「2007年」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 2007年とは

2025-03-05

WAONポイント」と「WAON POINT」って紛らわしい名前なの、実は計算ずく

イオンポイントシステムって、「WAONポイント」と「WAON POINT」っていう2つあって、発音同じなのに使い方が違ってマジで混乱するよな。レジで「ポイント使えますか?」って聞いたら「どっちのポイント?」って聞き返されて、頭パニックになったことある奴、俺以外にも絶対いるだろ。でさ、これって実はイオンがわざとやってるって知ってた?

そもそもWAONポイント」は、電子マネーWAONを広めるための切り札だったわけ。2007年くらいにイオンが「キャッシュレス社会を俺らが作る!」って意気込んでスタートしたやつ。WAONで払えばポイント貯まって、それをまたチャージして使うっていう仕組みで、客を電子マネーの沼に引き込む作戦だった。でも、現金しか信じないおじいちゃんおばあちゃんとか、そもそもWAONカード持ってない層には全然さらなくて、思ったほど広がらなかったんだよ。

で、後から出てきたのが「WAON POINT」。こっちは2016年あたりに始まったやつで、イオン系列の買い物をガチで強化する目的で作られた。現金でもクレカでも電子マネーでも、何でもいいかイオンで金使えばポイントやるよ、しかもそのまま支払いに使えるよ、っていう神仕様WAON使わない層にも「イオンでお得!」って思わせて囲い込む作戦だ。でもさ、ここで疑問だよな。なんでわざわざ似たような名前で2つ並べてるわけ?

実はこれ、イオン心理学的な罠なんだよ。人間って、似てるけど微妙に違うものが出てくると、「何が違うんだ?」って脳が勝手に動き出して、印象に残りやすくなるらしい。イオンは「WAONポイント」と「WAON POINT」っていう紛らわしい名前をぶつけてきて、客に「え、どっちだっけ?」って考えさせてる間に、WAONってブランドを頭に刻み込んでるわけ。で、混乱してる俺らが「まぁイオンで使えばいいか」って買い物しちゃうからイオンの売り上げが上がる仕組み。マーケティング天才かよ。

さらに裏話っぽいけどさ、実はこの2つのポイント共存してるのって、イオン内部の派閥争いの結果なんだよ。電子マネー推したいデジタル派と、店舗の売り上げさえ上がればいいってリアル店舗派がガチ対立してて、「WAONポイントは俺たちの聖域だ!」とか「いや、WAON POINTの方が客にウケる!」ってバトルしたらしい。で、どっちも譲らないから、妥協案として名前似せて両方残したってわけ。内部事情が透けて見える瞬間だよな。

からさ、次にレジで「ポイントどっち?」って聞かれたら、イオンの策略にハマってる自分ちょっと笑っちゃうよ。俺ら、完全に手のひらで踊らされてるじゃん。

2025-02-26

Mac OS 9 終焉への道のり

Mac OS 9からOS Xへの移行は、多くのユーザーにとって緩やかで、様々な要因が絡み合った複雑なプロセスでした。

「こだわり続けた人が多かった」という記憶はまさにその通りで、OS Xが登場してもすぐにOS 9が消え去ったわけではありません。タイムラグは数年単位存在しました。

具体的なタイムラインと、その理由を以下に示します。

OS X登場からOS 9併用時代 (2001年2003年頃)

- 動作の重さ: OS 9に比べて動作が重く、特に初期のMacではパフォーマンスに不満を感じるユーザーがいました。

- アプリケーション互換性: OS Xネイティブアプリケーションがまだ少なく、多くのユーザーが使い慣れたOS 9用アプリケーションを利用する必要がありました。

- 周辺機器対応: プリンタスキャナなど、周辺機器OS Xドライバがまだ十分ではなかったり、不安定だったりしました。

- インターフェースの変化: Aquaインターフェースは斬新でしたが、OS 9に慣れ親しんだユーザーにとっては操作方法の変化に戸惑う部分もありました。

OS X普及期 (2003年2005年頃)

- 特定OS 9専用ソフトウェア: 業務特定OS 9専用ソフトウェアをどうしても使い続けなければならない場合

- 古いMac活用: 古いMacOS X動作させるのが難しい場合や、OS 9の方が快適に動作する場合

- 過去資産活用: OS 9環境作成したデータや、OS 9用周辺機器を使い続けたい場合

OS 9終焉期 (2005年~)
まとめ

anond:20250223004109

シマプロデューサーは元気にヨーテイにも引き続き関わってて数日前にもインタビュー出てるのに消えたとは一体

生半可なネトウヨはアサクリ叩きのためにツシマを持ち上げていたが、極まってる人は「なんか西洋人ムカつく」のままにツシマも雑なぐり対象になってんだな

2007年発売のゲームのメインスタッフが18年後には他所会社に移ってるなんてのも別に流動の激しいゲーム業界じゃ普通すぎる

2006年発売の和ゲーSIRENのメインスタッフは全員ソニーから離れてるけどそれ「消された」(笑)のせいなの??

そもそもUBIはアメリカじゃないし

2025-02-24

歴史捏造しないように

かに十年前は、はてブ論壇は日本ネットで一番賢い野良たちが井戸端会議してた。

anond:20250224021839

 

10年間のブックマークランキングトップ100(はてブサービス開始2005〜2015)

https://hatenanews.com/articles/201507/23596 ↓ちな中身

1位 Yahoo! JAPAN   16423 usersがブックマーク

2位 Twitter

3位 niconico(ニコニコ)   8470 usersがブックマーク

4位 急がばまわれ式・堅実で一番効率的英語勉強法 8899 usersがブックマーク

5位 20歳を過ぎてから英語を学ぼうと決めた人たちへ | The Wisdom of Crowds - JP   7739 usersがブックマーク

6位 はてなブックマーク

7位 僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった - しのごの録

8位 東大で学んだ卒論の書き方★論文の書き方

9位 ゆきらん: 【全部を読む時間がない人用】知らない人は損しているなあと思うこと要約編

10レシピ検索No.1料理レシピ載せるなら クックパッド

 

 

ちなみに増田サービス開始した翌年(2007年)のはてブホットエントリ

https://b.hatena.ne.jp/hotentry/all/20070224

 

2010年ホットエントリ

https://b.hatena.ne.jp/hotentry/all/20100224

 

2015年ホットエントリ

https://b.hatena.ne.jp/hotentry/all/20150224

 

2017年ホットエントリ

https://b.hatena.ne.jp/hotentry/all/20170224

 

2023年ホットエントリ

https://b.hatena.ne.jp/hotentry/all/20230224

 

2024年ホットエントリ

https://b.hatena.ne.jp/hotentry/all/20240224

2025-02-21

この先スマホってなくならいよな

2007年iPhoneが発売されてから18年経つ。子供の頃「うちら大人になったらFFってFF15とかになるのかな〜」とゲラゲラ笑っていたが、先日iPhone16eが発表された。

ガラケーを持っていた時間より、スマホを持っている時間の方が圧倒的に長くなってしまった。

これからさき、スマホに取って代わるデバイスが出てくるとは考えられない。

ARグラスがスマホ以上に浸透するか?

停滞している気がする。

2025-02-19

anond:20250219202253

2007年増田を見てみたけど、今の増田あんまり変わらなかった

ここまで変わらないのは逆にすごいな

anond:20250219201312

再放送

ブクマカが大幅にはてなの想定と外れてるだけで、はてなblog民と増田民あんま変わらん

 

あと歴史捏造創造は良くないので書いておくと、エロゲネタとか技術ネタ投稿されていた頃の増田にも、

非モテに謎アイディンティを持ってるヤツ・あからさまにそういう層をターゲットにした『あっそう』みたいな投稿

それに対する田舎仲人サービスオッサンバサンのお寒いコメトラバはあったし、

婚活ガーもあったよ

 

ただここまで劣化したのは10年くらい時間をかけて徐々にじゃないかな?

5chまとめみたいなユーザー層をゆるしたせいじゃないかな?

からTogetterみてーな民度サービスなのに5chまとめも加えればそらこういう民度になるわな

 

いくらでも過去増田見れるのでご覧になって

2006年   0年目 https://anond.hatelabo.jp/20061110
2007年  1年目 https://anond.hatelabo.jp/20071110
2008年  2年目 https://anond.hatelabo.jp/20081110
2009年  3年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20091110
2010年  4年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20101110
2011年  5年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20111110
2012年  6年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20121110
2013年  7年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20131110
2014年  8年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20141110
2015年  9年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20151110
2016年  10年目https://anond.hatelabo.jp/20161110
   L 政治的に正しいエロ漫画(anond:20161110205247)
2017年  11年目https://anond.hatelabo.jp/20171110
   L このあたりから徐々に現在増田
2018年  12年目https://anond.hatelabo.jp/20181110
   L 現在光景
2019年  13年目 ttps://anond.hatelabo.jp/20191110

https://anond.hatelabo.jp/20200219

             ↑ ここに好きな日付を入れると好きな日の増田が見れるやで  

2025-02-14

AI生成記事

九州大学病院オブジェクト指向システム導入の記録

序章:革新的システムへの期待

1990年代半ば、九州大学病院(九大病院)は病院情報システムの全面刷新計画していた。従来の断片化したシステム統合し、最先端オブジェクト指向技術を全面採用した次世代システムに生まれ変わらせるという大胆な構想である

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。入札条件にも「純粋オブジェクト指向技術で実現すること」を掲げ、業界内でも前例の少ない大規模プロジェクトに挑むことになった​

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。この計画応札した日本IBMは、開発言語にSmalltalk採用し、社内外からオブジェクト指向開発の専門家を総動員する。日本IBM自身のチームに加え、Smalltalk豊富経験を持つ多数のシステムインテグレータ各社が協力企業として参画し、一時期は約200名もの技術者が開発に従事する巨大プロジェクトとなった​

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医療現場からは「21世紀を先取りするシステムになる」という期待の声が上がり、IBM側も「国内最高峰病院に最新技術を投入できる」と意気込んでいた。誰もが、この試みに大きな希望を抱いていたのである

1996年プロジェクト始動曖昧要件定義

プロジェクト1996年、本格的に動き始めた。九大病院情報システム担当者たちは、院内各部からシステムへの要望ヒアリングし、「新システムへの要望リスト」を作成して日本IBM提示した。しかし、その内容は具体性に欠けていたと言われる。「実現したい業務全体像がはっきりしていなかった」のだ。病院側は約1,400床を擁するマンモス病院ゆえ、部門ごとの意見をまとめ上げ全体方針を打ち出すことが難しく、提出された要件定義書は「中身はほとんどなかった」と関係者は振り返る。一方の日本IBMも、その不十分な要件定義を十分詰め直すことなく開発を進めようとし、この問題放置してしまった。プロジェクト序盤から、実は大きな不安の種が芽生えていたのである

それでも当初の計画は極めて野心的だった。フェーズごとに順次システムを稼働させる計画で、第1次カットオーバー最初の稼働開始)は1997年1月と定められていた​

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。限られた時間の中、日本IBMと協力各社の開発チームはオブジェクト指向の新手法に挑みつつ、多数のサブシステムを並行開発するという難事業に取り組み始めた。しか要件曖昧さは各所で影響を及ぼす。開発メンバーの一人は後に「実際にはオブジェクト指向入り口にさえたどり着けなかった」と語っており、肝心の新技術を活かす以前に基本事項の詰め直しに追われる状況だったという。

1997年初頭:見えてきた遅れとすれ違う思惑

年が明けて1997年になると、第1次稼働予定の目前になっても開発は難航していた。結局、日本IBM1996年10月末になって九大病院側に「当初予定の1997年1月にはシステム稼働が間に合わない」と突然伝えることになる。これは病院側にとって青天の霹靂であった。代替策として「一部機能範囲を絞れば1月稼働も可能」といった提案すら無く、一方的に延期が告げられたことに、病院担当者たちは強い不信感を抱いたという。プロジェクトマネージャー同士の密なコミュニケーションも欠如しており、延期決定前から両者の意思疎通は十分でなかったようだ。これが最初の綻びとなった。第1次稼働時期は当初計画より9カ月遅れ1997年10月へと大幅に後退する​

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この延期表明を境に、現場は混乱に陥る。病院側は日本IBMだけに任せておけないとの思いから、一部の協力会社と直接組んで独自プロトタイプ開発に乗り出すなど、プロジェクト体制は分裂気味になった。一方、日本IBM側の士気も下がり始める。ある協力会社メンバーは「これほど求心力のないプロジェクトも珍しい」と当時を振り返り、リーダーシップ不足だったIBM姿勢に驚いている。複数の外部企業(延べ10社以上)が関与する巨大プロジェクトでありながら、日本IBM1997年10月頃まで一貫して主導権を握れずにいた、と多くの関係者が指摘する。誰がハンドルを取っているのかわからないまま巨艦だけが突き進む――そんな不安定な状況であった。

事態を重く見た九大病院日本IBMは、1997年2月から6月にかけて要件定義のやり直しに着手する。一度作成した要件定義書を更地に戻し、業務フローも含めてゼロから整理し直す作業だ。しかしこのリカバリーにも時間を要し、プロジェクトの遅延はさらに広がっていった。「ようやく問題点に光を当て始めたかに見えたが、時すでに遅し。気づけば頭上に厚い雲が垂れ込めていた」と語る関係者もいる​

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プロジェクトは先の見えないトンネルに入り込み、関係者の心にも次第に不安が募っていった。

1997年春:一筋の光明オブジェクト指向データベースの導入

混迷を極めるプロジェクトに光が差し込んだのは、1997年春のことである要件定義の立て直しと並行して、日本IBMシステム技術基盤を強化すべく重大な決断を下した。従来のリレーショナルDBではなく、米国GemStone Systems社のオブジェクト指向データベース(ODB)「GemStone」を採用する方針を固めたのだ​

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。GemStoneはSmalltalkとの相性が良いことで知られ、オブジェクト指向開発との親和性が高い製品である

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。この採用決定に伴い、GemStone社から複数名のコンサルタント来日プロジェクトに参加。停滞していた開発体制の再整備が行われた​

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経験豊富専門家の助言により設計も見直され、チームはようやく開発の目処を掴み始めたのである

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病院側もこの動きを歓迎した。長引く遅延に業を煮やしていたものの、最新のODB導入で性能や拡張性の課題解決されるならばと期待を寄せた。協力各社の技術者たちも「ようやくトンネルの先に光が見えた」と胸をなでおろした​

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現場には久々に前向きな空気が漂う。遅れを取り戻すべく、再結集した開発チームはスパートをかけた。システム全体のアーキテクチャをGemStone前提に再設計し、失われた時間を埋めるため懸命な努力が続けられる。巨大プロジェクトは今、再び軌道に乗ろうとしていたかに見えた。

1997年夏:GemStone契約交渉の決裂、暗雲の再来

しかし、その光は長くは続かなかった。1997年7月初旬、プロジェクトに再び試練が訪れる。日本IBMとGemStone社との契約交渉が突如決裂し、参画していたGemStone社コンサルタント陣が全員帰国してしまったのだ。肝心のGemStone製品も利用不能となり、頼みの綱を断たれた開発チームは一瞬にして暗闇に放り込まれた。まさに「悪夢のような出来事」であった。

7月20日になって、日本IBMはようやく協力各社を集め緊急説明会を開いた。日本IBM側の説明によれば、「GemStoneとの交渉決裂は企業日本IBM)の根幹に関わる問題による」という。詳しい理由として、契約書の条項に**「システムユーザー等が何らかの理由でGemStone社を訴えた場合、メイン・コントラクタである日本IBMが全ての法的対応を負わねばならない」といった内容が盛り込まれており、日本IBMはこの重い責任リスクを受け入れられなかったのだという。さらに料金面でも折り合わず、3カ月間におよぶコンサルタント8名の派遣ソフトライセンス料などに数億円近い費用**を要求されたことも判明した。法的リスクコスト高騰――企業として譲れぬ一線を越える契約条件に、日本IBMは最終的に「ノー」を突きつけた形だ。だが、それは即ちプロジェクト生命線を断つことを意味していた。

この報に接した開発現場は騒然となった。GemStoneを中核に据えて進めてきたアーキテクチャ設計を一から練り直す必要が生じたためである。ある協力会社関係者は「この時点でプロジェクトの失敗を覚悟した」とまで語っている。大黒柱を失ったチームには動揺と失望が広がった。折しも夏本番を迎え、福岡の空は照りつける日差しに覆われていたが、プロジェクトには再び厚い雲が垂れ込め始めた。

1997年8~9月代替案への賭けと懸命の設計変更

GemStone脱落という非常事態に対し、日本IBMと九大病院必死リカバリーを図る。1997年8月上旬、急遽代替のODB製品としてフランスA.D.B社の「Matisse」を採用する決断が下された。Matisseは国内では知名度の低いODBだが、日本でも過去Smalltalkアプリケーションデータベース採用された実績があり、「何とか使えるめどは立つ」と判断されたのである

しか代替とはいえGemStoneとMatisseでは機能に大きな違いがあった。GemStoneで可能だったサーバ側でのSmalltalk処理実行がMatisseではできず、セキュリティ機能も貧弱だったため、開発チームは不足分を自前で作り込む必要に迫られた。この結果、システム全体の設計クライアント中心処理へ大幅に変更せざるを得なくなり、再び設計の手戻り作業が発生した。炎天下での再出発であるエンジニアたちは寝食を忘れ、懸命にコードを書き直した。

その甲斐あってか、1997年9月末の時点で第1次開発の主要部分を年内に実現できる見通しが立ったという。一度は暗転したプロジェクトにも、わずかながら光明が見えた。病院側も「何としても年内稼働を」という思いで支援を続ける。だが、このとき水面下では別の動きが進んでいたことを、現場の多くは知らなかった。

1997年10月:小さな後退、大きな決断

1997年10月9日、事態は最終局面を迎えた。この日開かれた会議で、日本IBMSmalltalkによる開発断念と、マイクロソフト社のVisual BasicVB)への全面的方針転換を突如宣言したのである晴天の霹靂とも言えるこの決断に、現場は凍りついた。幾多の苦難を乗り越えようやく目指してきた最先端技術での構築を諦め、当時広く普及していたVBという「オブジェクト指向ではない」開発ツールで作り直すというのだ。九大病院が当初求めた**「純粋オブジェクト指向」**という条件にVB合致するかは議論の分かれるところだが​

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病院ももはや背に腹は代えられない。最優先すべきはシステム稼働そのもの――この苦渋の転換を受け入れる以外になかった。

実はこの決断に至る伏線存在した。日本IBM1997年4月からかにVB採用可能性を九大病院に打診しており、さら8月からは段階的にSmalltalk担当エンジニア現場から引き上げ始めていたという。ある協力会社メンバーは「裏ではVBによる開発をすでに進めていたようだ」と振り返っている。つまりGemStone交渉決裂後、表向きはMatisseによる巻き返しを図る一方で、日本IBM本体は別動隊でVBシステムの構築に乗り出していた可能性が高い。振り返れば、日本IBMにはSmalltalk固執しない理由もあった。同社は翌98年2月長野冬季オリンピック向けシステムSmalltalkで構築しようとして失敗し、結局VBで作り直したという“前歴”もあったと伝えられる。アトランタ五輪1996年)では自社Smalltalkツール(VisualAge)を投入したものの、国内の大型案件では苦戦が続いた経緯があった*4。豊富人材がいるVBなら「最後人海戦術で何とかできる」という計算も働いたようだ。GemStoneとの契約不成立も、IBMにとっては結果的Smalltalkを断念する良い口実になったのではないか――協力会社メンバーの一人はそんな憶測さえ口にする。

方針転換の発表とほぼ同時に、Smalltalkで開発を担っていた協力会社の大部分はプロジェクトから撤退することになった​

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10月中旬には、多くの外部技術者が病院を後にしている。自ら招いた転換とはいえ日本IBMにとっても苦渋の決断であった。投入したリソース費用は莫大で、一からVBで開発し直すのは会社としても大きな後退だ。しかし背に腹は代えられない状況まで追い詰められていたことも事実であろう。IBM現場責任者は病院側に深々と頭を下げ、「必ずや残された方法で間に合わせます」と約束したという。九大病院担当者も沈痛な面持ちで頷き、「形はどうあれ、患者さんに影響を及ぼす前にシステムを動かしてほしい」と絞り出すように告げた。

以降、日本IBMは自社内のVB技術者や、自社が持つ病院向けオーダリングシステムパッケージ製品*5などを総動員してシステム構築を続行した​

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データベースも、当初IBM提案していながら見送っていた自社のリレーショナルDBDB2」を採用する公算が高まった​

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目標は「年度内(1998年3月まで)の第1次稼働」​

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。もはやオブジェクト指向の夢を追う余裕はない。現実的かつ確実に動く仕組みを、一刻も早く届ける――プロジェクトはその一点に向け再編成された。かつて200名近くいた開発陣は大幅に縮小され、構成メンバーも一変する。病院看護師スケジュール管理など一部のサブシステムは、撤退しなかった協力会社が細々とSmalltalk開発を続けていたが、その姿はもはや主流から外れた存在となっていった​

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。ある古参の協力技術者は去り際に「全力を出して戦う前に、白旗を上げてしまったという感じがする」と寂しげに語ったという。こうして九大病院プロジェクトの第1フェーズ――オブジェクト指向技術による野心的挑戦のフェーズは幕を下ろしたのであった。

1997年末:現場への波紋と社会的注目

VBへの方針転換後、九大病院現場には複雑な空気が流れていた。病院スタッフにとってシステム刷新は長らく待ち望んだ悲願だったが、その中身は当初聞いていた「最新技術結晶から一転して、従来型の技術で作られるものになってしまった。「結局、夢物語に終わったのか」という落胆の声も一部にはあった。しかし同時に、「多少古くてもいい、とにかく業務改善する仕組みを早く動かしてほしい」という切実な声も強まっていた。目指すゴールは変われど、一日でも早く新システムを稼働させ、慢性的業務負荷を軽減することが現場の切実な願いとなったのだ。プロジェクトチームは日夜作業を続け、簡易な操作研修なども始めながら、年明けまでの稼働に向け突き進んだ。

そんな中、1997年11月3日付の西日本新聞朝刊一面にこのプロジェクトに関する記事掲載される。タイトルは「九大病院システム未完 巨額費用批判」。内容は「九大病院システム未完成にもかかわらず日本IBMに月額4,250万円を支払い続けており、税金無駄遣いとの指摘が出ている」という衝撃的なものだった。同日、このニュース地元RKB毎日放送東京ではTBS)のテレビニュースでも報じられ、九大病院プロジェクト社会問題として一気に世間の注目を浴びることとなった。院内では「患者そっちのけで何をしているのか」といった批判も耳に入るようになり、大学本部所管官庁からの問い合わせも相次いだ。追い打ちをかけるように外部から視線が厳しくなる中、病院IBMはただひたすら開発を前に進めるしかなかった。

結末:プロジェクトの結末と残された教訓

1998年初頭、紆余曲折を経た九大病院の新システムは、当初の構想とは似ても似つかない形でようやく一部稼働に漕ぎつけた。日本IBMは多数のVBプログラマを投入して力技でシステムを完成させ、旧来システムの置き換えを順次進めていった。最終的に納入されたのはSmalltalkでもオブジェクト指向DBでもなく、Visual BasicリレーショナルDBによるシステムだった。かくして九大病院の「純粋オブジェクト指向システム」への挑戦は事実上の敗北に終わった。現場医師職員は、当初期待された華々しい先端技術恩恵を受けることはなかったが、ひとまず業務に支障のない情報システムが手に入ったことで安堵するより他なかった。プロジェクトは当初の理念を捨てて現実路線へ舵を切ることで、なんとか沈没だけは免れたと言えるだろう。

振り返れば、この失敗の背景には最新技術への挑戦ゆえの困難もあったが、それ以上に古典的とも言えるプロジェクト運営上のPermalink | 記事への反応(0) | 21:29

エンジニアだけど生まれ時代ミスった

俺は生まれ時代を完全にミスった

もし90年代後半や2000年代前半にエンジニアとして活躍できていたら、夢があった

インターネットが爆発的に普及し、新しいサービスが次々に生まれ時代

ちょっとしたアイデアを形にするだけで、世の中に大きなインパクトを与えられた

2007年iPhoneが登場してスマートフォン革命が起きた頃、エンジニア世界を変える存在だった

さなチームでもアプリを作れば一攫千金のチャンスがあり、成功すれば名を馳せることができた

逆に、もうちょっと遅く生まれていれば、AI活用する側に回れた

技術はより洗練され、単純なコーディングなんてAIに任せて、より戦略的クリエイティブ仕事に集中できる

エンジニアとしての価値は「コードを書けること」ではなく、AIを使いこなすことにシフトしていたはずだ

でも俺は違う

一番どうしようもない時代に生まれしまった

技術中途半端に発展し、エンジニア仕事は増え続けるように見えて、実際はAIにどんどん奪われている

最近Cursorを使ってみて、自分レベルエンジニアはもう必要なくなることを確信した

AIは単純なコード補完にとどまらず、設計最適化までこなす

俺が時間をかけて考えることを、一瞬で処理してしま

コードを書いているのは俺のはずなのに、実際はAIに指示を出しているだけのような感覚になる

このままいけば、俺のキャリアなんてあと数年も持たない

エンジニアという職業は消え、スーパーエリートか、AIに振り回される下請けかの二択に分かれる

俺はどちらにもなれず、中途半端立場で取り残される

もう何を頑張ればいいのかわからない

AI進化抗うこともできず、新しい道を探すこともできず、ただ無力感けが積み重なっていく

もし90年代後半に生まれていたら、IT黎明期の成長を享受できたかもしれない

もし2000年代まれだったら、最初からAIを前提にしたキャリアを築けた

でも俺は最悪のタイミングで生まれしまった

この先どうすればいい

そんなこと誰にもわからない

俺のキャリアは終わるのか

それとも新しい時代適応できるのか

ただひとつ確かなのは

俺は完全に詰んでいるってことだ

2025-02-09

ニコニコ動画替え歌投稿していた

文字数オーバーで後半途切れたので再投稿。読んでくれた人ごめん)

話をしよう。だいぶ昔のことだ。すでに動画投稿引退している。

当時を懐かしむために作った文章である。気に入ったら読み進めてほしい。

ニコ動投稿者としての初期は、若手社会人だった。大学卒業して数年経った頃かな。コンビニゲーム雑誌をめくると、『ニコニコ動画』がサービス開始してます~これから人気が出るかも!?という宣伝記事を見つけた。

サービス名称が気になったのと、コメント流れる機能が目に付いた。動画をひとまず10本くらい見てみた。ようつべと同じような感じで、そこにコメントが流れている仕様だった。カオスよりはシュール寄りだった。

今でいう生放送チャンネルはないし、アニメ1話単位投稿は(アップロード容量の関係で)されないし、画質はイマイチだし、お洒落MADもない。ランキングは50位までで、再生数やマイリス準拠だった。歌ってみたボカロ流行り始めるのは、2007年半ば以降である

ゲームプレイの切り抜きとか、面白画像のまとめとか、空耳とか、エロゲーOPのみとか、動画だったら10分くらいで料理作るのとか、販売映像作品切り貼りとか、そんなのばかりだった。(フタエノキワミ、アッー!)

※昨年末頃、新るろ剣左之助が二重の極みを会得する回があった

たまにR18の画像をまとめたものや、小学生が好きそうな下ネタ動画が流れてきた(1~2日以内に運営削除)。

でも、感じるものがあったんだろうな。だんだん見ていくうち、ゲーム実況とか、アニメ転載(2~3日で削除)とか、いろんなアニメゲームキャラが一同に会するシリーズとか、ニコニコ動画組曲とか、コンテンツが増えていって、ドハマりした。

会員登録して約半年が経って、ニコ動プレミアム会員になったあたりで自分動画投稿してみようと思った。

「一体どうすればいいんだ……?」と躊躇したものの、社会人経験が活きたのだろうか。結局、最初動画を撮り終えてアップロードしてみた。一応は料理ネタ動画だったと思う。

うん、まあ……という感じだった。再生数はそんなに伸びなかった。でも、初心者としてはイイ線いってた。それから動画投稿を続けたけど、やはり数千、運がよくて1万以上~しかし攻めすぎて運営削除という末路だった。



ある時だった。「自分が本当に好きなモノじゃないと高再生数は厳しいのでは?」と思うようになった。

当時はすでに2007年後半だった。ランキング上位に入ってる人の投稿動画って、転載切り抜きとかを除けば、プロレベルか、それに準ずるクオリティだった。

まりイラストが抜群とか、楽曲作りが優れてるとか、ゲーム実況が天才的とか、遊戯王MADみたいに面白センスが光ってるとか、そういうのだ。

でも、そういうのって、自分が好きだからこそできる。好きだからこそ、動作投稿サイトのランキング上位者って、その道にのめり込んで、ここまできたわけだろう。

俺にとっての『それ』は何だろうか。考えていったところ……『エロ』という凡庸結論にたどり着いた。

小学生の頃は河川敷やそこらへんの雑種地、空き地エロ本が捨ててあった。そういうモノですら気になっていた。今は、そういうのはない。白ポスト駅前にできたり、電子空間エロを鑑賞する時代である

中学生の頃は、同級生女子が油断してイロイロ見えてるところや、都市部での夜の学習塾の帰りに、大人がそういうことをしてるのを目撃したりした。

部活遠征先で、対戦校の女子マネージャー数名が太腿~尻肉を見せつけるかのように壁にしゃがみ座りしてたのを見た時は、対戦相手への嫉妬殺意が湧いたよ。学校でも家庭でも趣味の場でも、俺にとってはすべてがエロだった。

高校生の時は、同級生がそういうことに大変興味をもっていて……同級生の家に集まって、今でいうセクシー動画をみんなで鑑賞したっけ。感想を述べあっていた。

「輪姦ものAVだが、実際には輪姦をしていないというのは、道徳的に正しい行為なのだろうか? 消費者を騙していないか?」

阿呆か。女優負担を考えろ。しかし、○姦ものAVだというのに、女優騎乗なのは気になるところである

など、意見を交わしたのを覚えている。あとは、性行為を覚えた奴がいて、ガラケーで撮った写真を見せてもらって感動したのを覚えている。

大学生になって一人暮らしを始めてからは、やっぱりそういうDVDを買ったり借りたりした。高校生の頃からすでに、一人でR18の作品本屋で買っていた。高校制服姿で、堂々とした立ち振る舞いで、女子店員の時をむしろ狙って、そういうコンテンツを購入する。(女子店員の時、むしろ行け!! の精神

そのクセは大学生になっても、社会人になっても、すでに小太りのおじさん管理職になった今でも変わらない。



動画投稿の話に戻ろう。

エロへと繋がるコンテンツで、ニコニコ動画投稿可能で、それでいて自分の持ち技とマッチする……と考えていった結果、「替え歌はどうか?」という結論にたどり着いた。

あとは、歌唱の腕前だ。酒席の付き合いの中で、カラオケで歌った経験はそれなりにある。が、それだけだ。全然うまいわけじゃない。むしろヘタな方だ。しかし、カラオケの採点機械で70点は取れている。後は成長すると信じるほかない。

そんなこんなで、ニコ動下ネタ系の替え歌投稿してみた。既存曲をそういう単語ストーリーで置き換えたものだ。ずっとこれ一本でやってきた。

簡単イラストを数枚付けて、あとは一発勝負である投稿した後、一晩置いて動画を見ると……まずまずだった。初級者が投稿した動画は多くても100再生しか付かないが、俺の動画は数千再生だった。

一番よかったのは、投稿した動画を「おもしろい」と言ってもらえたことだ。それだけでもう、駆け出しの投稿者としては感無量である。嬉しかった。みんなにニコニコしてもらえたのが。

イラストも凝った感じにしていった。プロには遠く及ばないけど、それでもこだわりのイラストアニメーションを載せて、ちょっとでも面白くなるように気を遣った。

それからも、1~2か月に1本の割合動画投稿していった。動画再生数は伸びていった。数万再生の人気になった。当時のニコ動だと、1万再生されれば人気作品という扱いである。10再生で一流、100万再生で神。

当時のTwitter理論において、フォロワーお気に入りリプライ的なやつが増えれば増えるほど、投稿した元作品がみんなの目に入るようになる――そういう感じで、元作品(新たな投稿動画)は、初心者動画に比べると信頼性がある――それでさらに皆の目に入るようになる、みたいなロジックが紹介されていた。

六次の隔たりである。今時の言葉でいうとネットワーク理論や、錯覚資産だろうか。高評価さらなる高評価を呼ぶのだ。『マタイによる福音書』にも、「持っている者は与えられてますますかになり、持っていないものは持っているものまで取り上げられるだろう」とある

過去投稿した人気動画が、今投稿したばかりの動画を支えていた。結局、2008年くらいまで投稿を続けたのかな。約1年半の活動期間だった。過去投稿した人気動画ってなんか、不労所得感がある。ぜんぜん不労じゃないけどさ。

実は当時、人事異動で忙しい部署に行くことが決まっていた。勤め人としての役目が優先だ。動画投稿趣味である

忙しい部署に移った後は、やはり本当に忙しくなり、動画投稿をするだけの精神的余裕がなくなった。あとは、声か。俺の投稿動画だけど、声の加工はほぼしてなかった。声質が丸わかりである特定が怖かった。ちょうどその頃は、Twitterよろしくない行為をした社会人が吊るし上げに遭うことがあった。

アディダス広報女性スポンサー選手をディスったとか、ホテル従業員芸能人の利用をネットで報告したとか、そういう案件ボコボコに叩かれてるのを見ると、「自分ヤバいかも」という考えが浮かんだ。

投稿動画で使っていた曲も、許諾を取っているのは皆無だった。権利者によるお目こぼし状態であるリスク回避という社会人意識ニコ動から俺を遠ざけた。

自分判断の結果だから後悔はしてないよ。それでよかったと思ってる。下ネタ替え歌なんか、バレたら恥ずかしいなんてものじゃない。それも法令違反社会人としてキズが大きい。



それから長い月日が経って……忙しい部署で相当長いこと勤め上げた俺は、また別の地方支局人事異動で移った。そして、30代後半で管理職になりましたとさ……めでたしめでたし、で終わればよかったのだが。

今度はあまりの暇具合に辟易するようになった。前の部署キツイ部署だったので、人事部局が配慮してくれた。「暇な職場で休憩」というメッセージである

その地方支局がある市町は、有名どころの百貨店進出してないエリアだった。高島屋とか松坂屋とか伊勢丹とか、そんなの一切ない。天満屋ならあるのだが。

暇な時間があるなら楽しんでみては~と思ったが、ここは田舎である東京に比べて面白コンテンツは少ない。自分で見つけるしかない。時間がかかりそうだった。

例えば、都内だったら、今ニコ動活躍してる有名投稿者……miniさんの友達の、東北ずん子を使う料理旅行の実況者がいたと思うのだが、あの人達取材で行くような面白スポットが、この中核市にはひとつもなかった。

昔ながらのローカル百貨店と、人通りがほぼない商店街昭和スナックラウンジ――中核市なので若い連中は多いはずなのに、まちおこしイベントがロクにない。

人口はすでに飽和状態で、後は減るだけ……そんな地方都市だった。

しかも、エロに興味がある俺が、引っ越し前に入念に下調べをしたのだが……実は、この地方都市には有名な風俗街があって、1万円+αで本番ができるヘルスが立ち並ぶ地域があったのだ!!

それらの箱ヘルだが、俺が異動する数年前に警察摘発に遭って全滅していた……悲しい事態だった。今でも、ここは中核市だというのに、ソープも含めて本番ができる店は一切ない。

残された手段は、ホテヘルデリヘルで本番をさせてくれる、それくらい強い信頼関係を嬢と築く以外に道はない。

そんな状況で、当時の俺は……もう一度、動画投稿をしてみようと思った。ネタはもちろん替え歌である

毎日があまりに退屈だった。刺激がほしかった。昔の投稿動画をふと見る機会があって、感慨を覚えたのがきっけである。あとはファンの声とか。

最後投稿から長い月日が経っていたが、俺が投稿した動画には、まだ人が集まっていた。主にはノスタルジーを感じてる人達だ。ニコニコ動画の中では、俺はもう「終わった投稿者」である

でもさ、年齢は関係ないじゃん。40才が近い投稿者でも、やってやればいいんじゃないか。

人気の投稿者だと、30才くらいまでの若い人(※先ほど挙げたminiさんの友達青海さんなど。youtubeだと、セミマイナー貝やザリガニを野外調理して食べる若いちゃんや、下半身が動かない女の子とか)が多いんだろうけど、別におっさんだって投稿すればいいじゃん。きっと、ひろゆきだってそう言ってくれる。

もう一度、過去ネタを参考にしつつ、替え歌動画投稿することにした。昔に比べてやりやすそうだった。

カメラ等の撮影機材は進化してるし、下手くそな歌は社内社外のカラオケで鍛えて上手くなった。今時流行りの曲だって、80点以上は安定して出せる。編集ソフト進化により、少しのミスは撮り直さなくていい。

一番よかったのは、ニコニコ運営楽曲著作権関係を整理してくれたことだ。投稿者が今時の楽曲を歌うのは、著作権侵害しない行為になっていた。



そして……実際に、新作動画を投稿したのはいいが、昔ほど人気は集められなかった。視聴者は、昔からファンが多かった。新規の人もいたけど。皆にニコニコしてもらえてうれしかった。

それから、何本も動画投稿していった。暇な時間はたくさんあった。ほぼ必ず定時で上がれるので、飲みに行く日とか、セクシー動画を見る日とか、そういう日を除けば替え歌動画を作りたい放題だった。

再生数・マイリス数は十分だった。みんな、俺が作った動画を見てニコニコしてくれた。数万回の再生コンスタントに取れた。しかし……数年間投稿して、メガヒットひとつも出なかった。若い層が投稿動画を見ていない。

楽曲選びのせいもある。自覚はあった。例えば、サイバーダムカラオケ人気曲ランキングで上位になってるのがあるだろう。昔からそうだけど、あのランキングで上位になる曲って、中高年世代基準にしてる。

有線放送もそうだ。飲食店有線放送で流れてくる曲って、90年代00年代の人気曲がほとんどだ。今の20代が聞いてもわかんないよ。ところで、俺が若手社会人の頃に、先輩方がよくカラオケで歌ってたのは、T-BORANや酒井法子など、あの世代の楽曲が多かった。(壊れかけのRadio~♪♪)

再生数が伸びない最大の原因は、俺自身感性が鈍ってた。投稿動画過去作の焼き直し感があったし、中年世代子ども若者時代を懐かしんでる替え歌もあった。ノスタルジーである

しかし……今時の若い人が聴いている・歌ってるような楽曲(YOASOBIとか)の替え歌投稿すると、再生数が伸びた。平均再生数が1~2万とすると、そういう楽曲は5万再生以上になった。

ちなみに、俺が若い頃に投稿した人気動画は、最高で300万再生である。今思えば、あそこまで情熱をもって取り組んだのは人生で初めてだった。そんな気概は……まだ少しはあるけど、創造性は燃え尽きつつある。



今はもう引退してるって、冒頭で書いた気がする。文字どおり本当の引退である。事前にファンの人に説明するまでもなく、全ての動画を削除した。問答無用である

理由は2つあって……また新しい部署に異動になったのが1点。関東にある重要拠点ひとつだった。忙しい日々になりつつあった。

2点目が圧倒的なのだが、「著作権違反」ということで、俺のSNSでの連絡先に警告が届いた。カラオケランキングで上位に入るような曲を作ってる大手音楽プロダクションからであるあなたが社名を知ってる可能性はとても高い。

自分投稿した動画ダメなんだってさ。だって替え歌からニコ動で歌うことが許されてるのは、あくま本来楽曲であって、替え歌対象外である。考えが足りなかった。

これこそが、替え歌を作って投稿すること自体が法的リスクのある行為だった。わかってなかった。メール文には「今後投稿を続けるようであれば、法的措置を行います」とあった。

別の人で、同じニコ動福山○治(ふくやまぴーはる)さんという投稿者がいたのだが、この方も、ある時いきなり投稿動画をすべて非公開or削除にしたのだった。人気の投稿者であり、HoneyWorksの「可愛くなりたい」などを福山雅治の声で歌って、500万再生以上を叩き出していた。

彼も、同じような理由なのだろうか。芸能事務所音楽プロダクションからすると、替え歌動画ほど下品ではないにせよ、無許可二次創作だったのは間違いない。

そんな事情で、そろそろ頃合いかと思って完全引退を決意した。ほかの投稿動画についても、警告するまでもなく訴訟という可能性もある。申し訳ないけど削除した。

しかったけど、しょうがないのだ。他人様のふんどしをお借りしていた。それを元に戻しただけだ。作品を天に返したのである



これで日記は終わりだ。今は会社員として幸せにやってるつもりだ。

今これを読んでおられる方にも、替え歌動画を見てくれた方がいるかもしれない。

事前告知はできなかったけど、感謝を伝えたい。応援ありがとうございました。Permalink | 記事への反応(5) | 11:10

2025-02-08

anond:20250207234129

1995年2000年くらいを境にバックパッカーもだいぶん変わったね

それ以前は買春麻薬賭博好きなやつらも多くて汚い変人おっさんおばさんが多かった、以降は学生とか若い人が増えて一般化していった

やはりインターネット存在していなかった時代はだいぶん違った

スピリチュアルが増していったのはやっぱサブカルインド自己啓発のせいだな

ここら辺の本とか番組を見ていけば移り変わりが分かるぞ


1973年 ドル円が変動相場制に移行

1979年 「何でも見てやろう」

1986年 「深夜特急

1988年 「旅行人(遊星通信)」創刊

1990年 「バンコク楽宮ホテル

1996年 「バックパッカ-・パラダイス: 旅人楽園

1996年 進め!電波少年 猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク

1997年 「12万円で世界を歩く」

1998年 「バックパッカー読本

1999年 「アジアディープな歩き方」

2000年 「ガンジス河でバタフライ

2000年 「インド怪人紀行」

20005年 「WORLD JOURNEY

2007年 世界の果てまでイッテQ!

2007年 「行かずに死ねるか! 世界9万5000km自転車ひとり旅

2025-02-04

anond:20250204221314

2000年 出来は上々で申し分の無い仕上がり

2001年 ここ10年で最高

2002年 色付きが良く、しっかりとしたボディ

2003年 並外れて素晴らしい年

2004年 生産者の実力が表れる年

2005年 59年や64年、76年のように偉大な年の一つ

2006年 とてもうまくいった年

2007年 果実味が豊かでエレガント

2008年 フルーツフルーツフルーツ

2009年 数量は少なく、完璧品質。桁外れに素晴らしい年

2010年 果実味豊かで、滑らかでバランスの取れた

2011年 3年連続で、偉大な品質となった

2012年 心地よく、偉大な繊細さと複雑味のある香りを持ち合わせた

2013年 繊細でしっかりとした骨格。美しく複雑なアロマ

2014年 エレガントで味わい深く、とてもバランスがよい

2015年 記憶に残る素晴らしい出来栄え

2016年 エレガントで、魅惑的なワイン

2017年 豊満で朗らか、絹のようにしなやか。しかフレッシュで輝かしい

2018年 2017年2015年2009年と並び、珠玉ヴィンテージとして歴史に刻まれるでしょう

2019年 有望だが、生産者テクニック重要な年

2020年 非常にバランスが取れた爽やかさのある仕上がり

2021年 挑戦の末たどり着いた、納得のヌーヴォー

2025-02-03

2007年からずっとやってた古参はてなブックマークモヒカン最近急に眠りから覚めて他人手斧を投げはじめてる

カルマ値はてなブックマークページに付いたはてなブックマーク)が36!!!!!

これはサイコパスにおける例の指数では完全に既定値超えであり

シロクマ先生診断でも完全に異常値がでるやつ。

こんな逸材がまだいたのか!

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/misafusa/

長い間眠っていたらしいがここ最近急に活発化している

おそらく会社をクビになったかやめたか無職になったと思われる。

2025-01-31

アニメに登場するプログラマー歴史

 アニメにおけるプログラマーの描かれ方は、時代とともに変化してきました。コンピューター一般に普及する以前は、プログラマーという職業自体一般的ではなく、フィクション世界でも馴染みの薄い存在でした。しかし、情報技術の発展とともに、アニメでもプログラマーハッカーといったキャラクターが登場するようになり、その役割イメージも変遷を遂げてきました。

1970~1980年代コンピューター黎明期

 この時代はまだコンピューター一般家庭には普及しておらず、プログラマーという職業も専門的なものでした。そのため、アニメにおいてプログラマーが主要なキャラクターとして登場することはほとんどありませんでした。

 代表的作品としては、『ルパン三世』(1971年~)などで、電子機器コンピューターを駆使するキャラクターが登場するものの、プログラマーというよりは技術者ハッカー的な立ち位置でした。

1990年代インターネットの普及とハッカー像の確立

 インターネットが普及し始めた1990年代になると、プログラマーハッカー存在アニメにも反映されるようになります。この時期の代表的キャラクターは、ハッカーとしての側面が強いですが、プログラミング能力を駆使して物語に関わることが多くなります

2000年代ITエンジニアとしてのプログラマー像の登場

2000年代に入ると、インターネット日常生活の一部となり、プログラマーという職業がより身近なものになってきました。この時期のアニメでは、天才的なハッカーキャラクターだけでなく、現実的プログラマー像も描かれるようになります

2010年代以降:多様化するプログラマーキャラクター

 2010年代以降、アニメに登場するプログラマーはより多様化し、単なる天才ハッカーだけでなく、日常的にコードを書くキャラクターや、IT企業エンジニアとして働くキャラクターも増えてきました。

まとめ

 アニメにおけるプログラマーの描かれ方は、時代とともに変化し続けています。1970~80年代ほとんど登場せず、90年代にはハッカー像が確立され、2000年代には現実的プログラマー像が登場しました。そして、2010年代以降はプログラマー職業一般化し、多様なキャラクターが描かれるようになっています

 今後のアニメでも、AIブロックチェーンメタバースなどの技術の発展に伴い、新たなプログラマー像が登場することが期待されます

映画での社会風刺

ちょっと古いんだけどこんなまとめがあった

映画ミスト』はただの胸糞作品ではなくアメリカの縮図であるとの評を聞いてこれこそが映画評論だと感動した

https://togetter.com/li/2315968

これを読みながら思ったんだけどさ


こういう風刺って擦られ過ぎてミーム化しちゃってるよね

「こんな場所に居られるか」

「生贄用DQN

みたいな

パロディ定番アルアル消費される奴

これに慣れた人は、もう原点回帰されても普通に消費するの難しい

戦場結婚語り出す奴がいたら、脚本上の意味とか関係くその人の生死が気になっちゃう程度には

で、あまりにも意味けがされ過ぎたから、もうアニメ的な消費としては、まわりが「ヤメロ」とか言い出しちゃう


ミスト2007年作品で、その時代にあれをフラットに見ろってもう無理だったよね

2025-01-23

逆にオリジナル邦題を付けるべきだった映画

シッコ2007年

 

仮にもマイケル・ムーア作品なのに全然話題にならなかったの、ションベンみたいなタイトルのせいだろ

日本治安悪化しているか? 刑法犯罪認知検挙数の推移

2006年2023年刑法犯罪認知件数検挙件数検挙人員の推移 ※検挙人員被疑者の数なので不起訴の人、無罪の人が含まれている。

年度 認知件数検挙件数検挙人員 うち)少年
2006年 2,050,850 640,657 384,250 112,817
2007年 1,908,836 605,358 365,577 103,224
2008年 1,826,500 573,392 339,752 90,966
2009年 1,713,832 544,699 332,888 90,282
2010年 1,604,019 497,356 322,620 85,846
2011年 1,502,951 462,535 305,631 77,696
2012年 1,403,167 437,610 287,021 65,448
2013年 1,314,140 394,121 262,486 56,469
2014年 1,212,163 370,568 251,115 48,361
2015年 1,098,969 357,484 239,355 38,921
2016年996,120 337,066 226,376 31,516
2017年 915,042 327,081 215,003 26,797
2018年 817,338 309,409 206,094 23,489
2019年 748,559 294,206 192,607 19,914
2020年 614,231 279,185 182,582 17,466
2021年 568,104 264,485 175,041 14,818
2022年 601,331 250,350 169,409 14,887
2023年 703,351 269,550 183,269 18,949

グラフでみたい人はこちら(Claude利用):https://claude.site/artifacts/513cb3c9-b7da-485d-8172-cb77c203ca50

2024年1月11月刑法犯罪認知件数検挙件数検挙人員の推移(12月分がない、暫定値)

年度 認知件数検挙件数検挙人員 うち)少年
2024年 678,254 263,286175,852 19,539

このデータから分かること

2006年から2020年までは認知件数検挙件数が減少傾向にあった

2021年認知件数が最も低く、2022年検挙件数が最も低く、2022年検挙人員が最も低い

2023年2024年の暫定値は、2019年と同程度になった

治安悪化しているか? の答え

2019年以前と比較すれば認知件数検挙件数は少ない

2023年2024年2019年コロナ禍前の水準になった

・したがって 「治安コロナ禍前の水準に戻った」 「2006~2015辺りと比べたら治安改善している」と考えるのが妥当そう

治安が良いか凶悪犯罪は起きないということはない。治安が良くても、犯罪は起きてしまうという点に留意必要

治安の良さ/悪さの感じ方はその人の生活様式によるので、データ判断しないと議論平行線を辿る

他に、犯罪統計資料を読みに行くと分かりそうなこと

・どの犯罪が増えているか

・ 「外国人増えたけど外国人犯罪数の推移はどうなの?」の答え

・ 「埼玉県って治安悪化してね?」の答え

意外だったこ

法務省が出している犯罪白書も犯罪統計資料を元にしているようなので、

検挙されたけど最終的に不起訴になった人、起訴されたけど無罪になった人をデータから省けなかった

ソースおよび最近犯罪統計を知りたい人向け参考リンク

犯罪統計資料より https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00130001

犯罪統計 令和5年(1月12月):https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00130001&tstat=000001214060&metadata=1&data=1

犯罪統計 令和6年(1月11月):https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00130001&tstat=000001224226&cycle=0&tclass1val=0

2025-01-18

さっき思い立って調べたら、私は2007年のある日から増田になったことが判明した。

今となっては、かなり古参増田なのではないだろうか。

anond:20250117230004

日本少子化はいくつか地域特性もあって以下のような研究結果が示唆されているので掻い摘んで紹介。出生率の高い九州の内容が多め。

 具体的な変化として、子の数を抑える→家族形成の年齢を後ろにする→「高学歴・良い職場・良いパートナーの獲得」を目指す。

 これによって都市では先行して、「生涯未婚、無子、1 子」が増えた。一方、地方でも同様な傾向が生じ、都市への若者流出が生じている。

 1990年2000年都市で低く,地方で高い

 2010年西日本で高く、東日本で低いに変化

 東北日本型…直系家族、早婚、出生数少、婚外子

 中央日本型…直系あるいは核家族、晩婚、出生数多、婚外子

 西南日本型…多様な家族形態、晩婚、出生数多、婚外子

2020年東北地域の早婚が解消したことで、「九州は若年既婚者の出生率が高い」点が残り、九州出生率が高い値となっている。

東北地域の早婚の解消は女性がいなくなり男性結婚が難しくなっていることが挙げられている。

これが生じる違いとして、以下が挙げられている。

東北地域…「長男規範(家を継ぎ、親と同居し、親の面倒をみる役割長男が担うべきとする考え)」→男性が多くなり、女性地域から逃げていく。3世代同居率も高い。

九州地域…「女性に親の扶養介護を期待」→女性が多くなる。しかしながら同居ではなく近居傾向が強い。(近居の複数の子が親の面倒を見る形?)。3世代同居率は低め。(子が多いならそうなるか?)

大学進学を機に東京へと進出する女性が増えているが、自地域東京の間に地方中核都市が少ない「東北地方」「北関東地方」「甲信越地方」でその傾向が顕著。結婚年齢になっても地域へは戻らない。

一方、西日本から東京への進出は小規模にとどまっている。この違いが東日本西日本での出生率の差を生じさせている。

出典について指摘があったので追記 19:50

どれもネットから拾ったので発表された年は正確ではないかもしれない。

2025-01-17

anond:20250117162445

日本が本場では?

早撃ちマックと言えば2007年大阪市鶴見区事件犯人で、当時18歳の少年異名だったのだが

変態番付としてネット上でも話題になったけれども随分と風化したものだなぁ

2024-12-31

紅白音響はいからおかしくなったのか?

軽く調べてみたらずっと前から悪かったっぽい

子供の頃みた紅白問題なかったんだよな

んで長らく見てなかったから、何かの拍子に見たときに「あれ?」となる

みんなして「今年の紅白音響悪くない?」って言う

ももうずっと前から悪かったっぽい

 

ここまで来ると子供の頃の記憶の方が怪しいよな

 

Xで遡れたのは2007年末の紅白

「なんか今年の紅白音響悪いような」

これ毎年みんな言ってて草

2024-12-27

高校バスケット

男子バスケット高校生名前を見ているとスラムダンクに出てきそうな名前が多いのですが、

今の高校生2007年くらいの生まれですか。

そうなるとおそらくスラムダンクに熱中していたひとたちが親の世代なんでしょうかね。

野球とは違うバスケットボール世界観が築かれているのだなあとおもいます

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