シティ・ポップ名盤が最新リマスターで蘇る!! 松下誠が80年代に残したソロ作ハイレゾ配信&インタヴュー掲載
SMAPやKinki Kidsなどのコーラス・アレンジを始め、数多くのミュージシャンのサポート、芳野藤丸らとのバンド “AB’S” のメンバーなどで知られるギタリスト/アレンジャー、松下誠。彼が1980年代にリリースした2作のソロ名義の作品がこのたび、ボーナス・トラックを追加、最新ハイレゾ・リマスタリングでリイシューされる。きめ細やかなアレンジと演奏が際立つ極上のポップス『First Light』、プログレ色を強め、より自身の嗜好が反映された『The Pressures And The Pleasures』の2作品。どちらも昨今の1980年代の日本の音楽に対する評価の高まりのなかでオリジナル盤は、国内外で高く取引されている逸品だ。エヴァー・グリーンな輝きを放つ、素晴らしいアルバム。OTOTOYでは今作のリイシューを記念し、本人へのメール・インタヴューを敢行。キャリアのスタートからソロ作リリース当時について、そしてそれ以降の活動について伺った貴重なインタヴューとなっております!
シティ・ポップ名盤2作がハイレゾ最新リマスターで蘇る!!
INTERVIEW : 松下誠
インタヴュー&構成 : 河村祐介、高木理太
「Lazy Night」は『Gaucho』のジャケットをイメージした曲
──まずはプロフィールなどによれば19歳でライヴ・サポートやスタジオ・ミュージシャンとしてデビューしていて、かなりの若さからこの世界にいますが、本格的にアーティスト活動をスタートさせたのはどういうきっかけだったのでしょうか? どなたかキーマンのような方はいらっしゃるのでしょうか?
音楽的には…ローリング・ストーンズ、クリーム、レッド・ツェッペリン等からはじまって、高校の頃にはイエス、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド等のプログレに傾倒するようになっていました。当然、ミュージシャンになりたいと思うようになったのですが、自分には音楽の素養も知識もなくあきらめていました。そんなある日、プログレとは全く逆のニール・ヤングの音楽に深く感動し、自分にも出来るかも知れないと思ったのがきっかけです。それから音楽学校を経てライヴ・サポートやスタジオの仕事をするようになってからも、常に自分の曲を発表したいという姿勢でいました。当時の曲を聴いてくれてアーティストとして活動するきっかけを作ってくれた方、ミュージシャンとして育てていただいた方は大勢いすぎて一口では挙げられません。
──ミュージシャンを志した最初期の頃のギター・ヒーローはどなたでしたか?
もともとギタリストを目指したわけではなく、全体の音作りのほうに関心がありましたから、特にギター・ヒーローというものはいませんでした。あえていえば先ほど挙げたバンド等のギタリストですね。優れたギタリストは音楽作りにも優れています。
──22歳でプロデュースした、山根麻衣のアルバム『たそがれ』と田原俊彦のアルバムというのが、プロデューサーとして松下さんの仕事としては転機になり、そこから多忙にということのようですが、当時の忙しさを象徴するエピソードがなにかあればお教えください。
当時は、我ながら思い返してみても本当に多忙な時期でした。週に2~3日の徹夜になることもあたりまえで、休日はひたすら眠って体を休めていました。そんな調子でしたから「夏に湘南にドライブに行くというのが唯一の夢だ」と、人には冗談半分に言っていたのですが、本当に遊ぶ時間がなかったのです。ちなみにファースト・アルバム『First Light』に収録されている「One Hot Love」はこの願望を書いた曲です(笑)。実際に湘南にドライブに行けたのは30歳中ばになってからですが、自分が思っていた海とは違ってました。そこでいろいろ探しているうちに西伊豆の海にたどり着き、それからは毎年必ず夏休みをつくって西伊豆の海にかようようになりました。
──テレビ朝日スタジオの16ch導入に際してのテスト・レコーディングから発展して、ソロ作『First Light』をリリースすることになったようですが、このテレビ朝日スタジオの16ch導入に際してのテスト・レコーディングとはどういうものだったのでしょうか?
よくご存じですね!(笑)。あれは確か21歳のときでしたか、先輩ミュージシャンの紹介で当時作っていたオリジナル曲をテレビ朝日のスタジオでテスト・レコーディングしてみないかという話をいただきました。それまでは8chレコーダーが主流でしたからチャンネルのやりくりが大変で、リズム・セクションを録音するだけでもチャンネルが足りず、思い描いたサウンドを作るのも一苦労だったのですが、16chもあるとあっという間に問題が解消されて「これからは新しい時代が来る」という期待で胸が一杯になったことを憶えています。それからあっという間に24chになり、アナログからデジタルに変わり、32ch、48chと多チャンネル化が進み、Protoolsの時代になったわけですが、「録音技術が進化したから音楽も進化したか?」といえばそうでもないような複雑な心境です。
──またこのレコーディングがなぜソロ作品にまで発展したのでしょうか?
この時テスト・レコーディングした「September Rain」という曲が「日音」のプロデューサーの耳にとまり、ソロ・アルバムを作らないかということになったのです。この曲はアルバム『First Light』に収録されました。
──当時、この作品『First Light』、特にサウンドの面に関して当初のコンセプトなどはありましたか?
最初のアルバムなので、あまり難しいことは考えずにポップなものを作ろうと心がけました。それまで吸収したAORの音楽を全力で出し切るという以外、特別なコンセプトといったものはありませんでした。簡単な答えですみません(笑)
──海外の作品などで、当時影響を受けたもの、もしくはお手本にした作品などはあるのでしょうか?
当時はAORの最盛期でしたし、僕もまだ若くて様々なアーティストから影響を受けていました。手本にした作品と聞かれると、これもあまりにも多すぎるの困るのですが、あえてあげればエアプレイ、スティーリー・ダン、ペイジズ、ジェイ・グレイドン等のアーティストの作品でしょうか。たとえば『First Light』に収録されている「Lazy Night」という曲はスティーリー・ダンのアルバム『Gaucho』のジャケットをイメージした曲で、サウンドもそのアルバム中の「Glamour Profession」という曲にわざと近づけました。この曲は彼らの作品の中でも最高傑作の一つだと思っています。
──〈RCA/Air〉から1981年にファーストをリリースした後、1982年〈MOON RECORDS〉最初の作品として『The Pressures And The Pleasures』がリリースされています。その後、山下達郎さんなど、いわゆる現在シティ・ポップと呼ばれているような作品が大量にリリースされている〈MOON RECORDS〉ですが、松下さんの作品がMOONからリリースされた経緯をお教えください。
『First Light』をリリースした当時〈RCA/Air〉の社長だった方が独立して新たに〈MOON RECORDS〉を立ち上げたので、僕もそれについて移籍した…という単純な経緯です。
──1stアルバム・リリース時の反響はいかがでしたか?
もちろんあまり売れた記憶はありません(笑)。が、多少話題にはなったと思います…そういえば当時、貸しレコード屋が若者のあいだで流行っていた頃で、六本木と大阪のどこかの店で、アルバム貸し出しの1位をとったという話を聞いたことがあります。僕にとってはその方が光栄に思えました。
──現在、さまざまなコーラスのアレンジを手がけられていますが、当時自身のソロを出すという部分でコーラス・アレンジなどはどのように考えていましたか? また初期のソロの活動がそうした現在のコーラス・アレンジに生かされている、もしくはいま聴いてみると、ずっと変化しない通底する部分があることに改めて気づいたりすることはあるのでしょうか? またそれはあるとしたらどんな部分でしょうか?
高校の頃、合唱部に所属していました。コーラスというのは…経験がない方に説明するのは難しいのですが、楽器の演奏やソロ・ヴォーカルとは全く別の喜びがあります。自分で発した声が他人の声と共鳴し、その振動が空間を満したときの感動は言葉では言い表せません。単純なド、ミ、ソの和音でも完全にハモった時の感動は他に類がありません。ですから僕の中には常にコーラスに対する欲求があります。後にBreath By Breathというアカペラ・グループでアルバムを2枚制作しました。
80年代の音作りで不満だったのはラヴ・ソングばかりだったこと
──ある意味でファーストのAOR的なサウンドは現在 “シティ・ポップ” という名前の下で、多くの若い世代に楽しまれています。このことについてはどう思いますか?
今思えば、AORというのはリズム・セクションの音楽的な発展という側面があったと思います。コード進行やリズムの組み合わせがより複雑化した1980年代の音楽への “反動” が、1990年代になってからはあったと思います。贅肉をそぎ落とし、歌詞もより現実的な方向へ向かった。また、コンピューター技術が音楽に与えた影響も大きい…2010年あたりからは、そうした流れへの再反動がまた起こっているのではないでしょうか? もちろん80年代のサウンドは今聴くと大半が古く感じられますが、音の鮮度という視点をのぞいた、純粋に音楽的な側面からいえば、1980年代に築き上げられたものは大きい。そういったものが無意識のうちに若い世代の耳にとどくのではないでしょうか? また、コンピューターで作られた音楽も耳新しくはなくなった。人は常に飽きるものですからね(笑)。全て人の手で作られた音というのはどこか匂いが違うものです。大きな流れは、だいたい20年周期で反動が繰り返されるように思われます。
──そうした若い世代の音楽を耳にすることはありますでしょうか?
新しい音には常に興味があります。すばらしいアーティストが次から次へと登場していますが、自分の影響を受けた音と感じることは…全くありません(笑)。
──2nd『The Pressures And The Pleasures』ではエレクトロニクス~プログレッシヴ・ロック色を強めている感触があるのですが、2ndの音作りはなにを目指したものだったのでしょうか?
ファースト・アルバムで自分のポップス的な側面を出すことができてからは、音楽的な野心を追求したいという欲求が高まりました。音楽的なオリジナリティを追求し始めた頃でもあり、もともとキング・クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ウェザー・リポート、マイルス・デイヴィス等、ポップス以外の音楽も大好きでしたから冒険をしたくなったのです。その欲求から「The Pressures And The Pleasures」、「The Garden Of Walls」の2曲が生まれました。レコード会社的には、ファーストのポップス路線とは大きく違う音でしたから、焦ったでしょうね(笑)また、このアルバムを制作する直前にマイルス・デイヴィスの復帰ライヴを見て多大な影響を受けました。病苦に耐えながら、ジャズという枠組みを超えてオリジナルの手法で音楽を組み立てる姿勢に心を打たれました。「The Garden Of Walls」はマイルスへのトリビュートです。
──『The Pressures And The Pleasures』にそのほかでコンセプトなどがあったのであればお教えください。
1980年代の音作りの真っ只中にいて一つ不満だったことがあります。その頃作られた曲のほぼ全てがラヴ・ソングだったことです。乱暴な言い方をすれば「人として表現したいテーマが恋愛しかないのか!」という反感がありました。僕は、Flower Children's Movementの音楽の影響を受けて育った世代です。当時は反戦や自由をテーマにした曲が若者に支持され、新しい時代を迎えるという高揚感にあふれた時代でした。1980年代に入ると、そういったテーマの曲が影をひそめてしまったのも事実です…そこで恋愛以外のテーマで曲を作ることにしました。当時、精神的にも自分が成長していた時期でもあり、 “物事の両極端を知ることによって人は成長する” という二元論的な観点に目覚め、生まれた曲が「The Pressures And The Pleasures」です。作詞を依頼したクリス・モズデルにこのことを説明すると、僕のつたない英語にもかかわらず、まだ話の途中で「Oh, I see !!」とすぐ理解してもらえたのを憶えています。今は当時の “自由や隣人愛の精神” とは逆行するような流れがあることが残念です…話が難しくなりましたね(笑)。
──こうしたソロの作品たちは当時ライヴなどでは演奏していたのでしょうか?
「The Pressures And The Pleasures」、「The Garden Of Walls」の2曲はバンド、Paradigm Shiftのライヴでも演奏していました。「The Pressures And The Pleasures」はアルバムでも11分強の曲でしたが、バンドで曲を発展させていくうちに40分を超える大曲になってしまいました。
──ソロに関してはこれまで4作品をリリースされており、そのキャリアを考えると決して多いとは思えないのですが、バンドなど共同制作の方が性に合っているなど何か理由はあるのでしょうか?
特に理由はありません。ソロよりもParadigm Shiftの活動に重点を置いていましたから…。
──ソロとさまざまなアレンジやプロデュース・プロジェクトを隔てる感覚は当然あるかと思われますが、ソロやご自身がメインのプロジェクトの作品にたいして当時強烈に抱えていた熱意みたいなものはあったのでしょうか?
鋭いご質問ですね!(笑)。最初にアルバムを出すときから僕は、自分の名前で発表するものはビジネスという観点を全く排除して、音楽的な欲求から純粋に出てくる音だけを作ろうと心に決めていました。ポップスを作るという欲求は仕事で満たされすぎていましたし、ファースト・アルバムでそういう側面は表現出来ましたから、時がたつにつれて音楽的な幅を広げるような試みにのめり込むようになり、個人としての活動はどうしてもポップスの枠からはみ出したものになりました。売れないのは当たり前ですね(笑)。それでかまわないと思っていました。また、音楽的に素晴らしいものを持っているのにビジネスとしては成功しないアーティストも散々見てきたのも事実です。いつしか音楽業界にいながら、良い音楽とビジネスは必ずしも一致しないと思うようになりました。
──『The Pressures And The Pleasures』以降、私家版アンビエント・プロジェクト〈CONFESSION〉やParadigm Shift、もしくは2000年代のアンビエント・セッション “System III” や伊藤広規さんとのNEBULAなど、ひとつソロ作品の方向性としてアンビエントがキーワードになっていきます。その初期は、1980年代でいえばECMなどのジャズや、ブライアン・イーノのアンビエント、もしくはクラスターやマニュエル・ゲッチング、アシュ・ラ・テンペルなどのドイツのプログレ勢のエレクトロニックな作品とも同時代性なのか非常に似た感覚も感じましたが、当時はそういったサウンドに関して影響を受けていた部分はあったのでしょうか、もしくはどう思っていましたか?
ハロルド・バッドとブライアン・イーノのアルバム『The Plateaux Of Mirror』は僕にとっては革命的でした。今でも強烈に憶えていますが、このアルバムを入手したある日の夕方、落ちかけた陽光が部屋に差し込んでいて、亡くなったばかりの父の人生を想像しながらこのアルバムを聴いていました。ある種の瞑想状態でしたが突然分かったのです! この音楽は聞き手に音楽に対する集中を要求していない。普通、音楽はその中身を聴いてもらって評価を得るものですが、この音は集中するべき音楽の組み立てを意識的に排除して、人をとりまく空気を作ろうとしている。かといって意識して聴いてみても音楽的なクオリティは高い…音楽のあり方そのものを変えたのです。それに気付いてからはどうしても自分で作ってみたくなったのです。実験好きですから(笑)。最初にアンビエントを作ったのは1983年でした。
──ちなみになぜ〈CONFESSION〉がライフワークになるなど、アンビエントというのがひとつご自身の音楽表現のなかで重要になったのでしょうか?
作りたいから、という単純な理由です(笑)。制作に当たっては無意識にテーマのようなものがありました。最初の一音から全て即興の演奏で完成させるということです。作曲するということは意識的な行為であり、音の中に意識的なものがあればアンビエントからどうしてもかけ離れるからです。ですからアンビエントを作る時はコンピューターはあくまでもレコーダーとして使用し、あらかじめプログミングしたことはありません。後に、このトータル・インプロビゼーションという形態は別の実験にも発展しました。全くビジネスにはつながらない個人的な趣味です(笑)。
──初期のソロ作3枚、そしてParadigm Shiftの作品などは現在、国内はもとより、海外でもその作品が評価され、当時のアナログ盤は高値で取引されています。特にここ数年、ヨーロッパを中心に、松下さんの作品でいえばソロ2nd~Paradigm Shiftのような、1980年代の日本のプログレ~アンビエント系のサウンドが注目を集めています。このような状況は知っていますか? このような状況に関してご感想もおきかせください。
全く知りませんでした、本当でしょうか(笑)? もしそうであればとても嬉しいですね。
──ちなみに海外からリプレスのオファーが直接きたりみたいなことはあるんでしょうか?
ありません。連絡先が分からないんじゃないでしょうか?(笑)
リイシューにご興味のある方は〈ワーナーミュージックジャパン〉までご連絡ください
https://form.wmg.jp/webapp/form/20687_rpeb_1/index.do
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PROFILE
松下誠
18歳でネム音楽院に入学、ギターを専攻し、音楽理論、作・編曲法などを学ぶ。19歳でステージ・ミュージシャンとしてプロの仕事を始め、4年間で500本以上のステージをこなす。22歳の時に「山根麻衣 TASOGARE」をサウンド・プロデュース、アレンジしたのがスタジオの仕事のきっかけとなり、以後アレンジャー、プロデューサー、ギタリスト等として日本のポップ・ミュージック・シーンの中心で活躍し続け、手がけたアーティストは数え切れない。またアーティストとして80年代にソロ・アルバムを3枚リリース。その他pop rock「AB's」、progressive rock「Paradigm Shift」、「Future Days」、fusion contemporary「Groove Weather」、a-capella chorus「Breath by Breath」、 funk rock「Rainey's Band」などのバンド活動の他に環境音楽やトータル・インプロヴィゼーションの活動、Nebula他があり、新しいサウンドの探求にも意欲的に取り組んでいる。