか説明できる。スパチャの¥500は説明できない。
----
この説明不能性には技術的な根拠がある。スーパーチャットは感情を整数に変換するプロトコルだが、仕様にセマンティクスの定義がない。
SUPERCHAT_PACKET {
amount: uint32 // defined
message: utf8[] // defined
color: enum[7] // defined
intent: ??? // UNDEFINED
}
intentフィールドが未定義のまま本番に出た。¥10,000は「愛している」かもしれないし「暇で金がある」かもしれないし「このチャットを支配したい」かもしれない。プロトコルは区別しない。金額は意味の非可逆圧縮であり、復号アルゴリズムは存在しない。
牛丼にはこの問題がない。¥500=並盛一杯。intentフィールドは「空腹の解消」でほぼ確定している。食欲は意味の不確定性を持たない。だから誰も牛丼を買う行為に怒らない。
投げ銭文化への反発は、金額が高いから起きるのではない。intentが未定義のまま可視化されるから起きる。¥500という数字が見えた瞬間、親密さに度量衡が発生し、度量衡を持った親密さは牛丼と比較可能になる。比較可能になったものは聖域ではない。「最初から聖域など無かった」という事実が、牛丼一杯分の数字で証明されてしまう。
----
1517年、ドミニコ会士ヨハン・テッツェルは贖宥状を売った。金を払えば煉獄の年数が短縮される。罪の赦しに値段がついた。マルティン・ルターは激怒した——恩寵に値段をつけるなと。
INDULGENCE v1.0 (1517) SUPERCHAT v2.0 (2017) medium: coin medium: JPY/USD message: prayer request message: utf8[] minister: priest minister: streamer grace: years_off_purgatory grace: seconds_of_recognition
パケット構造が同一であることは偶然ではない。どちらも「値段のつかないはずのもの」に値段をつけるプロトコルだからだ。テッツェルの贖宥状は神の恩寵を、スーパーチャットは人間の承認を、それぞれ通貨単位に変換する。そしてどちらのプロトコルにも、intentフィールドが未定義のまま残されている。
だがテッツェルの実装と現行のスーパーチャットの間には、一つの決定的な差異がある。テッツェルには料金表があった。身分と罪の重さに応じた価格が事前に定まっていた。スーパーチャットにはそれがない。「あなたが決めなさい」と言われる。会衆が自分で恩寵の値段を設定する。
歴史上のどの教会もこれをやらなかった。人間は自分の救済にいくら払うべきかを決められないからだ。
料金表の不在が、牛丼を度量衡として召喚する。公式の基準単位がない以上、会衆は自力で換算表を発明しなければならない。ある者は牛丼で測り、ある者は時給で測り、ある者は「推しの笑顔何秒分」で測る。全員が異なる度量衡を使って、同じ恩寵に値段をつけている。バベルの塔の崩壊後に、全員が異なる言語で同じ神に祈っているようなものだ。
そして隣の席の人が¥10,000を投げる。わたしは¥500。牛丼一杯分。わたしの信仰は隣人の20分の1なのか。この比較が可能になること自体が地獄である。テッツェルの料金表は残酷だったが、少なくとも比較の苦痛からは解放していた。全員が同じ表を見ていたから。
----
カトリック神学の核心に聖体変化(transubstantiation)がある。パンとワインの外見——偶有性——はそのままに、実体(substantia)がキリストの肉と血に変わる。見た目はパン。本質は神。
スーパーチャットでは逆の変容が起きている。¥500の偶有性は経済的取引そのものだ。通貨単位、決済システム、プラットフォーム手数料率30%。だが送信者にとっての実体は牛丼を離れている。それは承認の要求であり、匿名性からの脱出であり、ときに悲嘆の放送であり、ときに愛の宣言である。牛丼の偶有性を保持したまま、実体が非経済的な何かに変容している。
投げ銭批判者は偶有性を読む。「¥500は¥500だ。牛丼だ。取引だ。搾取だ。」
投げ銭擁護者は変容後の実体を体験している。「金額の問題じゃない。気持ちだ。」
聖体論争 (16世紀) カトリック(実体変化説): 実体は変化し、偶有性は残る → パンは肉である ルター(共在説): 実体は共存し、偶有性は残る → パンの中に肉がある ツヴィングリ(象徴説): 実体は不変、偶有性も不変 → パンはパンを表すのみ 投げ銭論争 (21世紀) 送信者: 実体は変化し、¥500の偶有性は残る → ¥500は愛である 穏健派: 実体は金銭と共存する → ¥500の中に愛がある 批判者: 実体は不変、金は金のまま → ¥500は牛丼のままである
批判者のポジションはツヴィングリの象徴説と構造的に同型である。パンはパンだ。¥500は牛丼だ。そこに超越的な何かが宿ると信じるのは幻想にすぎないと。
だが配信者がハンドルネームを読み上げた瞬間、送信者の体に起きていること——心拍の微細な変化、ドーパミンの放出、名前を呼ばれたという事実の身体的登記——は、幻想では説明がつかない。何かが起きている。偶有性の内側で。だがそれが「何」であるかは、原理的に、外部から観測できない。
だからこの論争には決着がつかない。500年前と同じく。
----
配信者は司祭職を選んでいない。プラットフォームが収益化を有効にした瞬間、叙任が起きた。ダッシュボードの「収益化」トグルをONにすること、それがこの時代の按手礼である。テッツェルは少なくとも自分が贖宥状を売っていることを知っていた。現代の司祭たちにはその自覚がない。彼らは読み上げという秘跡の執行を通じて承認という恩寵を発行している。Ex opere operato——事効的に。執行者の内面に関係なく、プロトコルが走れば恩寵は発行される。
会衆の側でも制度化は進む。常連が生まれ、ハンドルネームが記憶され、内輪の典礼が形成される。奉仕(切り抜き、ファンアート)がある。教義(推し文化のコード)がある。異端審問がある(「あいつはガチ恋勢だ」)。破門がある(BAN)。殉教者がいる(炎上して垢消しした古参)。
投げ銭文化への反発が最も激しくなる瞬間は、金額が高い時ではない。コミュニティが自分たちを教会だと気づきかけた時だ。気づきかけて、その認識を拒否する力が反発として噴出する。「いや、これはただの趣味だ」「推しているだけだ」「宗教じゃない」。否認の強度がそのまま、構造的同型性の証拠になっている。
初期キリスト教の信者たちも自分たちを「教会」とは呼ばなかった。エクレシア——集会——と呼んだ。ただの集まりだと。
----
¥500が牛丼でありかつ愛であるという命題は、パンが小麦粉でありかつ神の肉体であるという命題と同じ構造を持ち、同じ検証不能性を持つ。スーパーチャットのintentフィールドは未定義のままであり、聖体の実体が変化したかどうかを外部から観測する手段は存在せず、料金表は永遠に再発行されない。
この不確定性は投げ銭に固有のものではない。すべての価格決定に潜んでいる。ただ、スーパーチャットの¥500はそれを素手で触れるほど近くに引き寄せた。牛丼一杯という、誰にでも分かる度量衡を使って。
できないまま、¥500は今日も飛ぶ。松屋に向かう¥500と、チャット欄に向かう¥500。同じ硬貨の表と裏のように。片方はカロリーに変わり、片方はintent未定義のまま、どこかの配信者の唇を通過して、消える。
増田の言ってること、、さすがに世界を2つに分けすぎだと思う。
って、極端なキャラを2つ置いて「はい世の中これです」ってやられても、
その間のグラデーション全部消えてない?と思う。
職場で評価されてる人って、別にそんな漫画みたいなキャラばっかりじゃないだろ。
みたいなのが普通にいて、それぞれ違う形で評価されてたりする。
の二択にしてる。
そりゃその構図の方が「わかる…」って共感は取りやすいけど、さすがに整理が雑すぎると思う。
これも少し違う気がする。
みたいに仕事の形を変えていく。
逆に「俺はできるからお前もできるよな?」みたいな空気になるなら、
「他人がやっていることを自分もやらなきゃいけない」と勝手に思い込む人もいる。
例えば、誰かが早く出社しているとか、残業しているとか、
仕事を巻き取っているとか、そういうのを見て
「自分も同じことをやらないといけない」
でも普通は、
でやっているだけであって、
別にチーム全員に同じことを求めているとは限らない。
→「この人のせいで基準が上がった」
→「善意で人を壊す」
みたいな認識になっているヤツもいる。
だれもそんなことを求めてないのにね。
あともう一つ気になったのがここ。
「煉獄さんも最終的に命を燃やし尽くした」
って話。
でも、もしそういうタイプのリードがいて、そういう人が続けて辞めていくのであれば
それって「燃え尽きて散った」んじゃなくて、単にその環境にうんざりして出ていった可能性も普通にあるんじゃないの。
仕事を前に進めるために手を動かして、巻き取って、責任持ってやってるのに
「それをやると僕らもやらなきゃいけないのでやらないでください」
みたいな反応ばっかり返ってくる職場だったら、そりゃ嫌にもなると思う。
で、そういう人がいなくなった後に
「あの人の基準が高すぎてチームが壊れてた」
って物語が出来上がるのも、割としょうもないありがちなパターン。
増田の書き方って
って構図にすると話がきれいにまとまるんだけど、
➁になろうとしたことあるよ。スキルを上げて人格者のふるまいしても、周りのハードル上げて恨まれるから持続性がない。しかも➀寄りのやつにメンタル削られて倒れた。俺は煉獄さんにはなれなかったよ炭治郎。
社会人10年やってきて気づいたんだけど、職場で「こいつ仕事できるな」って周囲から認定されてる人間、だいたい2パターンしかいない。
これ言うと怒られそうだけど、事実だから言う。仕事できる奴、だいたい性格悪い。
「で、なんでできてないんですか?」を真顔で言える。相手が泣きそうな顔してても「いや、泣いても納期は変わらないんで」って平気で言う。飲み会で「あいつ使えない」って本人に聞こえるか聞こえないかの声で言う。部下が体調不良で休むと「あ、そう」の一言で終わり。でも自分の仕事は絶対に落とさないし数字も出す。
パワハラですか?って言われたら、まあグレーからクロ寄りのことは確実にやってる。でも成果出してるから上からは守られる。人事に相談が行っても「あの人はちょっとキツいけど優秀だから…」で処理される。被害者が異動するやつ。見たことあるだろ、お前も。
ムカつくのは、こういう奴が実際にチームの数字を叩き出してること。詰められた側は胃に穴が開くけど、プロジェクトは確実に前に進む。「心理的安全性」の真逆を行く運営スタイルなのに、結果だけ見ると「あのチーム成果出してるね」になる。
会社って結局これを許容してるんだよな。口では「ハラスメント撲滅」って言いながら、数字出す加害者は守る。
もう一つのパターンが、能力もメンタルも体力も全部高水準で揃ってる人間。煉獄さんみたいなやつ。
このタイプは加害性がない。むしろめちゃくちゃ人当たりがいい。後輩の面倒もよく見るし、誰かがミスっても「大丈夫!ここからリカバリーしよう!」って本気で言ってくる。「俺は俺の責務を全うする!」みたいなテンション。①と違ってパワハラもしない。人格者。
でもこのタイプが成立する条件がエグくて、
全部揃ってないと成立しない。完全にSSRキャラ。遺伝と環境のガチャ当たった人。しかもこのタイプ、体感で100人に1人もいない。
で、ここからが重要なんだけど、②のタイプは①と違って悪意がない分、周囲への破壊力に本人が気づいてない。
煉獄さんがチームにいると何が起きるかというと、あの人のスタンダードにみんなが引っ張られる。本人は「一緒に頑張ろう!」って善意100%で言ってるんだけど、その「頑張ろう」の水準がバグってる。毎朝7時に出社して、誰よりも手を動かして、夜10時まで働いて、それでも笑顔。「辛かったら言ってね!」って声かけてくれるけど、あの人が涼しい顔でこなしてる量を見た後に「辛いです」って言えるわけないだろ。
結果どうなるかというと、チームの凡人がまともについていこうとして順番に潰れる。残業が常態化して、でも煉獄さんは元気だから「このペースおかしいのでは?」という声が上がらない。上がったとしても煉獄さんは「そうか、すまない! 無理はしないでくれ!」って本気で言うんだけど、チーム全体の仕事量は煉獄さん基準で設計されてるから、「無理しない=チームに迷惑かける」になる。善意の過労スパイラル。3ヶ月後、煉獄さん以外の全員が目の下にクマ作ってる。半年後、誰か休職する。
①は加害してる自覚がある分まだマシとすら思える瞬間がある。②は善意で人を壊す。本人はいい人だから余計にタチが悪い。
①にも②にもなれない凡人がどうするかというと、「まあまあそこそこの仕事をして、まあまあそこそこの評価をもらう」しかない。
①を真似しようとすると、加害性のコントロールが効かなくて単なるパワハラおじさんになって通報される。成果が伴わない加害はただの犯罪。②を目指すと3ヶ月で心身が壊れて休職する。②の下で働いても同じく壊れる。詰んでる。
結局「仕事ができる」の正体って、スキルや知識じゃなくて「他人を踏んでも平気なメンタル」か「全方位にバグった人間スペック」のどっちかで、どっちも後天的にはほぼ手に入らない。
自己啓発本の「主体性を持ちましょう!」「率直にフィードバックしましょう!」は、①を漂白して綺麗に言い換えてるだけ。あの本に書いてある「率直なコミュニケーション」を本当にやると、だいたい①になる。
念のため言うと②の煉獄さんも最終的に命を燃やし尽くしたので、持続可能性には疑問がある。そしてその炎に巻き込まれた周囲の凡人のことは、物語では描かれない。よもやよもやだ。
話題になってたので観てきました。
・予習としてハムレットとダンテの神曲のあらすじを頭に入れて挑む。物語の下地にはなっているのだろうけど、個人的には知らなくても問題なかったな。
・ハムレットからの換骨奪胎ぶりが面白いとの評判だったが、個人的にはそもそも悲劇を描こうとしてないしハムレット派生作品として見るもんではないなと思った。単純明快な勧善懲悪の作品に思った。細田守らしい子供向けを意識する。ハムレットとしては、王様が意地悪に叔父に殺されて復讐心に燃えるハムレット、毒で殺すつもりが毒で死ぬ叔父、まぁ様々イベントは似たことが起きる。が、知ってても知らなくてもどうでもよく思う。レアティーズいないし。
・神曲への解像度は私は低い。世界文学的にものごっつい大事な作品で、地獄から煉獄、天国への長い旅を、様々な著名キャラと出会い別れながら進む神聖なる喜劇、的な理解。あんまり知らない。スカーレットでは舞台としては準えてるけど、下地として何か作用しているようには感じなかった。棺桶のシーンとかは関係してそうに思ったけど、それは神曲を知ってないといけないかと言われるとそうは思わなかった。それともそれは重要なシーンを無理解に進んでしまった私の不甲斐なさかもしれない。
・時をかける少女が宣伝に持ち出されたのは、まさに時をかけていたから、かな?安直だけど。
・一つ一つのシーンの絵作りは前評判通り、どれも美しく素晴らしい。
・特にスカーレットが可愛すぎる。表情ひとつひとつが愛おしい。
・シーン一つ一つが夢の中って感じ。私は村上春樹の世界の終わりとか、海辺のカフカとか好きなので、こういうの好きぃ…ってなった。
・現代に生きる私を写像した先のスカーレットが写像する世界ってのは、ナーロッパ的な中世であって、銃が存在し、僧がおり、アフリカとか南米とか、色んな文化が表層的に混じり合う。作中では、過去も未来も生も死も混じり合う世界とわかりやすく何度も表現される。細田守最高だぜ。こういうファンタジーへ大衆を入門させてくれてありがとうだぜ。私はこういうのが好きだ。
・服飾考証しっかりしてるとの事前情報通り、私はよく知らんけど多分しっかりしていたと思われて、その解像度のおかげで、地獄の狂い具合が鮮明で面白い。混じり合って混沌としている。
・産業革命以降の武力が作中に存在しないのは、それが我々にとっての現実の脅威だからだと思う。この作品はファンタジーなんだ。力強い線引きを感じた。
・渋谷ダンスシーン、きたきたぁ!!ってなった。幾原的な心象風景かと思ったら丁寧に前段から渋谷という箱の舞台を歪にチラ見せしたりしてて、思ったより浮いてはいなかったかな。いや画としてはバチクソ浮いてたけど。まぁ意図はかなり明快に伝わった……と思ってる。でも現代の子どもがこの渋谷や踊りを自分ごととして捉えられるかというと疑問よなぁ。現実を描写できない制約の中でのスカーレット心象の箱庭、非現実の作中での現実としての非現実としては面白い画だった。私→スカーレット→聖→スカーレット→渋谷。クール。
・宿の主人、てのが登場人物紹介にいたが、作画として特徴的だなと思ったが映画の中では短いシーンだった。でも重要な役割だったんかなぁ。
・スカーレットの成長を見守るおじさんの気分になった。私も歳をとったなぁ。
・聖、なぜお前は矢を放った……?抑止力はその装置を発動させてしまったら終わりだ。それはお前の思想と矛盾しないのか。観終えた後、ダンテでいうと七つの大罪のシーン中だと振り返ってみるが、結びつけるには苦悩する。いやこんなん結びつけなくてええかってなった。……いやでもまじで意味わからん。知りたい。
・雑魚雑魚悪役にレアティーズとかいう名前が付けられてるのも何か関係あるんか……?
・ハムレットにおけるクローディアスの懺悔は本物の神への懺悔。現代日本では神への信仰が薄く、物語でもあまりに薄情。
・最後のキスと涙が商業的すぎて泣けなくて泣いた。しかし世の中の大衆はそれが好きなのだろう。届ける先のニーズに応えようとする様はえらい。これを描くには時間が足りない。
・争いよりも友好を、憎しみよりも愛を。これはもっともっと丁寧に描いてほしい。もう1時間割いていい。3時間でいい。…でも忠実に2時間に収めて偉いなぁ。細田守はすごい大衆作家だ。
文学的な作品として観たら不評の嵐になるのはなんとなく感じるが、私は素養がないのでその辺はノータッチで。
芝居も映像はやっぱ最高のクオリティだ。映画館で観て良かった。地上波でも家でも観たくない。
価値観も好きだ。物語の壮大さも好きだ。でも、ラストだけはちょいと心残りだなぁ。
オマツリ男爵もだけど、細田さんはラストへの拘りや興味があまりない……?
作家をメタれば、前半の苦悩や憤怒の感情はきっと描きたいものであったとは思う。
でも作品として本来目指す描きたいものは、それなりに人間の根源的なもの、思春期の頃に精一杯みんなが考えて悩んでほしいことで、大人になっても向き合って向き合って考えていきたいことだとは思う。
その勧善懲悪は良いが、憎しみへの向き合い方としての成功例としてこのように描くにはご都合が良すぎるように思った。特に聖の矢とクローディアスへの天罰。
現実でいうと、例えば中共がオラオラしてるのを武力を持ってやめろやめろと脅すまではいいけど実際に刃を抜いたら戦争なっちまうやん、対話で友好を目指そうぜっていう作品にしたいのにさ、殺しちまったらそれは勝てば官軍ストーリーやん。現実では為政者が落雷で都合よく命を落とすわけないやん。殴ってきた相手を殴り返してはい終わりになるわけないやん。スカーレットが殺してなくても、殺す味方が代わりに殺してくれたありがとーは、私は、同罪だと思う。目を逸らすな。私はそれは嫌いだ。
利己的な活動と、利他的な活動のバランス。攻撃性と社会性のバランス。自己家畜化した我々が、より家畜化できる先を目指したいんだ。攻撃すんなと説くだけでは、攻撃的な人間が独裁的に得をするゲームバランスは崩れない。我々は山上を生まないですむ社会にしなければならない。そういう思想のもとで、細田守は何をどう伝えたかったのだろう?だから、聖が矢をもって暴力を振るったことへの解説をまじで教えてほしい。教えて!!
白銀御行(かぐや様は告らせたい)
竹取物語の話題になった際に、「自分が帝の立場になってかぐや姫から不死の薬をもらったら不死の薬を飲んでどれだけ時間がかかってもかぐや姫を迎えに迎えに行く」と言う。これまでの日本の創作ではヒーローが不老不死を否定するかっこよさ(煉獄杏寿郎、賢者ゲド、ルパン3世、星野鉄郎、キャプテンハーロック、ぬーべー、服部平次etc)が表現されてきたが、このキャラの場合ヒーローが不老不死を肯定するかっこよさが表現されているところが新しいと思う。
ギターやジグソーパズルなどやりたいことがたくさんあるので不老不死になりたいという考えを持つ。シンプルでありながら今までこういう考えのキャラはいなかったという意味で斬新だと思う
「Slackとかの文章の文末に「。」を付けられると相手に威圧感や恐怖感を与えます。「!」の方が印象が良いです」
と言われた。
その場は一応社会人なので素直に「わかりました!」と返答したが、心の中では素直にこう思った。
「ばかじゃねぇの?」
と。
で、案の定その上長のSlackの投稿やGoogleドキュメントのコメントには隅から隅まで「!」で埋め尽くされている。
「この◯◯◯◯が~~~~です!◯◯◯ください!」
「これは◯◯を~~~~だと思います!」
↑本人は元気よく笑顔でコメントしているのを表現しているのだろうけど、どう見ても怒鳴り散らしているようにしか見えんだろ?こんなの。
もしくは煉獄杏寿郎並みの勢いで喋っている頭のおかしなハイテンション人間にしか見えない。そっちの方がよっぽどやばくねぇか?
ブコメで異常者とか言われてるが、これはかなり社会的に正しい性欲だよ。
私は逆に作品を好きになると萎えちゃうんだよな、いい作品では抜けない。
「作品そのものは見てないけどなんか最近コイツの二次創作イラストとかよく見かけるな」、くらいの距離間のほうが抜きやすい。
これって要するにヤリ捨て思考なわけよな。
対して元増田は相手の生きる世界(作中世界)に対する理解を深め、キャラの生い立ちや行動原理とか、心のありようとかを理解したうえでおシコり申し上げるわけでしょ。
ってのは、表層的な筋書きやキャラの造形に惑わされずに、ちゃんと相手を好きになって、理解して、それから「性欲」が来るわけじゃん。
男はストーリーを重視し、女はキャラクターを重視する傾向があると思う。
多分、鬼滅のキャラごとのターゲットはこういった具合に分散されてるのかな?
時透、義勇、善逸......女子人気高い。前者二名は無口で特別な才能と中性的な容姿を持つインキャと分類できる。善逸のような女好きタイプも捨てがたい。
煉獄、派手柱......男子人気高い。堅固な信念を持ち、人を巻き込むタイプ。
しのぶちゃん、カナヲ......小さな女の子たちの憧れのお姉さん枠。フリーレンと一緒。
禰󠄀豆子......キャラデザインが非常に優れているが、その実どこをターゲットにしているのかよくわからないキャラクター。女の子的感性からして可愛いのはわかるけど、感情移入対象ではないと思うし、男目線でそこまで唆られはしない。アクリル板とか一枚絵にすると映える。けどそれだけ。
炭治郎......もっともニュートラルな立場のキャラ。主人公でありながら、炭治郎推しというのは少ない。主人公って案外それくらいが一番良い。BL需要はある。
キャラ掘り下げ方式でストーリーを進めている鬼滅の欠点だと思ったのが、ストーリー後半で扱われたキャラへの愛着が薄くなることかもしれない。
霞ィィ↑柱とか蛇柱とか、活躍するのが遅かったせいで、自分は正直印象が薄い。
一方で、煉獄さんや派手柱、しのぶちゃんやインキャ義勇はすごく印象に残っている。