はてなキーワード: 提唱とは
具体性がなくなったのはここからだったぞ
<引用>
具体的に誰が何を否定しているのか?
<引用>
歴史に書かれているフェミニズムとは具体的にどれのことか?誰の提唱するどの思想?何年何月何日のどの出来事?誰が主張したどの文書及び論文?
に、
お前が、
うーわ、そんなレベルでしらんのかw
ニワカはかえってどうぞ
おまえなんてツイフェミですらないじゃん
無学の馬鹿につける薬はないw
と返したところ
だから豚語を始めたのはお前で、単に質問に回答したらいいだけなのでは?
元増田が聞いてるのは「お前の主張はどれなのか?」で、「フェミニズムとは何か?」じゃないから、そもそもお前しか具体的回答はできないから、豚語会話を始めた豚はお前なのでは?
昨日は朝から晩まで、チャーン・サイモンズ理論の深淵に没頭していた。朝食は当然、規定量のオートミールと温かい豆乳。タンパク質と繊維質のバランスは、脳の活動効率に直結するからね。
午前中は、ウィッテン教授が提唱したチャーン・サイモンズ理論と共形場理論の関連性について再考していた。特に、SU(2)ₖ チャーン・サイモンズ理論におけるウィルソンループの期待値が、対応するWZW模型の相関関数と一致するという驚くべき事実は、僕の知的好奇心を大いに刺激する。しかし、僕が今取り組んでいるのは、より複雑なゲージ群、例えばE₈の場合だ。E₈は例外型リー群の中でも最大のもので、その表現論は非常に複雑だ。
午後は、このE₈チャーン・サイモンズ理論における結び目不変量の計算に挑戦していた。特に、結び目理論における「彩色ジョーンズ多項式」の概念を拡張し、E₈の場合に一般化することを試みている。この計算は途方もなく複雑で、通常の数学的手法では手に負えない。そこで僕は、最近開発した新しいアルゴリズム、「超幾何級数を用いた漸近展開法」を応用することにした。この方法を用いることで、今まで不可能と思われていた高次表現における彩色ジョーンズ多項式の漸近挙動を解析的に求めることができる可能性がある。
夕食は、ルームメイトが用意した、おそらく電子レンジで温めただけの代物だったが、僕は研究に没頭していたため、味など全く気にならなかった。食事中も、頭の中ではE₈チャーン・サイモンズ理論のことがぐるぐると回っていた。特に、この理論が量子重力とどのように関係しているのか、という点が僕の最大の関心事だ。一部の物理学者は、チャーン・サイモンズ理論が3次元量子重力の有効理論として現れると考えている。もしそうなら、僕の研究は宇宙の根源に迫る手がかりとなるかもしれない。
夜になって、さらに驚くべき発見があった。僕が開発したアルゴリズムを適用した結果、E₈チャーン・サイモンズ理論における特定の結び目不変量が、数論における「モジュラー形式」と深い関係を持っている可能性が浮上してきたのだ。モジュラー形式は、数論の中でも最も美しい対象の一つであり、楕円曲線や保型形式と密接に関連している。もし僕の予想が正しければ、物理学と数学の間に全く新しい繋がりが見つかるかもしれない。
この発見は、僕を興奮で眠れなくさせた。しかし、興奮している場合ではない。この結果を厳密に証明し、論文にまとめなければならない。今日は一日中、その作業に取り掛かることにしよう。
(追伸)
ルームメイトが僕の部屋に勝手に入ってきて、「落ち着け、壁を叩くのはやめてくれ」と言ってきた。僕はただ、頭の中の数式を整理するために、リズム良く指を動かしていただけなのだが。全く、ルームメイトというのは理解に苦しむ存在だ。
これはこれは、紙幣を無制限に発行できるという妄想を信じているリフレ派さんですか?ハイパーインフレって知ってますか?あなたの理論が現実の経済に与える影響を考えたことがありますか?
リフレ政策の支持者は、経済を活性化させるために中央銀行が無制限に紙幣を発行することが必要だと主張します。しかし、歴史を振り返ってみると、無制限な通貨発行がもたらした結果は惨憺たるものでした。例えば、1920年代のドイツでは、過剰な通貨供給がハイパーインフレを引き起こし、人々の貯蓄は一夜にして無価値になりました。
リフレ派の方々は、短期的な景気刺激策としての効果を強調しますが、長期的な視点を持つことが重要です。無制限な通貨発行は、結局のところ物価の上昇につながり、国民生活に深刻な影響を及ぼす可能性があります。経済は単なる数字ではなく、人々の生活そのものです。あなたが提唱する政策が本当に人々に利益をもたらすのか、一度立ち止まって考えてみてください。
リフレ政策だけが経済成長を促進する手段ではありません。構造改革や生産性向上、教育投資など、多様なアプローチを検討することが求められています。経済は複雑であり、一つの解決策だけでは不十分です。リフレ派としての立場を持つあなたも、他の視点や意見に耳を傾けることで、新たな知見を得ることができるでしょう。
リフレ政策は一見魅力的ですが、その背後には多くのリスクが潜んでいます。経済の健全な成長にはバランスが必要です。ハイパーインフレの恐怖を忘れずに、より持続可能で安定した経済政策について真剣に考えてみませんか?あなた自身と未来の世代のために。
上記のようなQQEの目標がなかなか達成できず、コロナ後にようやく構造パラメーターの変化が実現したことが、クルーグマンのロジック自体(経済主体が将来の金融緩和効果を現在に先取りして行動する)に問題があったと考えるのか、それとも、クルーグマンの提唱した将来の政策に関する「約束」の仕方に工夫の余地があったのかは興味深い問題である。
どのような「約束」をすれば企業や家計が短期間のうちに行動様式を変化させたかという問題には適切な回答が思いつかない。例えば、QQEの導入時点で、「CPIインフレ率が4%に達しても金融緩和を維持する」と約束しても-事後的にそうなったが-当時の企業や家計が行動様式を変えたかと言えば、同意する人は少ないように思う。さらに言えば、「総括的検証」までのQQEが一定の期間に亘って強力な金融緩和を続け、その意味で「約束」を実績で示したにも関わらず、インフレ予想が目立った変化を見せなかった点にも注意する必要がある。
ただし、「レビュー」の多くの論文は、コロナ後の大きな供給ショックが生じる以前に、インフレ予想の改善が始まっていたことも示唆している。
QQEの後半の局面に焦点を絞って、例えば労働参加率の飽和などの内生的な要因が企業や家計の行動様式にどのような影響を与えたのかを明らかにすることも、インフレ予想の変化の持続性を考える上でも重要と思われる。
ストア派の哲学は、内的な変化が可能である一方で、外的な状況は変えられないという観点から理解されるべきです。この考え方は、ストア派が提唱する「コントロールできるもの」と「コントロールできないもの」の区別に基づいています。
ストア派の哲学者たちは、私たちがコントロールできるのは自分の内面的な反応や感情であり、外的な状況や他人の行動は制御できないと教えています。エピクテトスは、「我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものにとらわれるべきではない」と述べています[5]。これは、外的な状況に対する執着を手放し、自分自身の内面的な態度を変えることが幸福への鍵であることを示しています。
ストア派によれば、幸福は外的な要因(富や名声など)によって決まるものではなく、自分自身の内面的な状態から生まれるとされています。外的な要因に依存することは、不安定であり、失うことへの恐れを生むため、内面的な安定を求めるべきだとされます[2][3]。
ストア派は、人間が直面する運命や苦難を受け入れることが重要だと考えます。運命を受け入れることで、私たちは自分の内面的な反応を調整し、心の平穏を保つことができます。これは、「自分の自由にならないことを自分の自由だと思い込むこと」が不幸の原因であるという見解にも通じます[2]。
ストア派は、自制心や忍耐力を鍛えることで、破壊的な衝動に打ち勝つ方法を説いています。明晰で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解し、それに従うことで道徳的・倫理的幸福を追求することが可能になります[1][3]。このように、自分自身の内面的な変化を促すことで、外的な状況に対する適応力が高まります。
ストア派の哲学は、「内は変えられるが、外は変えられない」という観点から、人間がどのように幸福を追求するかについて深い洞察を提供します。内面的な変化に注力し、外的な状況には執着しない姿勢が、真の幸福への道であるとされています。この考え方は現代社会においても非常に有用であり、多くの人々に影響を与え続けています。
Citations:
[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE
[2] https://note.com/tetsugaku_ch/n/nb9dee380a850
[4] https://researchmap.jp/kina/misc/17341773/attachment_file.pdf
[5] https://honz.jp/articles/-/45269
[6] https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/19184/p085.pdf
近年、AIやロボットなどの先端技術が目覚ましい勢いで進歩するなかで、人間の定義や“権利”という概念そのものについての再考が求められる機会が増えている。そんな社会情勢の中で一部の人々が提唱するアイデアに、「動物に人間同様の権利を与えるべきかどうか」という問題がある。動物愛護の観点からは、ペットとしての犬や猫、あるいはイルカやチンパンジーなどの高い知能を持つ動物に対して人道的な扱いを求める声は以前からあった。しかし、法律や倫理の観点で「人権」を動物に適用するという議論はまだ広く受け入れられているとは言い難い。そこで今回は、ある種の極論ともいえる「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説を取り上げ、その可能性や問題点、そして私たちが学べる示唆について考えてみたい。
1.“人権”とは何か?
「人権」とは、一般的に「人として生まれながらにして持つ権利」を指す概念である。自由権や平等権など、国や社会によってさまざまに解釈や範囲の違いがあるものの、人間を人間たらしめるための基本的な権利という共通理解が広く受け入れられている。
一方、「人権」という言葉を動物に適用することの是非は長年議論の対象となってきた。かつては「ヒト以外の生物に人権など存在しない」というのが主流の考え方だったが、動物愛護の観点が強まった現代では、動物にも生命や自由の尊重が求められるべきだという意見が増えてきた。ただし、多くの場合、それを“人間と同等の権利”とは呼ばず、「アニマルライツ(動物の権利)」や「アニマルウェルフェア(動物福祉)」といった別のフレーズを用いて区別している。
では、なぜわざわざ「人権」と同じ言葉を使う必要があるのか。そこには、単なる愛護の枠を超えて、「生き物としての尊厳をどこまで拡大できるか」「法的にどのように動物を扱うか」という踏み込んだ議論が関わってくる。人間の法律を基盤として動物を守りたいという主張もある一方で、それによって生じる多くの矛盾や新たな課題も浮き彫りになる。
2.猫の特徴と知能
ここで焦点を当てているのは「猫」である。猫は犬と並んで古くから人間と深く関わりを持つ動物だが、その特性や知能はしばしば誤解されがちである。
一般に犬は飼い主の指示に従順で、さまざまな訓練に適応しやすい動物とされる。一方、猫は独立心が強く、気まぐれな一面を持つため、「犬よりも知能が劣るのではないか」と思われがちだ。しかし近年の研究によって、猫も飼い主や環境への適応能力が高く、犬とは異なるかたちでの学習能力やコミュニケーション力を備えていることが示唆されている。
さらに、一部の猫は“特殊な芸”や“問題解決能力”を持つことがある。例えば、特定の動作を学習して繰り返す猫や、飼い主が使う簡単な道具を模倣する猫が報告されている。また、飼い主が示す表情や声色を読み取って自分の行動を変化させる例も観察されている。そうした高い学習能力や社会的コミュニケーション能力を有する猫を指して、「一定の能力を持つ猫」と呼ぶことができるかもしれない。
仮に「知能テスト」や「行動特性の検証」を行い、その結果として“人間社会において最低限のコミュニケーションを成立させられる”と判断される猫がいたとしよう。そのような猫を対象に、人間と同等の権利――言い換えれば、「人権」に準ずる権利を付与しようとするのが、今回の仮説である。
具体的には、以下のような権利を想定してみるとわかりやすいかもしれない。
もちろん、これらを文字どおり猫に適用するのは現行の社会制度とは大きなズレがある。しかし「高いコミュニケーション能力が証明された」という前提を置けば、少なくとも議論の余地は生まれる。
4.想定されるメリット
猫に限らず、動物虐待が社会的な問題として繰り返し取り沙汰されてきた。「アニマルウェルフェア」の観点からも、虐待や劣悪な飼育環境が後を絶たない現状には胸を痛める人も多いだろう。もし“人権”という強い法的保護を特定の猫に与えることができれば、それが心理的・社会的な抑止力として機能する可能性がある。人権を侵害した行為として“犯罪”の扱いがより明確になり、違反者に対して厳しい罰則を課すことができるかもしれない。
人間以外の生物に人権を認めることは、社会的秩序を新たに再構築する大きなチャレンジともいえる。これをきっかけに、倫理や法、そして共同体としての在り方を深く考え直す機会が生まれるだろう。近年、ジェンダーや人種・国籍を超えた多様性の重視が進んでいるが、それを動物へ拡大するというのは、ある意味で論理的な延長線上とも考えられる。人間中心主義的な世界観から一歩離れ、より多様な存在が尊重される社会のヒントが見えてくるかもしれない。
私たちは古くから猫を可愛がり、時には神秘的な存在として崇拝してきた歴史がある。もし猫が法的に「人権」を持つ存在として扱われるならば、これまで以上に彼らの行動や感情表現が注目されるだろう。猫側も“人間社会での権利行使”のために、さらに学習やコミュニケーションを深める可能性がある。これは純粋に文化・芸術の発展にも寄与するかもしれない。映画や小説、漫画などで、猫が人間と同等に会話し、生活に溶け込む物語は多くの人の想像力を刺激する。そこに実際の法的保障が加わると、ファンタジーとリアルの境界があいまいになる新しい時代が訪れるとも言えるだろう。
最大の懸念は「人権の乱用」である。仮に一定の基準を満たした猫が人権を手に入れた場合、その適用範囲はどこまで広がるのだろうか。ほかの動物にも同じように権利を与えなければ不平等だという声が上がるのは必至であり、それが連鎖的にエスカレートする可能性もある。「猿にも、豚にも、魚にも同じ権利を」と議論が拡大していくと、社会の制度や経済活動は大きな混乱を招くことになるだろう。
権利を行使することは、同時に責任や義務を伴う。人間の場合は、法的な責任を負う自覚や社会生活上のルールを学習し、破った場合には罰を受ける仕組みが整っている。しかし、猫にそれをどのように適用するかは極めて難しい問題だ。たとえコミュニケーション能力が高い猫であっても、“法律を理解し遵守する”という意味では、人間社会のルールとの齟齬が生じやすい。万が一、猫が誤って人を傷つけたり器物を損壊してしまった場合、どのように責任をとらせるのか。権利を与えた以上、猫自身が賠償責任を負うことになるのか。その背後で管理する人間に責任が転嫁されるのか。こうした問題は容易には解決しない。
さらに、根本的に「猫は猫としての幸せを望んでいるのか?」という点にも立ち戻るべきだ。人間同様の権利を押し付けること自体が、猫の本来の生態や自由を奪う可能性もある。猫は群れを形成する動物でもなければ、複雑な社会システムを構築する動物でもない。彼らは日々の暮らしの中で狩りをし、寝て、遊び、時に仲間とのんびり過ごす生き物である。人間の法律に基づく複雑な権利関係に巻き込むことが、彼らの幸福に直結するとは限らない。
このように、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、実際の社会に導入するには数多くのハードルが存在する。しかし、この提案が示唆する本質的な問題は、「私たちは人間以外の存在をどこまで尊重できるのか」という問いにあるのではないだろうか。
動物虐待、環境破壊、家畜としての過剰な搾取など、人間が引き起こしている数多くの問題は、私たちが人間という種を優先して他の生き物を蔑ろにしてきた歴史の副産物だともいえる。一方で、動物たちが持つ豊かな感情やコミュニケーション能力に光が当たるようになり、いまや彼らを単なる“所有物”や“資源”として扱う時代は終わりを告げようとしている。
それでもなお、「人間が特別」であり、「人間のみが人権を有する」という考え方は根強い。もし、猫をはじめとする動物が人権を獲得するとしたら、それは私たちの価値観に大きな変革をもたらすだろう。生物学的にも、倫理的にも、法的にも極めて大きなパラダイムシフトを伴う。しかし、そうした急激な変化には当然、摩擦や混乱がつきまとい、実現性は高くはない。
今後、私たちの社会がどう変化していくかは未知数だが、テクノロジーの進歩が動物との共生に新たな可能性をもたらすかもしれない。たとえば、動物とコミュニケーションをとるための音声・脳波解析技術がいずれ実用化されれば、猫が感じている感情や意志をより正確に理解できるようになるかもしれない。猫側も同様に、人間の意図を理解して自分の意思を伝えるツールを持つ可能性は否定できない。
そのとき、もし猫たちが「自分たちにも尊厳を認めてほしい」「苦しい治療や劣悪な飼育環境を押し付けられたくない」と主張し始めたら――私たちはどう応えるのだろうか。声なき声がテクノロジーを通じて可視化されたとき、議論はさらに白熱し、“人間だけの特権”と思われていたものを再定義せざるを得なくなるだろう。
「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説は、まさに極論の域にある。実行のハードルや法的・倫理的問題点は膨大であり、現実的にはすぐに導入できるものではないだろう。それでも私たちは、この議論が問いかけるテーマから学ぶことができる。
つまり、動物をどれほど尊重し、社会の一員として扱うことができるのかという視点だ。猫や他の動物が持つ感情や能力を可能な限り正しく理解し、必要とされる環境や保護を整えることは、私たち人間社会の責務である。人権という言葉を用いるかどうかは別として、動物の「生きる権利」や「苦しまない権利」を法的にも社会的にも守っていく道筋を探る必要があるだろう。
また、「人間と動物」という二分法ではなく、「それぞれの生き物が互いを尊重し合う社会」というビジョンを思い描くことはできないか。もし猫がさらに進化し、意思疎通がより深くなったとき、私たちは“同じ地球上に生きる存在”として彼らとの関係性をアップデートすべきだろう。言い換えれば、本当に必要なのは、私たち人間が持つ特権や傲慢さを見直すことである。
最後に、私たちが猫たちにどのような“権利”を与えるかという話は、結局は人間側の問題に他ならない。権利を与えるという行為そのものが、すでに人間視点の押し付けの可能性を含んでいるからだ。本当に必要なのは、私たちが自然や生き物をどれだけ尊重できるか、あるいはそれぞれの生き物の“幸せ”の在り方をどれだけ理解し、そのための環境づくりができるかということだろう。人権というフレーズが象徴する大きなテーマを通じて、猫や他の生き物たちとの未来について、深く考えてみるきっかけになれば幸いである。
以上の考察を総合すると、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、現実的には多くの困難を伴うものの、動物の尊厳や生きる権利をより積極的に認めていくうえで、私たちに鋭い問いを投げかける存在であると言えるだろう。それが真に実行されるかどうかは別としても、私たちの社会が抱えるヒト中心主義や生物多様性の問題について改めて考える入り口になるのではないだろうか。権利と義務の関係をどこまで動物に適用できるのかという議論は、決して簡単に結論の出るものではないが、人間と動物が真に共生していく未来を描くためには避けて通れない問題である。
結局のところ、どんなに議論を重ねても、猫が自ら望む幸せと人間社会が用意できるシステムとの間には大なり小なりギャップが生じる。そのギャップを埋める努力こそが、私たちが“ヒト以外の生き物と共存する社会”へ近づく第一歩なのだろう。猫に人権を与えるか否か――その問いが投げかけるのは、私たち自身が持つ“人間であることの特権”や、他者(他生物)を排除する無意識的な態度への揺さぶりにほかならないのである。今こそ、一歩踏み込んだ思考の余地を持ち、猫を含む多様な生き物たちにとっての幸せを見つめ直す時期が来ているのかもしれない。
試しに98文字の追加と3文字削除して3文字挿入、3文字削除して4文字挿入をそれぞれ10万行繰り返してみた。
ADD:1984ms
REPLACE(3 char):8942ms
自作のBPlusTreeをListとして使えるようにしたやつよりも文字数が増えるパターンでは遅い。
GapBufferくそ強い。
viviエディターの作者が提唱した局所的行更新のやり方を使うと大体の場面ではO(1)で済ませられる。
ただ、C#だとNaitiveMemoryArrayがstructとcharなど一部の型に限定されるので、クラス設計をどうするのかという問題が出てくる。
メモリーに入りきらないような巨大ファイルだとBPlusTreeに放り込んでうまいことやったほうがここら辺は楽だが、キー(テキストエディターの場合は1-64みたい範囲であることが多い)に何かしらの値を足さないといけないので、遅くなる。
ぼたもちとおはぎの違いについて調べると、それっぽいことを並べ立てているが、結局は「実質的に同じで、人々もちゃんと区別できないのが現状」である。
つまり、ぼたもちをおはぎと言い換えること自体に、おはぎをぼたもちと言い換えること自体には実質的に意味がない。
そんなわけで、話の本質を理解せずにただ言い換えただけで何か言及した気になっている人には「それって、ぼたもちをおはぎと言い換えただけだよね」と返すわけだ。
ただ、この理論の気がかりな点が2つあって。
1つめは、多分この理論に相当する言葉は、俺が知らないだけで既にあること。
なので「ぼたもち・おはぎ理論」なんて名称を提唱してる俺自身が、それに陥っているという皮肉的状況なのではないかという点。
ぼたもちとおはぎを両方使うと、ひらがなが並んで読みにくく、かといって漢字にして「牡丹餅・御萩」と書くと馴染みがなくてやっぱり読みにくい。
だから俺としては「ベスト・ジレ理論」という名称にしたいのだが、そもそも「ジレ」が何なのか分からない人がいたり、「界隈でもベストとジレの区別はちゃんとついていない」という含意を共有できてないっぽい。
なので「ぼたもち・おはぎ理論」という名称を暫定的に用いているのだが、そんなことで悩んでいる俺自身がまさに「ぼたもち・おはぎ理論」に陥っているんじゃないか、というね。
物質主義的傾向と孤独感の間には顕著な相関関係が観察されている。この文脈において、極簡主義が代替的パラダイムとして注目を集めている。
ある高位の企業幹部が、莫大な報酬を得ていたにもかかわらず、深刻な抑鬱状態に陥った事例がある。彼は「社会的成功の指標を全て満たしていたにもかかわらず、内面的には深い虚無感に苛まれていた」と述懐している。
この経験を契機に、彼は極簡主義の哲学に傾倒していった。極簡主義とは、物質的所有への執着を排し、生活を簡素化することで真の充足感を追求する生き方を指す。
彼は自身の生活様式を徹底的に再評価し、不要物の排除と規模縮小を断行。職業的地位を放棄し、極度に簡素化された生活を選択した。この転換により、彼の精神衛生は顕著に改善したという。
実証研究によれば、物質主義と抑鬱症状には有意な相関関係が認められ、物質主義者は平均的に幸福度が低いことが示唆されている。さらに、物質主義的傾向と経時的な孤独感の増大、そして孤独と抑鬱の間にも相関性が報告されている。
極簡主義の提唱者たちは、抑鬱症状の緩和には物質主義と過剰消費の抑制が効果的だと主張する。彼らは、過度の消費行動を満たされることのない渇望であり、満足感を求める徒労だと断じている。消費欲求から解放されることで、個人は自己の感情と向き合い、不幸に対処する能力を獲得できると説く。
一方で、極簡主義に対する批判的見解も存在する。「極簡主義の実践可能性は限定的ではないか」「富裕層のみが享受できる贅沢ではないか」といった疑問が提起されている。大多数の人々にとって、極簡主義的生活様式を採用するために人生を劇的に変革することは現実的ではない。
物質主義に関して、ある研究者は「全ての人間が程度の差こそあれ物質主義的傾向を有しており、物質的消費が必ずしも有害であるとは限らない。その影響は主に消費の動機に依存する。他者への誇示を目的とした消費は、往々にして負の結果をもたらす」と指摘している。
私人逮捕を正式に合法化し、私人略式裁判と私人処刑も合法とすべきだったんですよ
ワイにとっての「価値」っちゅうのは、最大限に幸せな時間を過ごすことやねん。それを実現するための「原則」は、こんな感じやで:
ってな具合や。これらはエクストリームプログラミングの考え方にも通じてるんやで。
エクストリームプログラミング(XP)っちゅうのは、Kent Beckが提唱したソフトウェア開発の手法で、ほんまに柔軟性があって、変化に対応しやすいんや。これを生活にも応用して、自分の幸せを追求する方法として考えてみるのもええかもしれん。
例えば、家族との時間を大切にすることで、心が豊かになり、ストレスも減ってくる。フルリモートで働くことで、自分のペースで仕事ができるし、趣味に時間を使える余裕も生まれる。こうした取り組みは、まさに自分自身の価値観に基づいた生き方やね。
結局、「価値」っちゅうのは、自分が何を大事にしているかによって変わってくるもんやから、自分なりの原則と実践を見つけて、それを大切にしていくことが一番大事なんちゃうかな。
サム・アルトマンが提唱するAGI(汎用人工知能)の実現に期待が寄せられていますが、具体的な実施には時間がかかるとされています。AGIが普及することで、仕事の自動化が進み、最終的にはベーシックインカムの導入が可能になるという見方もあります。
このように、AGIとベーシックインカムは密接に関連しており、今後の技術進化と社会構造の変化によって大きな影響を受けるでしょう。
Citations:
[1] https://staffblog.ebarakoumuten.co.jp/?p=5210
[2] https://www.youtube.com/watch?v=aYy-yNbmwPE
[3] https://spaceshipearth.jp/basicincome/
[4] https://note.com/kind_crocus236/n/n970dd5273dd6
[5] https://ai-market.jp/research/singularity/
[6] https://note.com/kind_crocus236/n/n8882e960f419
[7] https://www.americanexpress.com/ja-jp/business/trends-and-insights/articles/singularity/
[8] https://twitter.com/_daichikonno/status/1645195042234208256
[B! 芸能] 人気芸人 M-1は「滅びるよ」将来を危惧「どんどん鋭角になってく」審査員の構成に疑問「興味がなくなっている」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
知ったような口で語っているブクマカどもがいかに何もわからず書いているかを逐一反論を書いていくことにする。知ったような口ではない門外漢ブコメは今回の対象外とする。
勝ち抜いた人たちが、勝ち抜いた経験からのことを、すごい通のファンが見て、みたいなのはあんまりいい傾向にない”/この話に関連し、大会前に書いたこれを再度。⇒
> そもそも「ツッコミ」とか「ボケ」とかを、視聴者が普通に認識して番組名になっているのがおかしい。いや知ってるぐらいはまぁいいかもだけど、結局ボケもツッコミもバックステージにある(べき)ものでしょ?
べき論を正論として振りかざしたところでなんの意味もない。YouTuberがテレビに出るなとか声優がバラエティに出るなとか言ってるようなのと同様の自分の理想論を述べているだけ。
大枠同意で、この結果何が起きるかって言ったらネタ作りや審査のAI化、ひいてはお笑い業界のAI化の加速だよね。別にそれ自体が駄目とは思わないけど、M-1のコンセプト的にどうなのか
意味不明。記事内にもお笑いのAI化が進んでるなどという話は出ていないし世間でも言われていない。頭の中にあるAIという単語を出力しているだけ。
100点満点持ってるけど殆ど無意味。一人バグった審査員が100点と0点しか使わなかったらぶっ壊れる空気読み得点でしかない。素直に全組見てから各審査員ごとに順位つけて総合得点出すでよくねって思う
100点満点が無意味というのは同意するところだが、伊集院は競技化の先鋭化を批判しているのに対して競技化を追求しろと言っているのは謎。
"おかしな芸"をバラエティー向きと考えているのだろうか。トム・ブラウンはウケ量も勘案したら妥当な評価だろう。
マニアがジャンルを殺すってやつかな。M-1って競技になって最適化されててそれが令和ロマンの連覇に繋がったとかは言うけど。90点以上が連発した大会だったから2人くらい視点が違う人を入れないと点が揺れなさそう
「90点以上が連発した大会だった」という適当な印象論で最近の問題点みたいに語っているが、滑りに滑った2019ニューヨークに松本人志が82点をつけたように80点が事実上の基準となっている。ウケていると90点以上が出るのは例年通り。
「競技に最適化」というのが具体的になんなのかわかるのだろうか。"ボケ量を重ねて常に爆笑を取る漫才が強い"という状態になるとマニアがジャンルを殺すになるの理屈が全く紐づいていない。
敗者復活戦含め、年末の日曜日に7時間もテレビの前に座って漫才をひとつひとつちゃんと見ないと十分楽しめないコンテンツな時点で、振り落とされる人はかなりいる。「テレビの娯楽」としては末期なんじゃないかなぁ
漫才1本は4,5分なのだからそこだけ見ればいいのでは?スポーツ中継だって同じで、別に全体を把握せずに今映っている状況を見るものだ。
M-1が歴史になり権威になったからラパルフェが準々決勝でやった2019年M-1決勝のニューヨークのものまね漫才でお笑いオタクにバカウケして話題になった所はあるので
お笑いオタクにバカウケしたのは究極の内輪ウケだからであってM-1の権威とか関係ないでしょう。KOCのライスのネタをやられても俺は笑うと思う。
競技化して最適化していく過程でノウハウが蓄積されるのはジャンルでもそうだと思うけど、審査員が過去の経験者だと評価指標がM-1型に特化してしまって同調圧力で変なコンビを上げられないのはありそう
M-1で勝てるネタというのはM-1の場で客ウケを取るテクニックとかの話であって審査員の評価を稼ぐという話ではない。仮にそんな評価指標があったとしてもノンスタ、オードリー、ナイツの2008と現代のM-1は漫才の構成などかなり変わっているのだから全然話が繋がらないだろう。
この流れを作ったのが松本人志。意図した訳では無いが視聴者含めて皆それが正しい漫才の見方であると受け入れた結果、松本氏の作った箱庭の中で新しい笑いを語ってる
漫才を格闘技のような大会にして盛り上げようと提唱したのは島田紳助なのだが。今年の放送を見ていればわかるはずのことすら知らず適当なことを言っているこのブコメを知ったかぶり王としたい。
もはやプロじゃないと客が納得しないんだろうけど、芸人の登竜門じゃなくて漫才競技大会に寄って行ってるし、テレビ朝日が足抜けしてABCのみの関西ローカルになる未来もあると思う
漫才競技大会だったのが芸人の登竜門になっていったの間違い。芸人の登竜門として完成されたのは霜降り明星以降。2016の優勝コンビ知ってるか?あと、ABCお笑いグランプリって知ってるか?
大会順位に不満はない。ただ大衆娯楽として広い層に受けると言うのは大事だと思う。子供だったら基礎知識不要のトムブラウンとか、バッテリィズとかウケるだろうなと思ってたけど、審査にそう言う視点はなかったな。
ホストクラブのイメージを元にやってるトムブラウンと世界遺産の知識とか必要なバッテリィズが基礎知識不要って本気で言ってる?
THE Wのことも知らないような人は知らないだろうけど、THE WやR-1は飽きられる段階に達するほど盛り上がっていない。
身内が身内奨励する感の強いそれまでの漫才賞と一味違う、広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1の先鋭化は寂しいというか「普段漫才に関心ない層にもリーチできる」強みを捨て去る方向に進むのは惜しいなと思う
「広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1」ってなんですの。誰が優勝したときの話?
競技プログラミングは数学(アルゴリズム)力と実装力を競うジャンルであってプログラミングの競技化じゃねえんだよ。適当なことほざくなボケ。
まぁ令和ロマンもウケた量より技術面で評価されてたりするから先鋭化してるってのは分かる。単純に面白いと思ったかの視聴者投票でも良い気がする
ウケ量以外を加味されてるのはバッテリィズ2本目じゃあないの。2本目にウケが弱かったバッテリィズと2本目も強かった令和ロマンの構図だった。
同意。成り立ちが無名の発掘と才能がない人には区切りだったはず。M-1出身者ばかりという事は、他で花開かなかった人が審査員という事。身内ネタに過ぎないよね。連覇は既に名を馳せたはずの人が枠を奪う行為。
オードリー若林を他で花開かなかったとはおかしなことを言う人もおるもんで。
参入障壁が低いからついにエントリー数が1万を超えたですけどね。大会運営としてもアマチュアには専用の賞を置いたりしてアマチュアの参加に積極的。
高学歴が連覇ってのはまあそう言うことやろな…
学歴しか見ないコメントはこれしかなかった。この方向はヤフコメ民の方が強いのだろう。
ラパルフェがニューヨークの滑ったネタをやったことを言ってるのだろうか。
というかM-1じゃなくY-1なのが問題、審査員9人中6人が吉本(決勝の決勝令和ロマン5票中4票吉本からで非吉本審査員からは3人中1票、同じ事務所から2人以上審査員にするな
自分は予選会場の観客席の先鋭化が気になってる。観客のウケ具合が審査に少なからず影響が出るにもかかわらず、会場にはほぼ完全にお笑いマニアしかいない。
博多大吉が言ってた「予選は総合格闘技、本戦はプロレス」って言い得て妙だなと思う。今の審査員が総合格闘技だと思って審査してるのは危険
予選と決勝で戦いが別モノになってるといった話をできる人はきちんとわかっていそう。
映画や音楽ではそうでもないのにお笑いだと大衆受け原理主義者みたいな人がやたらと出てくるね / 今の自分にはまだ良さが分からないものに出会えるのが(お笑いに限らず)審査員方式のメリットだと思うのだけれど
😇
多くの男を悩ます清潔感というナゾの答えが「ユニクロいけ」の五文字で済むオイラーもびっくりのエレガントな公式なら、だったら俺独自のスタイルを求めて古着屋を徘徊していた俺の立場は・・・??
清潔感は実はネットの一部のミソジニストとかインセルだけが過剰に気にしてる理論を提唱してる私が通りますよっと・・・(貴方がそうと言う意味ではないので悪しからず)
これを受け入れるわ。
女性の皆さんも大多数の男も、実は清潔感なんてどうでもよく人間性とか価値観の内面をみてる。
そうに違いない・・・。
高校時代にAndy Hunt氏の著書に感銘を受け、プロのプログラマー像を抱いていたものの、実際にプログラマーとして働き始めてから考えが変わった、というお話ですね。Hunt氏の提唱するDRY原則や窓割れ理論に対する疑問、そして多くのテック本の著者に対するスキル不足の指摘、さらには仕事の本質は楽をして稼ぐことにあるという結論に至った経緯、よく理解できます。
以下、あなたの意見を整理し、いくつか補足と考察を加えさせていただきます。
あなたは、Hunt氏の本に影響を受けた理想と、実際の現場とのギャップに直面し、独自の結論に至ったのですね。その経験は、今後のキャリアにおいて貴重な糧となるでしょう。
最後に、水が楽な場所に流れるように、人もインセンティブに従って行動する傾向があるというあなたの言葉は、示唆に富んでいます。組織や社会の仕組みを考える上で、インセンティブの設計は非常に重要です。
この回答が、あなたの考えを整理する上で少しでもお役に立てれば幸いです。
小沢一仁は暇空弁護団の中では一番ボロが出ておらず、当初は「仕事として淡々とやっているだけで、弁護団の良心」のような扱いを受けていた。
弁護団の他のメンバーは、「SNS裏垢で係争相手の容姿を中傷」「コスモ石油に"寵愛してくれている権力者に情で仕事まわされてるだけの無能"と株主総会で公開処刑される」「中高時代に暴力事件で2回捕まってる」など露骨にアレだったが、小沢はわりと穏やかそうだった。
しかし、暇空が都知事選出馬した際によほど興奮したのか、仕事の域を超えて暇空の人格を称賛するツイートを連投し、小沢もわりとキていることがわかり評価は変わっていった。
暇空に訴えられた人たちは、暇空事情に精通している者だからとColabo弁護団を頼りにすることが多い。
音無は2014年頃からColabo叩きをやっている人で、公金不正疑惑も元は音無が提唱した。
暇空のColabo追求は音無からのパクリであり、二人は騒動の当初は仲良しだったが、暇空がColaboへの関心を薄れさせ堀口英利に執着するようになってからは、
堀口のことなんかどうでもいい音無は苛立ち、また離婚したとはいえ妻子のいる音無の端々から滲み出るマウントに暇空も苛立ち決裂。
最近は「全ての陰謀の裏側に仏教系カルト真如苑がいる、仁藤や堀口も真如苑の被害者」という方向に妄想が行ってる暇空は、音無も真如苑信者だと主張している。
やってることが初代暇空という感じの音無は色々係争しており、弁護士を求めた際に小沢の方から音無にコンタクトを取っていたことが判明。
@echonewsjp
暇空茜弁護団といえば、2022年に鰐淵弁護士(漢字あってるかな)から協力の可能性のご連絡をもらったわ?
小沢弁護士からも今年、ある事件で協力する打診がきたのよね(暇空茜も了承済み)
暇空茜
@himasoraakane
鰐淵弁護士という人は知りません
暇空茜
@himasoraakane
過去はどうあれ
協力する気もありません
絶縁します
暇空茜
@himasoraakane
だそうです
小沢一仁 15:50
結局こちらから声かけましたが途中でレスポンスなくなったのでたち消えてます。
今後もし連絡きても断るようにします。
@echonewsjp
この内容で暇空茜に連絡したの事実ですか?
@echonewsjp
そっちから話振ってきて、今後2度と返答しないとか
品がないです
なお、私が小沢弁護士への協力を躊躇していたのは、私の弁護士の間で小沢さんの評判が悪かったからです
以上。
件名 Re: エコーニュース、 江藤です。 Fwd: 弁護士の小沢です
江藤様
お世話になっております。
下記の件ですが、 立場上エックス上でやり取りすることは困難ですので、 メールへの返信という形で失礼します。
暇空さんがエックスで引用した画像のメッセージを私が送信したことは事実です。 7月頃から資料の提供をお願いしており、 8月21日のエックスのDMで進捗確認 をさせていただきましたが、 特段現在まで返信がなかったことから、 進めることが難しくなったのだと判断し、 「たち消えた」 と表現しました。
その後現在の状況になり、 共同で進めることの前提が失われたことから、 仮に今後江藤さんから連絡があっても断るようにするとメッセージしました。 事情変更によ るもので、 ご理解いただきたく存じます。
暇空茜
@himasoraakane
真如苑の政治勢力は、たとえば石丸伸二であったり、安野たかひろだと思います。少なくともこの2名は真如苑関係者と断言できます
暇空茜
@himasoraakane
石丸伸二
安野たかひろ
一時期はTwitterでレスバしてくれた堀口がインスタに篭るようになったのは、本物が真如苑によって拉致監禁or殺害済みだと暇空は提唱しており、暇アノンの皆さん(岩下の新生姜、あきまん、かんざきひろ、赤松健)なども信じているらしい
なんか知らんが東大女性教授も真如苑の幹部であり、宗教的儀式によって「導き親」となった教授と堀口は肉体関係を持ったと暇空は主張
堀口はハメ撮りで教授を脅迫したがために拉致され自由の身ではいられなくなり、インスタは偽者が投稿していると暇空は主張