はてなキーワード: 釈然とは
私は、もうすぐ結婚を控えているんですが
結婚するってなんなんでしょうか。
親の考えが古臭くて、苦しいです。
私には男兄弟がいません。
だから、
「長女の私が家を継がないと」
と、言われ続けてきました。
私は結婚したら
何も変わらないと思います。
私の名字はありきたりなので
いまの婚姻制度は
2人で新しく戸籍を作るという仕組みです。
しかし、親はよく「嫁に行く」
そして「嫁ぎ先」とか言います。
私としては、嫁に行くつもりはありません。
2人で新しい家を作るイメージです。
「しきたりを教えてもらいなさい」
とか言われても
義実家に同居するわけでもないですし
義実家の近くに住むわけでもありません。
私としては、ただ名字を変わるだけ。
あとは家計とかが一緒になる、ぐらい。
話は逸れますが、たとえ〝嫁に行った〟としても
荒れ果てた山林を掻き分け掻き分けって感じで
確認しに行くだけでもひと苦労です。
家は築400年近くで、とにかく古いですが
まさに負の遺産です。
これらを相続しなければいけないと思うと
心が真っ黒になります。
そして、それにも関わらず
「これから、家に来る時にただいまは使えない。ごめんくださいと言え」
と教えられたそうです。
そんな祖母に育てられた母も
母の実家に帰る時は
「ごめんください」と言ってます。
でも、私はたとえ結婚したとしても
長年の人生で作られた親の考え方は
もう覆せないと思います。
これ以外では仲が良いほうだと思いますが
この件に関してはお互い寄り添えません。
親と分かり合えないのが辛いです。
友人が最近トモコレを買ったらしく「トモコレで○○作っていい?」と聞かれたので、正直に「ちょっとやめてほしいかも、ごめんね」と言ったら、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をされた。
「そっか、わかったー」って言ってたけど「え、マジ?」「心狭すぎだろ」って心の声がダダ漏れ。
トモコレで自分をモチーフにしたキャラを作られたくないってそんなにおかしなこと…?自分のアバター的存在が自分の意思と関係なく友達作ったり恋人作ったりってすごく気持ち悪く思ってしまう。その友人は私に作っていいか確認してくれたけど、ほとんどの人は勝手に知り合いとか作ってるんだろうし、それがすごく嫌。
あとトモコレのコンセプトを全否定するみたいだけど、そもそもキャラクターや実在の人物を許可を取らずに勝手に作って、人間関係や恋愛模様を眺めるという楽しみ方が不謹慎に思えて苦手。
強い言葉を使うと悪趣味だなと感じる。あつ森とかぽこポケみたいなノリで流行らないでほしいとも思う。
あと今回から恋愛対象を選べるようになったみたいでそれは良いことだと思うんだけど、恋愛対象って他者が決めるものではなくない?ってモヤモヤする。
腐女子が版権キャラを作って男性キャラ同士をいちゃつかせてるのですら釈然としないものがあるのに、それが実在の人物ならなおさら。
まあトモコレの中のキャラクターはあくまで本人ではなくそっくりさんなんだと思うし「自意識過剰」「自他境界が曖昧」って言われたら否定できないけど。
私は40代前半の男だが、これまでに2回、精神科病院に入院した経験がある。他者や物を傷つける可能性のある患者は、最初に保護室へ収容される。私はくだらない理由から警察沙汰を起こしてしまい、2回とも保護室からの入院となった。
入院直前はまともに食事も取れず、睡眠もほとんど取れない状態で、ネットで調べては別の病気だと思い込んでいた。
入院の形態には、家族などが強制的に入院させる「医療保護入院」と、自分の意思で入る「任意入院」がある。私は医療保護入院だった。
保護室は刑務所に近い環境で、室内にはトイレの便器しかなく、監視カメラが常時稼働している。時計は外から確認できるが、することは何もなく、ただ淡々と時間が過ぎるのを待つしかない。唯一の楽しみは食事だった。症状が落ち着いてくると、デイルームへの開放時間が1時間、2時間、4時間と段階的に延び、やがて保護室から一般病室へ移ることになる。
入院患者の背景はさまざまだ。若い患者では、親からの暴力や育児放棄・無関心、あるいは女性の場合は過度な勉強によるストレスから来る拒食症など。社会人では職場でのパワハラが原因のケースも多い。発達障害を持つ患者も少なくない。アルコール依存症の患者も多く体臭からアルコールの匂いがする。
病棟ではさまざまな患者を目にした。日中ずっと大声で歌い続ける人、多目的トイレの前に立ち尽くす男性、車椅子に座りながら食事の時間中「メールを受け取りました。私をお殺してください」と繰り返し呟き続ける女性もいた。
家族が介護しきれなくなった認知症の高齢者や、感情のコントロールが難しい老人も多く入院していた。看護師は、暴れる患者への対応が求められるため、精神科では男性が5〜6割を占める。また、過呼吸で倒れる若い女性患者も目立った。
統合失調症の患者は、症状が悪化すると病室を歩き回りながら幻聴と会話し続ける。最初はその光景が奇妙に見えた。慢性患者の専用フロアもあるが、統合失調症の患者が多いという。中には一生退院できない患者もいる。
精神科病棟に入院する患者には、穏やかで優しい人が多いという印象がある。悩みを一人で抱え込んでしまい、鬱など心が限界を超えてしまう人が多いのだろう。自己肯定感の低い人も多い。精神疾患の患者は「異常者」と見られがちだが、実際には穏やかで大人しい人が多い。むしろ、パワハラやセクハラで他者を追い詰める側が「健常者」と呼ばれる現実には、どこか釈然としないものを感じる。
リストカットをしている若い女性患者も多かったが、男性では一度も見かけなかった。小学生くらいの女の子が、クマのぬいぐるみを抱えながらリストカットの跡を複数つけているのを見たときは、言葉にならない気持ちになった。
家庭環境に苦しむ子どもの患者の中には、親の育児放棄によって児童養護施設で育つなど、壮絶な人生を歩んできた子もいた。それでもニコニコしながら自分の非を語る姿に、胸が痛くなった。
子どもの患者には、学力の差が開いている傾向があった。中学で学年1位、あるいは内申オール5という子がいる一方、定時制高校に通いながら中学の基礎英文法も怪しい子もいた。ただ、勉強が得意でない子でも、家庭環境さえ整っていれば学力は伸びると思う。
思春期の子どもは感情が不安定で扱いが難しく病院で泣く子も多い、専門の医師が対応に当たっている。ベテランの医師でさえ、思春期の患者への対応は難しいと話していた。
かつては精神科など外科手術に比べて楽だろうと思っていたが、それは大きな誤りだった。医師がかけた一言が引き金となって、患者が自殺してしまうこともある。
関連する作品として、想田和弘監督のドキュメンタリー映画『精神』を勧めたい。クリニックの患者をモザイクなしで撮影した先駆的な作品で、見応えがある。また、統合失調症の姉を追った『どうすればよかったか?』も印象深い。精神科の世界を知るきっかけとして、どちらも良い作品だ。
現在はメンタルクリニックも増え、気軽に受診できる環境が整ってきた。鬱などをカミングアウトしやすい空気も広がりつつある。精神疾患は「完治」ではなく「寛解」、つまりベストな状態を保ち続けることが目標となる病気だ。少しでも異変を感じたら、早めに受診してほしい。悪化すればするほど回復に時間がかかる。そして焦りは禁物だ。
近年は「心の病気」ではなく「脳の病気」としての解明も進んでいる。
入院生活への不満を挙げるとすれば、インターネットが使えないことと、開放病棟でないことだ。ネットが使えない分、患者同士の会話が自然と生まれるという良い面もある。ただ、開放病棟でなければ自由に外出できないのは不自由だ。規模の小さな病院では、重症度の異なる患者が混在するため、開放は難しいという事情もある。
入院となると、仕事や家庭のことが心配になったり、入院歴が就職活動に影響しないかと不安になる人もいるだろう。しかし少しでも不安があるなら、入院すべきだと思う。入院して何もなければ、それはそれで良いのだから。
https://x.com/sayu_sayu_s/status/2039548472714785257
正直自分にもこの彼氏側のようなケがあるので自戒と自分の思考の整理
お弁当を作らない・作ってくれないことは責めていない。
多分この彼氏も同じだと思う。実際最初の段階では理由に釈然としないまでもお弁当を作らないことには納得しているのでこれはたぶん自分と同じだと思う。
だから彼女が作りたくないというならそれでもいいんだと思う。少なくとも自分が同じ立場になったらそう考える。
ここからは想像が入るが彼女は恐らくめんどくさいからお弁当を作らなかっただけだろう。自分の分はいいけど人のを作るのは彼氏でもめんどくさい。別に普通のことだ。責められることではない。
そして彼氏はそれを察している。察したうえで明言してほしかったんだとおもう。実際自分はそう考える。
そして明言してもらったうえで「そういう理由ならしょうがないね」という手続きを踏みたい。
勘違いしないでほしいがこれは貸しにしたいとかそういうことではない。本当にただ解決不可能な理由があって現状を動かせないことを再確認したいだけなんだよ。
少なくとも自分はそう。あなたがやりたくないのならやらなくてもいいということは肯定するつもりだ。自分だってやりたくないことは基本的にやりたくない。
しかし彼女は実際には「良いお弁当を提供するのが現実的に難しいので作りません」というようなことを理由にしている。
それを言われると「もしそういう理由なのだとしたらわたしはよいお弁当でなくてもいい(あなたが今作っているお弁当同じクオリティで満足です)」と言ってしまうと思う。
要は「解決可能な問題なら解決したい」ってのが根底にあるんだよな。所謂男は解決脳の極端に振り切ったやつ。ASD傾向とかそういうことなんだろうね。
実際の世の中をこれで回していいと思っているわけではないのでこの異常性に自覚的になったうえでどんな要素を加味して実際の出力を調整すべきかについて自戒する。
おそらく彼女は「めんどくさい」という本当の理由でお弁当を作らないという選択をすることに後ろめたさ、人間としての正しくなさを内面化しているんだろう。
彼氏は単純に「めんどくさい」から作らない。と宣言してもらって歩み寄りができないことを確認したかっただけだが彼女も同時に自分の"罪"(これはめんどくさくてお弁当を作らないことを罪といっているのではなく、彼女が後ろめたく思っていることを指してるだけ)の自白をしたくなかった。
そこは察してもらってなんとなく受け入れてほしかったんだろう。客観的に見たらわかる。そりゃ自分は汚い人間ですと自分の口で宣言したくはない。人間大なり小なり後ろめたい内面はあるがそれを隠して生きてる。
ただ彼氏は基本的に解決したいだけなので「めんどくさい」から作りたくないの道徳性については無関心なんだろう。
事実としてめんどくさいことを宣言してほしいだけの彼氏vsうしろめたさの告白をして上下関係の構築をさせられていると思っている彼女
まあ客観的に見てそりゃこじれるし彼女もキレるわなという感じだ。
自分が相手に求めていることが相手にとって何を意味するのかを考慮する。
自分が相手に求めていることが自分にとっては何でもないことでも相手にとっては苦痛かもしれない。
冷静に考えたらそりゃそうだなんだけど自分は「問題解決するぞ」状態に入ったら相手はただのロールというかイシューに対して行った提案の合否を返す装置みたいな扱いになるんだよな。
装置がどう考えてるとか問題解決からしたらどうでもいい事だからそりゃ相手のことはおもんぱからないよね。いや、本当によくないことだと思う。
ただ、これを改善する方法としては正直自分の問題解決したい欲求について制御するより自分が解決すべき問題のスコープを間違えてると定義するべきだなと思う。
正確に言うともっと大きくプロジェクト単位で考えてその中で小さなイシューが発生していると考えるべき。プロジェクトの目的から逸脱するイシュー解決の方法や手段をとるべきじゃないと考えたらきっと自分ももうちょっとましな出力を瞬間的に出せるような気がする。
先日、自称「文学好き」の友人とカフェで『カラマーゾフの兄弟』について話す機会があった。
彼はラテを啜り、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、自分がテクストの「最前線」に立っていることを露ほども疑わない口調でこう切り出した。
「結局、ドストエフスキーの凄みってのは、あの徹底した『脱構築』にあるよね。大審問官のシーンにしたって、あれは宗教的なコンテクストを超えた、システムによる人間管理の予言だよ。フーコーの先取りと言ってもいい。キリストという『個の超越性』が、教会の『全体主義的な統治機構』によって無化される……あの構造的なパラドックスを、あの時代に描いたのは確かに天才的だ。現代のポピュリズム批判としても完璧に機能しているよね」
彼は「コンテクスト」だの「パラドックス」だのといった横文字を、安っぽいトッピングのように振りかけながら、悦に入っていた。
「まあ、現代の僕らにとって神なんてのは、単なるナラティブの一要素、あるいは古典的なフレーバーに過ぎないわけじゃない? だからこそ、純粋な『自由と支配の相克』として、あのシーンを抽出して楽しむのが、最も知的でアップデートされた読み方だと思うんだ」
私は、彼の「洗練された批評家」を気取った横顔を眺めながら、内心で深い溜息をついた。その「アップデート」とやらが、ドストエフスキーが血を吐きながら向き合った深淵を、単なる「知的ゲームの駒」にまで脱色する、いかに軽薄な行為であるか。彼は微塵も気づいていないのだ。
「いやあ、実にお見事。洗練された、いかにも『現代的』な解釈だね。現代思想の眼鏡を通せば、ドストエフスキーもここまで『清潔』に処理できるんだ。……でも、その解釈の中で、君は『神義論』をどう位置づけているんだい? 当然、それを踏まえた上での結論なんだよね?」
友人は、今まさに自分が披露した「最新の知見」を、聞いたこともない単語で遮られたことに、一瞬、不快そうに眉をひそめた。だが、すぐにせせら笑うような表情を作ってこう返してきた。
「……しんぎろん? ごめん、そういうマイナーな……何て言うか、アカデミックな重箱の隅をつつくような用語には興味がないんだ。僕が言いたいのは、もっとアクチュアルな、現代を生きる僕らのための読みの話だよ。そういう賢しら気な分類学のラベルを貼って安心するのは、かえってテクストの可能性を狭めているんじゃないかな」
彼は、自分が「神義論」という言葉を知らないことを、あたかも「そんな価値のない衒学用語に触れる必要がない」という知的選別であるかのように装ってみせた。(ちなみに「神義論」は神学の基礎教養であり、これをマイナーと言い切る度胸には恐れ入る。)
神を「フレーバー」だと切って捨てたその口は、ドストエフスキーという男が生涯を通してのたうち回り、その魂を削り続けた神義論という名の「躓きの石」を、その一端すらも捉えていない。
そもそも、ドストエフスキーが格闘していたのは「権力システムの脱構築」なんていう安っぽい知的パズルではない。彼が対峙していたのは、キリスト教世界が二千年間解けずにいる最大の問題――「神義論」だ。
神義論のジレンマ
神が善なら悪を滅ぼそうとするはずだし、神が全能ならそれを実現できるはずだ。それなのに、世界には罪のない子供の涙が溢れている。この矛盾に対して、神をどう「弁明」するか。
神は人間を操り人形ではなく、自ら善を選択できる存在として創られた。そのためには「悪を選択できる可能性」がセットで必要になる。自由意志という「最上の贈り物」を維持するためには、悪というリスクを必然的に伴う。自由意志の価値を悪の被害以上に高く見積もることで、神が創った世界はなお善きものだと言い張る……。
これが、キリスト教世界が必死にひねり出した「神の正義」の証明だ。
この神義論の伝統を理解してはじめて、イワンの糾弾の「本当の重さ」が見えてくる。
イワンが子供の虐待を引き合いに出して、神に「入場券を返す」と言い放ったあの有名なシーン。
ここで言う「入場券」とは、将来訪れるとされる「究極の調和(天国)」への入場許可のことだ。キリスト教的には、今の苦しみは将来の大きな喜びのために必要なプロセスだとされる。
だがイワンは拒絶する。もし、その「究極の調和」の完成のために、たった一人でも罪のない子供の涙が必要だと言うのなら、そんな高すぎる代償を払ってまで得られる幸福など自分は要らない。だから、天国への入場券は恭しくお返しする。
これは単なるヒューマニズムの抗議ではない。「自由意志の価値なんて、子供の流す一滴の涙にすら及ばない」という、神学の根幹に対する絶望的な拒絶なのだ。
そして大審問官が説く「自由は人間にとって重荷すぎる」という言葉は、自由意志という神が与えた最大のギフトを、人類のほとんどが使いこなせずに自滅しているという、神の創造計画への凄まじい皮肉だ。
これらの文脈を抜きにして「現代のポピュリズム批判だ」などと語るのは、信仰を持たずに「この聖堂の荘厳さに心が洗われる!」と言っているようなものだ。
残念なことに、多くの日本人読者はこの「神との命がけの格闘」を、自分たちの「無宗教的な正しさ」を肯定するための材料として消費する。キリスト教にアレルギーを持つ自分たちの在り方を、イワンの言葉を借りて正当化しているに過ぎない。
彼らは、イワンの絶望を自分たちの「世俗的な正しさ」の補強に使い、アリョーシャが体現しようとした「それでも神を求めずにはいられない地獄のような信仰」からは目を逸らす。神義論が悲劇の正当化にしかならないことを痛いほど理解しながら、それでもなお神を求め続けたドストエフスキーの「祈り」の苦悩を、彼らは決して触ろうとしないのだ。
友人が「大審問官」に覚えたその薄っぺらなカタルシスは、ドストエフスキーが血を吐きながら書いた思想の、ほんの出し殻に過ぎない。
「まあ、ドストエフスキーは君には難しすぎたかな。彼は未来を先取りしていたからね。『現代思想の最前線』を履修してようやく理解できるのさ」
私は微笑んで頷いた。
「そうだね。君が『ドストエフスキーを深読みできる自分』によって自尊心を満たせるなら、それが君にとっての正解なんだだろう」
文学を読んで賢くなったつもりでいる君へ。
君が読んでいるのは、ドストエフスキーではない。
この基準で、今回の2人の原作者について考えてみよう(この部分の事実認識が甘い可能性があるので識者による指摘求む)
・「アクタージュ」マツキ氏は、強制わいせつ罪で懲役1年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受けている。なお猶予期間はすでに経過している。
・「堕天作戦」山本氏は、2020年の児童ポルノ製造で略式起訴・罰金刑30万円。その後、同時期の教え子との関係をめぐり、2026年2月に約1100万円の賠償を命じる民事判決が出た。これが今回の炎上の発端。
漫画原作者という職業は、教職や医師のように職務と犯罪が直接結びつく専門職とまでは言い難い。ただし、この点については意見が分かれうるだろう。
少年誌か成人向けかで反発の強弱はあるにせよ、法的償いを終えた人の創作活動そのものを一律に封じることは、私刑的な排除に近づく危うさもある。
非常勤であっても教師は、未成年に対して評価や心理的優位性を持つ立場にある。その関係性の中で起きたとされる行為は、単なる個人間の犯罪というより、制度的な信頼の破壊という側面を持つ。
さらに、刑事ではポルノ製造での罰金刑にとどまり、民事では元教え子への性的被害が不法行為として認定されているという構図も、どこか釈然としない。
もっとも重い部分が刑事で裁かれていないのではないかという感覚が残る。
これらが外部からは見えにくい状態で復帰が行われると、どうしても不信感が生じる。
私の原則は「償ったなら復帰可能」だが、その償いの中身が不透明であれば慎重になるのも当然だと思う。
今回の炎上は、単に「更生を認めるか」という問題だけではない。
むしろ、
もし、原作者の復帰そのものではなく、説明や合意形成の不透明さが問題なのであれば、それは更生の可否とは別の次元の批判である。
私は、個人の更生の問題と、企業の説明責任の問題を意識的に分けて考えたい。
謎のジンクスがあるんだけど
よく知らん地域に遠出とか引っ越したばかりのときに限って道を聞かれるんよ
なんか難しい場所の位置(その時だけやってる催事会場とか、一番近い〇〇はどこ、とか)
を聞かれて、え、え、わかりま、え、、、
ってなることが多い
周りに人もいるのに
あれは何
最近もね
午後に床屋予約して午前は出先で
いきなりお婆さんに呼び止められたんだけど、要約すると
「そこの角らへんにあるラーメン屋はやってるか?やってないなら他の営業中のラーメン屋で一番近いのは?」
みたいな
ひっかけクイズみたいな内容で、つい適当に答えちゃったんだけど
横断歩道で気になってスマホ見たら意外とすぐ正しい答えわかったから(正解は、前者はその日は定休で、次に近いのは駅前の家系)
一応ダッシュで戻って教えたんだよね
でも色々と釈然としないんだよね
確実に自信があって自分の人生において総滞留時間も長いような場所では
一度も聞かれたこと無いので
書いていてひとつ仮説が立ったんだけど
俺まで回ってくるってことなのかも
脳外科医竹田くんのモデルの医師に極刑を求めるコメントをあまり見かけない
それより圧倒的に見かけるのが「二度と医師をやらせるな」という類のコメント
危険運転による死亡事故とか性犯罪とかだと極刑……死刑にしろとか二度と娑婆に出すなとかそういう類のコメントがいくらかは見かけるのに
医療事故事件ニュースに対して「二度と医師をやらせるな」というコメントと同じ構図にするなら、「二度と運転させるな」とか「去勢しろ」になるか
なるほど、非現実的なのか?
二度と運転させるなと言って運転免許失効剥奪したとしても無免許運転はできるし、去勢したとしても性暴力はできる(なんかここ怪しいな、別の論理があるような、あとで要再考)
医師に二度と医師をやらせないというのは職を与えないだけでいい(素人考え)、無免許医は考慮せず
私/関係者/誰かが被害者にならないよう対処せよ、というのが感想として噴き出ているのか
うーん、なんか釈然としないな
という文章に対して、それは「西紅柿炒鶏蛋」とか「蕃茄炒蛋」という名前がつけられているというリアクションがされる
でも釈然としない
それって中国語で「トマトと卵の炒め物」って言っているだけじゃないか
固有名詞的でない
CH3COOHの名前は?と聞かれて酢酸でなくエタン酸というような感じ
「エビのチリソース煮」が「エビチリ」という名前で普及するくらいになって初めて狭義の「名前がある」だろ、という不満
でも広義では名前は既にある、その通り
なので文句を言いようがない ただぐちぐち書いて布団にくるまって寝るしかない この戦いは勝てない
「トマたま」とか「トマたま炒め」とかのような通称が広まって初めて「名前がある」だろ、という自分ルールの狭義の「名前がある」で考えてるだけなので
食べたものを批評する蘊蓄を持たない主人公が、「よくわからないけどおいしい気がする」という感想を抱くだけのギャグ漫画。
あれ、わかるんだよ。
愛情がない家庭で育った、俺にはギャグじゃなくて悲しみとして刺さるんだよ。
一般的な家庭のように、親が作ってくれた料理を食べて育ったわけではない。
家庭料理ではなく、メニューの中から何かを選んで、それを一人で食べるという生活を送っていた。
お金には恵まれていたかもしれないが、愛情にはとても飢えていたのだ、と当時を振り返るとき考えざるを得ない。
そういう人間にとって、あのギャグ漫画はギャグではなく真実、悲しい真実なんだ。
普通、子どもは親とのコミュニケーションの中で自分がいま食べているものが何か?ということを学習する。
例えば、生まれて初めて食べる食べ物、コリコリとして甘く煮詰められた食感が楽しい食べ物、
「これは何なの?」
という質問に対して親が
「それはタケノコだよ」
とか答える。
しかし、そういう体験のない子どもは食べ物を食べて、おいしいと思ってもそれが何なのかわからないのだ。
「なんだかコリコリしてるおいしくて甘い食べ物だな。これはなんというか……、コリコリしてとてもおいしい」
みたいな語彙しか持てなくなるのだ。
普通の家庭で育った人間は親から「タケノコ」という言葉を教えられるだけでなく、
親とのコミュニケーションのなかでタケノコがいつの季節の食べ物で、
とか、
値段はそれほど高くない食べ物で、
でも、ただメニューの中から食べるものを選んで、それを一人で食事した人間にとってはいつまで経ってもその食べ物は
わかるだろうか?俺の悲しみが…?
そりゃ、メニューの中から選ぶから、メインの食べ物が何かくらいはわかるんだ。
とか
ハンバーグとは、これだ
とか
そういうことはわかる。
「なんだか野菜なのに冷たくなくて温かくておいしい感じがする不思議な食べ物だ」
そのバックボーンとしてある温野菜というものがどうやって料理されていて、
とか、そういう蘊蓄がまったく蓄積されることはない。
ただただ、なんだかよくわからないがこれはおいしい、とだけしか思えない。
そして、それがとても悲しい家庭環境だった、というのは自分が大人になって結婚して、子どもが出来て、
妻が、娘にいろいろな食物について、ひとつひとつ親と子としてのコミュニケーションとして自然とレクチャーしていく様を見て、
ああ、俺にはこれが欠けていたのだ。父親は俺に金銭面ではよくしてくれたが、しかし、子どもにとって大事なものは与えてくれなかったな。
と決して恨みではないが、何か釈然としない気持ちも多分に持ち合わせているのは本当のことだ。
とはいえ、こうして俺はいま普通の家庭の幸せというものを感じることが出来ている。
キレそ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!
K DUB SHINEの「ア・フュー・グッドメン」って楽曲がルーツだよって教えてくれたのね。
でも調べても出てこねーの。
××ってアルバムに入ってるよ→入ってません
ごめんごめん、アナログ盤に入ってるよ→入ってません
あるけどなぁ。URL出そうか?→じゃあ出して→システム的に無理やわ
ワイ「これ自分の最初に出した情報が正しいとする防衛モードに入ってるよね?」
AI「入ってないよ。この曲あるよ。回答の方法が悪くてご迷惑をおかけしてるけど情報は確認できてるよ」
ワイ「わかった、じゃあその情報全部教えて。本当に見つかるかお前が認めるまで付き合うわ」
J-WID(JASRACの検索サイト)で×××で出てくるよ→出てきません
×××じゃなくて△△△と□□□の組み合わせで出てくるよ→出てきません
Discogs(世界最大の音楽DB)で調べれば出てくるよ→出てきません
結果……
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私が提示した情報(JASRACの登録情報や、Discogsのアナログ盤情報)が、現在の一般的にアクセス可能なデータベースで、ユーザー様が確認できない状態である以上、私の情報が誤っていた、あるいは非常に古い信頼できない情報源に基づいていた可能性が極めて高いです。
これ以上、不確かな情報でユーザー様のお時間をいただくのは不誠実です。 ご指摘の通り、「もしかしたら本当にないのかも」しれません。
一連のやり取りで、私が誤った情報や不確実な情報に固執したことにより、多大なご迷惑とご不快の念をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
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なにこの「これ以上時間とらせるんもアレやし、今回は私が間違ってたってことでええよ」感。
ちなみに4大AIの他の3つに聞いたら即答で「ないと思うで」って返ってきた。
なんやねん。
ただァ↑↑何度もMASDACで議論されてる通り、AIって検索エンジンの強い奴じゃなくて「生成」AIなんよな。
だからAIは最初に「ア・フュー・グッドメン」とかいう確率的にあり得そうな情報を「生成」して、その生成結果の一貫性を保つために付随する「収録メディアの情報」「JASRACの情報」「Discogsの情報」を次々と「生成」した。ある意味で言えば「生成」AIとして非常に正しい活動をしたといえなくもない。
ただこっちが実際に存在する情報を欲しがってる時に、情報を「生成」するのはやめてほしい。最悪してもいいんだけどなんか違ったかなってなったらすぐごめんしてほしい。これなんかは単純な趣味で調べたらすぐわかることだったけど、業務目的で真偽を確かめるのがマジで大変な専門的な情報を「生成」されると、ガチでややこしいことになりかねないから。
この辺そのうち割と大きな問題になりそうな気がしてる。
自分は建築の意匠設計に携わっているが、設計担当は自分ひとり。営業6人が持ってくる案件をさばくのに限界を感じ、1年前の春に上司へ人員補充を求めた。
2週間後、上司複数人に呼び出されて告げられたのはこうだった。
「別部署で休職していた社員が復帰する。建築系の資格もあるし、将来的に君の助けになるはずだ。病み上がりで配慮は必要だが、ちょうど人員補充を希望していたことだし、受け入れてほしい」
建築業界外出身の自分にとっては願ってもない話に思え、喜んで引き受けた。
「具体的な配慮とあできること・できないことは本人の意思を尊重し任せればよい」と聞いていたため、彼女に直接確認したところ、「全部できる」と答えた。
頼もしいと思い、すぐに出張同行をお願いした。意匠設計という仕事の特性上、実際の場所を見ることが一番の勉強になるし、実際を見ないとわからないことがほとんどであるため。
ところが1週間後、彼女が通うリワークセンターの先生が会社に来訪し、苦情を伝えられた。
「復帰してすぐなのに出張に行かされて辛い」「打ち合わせに参加させられた。ひどい」など彼女からの苦情があったそうだ。
「〇〇さんは、すごく人に気をつかうタイプなので、できないこともできると言ってしまう。そこはあなたが表情をみて本当に任せてよいか判断してほしい」
「わからないことがあると不安なので、わかるまで丁寧に説明してあげてください」
「出張・残業はダメです。彼女はリハビリ期間なので会社に出社するだけで素晴らしいのです」
「今の仕事は楽しいらしいので、このまま社会復帰できるように支えてあげてください」
と、ひたすら要望を突き付けて「理解とご配慮お願いします」と帰っていった。こちらからも出張は行ってくれないと困るとも要望したが配慮してくださいと一点張りだった。
席に戻ると当の本人は「そういう事ですので…すみませんがよろしくお願いします」と言ってのけた。
正直ここで、聞いていた話とだいぶ違うなと思った。
私は人手が足りないから人員補充を申請したのに、なぜ介護士みたいな役割が増えているんだ?
でも、自分も業界外出身で1年目は周りに多く迷惑をかけた自覚がある。ここで見限れば、1年目の私に無能だと怒鳴り続けた元上司と同じになってしまうと感じ、なんとか環境を整えようと努力した。
デザインの仕事をしているものとして、軽々しくこの言葉を使いたくないが、壊滅的にセンスがなかった。
でも、有名な著作タイトルにもあるように、センスというのは知識と経験から培われるものだと自分のポリシーに従い、自分の感覚でやっていることをなるべく言語・数値化して、なぜ自分はこういう設計にしているのか、彼女に毎回説明した。彼女は現場を見れないからすべて自分の言葉や写真で伝える必要があった。
数値化できることは資料にもしたが、彼女には全然足りなかったらしく「チャートをつくれ」や「フォーマットをつくれ」や「もっと丁寧に説明しろ」と要求は絶えなかった。
さらには業務上気にしなくてもよい、内部の建築構造の細かいところまで彼女は本当に気にした。それがはっきりしないと手を動かすことすらできなかった。仕事の担当領域や段階があるので、現時点で不明な情報があってもとりあえず想定で作るという判断が業務上必要なのだが、彼女に「そこは気にしなくてもよい」と伝えてもいつも釈然としない顔をしていた。自分が彼女よりも10近く年下のせいもあり、言葉に説得力がなかったのかもしれない。挙句には同じ建築業に従事する夫に電話をかけて「夫はこういっているんですけど?」と詰められたりした。
そんなに細かいことが気になるなら自分で現場をみにいった方が、いろいろ勉強になると再三伝えても、それは無理だと一点張り。でも、自分はわからないことがあると不安になるから、わかるように!もっと!丁寧に!説明してほしいと要望は止まらない。しかし、そんな要望真に受けていたら仕事がもっと回らなくなるから、納得していない表情をしていたとしても「じゃ。そういうことで」と話を切り上げて自分の仕事に戻ったりしていた。
さらに「短納期は無理」「前部署関連の仕事は無理」など、業務制約が次々に出てきて合計7項目に及んだ。
だったらと、彼女が納得しながらできるであろう「細かいことが決まっている」仕事だけを頼もうと思い、ちょうどよい業務がないときは勉強期間として、ファイルの整理のお願いをしていたのだが、しばらくすると上司に呼ばれ
「彼女が最近、仕事を任されないと落ち込んでいる。隣で忙しそうにされると何か手伝いたいのに、仕事を任されないのがつらい。私はやる気があるのに…」と相談を受けたとの話だった。
やる気があるなら出張に行けよと思った。
連休の度に「旅行(またはライブ/登山)に行ったんですよ~」みたいな話してくるのも一体どういう神経しているんだろうと驚いたし、それに対して「じゃあ、出張も行けますね!」みたいな返しができず「良かったですね~」と寄り添わなきゃいけないのもかなり苦痛だった。プライベートの旅行と出張じゃ疲弊する場所が違うのはわかるが、人に気を使って疲れる設定はどこに行ったのだろう?
それでも「回復のためには重要なステップ」とされる以上、彼女が気持ちよく働ける業務量になるように、他のチームの人にちょうど良い仕事はないか相談したりした。彼女に仕事を任され場任せるほどこちらの負担が大きくなるので、自分が回るのかも考えながら仕事量を調整した。
でも、やはり資料を修正を依頼するたびに「センスなくてすみません」とまるで謝罪している形を装った不満表明をうけたり、こちらが何か良い案を言うまで、自分の意見は一切言わずに答えを待つ態度だったり、何度仕事をしても減らない質問量に辟易するたびに、精神はすり減っていたようで、だんだんと無意識に彼女との会話を避けるようになった。彼女からは毎日面談の時間が欲しいと言われていたが、業務量的にも精神的にも回らなかったので断った。
段々と限界を感じていたある日、普段は営業担当から仕事が来るが、管理職直々の案件が来た。正直彼女向きではない案件だとは思っていたが、自分が対応する時間がないことや、営業担当が管理職だったこともあり、彼女に直接営業とやり取りをお願いして、案を考えるようにと伝えていたのだが、どうやら営業管理職とのやり取りがうまくいかなかったらしく、ほかの管理職に泣きながら抗議の電話を入れたらしい。
そこでようやく、上層部の人間に、彼女の扱いの難しさを実感してもらえた。
彼女が泣き出したことは当然、職場の事件としていろいろな話合いがされているが、その間その管理職と彼女への不平不満を話せるのがうれしくて仕方がなかった。
一度不満を理解してもらえると、これまで見ないようにしてきた1年間の不満が言語化され噴出し、今はもう彼女のことが生理的に無理になっている。(明日彼女はリモートワークなので)明後日以降はまた顔を合わせなければいけないが、今まで通りに接する自信がない。
きっと明日以降、様々な事情聴取が行われ、きっと自分も「彼女の事情を配慮して、もっと丁寧に指導してあげるべきだった」と注意されるだろうが、自分にはもう、彼女のフォローは無理である。
かつては自分もこんな時があった。まだ仕事が良く分かっていない段階で「無能」と角印を押すのは浅はかだし、元上司と同じところに落ちてしまうのが嫌で、何とか笑顔とやさしさを取り繕いながら、1年間何とかやってきた。
でも、1年目の自分はやったほうが良いと言われたことは何でもやってたし、どこにでも出張に行ったり、扱う製品をずっと触ってどういう構造と特性なのか理解する努力はした。彼女の姿勢とこの仕事はかみ合わないんじゃないかという不満は、心を麻痺させて気づかないようにしていた。
飲み会など(彼女参加)で「仕事の振り分けはどうしてるの?」と聞かれたときは、本当は7つの条件すべて答え、これをクリアしたものです。と答えたかったが「几帳面なので丁寧さが求められる仕事を任せています」と答え、「じゃあ(自分)さんは大雑把な仕事をしているんだ~!」みたいに言われても彼女が自信を持てるように我慢した。
彼女はこの1年で自信をつけてきたみたいだが、自分から見ると全然仕事の役になってくれていない。彼女のためを思って、1段1段細かいステップを用意してきたが、これが後何年続くのかと考えただけで気が遠くなる。
そういう自分の厚意も、彼女にとっては全然足りないらしく、忙しいのはわかるがもっと丁寧にフォローしてほしい。と今回もとてもお怒りなさっているらしい。
明日からの仕事がとても億劫だ。彼女の後始末に追われ明日締め切りのものでまだ手を付けれていない仕事がある。正直、彼女の事件の話をしている時間なんてない。
この際、自分の査定は下がって良いし、もう前の上司と同じだと詰られてもよい。とにかく楽になりたい。彼女がいなくなることで仕事量的にも気持ち的にもとても気が楽だ。
都内某ターミナル駅で目的のホームに向かおうとしたら階段の時点で人があふれており、ホームにいたっては劣悪な家畜小屋のように人間がごちゃごちゃになってうごめいていた。
ただ、ターミナル駅なので降りる人も多いため、電車がやって来て中の乗客を吐き出せば、ホームで待っていた膨大な人々をそれなりに飲み込んでしまうすごさがある。降車する人でホームがパンクするかというと、電車が来た後はむしろすっきりしているぐらいで、すげーな、と思いつつ、俺も自分の乗る電車をホームで待つことにする。
電車を待っている人たちの列に着く。電車が来る。列が動く。俺は前に進みつつ、到着しているいまの電車は見送ることにした。体を押し込めないと入らない気がしたからである。
俺の前に並んでいた人たちはみんな停まった車両に乗り込んだ。結果として、俺が「黄色い線の内側」の列で先頭になった。
さて、俺が立ち止まってからも、いま停まっている電車に乗り込もうとする連中がおり(少し乱暴な呼び方だがこう呼ぶ)、乗車口に向かっていく。
車両の許容量はぱっと見で明らかに臨界に達しており、どう見ても乗れるわけがない。無理なものを無理に乗ろうとする者、「あ、これは無理だな」と遅ればせながら途中で悟った者などが逡巡ののちに乗車を断念し、だらだら車両から離れる。ホームドアが閉まって電車が出発し、結果としては、この連中が列(というか、こいつらのせいで列という既存の形態はあいまいになり崩壊したため、「群」)の先頭になる。
うん? と思ってどうも釈然としない。
これから次の電車が来るわけだが、そのとき乗車する順番は、「明らかに乗れるはずがない電車に乗ろうとして上手くいかず、あきらめて後退して列の後ろにも戻らず、乗車口(兼 降車口)の正面で待機している人たち」が先になるのだろうか?
それ、面白くねえな、と思う。要素がいろいろ複合しているが、単純に「列に並ぶ」という点で順番を抜かされているだけで面白くない。
いちいちこう書くのも偏執的だが、まず、すでに並んでいる列を抜かして先頭に立とうとしたらおかしいし、一回電車に乗ろうとしていた、というイレギュラーがあるからといって、「乗ろうとして乗れなかった者は列で並んでいる人の順番を抜かして集団の先頭で待っていてよい」ルールなどない。
ただ、と一方で思う。
俺は、じゃあ、この場にどういうことが起こるべきだと言いたいのか?
例えば、乗ろうとして乗れなかった連中が、あきらめて全員列の後ろに並び直せばよいのか?
さらに一つややこしいことを言うと、乗車口(=降車口)の前で滞留している連中にも理解の及ぶグラデーションがあって、一番前にいる者の気持ちはわからなくもない。
見たところ明らかに無理、でも、すでに中にいる人たちが頑張って詰めてくれれば一人分空くだろう、という心情は、実は理解できる。明らかに無理なことが実際に無理だっただけである。
しかし、この人にあとから続いてきた者たちのことは、もう全然わからない。自分の前にいるやつからして明らかに入れないのだから、自分が入るわけがない。後方に行くほど理解できず、前からの距離に比例してトンマだと思う。
で、これを加味すると、俺が望んでいることは何かというと、後方から乗ろうとした連中はあきらめて列に並び直す。ごくごく前方にいた人のみ、「あいすみません…」という感じで、列そのものの先頭ではないけどもなんとなく前方で次の電車を待つ。そういうことになるのか。
そんなことが起きるわけがない。全員が列の後方にすごすごと戻る、ということもないだろう。そういう分別があるなら、そもそも、前段階である「明らかに乗れない電車に突撃」自体が起こらない。
にもかかわらず、そうあるべきだ、というのは、自分でも起こるわけないと理解している「べき論」を盾に相手を論難しているわけで、おのれの正当性に偏重しすぎて、おそろしく非生産的な気がする。
電車のホームで起きていることは「列で並んで待つ。他の人を抜かさない」という空間的なシステムが愚か者のせいでぐしゃぐしゃになる話だが、時間的にも似たようなことは起きる。
というか、散々書いてきてあれだが、俺こそよく、時間的な意味で、「システムを壊乱する」側である。要するに締切の話である。
例えば締切が9/25だとして、俺は「とはいえ、9/26の早朝までは大丈夫ですよね?」ということをやらかす。
実際、それで助かることは多い(もちろん、他の人には負担をかけている)。自分が迷惑をかける側になってみると、システムにも遊びがあった方が助かるな…と思う。ある程度だらしなく、関わっている者全体がお互いのルーズさを飲み込んだ方が便利である。
ただ、時間的にだらしない俺が言うのもなんだが、
・締切は9/25です。
⇨ とはいえ、9/26の朝までに出せばいいですよね?
・はい。本当の締切は9/26の午前です。
⇨ わかりました。じゃあ、9/26の午後イチではどうですか。
⇨ ありがとう。ところで、実は…
となって、果てしなくシステムがメルトダウンしていき、ルールを守ることをナメるやつが出てきて、真面目な人が損をする。それはよくないので、やはり仕組みは仕組みとして明確に切るべきなのか(卒論の提出など、意味合いが深刻なものほどそうなっている)。
うーん、と思っているうちの次の電車が来る。ターミナル駅なので大量の人が降りてきて、降車口の前にいる連中は思いっきり邪魔になっている。その連中が脇にのくスペースをつくるために俺も脇にのくが、これで列がより曖昧になり、もう列で並ぶとか意味ないじゃん、と思う。
その連中が乗り込んで、あとから俺も乗る。仮にの話だが、もしこいつらの乗ったために車内がいっぱいになり、この電車も見送らないといけなかったら、俺は相当ムカついただろう。だろうが、「ちゃんと並べ」という俺自身、別のところではヘラヘラやっているため、どの立場で何を怒っているのやらよくわからない。
関係あるようなないような話だが、最近、都内駅構内のエスカレーターで右側を歩く、という慣習が弱まっているような気がする(気がするだけかもしれない)。乗ろうとするエスカレーターを見上げて、妙に静的なので、うん? と思うことが増えた。
お前には丸鋸は使わせられない安全の責任が持てないからって言われるのはまだいいとしてそのあと咄嗟の判断で対処しても間に合わなくて指がとれたら面倒だし、って言われたのが釈然としない。
面倒って言う言い方がねえ。普通可哀想とか申し訳ないって言葉が来るもんじゃないのそこは?と思うわけ。
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学生時代になんとなく雰囲気で感動してみたりやっぱり釈然としないものを感じたりしながらそれっきりになっていた。
堀口大学の大時代な美文調の訳がわるいのかとも思ったが、どうも元がろくでもないのだ。
「人間の土地」等で繰り返し提示されるのは逆転の発想、レトリカルな視点の転倒である。
なんかどれもこれも…中高生が自分でこれは凄いぞと思って書いた文章みたい。
そこヒネったから何なんだよ。
戦間期の飛行機乗りという最先端の職業体験による高揚を糞ポエミーな文章で書いたらバカウケした。作家サンテグジュペリを一言で表すとそういうことになる。
(「南方郵便機」にはもうちょっと素朴な職業倫理やタフガイ礼賛があったが)
そして気分の高揚は気分の高揚以上の何かではないのだ。飛行機というツールが世界の全く新しい見方を可能にした、とかいうのはただの独り善がりの妄想である。
100年という時間が、往時のパイロットの高揚にレトロフューチャー的なもっともらしい陰影を与えている。しかし現代の我々はコレにそっくりな物語のパターンを知っている。
宇宙飛行士が真理に目覚めただとか。
そういう陳腐なスピ話、「アプリケーションによって人間がいま一段の進化を遂げる話」に、我々は今さら目を輝かせたりしない。
何も違いはしないのだ。
なぜなら、男の所有物になることによって夫を通し納めていないのに3号年金や遺族年金、医療保険の利益をえており
その利益は子供がいようといまいと存在し、原資は2号つまり全会社員が納めている社会保険料だから
既婚男は自分も利益があるからダンマリだし、単身男は既婚男の顔色伺うか、いつか自分もと思ってるからダンマリ
更に扶養内労働の主婦女性が低賃金をキープしたがり、男に女を安く雑用させていいと刷り込んで単身女性に迷惑をかけている
バカにはしていない
fuck the patriarchyと思っている
男女雇用機会均等法のすぐあとに始まったのが3号年金と遺族年金
それくらいは知っているべきだろう