はてなキーワード: 法律とは
定義: 個人の魅力・能力・選好に基づく「選ばれなさ」であり、特定属性への敵意や制度的排除を伴わないもの。不快ではあっても、差別とは質的に異なる。
この段階のポイント: 本人にとっては深刻な苦痛でありうるが、「属性を理由とした不当な扱い」ではないため、差別の文脈で扱うと議論が混乱する原因になる。「つらさ」と「差別」は別の軸である。
定義: 特定の属性に対する否定的なステレオタイプが社会に流通し、その属性を持つ個人が日常的に偏見にさらされる状態。法的権利は侵害されていないが、尊厳の毀損や心理的負荷が継続的に発生する。
この段階のポイント: 個々の言動は「悪意がない」「冗談」「褒めている」と弁明可能なものが多いが、当事者にとっては累積的に尊厳を削る。可視化されにくいため「大げさ」「被害妄想」と退けられやすい。
定義: 特定の集団・コミュニティにおいて、ある属性を持つ人々への攻撃・蔑視・性的対象化が文化として定着し、組織的・反復的に行われる段階。個人の偏見を超え、集団の規範として加害が正当化される。
この段階のポイント: ②との決定的な違いは、加害が集団の文化・規範として機能している点にある。「ノリ」「ネタ」「ジョーク」として正当化され、批判する側が「空気を読めない」「過剰反応」と攻撃される。脱人間化(dehumanization)の言語が定着すると、より深刻な段階への心理的障壁が下がる。
定義: 法律・制度・政策によって特定の属性を持つ人々が権利を制限され、または不利な立場に置かれる状態。国家権力が差別を正当化・執行する。
この段階のポイント: ②③が「社会の中の差別」であるのに対し、④は「国家による差別」である。法が差別を禁止するのではなく、法そのものが差別を構成する。被害者は法に訴えることができない(法自体が敵であるため)。制度的差別は撤廃後も長期にわたって構造的不平等として残存する。
定義: 特定の属性(人種・性別・性的指向・宗教・民族など)に対する憎悪を動機として、個人または小集団が行う身体的暴力・殺人・テロ行為。法制度は(少なくとも建前上は)これを禁止しているが、実効的に防止できていない、または暗黙に容認されている。
この段階のポイント: ③との違いは、言語的・心理的暴力から身体的暴力・殺人へと移行している点にある。ただし③の脱人間化言語が⑤への「許可」として機能するという連続性がある。加害者は個人でも、その動機は社会に流通する憎悪イデオロギーに根ざしている。国家は禁止しているが、捜査・処罰の不十分さが暗黙の容認として機能することがある。
定義: 国家またはそれに準ずる権力が、特定の属性を持つ集団を組織的に排除・追放・絶滅しようとする行為。④(法制度的差別)と⑤(暴力)が国家権力によって統合され、産業的規模で遂行される。
どうせなら資格を取りたい。
語学のように反復練習が必要なものは除外。実務経験が必要なのも除外。理解して覚えるだけの資格で。
独占業務あり
独占業務なし
・運送行為が無償で行われる場合においても、ガソリン代等の「実費」を受け取ることは許される。この場合には許可又は登録は不要である。
・「実費」とは、運送(前後の回送を含む。)に必要なガソリン等の燃料代、道路通行料、駐車場料金、保険料(※)、当該運送を行うために発生した車両借料(レンタカー代)をいう。
・他人の車両の運転を委託されて運転役務を提供した場合に、運転役務の委託者から運転役務の提供者に対して当該役務の提供について報酬が支払われたとしても、有償の運送行為にはあたらない。
(中略)
・車両提供者が利用者からⅡ1.(1)①の謝礼及び②の実費を受け取ることは、無償運送への謝礼及び実費の支払いであるため、差し支えない。
・ただし、運転役務の報酬の名目で、実質的には利用者から運転役務提供者に運送の対価を支払っていると見られる場合(単に車両提供者を介して運送の対価を収受していると見られる場合)には、運転役務提供者と利用者との間で有償運送が行われているといえるため、許可又は登録を要する。
特に大事なのは、学校からドライバーに運転の報酬が支払われたとしても白バス行為にはあたらない(他人の車両の運転を委託されて運転役務を提供した場合に、運転役務の委託者から運転役務の提供者に対して当該役務の提供について報酬が支払われたとしても、有償の運送行為にはあたらない)、という点。
学校が生徒から実費(レンタカー代を含む)を徴収しても、それは無償運送への謝礼および実費の支払いであるため、差し支えない。
ただし書きが言っている「実質的には利用者から運転役務提供者に運送の対価を支払っていると見られる場合」ってのは、典型的には、乗客が増えればドライバーの収入が増えるような場合を想定している。ドライバー報酬を含む謝礼+実費を割り勘しているようなケースは、ただし書には該当しない。
レバーをガチャガチャしたい大人や子供向けに大規模な駅構内の広場か何かに体験コーナーを作ればいいのでは
100円払ったら非常装置を無関係な場所で法律の枠内で体験できますと
消防署や警察庁と共謀して消火器操作の体験コーナーや非常ベルの体験コーナー、後スマホ電源を5回押して緊急通報も実際やるとどうなるのか知りたいからスマホ貸出設置してほしい
例の判決。自分はノンバイナリーではないが、判決は妥当だと思う。個人的見解を述べるのであれば戸籍制度そのものを廃止したほうがいいとすら思っている。
戸籍は生物学的ないしは染色体の性別を書くべきだ、という意見が散見されるが、戸籍というのはあくまで人間社会が生み出した産物で、その主たる目的が系譜を表しているメモ程度の存在でしかないのに
戸籍を神格化しているやつが多すぎる。むしろ戸籍という制度があるがゆえに差別されてきた歴史が刻まれている人たちもいるだろうし、望んでいない戸籍によって不必要なアウティングに繋がることもあり得る。
特に戸籍を閲覧する職員、戸籍のシステムを管理するSIerには本人が望まなくても開示されてしまう。悪意を持って閲覧する人は限られているだろうが、脆弱さは依然残ったままだ。
戸籍の制度自体が個ではなく、系譜に重きをおいた設計になっていること自体が課題なのである。
系譜を刻むことは大事なのか。例として、もともと親◯しは極刑という選択肢しかなかったがこれは90年代に是正され、通常の◯人罪が適用されるようになった。これは家族の特に親は大切にするべきだという儒教の教えに基づいて設計されていたわけだが、その妥当性の評価にあたって当時は「家」同士という仕組みに価値がありイデオロギーが支配していたため、家族という仕組みを前提に法律が制定されたと推測できる。
当時の男女の性差による役割の違いは今や想像ができないくらいにそれは悍ましいものであったが、しかしその社会の仕組みに準ずる法律の設計がなされていたのも事実である。
例えば女は専業主婦で家事をやり男は外で足を使って稼ぐというのが一般的な家庭のあり方だったわけだ。時代は変わって女性も社会進出をするようになり男女共同参画社会基本法はじめ、労働基準法で性差による差別は明確に禁止されるようになった。これは社会の構成が変わったからその設計に合わせて法律が見直されたわけである。もちろん一部年金の受け取りは女性のほうが多くなる、など女性に優位な法律は残った状態ではあるが、これは裏を返せば社会進出を果たせていない女性達がまだまだいるからである。つまり時代によって社会の設計も変わるわけだからそれに伴って法律も変わってきたのである。
現代は核家族化も進んでおり、共働き世帯も増えてきた。しかも個を伸ばすという社会的風潮ですらある。つまりイデオロギーに変化が訪れているわけだ。それなのにもかかわらず系譜に依存した法律や憲法が取り残されているのは課題ではないだろうか。
法律だから守らなければいけない、憲法だから守らなければいけないのではなくて人間社会のルールとして策定されているという前提からみて今の戸籍制度自体が現代の社会設計に対して実利を伴っておらず、それなのに「戸籍を守る」という行為を正当化しようとしているのは「自分が社会に取り残されている弱者で誇れるものは系譜しかありません」と言っているのも過言ではない。言い換えれば例の判決に反対している奴らが社会に対して生み出しているのはリサイクルできないウンコだけということである。
他にも「戸籍は日本の伝統である」という主張をする輩もいる。この主張にはうんざりだ。こういった発言は白人至上主義と何ら変わりがないレイシズムである。差別を受けてきた人、戸籍によって実害を被っている人、出生地・家柄によって結婚を拒まれている人、疎まれる人。望まれない無戸籍児など。戸籍という仕組みが存在するだけでも多くの実害を伴っている。では現代においての戸籍制度による実利はどこにあるのか。その実利を客観的に説明できる者は少なくても見かけたことがない。戸籍制度の維持について賛成をしているほとんどの人間は「憲法で定められているから」「日本の伝統だから」という主張しかしていない。
また戸籍の運用にも綻びが出てきている。海外からの転入や帰化をした場合「戸籍が新たに作られる」のである。もはや系譜に重きをおいた運用ではなくただ惰性で法律上決まっているから運用でカバーしているように見える。
つまり現行の戸籍自体に課題はいくつかある。では課題を解消するために働きかけられるのか。大きく変えると現場のワークフローも大幅に変わることで混乱が生じることは理解できる。そしていくつかの法律は戸籍を前提に作られており、戸籍制度をなくす場合依存している法律全てに変更を加えなければならない。膨大な整備をするために多額の資金を投じる必要があることは、言うまでもないがそれによって
得られる実利は上記のとおりであり、しかしこの実利を得られるのはほんの一握りしかいないわけである。金銭的な実害は大きいが得られる実利が少ないというのも、戸籍制度が惰性で運用されている所以だろう。
男女という垣根も薄くなっており、男子小学生でも赤色のランドセル、女子小学生でも黒色のランドセルを使う昨今。怪獣のおもちゃを片手にプリンセスの服装をする女児も珍しくない。
逆に、プリキュアを見ている大きな男の子のお友達も多いわけで、隔たりが薄くなっていることは明らかだ。そんな中でわざわざ染色体の性別を書けとか、生物学的であることが正義(男は男、女は女というロールを全うするべき)だ、という主張をしているウンコ製造機諸君は、イデオロギーの変化についていけていない上にレイシズムしています、と自ら公に晒しているという自覚を持ってもらいたいものである。
歴史の教科書で読む、「地球は丸いと考えられなかったし、考えてもおそれ多くて口にできなかった中世人」なんて、教育のせいとか世界が狭かったとかそんな理由で納得していたが、そんなもんじゃなかった。
現代でも、本当にただ空気だけで、教科書の一行から論理的に敷衍すれば誰でもたどり着ける結論に、反論もできないくらい明確な結論に、向き合って誠実に考えることができない人間が世の中の多数派ですらある。
知性というのは、進歩や教育で得られるものではないのだ。「それを言ってもいい、考えてもいい」という、たしかな実感がないと、いくら教科書や法律に書いてあっても、「これを言えないのはおかしい」と反感を持つことさえ、多くの人はできない。
人間は進化なんかしていない。進化なんかできない。ただ平和な空気さえあれば少しは自由にものをいう勇気が出るだけで、そうでなければ簡単にすぐ右へならえで古代の野蛮人にもなれる。
第二部 学び直せなかった一年
ここで、君に正面から語りかけたい。
たぶん君の中には、私に近い感覚が少しはあるはずだ。
なくてもいい。
あったとしたら聞いてほしい。
入学して最初の数週間、君は周りを見てこう感じるかもしれない。
「あれ、この人たち、思っていたほどすごくないな」
先輩たちがわいわい騒いでいる。
話の中身はたいしたことがない。
誰々が誰々を好きらしい、という話。
君はそれを聞きながら、心のどこかでこう思うかもしれない。
「俺はこんな話をするために東京に出てきたんじゃない」
その感覚は半分は正しい。
ただ、残りの半分について、私が二十年かけて学んだことを君に伝えたい。
雑談を飛ばして、いきなり大事な話だけをしようとする人間は、長い目で見ると誰とも何の話もできなくなる。
これは二十年後に私が痛感したことだ。
けれど十八歳の私は、これをまったく理解していなかった。
理解する気もなかった。
入学して一週間ほど経った頃、駒場のキャンパスで一人の同級生と話す機会があった。
名前は仮にKとしておく。
背が高く、髪を少し茶色く染めていて、笑うとき口を大きく開けた。
「サッカーをやってました。あと、文化祭の実行委員やってました」
それを聞いた瞬間、私はKにあまり期待しなかった。
あの私を退屈させた連中の、東京版だろう。
そう思った。
ところがKはよく話しかけてきた。
授業のあと、「飯行かない?」と私を誘った。
最初は断った。
二度目も断った。
三度目に、Kは少しだけ困った顔をして聞いた。
「お前、誰とも飯食わないの?」
私はそう答えた。
Kは少し笑った。
「ふうん。じゃあ、気が向いたら声かけて」
そう言って行ってしまった。
そのとき私は、自分がKに少しだけ優越感を持ったのを覚えている。
私は違う。
私は一人でも平気だ。
だから私のほうが強い。
そう思った。
これが間違いの始まりだった。
Kは、誰かと一緒にいないと不安だったのではない。
Kは、一緒にいる時間そのものを価値あるものとして認識する能力を持っていた。
そのことを、私は二十年後に理解した。
語学クラスでは、よく数人で集まって、課題のフランス語の和訳を持ち寄って見せ合っていた。
私は最初、その輪に入った。
けれど私の和訳はたいてい一番正確だった。
少なくとも私はそう思っていた。
私は指摘した。
「そこ、違う。主語はこっちじゃない」
Kは「あ、ほんとだ。サンキュー」と言ってすぐに直した。
それはいい。
問題はその次だった。
別の同級生、仮にMとしておく。
Mが読み上げた和訳も間違っていた。
私は同じように指摘した。
「Mも、そこ違う」
Mは少し顔を赤くして、「うん……」と言った。
Kが軽く笑いながら言った。
「お前、間違いの指摘の仕方、ちょっと冷たくない?」
私はKを見た。
「冷たい? 間違ってるから間違ってるって言っただけだろ」
「いやそうなんだけどさ。なんかこう、もうちょっと、『あ、ここ、俺もよくわかんないんだけど、こうじゃないかな?』みたいな感じ、ない?」
私は内心で軽蔑した。
出た。
「言い方」だ。
Kは内容で勝てないから、言い方の話に逃げている。
私はそう判断した。
その日から、その輪には行かなくなった。
数週間後、その輪がMを含めて続いていることを知った。
けれどMは、Kの輪の中で笑うようになっていた。
間違いを指摘されても、頭をかいて「あ、ほんとだ」と言うようになっていた。
Mは変わった。
私が変わらなかったのに対して。
私はMのことを軽く馬鹿にした。
妥協したのだと思った。
今になって思う。
妥協したのはMではなかった。
Mは学んだのだ。
私は学ばなかったのだ。
風の噂で聞いた。
実際、内容は真面目だった。
そこには二年生にSという先輩がいた。
Sは私とは違うタイプの賢い人だった。
判例を読むスピードは私と同じくらいだったが、議論のときの立ち回りがまったく違った。
まず、後輩や他の人の意見を聞く。
そして誰かの意見の中でいいところを見つけて、「それ、いいですね」と言う。
「○○さんが言ったところに加えて、こういう論点もあるんじゃないかと思って」
そう言った。
私はSのやり方を、最初ずるいと思った。
あれは自分の頭で考えていない。
人の意見に乗っかっているだけだ。
そう思ってSを軽く見た。
「Sさんの今の論理は、判例の射程を超えていると思います。○○判決はあくまで△△の場合に限った話で、これを一般化するのは無理があるんじゃないですか」
Sは私を見た。
少しの間、何も言わなかった。
「うん、たしかにそうだね。射程の問題は僕も気になっていた。じゃあ、君だったらどこまで一般化できると思う?」
私は答えた。
私の答えは、Sが言うべきだった内容をより精密にしたものだった。
Sは「それ、いいね」と言って、私の意見を議論全体に位置づけた。
私は勝った気がした。
サークルが終わったあと、別の三年生の先輩が私を呼び止めた。
「君さ、頭はいいよ。間違いなく。ただ、Sのこと、ちょっとなめてないか?」
「いえ、なめてはいないです」
「Sはね、あの場で君のために負けてくれたんだよ」
「Sは、あの場の議論をいいものにするために、自分の意見を引っ込めたんだ。君に花を持たせたんだよ。それはSがバカだからじゃない。Sのほうが、議論っていう場全体を見てるからだ」
私は不機嫌になった。
「いや、でも、内容としてSさんの最初の論理は間違っていました」
先輩はため息をついた。
「うん。まあ、そうかもしれない。でも君がこれから先、誰かと一緒に何かをやるなら、内容で勝つだけじゃ足りないよ」
私はその日、サークルをやめた。
正確に言えば、その日のうちにメールで退会の連絡をした。
理由は書かなかった。
二度とそのサークルには行かなかった。
夏休みに入る前、私はKにもう一度だけ会った。
Kは相変わらずにこにこしていた。
彼女もできたらしい。
私はその女子を、可愛いとも可愛くないとも特に思っていなかった。
Kが別れ際に言った。
私は笑って答えた。
「誰かに頼って、その誰かが間違ってたらどうするんだ?」
Kは少し考えた。
「うーん。そうしたら、一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
私はその言葉を軽くいなした。
心の中で、「だから、お前は二流なんだ」と思った。
一緒に間違えて、一緒に直す。
そんなことに付き合っている時間はない。
私は一人で、間違えずに進む。
正確には、二十年かけてようやく思い出せるようになった、と言うべきかもしれない。
ここで、君にもう一つだけ伝えたい。
私が地方の進学校で身につけた「一人で考えたほうが正しい」という認知は、地方の進学校の中ではたしかに事実だった。
私の周りには、私より速く正解にたどり着ける人間がいなかった。
集団で議論すれば、議論は私のレベルに引き下げられるか、私の意見が通らないかのどちらかだった。
しかし東京大学に来て、私の周りには私と同じか、私より速く正解にたどり着ける人間がたくさんいた。
その時点で、私は戦略を変えるべきだった。
もう一人で考えなくていい。
人と議論したほうが、自分一人で出せる答えよりいい答えが出る確率が高い。
人に頼っていい。
人に教わっていい。
人に「わからない」と言っていい。
けれど私は学び直さなかった。
なぜなら、地方で身につけた認知は、私を東大まで連れてきた成功体験だったからだ。
それを捨てることは、自分の人生を否定することのように感じられた。
変化を恐れた本当の理由は、たぶんこうだ。
だから勉強の戦い方を変えることは、自分そのものを失うことのように感じられた。
後になって考えれば、ただの臆病だった。
けれど当時の私は、自分が臆病であることにまったく気づいていなかった。
孤独に耐えられる、というのは強さではない。
ただの不器用さだ。
優三つの「優三つ」というやつだ。
一人でやれば結果が出る。
けれどその学年末、駒場の生協の前で、語学クラスのKたちが五、六人で集まって笑いながら写真を撮っているのを見た。
Kの隣にはMもいた。
Mは四月のときと比べて別人のように、いい顔で笑っていた。
私はその輪を遠くから見ていた。
その輪の中に入りたいとは思わなかった。
ただ、奇妙な感覚があった。
結婚式に呼んだり。
子供の話をしたり。
そう自分に言い聞かせた。
その夜、私は寮の自分の部屋で二年生の科目の予習を始めた。
ここで私は、君に最も伝えたいことの一つを書く。
地方の進学校から東大に行ったことの本当の不幸は、東大に行けたことではない。
もし通っていたら。
私は十二歳か十三歳のうちに、自分より賢い人間に出会っていただろう。
泣いたかもしれない。
けれど十二歳の私はまだ柔らかかった。
十二歳のうちに負けることは致命傷にならない。
十二歳の負けは回復する。
十二歳の負けからは、人に頭を下げることを学べる。
十二歳の負けからは、「わからないから教えて」と言うことを覚えられる。
私の認知の中で、「負ける」という選択肢が十八歳の段階ですでに消えていた。
そして十八歳で東大に入った瞬間、私は相対的に普通の人間になった。
けれど、そのときにはもう遅かった。
十八歳の私は、十二歳の私のようには柔らかくなかった。
私は上の人間に頭を下げるかわりに、上の人間を見ないことにした。
上の人間から学ぶかわりに、「あいつは要領がいいだけだ」と評価することにした。
これらは全部、私の防衛反応だった。
だから君がもし、地方から東京の大学に出てきたばかりでこれを読んでいるなら、聞いてほしい。
早く、負けてくれ。
自分より明らかにすごい人間に会ったら、嫉妬する前に頭を下げてほしい。
「教えてください」と言ってほしい。
それは君の性格を守るための救済だ。
天井を知らないまま二十代に入った人間は、たいてい私のようになる。
私のようになるな。
これは命令ではない。
お願いだ。
日本だと治安悪い場所に該当する東京や大阪の繁華街の治安レベルすら
アメリカだったらユタ州とかの全米で最も治安が良くて住所をここにして子供をここで育てたいと皆が思う憧れの場所とイコールの安全レベルなんだろ
自動車が「いつでも制限速度一杯で好きなように走れる」ものだという概念をぶち壊して「制限速度一杯で好きなように走れるのは、脆弱な人間が乗っている自転車がそばに走っていない、などの複数の条件が珍しく満たされたときだけだ」という常識を叩きこむための法律だぞ
60㎞先の場所だから時速60㎞で1時間走ってたどり着けないのはお前の権利が侵害されたのではない
座ったままで足が疲れない、エアコンがきいてて涼しいまたは寒くない、重い荷物持ってても大丈夫、雨が降っても濡れない
といったメリットは残るんだから到着までの時間が1時間半や2時間になっても甘んじて受け入れろ、弱者を大事にしろノブレスオブリージュだ、ということ。