はてなキーワード: 古本屋とは
ゴルフの打ちっぱなしの店が取り壊されていたけど、その跡地にできるみたい。
タバコ屋さんも廃業していて、ベルクの工事業者の休憩所になっている。
ダイエーの跡地はそのまま。直営店ではないからオーナーさんがどうするのか次第だけど、元々は忠実屋の古い建物だし、3階フロアの空調ぶっ壊れたまま10年以上だったから取り壊したほうがいい気がする。
ベルクができるまではサンディとかビッグ・エーとか少し遠出してロヂャースで買い物かな?
本屋さんの跡地の整骨院もいつのまにか撤退していた。引き継いだのは、幼児の教室なのかな?
セブンイレブン2店舗に囲まれているファミリーマートはしぶとく生き残っている。
免許更新の予約した
片道3kmかー
運動がてら歩いていくよてい
もともとブックオフだけでかおうと思ってたけど駿河屋のほうが安かったから
ただ送料無料ラインにのせるためにもともと考えてなかったやつも買う羽目になったし、
それでやれやれと思ってたのに注文確認ページの最後の最後で通信販売手数料とかいうやつを上乗せしてきやがってマジでイラついた
それは5k以上じゃないと無料にならんらしい
そこまで抱き合わせで何か買うものを調べる余力なかったからもういいやって思って注文したけどさ
ブックオフで買った漫画は、電子版をヤフーebookでも買った
ほんとはキンドルがよかったけど、めっちゃお得なクーポンあったからさ
駿河屋でかったほうの漫画も電子版ほしいけどたけーんだよなあ・・・
養育費も払わず浮気して出てったクソ男のせいで、うちはシングルで大変だった
母は女手一つで自分を育ててくれたけど、家にいる時間は少なくて、ほとんどおばあちゃんと過ごしてたと思う
自分のおばあちゃんは、優しくてふんわりした、よくあるおばあちゃん像とは少し離れていて、
あまのじゃくで、いじっぱりで、テレビのワイドショーとかに向かって常に文句を言っていたり、母にはぐちぐち嫌味を言ったり、意地悪なタイプの人だった
ふたりで古本屋にいったり、図書館に行ったりして、同じ本を読んでお互い感想を言い合ったり考察したりした
ドラマの相棒とか一緒に見て、よく犯人を推理した(なお、ほとんど再放送だったため何度も見ているおばあちゃんが圧倒的に有利だった)
ご飯を作るのがとにかく上手くて、なんか適当にやってるのにまじで美味しかった
夜中、つらくて眠れない時、おばあちゃんのところに行くとおにぎりを作ってくれた
白髪混じりではあったが、黒い髪をベリーショートにし、ゴツめのメガネをかけ、常に黒い服を着ていて、かっこよかった
とにかく好きだったんだよ
だから、なんかこう外でご老人に冷たくされたり嫌な態度取られるとすんごいショック受けてしまう
さっきも、駐車場から出る時3人くらいのご老人が歩いていたから、少しバックしてどうぞ〜ってやったんだけど
そんな、仲良くしようよ
仮説1「カードそのものが臭いの原因を蓄積しやすい構造にある」
仮説2「カードゲーマーはカード資産とプレイ時間を手に入れるために他のものを極端にケチる」
仮説3「臭いのが集団のデフォルトになっているので気づかない」
カードゲームで使ってるカードは紙なので、洗うことが出来ない。
ベビーパウダーやマイクロファイバーで多少の手入れは出来るんだけど、やっぱ元が紙切れだと限界がある。
そして紙なので表面の隙間から少しずつ臭いの原因となる雑菌・油脂・エアロゾルを吸収していってしまう。
つまり、遊んでいるうちに段々と臭くなっていくとういこと。
大事なカードはスリーブを使って保護してるとはいえスリーブの隙間から少しずつ臭いの原因は入り込んでいく。
安いカードなんかは何百枚も入るようなケースにまとめて入れてたりするから臭いに対するガードはずっと弱いと言っていい。
それらと臭いのタイプが違うのはやっぱ客層が関係するんだろうなと思う。
つまり、仮説1は「臭いが起こりやすい原因」ではあるけど、これ単体で説明が終わるものじゃないってこと。
別の言い方をすると「カードゲーマーは服を買い替える金や丁寧な入浴・洗濯の手間を惜しみがちな傾向にある」ってこと。
オタクじゃない人は知らないだろうけど、カードゲームは本気でやるとお金も時間もかかる趣味。
1枚数千円のカードを何十枚も集めたものをいくつも持っているのが彼らの普通。
そんで練習も本気で大会を目指すならひたすらやり続けないといけなくなる。
でもカードゲーマーの多くは別に人生の成功者ってわけでもないし、ゴルフみたいに「なんか知らんけど偉い人と仲良くなれて給料増えた」とかもまず起きない。
多くない年収でカードゲーマーを続けるための金と時間を捻出しようとすると、自然と生活費を削っていくことになる。
その中でも衣服みたいな「多少傷んでいてもまだ使えそう」なモノはどんどん後回しにされる。
結果として「破れてはいないけど臭い状態の服」をずっと着てるカードオタクが続出する構造が産まれる。
仮説1の「カード自体が臭くなりやすい」はカードゲームの基本的な構造から産まれるものだからカードで遊ぶ限り回避不能。
仮説2の「カード以外をケチりがち」には個人差があるものの、そういった人が生まれやすい構造なのは最初から界隈に組み込み済み。
こうなると自然発生的に臭い人が他のオタク界隈と比較しても大量発生する土壌が誕生する。
そして一度臭い人が誕生すると、「カードが臭いを蓄積」+「服が臭いを蓄積」がコンボ的に機能し、ある種の「どんどん臭くなるループ」が成立してしまう。
この「日に日に臭くなる環境」といのが人間の持つ適応能力と噛み合うことで産まれるのが、「自覚のないままどんどん臭い集団になる」という地獄のコンボ。
もしこの状態に陥ってしまうとその集団は最初臭くなかったとしても気づいたら誰もが自覚のないまま臭い者達になってしまう。
新規の人間はそこに異常さを感じて比較的臭くない店を探すわけだけど、その中でも「たまにやってくるやたら臭い客が置いていった臭い」を服やカードが吸収することによる臭いの加速は進んでいく。
結果として、そこまで臭くなかったはずの店も段々と自覚のないまま臭い集団の仲間入りをすることになるわけである。
当然こんな店だらけなら誰もカードショップには近寄らないのだが・・・もしも最初から臭い人だったらどうだろうか?
臭いの加速が生み出す最終段階は「最初から臭い人だけが新規でやってくる」なのである。
こうして自覚なき臭い者達だけで構成された集団が誕生するのである。
というのがカードゲーマー臭い学会の最新研究において語られる三大仮説理論です。
対処方法は「カードゲームは臭くなるから遊ばないこと」しかないのではないかと学会では言われております。
地獄かよ
子どものお小遣いがキャッシュレスになる、という記事を読んだのだ。
そこに書かれていたのは、だいたいこんな筋書きだった。火付け役になったのは海外発のデビットカード・サービスで、親はアプリの画面をひらくだけで、子どもがいつどこで何にいくら使ったのか、一円単位までつぶさに把握できるらしい。
まるで冷蔵庫の中身を確認するみたいに、子どもの財布の中身をのぞけるわけだ。ヨーグルトがあと何個か、ビールが何本か、そういうのと同じノリで。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみる。
もし僕たちが子どもだった頃、親にお金の使い道を完全に把握されていたとしたら、嬉しかっただろうか。
放課後の駄菓子屋で、友達とどうでもいい話をしながら、よく分からないガムとか、体に悪そうな色のジュースとかを買った、あの感じ。
あれを、ぜんぶどこかのクラウドに記録されて、リビングのソファに座った親が、晩ごはん前に指先ひとつでチェックしている図を想像してみる。
別に、やましいことをしていたわけじゃない。
小さなウソとか、どうでもいい見栄とか、ちっぽけな秘密なら、そりゃ多少はあったかもしれないけれど、それだって成長過程のサイドディッシュみたいなものだ。
でも反抗期のど真ん中で、自分の小さなサイドディッシュまで、親に成分表示を全部読まれるのは、やっぱりごめんこうむりたい。
自分の呼吸の回数までカウントされているような、そんな感じがしてしまうからだ。
数字やグラフでお金の出入りを見せれば、子どもは早いうちから経済感覚を身につけることができる——らしい。
きれいに磨かれたツヤのある理屈だ。音のよく通るアコースティック・ギターみたいな理屈だ。
でも、そのギターをかき鳴らしているうちに、何か大事なものが、ケースに入れっぱなしのまま忘れられていくような気もする。
たとえば、「どこまで見られたくないか」を自分で選ぶ感覚とか。
あるいは、「親に言わないでおこう」と一瞬ためらってから、それでも話してみる、あの微妙な逡巡のプロセスとか。
そう、聞こえの悪い名前だ。
でも世の中には、聞こえの悪い名前をしていながら、けっこう切実な需要に支えられているサービスというものが存在する。
イメージしてみよう。
決済履歴にはきちんと、「スーパー〇〇 〇〇製菓チョコレート菓子 100円」とか、そういう無害な文字列が並ぶ。
しかし現実には、その場で行われるのは自国通貨をドルや元と交換するどこかの国の怪しげな闇の両替商での行為のようなものだ。
彼らは子どものスマホに届いた電子マネーを、その場で「買い取る」。
100円の電子マネーに対して、99円とか、95円とか、場合によっては90円の現金を手渡す。
差額が、彼らの取り分になる。
その子はちょっとした手数料を払うかわりに、使い道の見えない現金を手にする。
実際のところ、そこにはお菓子なんかひとつもなくて、薄い財布と、手持ち無沙汰な指先と、少しだけ浮き立った心持ちがあるだけだ。
それでも明細の上では、それは安全で教育的なお買い物として記録される。
でももしサービスが軌道に乗って、うまく口コミで広がれば、99円とか、99・9円といった、ほとんど損のない水準まで上げられるかもしれない。
その頃にはもう、ほとんど誰もそれを「マネー・ロンダリング」とは呼ばないだろう。
もっと耳にやさしい、たとえば「こどもプライバシー支援プラットフォーム」とか、そういう感じの名前に着替えている。
親はアプリを開いて、「ああ、うちの子はまたポテトチップスを買っている」と思う。
でもその向こう側で、子どもは友だちと映画館に行ったり、ゲームセンターでくだらないUFOキャッチャーに挑戦したり、あるいは誰にも言えないような本を古本屋の隅で買っていたりするかもしれない。
その線引きを、誰がどこで決めるのか。
ランニングマシンの上を走るみたいに、速度も距離も消費カロリーも、全部ディスプレイに表示される。
そこでは「ムダな一歩」は存在しない。
でも、僕たちが本当に覚えているのは、表示されない一歩の方だ。
雨上がりのアスファルトの上で、予定よりずっと遠回りしてしまった帰り道のことなんかを、妙にくっきり覚えていたりする。
子どものお金の使い道を完全に把握できる世界は、きっと効率的で安全だ。
統計の上では問題が少なく、グラフの線もなめらかに右肩上がりになるだろう。
だけどその世界では、おそらく「こっそり回り道する自由」も、同じくらいなめらかに失われていく。
マネー・ロンダリング・サービスなんてものは、単にその失われた自由の影の部分に、ささやかな値札をつけて売っているだけかもしれない。
あり得るかって?
たぶん、あり得る。
人間が「見られたくないもの」と「どうしてもやってみたいこと」を同時に抱えている限り、そういうサービスは、形を変えながらいくらでも生まれてくる。
進路の相談したら「大学?そんなの行っても意味ない」って鼻で笑われたし。
学校の成績は悪くなかったけど、「大学に行く」って発想がまずなかった。
職場の人が当たり前に話してる「〇〇大のゼミで〜」とか「交換留学してた頃〜」って話を聞くだけで、胃が重くなる。
そういう人たちって、知識も経験も自信もあるし、何より育ちが違う。
私には何もない。
「あ、この人は教養のある人じゃないな」って空気を感じる瞬間がたまにある。
言われなくてもわかる。
たまに「学歴は関係ないよ」「人間性の方が大事」って言ってくる人がいるけど、
それは学歴がある人の余裕だと思う。
学歴がある人は学歴のせいで選択肢が狭まるって経験をしたことがないんだから。
なんで私は、親に「受験勉強しろ」とも「将来を考えろ」とも言ってもらえなかったんだろう。
自分がどれだけ努力しても、スタートラインが違うって現実がずっと頭のどこかにある。
だから「自己責任論」って言葉を見るたびに、ムカつくし泣きたくなる。
努力したよ。足りなかったんじゃなくて、情報と環境がなかったんだよ。
最近「親ガチャ」って言葉が軽く扱われてるのを見ると、モヤモヤする。
当たり前に進学して、当たり前にサポートされてきた人は、
たぶん「別に何も変わらないよ」と言う人が大半だろう。 でも「いや、けっこう決定的に何かがズレる」かもしれない。
授賞式のあと、記者会見で村上春樹は、たぶんいつもの調子で、少し照れながら、淡々とした英語でステートメントを出す。
猫とか、走ることとか、ジャズとか、そんな話題がちょっとだけ混ざる。
スウェーデン語、英語、中国語、アラビア語、スペイン語、いろんな言語で彼の言葉が翻訳される。
「村上春樹」という固有名と、「ノーベル賞」という単語が強く結びついたことで、アルゴリズムが「この人の言葉は、特別な重みを持つ」と判定してしまう。
その結果、彼のインタビュー記事だけ、ほんの少し「やわらかく」翻訳されるようになる。
本来なら “I just write what I can write.” と訳されるはずの文が、別の言語では「自分にできることを、ただ静かに続けてきただけなんです」と、余計なニュアンスを帯びてしまう。
でも、世界中の翻訳メモリの中で、「誠実な揺らぎ」とでも呼ぶべき偏りが、じわじわと蓄積し始める。
棚を整理していた店主が、ふと「ノーベル賞作家コーナー」を作ろうとして、手を止める。
新潮文庫の『風の歌を聴け』を手に取って、ドストエフスキーやカミュの横に置くか、それとも日本文学コーナーに残すか、悩む。
たいていの店主は、日本文学棚から一冊だけ抜き出し、「ノーベル賞」のプレートの下に、さりげなく並べる。
その瞬間、棚全体の「重心」が、ほんの数センチ動く。
カミュの『異邦人』の隣に『ノルウェイの森』が来る店もあるし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の脇に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が差し込まれる店もある。
知らない誰かが、そこで一冊を手に取る。
「ノーベル賞作家なら読んでみようかな」と思って買う人もいれば、「高校のとき挫折したけど、また読んでみるか」とレジに持っていく人もいる。
その「もう一度読んでみる」という行為が、実はけっこう世界を変える。
ひとつの物語を、異なる年齢で読み直すことは、人生の時間軸をちょっとだけ折り曲げるからだ。
遠くない未来、日本のどこかのワンルームで、小説を書いては消している人がいる。
それまでは、締切のたびに「どうせこういう文体はもう古い」と思って、原稿をフォルダごと消していた。
けれども、ニュースで「村上春樹 ノーベル賞受賞」という文字列を見た夜、指が止まる。
「時代遅れ」と心のどこかで断罪していた「一人称で、ちょっと距離のある語り口」や、「よく分からない井戸」や「耳の形の描写」を、もう一度だけ許してみようと思う。
その人は、削除済みフォルダから原稿をサルベージして、改稿し、応募する。
数年後、ひっそりとデビューする。その作品は大ベストセラーにはならないが、誰か一人の人生を確実に変える。
それを読んだ別の若い誰かが、「こういう小説を書いてもいいんだ」と思う。
この連鎖が続いた結果、20年後の日本文学史の片隅に「ポスト春樹的な何か」という、名前のつかない小さな潮流が記録される。
ノーベル賞受賞後、世界中の出版社は、村上春樹の作品をさらに多言語に翻訳して売り出す。
その新しいデータが、大規模言語モデルの学習コーパスに流れ込む。
従来のAIなら、「休息を取りましょう」「専門家に相談しましょう」といった、正しいけれど味気ない答えを返していた。
しかし、そのモデルは、学習した村上春樹的なリズムをうっすらと真似て、こう返す。
「ひと晩だけ、よく眠れる街に行ってみるといいかもしれません。
コインランドリーと古いジャズ喫茶があって、誰もあなたの名前を知らないような街です。
そこで洗濯機が回っているあいだ、お気に入りの音楽を一曲だけ聴いてみてください。
世界は、それだけでほんの少しだけ、違う顔を見せることがあります。」
それを読んだ人が、「なんか、分からないけど少しだけ楽になった」と感じる。
たった一人の気分が、5ミリだけ上向く。
バタフライエフェクト的には、それで十分すぎる。
村上春樹の受賞は、「売れている作家」「広く読まれている作家」が、必ずしも軽んじられるべきではない、という前例になる。
それまで「実験的すぎて一般には読まれない」ことが価値とされていた傾向が、ほんの少しだけ揺らぐ。
「世界中で読まれていること」と「文学性」が、必ずしも対立概念ではないのかもしれない、と誰かが言い出す。
その議論の延長線上で、今までは候補にも挙がらなかったタイプの作家が、リストに入る。
その人はインタビューで「十代のころに、村上春樹がノーベル賞を取ったニュースを見て、『あ、こういうのでもいいんだ』と思ったんです」と語る。
村上春樹の受賞は、別の誰かの受賞の「前提条件」に化ける。
バタフライの羽ばたきが、遠い未来の別の嵐の「初期値」になる。
仕事の帰りにコンビニに寄って、スポーツ紙の一面を見て、「マジか」と小さく笑う。
家に帰って、本棚の奥から、大学生の頃に読んだまま放置していた文庫本を取り出す。
ページをぱらぱらめくると、線を引いた覚えのない箇所に、うっすら鉛筆の跡がある。
「この一文に、あのとき引っかかっていたんだな」と、昔の自分に少し驚く。
今読んでみると、当時は気づかなかった別の箇所が刺さってくる。
たとえば、こんな感じの一節:
「世界というのは、だいたいいつも、わずかにバランスを崩しながら、それでも何とか立っているようなものなんです。」
(これは架空の文だけど、春樹っぽさは伝わると思う)
読み終わったあと、あなたはスマホを手に取って、誰に送るでもないメモを書き始める。
それを翌朝読み返して、「案外悪くないかもしれない」と思う。
消さずに残しておく。そのメモが、数年後、何か別の形――ブログか、小説か、子どもへの手紙か――に変わるかもしれない。
村上春樹がノーベル賞を取ったことで、あなたの中の「書いてもいいかもしれない何か」が、ほんの少しだけ動き出す。
世界規模から見れば誤差だけれど、あなたの時間軸にとっては、十分に大きな揺らぎだ。
7. 世界はそんなに変わらない、でも「読み方」は変わる
戦争が止まるわけでも、景気が劇的に良くなるわけでもない。
満員電車は相変わらず混んでいるし、会社の会議は相変わらず退屈だし、洗濯物は相変わらずたまる。
でも、「世界の読み方」は、少しだけ変わるかもしれない。
そんなふうに、日常の現実に、うっすらと「物語のレイヤー」が重なる。
「世界を物語として読む人」が、ほんの少しだけ増える出来事なのかもしれない。
そして、バタフライエフェクトというのは、
おっさんでソシャゲを暇つぶしにやっちゃってるけど(他のことしたほうがいいと思いつつ手持ち無沙汰で求めてしまう)、
そもそもソシャゲのシナリオってどのくらいの割合で読まれてるんだろう。
昔は古本屋で文庫本まとめて買って、通勤時に週三冊くらいのペースで読み捨てるくらい読んでたけど(≒読むことが嫌いな訳では無い)、ソシャゲのシナリオは全スキップしてる。
多分、ソシャゲの構造が基本的に時間との戦い(日課とか、イベントハムハムとか)になってて、
リセマラとかイベント中はシナリオ読むよりまず回すことが先で、終わったら終わったで興味無くなるから読むタイミングがないせいだと思っている。終わったシナリオ読み直すなら別の本読みたいというか。
たまに読むことはあって、最近だと鳴潮とかはシナリオ良かったけど、逆にゲームが重すぎてもう辞めてしまった。
おいらの所はいわゆる限界集落で、山奥過ぎて集落(平成の大合併の前の村の範囲)では既に人口400人を切って、高齢化率が8割を超えているような場所なんよ。
かつての街道筋で国道は通っているけど、二十数年前に高速道路が開通したもののインターは無し。交通量がガクンとへって一気に寂れたと言う。
例えば、ガソリンスタンドも苦労して維持している。タンクの交換期限が来て廃業すると言う話を、みんなでお金を出し合って出資して会社を作り、なんとか維持している。
病院も診療所が一応あるが医師は常駐して無くて、ドラッグストアどころか薬局もない。そんな場所だ。
そんな場所に唯一日常のものを売っている施設、それがファミリーマートなのだ。
元々ここにコンビニはなかった。ただ、道の駅がまだ純粋に長距離ドライブの休憩ポイントとしてバランス良く配置されることを指向していた時代に、道の駅が作られた。それに併設されている。
当時、色々な奇跡と偶然が重なって補助金もとれて、道の駅に既存の温泉宿を取り込んで日帰り温泉と小さな宿泊施設を作った。その一角に誘致して作られたのがサークルKだ。
サークルKのオーナーは周辺で何店舗もサークルKを運営し、他にも古本屋やレストランなどのフランチャイズをやっている会社さんで、お土産物も扱っている関係で手を上げてくれたという経緯がある。
ただ経営は厳しく。それでもつないでくれて、吸収合併を経てファミマとなった。
しかし無理になったのがコロナ禍だ。道の駅にも客は来ない。温泉施設は危険だという事になって業務停止。宿は形の上だけではやっていたが客はおらず。
それでも営業を続けてくれようとしていたが、従業員としてメインで働いていた皆さんは高齢者がほとんど。流行中の中にお店に立つことが難しくなっていて退職され、いくらお金をだしても店を開けられなくなった。
これで一度は閉鎖された。
ただ、オーナーさんはそれでもミニファミ号という移動店舗を派遣してくれていて、それでなんとかつなげていた部分がある。
本来はこの水準だと明らかな赤字になる、再開するにしてもそのままでは難しく新たに改装などが必要なこと、など色々な問題があるが、自治体と、道の駅とガススタの運営をしている合同会社が入って話し合いを進め、ファミマの本部側も例外的な処置を認めてくれて、基準に満たないけれども出典にGOサイン、朝6時から22時までの営業にするなどを認めてもらい、恐らく配送ルート的にも赤字なのにやってくれることになった。
オーナーさんも儲からないのに再び経営に乗り出してくれたし、道の駅とガススタの運営会社も人員面で協力すること。さらに改修費用は自治体が出すこととなって、再開にこぎ着けたのだった。
ファミマが復活したことや、近くにスマートインターができたこともあってコロナ前よりも道の駅の利用者は増えている。ファミマも店舗の収支としては赤字にはなってないよう。
(・)「・・・・・・電車のロングシートで出入口寄りの端に座ってたら白杖で探りながら入って来た人がこっちの膝にこすり付けるようにして隣に密着するぐらい近くへ座って来た」
(・)「・・・・・・降りる予定駅のひとつ手前を発車したから席を立って車両の出入口に移動して立ってたけど、駅に近づいたので減速し始めたら背後でさっきの隣人も離席したような気配がする」
(・)「・・・・・・停車する直前に背後へ立たれて両脚の間へ杖を押し込むようにして近寄って来た」
(・)「・・・・・・そして駅に止まったら押し退けるようにして降車して行った」
(・)「・・・・・・これらの出来事のあいだ、そのひと終始無言無表情無反応だったよ」
流石に少し離れてから小声で『あたまおかしいんちゃうか』って言っちゃったよ…😅
(・)「・・・・・・もう一人は、某巨大チェーン古本屋の100円マンガ棚で物色してたら、容貌から10〜15くらいは歳上でやっぱり近くで物色してたひとが、かかってきた電話にマンガ棚を物色しながら通話していて、」
(・)「・・・・・・『…おぅそんなん裏でも連れてってなレンガでしばいたったらええねんぞ』って聞き間違えかとおもってしまうような物騒なことを話し出してた」
(・)「・・・・・・みかけはいいひとだがとんだこはいひとだ、って改変コピペ作れちゃうくらい、ぜんぜんそんなことしそうにない、むしろ気弱そうな容貌服装だったので逆にこれは近くに居ないほうがいい人種なんじゃなかろうか、と急いで手元の戦利品をレジに持っていったよ」
…なんなの?!いったい世の六、七十代に何が起こってるの?!