ピッチ上にはカズがいた。今年の2月26日に45歳になる選手とは思えないほど、精力的な動きを見せてフレンズの攻撃をリードする。あいさつ代わりのまたぎフェイントで観衆を酔わせた後は、ジャンピングボレーとオーバーヘッドシュートを放って、相手ゴールを脅かす。ゴールこそならなかったが、フィールドを駆け回って、たくさんのシュートを放って、ピッチ上を華やかにした。
ゴンもいた。彼も、まだ現役でプレーしている。アメリカW杯予選、フランスW杯と、日本が困難な状況になったとき、彼は、決まって、ピッチ上に現れて、日本を救うゴールを挙げてきた。決して技術のある選手ではなかったが、魂のこもったプレーでチームに活力を与えることのできる選手は稀であり、ジュビロ黄金時代のメインキャストとなった。カズとゴンを上回る存在感をもつ選手は、当分の間、生まれてこないだろう。それだけ、彼らは偉大な選手であり、特別な存在である。
ヒデもいた。2006年夏に、突如、現役を引退してから、もう5年以上が経過しているが、佇まいは全く変わっていなかった。松田直樹とは同じ学年で、二人は、常に、飛び級で代表チームに加わって、下から強烈な刺激を与えてきた。そして、世界への扉を開け続けてきた。今でも、ヒデがプレーしているところを観ると、「現役復帰してもいけるのでは?」という思ってしまう。ヒデは、いつまで、ヒデのままでいられるのだろうか・・・。
ゾノもいた。1996年のアトランタ五輪の最終予選の準決勝のサウジアラビア戦のパフォーマンスは、いつまでも色あせることはない。ふっくらした体型に変わって、キレのあるドリブルは、もはや失われてしまったが、ボールをもったときに何かしそうな雰囲気だけは、失われていなかった。アトランタ五輪のとき、最強と言われたブラジル代表を破った五輪代表チームは、ゾノがキャプテンであり、ゾノのチームだった。
オグもいた。レフティーモンスターと呼ばれたストライカーは、自らの怪我で世界大会に出場するチャンスを逃してしまった。1996年2月の合宿中の「あの怪我」がなければ、彼は、いったいどんなキャリアを歩むことになったのだろう。アトランタ五輪やフランスW杯や日韓W杯でネットを揺らすことはできたのだろうか・・・。その答えは、誰にも分からないが、ただ、彼のもう一つの未来を、いったいどのくらいの人が想像したことだろう。
城彰二もいた。もはや別人のような体型になってしまったが、ポストプレーの正確さと、ゴール前に入って行くときの躍動感は、城彰二のそれだった。フランスW杯でゴールを決めることができず、バッシングを浴びたが、それを糧にJリーグでゴールを決め続けて、夢のスペイン行きを実現させた。ゴールを決めた後の「バク宙」がトレードマークになっていたが、「久しぶりにバク宙を見たい!!!」を思った残酷なファンも多かっただろう。
石塚啓次もいた。「和製・フリット」と呼ばれた男は、山城高校時代から、何もかもが普通ではなかった。金髪で、アクセサリーを付けたままの状態で、国立競技場の決勝戦のピッチサイドに現れたときの衝撃は、これまでに感じたことのないものだった。プロでは大成できなかったが、規格外の男を、当時の日本サッカーは、受け止めることができなかったのだろう。ただ、もしかしたら、今でも、まだ、彼を受け止めるのは困難なのかもしれない。試合終了間際に放ったダイレクトボレーは、彼の有り余る才能を見せつけるスーパープレーだった。
川口能活もいた。彼も36歳となった。ジャックナイフのような危うさをもった守護神も、年齢を重ねるごとに、落ち着きを増していって、鬼気迫るような表情を見せることは稀になったが、あの頃の日本サッカーは、彼のようなエネルギーに満ち溢れたGKを必要としていたのだろう。アトランタ五輪では、川口能活、鈴木秀人、田中誠、松田直樹の4人が獅子奮迅の活躍を見せて、ベベト、ロナウド、リバウド、ロベルト・カルロスのブラジル代表を完封して歴史を塗り替えて見せた。
楢崎正剛もいた。彼は、ライバルの川口能活とは対照的に「静」のGKと言われる。安定したキャッチングが持ち味で、2002年の日韓W杯では正GKを任されて、決勝トーナメント進出に大きく貢献した。初めて日本代表に選ばれたのは、加茂監督時代の1996年で、あれから15年以上もトップGKの座をキープし、川口能活とともに、4大会連続でW杯メンバーに選ばれている。これは、改めて考えるとすごい話である。
モリシもいた。彼は、相変わらずの運動量でピッチ上を駆け回った。フィールド上に限定すると、休むことを知らない選手である。もう10年近く前の話になるが、2002年6月14日は、彼にとっても、日本サッカー界にとっても、メモリアルな一日となった。W杯という大舞台で、自分のスタジアムでゴールを決めるという芸当は、「もっている」というありきたりな表現では十分に表すことができない偉業であり、彼のキャリアのハイライトシーンでもある。
西澤明訓もいた。ボレーシュートのスペシャリストと呼ばれた彼は、日本代表史上、屈指のポストプレーヤーでもある。アキとモリシの凸凹コンビは、ついにクラブチームでは、タイトルを獲得することはできずに終わったが、トルシエ監督も、凸凹コンビを代表でも重宝し、2000年のハッサン2世カップでは、世界チャンピオンのフランス代表と互角に渡り合った。彼らのホームスタジアムである長居スタジアムには、いつも、右サイドに「20番」、左サイドに「8番」の大きなフラッグが掲げられている。
アツもいた。フリーキックのシーンで、アツがボールをセットして、モーションに入ったとき、誰もが、ブレ球のシュートでネットを揺らすことを期待した。ボールが改良されたこともあって、今では、多くの選手がブレ球のシュートを蹴ることができるようになったが、当時、ブレ球でゴールを狙うことができたのは、ほんのわずかであり、まさしくスペシャリストだった。
名波浩もいた。左足に誰よりもこだわりを持つ男は、この試合でも左足と頭脳でゲームをコントロールした。スピードが衰えても、パワーが衰えても、運動量が衰えても、習得した技術だけは衰え知らずである。強さを武器に世界と戦ったヒデは日本人離れしたゲームメーカーだったが、対照的に、名波浩は、柔らかくて、受け手に優しいパスを送り続ける実に日本人らしいゲームメーカーだった。稀代のゲームメーカーの二人が、日本に初のW杯出場権をもたらしたことは言うまでもない。彼の左足から繰り出されるクロスは、なぜ、あんなにも美しいのだろう・・・。
山口素弘もいた。この試合でも、背筋をピンと伸ばした姿勢から、ショートパスを丹念に前線に送り続けて、攻撃陣を操った。ゴール前に上がっていって、シュートチャンスを迎えたとき、ディフェンダーをかわして、あの芸術的なシュートシーンが目の前のピッチで再現されることを期待した人は多かっただろう。名古屋グランパスやアルビレックス新潟でも中心選手としてプレーしたが、彼の所属クラブは「横浜フリューゲルス」とするのが、適当だろうと思う。
宮本恒靖もいた。2011年限りで現役を引退したクレバーなディフェンダーは、常に、サイズ不足と戦ってきた。しかも、スピードも、強さもなかったので、批判の的になることも多かったが、ディフェンスラインをコントロールする力は一級品で、松田直樹、宮本恒靖、中田浩二の3バックが、2002年に歴史を作って、日本中に歓喜をもたらした。キャプテンの森岡隆三が負傷して、大会に出場することができなくなったとき、彼の背中には、大きなプレッシャーがかかったと想像できるが、バットマンは重圧を跳ね除けて、2つの歴史的な勝利をもたらした。
ドゥトラもいた。左サイドを駆け上がる姿は、あの頃と全く変わらないものだった。日本を離れたのは2006年で、38歳となったが、いまだに、ブラジルで現役選手としてプレーし続けているという。Jリーグ史上屈指の左サイドバックは、今でも、「Jリーグ屈指の左サイドバック」の看板を掲げて、2012年のピッチに立つことができるだけの実力を維持している。スピード溢れるオーバーラップは、色あせていなかった。
井原正巳もいた。アジア屈指のリベロと呼ばれた男は、常に、松田直樹の壁となって立ちはだかった。相変わらずのスマートな体型で、クレバーにボールを奪ってカウンターにつなげて見せるプレーは、井原正巳にしかできないものだった。井原正巳、小村徳男、松田直樹・・・。彼らが組んだ3バックは、強さ、高さ、激しさを兼ね備えた「最強の3バック」と言えた。
安永聡太郎もいた。この試合の発起人となった彼は、松田直樹と同じ年にマリノスに入団して、両名とも、スーパールーキーとして騒がれた。プロの世界では、大きな期待に応えるだけの活躍はできなかったが、スペインでもプレーした経験を持つハートのあるストライカーだった。この試合で生まれた唯一のゴールシーンとなった鮮やかなループシュートは、誰かが乗り移ったとしか思えないほど、彼らしくない綺麗なゴールとなった。
そして、ベンチにはフィリップ・トルシエが座っていた。彼は、「マツダは私の現役時代とよく似ている。」と話していたが、トルシエ選手に、あれだけの身体能力とあれだけの技術があったとは思えない。ただ、負けず嫌いなところや、戦う姿勢や、有り余る闘争心などは、よく似ていたのだろう。おそらく、日本代表監督の時代、もっとも衝突した選手で、もっとも扱いに困った選手で、もっとも期待した選手が、松田直樹という選手だったのだろう。
この日の日産スタジアムは、いつになく、ピッチ上も、ベンチサイドも華やかだった。そこには、Jリーグが誕生してから、歴史を作って来た多くのプレーヤーが集結し、ノスタルジーを生み出していた。ただ、そこにいるべき男の姿を、ついに、日産スタジアムで見つけることはできなかった。
ベンチにはトルシエ監督と山本昌邦コーチが座っていて、ヒデがいて、ツネ様がいて、隆三がいて、中田浩二がいて、イナがいて、ヤナギがいて、モリシがいて、鈴木隆行がいて、ナラがいて、能活がいて、ゴンがいて、時代を切り開いていった役者たちが勢ぞろいしたとき、当然のように、輪の中の中心にいるべきはずの愛すべきプレーヤーは、そこにいなかった。それが現実である。だた、半年近くが経過した今でも、十分には受け止められずにいる。そして、おそらく、これからもずっとそうだろう・・・。
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