空間を製図する音楽──原 摩利彦『PASSION』
野田秀樹演出の舞台作『Q:A Night At The Kabuki』のサウンドデザインを担当、また日本を代表するアートコレクティブ『ダムタイプ』のメンバーとしても活動、森山未來もダンサーとして参加している世界的振付師ダミアン・ジャレと彫刻家名和晃平によるプロジェクト『Vessel』では坂本龍一と共に劇伴……などなど、音楽家として活動を多岐にしている原 摩利彦。こうした劇伴などの作品リリースを経て、自身のソロ・ワークとしては3年ぶりとなるアルバム『PASSION』をリリースした。ピアノ、電子音、そしてフィールド・レコーディングなどを配したその作品は、空間そのものを描き出すような、音響的な仕掛けに満ちたポスト・クラシカル〜アンビエント作品で、ぜひともハイレゾにて体感して欲しいサウンドとなっている。OTOTOYでは本作のハイレゾ配信とともに、インタヴュー、さらには八木皓平によるレヴューによって、本作を掘り下げる。
INTERVIEW : 原 摩利彦
ひさびさにソロ、オリジナル・アルバムのリリースとなる原 摩利彦の『PASSION』。前作『Landscape in Portrait』との大きな違いは、その音響的な感覚があるようにも思える。ピアノや電子音、そしてフィールドレコーディングなどで構成されたサウンドは、あたかも3Dの星図のように“配置”され、“流れ”が立体的に迫ってくる。その音像をひとたび再生すると、その空間のなかに、ひとつ無色透明の空気の彫刻を形作ってしまうような、そんな感覚に溢れている。本作をリリースした原 摩利彦にPCを介して話を訊いたのは、まだまだ緊急事態宣言中の5月後半だった。
インタヴュー・文 : 河村祐介
体験となる空間が音楽にとって大事な要素
──今回は音の表現というところで、作曲と同じぐらい重要な部分としてある種の三次元的な空間というものがとても表現として重要な位置をしめているのではないかと。
意識はしてますね。それを具体的に言うとミックスの話で、つねに音量や音像が動くように意識して作った部分があります。途中でミックスしているフィールドレコーディングの音にしろ、それぞれの楽器にしろ、ずっと鳴りっぱなしにするのではなく、それぞれが前に出てきたり後ろに出てきたりするように──前に出てくるというのは結局、音量のことなんですけど。自分のいまのスタンスとしては、音楽が時間芸術よりも空間芸術なんじゃないかと思っていて。音楽を聴くと、ヘッドフォンなり、スピーカーで聴くなりそこで音が発せられてそこで空間ができるわけですし、ライヴや劇場で聴くものとか、映画館にしても、体験となる空間が音楽にとって大事な要素だと思います。そういう考えをどう反映させるかってなると、ミックスとかの音量の部分になってくるので、なので「三次元的な音楽」と言っていただけたのは嬉しいです。
──あと気になったのは、音の低域の作り方。今回ピアノの奏法にしてもあると思うんですけど、例えばさっき言われたステレオの芸術作品として作る時に、今って割と安いものでもスピーカーとかイヤホンの性能的に低域が出るじゃないですか。そういうところも意識されたりするんですか?
ありますね。前だったら「ここの音は出ないだろう」と諦めているところが少しあったと思うんですが、僕自身はヘッドフォンやイヤホンをかなり使い分けて聴いているんですが、低音がしっかり出るんですよね。例えばMacBook Proのスピーカーでもかなり出ますし。だから前よりかは積極的に低音を出したかもしれないですね。でもそのご指摘はちょっとハッとしました。
──低音も空間を捉えるのにやはり重要な要素だと思うので、最初におっしゃっていた空間的な芸術というところで、原さんがアクチュアルに感じている音楽の面白さが出た作品なのかなと思いました。
そうですね。ちょっと話はずれてしまうんですが、今コロナ禍でライヴができないとか集まれないとかありますよね。空間芸術にとっては損失がすごく大きい。だからこれからどうするべきかとは思ってますけどね。コロナの影響よりもずっと前に作った作品ですが、結果的にヘッドフォンとかスピーカーで聴いても空間を楽しめるように、という意味ではしっかりと作った作品かもしれないです。
──割と今回は作曲・演奏・レコーディング・ミキシングとプロセスがある中で、ミキシングの部分が重きをなしたという感じなんですか。
そうですね。ミックスは自分でやりました。エンジニアのzAkさんから「ミックスは誰がやったの? よくできてる」って言ってもらえました。
──結構時間をかけてミックスされたんですか。
いや、実はあまり時間はかかってないです。ちょっとやっては寝かしてちょっとやっては寝かしてを繰り返した感じですね。何時間もずっと時間をかけてやった感じではなくて、長くても一回で二、三時間くらいです。
──模索するというよりも頭の中に設計図のようなものがあって、そこに具体的にはめていくという作業だったんですかね。
設計図というよりも曲のイメージはありましたね。ミックスのイメージは、低音が引いていく感じとか音が前に出ていく感じっていうのは、他の劇場仕事での音体験もそうですし、フィールドレコーディングしている時に外で耳をすませた時の音の動きとかそういうものも物凄く参考になっています。
──あとはピアノと電子音の配合、これも『Landscape in Portrait』と比べると全然違って聞こえるんですが、意図したものなのでしょうか。
そこはあまり意識していなくて、リリースから3年経った月日の変容からだと思います。
──そのあたり、3年と言えば、その間にやっていた劇伴からの影響ですか?
それはあると思いますね。
──具体的にいうとどういうものでしょう。
野田秀樹さんに演劇に提供した楽曲もそうですし、何万人という人が観に来る中で、自分がこれが気持ちいいと思うものをかなりの音量で出すわけですね。でも「音楽がうるさい」という声は全くなくて、もちろんみなさんはストーリーに感動しているわけなんですけど、サウンドを受け入れてくれて帰っているんですね。でもそれは演劇自体によるものもありますし、劇場でオペレーターさんの音量の出し方とかスピーカーの位置とか、そうしたものが総合的に存在していい結果になっているわけなんですが、そこのエッセンスをたぶん学んでいるんだと思います。そこで学んだことは自宅でミックスしているだけではわかり得なかったことだなとも思いますね。
──アウトプットに対する想像力が劇伴をやることによって、音が鳴り、お客さんが観劇しているのを実際に体験してアップデートされた部分があるんですかね。
はい、それはあると思います。
──例えば、今回ソロアルバムとして作られていて、かたや劇伴があって、音楽的に線引きはどの程度あるんでしょうか。
現場によって違うんですけど、劇伴はピアノの曲をあまり使わないんですね。ある種の欲求不満としてソロではピアノをストレートに出すっていう部分もあります。音響的なことをもっとやりたいけど、現場によって出せない欲求をぶつけるのと両方があるって感じです。自分の作品として関わっていても、劇伴では作品にとって一番大事な音を出さないといけないのでいくら自分がやりたいと思っても作品に合わなかったりしたら、それはすべきことではない。でもその代わりに自分の作品では好き放題出しています。
町で聴いている音の流れ
──アルバム全体としてはある程度断片があったとして、そこからアルバム全体としては足りないピースを埋め合わせていくのか積み重ねていくのか作業としてはどっちが近いですかね。
感覚としては地図を書いていくような感じです。自分がいつもと違うジャンルに旅していった時に得た、それぞれの土地の地図みたいなものを集めていって、その間を新しく想像していくという感覚がありました。例えば具体的には、“Confession”という最後から二番目の曲は最初のストリングスの断片があったんですけど、本当に断片だけでそこに音も重ねていって、波の音も入れました。それでも何か足りないなと、そしたら岩崎和音さんというサントゥール奏者と知り合ったのもあり「中東の楽器を入れたらいけるかも」と思って入れたら完成したという。足りないというか、見えてない。なので、白紙のところを埋めていく作業という感じです。
──アルバムの全体像としては見えていたんでしょうか。
見えてはないですね、霧の向こうというか。作り手としては地図っていうのがしっくりきています。劇伴なんかでは現場によってジャンルも違いますし使ってる言葉から違うんですね。違う国とか違う文化圏に行く感じにすごく近いんです。そういう意味で、そこから自分の音楽に帰ってきて、それを自分のソロとしてまとめるとなったときには地図みたいな感覚があるかもしれないです。
──少し話がずれてしまうんですが、他のお仕事をやられていてびっくりしたというか、ハッとするようなことって時間軸というキーワードで行くと何でしょう。
歌舞伎の仕事で、囃子方の家元と一緒にやったとき、歌舞伎の人たちって打ち合わせ一瞬で決めるんですね。一瞬で「これで行きましょう」となったら、フレーズは体に入ってるんでそれを音楽と身体を合わせるという。そんな芝居は8時間あるんですね。そうなると1時間や2時間が全然長く感じなくなるんです。ずっとセリフがあって麻痺して行く。時間感覚が現場ごとに極端に違うんですよ。その仕事が終わって次の現場に行くともうガラッと変わるわけで、それは精神的にというか身体にショックがあるんです。
──身体感覚としての時間みたいな部分で衝撃を受けるというですか?
そうですね。
──話は変わりますが、音響的な空間把握の部分でいうと、フィールドレコーディングの使い方が変わったなという部分はありますか?
あんまりないですが、使う時間が短くなったというのはあります。2曲目とかは鐘の音が流れてきますが、ほぼワンショットだけで。やっぱりもっと使いたいと思ってしまうんですが、そこは出さない方が聴いた後の印象としてはかえっていいかもしれない。
──登場人物がいろいろ出てくるみたいな、もフッと差し色のように入ってきて、それが音響的な立体感と一緒にある。そういう楽しみ方ができる作品だなと思いました。
それはおっしゃる通りで、参考にしているのは町で聴いている音の流れです。車がフッと行ったと思ったら今度は違う人の声が聞こえて、というそれは一瞬のことだったりする。現実はその積み重ねだったりします。それはすごく勉強になるんですね。そういう意味で音が現れては消えて行くような、川の流れのようにはしていると思います。そこがフィールドレコーディング的な音楽と言われることがあるんですが、他の人と違う点かもしれないです。ベターっ貼り付けることはせずに、ひとつだけではなくて、違う音を入れたり、移り変わりを表すというか。
──それが今回のアルバムとして、時間軸を空間を上手く使って支配して行くみたいな部分を感じました。そういう意味では、前作の風景描写というよりかは空間を描いて行く、その中に聴いている人をスッと入れてしまうみたいな。その辺は意図はされていたんですか?
ありがとうございます。意図はしてました。
手でピアノを弾いて作るのと同じ様に、DAWの中でサウンドファイルを入れて加工するという作業そのものがインスピレーションになる
──あと、笙など、いわゆる非西洋の楽器が入っていて、その部分が曖昧になっているというか。シンセなのか他の楽器なのかがあまり区別がつかないようになっていて、意図としてはあったと思うんですけどなぜそのような使い方をしたのかなと。
スタンスとして、フィールドレコーディングの音も非西洋楽器も全部音として等価というか。地球上でなっているそれぞれの音という意味で等価なんですね。そのスタンスが反映されたんだとは思います。もちろん邦楽器を使ってるということは、外国の人に聴いてもらう時に口では言いますけど、音色でわかりやすく「ザ・日本」というのを出したいわけではなくて。ルーツとは言わないですが日本の音楽、楽器には興味はでてくるんです。それを自作に入れたいというのは作曲家として出てくる欲求だとは思うんですけど、そこで自分が白々しくない一番無理のない形で自作に取り入れる形がいいなと。それが他の音と区別がつかないくらいの連続性を持たせることかなと思います。ただそれでやっても、固有の色は絶対に出るので変に個性出そうとするよりはおとなしくしていた方がその人の人間性が滲み出ていくみたいな感じで。
──いわゆるエキソチズムにはハマらないということですよね。
それは他の方がすればいいことで、僕のすることではないかと。
──あと気になったのは、ピアノの音色で、前回は空気を含んだ録音というホワイトノイズ的な成分も多かったと思うんですが、今回は割とクリアにピアノの音だけが聞こえる録音をされてると思うんですけど、レコーディングの環境がガラリと変わったんでしょうか。
前は、それまでずっと弾いてきたピアノを録るっていうコンセプトだったので、自分でマイクを立てて録音していました。マイクの立て方も自分のピアノをひている後ろに両側から2本、マイクを置いていて、ピアノの中に頭を突っ込んだような音像になるようにしていたんですね。でも今回は、主たるピアノはzAkさんのスタジオできっちり録りました。だから低音とかを入れてもその音が漏れないように録音できたと言いますか。前回はそういう意味では技術的に難しかったのかもしれないですね。マイキングの関係で、あんまり低域になると、手の物理的な部分で左だけになってしまったりとか、とかそういう具体的な理由もあって。
──今回はピアノに関しては録ったものをそのまま出してるという感じですかね。
そうですね、あんまり加工はしてないですね。
──“Vibe”とかは割と電子音で始まって、みたいな流れだと思うんですが、楽曲作る時に起点とする楽器ってピアノなんですか。
ピアノの曲は鍵盤を触りながらというのが多いですけど、同時にコンピューターをかなり触っているので。“Vibe”はAbleton Liveですけど、Protoolsとか、最近はCubaseをメインで使ってますし、Studio OneとかいろいろDAWは使ってきているんですが、画面上でサウンドファイルをクリック&ドラッグして掴んで構成していく感覚。その感覚はソフトによって違うんですけれど、その作業自体の気持ちよさみたいなものもあって、その気持ちよさが曲作りにつながっていくということもあります。手でピアノを弾いて作るのと同じ様に、DAWの中でサウンドファイルを入れて加工するという作業そのものがインスピレーションになるという。そういう触感もあります。インスピレーションに関しては音から離れた文学とか映像も音もないものがあるかもしれないです。
──原さんの音楽はDAWを触る面白さがもう一つ作業の起点になっているという話ですけど、DAWを触っていくことって、どちらかというと構築して行くこと、それ自体の楽しみみたいな感覚の方が強くなってしまうと言われる場合もあるじゃないですか。そこにプラスで、ピアノの身体感覚がある。原さんの中ではそのふたつは割とシームレスに繋がってるんですかね
繋がってますね。ソフトで作る時も、即興的に音を重ねて行くので。その二つは繋がってますし、まず僕はDAWがすごく好きなんですね。
──音響的な部分も含めて、構造というのが一個でている作品だと思ったので、今の話はすごくしっくりきました。DAWの部分で作り込んでいて、もう一つ情緒という部分では身体感覚の強いピアノがあるという。
両方とも、ネイティヴまで行かないですけど、かなり近いです。触ることが自然なので。
コロナの時代にという、ある種のバイアスかもしれないですが新しい捉え方もできると思うんです
──マスタリングに関してなんですけど、これは何か留意したところはありますか?
全くないです、エンジニアさんに全てお任せで。レーベルからの提案での人選でしたけど、頼めると思ってなかったので、頼めるならどんな音になるのか気になったんです。で、きたらピアノの音が自分のピアノの音だと思っていたものとは違うような音で。具体的には、ハンマーが当たる音がより聴こえてきたんです。最初は少し違和感を感じたんですけど、でももしかしてこれヨハン・ヨハンソンで聴いたことがあるピアノの感じかなと思って、これは最高じゃないかと。zAkさんの録音の仕方がいいというのもあって、両方がマッチしたのかなと思います。
──あとは電子音とのミックスが、最初に言っていたような空間把握の部分がより出たのかなというふうに感じました。例えば“Stella”だと、ノイズとかがチリチリ入ってたりするじゃないですか、ああいうのがすごく楽しめる、音響的な空間的な面白さがあって、非常に楽しめました。
あの曲、低域はホワイトノイズを使っているんですけど、高域の「チリチリ」という音は水の音か何かで、森の中のフィールドレコーディングの音源を、スペクトル分けてですごく高い周波数だけを切り取って、他をバッサリとカットしてやるとああなります。
──グリッヂ・ノイズ的に作ったやつではないんですね。
フィールドレコーディングですね。そういう部分もハイレゾとは親和性高いですよね。
──ですね。久々にオリジナルアルバムを作られて、ご自身では完成してから客観的にこの部分がかなり変化したな、ってところはありますか?
それは今回ステイトメントで書いた「情熱」と「受け入れること」、「受難」についても関係してくるんですけど。去年の8月にデモができた時点でレーベルにデモと一緒にステイトメントを書いて送ったんですよ。そのあとでコロナがあって、意味が変わってきた感じもあって。それを意識して書いたわけではなかったんです。一個人としてこれからの人生を進んでいくのに覚悟と言ったらあれですが決心をもう一度決めるというつもりで書いたんですが。世の中が変わって捉え方が変わってしまったという。それと同じく、音楽作品自体もコロナの時代にという、ある種のバイアスかもしれないですが新しい捉え方もできると思うんです。世界は取り返しがつかない状態なので、よく捉えるのであれば新しい聴かれ方や側面があるのかなと思います。
──この時代にこのタイトルだと、確かに少し身構えてしまうようなところがありますね。
全然この状況を受けて書いたものじゃないんですけどね。
REVIEW : 『Passion』──音響的アプローチがもたらす新たな扉
文 : 八木皓平
持続音を音楽の中でどのように扱うかは、音楽家の才覚が試される極めて大きなテーマだ。特にアンビエントの特徴を持ったエレクトロニック・ミュージックやクラシック~現代音楽(ポストクラシカル)においてはその重要さを増す。ここ数年、その持続音の扱いにおいて抜きんでた成果を見せつけた作品ですぐに思いつくのが、例えばニルス・フラーム『All Melody』や、フローティング・ポインツ『Crush』だ。それぞれ全く異なった志向の作品であるものの、多種の楽器の持続音がエレクトロニックとアコースティックの区別なくレイヤーを形成しながら絡み合い、聴いているうちにそれぞれの音の明確な区分けが難しくなる楽曲を収録しているという興味深い共通点を持っている。簡単に言えば、前者では鍵盤やコーラス、後者ではストリングスの持続音と同時に鳴っているセミ・ロングなシンセ音の違いがわからなくなってくるということだ。作曲上は明確な区分けがあるにもかかわらず聴覚的には類似して聴こえ、その不可思議なハーモニーが音楽的な魅力となって響いてくる。このようなアプローチは電子音楽の領域で以前より試みられているが、近年のそれは方法論がこれまで以上に複雑で豊かになってきているように感じる。
原 摩利彦の新作『Passion』にもそのような魅惑的な混乱が精密に構築された形で存在している。
「Fontana」における笙の音色をシンセや細かなノイズとともに聴いていると、その音色が笙なのか電子音なのか、すこしわからなくなる。「Landkarte」では、笙を「加工」した音が使われているらしく、それを聴くと自分がさっきまで笙だと思っていた音がほんとうはシンセの音なんじゃないかという疑問もわいてくる。こういったことは「Meridian」における能管の扱いにもいえる。 いくつかの音が持続音で並列化され、何の音かはっきりしなくなる。音が配置されているコンテクストをあくまで音響的に操作することで、それらの個性を保ちながら、しかしその正体が掴めず、どこか朧気であることは、『Passion』という作品における音響的アプローチが現代的であることを意味している。それに加え、ストリングスや電子音、ピアノの他に、笙や能管、サントゥールといった国境を越えた楽器たちが同じ場所に配置され、それぞれの違いを示しながらも、どこかほかの音色に似た表情になる瞬間があることも重要だ。このことは『Passion』における優れた音響空間が、ユニヴァーサルな色彩をその身に宿しているということを意味しており、本作が持つコンテクストをより一層豊かにしている。
原 摩利彦が『Passion』で、彼にとってまたひとつ新しい扉をひらいたことは間違いない。
PROFILE
原 摩利彦 (はら まりひこ) / Marihiko Hara
音楽家。1983年生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科修士課程中退。
音風景から立ち上がる質感・静謐を軸に、ピアノを使用したポスト・クラシカルから音響的なサウンド・スケープまで、舞台・現代アート・映画など、さまざまな媒体形式で制作活動を行う。アルバム《Landscape in Portrait》(2017)をリリース。振付家 ダミアン・ジャレによる舞台《Omphalos》(2018)の音楽を坂本龍一と共作。彫刻家 名和晃平のインスタレーション作品《foam》のサウンド・スケープを担当。野田秀樹率いるNODA・MAPでは、《贋作 桜の森の満開の下》では舞台音楽を30年ぶりに一新する大役に抜擢され、評判を呼び、舞台《Q》(2019)のサウンドデザインを手がけるなど、第一線で活躍するアーティストとのコラボレーション・プロジェクトも精力的に行っている。
アーティスト・コレクティブ「ダムタイプ」に参加し、「ダムタイプ展」《Action & Reflection》(ポンピドゥーセンター・メッス、東京都現代美術館)、高谷史郎パフォーマンス《ST/LL》、《CHROMA》にも参加する。
公式WBEページ
http://marihikohara.com/