はてなキーワード: 出版とは
とりあえず思ったことを書いていく。
正直、開始一秒で「しゃらくせえ」と思った。
立ち回りがやたら小狡い。
そんな捜査官Aに呼び出され、単身Aの車に乗り込む詩織さん。そのまま連れ去られてもおかしくないような状況に見えたのでハラハラした。
というのもこの捜査官A、公の場で証言して欲しいと頼まれるたびに「そんなことをしたら失職してしまう。責任とって結婚してくれるんですか?」「私が無職になって、生活の面倒を見てくれるなら考えますけど」と、2人の共同生活にやたら前向きなことを言ってくる。冗談めかしてはいるものの、声だけ聞くに、圧倒的中年男性のそれである。キモすぎやしないか? お上に不利な証言をしたとて、クビになる前に自分で辞めればいくらでも潰しがききそうなものだが、自分の証言と引き換えに全力で縋ろうとしてくる姿には違和感がある。とても信用できない人物に見えるが、この人間臭さ(=小物臭)がスパイ疑惑を打ち消す効果として作用しているようにも見える。
捜査官Aのことはどうにもずっと怪しいと思って見てしまっていたが、詩織さんは普通に信頼できる相談者として、常に気遣う言葉もかけてくれるので涙を浮かべたりする。私の心が汚れているだけだった。
この人に比べると、ドアマンはもう少し人が良さそうに見える。
映画の始まりで詩織さんは「証拠がないんです」と警察からはっきり言われている。山口のDNAが付着したという下着くらいしかなく、それだけではレイプの証拠にはならないのだ。
正直、ここでもう勝敗は決していると思った。過去の強姦、強制わいせつに関する刑事事件においても「被害者の申告」だけではなかなか起訴まで持っていくことは難しいのはわかっている。
この薄い証拠で山口が逮捕されていたら、それこそ人権派の弁護士が不当逮捕と噴き上がっていただろうし、即不起訴になる。安倍と友達であろうともなかろうともだ。そのくらい、証拠が弱い。
しかしドアマンがいくら証言しようとも、密室で行われたことであり、和姦か強姦かを証明することはもっとハッキリした証拠がなければ難しい。世の中では、市長の女性が部下の男性とラブホテルに行って業務に関する入念な打ち合わせが行われることもあるのだ。
捜査官Aが語るところによると、山口の逮捕を中止するよう指示を出したのは中村格という現・警察庁長官で、当時は警視庁の偉い人だった。真意を問いただすため、詩織さんは仲間たちと共に彼の出勤前を狙って自宅付近に張り込む。
小学生の通学路にもなっている、見通しの良い閑静な住宅街。そこに車で乗り付けて仲間たちと張り込む詩織さん、明らかに不審車両である。
案の定、登校中の小学生が車を怪しみ、何度も振り返って確認する様子を見て、彼らはくすくすと笑う。昔のこととはいえ、2人の小学生の顔はバッチリ映っている。もう彼らも成長して顔も変わっているだろうが、親がこれを見たら憤死するのではないだろうか。プライバシーの侵害についてよく語られる本作だが、登校中の子供の顔を無断で晒すのはさすがにあらゆる権利を侵害しすぎである。
表向きは防犯カメラの映像の無断使用と言っているが、彼らが本当に見られて困るのは終盤に出てくる国会議事堂前で抗議活動を行っている高齢の女性たちの明らかにアウトな言動の方じゃないだろうか。
普段は韓国の従軍慰安婦から辺野古基地の返還まで幅広く抗議活動を行っている活動家の皆さんである。詩織さんの告発は、山口が安倍晋三と親密な関係であることも含めて国会で取り上げられる問題になったので、彼女たちはそこに乗じてさっそく詩織さんの名前も挙げてアジりだす。
そこへ詩織さんが通りがかり、声をかけた。
最初は不審そうな顔をしていた2人の女性は、「伊藤詩織です」と詩織さんが名乗った途端、態度を一変させた。顔も知らずにアジテーションのネタにしていたとわかる、インパクトのあるシーンだ。詩織さんが去った後、2人はテレビで見るのと印象が違ってすぐに気づけなかった、とカメラの前でしどろもどろになる。
だがまだこの2人はマシである。問題はその後、2人と詩織さんのやり取りを近くにいながら関わろうとしなかった女性である。詩織さんが立ち去った後、さっきこちらにきたのはあの伊藤詩織さんだよと伝えられた彼女は驚いてこう言った。
「強姦された伊藤詩織さん? さっきの、強姦された伊藤詩織さんだったの? もう行っちゃったの、だったら話せばよかった!」
映画では、ここで画面が切り替わる。
映画が公開されるや否や批判的な立場を表明した北原みのり氏によると、彼女らのやりとりには続きがあり、ここで切るのは悪意ある切り取りだという。ここから入れる保険があるって本当ですか?
その後のやりとりとやらを確認したところ、やはりとても入れるような保険ではなかった。「みんなで民事訴訟の傍聴に行って応援しましょう」という意思確認をしただけだった。アジテーションのネタにしたのに本人が来なければ傍聴すら行く気がなかったのか?
なお、さらなる彼女らの擁護者によると「強姦された○○さん」という呼び方は、従軍慰安婦界隈では「売春していた人」と区別するために使う言葉なので、特別に性被害者を貶める言葉ではないらしい。つまり、売春していた人は区別してもいいようである。それはそれでものすごい職業蔑視をしているように見えるが、自覚は薄そうだ。
しかし、元草津町長(先日の選挙で負けた)には絶対に謝らない北原みのりが、「昔から知っている間柄だから」と無神経な高齢女性たちを庇う姿は、長年親密な間柄故に山口を守ったとされる安倍晋三にそっくりである。
最高裁まで進んだ山口との訴訟の一つは、安倍晋三が撃たれ、その死が公表された日に判決が出た。ただの偶然なのだが、二つのニュースをタクシーの中で聞いた詩織さんはある時代の終わりを感じ取り、音楽をかけて友人と小躍りして映画は終わる。この安倍晋三の死によって、もっととんでもない箱が開いてものすごい化け物が飛び出してきたことなど、当時の彼女には知る由もない。監督の意図しないところではあるのだが、物語の終わりは、奇しくも新しい物語の始まりを思わせる。
2017年に出版された著作「Black Box」を読んでいなければわからないことが多すぎる。
エンドロールも全部英語、しかも文字が小さく読みづらい。たぶん読ませる気がない。
つまり、一つのストーリー性を持つドキュメンタリーとしてBBDだけを見たらちょっとわかりにくい。原作(本「Black Box」)、映画、そして映画パンフレットの3点セットをもって、全ての情報が補完できるメディアミックス作品なのである。チェンソーマンでいうといきなりレゼ篇を見せられているようなものだ。
ドキュメンタリー映画としては、やはりそれ一本だけで完結させて欲しかった。ふらりと映画館に立ち寄って見られるのが映画の良さでもあるのだから。
ちなみに強姦した人こと山口が現在どうしているのかと思って調べてみたら、元気に参政党の連中と共に陰謀論界隈に出入りしていた。
1953年女優デビュー。テレビタレント第1号。1954年ラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」で人気に。紅白司会は5回。1976年「徹子の部屋」放送開始。1980年『窓ぎわのトットちゃん』出版。35ヶ国で2500万部発行。1984年ユニセフ親善大使に任命。1977年の「プリマ・パンダ」は音楽学校声楽科出身の歌唱力を堪能できる怪曲。https://youtu.be/aL32qwgwQM8?si=yd9J3Fj6nHPtFL04
1958年テレビ番組「歌の広場」でデビュー。作詞家作曲家として数多くの社歌や県市町村歌を作った。86歳で自作曲の大洋ホエールズ球団歌「行くぞ大洋」を美声で弾き語りして元気な姿を見せた。https://youtu.be/EmkjRHDdPAA?si=UrVdzmm7CwqG2Gan公式サイトは“古のインターネット”で怪しさ満点。http://home.v01.itscom.net/mitaka/
1950年松竹歌劇団に入団。1953年映画デビュー。1958年音楽バラエティ番組「光子の窓」司会。レコードも出しているはずだが把握しきれていない。81歳の時のシャンソン「行かないで」はそれまでのミュージカルでの演技体験が生きている。https://youtu.be/wyDBU3LMak4?si=AzJ14IjrLUqy5fCs「なかにし礼と12人の女優たち」は隠れた名盤。
美輪明宏(90)
1952年シャンソン喫茶銀巴里で歌手デビュー。1957年「メケ・メケ」でレコードデビュー。シスターボーイ・ブームを起こす。1967年「毛皮のマリー」初演。紅白は4回出場。1965年発売の「ヨイトマケの唄」を紅白で見た時の感動は絶対に忘れることができない。https://youtu.be/8NK9jtPyQdk?si=fIZpMXsqS3DL3WgG
これやねんなあ
日本人は米英の作った「ユートピアニズム」を内面化してしまったんや
https://gendai.media/articles/-/133855
E・H・カー『危機の二十年』は、文庫版も出ている稀有なレベルの国際政治学の古典である。
なぜアメリカ主導の新しい国際秩序は、行き詰ってしまったのか。これが我々の時代の問いである。85年前、カーは、同じ問いを発していた。
今日、多くの人々が、「それはロシアが邪悪だからだ、中国が邪悪だからだ、北朝鮮も、イランも、ハマスも、邪悪だからだ」といった解答を語り合っている。
国際社会の規範を重視する「ユートピアニズム」を含めて、「戦間期国際政治理論のほとんどすべては、十九世紀の自由主義思想を反映したものであり、それらはアメリカという鏡に映っていた」(岩波文庫版69頁)。
このユートピアニズムとしての自由主義は、国際社会における「利益調和の理論」、つまり「すべての国家は平和に同一の利益をもっている」、「したがって平和を阻もうとする国家はすべて、理性も道義もない」という理論に流れ込んでいる。
そこでカーは断言する。「こうした見解がアングロ・サクソンに起源をもっていることは、明らかである」(114頁)。
「戦争で利益を得るものは誰もいないということ」を「英語圏諸国民に確信させることは」、第一次大戦後には容易であった。
ところが英語圏諸国民以外の諸国民、とりわけドイツ国民は、同じようには考えなかった。
ドイツ人なら、戦争は、英語圏諸国民には利益をもたらし、それ以外の諸国民には不幸をもたらした、と考えるからだ。
しかし、「国際関係の理論は、ほとんどもっぱら英語圏諸国で生まれた」ので、イギリスやアメリカの国際関係の論者たちは、英語圏の外に戦争の無益さを理解しない者がいること理解しなかった(114-5頁)。
「世界利益としての平和が実際には存在するのだというユートピア的仮説」は、英語圏諸国では、普遍的な真理として、信じられた。
ところがそれ以外の諸国では、信じられていなかった。
そのような仮説は、単に「現状維持を望む国家と現状変更を望む国家との間の根本的利益対立という不快な事実を顧みないようにするには好都合であった」。
そのため、英語圏諸国民、つまり利益を享受しているがゆえに現状維持を望む諸国民だけが、信じているにすぎないものとみなされた(116頁)。
カーのユートピアニズムが、「現状維持を望む」「持つ者」「満足国家」の理論であったのに対して、その偽善を突く「現状変更を望む」「持たざる者」「不満足国家」の理論が、リアリズムであったからだ。
ユートピアニズムとリアリズムの対立は、抽象理念の対立というよりも、具体的な政治情勢の中で異なる立場を持つ人々の異なる世界観の対立のことであった。
英語圏諸国の政治家や理論家たちは、次のように考える。「アメリカやイギリスの国益と人類の利益とを同一とみなしても」、自分たちは「正しい」。
これに対して、アメリカやイギリスらがそのような態度をとるのは、「自分本位の国益を全体利益の衣のなかに隠す技能にかけては、かねてから名人であったこと、しかもこの種の偽装はアングロ・サクソン精神ならではの際立った特性である」ためだ。
リアリズムは、ドイツのように、アメリカやイギリスと共通の利益を持たない国の態度である。英語圏諸国民の偽善を突くのが、リアリズムの特徴である(164頁)。
カーは、リアリズムは誤解されている、と述べる。
リアリズムは、ユートピアニズムは理想主義的すぎるという理由で、ユートピアニズムを批判するのではない。
そうではなく、ユートピアニズムにおいて「絶対的・普遍的原理と信じられているものが、およそ原理という代物ではなく、(支配者階層の)国家政策」を反映したものでしかないことを、批判しているのである(178頁)
カーの洞察を回避したい、という願望は、誰の心の中にも根深く存在する。
だからわれわれが勝ち、悪は滅びる。
それでいったい何が悪いというのか。
率直に言って、それで本当に何もかも上手くいくのであれば、まだましであろう。
しかしもし期待を裏切る現実が生まれた場合に、ただ現実を否定し、他者を糾弾するだけに終始するとしたら、どうだろう。
敵を知らず、己も知らないまま。失敗を繰り返していってしまうことは必至ではないだろうか。
プロイセンの軍事思想家カール・フォン・クラウゼビッツは、こう記した。「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にすぎない」。クラウゼビッツの死後、1832年に出版された著作「戦争論」から、ほぼ全ての陸軍将校が学ぶ一節があるとすれば、それは、武力紛争の目的を定義したこの言葉である。
1月3日朝、米軍がベネズエラを攻撃し、独裁者ニコラス・マドゥロ氏を拘束して米国に連行し刑事訴追するというニュースを耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
理由は単純だ。ベネズエラへの攻撃は、19世紀の世界秩序が崩壊する前、2度の壊滅的な世界大戦が起こる前、そして米国がまさに実行したような国家の行動を阻止するために設計された国際法と外交体制が生まれる前の、異なる時代を想起させるからだ。
あらゆる国家が決定すべき最も重要な課題の一つは、いつ、そしてどのように、戦争を遂行するかである。ちなみに、クラウゼビッツを道徳観念のない戦争推進者と見なすのは誤りだ。彼はこの概念を発明したわけではなく、当時の世界を描写したに過ぎない。彼の言葉は、人類史の大半において主権国家が戦争をどのように捉えてきたのかを端的に説明している。
強国が「戦争は政策の延長に過ぎない」という原則のもとで行動する時には、マフィアのボスのような振る舞いに陥りやすい。弱い国とのあらゆる相互作用には何らかの形で武力の脅威が伴うことになる。素敵な国ですね。もし何か起きたら残念ですね、という具合に。
これは空想ではない。トランプ米大統領はアトランティック誌との電話でのやりとりで、マドゥロ氏の副大統領を務めたベネズエラの新たな指導者デルシー・ロドリゲス氏を脅した。「彼女が正しいことをしなければ非常に大きな代償を払うことになるだろう。おそらくマドゥロよりも大きな代償だ」と述べた。
外交と経済的圧力は、依然としてほとんどの場合、強国がとる最初の手段である。しかし、意図した成果を上げられなかった場合に次に何が起こるかは、ベネズエラでの米国の攻撃の映像を見ればわかるだろう。
しかし、クラウゼビッツ的な見方は、国家とその指導者たちにとって唯一の選択肢というわけではない。国際関係にはより優れたモデルが存在する。それは悪の存在と国家の利益という現実を認めつつ、平和と人命を守るための境界線を引くものだ。
人類はクラウゼビッツとアクィナスの間を揺れ動いてきたのだと、筆者は分析します。歴史を振り返りつつ、今回の米トランプ政権のベネズエラ攻撃をどう読み解くのか。「戦争は政治の延長」の先にある世界とは……。
13世紀に書かれた「神学大全」でアクィナスは、後に「正戦論」として知られる三つの基本要件を提示した。
第一に、戦争は主権者の合法的な行使によって遂行されなければならず、野心的な個人の私的な冒険主義によってはならない。
第二に、戦争は正当な大義に基づかなければならない。例えば、国家の自衛や集団的自衛は明らかに正当である。
第三に、正当な目的、すなわち善を推進し、悪を回避しなければならない。
戦争の形態の変遷を考える一つの方法は、人類がクラウゼビッツとアクィナスの間で揺れ動いていると捉えることだ。強い国は弱い国に自らの望みを押し付け、やがては強国が互いに押し付け合おうとする。必然的に大惨事が起き、アクィナスに立ち返る。
この揺れ動きの結果は、実際に歴史の長い流れの中で確認できる。紛争による世界の死者数を分析すると、戦争は常に存在するものの、その激しさは強弱を繰り返していることがわかる。極度の苦痛と死の時代は、比較的平穏な時代を経て、再び恐怖の時代へと続く。
第1次世界大戦以降の歴史を考えてみよう。塹壕(ざんごう)戦での絶え間ない殺戮(さつりく)の後、世界は侵略戦争を禁止し、平和を維持するための国際機関である国際連盟を設立しようとした。
国際連盟は、米国が加盟を拒否したことも一因となって失敗に終わり、さらに恐ろしい世界大戦を経て、今度は米国主導のもとで世界は再び試みた。
アクィナスの思想は国連憲章の随所に反映されている。憲章第2条は侵略戦争を禁止し、51条は大国を抑制するための個別的・集団的自衛権を認めている。そして第5章は平和維持のために安全保障理事会という機関を設立した。
この体制が完璧だとは誰も言わないだろう。だが、第2次世界大戦後も侵略戦争が起きる中で、この体制は主要な目的を達成してきた。世界は大戦を免れてきたのだ。
ただ、アクィナスのモデルは、二つの敵と戦わなくてはならない。権力への願望と記憶の風化だ。正戦論は、強者の自制を求めている。大国に自らの願望を押し付けることを控えさせ、短期的な国益より、国際平和と正義という長期的な目標を優先させることさえ求める。
ここで記憶の風化が作用する。人々が世界大戦を記憶している間は、自制はより説得力を持つ。国連とNATO(北大西洋条約機構)をつくった人々は、2度の戦争を経験していた。その意味で、侵略戦争に対する道徳的議論は、現実的な意義を持つ。
世界は、力への願望が国際情勢を支配する結果を目の当たりにしてきた。指導者たちは、最も壊滅的な紛争がごくささいなきっかけから始まることを知っているし、知るべきである。
例えば、1914年にガブリロ・プリンツィプがサラエボでフランツ・フェルディナント大公を狙撃し、オーストリア・ハンガリー帝国が小国セルビアに軍を動員した時、1600万人以上が命を落とす戦争になることを、いったいどれほどの世界の指導者たちが察知していただろうか?
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サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公と妻の暗殺事件を報じる朝日新聞紙面(1914年7月30日付)
記憶が薄れるにつれ、クラウゼビッツのモデルはより魅力的に映る。その一因は、まさにベネズエラで起きたように、即効性のある結果をもたらし得るからだ。
とはいえ、トランプ氏のベネズエラ介入に激しく反対する人々でさえ、マドゥロ氏の支配を美化すべきではない。彼は腐敗した暴力的な独裁者であり、国民を抑圧し、貧困に陥れた。
経済指標がその実態を物語っている。マドゥロ政権が発足する前年の2012年、ベネズエラの国内総生産(GDP)は3720億ドルを超えていた。それが、2024年には1200億ドル弱にまで急落した。壊滅的な崩壊だ。
マドゥロ氏が権力を維持できたのは、民主主義を無視したからに他ならない。選挙監視員たちによると、2024年の選挙で、3期目をめざしたマドゥロ氏は30ポイント以上の差で負けていたとされる。対立候補のエドムンド・ゴンサレス氏は65%を超える票を獲得し、マドゥロ氏はわずか30%強だった。しかし公式集計ではマドゥロ氏の勝利が宣言された。
ただ、GDPの数値や得票数だけでは、マドゥロ政権が人々にもたらした苦難を語るには不十分だ。2014年以降、貧困や汚職、抑圧から逃れるために約800万人のベネズエラ人が国外へ脱出した。これはマドゥロ氏が大統領に就く以前の人口の4分の1以上に相当する。
トランプ政権は、マドゥロ氏を権力の座から追放することが米国の国益に最もかなうとの判断を下し、議会の承認を得ることなく、完全に独自行動をとった。
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米フロリダ州で2026年1月3日、記者会見に臨む米国のトランプ大統領。後ろにいるのはルビオ国務長官=AP
第一に、トランプ氏は、米国法の要件を無視し、一方的に行動した。議会と協議せず、宣戦布告も取り付けなかった。彼は、ただ自らの権限だけで、主権国家を攻撃したのだ。
マルコ・ルビオ国務長官は、政権の行動は戦争行為ではなく、「法執行活動」であり、国防総省は容疑者を逮捕する公務員たちを守っていたにすぎないと主張している。
この弁明は笑えるほどにお粗末だ。この理屈では、大統領は敵対する指導者を起訴し、指導者の逮捕に必要な大規模な軍事力は単に法執行を保護しているだけだと主張することで、事実上あらゆる戦争を法執行活動に変えることができる。これは議論ではない。言い訳だ。
第二に、トランプ氏は開戦事由も、国際法や国連憲章が認める正当な理由もなしに攻撃を仕掛けた。ハーバード大教授で、ブッシュ政権(子)下で司法省法律顧問局次官を務めたジャック・ゴールドスミス氏が指摘したように、(国連)憲章の命令を執行する明確な方法がないとしても、この攻撃は明らかに憲章に違反している。
第三に、独裁者を権力の座から追放することは正当な目的になりうるかもしれないが、民主的に選出された野党指導者を無視するというトランプ氏の決定は、非常に問題である(編集部注:トランプ氏は15日にベネズエラの野党指導者マリア・コリナ・マチャド氏と会談した。)。腐敗した政権の残党が、米国企業の石油取引交渉の要求に従い、依然として国を統治していることは、自由と民主主義を犠牲にして腐敗と抑圧を永続させる危険性がある。
これらは何も新しいことではない。歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、トランプ氏のベネズエラへの攻撃は、第1次世界大戦の惨事以前の時代の政治と外交の復活という、より大きな全体像の一部であると述べている。
19世紀後半の南北戦争後に米経済が急発展した金ぴか時代の砲艦外交は、米国が中南米を支配していたことを確かに意味していた。それは、この地域に植民地に似た現実を押し付けた。各国は少なくともある程度の米国の監視の下で発展し、主権は米国が認める範囲にとどまった。
トランプ氏のベネズエラ攻撃もまた、何もないところから出てきたわけではない。昨年12月、政権は国家安全保障戦略の文書を発表し、西半球を最優先に位置づけた。
この文書はアジア、欧州、中東に先立って米州を扱い、「西半球における米国の優位を回復するため、モンロー主義を再確認し実施する」と宣言した。
大統領はすでに、19世紀の米国外交政策を復活させる自らの政策に「ドンロー主義」という名を付けている。
トランプ氏はドンロー主義を熱心に推し進めている。カナダとメキシコに対して経済戦争を仕掛け、カナダは米国の51番目の州になるべきだと発言した。NATOの同盟国であるデンマークの主権領土の一部であるグリーンランドにも野心を抱いている。
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デンマークのコペンハーゲンの米国大使館前で2026年1月14日、グリーンランドはグリーンランド人のものだと抗議する人々=ロイター
ここで再び、影響圏による世界支配と、「政策の延長としての戦争」という非道徳的アプローチの致命的な欠陥に直面する。小国は強国に支配されることを望まず、強国はライバルの台頭を望まない。故に同盟を結ぶ。1914年、セルビアにはロシアが、ベルギーには英国がいた。1939年にはポーランドにフランスと英国が味方した。
なぜ南米諸国が他国との緊密な関係を求めるのか、米国人が疑問に思うのならば、むしろ彼らと米国との歴史的経緯や、南米の人々がモンロー主義の攻撃的復活をどう捉えているかを問うべきだろう。
一つは、トランプ氏がベネズエラ介入で先例をつくったというものだ。ロシア、中国、イランといった国々は、自らの勢力圏でその先例に従おうと躍起になるだろうし、我々が取ったのと同じ手法を敵対国が自らの勢力圏で取っても、我々に異議を唱える資格はなくなる、というものだ。
しかし、ウラジーミル・プーチン氏のロシア、習近平氏の中国、革命体制のイランは、正戦論や道徳的議論などみじんも気にかけたことがない。彼らがある程度抑制されているのは、抑止力によるものであり、もし抑止力が失敗すれば、純粋な軍事力による。
もう一つの議論は、正戦論が決して全会一致で受け入れられることはないことを認めるものだ。国連憲章が往々にして実践的というより理想論的なものにならざるを得ない運命にあることを認識するものだ。
この議論は、世界秩序の存続が強国に依存するわけではないが、米国という最大の強国には依存していることを認識している。言い換えれば、我々の国がアクィナスに傾倒していることが、クラウゼビッツを遠ざけているのだ。
安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、米国・英国・フランスの3カ国だけが国連憲章と国際法に従う状況で、我々はかろうじて世界秩序を維持している。しかし、もし米国がロシアや中国と同様の武力紛争や国際関係へのアプローチを採用すれば、西側の戦後コンセンサスは完全に崩壊する。
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ベネズエラの首都カラカスで2026年1月6日、3日前に米軍に拘束されたマドゥロ大統領の解放を求めるデモのそばに「トランプ:殺人者 誘拐犯」などと書かれた落書きがあった=AP
「アメリカ第一主義」は必ずしも孤立主義ではない。主権国家の指導者を逮捕し、その国を「運営する」と宣言することに孤立主義的な要素はない。だが、それは短絡的で、正義と平和を犠牲に、国家権力の高揚感を追い求めている。
トランプ氏がいま、まさにその高揚感に浸っているのは明らかだ。1月4日の夜、米NBCは、トランプ氏が依然として「我々はベネズエラを運営していく」と発言していると報じた。トランプ氏は「彼らが従わなければ、第2の打撃を加える」と付け加えた。
トランプ氏が考えていたのはベネズエラだけではない。「コロンビアも非常に病んでいる」、キューバは「崩壊しつつある」と彼は述べた。さらにイランが抗議デモ Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
書き殴る
2年前ぐらいから短歌に興味を持って、歌集を買って読むようになった
最近タイムラインにカクヨム短歌賞の中間審査のレポートが流れてきて、それも楽しく読んでいた
けどもうやんなってきたわ
俺は浅いなりに短歌が好きだったし、芸術だと思っていたけど、カクヨム短歌賞に対する短歌書いてる人たちの反応がみんな閉鎖的で、言っちゃえば性格悪いのかなって思う
もうほんとにアホらし、悪いけど現代における短歌なんてめちゃくちゃ小さなカルチャーだろ
青松輝の文化を守っていくために、文化を強くしていくために短歌を広めていく姿勢ってマジで普通というか、称賛されるものだと思ってたけど、みんなそれが嫌みたい
20代後半の、短歌なんかやらなくても生きていける人間が、わざわざ短歌を広めようとしていて、そこには確実に悪意なんてないのに、みんなしてそれを叩いて、本当にこの人たちって月の美しさとか分かるのかって思うわ
明らかにライン越えの暴言が書かれたnoteも、この人の言うことももっとも!みたいに支持するやつ多くて、恥ずかしくないの普通に
歌集を出版するのに、短歌賞を作るのに、どれだけたくさんの大人がどれだけたくさんのお金が動いてるか想像したことあんのかな
お前が短歌に出会えたのも、素晴らしい短歌が今日読めるのもいつだってその文化を守ってきた奴らのおかげだとなぜ分からない
誰にも読まれずに短歌を続けられる奴もいるだろうが、読まれるために短歌を書いてる人間だって多いだろ
ただ31字の文字をチロチロ書いてるだけのお前が、なんの力も金もないくせに短歌を小さく小さくしようと、閉じたコンテンツにしようと一生懸命になって
まあ界隈を開く権利がお前にないもんな、お前にできるのはうちに閉じこもることだけ
なのに結局お前自身の軸がないやん
お前が信じてくれさえいればお前の短歌は綺麗なままだったはずなのに
中間選考会のレポ読んだら分かるやん、選考委員がちゃんとやってることなんか分かりますやん!!!
どうせしょぼいギャラしか出ないのに、18000首読んで評価して、その上こんな叩かれて
ほんまいい加減にしてくれ、いい加減にしてくれよ
どんだけ短歌嫌いなの?
アルファポリスでAIに関する規約違反で出版取りやめになった件で、まあそれ自体は規約に違反したんだから仕方がないとしか言いようがないけど、その界隈の著作権絡みの言い合いで反AIの言い分が「利権に慮って国が法律変えてくれないなら俺たちが妨害工作するしかない」みたいなテ○リストまんまの主張をしていて草
それ以外にあるの?
まさかね。
要は儲かればいいんだろ。
人気があって採算が取れる見込みがあれば、
↓
ヒットしてアニメ化
みたいなのが、
ひとつ出ればもう我も我もと後に続くし、
AIで作った漫画や小説には著作権が認められないので商業出版できません。
AI小説がアルファポリスの大賞に輝いたとか、それが取り消しになったとか、創作界隈では話題になってますね。
ではAI小説やAI漫画といったAIにより作られたコンテンツがヒットする未来がすぐそこまで迫っているのか? と問われると私は懐疑的です。一方で、あり得ないわけではないなとも思います。感覚としては、2026年にAI小説・漫画のヒット作が生まれる可能性は5%。大ヒットまで絞れば1%かなと。かなり低いと見込んでいます。
まあ、数字の議論をしたいわけではなくて、一番強調したいことは
「「「AIは作品の面白さそのものをブーストするわけではない」」」
ということです。
皆さんAIコンテンツというと「ヘイ、チャッピー! 面白い小説書いて」と頼んでポン出しされたようなイメージを持っていると思います。しかし、そう簡単に面白いコンテンツが作れるなら市場はとっくにAIコンテンツで埋め尽くされているはずです。
まあ実際に「面白い小説書いて」ぐらいの雑な指示でも、その辺の凡庸な大人に書かせた小説よりはよっぽど面白かったりするわけですが、プロの小説家にはまだ勝てないと思います。なぜなら、AIは「アイデア」や「テーマ性」「感性」といった小説の面白さの根幹を成す部分に強みを持たないからです。
AIは既に「速さ」「量」「正確さ」「品質水準の維持」といった点では人間の小説家を上回っています。西尾維新でも中山七里でも、さすがに一日で数十万字書いたりできませんから。しかし、逆に言えばそうした「強みの部分」以外ではまだ人間に及んでいない点も多いのです。
なので、今のところAIを使った執筆活動は「人間が出したアイデアやテーマ性をもとにAIが執筆を担う」とか「人間がAIと対話してアイデアをブラッシュアップする」といった形が主流のようです。
これは裏を返すと、そもそものアイデアが凡庸な人間がいくらAIに書かせても「凡庸な小説が素早く・大量にできあがる」だけだということです。
それでもAIコンテンツのヒットの可能性が否定できないのは、非凡な人間がAIに執筆をさせる可能性があるからです。
その場合、そもそもAIコンテンツを許容する土壌が出版界にも読者側にも醸成されていないことを考慮するに、最初のヒットコンテンツは「人気作家の最新作!→ヒットした後にAIだとネタばらし」という形になるのではないかと思っています。
もう一つの可能性として、マーケティング方面からのアプローチでヒット作が生み出されるケースがあります。これは「100ワニ」のようなものとイメージするとわかりやすいでしょう。
「100ワニ」がヒットしたのは、漫画そのものの面白さ以上に、ツイッターで一日一回の更新をみんなで見守る共時性の演出がエンタメとして巧みだったからです。
このように、作品の外部からのアプローチで作品の魅力やリーチを大幅に伸ばすことができるので、そうしたエンタメ気質のクリエイターによるヒットの動線は十分想定されるでしょう。
結局、何が言いたいかというと、人間はスピードではAIに勝てないが、市場というのは単なるスピード競走ではないから、スピード以外の部分に自身の強みを探していくことが今後も重要になっていくのだろうということです。
Q. 財政政策はどうあるべきか、ないし、財政赤字や国の債務はどうすべきか?
A. 個人的には、その問題はHDDレコーダーの残り時間が一つの比喩になるのではないかと考えている。見るかどうか分からない番組も含めて闇雲に録画していけばHDDレコーダーの残り時間が無くなってしまうのと同様、闇雲に財政を拡大すればいつか財政破綻が訪れる可能性がある。自国通貨建てならば財政破綻はしない、という意見もあるが、そういう論者もインフレが生じることは認めている。反緊縮財政論者が良く引き合いに出す21世紀の財政政策 低金利・高債務下の正しい経済戦略 (日本経済新聞出版)の著者のブランシャールも、無制限な財政ファイナンスには与しておらず、最近は母国フランスに対して緊縮財政を訴えている(cf. ブランシャールのタカ派とハト派論 - himaginary’s diary、ブランシャール「今は財政緊縮をすべき時」 - himaginary’s diary)。
ただ、だからと言って見たい番組も録らずにHDDレコーダーの空き時間をひたすら増やすのは、HDDレコーダーの本来の機能を活用していないということで馬鹿げている。同様に、財政黒字を貯めて債務を減らすことに血道を上げ、本来支援すべき国民を支援しないのは賢い行動とは言えないだけでなく、残酷でさえある。HDDレコーダーと違い、財政黒字にはマクロ経済を収縮させるという副作用もある(cf. 財政黒字ギャンブル? - himaginary’s diary、財政赤字ギャンブルの得失 - himaginary’s diary)。
では、どの程度の債務が適切か、ということが問題になるが、流動性の罠に陥った時には政策の総動員が必要になるため、財政政策を臆せずに打つべし、というのはかねてからクルーグマンやターナー(cf. 財政刺激策と中央銀行の独立性を調和させる - himaginary’s diary、鎖につながれたヘリコプター - himaginary’s diary)が訴えていることである。
それ以外の時における適切な財政赤字や適切な債務水準は、経済学者も分からない、というのが実情(cf. ノア・スミス「どうしてみんな政府の赤字を心配してるの?」(2021年10月8日) – 経済学101)。
そうした現状に鑑みると、「野放図な財政政策は避けるべきだが、『野放図な緊縮財政』も避けるべき」、ということくらいしか今は言えないように思われる。経済学が進歩し、反緊縮派と緊縮派がモデルや実証結果に基づいて議論できるようになれば、両者が同じ土俵で定量的・定性的な議論ができるようになり、財政赤字を巡る論点整理の一つの試み - himaginary’s diaryで論じたようにEBPM重視で話が収斂していく可能性はあるが、そこまでの道のりは遠いと言わざるを得ない。
ただ、そうした理想に少しでも近づくためには、CBO的な組織=独立財政機関はやはりあった方が良いかと思われる(cf. 中銀・財政機関の「独立性」、本質再考を 鶴光太郎氏 - 日本経済新聞での鶴氏の論考、ある金融財政協調策の提案 - himaginary’s diary、中銀の独立性はそれでも必要? - himaginary’s diaryで紹介したYatesの議論(特に英国の予算責任局の役割についての提案)、財政ルール:愛されやすく誤魔化しにくいものとすべし - himaginary’s diaryで紹介したIMFブログでの財政ルールの議論)。一部の人が懸念するように緊縮一辺倒の組織になってしまう可能性もあるが、最近の世論や政治の動向を考えるとならない可能性も十分にあるように思われる。
承前。
https://anond.hatelabo.jp/20251231152723
他の人がつくったまとめを読むのが好きなので、俺もならって書く。
※ 2025年に読んだ上位10冊だと、必ずしも2025年(もしくは前年末)に出版されたものに限らない。極端な例として、英文学の傑作とされる『闇の奥』とか出てくる。1902年版。
そこで、1年以内に刊行されたものだけでも10冊以上になるようにした。+αはその意。
様々な動物のコミュニケーションをサンプルに、「動物は言葉をしゃべっているのか?」を考察するノンフィクション。最後は、「そもそも言葉とは何か?」というところまでテーマは広がっていく。
まず、動物とその言葉の関係を評価するスタンスは、大きく分けて二つあると思う。一つは、動物は人間と同じような言語の概念を持ち、それを各自の鳴き声で表現している、という立場。もう一つは、動物における言語の概念は人間とはまったく異なる、という立場だ。
前者の場合、人と動物の言葉の違いは、極端に言えば日本語と英語の違いと同じものでしかない。つまり、翻訳も可能ということになる。
例えば、『クジラと話す方法』という本はこの立場に立って、クジラの歌声を大量に収集し、どういう状況で発された音であるかを分析すれば、統計的にクジラ語の辞書をつくれる…だけではなく、これをモデルとして逆にこちらから音波を発信することで、人間からクジラに語りかけることもできるようになる、という発想を語っている。
これと比べた場合、『まじめに〜』は後者の側に入っていて、人間と動物の間には言語同士以上の開きが存在する(=翻訳不可)、という立場に立っている。ロマンチックとは言えないが、これはこれで、動物の知性を人の方に寄せることなく理解しようとする敬意の表れがあっていい。
この本の作者が信頼できるのは、動物に言葉があるとして、それは絶対に字面以上の意味を含みうること、それゆえに特定の単語や文章に落とし込むのは困難だと強調するところだ。
例えば、群れを支配するリーダーが異性に対し、あるメッセージを発する。状況から推測して、それは人間の「あなたが好きだ。一緒にいたい」に該当する可能性が高い、とする。
しかし、それが人間とは別種の生態系を持つ動物が発するものと考えると、そこには親愛だけでなく、支配を目的とする攻撃性や、ライバルの同性への誇示を含みうる(極論、人間でもそうなんだけど。)。
そう考えたとき、それを人間の辞書で何かの言葉に頑張って置き換えることに、どれほどの意味があるのか? 我々にできるのは、鳴き声に込められたニュアンスをどうにか類推することであり、人間語に表すことはできないのではないか? というのが『まじめに~』のスタンス。こうした疑問が、生物のノンフィクションであると同時に、言語哲学のようで面白かった。『クジラと〜』とあわせて読むと、ロマンとリアリズムを一緒に摂取できる。
国内で話題になった「忍者グマ」、OSO18を追ったドキュメンタリー。
OSO18をめぐる作品は他にも読んだけど、俺はこの本が面白かった。それは、俺がOSO18の報道というのはクマ自体の話だけでなく、世間がそれを都市伝説的に楽しみ、駆除に反対する「動物愛護」を冷笑し、なんとOSO18は最後はジビエ肉になって卸されてしまいました、というブラックなオチまでエンジョイするという、「良質なコンテンツ」は骨までしゃぶろうとする人たちの現象でもあると思っていて、この本にも同じような批評的な視点があると感じたから。
もちろん追跡の記録もしっかりしているし、動物研究のプロフェッショナルへの取材もすごくいい。恐ろしいという印象がどうしても勝るけど、あるインタビューに出てきた「OSO18は賢くて、(あくまで野生動物としての基準で)とてもいいクマだと思う」という意見には、なるほど~、と思った。
ちなみに、二人体制で書かれており、OSO18に対する両者のスタンスは必ずしも同じではない。そのズレが、最後はいいかたちで表れていて、まず一人目の見解に考えさせられたあとに、次の筆者のパートでかなりひやっとくることが書いてあり、これも面白かった。
生物学のフィールド調査+民間信仰の採話という形式によるモキュメンタリーホラー。
2025年は、少しきつい言い方をすると、似たようなベクトルのホラーが「量産」された印象がある。ありていに言えば、大ヒットした『近畿地方の〜』ライクな作品が世間から期待されていたんだと思う。
俺も『近畿地方の~』がすごく面白かったので、他の作品も何冊か手にとってみたのだが、アイデア一発勝負をどうにか膨らませた感が強かったり、たくさんの情報をつなぐことに終始してストーリーとしては全然興奮できなかったりして、やっぱり『近畿地方〜』すげえな、という結論になった。
その中で、『堕ちた儀式の記録』はとてもよくできていたと思う。フィールドノートの章と散文調の章の使い分けが、ギミックとして巧みに機能していて、物語としてシンプルに先を読みたいと感じさせてくれたし、「考察」を楽しむことができた。
余談だけど、マジで2024~2025は同じタイプのホラーが本屋でひしめくことになっていて、選ぶのに苦労した。たくさん読んだ人の忖度抜きのランキングとかめっちゃ需要あると思う。
コロンビアに暮らす、とある血縁者たちに発生する若年性アルツハイマーに関するドキュメンタリー。2025年に読んだ本第1位。
この手の類の本が好きな人は、タイトルから別の本を想起するのではないかと思う。2022年に早川から刊行され、 (俺の観測した範囲でだけど)話題になっていた『統合失調症の一族』だ。
正直に言って、いわゆる二番煎じだと思いつつ読み始めた。しかし、血のつながりに起因する病をめぐって描かれた、医療の確立をめぐる尽力、フィールドワークの苦労、それぞれの家族の物語は、本当に深くて面白かった。
現代のコロンビアはギャングや過激派の悪影響が深刻で、それに加えて、いわゆる黒魔術的な頑迷な信仰の存在感も強く、多くの要素が医療の推進を阻害する。こうした環境で病人の発生した家庭を回り、治療のためのネットワーク構築に奔走した医療従事者の熱意と人柄はすごすぎる。到底マネできない。
暴力が蔓延し、インフラも貧弱な土地で、40~50代でアルツハイマーを発症した人たちは次第に会話が成り立たなくなっていき、汚物にまみれてぼろきれのように死んでいく。人間という存在に根本的にたいした意味がないということが、繰り返し描かれる。
その一方で、患者になった家族を支えるというかたちで、途方もない忍耐と強さ、なにより明るさを発揮する者がいることも、同時に描写される。治療法がなかなか確立されず、悲観的な事実ばかりが積み重なる中で、少しでも患者(予備軍)を鼓舞しようとするスタッフや、自分もいつか発症するかもしれないという恐怖と向き合いながら人生を切り拓こうとする血縁者の努力が描かれる。
読んでいて視点が二つに分かれていく感じがあった。シニカルになる余裕さえない、徹底的に乾いた虚無感と、人間の強さに打たれる感覚とが同時にあって、なかなかすごい読書体験だった。
二つ付記。
一つ目。上で書いたとおり、土着の宗教が障害になっているケースがあるが、=「宗教は科学の敵だ」とは限らない点にも注意がいると思っている。
これは別の本で提唱されている概念だが「WEIRD=Western Educated Industrial Rich Democratic」という、日本を含む先進国が大きく影響され、多大な恩恵を受けた「科学的とは、発展とはこういうことである」という価値観があり、これを強力に世界中に敷衍したものこそキリスト教である、という説があるからだ。
一方で、『闇の奥』でも示されているとおり、西洋の進出は別の土地にとっては侵略の歴史でもある(未読だけど、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』も同様だろう)。だいぶ話がズレる&ありがちなまとめになってしまうけど、「批判されているあるものには、こういう側面がある」というおさえ方と、搾取や暴力を基準に善悪の絶対の線を引くことの両方が必要なんだと思う。
二つ目。本書で紹介されている医療活動は、あくまで「コロンビアで」「アルツハイマー発症の機序の一部」をターゲットにしたものである。
言い換えると、他の場所で別のメカニズムから病気を攻略しようとしているチームもある。そこにはスポンサーや世間の関心をめぐる科学者同士の競争が発生し、企画を指揮する科学者にはプロデューサーとしての手腕も問われることになる。本書の解説を書いたライターの『がん征服』は、がん治療の驚くようなアプローチをいくつも紹介しつつ、その辺の内情もうかがえる良書だった。あわせて紹介しておく。
2025年に読んだ本の中で最恐。
これは挙げるかどうか悩んだ。ちょっと古い本というのもあるが、それより、ほぼ確実にほとんどの人に刺さらないから。ホラー好きでさえハマるか不明。単に俺が面白かっただけ。
うまく説明できる自信がないが、ホラーの一番の弱点は何かと考えたときに、「それは相手を怖がらせようとしていること」というところに落ち着く気がする。ホラーの大きな目的が、ホラーとして提供されるがゆえに邪魔されているというか。結局、誰かが死んだとか不幸になったとか、こっちを嫌な気持ちにさせたいんだよね? という。
自分で好んで読んでおいてなんだが、心のどこかでそういうことを思ってしまう。ホラーなんだからそりゃそうで、どうしようもない…のだが、『幽霊物件案内』は、その弱点がない。ものすごく巧みにそこを避けているのか、書かれているネタと書いている本人のどっちか(もしくは両方)が根本的に何かおかしいのか、とにかく何をしたいのか描きたいのかよくわらないまま、ひたすら猛烈に不穏なことが延々と書かれている。
どういう人に薦めたらいいのか考えたが、例えば2chの洒落怖にあった、『まったく意味がわかりません(バスの事故? に関すると思われる書き込み)』とかが近い気がする。あれが楽しめる? ならハマるかも。ただ、『幽霊物件案内』は文章自体はちゃんと成立しているため、かえってよっぽど異常な気がする。
以上。2025年はだいたい70冊ぐらい本を読んだ。来年は100冊を目指したい。本屋に行くたびに読みたい(そして読めない)本が増えていく!
他の人がつくったまとめを読むのが好きなので、俺もならって書く。
※ 2025年に読んだ上位10冊だと、必ずしも2025年(もしくは前年末)に出版されたものに限らない。極端な例として、英文学の傑作とされる『闇の奥』とか出てくる。1902年版。
そこで、1年以内に刊行されたものだけでも10冊以上になるようにした。+αはその意。
有性生殖の壮大な歴史を概観する、いわゆるビッグヒストリーもの。
ぱっと見ではちょっと下世話なタイトル。しかし、20億年というバカでかい数字も含まれているとおり、読み始めるとビッグバンの話から始まって、地球が天体レベルで迎えてきた過去の大絶滅のイベントが進化に与えた影響について紹介するなど、大変にスケールが大きい&しっかり科学的な本。
作中では、まず物質から命が生まれ、単細胞から多細胞になり、性別を持ち…という流れが、生物史のイチから描かれる。やがて、多細胞生物は進化とともに性的役割分担を生じ、その中の一種であるホモサピエンスは狩猟採集から農耕に移行する中で複雑な社会を形成するようになり、階層が生まれ、新しい社会で性別は役割や職業だけでなく差別とも切り離せなくなり、そして現代では? というところまで総観される。
後半の主役はどうしても人類になるけど、一方で、人間とて有性生物の一種に過ぎず、我々の社会も「生物がつくりうる群れのパターンの一つ」でしかない、という視点が体感できるのが、この本の良さ。いわゆる文系でも読める。そこそこ厚めの科学系ノンフィクションがいける人はぜひ。ちなみにオチの一文がシャレている。
まったく余談だけど、本作は集英社刊行。この手のジャンルは早川や河出、みすずあたりが強いイメージがあるので意外だった。
俺は小さめの青虫なら手で触れるぐらい虫が好きで、知識もそれなりにあるつもりだけど、それでもどのページを開いても「ほお~」と嘆息してしまうぐらい情報が豊か。この本も、地球というのが生命の壮大な実験場で、長い歴史の中で膨大な選別と滅亡を繰り返している世界であり、いま生きているやつはみんな、構造の複雑さや大きさに関係なく、各自の戦略でもって何かしらの頂点、キングであることがわかる一冊。
見入ってしまう理由はもう一つあって、写真が本当に美しい。昆虫嫌いはどのページを開いても卒倒すると思うけど、うっかり手にとって目覚めてほしい気持ちもある…。
イスラエルのIT企業が制作・販売し、やがて各国要人のスマートフォンに忍び込むことになったスパイウェアをめぐるノンフィクション(←重要)。
作品としていくつかの側面があり、「テクノロジーの悪用を追求する社会派ノンフィクション」「追うものと追われるものの駆け引きを描いたサスペンス」「一つの大きなプロジェクトを、組織横断で運営する困難を描いた仕事もの」として読める。
俺は、どんな技術でも基本的にそれ自体には善い悪いはないと思っている。実際、優秀な若者だったイスラエルの起業家たちがペガサスを立ち上げたエピソードは、そこだけ読めば、ほかのビッグテックの成功譚の導入と変わらない。
ただ、巨大な力の行使を自主的に規制せず、金を払えるところならどこでも売る、という条件だけで市場に開放すれば、やがて歯止めが利かなくなる…というか、大きなクライアントから契約を得ること以外の指標がはじめから存在しないため、ブレーキのかかりようがなく、最後はろくなことにならない、ということがよくわかる。
いわゆるマルチバースについて、いくつかの可能性を科学的に整理した本。
俺のような文系にはややハードだったが、逆に言えば、宇宙物理学(ビッグバンとか、観測できる宇宙の果て)や量子力学について、ぼんやりとでもイメージができれば、なんとなく理解しつつ読める。
この本、何が素晴らしいかというと、一般的にひとくくりにされがちなマルチバースという概念について、いくつか種類があるということを整理してくれるところ。
俺は宇宙物理とか量子力学の本をたまに読み、その中でいわゆる多世界解釈についても目にするので、「いろいろと読んだけど、こんな本が意外とマジでなかったな~」と感動している。
例えば、ある宇宙における一つの文明から物理的に到達しうる距離の限界を仮定して、その範囲を超えたところに別の文明や星が存在するなら、それはある意味でマルチバース。もちろん、まったく別の宇宙が別次元に複数存在してもマルチバース。
一方、超ミクロにも視点を移して、量子のゆらぎが世界の一つの可能性に収束するのではなく、複数の世界に分岐していくのだ、と主張するなら、それもマルチバース。
要するに、「マルチバース」という言葉の意味自体がマルチなのだが、そのことをかみ砕いてくれる本というのが実は貴重。これ系好きな人はおすすめ。次の本を読む上での下地にもなるかも。
アテンションエコノミーによって駆動している現代のデジタルプラットフォーム・SNSとの付き合い方について、作者が専門家と交わした議論をまとめた対談集。
アテンションエコノミーとは、ざっくり言って、ユーザーの注意関心を定量化し、それを指標としてコンテンツや運営方針を決めていくスタンスのこと。これを重視しすぎるあまり、商環境におけるモラルが二の次になってしまう、という問題がとっかかりなのだが、本作のすごさは、そこから人間の認知構造まで踏み込み、「そもそも、人が自由に自立して何かを消費するとは?」まで進むラディカルさにある。
例えば、人間の認知というのは迅速にorゆっくり判断する、という二つの軸を持ち、同時に、無意識にor意識して評価する、という二つの層を持っている、という点が説明される。そして、アテンションエコノミーというのは「迅速&無意識」の部分を攻撃しているため、やっかいであるとされる。
攻撃と表現したとおり、本作においてアテンションエコノミーとは、(全面的に悪とは言えないまでも)人類最高峰の知能を持つ人たちが、一秒でも長く少しでも多い反応をユーザーから引き起こすために仕掛けてくるハッキング行為でもある、というスタンスをとっている。
ここでジレンマ、というタイトルにつながってくる。俺たちが社会全体でアテンションエコノミーとの付き合い方を学ぶとしたら、有効な方法の一つは、教育を通じて学習することである。ただ、学んで育つとは、基本的に人間の本来の強さ・賢さを信じ、それを伸ばそうとするものであるため、「俺達は根本的に抗いようのない領域を抱えており、そこをハッキングされるとひとたまりもない」という弱さの認識とは食い合わせがあまりよくなく、手段の確立に苦労している(書いていて思ったが、性教育や薬物の危険さを学ぶことの難しさも同じかもしれない)。
今後、どうしたらいいかは探っていくしかないよね、という感じだが、一つ面白かったのは、デジタル技術は基本的に、自主的な決定と自己責任を重んじる、いわゆるリバタリアン的な価値観によって推進されることが多いが、その行く末が「ユーザーにそもそも判断させる余地を与えない無意識下の攻撃」に成り下がってるのでは? という指摘は、皮肉でかなり響いた。
ジレンマをもう一つ。利益面で言えば、プラットフォーマーにとっては無思考に時間とお金を費やしてくれるユーザーが一番ありがたいわけだが、消費者もそこまでお人よしではない。「全然自由度が低いっていうか、なんかナメられてね?」と思うこともある。
そこで、「じゃあ自分好みにいろいろ選べるように協力しましょう」という良心的な運営もあるだろうが、「ユーザーが自分で自由に選べた、という感覚さえ演出できれば、実態は別でもかまわない」という方向に進んでしまう運営も現れうる。いまやテックジャイアントの在り方とは、消費者の自主性を尊重している姿勢を見せつつ、いかに自分たちの利益に誘導できるか、その妥協点の模索に陥っているのでは(そもそもの理念はそんなじゃなかったはずなのに…)という見方も紹介されており、面白かった。
本年ベスト級。下で紹介している『アルツハイマー病の一族』がなければ1位だった。
九州の農協に勤めていたあるエース営業マンの不審死を追ったドキュメンタリー。
一人の優秀なサラリーマンが、組織内にも地域にも一つの「帝国」を築き、邪魔者は排除し、しかし、最後は(おそらく)破滅した様が描かれる。
大げさな言い方をすれば、社会における悪とは何かを考えさせられる作品。主犯とされる男が周囲の人に行ったことや、横領行為は悪いに決まっている。しかし、こんなやつは罰さなくては(もう本人は亡くなっているが)、という義憤がときどき迷子になってしまうのは、「本当に彼だけが悪いのか?」、そして「そもそも、この社会はこうした『悪』を罰せられる構造になっているのか?」と思ってしまうから。
読み進めると、彼が所属していた組織もお金の流れもあまりにいい加減で、根本的に腐敗しており、システムの中心としてそれを差配していた彼の周囲に群がっていた同僚や市民も、何か妙なことが起きていることを薄々察知しながら甘い汁を吸い続けていたことがわかる。
つまりこれは、悪事と責任が彼以外にも分散しているということなのだけど、もう一つ思うのは、そもそも社会というのが、本質的に悪の所在をあいまいにし、「悪」でさえなくす、ロンダリングする仕組みなのではないか? ということである。
どういうことかというと、物事や手続というのは本来は筋道や道理があり、それらにのっとらないといけないはずなのだが、これを四角四面に処理しようとしても遠回りになるだけで何の意味もないことが往々にしてあり、そして、よく言えばそれを円滑化する、悪く言えば本筋をねじ曲げることのできる人物がどこにでもいるもので、結果としてその人のおかげで、(あくまで、そのコミュニティの中では)物事がうまくいく、ということがよくある。
肥大化&形骸化したナンセンスな仕組みなら見直せばいいのだが、組織にそんな向上心もリソースもなく、それでも体裁を取り繕わないといけないとき、それを(自分の利益とブレンドしつつ)調整する役目を負う者が求められ、必然的に出現するとしたら、その誰かを悪と断じることの意味はなんなんだろう? と思ってしまうのである。
もちろん、シンプルに悪事は悪事であるという答えはぼやかせない。
盗んだり誤魔化したり、他者をいじめたら悪いに決まっている。当然のことだ。ただ、システムを悪用して悪事の限りを尽くすやつと、有能ゆえに組織の悪徳を背負わされて破滅するやつが、同じ人物ということもあり得るよな、とは思う。
19世紀のコンゴを舞台に、西洋文明による資源と労働力の搾取を描いたジョゼフ・コンラッドの小説。1902年刊行。
ホラー作家である平山夢明の短編『すまじき熱帯』がまず面白かったのがあり、その元ネタがたぶん、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』であって、その原作が『闇の奥』…という紆余曲折あって手に取った。
例えば気まぐれに古典を読むと「名作ってやっぱすげえ」と思うことが多く、実はこれは意外ではなくていまの俺たちの価値観や言葉の下地になっているものである以上、それなりに当たり前のことなのだが、はじめて読んだ『闇の奥』も例に漏れず強烈だった。
基本的にこの作品は、西洋によるアフリカの搾取、強制された苦役と恥辱の物語として読まれている。有名なセリフである「地獄だ!地獄だ!(the horror!)」も、まずこの視点から解釈するべきで、それは先進国に必須の認識だと思う。ちなみに、 セリフを発したのは現地で開発を差配していて発狂してしまったクルツという西洋人。
一方で、個人的な印象としては、クルツにある種の英雄性を感じてしまったのだった。
暗黒大陸とも形容される当時のアフリカの奥地に、「文明の担い手」として一人で立ち向かった人間。「闇」と「文明」が接する最前線で彼が発した「地獄だ!」といううわ言は、その言葉自体が、未知の世界から切り出されて西洋側に持ち込まれた(負の)成果物であると思う。『対馬の海に沈む』でも思ったが、俺は腐敗した組織の一員である誰かが役目に邁進し、自身の欲望と背負った責務の中で破滅するナルシシズムが好きなんだろう。
もちろん、コンゴの側から見れば、勝手にやってきた侵略者の一人が勝手におかしくなって破滅しただけであり、そこにヒロイズムを感じるのは先進国の大変な欺瞞だと思う。加害と被害の歴史は前提として理解しないといけないし、意見を発するうえでバランスは気にかける必要があるのだが、↑のような感想を抱いてしまった。
余談だけど、今年刊行された本に『ブラッド・コバルト』というすさまじいノンフィクションがあり、同じコンゴが今度はハイテク機器に使用されるレアメタルの産出国として、ふたたび西洋社会による深刻な搾取を被っている様子が描かれている。
医師として病院に勤務する主人公。ある日、救急で運び込まれてきた心肺停止状態の患者は彼とうり二つの顔をしていて…という導入から始まるミステリー。
2025年はミステリーやホラーを中心に15冊ぐらい小説を読んだんだけど、その中でもぶっちぎりで面白かった。
※ 以下、少しネタバレ。注意
今作の優れたところは、冒頭の謎をオチまで温存することなく、あくまで読者を引き付けるためのフックとして割り切ったところだと思う。
導入部分の真相については、正直「科学的にあり得るならこうだろうな」という域を出ない。それを冷静に見越したうえで、いわばロケット(作品)を高く飛ばすための燃料として中盤で切り離し、さらに高い地点への加速と突破は他の要素や伏線回収で狙う、という戦略だと感じた。別作品の批判になるが、同じようなネタを武器として最終盤まで引っ張ってしまったミステリーも同じ年にあり、個人的には格が違った印象がある。
ベタな表現になるが、後半もどんでん返しが続き、飽きさせない。逆に言えば、スキャンダラスな波乱の展開をいくつ詰め込めるかを始点に逆算してつくられた感じはある。これを品がないと思う人もいるかもしれないが、こだわりがない人は面白く読めると思う。
後半に続く。
紅に染まったこのオレを慰めるやつはもういない!
年の瀬暮れない!暮れたくない!
私の思いを込めた歌なのかしらね?って思いつつ、
うわ私ぜんぜん寝てなくてそのまま初詣行ったわーとか、
もういっぱい年末年始自慢さんざん聞き飽きたんだけど
あれだけは言っていいと思うわ!
そんなわけで私はすっかりお正月になんかお餅を食べる習慣がないので買ってすらないので
これ危険なところが
お餅食べてないのよねっていうと逆お餅食べた人に対してマウントを取ることになるから気を付けたいところね。
やっぱり部屋を暖かくキープしていないと活動量が減ってすぐ眠たくなっちゃうこと!
お陰でおやすみ期間中はもう早くて18時とかに寝ちゃう生活とか遅くても21時に寝ちゃうとか!
ものすごく私も大谷翔平選手みたくなるんだ!って睡眠時間をうんととれる大谷翔平選手チャンスいやたくさん睡眠とれるチャンスをここぞとばかりに活用しているのよ。
なんか早く寝るのもいいけれど、
もっとお部屋を温かくして活動量を多くしてそうなのよHD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2をクリアしなくてはいけないって自らに課した課しまくりまくりすてぃーな課題をぜんぜん進められてないのよ!
眠たくなったら寝ちゃう!って感じで。
昨年の今頃のザ虎舞竜さんで言うところの「ちょうど一年前に」って歌い出しで歌うロードの256章の歌詞らへんで「なんでもないようなことが幸せだったと思う」って歌っているシーンを思い出して昨年の今頃の睡眠グラフ表を見て確認してみたら、
よく寝てるわってのを今年も秀逸に踏襲していたのね。
今日ぐらいから本気でズバッとHD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2を進めなくちゃって思い出したわ。
今苦労しているのが相変わらずのゴールド不足で強い武器防具が買えなくて先に進められないもどかしさも相まってるのよね。
ちょこちょこ進めているわ。
もういくつ寝るとステイサム~って映画『ワーキングマン』が楽しみすぎるのも今まで忘れちゃってたから早速チケットを押さえたので観に行かなくちゃって!
もういくつ寝ると~でいうと
NIKKEのスノーホワイト:ヘビーアームズのSSR新ニケの登場のガチャがお正月から回せるってこと!
これが何より楽しみだわ!
とりあえず、
ラピ:レッドフードはもう部隊にいるので目指せスノーホワイト!なの。
高級募集チケットを集めて貯めて腕を今からブンブン回して温めているところよ!
でも、
もっと現実は厳しい目を背けてはならない事実がある認めざるを得ない山の如しタニコーの五徳、
おやすみの日数はもう半分過ぎちゃってる!って言う真実は一つしかないという事実!
うわ!
もう半分過ぎてるの?それに早くもっと気付くべきだったわ。
うかうかしていたら本当にあっという間にお正月休みも終わっちゃうので、
なーにー!やっちまったな!ってお餅ついている場合じゃないの!
1年の計画を建てなくちゃいけないのよ。
急に今!?
そういつやんの?
今でしょ!ってもうこの地球上で何億回と擦り続けられた林先生の今でしょ!を言う機会も今しかないのよ!
そのぐらい鬼気迫る感じ。
あのさ、
これってなんか地球を飛び出し金星に移住を目指す人類の果敢なチャレンジの歌みたいなのに
最近は年末の年越し年明け新年待ったなし!の秒読み文字通りカウントダウンの曲になってない?
やかましーわーい!
すっかり金星なのか木星なのかスケールが大きくなってしまっているところに、
今日はこの「ファイナル・カウントダウン」がいったい1つのFMのラジオ局で何回この曲が流れるかカウントしてみるといいわ!
もしちゃんとFMのラジオ局から流れているその曲を聴かなかったら耳を澄ませばか!って
ジブリ作品のタイトルに1文字加えて大喜利に出てきそうなほど耳を澄ませばか!ってメイのバカ!って勢いで言っちゃうわ!
私は目前の眼の前にあるHD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2をクリアしなくてはって思っているのよね。
そんな予定1年かけてやんなくてもいけない規模なのかしら?って。
昨年の今頃の私の来年の目標いわゆる今年の目標に掲げていたことはEPUB出版すっぞ!って意気込んでいて、
どうなったの?って思いだしたらちゃんと出版できていてそれが6月でしょ?
もう後半戦は消化試合にはまだ早すぎるには十分な残された期間はボーナスステージとして過ごすことにしたのよ。
そこの12月に目標達成の仕上げを持っていかなくてもいいと思っているわ。
今私読んで思い出したけど、
全編集と厳選集とで2冊出そうとしていたみたいで、
後者の厳選集ってのは到底量が多すぎて無理山無理夫さんも無理っていうレヴェルだわ。
そんなことも昨年は私言ってみたみたいね。
今でも思うと本当に出せたとは!って思っちゃうわ。
そう!それ忘れていたわ!忘れがちな私のいけないクセね!てへ。
今の状況をおさらいして言うと、
アクリルスタンド、アクリルキーホルダー、ダイカットシールのそれぞれ試作品は出来上がって私の手元にもう届いてあるので、
今後は!
細かいところを修正して仕上げてほんちゃんの王監督じゃない方のワンチャンもう少し手を加えたいところなの!
EPUBはChatGPTちゃんに作成制作丸投げして作ってもらったから楽チンだったものの、
あとのグッズの最終修正や確認などはこれ人間が私がやんなくちゃいけないので、
デザインの絵はChatGPTちゃんにはてなブログで使っているファビコンをGeminiちゃんに全身を描いて生成してもらったものを使っていてのデザインで、
そこまで出来たものをとりあえず印刷屋さんのテンプレートに流してみてサイズ感など色の色彩を確認しつつの試作品作成の工程だったのね。
試作品完成以降の次のターンの
私がまたサボりがちな体質なので、
サボらずにグッズ作りたい完成させたい気持ちは256倍により強まってきている気持ちはあるの!
だから言ってしまったらやんなくちゃいけない自らに追い込みをかけるかのようで、
来年はグッズ発売できますように!って目標を掲げてみたいと思うわ。
成せたらいいなって地味に進めているところよ。
どうなることかしら。
うふふ。
みかんの花咲く丘公園前駅の駅前商店街のわたしがもっぱらぱらよくお休みの日に行く喫茶店は今日の大晦日も好評営業中!
マスター大将の娘さんはこの時期は帰省していてそのお姉さんとも会えるからちょっと嬉しいのよね。
ふとその扉からお姉さんが出てきたので、
ああ!この奥はお店の人が暮らしている住居ゾーンなのね!?って
小さな扉からお姉さんが出てきたのを初めて見たときはビックリしたわ!
久しく和食の朝定食だったけど珍しく洋のモーニングにしてみたのよ。
これも大好物!
これが一番間違いなく温めて体が目覚めるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
どうぞ良いお年をお迎えください!
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マヨネーズについて語ることは、おそらく、静まり返った真夜中の台所で、自分自身でも忘れていた古い約束を思い出すことに似ている。
それは単なる調味料ではなく、世界の断片を一つに繋ぎ止めるための、ある種の中立的な意志なのだ。冷蔵庫の奥で冷やされたその白い容器を手に取るたび、僕はそこに潜む完璧なまでの静寂を感じないわけにはいかない。
結局のところ、僕らはみな、レタスの葉や冷めたゆで卵のような孤独を抱えて生きている。そこにマヨネーズが静かに差し伸べられるとき、バラバラだった世界の欠片は、ようやくあるべき場所へと落ち着くことができるのだ。
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この文章は、冬休みで暇な私が、Geminiに、エンヘドゥアンナ風にポン・デ・リングについての詩を作ってもらったりして遊んでいた際、Googleの検索窓に「村上春樹風にマヨネーズを語らせた」と入れただけで、出力されたものだ。あまりに出色の出来だったので、ここに書き残しておきたい。
昨今、AIに特定の作家の文体を模倣させる試みは「AIイタコ芸」などと呼ばれ、ネット上の定番の遊びとなっている(らしい)。特に村上春樹の文体は、その独特なリズムや比喩(ジャズ、孤独、静かなキッチン、中立的な意志など)から、AIとの親和性が極めて高い(らしい)。
かつて神田桂一・菊池良両氏による名著『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(2017年6月出版)において、人間による究極の文体模倣が提示されたが、今やAIは、プロンプト一つで「春樹が書くはずだったかもしれない文章」を、一期一会の出力として生成する。
■ なぜ「マヨネーズ」なのか?
Geminiが村上春樹とマヨネーズをセットに提案してきた背景には、村上春樹氏本人が、初期の代表的エッセイ集『村上朝日堂』において、自身を筋金入りのマヨネーズ好き(マヨラー)であると公言していることを学習していたから。”彼にとって「セロリやキャベツはマヨネーズを運ぶための搬送具」であり、その過剰なまでのこだわりはファンの間では周知の事実である。”とのこと。
で、AIは膨大な学習データの中から「村上春樹」と「マヨネーズ」という一見無関係な二つの点を、彼の「孤独」や「静寂」というキーワードを接着剤にして結びつけた、とのこと。
■ 結びに
高校時代、不登校だった私は、ただひたすらに村上春樹を読んでいた。あの頃の私が感じていた「世界の断片を繋ぎ止めるための、ある種の中立的な意志」への渇望を、まさか数十年後、AIが生成したマヨネーズについての文章中に再発見することになるとは思わなかった。
この文章は、AIによる単なる模倣かもしれない。しかし、その先に、誰かの過去を救うような響きが宿ることもある。それもまた、現代における一つの文学的な体験なのだろう。
今年も年間を通して続いた趣味と言える趣味が増田を開くことしかなかったので、僕なりに一年間を振り返ってみるよ。
例年のようにビール腹のおじさんが午前0時をお知らせし、願いを叶えてあげようというはてなの神からのご神託と共に新年が始まった。
あとは「〇〇くん係」をやっていたという増田が物議を醸したりしていたね。
・【祝・介護終了!】 社会人3~4年目で 「「〇〇くん係」を2年間
セメントとコンクリートとアスファルトの違いを解説してくれるすごい増田が現れて騒然となったね。こういう知識ある人の雄弁な文章を読みたくて増田に浸っているなあと感じるよ。
・素晴らしい疑問を本当にありがとう!!!セメント・コンクリート・アスフ..
増田をブクマしまくる即ブクマbotに疑心暗鬼になる増田もこのへんで見られるね。
そういえばニコ動に替え歌を投稿していたって人、いたね~。ページは消えているけどいい日記だったように記憶している。(追記:ごめんなさい。消えたのは古い方のリンクだったので修正しました。)
→ 【正】 ニコニコ動画に替え歌を投稿していた
・赤いきつねのアニメCM、「ポルノみたい」「セクハラCM」と女性がキレて炎上してるけど何が問題なのかわからない
仕事に追われながらも日々欠かさず増田を見て癒されていた。公園の木を見て泣きそうになった時は焦ったなあ。この頃は本当に余裕がなかった。
2025年3月31日、はてラボ人間性センターが消滅したんだよね。おめでたい?ことなのかな。
大阪万博が始まって、万博のことをくわしく書いてくれる増田がでてきてよかった。
・万博初日の批判感想noteを書いた人とほぼ同じルートを辿ったので感想
そういえば今年は増田のエイプリルフールがなかったのはちょっと残念だった。吉田にAnondAIにビッグ検索、ネタが尽きたのかもしれない。2026年はがんばってほしい。大企業のエイプリルフールネタよりも何百倍もたのしみにしているのだ。
・え、増田のエイプリル・フールって今年ないの…? ビッグ検索が実装された..
・今年は増田のエイプリルフールネタあった? anondAIみたいなやつ
監督のんほぉが明らかになって一時お祭り騒ぎになっていたのがほほえましかったよ。
・ガンダムジークアクスの件、おじさんがアイドルにはまってるの気持ち悪いって話だよ
また、増田に貼れるリンクは9個迄という制限をくぐりぬける方法をみつけたすごい増田がいて、僕も今回はありがたくそれを使わせてもらっているよ。
・『<a href="アドレス">文字</a>』で、アドレス部分の「https:」を削除して、..
この月はなんといってもすいすいすいようび増田のEPUBが出版された記念すべき月だった。10年間増田を書き続け、それをKindle出版するってほんとうにすごいことだなと心の底からリスペクトしている。
・ついに電子書籍発売の増田素真の意抜覇気セョシシンデ新井つ(回文)
個人的にはジークアクス感想増田が比較的多くみられて喜ばしかったよ。
はてなの株価が昨年比で2倍になったという喜ばしいニュースがあったね。現在となってはもう……。
それから増田に荒らしが現れて注目エントリが英語だけになるっていう騒動と、その対応のために注目エントリ閉鎖なんていうことがあったね。一時はどうなることかとヒヤヒヤしたけど無事に治ってよかったよかった。
・わあ…注目エントリが全部英語になっちゃった… 貴重な光景だ… 注目エン..
・注目エントリが閉鎖されてるってことは、夜中20時にはてな社員が休日に出社..
ブラタモリの放送内容に言及する増田がすごくかしこくて、すごい人がいるなあと思ったよ。
やっぱりというか当然と言うか、7月5日に大地震が起こらなかったね。
それと参議院選挙か。僕はあんまり政治は興味ないんだけど、結構盛り上がっていたね。
・【数学クイズ】お尻を16分割した場合の、お尻の穴の数を求めよ
この時期も仕事に追われてひいひいしていたけど心の拠り所として増田を見ていたよ。
switchのエラーコードについて書いていた増田みたいに、人の役に立つ増田になりたいものだ。
・任天堂Switchのエラーコード、2805-1002 について
毎年だれかはお祝いされている気がする。こういうほっこりした増田も好き。
敬語で会話する小学生をみた増田がうらやましかったです。こんなの尊すぎるよ。
まれいたそが結婚して横になっていた。けっこうショックがデカかったよ。弟の時はそうでもなかったのに。
あと、動画生成AIがさらなる進化を遂げてすごいすごいって盛り上がっていたけど、なんだかすごく前のことのように感じるね。AIは日々進化しているんだ。
はてなが上場廃止になるかもしれない、っていう不安を煽る増田がいたけど、実際のところどうなんだろうね…。
・(株)はてながこのままだと再来年くらいに上場廃止するかもしれない
このじきに引っ越し作業をしていた増田が無事引っ越しできてよかったなあと思ったけど、日記がきえていてしゅんとなったよ。
増田じゃあないんだけど、AI増田に言及する人がちょこちょこいたね。僕としては本当に、べつにAIの手を借りても全然いいと思うけど、やっぱり人間が手を動かして魂込めて(ってクサいかなちょっと)ほんとうのことをほんとうのままに書いた文章が読みたいんだよ。ChatGPTがGeminiが書いた文章を読むなら増田なんていらないんだよ。
・AIによる大量投稿による文章投稿サイトの環境破壊について(増田、カクヨム) - orangestar2
・増田がAIに侵食されるまで その備忘録 - ふふろぐのろぐ
ただでさえ仕事に追われてひいひいなのに、増田番付がなくなって年末のたのしみがひとつ失われて泣きっ面に蜂感あったよ。とてもかなしいけどかたちあるものはいつか崩れてしまうのが自然の理だし仕方ないね。
というわけで
振り返ってみると実にいろいろなことがあった一年だった。
相変わらず即ブクマ翌朝6時ブクマ解除botが跋扈していると思えば
はてラボはbotの対策も打てずに一体何の研究をしているんですかと憤ることもあるけれど
こんなネットの辺鄙な場末にある偏狭な人たちが集まる辺境みたいなサイトでも
ずうっと見ていると
愛着を感じることがあるんだなとあたらめて思った。
ありがとうみんな。
1. 企画・依頼
2. 編集
3. 校閲
4. ディレクション
5. 取次
8. 権利管理,法務( 海外での翻訳出版の契約や、アニメ化・映画化などの二次利用に関する窓口)
AmazonやDMMがやってくれるのは、流通と小売りに関する一部だけ
(出版社の企画じゃない)丸っと一冊書くような作家とか漫画家とかなら
1.4. は元々やってるし
6.すら個人で頑張れと言われる昨今
出版社に不満を持ってるのって 5.とか7.の部分じゃなくて 1~4と6を出版社じゃなくて自分でやらなくちゃいけなくなった人、
でも、印刷って色んな印刷会社が個人出版向けのプラン用意してて出版社通さなくてもOKになってるじゃん。
出版社を通さないと難しいのって 紙の本の(取次を通す)商業出版流通くらいで。
電子出版プラットフォームもAmazonやDMM以外にも、いっぱいあるし
紙の本だって
BoothみたいなECショップサービスを利用した出版流通でなく一般の商品の物流経路も増えてる
出版社に不満を持っていて出版社はいらないと言っている人は本当に、出版社がなくなっても困らないんじゃないか
8. はかなり売れないと困る場面に遭遇しないから意識する人が少ないんだと思う
これ単体でのサービス、プロスポーツとかだと日本でもだいぶ増えてるけれど、
いわゆるエージェントを雇うのが増えるとかじゃ