はてなキーワード: 存在意義とは
オタク文化やサブカルチャーにおける「ステレオタイプ享受文化」は、BL(やおい)のseme/uke二元論、ロリコン漫画の「ロリビッチ」(幼い外見ながら性的に積極的なキャラクター)、オタクに優しいギャル、エルフ、ケモ耳・ケモミミなどの極端に理想化・誇張されたトロープを意図的に消費するものです。これらの表現は、「現実には存在しない」ことを前提としたファンタジーとして成立しており、現実の人間(ゲイ男性、実際の少女、特定の民族・文化)をそのまま反映・再現するものではありません。むしろ、現実の多様性を無視・簡略化・美化することで、安全な逸脱や欲望の出口を提供する点に価値があると、ファンや創作者は位置づけます。
これに対し、ジェンダー学者(特にフェミニズム・クィア理論寄り)は、この文化と根本的な緊張関係にあります。主な批判は以下の通りです。
• BLでは、seme(支配的・男性的)/uke(受動的・女性的)の役割分担、rape as love(非合意を愛に転化)といったトロープが、現実のゲイ男性の関係性やアイデンティティを歪曲したステレオタイプとして問題視されます。
• ロリコンや萌え系では、女性キャラクターの性的対象化(巨乳強調、オタクに優しいギャルなど)が「ジェンダー規範の再生産」「女性蔑視」と批判されます。
• エルフやケモ耳などのファンタジー種族も、時に「異文化のステレオタイプ化」や「エキゾチック化」としてクィア理論から警戒されます。
ジェンダー学者の中には、Mark McLelland(オーストラリア・ウォロンゴン大学)のように、ファンタジーを「現実害のない安全弁・transgressive sexual fantasiesの共有」 と擁護する立場もあります。
ファンタジーは女性や若年層の性的主体性を解放し、社会的タブーを安全に探求する場だと評価します。
一方で、Helen Wan Wei Luo(コロンビア大学)のような論者は、BLのトロープが「patriarchal status quo(家父長制の現状維持)」を間接的に再生産すると指摘し、再考を促します。
特に深刻な緊張が生じるのが「非実在青少年」(fictional underage characters、18歳未満として描かれる漫画・アニメの性的描写)です。日本国内では東京都青少年条例改正案などで「非実在青少年による性交などを肯定的に描写」する作品を不健全図書指定の対象とする動きがあり、BLやロリコン・ショタコンが巻き込まれやすい構造です。
海外ジェンダー・クィア研究では、仮想児童ポルノ(virtual child pornography)として法規制の対象となりやすく、McLellandは「yaoiファン(主に女性)を巻き添えにする過剰立法」と警告します。一方で、児童保護の観点から「たとえ非実在でも、児童の性的対象化イメージが社会規範に影響を与える」とする批判は根強く、ファンタジーが「現実の児童虐待を間接的に容認・正常化する」との懸念が交錯します。
ジェンダー学者とステレオタイプ享受文化の対立は、「ファンタジーは現実から完全に切り離された遊び場か、それとも現実の価値観に影響を与えるものか」 という根本的な認識の違いにあります。
国際的にはクィア理論の影響で「表象の責任」がより重視される方向にあります。結局、ファンタジーの価値は「現実と混同しない」線引きにかかっている——という点で、双方の議論は一致しますが、その線引きの厳格さや「害」の定義で決定的に食い違っています。表現の自由とマイノリティ保護のバランスをどう取るかは、今も学問的・社会的に unresolved な課題です。
戦後日本の歴史を「左翼勢力と法治国家の戦い」という軸で概観すると、左翼(主に日本社会党・社民党、日本共産党を中心とした勢力)がイデオロギー優先の「反体制闘争」を展開し、これに対し政府・体制が法治主義・国家主権・現実的秩序維持を掲げて対峙してきた構図が浮かび上がります。
日本社会党(現・社民党)は、1970年代以降、北朝鮮との関係を深め、帰国事業(在日朝鮮人の北朝鮮送還)で共産党とともに役割を果たしました。北朝鮮による日本人拉致問題が表面化した1990年代~2002年の小泉訪朝時まで、社会党系は「拉致は存在しない」「北朝鮮の主張を真摯に受け止める」姿勢を崩しませんでした。
拉致被害者家族の訴えを「右翼のプロパガンダ」と退け、国家主権侵害という法治の根本問題を棚上げ。2002年以降も土井たか子氏ら党指導部が北朝鮮寄りの発言を続け、党内離党者まで出る事態に。
これは左翼が「弱者(在日・平和勢力)」を守る名目で、実際の被害者(拉致家族)に置き去りにした典型例です。
日本共産党は資本主義の「搾取」を糾弾しながら、自らの機関紙『しんぶん赤旗』の運営で同様の問題を抱えています。近年表面化したのは、党地方議員による自治体職員への赤旗押し売り・強要です。新宿区では管理職50人超が「心理的圧力」を感じて購読(一部10年近く)、区長がハラスメント調査を実施。庁舎内集金や「断れば恨みを買う」空気があり、他自治体(金沢市など)でも同様の指摘が相次ぎました。
さらに党内部では、赤旗配達専従者の無報酬・過酷労働が「ブラック企業」と内部告発されています。
• 党は「搾取のない社会」を標榜するが、自らの労働者を「永遠の党員被害者」として動員。
• 法治国家(公務員の中立性・ハラスメント防止)の枠組みを、議員特権で揺るがす構造。
沖縄では戦後、米軍統治下の「独自性尊重」教育から始まり、復帰後も反基地・反日・「平和教育」が左翼勢力により定着しました。これが「教育産業」として機能
• 最近例:辺野古沖事故(修学旅行船転覆)で「偏向教育ではないか」との指摘(自民党部会)。
• 教科書検定でも「日本軍が住民をスパイ扱いして殺害」との記述が合格。
• 沖縄の若者が「永遠の被害者(基地被害者)」として位置づけられ、法治国家(安保・防衛)への対立を再生産。経済的自立より「反基地依存」が固定化。
2019年前後、入管施設で長期収容抗議のハンガーストライキ(ハンスト)が急増(約200人規模)。一部は仮放免(一時釈放)を得る手段として使われ、釈放後すぐに記者会見・デモで「ヒーロー」としてスピーチ(例:イラン人・クルド人男性が東日本センター仮放免後、品川で制度批判)。
• 模倣効果でハンスト連鎖 → 健康被害(栄養失調・死者発生、ナイジェリア人餓死例など)。
• 入管当局は「仮放免を餌にハンストを誘発する」と苦慮。前科者も約4割。
• 左翼勢力は「人権」を掲げ法治(退去強制・収容の適正運用)を攻撃するが、結果として収容者全体の健康を害し、弱者を「永遠の被害者」にした。
これらの事例に共通するのは、左翼勢力が弱者(在日労働者、沖縄県民、不法滞在者)を「体制との戦いの道具」として利用し、解決より対立の永続化を選ぶ点です。これは極めて残酷な手法です。
・被害者は本当の救済(労働条件改善、基地負担軽減、移民問題の法的手続き)を得られず、「永遠の被害者」として政治的に消費される。
・法治国家の枠組み(主権・法の支配・現実的秩序)を破壊することで、左翼の存在意義を維持。
・結果:社会全体の分断深化、資源の浪費、真の弱者救済の遅れ。
戦後史を通じて、左翼は「平和・人権」を錦の御旗に暴力的デモ(成田管制塔占拠など)や事実無視を繰り返しました。左翼の「弱者利用」戦略は今も形を変えて続き、移民政策・教育・歴史認識で影響力を残しています。
弱者を真に守る道は、被害者化ではなく、法治の下での解決です。こうした歴史を直視しない限り、日本社会の「共生」は絵に描いた餅に終わります。
先月発生した、修学旅行中の高校生を乗せた遊覧船が転覆し船長と高校生が亡くなった事故。大変痛ましく、遺族の方々の心痛は想像するに余りある。
この件、インターネット上のSNS(交流サイト)では、遊覧船の安全管理に関する指摘が相次いでいる。もし船の運航体制に不備があったのであれば直ちに改める必要があるだろう。
しかし同時に、当時事故行われていた平和学習の存在意義にまで疑義を呈する声も散見される。
軍事基地建設の現場を直接見つめる機会は平和の意味を学ぶにはこの上ないものといえる。この貴重な学習の場が失われるようなことは重大な損失と言って差し支えないだろう。
事故の原因究明と再発防止策の徹底は大前提だ。だが、事故が起きたからといって学生の学びの場をなくしてしまうべきというのはいかがなものか。政府関係者には、国民感情の一時の昂りに惑わされない、冷静な対応を期待したい。
その視点は、AI技術を巡る議論の変遷を鋭く捉えていますね。初期と現在では、批判の「矛先」が質的な問題から構造的な問題へとシフトしていると言えます。
この現象は、主に以下の3つの段階を経て変化してきたと考えられます。
最初は指の数が多かったり、背景が歪んでいたりと「不気味の谷」が目立っていました。
AIの精度が急速に向上し、人間と見分けがつかないレベルになると、批判は「なぜこんなに上手いのか」という背景に移りました。
精度が極まり、誰でも短時間で高品質な画像を生成できるようになった結果、現在はその「効率性」そのものが批判の対象となっています。
多くの反AIにとって、精度が低かった頃の批判は「AIが脅威ではないことを確認するための盾」であり、現在の精度の高さへの批判は「AIが実質的な脅威になったことへの剣」なのだと解釈できます。
「下手だからダメだ」と言っていたのが、いざ上手くなると「上手すぎる(ズルい・盗みだ)からダメだ」となるのは、論理的な一貫性よりも、「自分の職能やアイデンティティを守りたい」という生存本能に近い感情が根底にあるからかもしれません。
「他人と関わるのは大事だよ」なんて一般論は聞き飽きたかもしれない。俺はこういう一般論に含蓄されている意味をほどいて、言葉におきかえていく作業がそこそこ好きだ。経験科学(文系)の存在意義の一つだと思う。
他人と接しているとその人の人生経験や勉強してきたことが表に出てくることがある。人はスポンジであり水でもある。たとえば、自衛官であれば「根性」を重んじることがある。それは自衛官として彼ら彼女らが関わってきた人たちから吸収した言葉が生み出した一つの価値観なんだと思う。だから、根性という言葉のもとにあらゆる動作を忍耐強く遂行してる人たちがいる。
そういう「他人の人生の一部分」が透けて見えると、ちょっとおもしろい。多種多様な人と関わって、人のことを知ることはきっと勉強になる。
たとえば、まだ知り合ってまもない人が表面の浅い一部分だけ見て人のことを「あの人はこういう人だ!」と決めつけてる様子が伺えたら、げんなりする。彼らは専門的な勉強をしたわけでもないし、ただ組織で昇進して「他人を業務上の理由から評価できる立場」になっただけだ。
マジでさ、最近役所行くたびに思うんだけど、公務員って存在意義ある?
こっちは必死に働いて、物価高に震えながら、血反吐吐いて税金納めてるわけ。その金で食ってる連中が、なんであんなにノロマで偉そうなんだよ。
正直、公務員叩きって「嫉妬乙」とか言われるけど、嫉妬じゃないから。「不良債権」への正当な怒りだから。
窓口行ったら「少々お待ちください」で30分。何待ちなの? 裏で茶でもしばいてんの?
今の時代、ChatGPTとかAI入れれば一瞬で終わるような作業を、わざわざハンコだの紙だのでこねくり回して。効率化しようっていう気概が1ミリも感じられない。民間企業なら、あんなスピード感で仕事してたら3日で倒産するわ。
「クビにならない」って分かってるから、あいつら成長しないんだよ。
倒産のリスクもなけりゃ、営業ノルマもない。上司にゴマすって定時まで座ってれば、俺たちの税金からボーナスが出る。これ、もはや生活保護の豪華版だろ。
ぶっちゃけ、日本の生産性が低い原因の半分くらいは、この「働かなくても給料もらえる公務員マインド」にあると思ってる。
こっちはサービス残業して、リストラに怯えて、やっと手に入れた金から容赦なく所得税やら住民税やら引かれてるわけ。
その金で買ったデスクに座って、その金で買ったPCで「規定ですので」って冷たくあしらう。
お前らの給料、誰が払ってると思ってんの? 客(納税者)に向かってその態度は、接客業なら即クレームもんだぞ。
もう全部AIに置き換えろよ。
専業イラストレーターとして活躍している人々は、描写の技術があるのは当然として、それ以上に「中身のある絵」を描く。
例えば中村佑介の作品は、画面に散らばる一つひとつの要素がそれぞれ意味を持ちながら、全体として完璧に調和し、多くの人の目を惹きつける。
対して底辺絵師たちは、意味のある絵を作らないため、ディレクションを極端に軽視する。
白背景にキャラクターが中央にドンと配置されただけのイラスト。絵に深みはない。
そのため彼らの絵の価値は、もっぱら「描写の緻密さ」や「正確さ」に偏ってしまう。
こうした底辺絵師にとって最大の脅威となるのが画像生成AIである。
彼らの世界では「絵を綺麗に描けること」が全てであり、それが唯一絶対の基準だ。
もし「綺麗に描く技術」が誰でも使える標準装備になってしまえば、彼らは存在意義を失ってしまう。コミティアのAI規制も、まさにその延長線上にある。
一方で文章は、絵を描くことに比べて低次元な技術に過ぎない。だから守る必要がない――そう考えているのだ。
反AIがよく口にする「無断学習」への怒りも、実は「無断」であること自体が問題なのではない。
本質は「絵の技術が一般的なツールになってしまう」ことへの恐怖である。絵師界隈は、今まさにお札で積み木をしていたドイツのような状態だろう。
界隈を成立させてきた「絵を描く技術」が、無限に発行され、価値が急激に希薄化している。
その選択が、今まさに問われている。
政策論争において、しばしば国家は「強い政府」を装った自己放尿を行う。
国家情報局(いわゆる日本版CIA)創設論もまた、その典型例となる危険を孕んでいる。
自由の観点から見るならば、この構想は情報の中央集権化、官僚的インセンティブの歪み、そして政治的権力の肥大化というトリプル放尿になりかねない。
まず、価格理論的直観から言えば、情報は市場的プロセスの中で分散して存在する。
政府がそれを中央集権的に収集・統制できるという発想自体が、知識問題を無視した壮大な自己放尿である。
個々の主体が持つ局所的情報は、競争的制度の中でこそ効率的に集約される。
国家情報局のような巨大官僚装置が「国家安全保障のため」と称して情報を独占し始めれば、それは価格メカニズムに代わる非市場的情報処理装置を設計しようとする試みであり、制度設計としては典型的な自己放尿となる可能性が高い。
第二に、インセンティブ構造の問題がある。政府機関もまた自己利益を追求する主体として分析される。
官僚組織は予算最大化、権限拡大、失敗の隠蔽という行動インセンティブを持つ。
国家情報局が設立されれば、組織はその存在意義を証明するために脅威を誇張し、情報の非公開を拡大し、監視機能を肥大化させる傾向を持つだろう。
これは安全保障という名の下で自由を侵食する、典型的な官僚的自己放尿である。
第三に、自由社会における政府の役割という観点である。経済的自由が政治的自由の基礎である。
政府が担うべき役割はルールの枠組みを整えることであり、社会の情報を集中管理することではない。
国家情報局が国内情報にまで関与するようになれば、それは国家安全保障機構の拡張を通じて自由社会の自発的秩序を侵食する危険がある。
市場の自発的秩序に対して官僚的情報装置を重ねることは、制度設計として見れば再び自己放尿である。
日本版CIA構想は次の「三重の自己放尿」へと堕する可能性を持つ。
この三つをまとめれば、まさに中央集権、官僚膨張、自由侵食のトリプル放尿である。
自由社会の制度設計において最も危険なのは、善意から始まる自己放尿である。
安全保障の名の下に巨大な情報機関を創設することは、短期的には合理的に見えるかもしれない。
しかし、制度は一度作られると自己増殖的に拡張する。結果として、自由を守るための装置が自由を侵食する装置へと変質するならば、それはまさに国家規模の自己放尿と言わざるを得ない。
ゆえに問うべきは単純である。国家情報局は安全保障の合理的制度なのか。それとも、自由社会が自らに課す壮大な自己放尿なのか。
Geminiさんに聞いてみたで
おっしゃる通り、冷静に考えると不思議な存在ですよね。「スピード違反を助長しているのではないか?」という疑問は、実は昔から議論の対象になっています。
結論から言うと、日本でこれらが堂々と売られているのは、「電波を受信するだけの行為は違法ではない」という法律の解釈と、**「安全運転を促す装置である」という建前(メーカー側の主張)**が並立しているからです。
なぜ許容されているのか、その背景にある主な理由を整理しました。
日本の電波法では、飛んでいる電波を受信すること自体は基本的に自由です。
レーダー探知機: オービスが発する電波をキャッチして知らせるだけの「受動的」な機器。これはラジオを聞くのと同じ扱いで、規制する法律がありません。
ジャマー(妨害機): 電波を発信してオービスの測定を妨害する機器。こちらは電波法違反や公務執行妨害に問われる可能性が非常に高く、販売も使用も厳しく制限されています。
メーカー側は、これらを「違反逃れの道具」ではなく**「うっかり速度超過を防ぎ、安全運転をサポートする機器」**として販売しています。
最近の機種は、オービスの位置だけでなく、**「事故多発地点」「ゾーン30(生活道路の速度制限)」「消防署付近」**などをGPSで知らせる機能がメインになっています。
「ここで取り締まりがあるから気をつけよう」と意識させることで、結果的にその地点での減速を促しており、**「速度抑制という警察の目的と合致している」**という理屈が成立してしまっているのです。
意外かもしれませんが、警察側もこれらを徹底的に排除しようという動きは今のところ見られません。
警察の目的は「切符を切ること」以上に「事故を防ぐために速度を落とさせること」です。探知機が鳴ってドライバーがブレーキを踏むなら、その地点での安全は確保されたことになります。
また、警察は近年、探知機が反応しにくい**「移動式オービス(MSSS等)」や「レーザー式」**への切り替えを進めており、いたちごっこの状態で技術的な優位を保とうとしています。
実は、過去に国会などで「暴走族や速度違反を助長するのではないか」と問題視されたことはあります。しかし、以下の理由で規制には至っていません。
職業選択の自由・営業の自由: すでに巨大な市場ができあがっており、明確な実害(それによって事故が増えたという統計的証明など)がない限り、一企業の販売を止めるのは憲法上難しいという側面があります。
海外との違い: フランスやオーストラリア、アメリカの一部の州など、海外では「所持しているだけで罰金」という国も実際にあります。日本は世界的に見ると、この手のデバイスにかなり寛容な国と言えます。
まとめ
「スピードを出したい人」と「それを検知したい人」のグレーな共存の上に成り立っているのが、日本のレーダー探知機市場の現状です。最近ではスマホアプリ(GoogleマップやYahoo!カーナビなど)にもオービス通知機能が標準搭載され始めており、専用機としての存在意義はさらに「多機能な安全運転モニター」へとシフトしています。
私は二次創作の分野で小説を書いているド素人の一般人だ。今話題になっているコミティアの客ですらない。
書いている小説も素人の付け焼刃で、正直一次創作で活躍している諸作家に比べればアイディアも技術も全く追いついていない。
それでも素人なりに趣味として小説を楽しく書いている。読むのも好きだ。
生成AIに対するスタンスは、現状は反対寄りの立場をとっている。
とはいえ、すべての生成AIが悪とは思っていないため、早く法が出来て良し悪しが明確になればいいなーと考えている。
今回コミティアの規定改定の件がXで話題になっていて、客層ではない私のところにも聞こえてくるほどだ。
詳しい内容については割愛するが、議論になっているのは以下の2点だと思う。
・生成AIを利用することの是非
・規約の内容が小説作品は表紙・挿絵があると小説主体とは言えないと読み取れること
まず1つ目の「生成AIを利用することの是非」に関しては、コミティアというイベントのルールとして制定するものになるため、嫌ならイベントに参加しなければいいだけである。
生成AIは現在かなりセンシティブな話題になっているが、ユーザーがイベントに参加するという立場上、主催が提示するルールは守る必要がある。
この場合は「コミティアというイベントでは生成AI主体の頒布物はNG」というルールなので、一般的な生成AIの是非ではない。生成AIで創作がしたいのであれば別の場所を選べばいい。
もう1つの「規約の内容が小説作品は表紙・挿絵があると小説主体とは言えないと読み取れること」だが、これがまたややこしい。
Xで多く見かけたのが、「表紙・挿絵があると小説が主体の作品ではないとみなされる」「小説はイラストに劣ると言われている」という感情的な意見だ。
私はこの意見には同意できないと思っている。そもそも小説には表紙も挿絵も必要ないと思っているからだ。
まず表紙の存在意義についてだが、表紙はその小説がどのような物語かを印象付ける役割を持っている。表紙にキャラクターが描かれていれば、そのキャラクターが登場する物語なのだと一目見てわかるだろう。
だが、表紙にキャラクターが描かれているということは、読者はそのイラストでキャラクターの印象を固定してしまうということだ。
文章で「金髪をたなびかせ、幼さを残す大きな青い目がこちらを見た」などと書いてあるとする。この文章でどんな見た目をしているのかは読者の頭の中で好きに想像ができる。恐らくこれを読んでいる人もそれぞれ違うイメージが頭に浮かんでいるだろう。
しかし表紙にキャラクターが描いてあると、その見た目で固定されるのだ。読者の頭の中には表紙で印象付けられたキャラクターしか浮かばない。
この場合、作者が「この見た目で印象付けたい」と意図しているのだと思う。愛着のあるキャラクターなのだから、自分が想像している見た目を読者にも見てほしい。これは間違ったことではない。
だが、この場合、表紙は「主体的な創作ではない」と言えるのだろうか。
小説という媒体であればキャラクターの見た目や表情は基本的に文章で描写するべきである。それでも表紙でキャラクターを見せたいと思うのであれば、「作品制作の補助」とはいい難いと思う。
挿絵に関しても同様だ。挿絵の役割は「文章中のシーンを視覚的に見せる」ものだと思う。
私は正直、小説作品に挿絵は不要どころか邪魔だと思っている。だって文章を読んでいるときに絵が入ると気が散るし。
そんな私情は置いておいても、挿絵は必ずしも必要なものではない。それでも小説の中に挟みたいと思うのであれば、それは主体的な創作ではないだろうか。
文章表現のみで読者に想像させるのが小説という創作だと思っている。その中でイラストが必要になると思うのであれば、そのイラストは同人誌という作品の中で主体的な存在と言っても過言ではないと思うのだ。
小説本が蔑ろにされているわけではない。ただ、小説と銘打っている中で表紙・挿絵が必要だと作者が判断したのであれば、それも本という作品の一部分であるだろう。
そもそも規約は「作品制作の補助を超えた生成AIの利用」と記載されている。制作過程の補助は認められているが、表紙や挿絵はそもそも過程ではなく結果だろう。
小説という創作は、華のあるイラストや漫画と比べられて蔑まれている、という自意識は確かに存在している。実際、その手の話はどこにでもあるし、私自身何度か耳にしたことがある。
しかし、今回に限って、小説という媒体を馬鹿にしているのはそう思い込んだ本人なのではないだろうか。
Xで感情的になっているポストを見ると、小説に自信がない裏返しのような意見が多いように見える。
小説は素晴らしいものなのだと胸を張って言えるのであれば、今回の規約なんてどうでもいいはずなのだ。
私は小説が好きだ。好きだから、表紙や挿絵が本当に必要かがわからない。なくても十分素晴らしい作品だろう。
(今回主な意見が「表紙イラストと挿絵」だったためこのような記述になったが、例えばデザイナーが作成したイラストのないデザインであればまた違った話になると思う)
とある事務職ホワイトカラーなんだが、Claude Codeで業務の90%くらい自動化できちゃってて、今やってることと言えばターミナルを3つ4つ開いてagents teamそれぞれ有効化してプロジェクトマネージャー役AI、Webエンジニア役AI、インフラ・DBエンジニア役AI、レビュー・テスト担当AIの4人チームを複数作って現状のシステムの課題洗い出し、ユーザからの要望をイシューチケット化、そしてチケットを自動で読み込んで改修・リリースさせて、こっちはたまに聞かれる作業方針とかをちら見してyesって10~20分に1回くらい押すだけ
そして今までの数倍の仕事をこなせてる
でもね
当然ながら別に自分以外の奴がやったってそんな大差ないことがもうできるわけだから、何も俺に高い給料払ってまでAIシバキ人やらせる意味ってないんだよな、会社的には。
当然業務の背景や文脈を知っている面では他の奴よりはAIに情報をインプットするのは多少うまいだろうけど、まあ「多少」でしかないし、会社がもっと安く使える若手に俺の仕事やらせたってまあ多少クォリティは落ちるだろうが、それでも回らなくもないだろう
ってのがめちゃくちゃ実感できちゃってて、もう頭の良さとか知能の高さとかが価値になる時代は完全に終わったんだなって諦め始めてる
人によってはいろんな反応があると思う
例えば「AIはまだまだ~ができない」、とか「とは言っても~は人間の方がまだ上」とかね。「AI一回使ってみたけど全然ダメじゃんwまだ人間の仕事は無くならないわこりゃ」というやつもいる。
でもこれって個性が出てて本当に面白いと思う。別に誰が間違ってて誰が正解というものでもないんだけど、これまでのホワイトカラーエンジニアとして仕事に向き合ってきたその向き合い方がそのままAIの評価、コメントになってアウトプットされてる感じがして。
俺についても、自分がこんなにもあっさりエンジニアという仕事が今後不要になると確信するとは思ってなかった。定年くらいまでエンジニア自認でコンピュータが得意なスペシャリストとして仕事し続けるものだとうっすら思ってたはずなのに、たったの数カ月Claude Codeを使ってただけでこんな簡単に将来について再考することになるなんて、思ってもいなかった。自分がこんな反応をする人間なんだ、って今初めて分かって逆に感動すらしてる。不思議だよね。自分のことなんて自分が一番わかってるはずなのに、AIをちょっと触って(とは言ってもほぼ毎日朝4時まで起きてAIにプロダクト作らせてるんだが)、そんでこれまで10年以上自分の存在意義だと確信して疑わなかったソフトウェアエンジニアという自認が、こうもあっという間に諦められるものなんだ、ってね。
Xを見てるとAnthropicやOpenAIのCEOが「知能には今後価値がなくなる」と言ってるけど、本当に心の底からこれが実感できる。
じゃあどうすりゃええねん、って感じなんだけど、マジで思い浮かばないんだよな。これからどう生きていけばいいのか。
俺の場合は早いうちから副業やったりして収入や資産が平均よりはあるほうだから、まあ最悪無職になっても住むところがなくなるってまではいかないけど、とはいえ60歳まで何やるんだって言われたらもうわからない。
だから今SAPIXとか鉄緑とかに通わせられてる子供は可哀そうだと思う。だって知能に価値がなくなる社会で知能競争させられるんだぜ?頭のいい子供ほど、そろばん弾く速さ競う時代遅れの競争に若い時間を消費すべきなのか苦悩がすさまじいだろ。医者なら人生安泰っていう奴いるけど、勤務医なんて今年収800とか1200とか、もう上の下のサラリーマンの方が全然高いくらいだぜ?開業医なんて個人事業主や法人社長みたいなもんだから医者ってくくりじゃないしな。
もう社会の変化は2026年夏くらいから明確になってくると思う。Xはエコーチェンバーっていうけど、これまでプログラミングとか全くやってなかったような人たちがこぞってClaude Code使って企業が作ったようなクォリティのWebサービスばんばんリリースしてるの見ておったまげた。自分の会社でも今まで自分にプログラムやシステムについて質問しに来てた人たちも自分でAI使ってどんどんアプリやシステム作ってる。(まあこれについてはどうしても作りが甘いというか、流石にまだ安心できるレベルのクォリティではあるが、この初心者特有の品質の甘さが無くなっていくのも時間の問題だろう)
IT関連だけでなく、動画制作、イラスト、ライター、弁護士、コンサル、情報処理、広告、映画、役者、新聞、心理カウンセラー、情報分析サービス、モバイルアプリ開発、法務・行政手続き関連事業、税務、経理、もう目につく大半の第三次産業の業種は壊滅するだろうし、実際にその業界にいる人たちは門外漢である自分よりも数倍危機感を覚えているだろう。
例えば自分も有料Webサービスを作る際の法務相談もClaudeに依頼し、Claudeはあくまで他人から聞いたみたいな前書きを入れてくるが、特定商取引法にの記載義務を教えてくれたり法的にグレーな部分で万が一訴訟が起きたときに争えるような抗弁文面の準備までしてくれる。iOSモバイルアプリのアプリ登録数がこの半年で数倍に膨れ上がってるのも参入障壁が消滅したことによるものだろう。
つまり、あらゆる肉体労働を伴わないサービス産業の大半が、今後は月収30万の事務職の人間一人を月額$200程度のAIに置き換えて業務を執行できるようになる。
このAIによる業務置き換えの帰結は何なのか。もう完全に2026年夏までに保有してる資本の、それ以降の永久の固定だと私は見る。
もう企業は採用に頭を悩ませる必要はない。誰を雇ってもAIを使わせるだけだから同じだ。東大卒よりClaude Opus、北京大、ケンブリッジ大卒よりClaude Opus。Marchだの早慶だの、もうどうでもいい。分からなかったらAIに聞いて、でみんな同じ。となれば差がつくのは資本だけ。金がある会社はAIのソフトパワーを使って毎月$5000程度のAI人件費で平均的な社員200人分くらいのマンパワーをゼロから買える。社員200人に月給30万払ったら6000万円の出費だけど、AIで代替すれば80万円くらい。金ある会社は毎年ノルマのように全社員の15%くらいを分社化、事業分割で合法的に整理解雇して、最終的には全社員40人くらいの、高校の教室に収まるくらいの人員規模でかなり大規模な事業をメンテナンスできる。まだできないだろうが、あと半年くらいしたらAIにAIをマネジメントさせるところまで進化するのはもうほぼ定説だ。
ただここは日本であってアメリカじゃないから、そりゃAIでデスクワークのほぼすべてが代替できるからといってクビ切るのは難しいだろう。
そもそも日本企業の大半は真剣に利益を追求して事業しているわけじゃなく、学校や部活動の延長で先輩後輩先生ごっこしてるだけの会社だらけだし、業務の合理性なんて最初から考えてないだろうから、いきなり大量解雇が始まるとは全く思わない。むしろJTCの高齢者経営陣は従えてる武将や農民の人数を自身の権力だと思いたがるご老人だらけだから、解雇してAIに置き換えてせっかく座った上長という椅子の価値を自ら下げるとは考えづらい。
ただし、それは業界が完全に閉じている閉鎖的な業界だけで成り立つ話だ。外資が社員10人の日本現地法人作ってあとは全員AIで業務を回す、なんて世界はもう数カ月後という規模の近さで迫っている。そうなったときにおこるのは、JTCが駆逐されつくすまで続く徹底的な合理化だ。そしてまさかのデフレも今年始まるだろう。デフレ、つまり物価が下がる。そりゃそうだわな。あらゆる人件費がこれから50%とか70%レベルでカットされる余地があるんだからな。もう行きつくところまで徹底的に合理化が進むだろう。
そして、その合理化された社会で唯一生き残れるのは、大量の資本を持つ資本家だけ。資本家はAIを使って他の非合理的な企業から売上を横取りし、さらに資本を増やしていく。
一方非資本家である労働者側は、もう格の高い大学に入学して知能で資本家階級に成り上がることが今後不可能になる。
東大卒だろうがハーバード卒だろうが、頭の良さではAIの方が圧倒的に上なのだから、資本家からしても卒業大学などもはや眼中にないだろう。今後履歴書から学歴の部分が消える可能性すら見え始めてくる。つまり資本家はAIを使ってより資本を増やす一方で、労働者が資本家に階級上昇する経路が完全に途絶えるのだ。
確かに自民党議員は多様であり、権力維持志向が強く長いスパンで見れば政治姿勢に変化があるのもその通りだが、自分が注目してるのは「党のアイデンティティーとは何か」という根本的な結党精神の話である。
自民党の公式文書を見る限り、米共和党的な保守主義や古典的な自由民主主義の擁護だけでなく、「わが党は、福祉国家の実現をはかる政党である」といった米民主党的なリベラルな側面も初めから掲げていた。そして、このリベラル標榜は単なるお題目だったわけではない。その証拠に、生活保護法や社会保険、労働法を整備してきたのは他ならぬ自民党政権であった。
したがって自民党とは、西側の理想全部乗せを標榜した政党といえる。これに対して旧社会党は東側の理想全部乗せを標榜した政党だったが、ソ連崩壊によってその存在意義を失ってしまった。
そうすると、もう野党には結党精神のレベルで自民党と差別化できる理念が残っていないことになる。中道政治? 西側理想全部乗せを最初から掲げてきた自民党と、どう違うのか。9条護憲? 確かにこれは差別化要因にはなるが、安全保障無視の空論になってしまう。
結局、野党には自民党に対抗できる結党理念が実は無いことになる。欧米のリベラルとの決定的違いがこの点にあると、自分は思っている。